4.声


 高級マンションのエレベーターに乗り込み、7階のボタンを押した。
 一馬と要と雅を乗せ、がくん、とわずかな揺れと共に上昇をはじめる機械。

―――『夢喰い』の力を憎んではいけないよ。

 言い聞かせるような、諭すような声が耳元に蘇り、一馬は目を閉じた。

―――人を救える力だ。

(嘘だ)
 点滅するランプが徐々に階を重ねてゆくうち、一馬の精神は現実世界を遊離して、深層へと沈んだ。
("人を救う力"だなんて、ただの正当化だ)
 他人の精神に依存せずには生きてゆくことすら出来ないくせに。何が「人を救う」だ。
 人に「救われている」に過ぎないじゃないか。
 他人には無い能力を高く売りつけ、相手の精神を喰い物にすることへの"後ろめたさ"を相殺する。
 そう思わなければ、狂ってしまうほど苦しいからじゃないのか。

 エレベーターの浮遊感は、"潜る"感覚に似ている。
 上昇、下降。今にも落ちそうな、寄る辺の無い頼りなさ。人の領域に侵入する心細さをそのまま表すようで。
 吐き気すら催す。

 はじめと同じようにわずかな振動と共にドアが開いた。
 深層に沈んでいた精神を引きずり上げるように、一馬は目を開く。
 コンクリートの通路が真っ直ぐに伸びた先。真正面にある扉が目指すべき場所だ。
 エレベーターから踏み出す足取りが、酷く重い。

―――トッ。
 数歩歩いたところで、一馬は目を見開いて足を止めた。
 目の前を何か白いものが横切った。
 跳ねる動作をするそれを目線で追うと、煙のようにふっと消えた。
 白い体に赤い瞳のそれ。明らかに現実のものでは無いのだろう。
 もう既に精神の部分がゆうの夢に同調し始めているのか。

 望みとは裏腹に日増しに強くなるこの力。
 そしてまた罪を重ねる。
 他人の心を喰いものに、増殖する。
 悲しみ。


            *


 さみしくて、たくさんのいきものをひろった。
 だけど、みんなわたしをおいていなくなった。
 ねぇ、あなたも?
 あなたもいつか、わたしをおいてゆくの?
 ねぇまこと。
さみしいよ


