3.遺棄の空白
いつ見ても大きな屋敷だ、と要は思う。
目の前に聳え立つ、巨大な木の門から視線を左右に滑らせれば、白い塀が道の果てまで続いている。
自分の家もまぁ……それなりに大きいことは大きいのだが、和風の屋敷は重みが違う。重ねてきた"しがらみ"の重さを感じる。
遥か昔から絡み付いてきた念のようなものが、内側から染み出しては、部外者を圧迫する。
"敷居を跨ぐ"とは、よく言ったものだ。内と外の境界を踏み越えるには、相当の覚悟が必要となる。
その古風な門に似合わぬ、高性能インターホンが、巨大な入り口とその傍にある関係者用の小さな入り口の間についていた。
初めて来るわけでもないのに、呆けたように門を見上げる要に構わず、一馬はインターホンを押す。
《はい。銀でございますが》
年配の女性の声が返る。
「成瀬ですが、御次男と都佳沙殿はご在宅ですか」
《一馬殿でございますか。お待ち申し上げておりました。只今お迎えに上がりますゆえ、少々そのままにてお待ちくださいませ》
ぷつりと回線が途切れる音がする。
何かから見られているような気がして、斜め上を仰ぐ。
すると、正面から見ると死角になっている位置にカメラが取り付けられているのが目に入った。
(銀も近代化か)
苦笑。そして溜息。
*
一馬と要がそろって銀本家を訪れることになったのには、それなりの理由がある。
時は少し遡り、私立修恵学園高等部、2年3組の教室にて。
「今日の放課後、うちにおいでよ」
またしても昼休みを利用して訪れた都佳沙が、要に告げた。
友達が友達を家に誘う、ごく当たり前の会話。しかし、この都佳沙の言葉が普通の友人たちが交わすような"遊びにおいでよ"というニュアンスでないことを、要は瞬時に悟る。
一馬が雅に調査を依頼して既に一週間。
目立った動きは何一つなく、一馬は、雅の奴忘れているんじゃなかろーか、と零していたぐらいだ。
「雅兄さんも、遊んでいたわけじゃないんだよ。色々あって……」
苦笑する都佳沙に、要も同じ表情を返した。
この間――― 一馬が信と会った日―――以来、要の心は晴れない。
一馬の神経が、ますます尖っているような気がする。
相も変わらず眠りは浅いし、普段はあまり吸わないはずの煙草も増えた。
けむたい、と文句を言うと、いつもは冗談で応戦してくるのにもかかわらず、「ああ」としか返さない始末だ。
回想を終了させて、要は隣に立つ一馬を見上げる。
硬い表情を仮面のように貼り付けている。似合わないな、と思った。
すると、関係者用の小さな入り口が開き、着物姿の初老の女性が顔を出した。丁寧に一礼する。
「一馬殿、要殿、お久しぶりでございます。雅様と都佳沙様がお待ちです。ご案内いたしますので、ついていらしてください」
「原田さんもお元気そうで何よりです」
原田と呼ばれた女性は、一馬の言葉にもう一度頭を下げる。
初めて会ったときは、なんて怖そうなおばさんだろう、と思ったのを要は覚えている。
常に無表情なのだ。しかしそれが不機嫌なのではなくて素なのだと分かってからは、平気だ。
原田について歩きながら、ギシギシと軋む床の音を耳に流し込む。
縁側の廊下を歩きながら、周囲に視線を廻らす。延々と続く障子と襖。不思議な空間だ。
幾つめかの角を曲がったところで、少し先にある襖が開いた。
中から、着物姿の少年が顔を出す。
「そろそろ来る頃だと思ってたよ」
都佳沙は、要に向かって笑いかけた。
「都佳沙くん、久しぶり」
「一馬さん、お久しぶりです」
一馬の一言に、都佳沙は丁寧に頭を下げた。
「おう、来たか」
その後ろから相も変わらずのデザインスーツで雅が顔を出した。
「俺も麗しい着物姿で出迎えしたかったが、今帰ってきたばかりだ。悪いな」
「それでは、只今お茶をお持ちいたしますので、どうぞ中へ」
原田がさらりと促すので、雅の台詞は流されてしまった。寧子さん頼むよ、などとぶつぶつ呟きながら、雅が部屋へと引き返す。
「どうぞ。こちらへ」
原田が引き上げたのを見計らって、都佳沙が二人を促した。
*
「まずはじめに、これだけ時間がかかったことを詫びよう。俺らしくもなくてこずったな」
「何かてこずる要因が?」
原田の出した茶に口をつけてから、一馬が聞いた。
「高本生命から圧力がかかった」
「高本?」
苦々しい顔で雅が吐き出した言葉に、一馬は眉をひそめる。
