2.blindfold



 事務所から少し離れたところに「成瀬」と表札のかかった一軒家がある。
 なんてことはない普通の一軒家だ。
 その一軒家の一室で、要は目を覚ました。
 規則的生活を実践しているので、いつも同じ時間に目が覚める。
 時計に目をやると、目覚ましの鳴る5分前だった。
 柔らかい布団の感触に二度寝の誘惑を感じたが、何とかその欲求を押しのけて、ベッドから下りた。
 眠気を引きずったまま窓際まで行き、カーテンを思いっきり開け放った。射るような朝の日差しに目が痛みを訴える。

―――飼い主と、ペットなんだってさ。

 突然、数日前に聞いた雅の言葉が蘇った。
(なんだか……)
 高校の制服に着替えながら、要は憂鬱だった。
(なんだかそんなの、嫌だな)

 学校へ行く準備を整えて、隣にある一馬の寝室を覗いた。
 カーテンを開け放ってやり、起きろと揺すってやるのも要の朝の日課だった。が。
 開いたドアから覗き込んだ室内に、一馬の姿はなかった。
(あ、そっか)
 あることを思い出し、納得して階段を降りる。
 思ったとおり、パジャマ姿のままの一馬が、リビングで独り新聞を読みながらコーヒーを飲んでいる。
("仕事中"だったっけ)
 『夢喰い』の依頼を受けている間、一馬は常に早起きになる。
 傍から見ていても、感覚が尖っているのがよく分かる。
 夢喰いは神経を使う仕事なんだ、と一馬は得意そうに言うけれど、要にはナーバスになっているようにしか見えない。
 本人は早起きというが、眠っていないんじゃないか、と思う。
「おはよう」
「おう」
 声を掛けると、新聞から顔も上げずに声だけを返してよこした。多分聞いていない。
 こういうときは声を掛けないほうがお互いの精神衛生上にもいいのだ。リビングのテーブルについて、テレビをつけた。
 天気予報では、今日も午後から雨。カサを持ってお出かけください、らしい。
 カサ。
 アバウトな地図の上でくるくると回る紺色のカサのマークを見つめて、思い出す。
(ゆうさんにカサ、貸したんだっけ)
 ちゃんと折り畳みガサもあるから別に困ったりはしないのだが。ゆうの思いつめたような顔を思い出して、憂鬱になった。
「今日もう一度御堂さんに会う」
 ばさりと新聞をテーブルの上に置いて、一馬が口を開いた。
「…………ふうん」
 さして興味もなさそうに言ってやるが、ぴくりと肩が震えたのを一馬は見逃さなかっただろう。
 ゆうに会うと、悲しくなる。彼女の持っている雰囲気なのだろうか。ひしひしと胸に突き刺さって痛い。
「要はどうする」
「ゆうさんに会うの、ちょっと辛い」
 拾ったとか、ペットだとか。なんだかその言葉は冷たくて。
 血が通っていないみたいで、辛い。
「…………分かった」
 視界の中に苦笑する一馬の顔を見る。
「いい加減着替えたら? ぐうたら親父みたいで情けないよ?」
 心の中全部を覗かれたような気がして、悔し紛れに悪態をつく。
「手厳しいな、コーヒーぐらいゆっくり飲ませてくれよ」
 一馬は、そう言いながら残りのコーヒーを飲み干すと、空いたカップを持って台所へと向かう。
「あ、朝ごはんいいから」
 テレビ画面の時刻を見て、要が立ち上がる。
「大きくなれないぞ」
 台所から至極真面目な声が返ってきた。
「今日は小テストがあるから早く行くんだよ。途中でなんか買ってくから」
 何か意地悪な返事が返ってくる前に、要は椅子から立ち上がる。
 慌しくリビングを出て行く要の背中を見て、一馬はひとつ大きく溜息をついた。
 口元に浮かんでいたのは、苦笑なのかそれとも、自嘲だったのか。

(―――本当は)
 玄関のドアを開けると、朝特有の空気と降り注ぐ日差し。
 これから天気が崩れるなんて不思議なぐらい、晴れ渡った空。
 くずれてゆくんだ。そしてやがて泣き出す。
 この空も、ひとのこころも。ずっと同じではいられないものだから。
 一馬には、崩れてしまったひとのこころを癒す力がある。要はそれを身を持って知っている。
 けれど一体、一体一馬の傷口は誰が治すのだろう?