            *


 ぼやけた視界。焦点の合わない瞳で、どこかを見つめていた。
 涙の乾いた頬は突っ張り、潤いを失った瞳はひりひりと痛みを訴える。

―――……ポーン、ピンポーン。

 揺らいでいた意識を現実に引きずり戻したのは、どこか遠くに聞こえるインターホンの音だった。
 酷く緩慢に、床に落としていた視線を持ち上げ、玄関のほうへと顔を向ける。
 灰色のドア。小さくついた覗き穴。ドアノブがゆっくり回る。
 押し開かれる。
 その向こうから、光。
(ひかり)
 夕方の光は、赤くてあたたかかった。
「信くん」
 あたたかい光を纏ったひとが名前を呼んだ。
 電話の横に座り込んだまま、幾度か瞬きをして、視界を鮮明にしようと勤めた。
「成瀬……さん?」
 呼ぶ名前は、既に祈りの文句に似ていた。
「大丈夫か」
 肩に触れた手から、何か染みるように清らかな水が流れ込んでくるようだった。
 この体にたまりたまった澱を洗い流す。
「……俺、どっか変なのかな?」
 肩に置かれた手から徐々に、舐め上げるように視線を移動させる。
 腕、肩、そして顔。
 漆黒の瞳を見つめる。自分の口元が、歪んだ笑いを浮かべているのが何故か分かった。
「さむいんだ、めちゃくちゃさむい」
 まだ冬には程遠いというのに。
 吐き出す吐息が白く凍りそうなほど、体中が寒くて寒くて堪らない。
 呟くその瞬間でさえ、きっと紫色に変色しているであろう口唇が、かたかたと震えるのを止められない。
「風邪じゃ、ないんだ。熱だって無いと思うし。体は逆に凄く冷たい。なんでだろう、成瀬さん。さむい」
 ぽろぽろと、心の飽和量を超えたらしい言葉が口から次々に零れ落ちた。
 渇いたはずの瞳から、何か熱いものが頬を流れて顎へと落ちる。
 悲しくないのに。辛くもないのに。
 涙腺が壊れたとしか思えない。溢れる熱。失われてゆく熱。
「心に大きな隙間があるからだよ」
 どれだけ火を焚いても、衣を纏っても。
 癒されない心のナカミが。とてつもなく冷たいから。
 何かを言おうとして開いた口からは、もはや嗚咽しか零れない。
 たまらずに口を覆う指と指の隙間から、容赦無く漏れてゆく喘ぎ。
 肩に置かれた手の、腕のあたりを掴んで、きつく握り締めた。
 何かに縋らなければ今すぐにでも、凍ってしまいそうだと思った。
「今から俺は御堂さんの夢に"潜る"から」
 伸びてきた掌が、涙を流し続ける瞳に触れ、まるで死人にするように目蓋を閉ざした。
「君も眠った方がいい。俺が手伝うから」
 触れた掌から溢れてくるあたたかい力が、体の奥底から眠気を呼び覚ます。
「ねむりたくない」
 心の底から伸びてきた温かい掌に、奪われそうな意識を必死に、必死に繋ぎとめる。
 自分だけ、楽になりたくない。一枚扉を隔てたその隣で、ゆうはきっと苦しんでいるのに。
 成瀬の手首を掴んで、必死に訴えた。
「御堂さんが起きたときに、その顔で会うつもりかな」
 瞳を抑えていた掌が離れ、暗闇に温かい光が差し込んだ。
 誘われるまま瞳を開けると、困ったような顔で笑っている成瀬の顔が見えた。
「こう言うと、失礼かもしれないけど、酷い顔だよ? だから、眠った方がいい」
 力を施し終えたのか、成瀬は寝室の扉の向こうへ消える。
 今にも眠りに引きずり込まれそうな意識の中、まだ幼さの残る声が聞こえた。
「信さん、カズマを信じてあげて。カズマは、絶対助けてくれるから」
 柔らかい声が、睡魔をより強烈にする。
「……僕のことも、助けてくれたから」
 その言葉が終らないうちに意識は、深く沈んでいった。


            *


「眠った?」
 雅の声に、要はこくりと頷いた。
 要の肩越しに信を見ると、壁にもたれたまま既に眠りの中だった。
「要くん、君は憶えてるの?」
 主語の無い問い。しかし聞かれていることは分かった。
 助けられたことを憶えているの?
 雅の問いに、要は首をゆるゆると横に振った。
「だって、夢喰いは夢を食べるでしょ?」
 信を抱え、ソファーまで運ぶ雅を見つめ、要はぽつりと零した。
 だから、一体どのようにして一馬が自分を助けてくれたのか、要は憶えていない。
「だけど、そのあとカズマが差し出してくれた手は、憶えてる」
 全てが壊れてしまったあと、絶望の中、差し出されたあたたかい掌。
 どの夢を失っても、その温もりだけは絶対に、絶対に忘れない。
 要は閉まったままの寝室の扉を見つめた。

―――カズマがどう思っているのかは分からないけれど。
   カズマの力は、人を救う力だよ。


            *


 ベッドの傍に立ち、昏々と眠り続けるゆうを見下ろした。
 整った顔は青白い。呼吸がなければ死んでいてもおかしくない。
 額に手を乗せると冷たかった。
 掌を少し滑らせて、瞳の上に置いた。自らの目も閉じる。
 掌へ意識を集中させるうち。自分と彼女との境が徐々におぼろげになってゆく。
 この体が融解してゆくような錯覚。
 体という檻から解き放たれた意識が深く沈んでゆく。
 自分の存在が曖昧になる感覚。いつ味わっても気持ち悪い。
 このままなくなってしまうなら、いっそ楽だと、いつも思うのに。