高本生命といったら、国内トップの企業ではないか。
一体何故、高本生命が。
「御堂ゆうは、高本生命の社長、高本庄司の隠し子だ」
「隠し子……」
「母親は幼い頃に死んでいる。一応高本から法外な程の生活費は貰っているらしいが、裏を返せば、"それだけ"だ」
雅は、ガラス製の灰皿を手元に引き寄せ、内ポケットからジッポと煙草を取り出すと、火をつける。
一口大きく吸い込んで、紫煙を吐き出す。
「今まで俺は、何でゆうちゃんはもっと一流に"行かない"のかと思ってたんだがな。高本からの圧力で"行けなかった"みたいだ」
「なんでそんな……」
「隠し子に目立たれると困るんだろう。ああいう業界はスキャンダルが好きだから」
雅の言葉に、要は口を噤んだ。
納得したわけではない。しかし、口にしてもどうにもならないことだ。
要は、正座した膝の辺りをぎゅっと握り締めた。
「で、一馬。原因はわかったのか?」
要の様子に目を向けたまま、雅は先程から黙ったままの一馬に話を振る。
机に頬杖をついて話を聞いていた一馬は、落としていた視線を持ち上げ、雅を見た。
「大体は。迷惑かけたな」
「お役に立てたかな?」
芝居がかった大げさな身振りで、雅は両手を広げておどけてみせる。
気にするな、という無言のメッセージを感じ取って、一馬は苦笑する。
「ああ。これで筋が通った」
「それなら結構。見ての通り、銀はヤワじゃない。"高本生命ごときに"潰されやしないさ」
短くなった煙草を灰皿に押し付け、雅は口元に意地の悪い笑みを浮かべた。
「カズマ」
和み始めた場の空気に、突き刺さってきた鋭い声は、要のものだった。
周りの視線が自分に向くのにも構わずに、要は一馬のほうだけを見た。
「仮説って、なんなの」
今にも泣き出しそうな顔で要が訊く。
金だけを与えられ、物質的には満たされながら、目の前を壁で塞がれ。進みたい道さえも阻まれて。
まるでそれは、自分の。昔の自分のことのよう。
「俺たち夢喰い稼業は、"遺棄の空白"と呼んでる」
怯えたように揺れる要の瞳。その瞳に映る自分を見つめ返すように、一馬は真っ直ぐに要を見た。
遺棄の空白、と要が無意識に口の中で繰り返した。
なじみのない響きだ。
「本来与えられるべき、特に親からの愛情が欠落しているがための、"本能的な飢え"だ」
一定の期間、無条件で与えられるはずの無償の愛。
人はそこで、愛し愛されることを学ぶ。
遺棄。いつ聞いても、いつ口にしても、嫌な言葉だと一馬は思う。
保護すべきものをそのままほったらかしに捨てておくこと。
見捨てること。
「でもな、一馬。そんなこと言ったら、親に愛されなかった子供なんて、それこそたくさんいるだろう、嫌なことだけど」
「二人でいたことが、良くなかったんだよ」
要のほうを向いたまま、一馬は視線だけを雅に向けた。
「二人で?」
今まで黙って事の成り行きを見守っていた都佳沙が、眉をひそめた。
「普通その空白は、年を重ねて愛されるごとに埋まる。だけどあの二人は、お互いに自分のことを好きじゃない。自分が嫌いだから、相手に自分について問い掛けることが出来ない」
ペットと飼い主という、はじめに引いてしまった境界のせいで。
お互いがお互いの領域に入ることが出来ない。
飢えたままだ。
「それなのに、同じ穴を感じるから、心地いいんだ。一人じゃないと思えるから。でもね、空白は、広がるんだよ」
お互いの飢えをお互いが癒すのなら、傷口は塞がる。けれど、"ただ近くにいるだけ"は逆効果だ。
「鏡に自分の傷口を映して、目を逸らせないのと一緒だ。自分の悲しみを思い知る」
「だから眠るの?」
お互い見つめあわなくてもいいように。ぽっかり開いた穴から目を逸らすように。
それでも傍にいられるように。
一馬は、ただ頷く。
「あのまま二人でいると、空白はどんどん広がるからね」
けれど、眠りに逃げることすら本当は、延命措置に過ぎない。
増殖を最小限度に押さえているのに過ぎない。
傍にいる限り、傷口は広がる。
飢えはいつしか心をも蝕み、そして……。
プルルルル。
突然、何処からか携帯電話のコール音が鳴った。
「悪い」
スーツの内側から、折りたたみ型の携帯電話を引きずり出し、切ろうと開いた雅の手が、ふと止まる。
『御堂ゆう・自宅』
一瞬遅れて、雅は通話ボタンを押した。
*
受話器を握る手が、僅かに震えている。