 夢喰いの仕事を受けて、憂鬱になっている一馬を見るたびに、要はやりきれなくなる。
 今日だって本当は、小テストなんてない。本当は……。
 本当はただ、一馬の張り詰めた空気が嫌なだけなのだ。


            *


「要」
 ぼんやりと同じような授業をこなし、昼休みになったところで、隣の席に別のクラスの男子が座った。
 艶っぽい黒髪に同じ色の切れ長の瞳を持った、古風な容貌の少年だった。
「都佳沙(つかさ)……」
「また雅兄さんが一馬さんに変な話を持って行ったんだって? 父さんから聞いたよ」
 椅子に横向きに座り、机に頬杖をついて足を組む。およそ高校生らしくないその格好がぴったりとはまってしまうのは、この少年―――銀 都佳沙―――の風格のせいだろう。学校の制服よりも着物の方がよっぽど似合う。
「でも、請けたのはカズマだからね」
 雅の甥である都佳沙は、銀家の長男の息子、いわゆる跡取の跡取である。
 幼い頃から跡取としての教育を受けているために、その身のこなしには全くもって無駄がない。
 しかも、辛いはずである修行にも何一つ不平不満を零すことのない屈強な精神力の持ち主だ。
 雅に紹介してもらってから、親しく付き合っている。
「雅兄さんも、懲りないんだからな……。なんだかんだ言って、一馬さんに会ったり話をしたりするのが楽しいみたいだよ」
 そう言いながら、都佳沙自体も雅を嫌っている風ではない。年齢がそんなに離れていないせいか、叔父である雅を兄と呼んで慕っているのが何よりの証拠だ。
「それで、要は調子が悪いわけだ」
「え?」
「分かるよ。なんだか要の空気が混沌としてる」
 その涼やかな瞳が労わるような笑みを浮かべていて、要は恐縮した。
 やっぱり、都佳沙には勝てないや。
「要は優しいから、色んなものが"見える"んだよ。それは貴重なことだけど、厄介なことだね」
 ひとの、こころのなかの。痛みとか、悲しみとか。一番柔らかい部分。
 それに同調してしまう生まれ持った素直な心は、望んで手に入るものではないにしろ、持っている本人は苦痛だろう。
「あんまり気に病まないほうがいいよ。雅兄さんも、今回のことは色々調べているみたいだから」
「……うん、ありがとう、都佳沙」
「どういたしまして」
 微かに口元に笑みを浮かべて、都佳沙が立ち上がる。
 丁度予鈴が鳴った。


            *


 目が覚めた。
 時計を見るともう午後をだいぶ回っている。
 体中を包み込むけだるさを押し返すようにソファーから起き上がれば、人気のない部屋。
 念のために寝室を覗いても誰もいない。
 同じ部屋にいても、言葉すら交わせない。
 見れるのは互いの寝顔だけだ。
 近づくことがまるで罪でもあるかのように。
 引かれた境界の痛み。
 口元が引きつったのは、自嘲を浮かべようとしたせいか。
 当たり前だと思った。
 自分は……、汚い生き物だから。
 許しなんて欲しくない。そんなものを貰ったところで、自分が自分を許せるはずがないから。
 それなのにどうして、こんな生温い場所にいるんだろう?
 どうして……。

 さむいから。

 見つけてはいけない答えを、掴んでしまった気がした。
 今まで目を逸らし続けてきたものを直視した気が。
 寒くて寂しくて、凍えそうだから。
 死んでしまいそうだから。