            *


 白。
 白白白。
 一面が、真っ白。
 うっすらと目を開くと、辺りは何もなかった。
 上下左右も分からない。ただそこにあるのは真っ白な空間だけ。
 何も聞こえない。暑さも冷たさも感じない。何もない。
 前にもこのような場所に来たことがある。そうだ。その時の依頼主も確か「空白」を抱えていた。
 遥か前方に、白くない空間があった。どのような景色が広がっているのかは全く分からないけれど、確かにそこには色があった。
 しかし、それが徐々に徐々に、縮んでいるような気がする。
(違う)
 辺りを見回して、その空間の寒さに、一馬は首をすくめた。
(空白が増殖しながら、元の心の領域を"飲んで"いくんだ)
 しかも、通常からは考えられないスピードで。
 彼女の心を蝕む悲しみが、どれほど深いかを示すように。

―――トッ。
 白い空間で、白いものが跳ねた。
 視界の脇にちらりと映ったその動作に、一馬はそちらに視線を向ける。
 ぴくぴくと動く長い耳に、血のように赤い瞳だけが鮮やかに浮かび上がる。
「ウサギ……?」
 思わず口に出した。
 長い耳、丸い尻尾、その赤い瞳。みまごうことなく、それはウサギだった。
 マンションの通路で見た幻と同じ。視線で追うとふっと消えた。
 一体何の象徴なのだろうか?
 ウサギの消えた場所にしばらく視点を固定して考えてはみたものの、一向に答えは出ない。

「おにいさん、いっしょにおえかきする?」

 不意に背後から声。一馬は弾かれたように振り返った。
 舌足らずな、幼い声。
 右手に赤と青のクレヨンを握り締めた5歳ぐらいの少女がそこに立っていた。
 左手を見ると、画用紙には到底なりそうもない、小さな茶色い紙を束で握り締めている。
「それに……、描くの?」
 尋ねると、少女はこくりと頷いた。
「だっていらないんだもん」
 ほら、と小さい手を一馬へと差し出した。握り締められた紙の束を見て、一馬は愕然とした。
 "福沢諭吉"。
「ゆうがね、さみしいっていうとこれがもらえるの。でも、ゆう、いらないから」
 だからね、とゆうは続ける。
「おえかきしよ」
 差し出された札束を反射的に受け取った瞬間、その掌の内側に、鋭い痛みが走った。
 ぱりぱりの新しい札が、掌の内側を容赦無く裂いた。
 その痛みに、一馬は持っていた札を全て床にばら撒いた。
 じわりと細い線が浮き出て、そこから赤い雫が滲み出す。
 紙で切ったとは思えない程の鮮やかなその傷口から、ぽつりと一滴白い床に血液が落ちた。

「あ、"ち"だ」
 はらはらと舞い落ちる血など気にも留めずに、ゆうは、ぼうっとそれを見つめる一馬と一緒に掌の傷を見つめた。
「みゃあもね、"ち"だらけになってしんだの」
「"みゃあ"……?」
「ほら」
 幼い指先が、少し離れたところを指差す。
 先程まで何もなかった真っ白な場所に、赤い水溜りが出来ていた。
 その小さな海の真ん中に、変わり果てた猫の姿があった。
「そとにでちゃだめだっていったのに」
 てとてとと頼りない足取りでそこまで駆けていったゆうは、ワンピースの裾を飛沫に浸すことすら厭わずしゃがみこみ、猫の硬直した体を撫でた。
「みんな、わたしをおいてっちゃうの」
 ねぇ? ゆうは一馬を見上げて、首を少し傾げてみせる。
「みゃあは、わたしのあとをついてきたの。うれしくて、いっしょにくらしたの。けどみゃあは、でていっちゃった。みゃあだけじゃないの。わんちゃんもねこちゃんも、みんなわたしのまえからいなくなるの」
 ふわりとゆうは立ち上がった。服の裾から赤い雫がたつたつと落ちた。
「ねぇ、まことも?」
 再び首を傾げる。その瞳は悲しみも憂いも映さずに、ただひたすら澄んでいた。
「まこともいなくなる? ペットだから、みゃあとおなじにはなれてっちゃうの?」
「それを決めるのは、俺じゃないよ。君が、口に出さなきゃ」
「だってわたしのこえ、だれにもきこえないんだもん」
 一馬を見上げたまま、ゆうはムキになって頬を膨らました。
「だって、"さみしい"っていっても、だれもきいてくれなかったよ。だれもこっちむいてくれなかったんだもん。きこえないふりするの。みえないふりするの。みんなそう。だから、いわないの。さみしいって、いわないんだよ」
 言っても、聞こえないフリをされるから。そうしたら、口に出すだけ惨めだから。