壁にもたれかかり、何とか体を支えて立つ。
体はもう、極限に近いほど疲れているのに、脳だけは何故か恐ろしいほどに冴えていた。
《もしもし?》
耳元で続いていたコール音が途切れ、男の声が聞こえてきた。
延々と繰り返す同じ音に、どこか遠くへ彷徨いかけていた意識が、また元に戻る。
「銀、さん?」
紡ぎ出した自分の声が、やけにかすれていた。
たった数日でも、使用しなければ声帯という筋肉は衰えるらしい。
《信くん?》
確認するような、銀雅の声。
ああ。"外"に声が届いた。そう思って安堵する。
ずるずると床に滑り落ちた。
このまま、この静か過ぎる空間に置いてきぼりにされるかと思った。
空いているほうの手を持ち上げ、髪の中に指を突っ込んでぐしゃぐしゃ回した。
《どうした》
「ゆうが」
声に出して、視界の隅に見えている僅かに開いた寝室のドアを見つめた。
「ゆうが起きない」
口にすると、さびしかった。
「もう3日目」
《君は?》
「眠れない」
もう3日目。
傍にいるから、眠れないんだ。傍にいるからいけない。
この部屋の外に出たら、きっと眠れるだろうけど。
離れるのはさびしい。
さびしくなるくらいなら、傍がいい。だけど。
「銀さん」
朦朧としている、靄のかかったような意識の奥で、一点だけが恐ろしいほどに冴えている。
自分が起きているのか寝ているのかさえ、もはや区別がつかない。
そんな役立たずの脳が切に祈るのは、たったひとつ。
「ゆうを助けてよ」
願ったのは、銀雅にだろうか。
耳元がざわざわした。電波の繋がっている向こう側で、なにやらぼそぼそと話し声。
遠くて聞こえない。
(荒い呼吸みたいだ)
どこか遠いそのざわめきが、不意に、体の奥底から記憶を引きずり上げた。
押し当てられる口唇の、生々しい感触。
この体をベッドに組み敷く、ごつごつした体。
耳元で繰り返される、規則的な音。
この世界に分けられた性別の、役割から外れたその行為。
限りなく非生産的な。醜い行為。
(野郎の下で喘いでたのは俺だ)
他の何でもない、使っていたのはこの体だ。
なくすものなんて何もない。帰る場所なんて何処にもない。
それなのにどうして。こんなにも惨めになるんだろう。
どれほど洗い流しても、流れるはずのない穢れが、この体に染み付いてしまったみたいだ。
触れるもの全てを、傷つけそう。
情けに縋るのは怖くない。ゆうに縋ったのもそうだった。
けれど、あの日ゆうは、誰もくれなかった言葉をくれた。
《もしもし》
耳元に再び聞こえてきたのは、別の声だった。
「成瀬、さん?」
《今からそっちに向かうから》
言い聞かせるような、諭すような成瀬の声。優しいその響きに、自然と涙腺が緩んだ。
髪の毛に差し入れていた指で、目頭を押さえる。
優しい声。
「成瀬さん」
こみ上げる嗚咽で、名前を呼ぶ声が揺れた。
誰がこんなふうに、手を差し伸べてくれただろう。一体今まで誰が。
「助けて」
一体誰に、心から縋っただろう。こんなふうに。
何の力も持たない子供と一緒だった。
自分ひとりではどうにもならないことを知ってはじめて、自分の小ささを知る。
昔から、何も変わってはいなかった。子供のまま、止まったままだったんだ。
《今行くから》
優しい声が繰り返し、通話が途切れた。
しばらくして、繰り返す通話音。
受話器をしばらく耳に当てたまま、目頭を押さえた掌に滲む、熱い流れを感じた。
一体いつ以来だろう。
涙を流したのは。
あの日、本当は泣きたかった。
あの日、本当は君に触れたかった。
だけど、触れたら汚しそうだから、だから嘘をついた。
ねぇ、拾って。
そう言って見上げたら、ゆうは、その白い綺麗な手を伸べて。
言った。
―――いいよ。一緒にいよう。
「すき」でも、「あいしてる」でもなくて。
たった一言。一緒にいようって。
傍にいようって。
今まで誰も、言ってくれなかったことを。
ゆうの気まぐれでもいい。
さみしかっただけでもいい。
だけど。
きみの傍にいたい。
*
《助けて》
嗚咽でかすれる信の声が、耳を通り過ぎて脳にまで響いた。
「今行くから」
繰り返して、通話を切った。雅に携帯電話を押し戻す。
「どうやら、一番参ってたのはゆうちゃんのほうみたいだな」
携帯電話をしまいながら、雅が立ち上がる。
「カズマ……」
促されるように立ち上がる一馬を見上げ、要が不安そうな顔をする。