 プル、プルルルルル……。

 少し離れたところで電話が鳴り出した。別段気にすることもない。
 電話は取らないことになっているし、もうすぐ留守電に切り替わるだろう。
 案の定、暫くして機械音が主の不在を告げる。

 ピーッ。
《マコトくん?》
 反射的に電話の方を見てしまった。
 絶対にありえないことだった。自分の名前が呼ばれることなんて。
 しかし、若い男の声は続けた。
《これから言うところに出てきて欲しいんだ。色々と話があるんだよ》


            *


 空を一瞬にして引き裂く激しいプラズマ。
 次の瞬間にまるで怒号のように響き渡る雷鳴。
 しばらくして……。
 堰を切ったように空が号泣した。

 午後3時。
 約束の時間か、と時計に目をやった時、事務所のドアが叩かれた。
「どうぞ」
 声を掛けてやると、以前のように少し控えめにドアが開き、ゆうが顔を出した。
「約束どおりですね、どうぞこちらに」
 今日はしっかりとスーツ姿の一馬が、デスクから立ち上がり、来客用のソファーを手で示す。
「ありがとうございます」
 小さく頭を下げて、ゆうがソファーに腰掛けた。
「御堂さん、単刀直入にお聞きしていいですか。何か僕に……隠してませんか」
 向かいに座るなり、一馬が切り込んだ。ゆうは、何が起こったのか分からないように目を見開く。
「え……? 隠す……って、なんですか」
 何秒か遅れてゆうが戸惑い気味の返事をした。
「御堂さん、貴方本当は、片桐信さんが好きなんじゃないですか?」
 ゆうの行動がぴたりと止まった。膝の上に置いた手で、スカートを握り締めるのが分かる。
 ペットだと、拾い物だと繰り返しながら、辛そうな顔をするのは。
「………………どうしてそんな」
 どうしてそんなこと訊くの。
 ゆうの目が不信感を湛えている。土足で心の中に一歩、入られたような気がした。
「そうじゃないと、辻褄が合わないんです」
 その視線を真っ直ぐに受け止めて、一馬は返す。
「好きじゃないです……」
 一馬からふっと目線を逸らして、ゆうは俯いた。
 否定の声は消え入るほどに小さくて、説得力が欠片もない。
「自分の気持ちに嘘をついても、辛いだけですよ」
 まるで聖人君子のようなことを言ってるな。自分で言ってから、一馬は心の中で苦笑する。
 そんなことを言ってやれるほど偉くもないくせに。
「私に信を好きになることなんてできないです」
 しっかりと、何かに縋るようにスカートを握り締める両手に視線を落として、零れ落ちたゆうの震える声。
「どうしてですか」
「私は私が嫌いだから」
 きっぱりとした言葉と共に、雷鳴が轟いた。
 窓に叩きつける雨がより一層強くなる。

 ゆうは暫く黙っていたが、やがて何かを決意したように顔を上げて……。
 そしてそのまま、前のめりに倒れた。
「わっ……!」
 咄嗟に腕を伸ばし、床にずり落ちそうになったゆうの体を抱きとめた。
 何が起こったのかと彼女をその来客用のソファーに寝かせる。
 すると。
(寝てる…………?)
 顔色も別段普通と変わらない。漏れてくるのは穏やかな寝息だけだった。
 しかし、この唐突な睡眠への落下は…………。
「おい一馬、入るぞ〜」
 そのとき、事務所のドアがノックもなしに開かれ、雅の少し間延びした声が響いた。
 そちらの方へ首だけを向けると、室内の状況を察知した雅が「やっちゃった」という顔をした。
「今日だったっけ? ゆうちゃんと会うの」
 申し訳なさそうな顔で、雅がソファーに横になっているゆうを見た。
「ああ。でももう、こうなったら仕方ない。連れてきたんだろ?」
 何か掛けるものはないかと視線を事務所内に廻らせながら問うと、雅が頷く。
 そして、自らの後ろに控えていた人物を事務所内に引き入れる。