―――トッ…。
 軽やかな音を立てて、白い床の上を白い体が跳ねる。
「あ、うさぎ」
 まてぇ、と追いかけたゆうが、少ししてその柔らかい白い体を捕まえる。抱き上げ、ほお擦りする。
「ねえおにいさん、わたし、うさぎがうらやましいの。どうしてだとおもう?」
 まるではじめて動物園に連れてきてもらった子供のようにきらきらした瞳で、ゆうが見上げてくる。
「飛び跳ねることができるから?」
「はずれ」
「……耳が長いから?」
「ぶぶー」
「じゃあどうし……」
「さびしいとしねるから」
 質問が終らないうちに切り返された言葉が、何よりも壮絶に胸の内側に突き刺さった。
「こどくし、っていうの。さみしいとしねるのよ。さみしくてさむくて、しんじゃうんだよ。わたしも、うさぎがよかった」
 ぱらり。
 微笑みながら呟くゆうの頬を、はらりはらりと、涙が零れ落ちた。
 でも生きるの。さみしいだけじゃ死ねない。この体は、しつこく生き続けるの。我儘なからだ。
「まこともね、さみしそうだったから、いっしょにいようとおもったの。でも、まこともいつかいなくなっちゃうのかな。みゃあみたいに?」
 さみしいよう。
 ウサギを抱いたまま、真っ白な床に座り込んで、涙をいっぱいにためた瞳で一馬を見上げる。
「君は、どうしたいの」
 視線を合わせるようにかがんで、一馬が聞いた。
「わたし……?」
 そう聞かれたことが心底以外だったように、ゆうは目を大きく見開いて一馬を見つめ返した。
「そう。君は?」
 なにが欲しいの。
 ぐにゃりと少女の輪郭が歪み、酸をかけられたように溶け、そしてやがて、現在のゆうの姿になった。
「誰も聞いてくれなかったよ、そんなの」
 涙をいっぱいにためたまま、ゆうがぎこちなく笑う。
 君は? なんて。今まで誰も聞いてくれなかった。
「信を拾ったのはね、信が一瞬でも私のことを必要としてくれたからなの。あの時は、私がいないとダメだって目で言ってくれたからなの。でも、それはあの時だけだから。もう信は自由に、何処へでも行けるもの。私に縛る資格は無いもの」
「うん」
 急かさずに、一馬は頷く。無言で促す。その先を。
 相手の気持ちではなくて。「君自身」は一体どうしたいの。
「だけど、私ずるいから、自分が言って欲しい言葉を、信にあげたの。信が欲しがっていた言葉が分かったから言ったの。そうして縛ろうと思ったの。バカでしょ」

『一緒にいよう』。
 今まで誰も言ってくれなかった。そして一番欲しかった言葉。
 目と目をかわした瞬間に悟った。ああ、お互いさみしいんだね。
 何が言って欲しいかわかってたよ。わかってたからわざとそれを使ったんだ。
 言葉で縛ろうとしたの。