「不本意だけど」
きつく締めていたネクタイを乱暴に引き抜き、一馬は言った。
「潜る」
普段は絶対に出さないはずのその低い声に、要は、ぞくりと背筋を駆け上がる怖さを感じた。
「要」
突然肩に手を置かれて、要は我に返った。
隣を見ると、和服姿の都佳沙が心配そうに顔を覗き込んでいた。
「大丈夫かい?」
気がつくと、部屋の中には要と都佳沙の二人しかいなかった。
「一緒に行ける?」
「行く」
不安を振り切るようにしっかりと呟き、要は立ち上がった。
置いていかれるわけにはいかない。
一馬に救われたそのときに、ついていくと決めたのだから。
*
黒と白とが互い違いに並んだ布が四方の壁を覆い尽くし、線香から立ち上る煙で、部屋中がまるで夢の中にいるような靄に包まれている。
隅の隅にぽつんと座り、小さな体をさらに小さく縮めて、一人。
まだ4つ。ひとが「しぬ」ということを、まだよく分からない頃の話。
部屋の一番目立つところに飾られた、母親の白黒の写真を見上げた。
『御堂さん、親戚と縁を切っていたんでしょう? どうするの、ゆうちゃん』
暗転。
夏の、日差しの強い日だった。長く続く緩やかな坂道を、見知らぬ手に引かれて歩く。
坂の上には真っ白な太陽。足元から後ろへ向かって伸びる影は濃く、アスファルトにべったりと張り付いているようだった。
僅かに顔をあげ、この手を引く男の顔を見ようとしても、強い日差しに塗りつぶされて見えない。
周囲の景色は覚えていない。ただ、坂道と太陽の日差しと、大きなごつごつとした掌。それだけ。
ねぇ、どこに行くの?
問い掛けても、答えは返らなかった。
のっぺらぼうだから口がきけないの?
引きずられて辿り着いたのは、見知らぬ部屋だった。必要最低限の家具以外、何もない。
のっぺらぼうは、機械みたいな声で色々と喋ってから消えた。
『オカアサン』は『シンダ』から、今日から私はここで『ヒトリ』で暮らさなきゃいけないんだって。
毎日のように、代わる代わる誰かが料理を作りに来て、そして帰って行った。
小学校の授業参観、中学の三者面談。
ろくに顔を合わせたこともない人が私の保護者代理だと名乗った。
目立たないように、目立ちすぎないように選ばれてきた道。知らない大人が選んだ道。
檻を抜け出すことさえ許してもらえなかった。常に目の届くところに。
そんな風に飼い殺しにされている自分に、一体どれほどの価値があるだろう。
一体誰が必要としてくれるだろう。
暗転。
『ねぇ君、モデルやらない?』
雑踏から少し離れた、人々が待ち合わせに使う駅前のロータリーで、掛けられた声。
誰を待つでもなく、ただ持て余した時間を潰すためだけに人の流れを眺めていた私は、自分にかけられた声だなんて気づかなかった。
『無視しないでよ』
『え?』
首を傾けてそちらを見れば、強烈な日差しを背負ったのっぺらぼうがいた。
『×××っていう雑誌なんだけどさ、君なら絶対イケると思うんだよね』
"君なら"?
私が必要なの? 私だから必要なの?
本当に?
何でもいい、手が欲しかった。私を欲しがる手が欲しかった。
他人が、自分をある価値において必要とすること。自分に利用価値があること。
価値を売って自分を認めさせるその行為。
全てが汚いもの。例えそうであっても、必要とされるのは心地よかった。
自分がここに"自分として"在ることを知るのは、嬉しかった。
例えそれが有償でも。
『ゆう。悪いけど今回の話、なかったことにしてくれないか』
目の前で、盛大に脂汗をかきながら事務所の社長が済まなそうに言った。
乗り気だったのは、社長の方じゃないの? このプロジェクトに心血を注ぐって言っていたじゃない。
だけど、予感がしていた。無理なような気がしていた。
目立ちすぎる。
脂汗を垂れ流す社長の後ろで、誰が全てを握っているのか見える気がした。
一度も会いにも来ないくせに、道を容赦無く塞ぐ。四方を塞いで私を独りぼっちにする。
差し伸べてくれた沢山の手を振り払う。
何度でも棄てる。
棄てられ続け、要らないと言われ続け、どうして自分を愛せるのだろう。
誰が必要としてくれる?
ねぇ、拾って。
私を拾って。
to be contenued…
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