 淡い色素の薄い髪の毛に、灰色っぽい瞳の。
 どこか繊細そうな雰囲気を纏った青年。
「片桐 信くん?」
 ようやく探し当てた毛布をゆうの上に掛けてやりながら、一馬は顔だけ向けてその青年を見た。
 問いかけに、彼はただ、小さく「はい」と頷いただけだった。


            *



 結局。
 小さな折り畳み傘に収まって事務所への道を歩きながら、要は小さく溜息をついた。
 辛いだなんて言いながら結局、事務所へ向かっている自分が悲しい。
 結局は。逃げているだけだということに気付く。
 いまだちりちりと疼く傷口を見つめることから。

―――要様。

 崇め奉られていたのは、「自分」じゃない。ハナブサカナメという人格ではなくて。
 大切にされていたのはこの器。
 ハナブサカナメは、オマケで付属で。接する人々の言葉と態度が、あからさまにそれを語っていた。
 こころもからだも四方から分厚い壁に囲まれ閉ざされ。
 決して上げることの出来なかった悲鳴。
 僕を見てよ。ハナブサカナメを、愛して。

 ゆうの意識に、同調するものを感じるのだ。
 決して満たされることのない、極度の飢餓。
 心の空白。空洞。
 だから、ゆうに会うのが嫌なのだ。自分の心と向き合うのが怖いから。
 たすけて。
 誰もが耳を塞いだその言葉に、気付いてくれたのは。言葉を返してくれたのは。
(ナルセカズマ)
 カズマが、助けてくれたから今は。平気だと思っていたのに。
「情けな……」
 小さく頭を振って、脳の内側にこびりつく嫌な感情を振り払う。
 膝を抱えて、閉ざされた部屋の中で泣いていた頃とは、年も環境も何もかもが違うのに。
 こうして「外」を歩けているのに。やさしい言葉を返してくれる人も、たくさんいるのに。
 それでもどうして。こころの飢えは。
 埋まらないのだろうか。


            *


―――ねぇ、拾ってよ。

「多分、これから色々聞くことは君のプライベートに踏み込んでしまうと思う。それでもなるだけ、答えて欲しいんだ」
「いいですよ。もう守るものは、別に何もないですから」
 ゆうをソファーに寝かせたまま、そのソファーと対になっているもうひとつのソファーを移動させて、デスクの向かいに持ってくる。
 そこに座っているのは、片桐信だけだ。
 雅は、台所の換気扇を回して、その下で煙草を燻らせている。

 一馬は、あまりたじろぐでもない信に、少し驚いたように眉根を寄せた。
「なら、何で御堂さんには何も言わないんだ?」
 切り返すと、信が黙った。
「いや、いい。とりあえず、"君の生い立ち"を聞いても構わないかな」
「……つまらないですよ。生まれた直後に両親が事故で死んで、カトリック系の施設で育てられました」
「いつまで?」
「15。中学を卒業してすぐに出ました。早く、出たかったんです」
「どうして?」
「……あそこには、憐れみしかなかったから。一辺倒のことしか、くれなかった」
 あの子は、親の愛情を知らないの。"だから"優しくしてあげなくちゃ。
 条件付きの、見え透いた優しさに。15まで耐えたのが不思議なぐらいだ。
「それからは?」
「こっちに出てきて……」
 今まですらすらと答えてきた信の口調が、鈍った。
 沈黙に、打ち付ける激しい雨音と、換気扇の音が被さった。
 急かすでもなく一馬が待っていると、信はその整った顔に自嘲めいた笑みを浮かべた。
「成瀬さん、田舎から出てきた15のガキが、どうやって一人で生活してきたのか、想像つきませんか」
 膝の上で組み合わせた自分の手を見つめていた顔を上げ、真っ直ぐに一馬と視線を合わせる。
 灰色の瞳には、投げやりのような色が浮かんでいる。
「金ってものは、自分の何かを切り売りして手に入れるものでしょう。労働力や、才能や……。俺は何一つ、持ってなかったんですよ」
 切り売りできるものを。