「一緒がいいよ。傍がいい。でも、怖いんだよ」
 こばまれたら。
 これ以上棄てられたらもう、耐えられない。
「だって、繋ぐものが何もないもの。たった一つだって、二人の間には何もないんだもの。私は信のこと知らないし、信も私のこと知らないし。だけど!!」
 ウサギを抱いていたゆうの手が伸び、一馬の胸倉へと伸びた。縋るように掴んだ。
「確かめるのは………………怖いよっ……」
 透明な涙が止め処なく溢れては頬を伝って下へと落ちた。
 言葉はまるで刃。心の柔らかい部分を容赦無くざくりと抉るから。
 私の心は酷く弱いから、どんななまくらの刃だって血を流す。
「でも聞かなきゃ。言わなくても分かるなんて嘘だ」
 血の気を失って指先が白くなるほどまでに、自分の胸元を掴んだゆうの指先を一馬はゆっくりと外した。
「君らはまだ、まだ間に合う。こんなふうにお互いがお互いの心を蝕む前に、声に出したほうがいい」
 口に出さずに、全てが手遅れになる前に。
「手遅れになったらきっともっと、痛いよ?」

―――嫌だ!! こんなのおかしいじゃないか!! 嘘だ!!

 自分の震える掌を握り返す一馬の指先から、ダイレクトに伝わってきた"声"に、ゆうはひくりと震えた。
 ずん、と心を何か重いもので潰されたような鈍い衝撃。
「こんなふうに、触れるだけで伝わってしまうのは、夢の中だけだ。お互いの寝顔を見ているだけで、触れ合えずに傍にいるだけで、本当に君はいいの?」
 一馬は困ったように笑った。まさか伝わってしまうとは思っていなかった。
 それだけ深く同調しているのは、お互いに飢えた部分があるからだろう。
 声に出さずに終ってしまった「悲しみ」があるからだろう。
 だからこんなにも、強く深く、響く。

 ゆうは、労わるような一馬の視線を真っ直ぐに見つめ返した。
 お互いの存在を感じながら、それでも言葉を交わすことすら出来ず。
 ただ傍にいるだけ。
 互いの寝顔を見つめているだけ。
 そんなの。
「……さびしい」
 小さく口に出した。何度か、繰り返す。
「そんなのさびしい」
 そんなの、一緒にいる意味がない。傍にいる意味がない。
「だろう?」
 難しい問題を自力で解いた子供に向けるような、柔らかい笑みを一馬は浮かべた。
「それは、悲しくて寂しいことだよね」
「……貴方も泣いた?」
 ゆうの手がゆっくりと一馬の頬に伸びた。
 ゆうの意外な行動に驚きながら、その手の温もりに一馬は目を細める。
 さびしくて、悲しくて、苦しくて。
 貴方も泣いた?
「……そうだね」
 泣いたよ。
「いっぱい、辛い思いをして、いっぱい泣いたから、貴方はそんなに、優しいんだね」
 一馬の頬に手を触れさせたまま、ゆうは目を閉じた。一筋だけ涙がこぼれた。
「…………信に会いたい。会って……」
 言葉を交わして、触れたい。
 もう何日の間、互いの寝顔ばかりを見つめてきたのだろう。
 すれ違い続けてきたのだろう。
「今度はもっと……、話して………………」
 ずぶずぶと、白い床にゆうの体が飲まれてゆく。
 一馬は引き止めなかった。それがどういう現象であるのかわかっていたから。
 床が弧を描き、そこから色が広がってゆく。
 徐々に色を取り戻してゆく世界の真ん中に立って、一馬は苦笑した。
 ゆうの体が完全に床に沈み終わった頃。
 この精神世界は白ではなくて、ゆうの寝室の風景へと変わっていた。
「優しくなんてないさ。これから君の夢を、食べるんだよ」
 ぐるりとその部屋を見渡し、一馬は溜息をついた。
 ギブ&テイクなんだよ。君を救ったのは優しさじゃない。
 ごめんね。


 まるでエレベーターが上昇するような感覚に一馬は身を委ねた。
 ゆうが眠りから覚めようとしている。
 これで夢喰いの役目は終わりだ。


            *


 夢さえない、真っ黒な闇から急激に引きずり上げられるような感覚。
 急に目蓋の裏に光を感じて、自然の欲求に抗わずに目を開いた。
「目が覚めた?」
 見上げる天井との間に飛び込んできたのは、小動物さえ思わせる愛らしい顔だった。
 頭の芯がぼぉっとする。壁に掛けられている時計を見る、2時間も経っていないのに。
 恐ろしいほど熟睡したあとのけだるい疲れが体中を支配していた。
「きみ……は?」
 人と長い間言葉を交わさずにいた声帯がすっかり傷み、掠れた声が喘ぎのように漏れた。
「英要って言います。気分は、どうですか……?」
「だるい」
 けれどその重さは、不快なものではなかった。
 しばらくすればこの熟睡感も抜けて、きっと快い感覚になるだろう。

 がちゃり。
 ドアの開く音。寝室の方向。
 寝室?
 思わず反射的に体を起こした。うわ、と小さな悲鳴を上げて要があとずさる。
 予想通り、開いた扉から姿を現したのは黒いスーツの男。
 成瀬一馬。
 彼と目が合った。何も言えずにいると、彼は少し疲れたように笑って。
「どうぞ」
 寝室を指差した。


            *


 なんだか、とてつもなく永い夢を見ていたような気がする。
 悲しくて寂しくて、少し切ない夢。
 今はもう思い出せない。
 残っているのはその、胸を締め付けるような余韻だけだ。
 見慣れた天井。夕方を通り過ぎた辺りなのだろうか、カーテンの隙間から漏れてくる光が弱い。
 弱くて、包み込むような優しい光。
 時計を見ようとして首を捻ると、体中がギシギシと音を立てた。
 背中が痛い。ということに少し遅れて気付いた。
 頭が酷く重くて、上手く思考が働かない。まだ脳は眠っているのかもしれなかった。
「ゆう」
 ドアが開く音と同時に飛び込んできた声に、思わず我が耳を疑った。
 一体どれだけの間、声を聞いていなかっただろうか。
「……信?」
 言うことを聞かない首を捻じ曲げ、そちらを見ると、信がいた。
 今までずっと視線を交わせずにいた瞳がこちらを見ている。
 視界が不意に揺れた。信の顔がぼやけて歪んで、見えなくなる。
 もったいなくて、上手く動かない腕を持ち上げて、必死に目元を拭った。
 溢れた雫は火傷しそうなぐらい熱い。
「久しぶりだね」
 何気ないその一言すら、揺れて掠れて、上手く言葉にならなかった。
 こうしてお互いに言葉を交わせずに、見つめることさえできずに、一体どれぐらい。
「ねぇ信」
 ベッドの傍に立つ信に、手を伸ばした。
「私ずっと…………」
 そこまで言って、声が詰まった。
 今まで幾度となく飲み込んできたその言葉が、なかなか出てきてくれない。
 けれど、伝えなければ。
 伸ばした手を信が掴む。共有するその温もりに、また涙が溢れた。
「私、ずっとさびしかった。傍にいるのになんだか、ずっと遠くにいるみたいで。すごくさびしかった」
 言っても聞こえないなら、言うだけ無駄。届かない声なら、出さないほうがマシ。
 惨めに縋るのは、悲しい。
 だからずっと、ずっと誰にも言わなかった。

 言わなきゃ、伝わらない。
 一体、それを教えてくれた人は誰だったか。
 もう思い出せないけど。

「ねぇ、いっぱい話しようよ。嬉しいことも悲しいことも、全部話そうよ。それから……」
 きゅっと、少し力を込めて手を握った。ぎゅっと、少し強い力で返す。
 そこに人がいて、自分に反応を返してくれる。たったそれだけのことが、どうしてこんなにも嬉しいんだろう?
「それから?」
 今にも泣きそうな、そんな切ない笑顔で信が促す。
 ぎゅっと、どちらともなしに触れ合う指先を絡めた。
 視界が霞む。止め処なく溢れる雫が、目尻からこめかみに向かって落ちた。
「離れたくないから、一緒にいようよ」

 ぐっと、強い力で引き寄せられた。気がつくと、信の腕の中にいた。
 互いにもう、交わす言葉はなくて。
 触れ合う場所から伝わる熱に、目を閉じた。


            *


 太陽はすっかり沈み、黒い雲が空を覆っている。
「なんだか、雲行きが怪しいな」
 外に止めてあった車の後部座席に座りながら、雅が顔をしかめた。
「なんだって、俺がお前の家の車を運転しなきゃならないんだ」
 先手を取られてどうしようもなくなった一馬が仕方なしに運転席に滑り込む。銀家の次男坊は、一馬の責め苦などどこ吹く風、空を見上げている。
「雨降るのかな」
 助手席に乗り込んだ要の言葉は、何処となく嬉しそうだ。
「さては、お前が雨男だな」
 要をからかい、一馬はアクセルを踏み込んだ。

「ところで雅」
 交差点で信号に引っかかった。今まで黙って運転していた一馬が、至極真面目な視線をバックミラー越しに雅に投げた。
 返事をせずに、雅は視線だけを返した。
「今回のギャラはもちろん、お前から出るんだろうな?」
「案ずるな」
 デザインサングラスを目元から引き抜き、雅は古めかしい口調で自信たっぷりに言い放つ。
「ラーメンぐらいなら奢ってやる」
 その返答を聞き、結局またタダ働きかと、がっくりと一馬は肩を落とした。
 一馬に同情するかのように、空が泣き出した。






Epilogue

 数日後。
 普段通りに学校からの帰り事務所に寄った要は、入り口のところのカサ立てに、しばらく見ていなかった自分のカサが立ててあるのを見つけた。
「あれ? カズマ、これもしかしてゆうさんが……」
 もしかしなくても、答えは決まりきっているのだが。
 先日雅から、二人の間はどうやら落ち着いたらしい、という酷く漠然とした報告を受けて、具体的に色々知りたかった要である。
 もしゆうがここにきたのなら、色々と聞いてみたくて、事務所のドアをあけ、一馬のほうへと声を放る。
 …………返事は無い。
「……カズマ?」
 デスクの周辺を探してみても、一馬の姿は無い。
 もしかして。嫌な予感が、ほぼ確信に近い形で舞い降りてきた。
 こちらに背を向ける形に置かれている来客用のソファー。
 恐る恐る近寄って、上から覗き込んだ。
 やっぱり。
 要は大げさに溜息をついた。が、「お昼寝中」の相手にはもちろん聞こえないようだ。
 こういう時の嫌な予感は、ほぼ確実に当たる。こんなところで勘が良くても、何も嬉しくないのだが。
 一馬はソファーに体を投げ出して、心地よさそうにお昼寝中だった。
「全く。風邪ひいても知らないんだからね」
 などと、ぶつぶつ呟きながら、常備してある毛布を引きずり出す。
 ここら辺の面倒見の良さを、少し保護者にも見習ってほしいところだ。
 頭の中で文句をいいながら、要は、心のどこかで安堵もしていた。
 やっぱりカズマは朝寝坊に三食昼寝つきじゃないと。
 朝、たたき起こさなければ起きてこない一馬を見ると、「夢喰い」の仕事が終ったのだと思えて、安心できる。
「あ」
 保護者に毛布をかけてやったあと、要はあることを思い出した。

「ナントカは風邪引かないんだった」

 かくして、また日常の時間は流れ始めた。




                                        end




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