 まるで自分の傷口を抉るような信の言葉に、一馬は相槌すら返さずに耳を傾ける。
 そこに、"糸口"を掴むために。
 吐き出させなくてはいけなかった。心の膿を。
 澱のように膿が溜まっている限りは、決して傷口は癒されはしない。
 荒療治だ。
「ウリ専って、知ってますか」
 信が紡いだ一言に、一瞬だけ空気が凍った。
 じゅ、と雅が煙草を灰皿に押し付ける音がやけに大きく聞こえる。
「男のウリのことです。結構、儲かるんですよ」
 開き直ったように信が笑った。
 ひねた笑いを浮かべることで、心の留め具を無理に外しているような。
 そうでもしなければ、吐き出すことすら出来ないように。
「でも、結構トラブルの多い業界で。あの日はちょっとマズイことしちゃって逃げてたんですよね。そこにゆうが通りかかってくれたから、ほとぼりが冷めるまで匿ってもらおうと思って……」
 信の自棄は、そこで燃料切れを起こしたらしかった。
 口元の笑いをふっと消し、一馬から目を逸らして、自分の足元を見つめる。
 膝に両肘を立て、頭を抱え込む。
「ほとぼりが冷めたら……、勝手に出て行くつもりだったんだ」
 零れ落ちたのは、独白だった。
「でも"出て行けなかった"のは」
 換気扇を切り、雅が台所から出てくる。
「居心地が良かったからだろう?」
 屈み込むように自分の顔を覗き込んでくる雅に、頭を庇ったまま目線を合わせる。
 不遜なまでの、意地の悪い笑みを浮かべて、雅が問い掛ける。
 "ゆうの隣が心地よかったんだろう?"
「そうだ」
 漏れた言葉は肯定以外のなにものでもない。
 まるで誘導催眠をかけられたように、ぽろぽろと言葉が零れ落ちた。
「ゆうと俺と……、同じ空気だったんだ。言葉じゃ上手く言えない。だけど、"同じ"だったんだ」
 瞳に、同じさみしさを感じた。
 重ねてきた「さむさ」を感じた。
 こころの真ん中に、埋められない空白がある。それを埋めたいがための飢餓感が、どうしようもなく……お互いに響いて。
 ふたりが傍にいることは、傷を舐めあうこと以外のなにものでもない。
「だけど、ゆうは俺に何も訊かなかったから、俺も何も訊けなかった。訊かれなかったから、何も言わなかった。……知られて、離れていくのが怖かったから」
 汚れた自分を知られたくなかった。蔑まれて捨てられるのが怖かった。
 この体の内側に、曝け出せるものは何一つない。全て醜くて、見せられたものじゃない。
 こうやって手の内を庇って、隠しているから。傍にいることは出来ても、その空白を埋めあうことは出来なかった。
 わかりあえなかった。
「訊かなかったんじゃなくて」
 そこでようやく一馬が口を挟んだ。信はゆっくりと、雅の方から一馬に顔を向ける。
「訊けなかったんじゃないのかな。彼女も。怖くて」
 信は、そこで大きく目を見開いた。いきなり示された選択肢が、予想外のものだったからだ。
「ゆうは、才能も、地位も、持ってるのに」
 どうして?
 隠すことなど、何もないはずだ。ゆうには色んなものが在るから。
 "蔑まれ"、"捨てられる"ことなどないはずだ。
 それじゃあ、何が怖い。
「どうして分かるのかな。聞いてないのに」
 デスクに頬杖をつき、組み合わせた掌の上に顎を乗せ、一馬は真っ直ぐに信を見た。
 信の瞳が、大声で怒鳴られた子供のように、怯えに揺れた。
 見ようとしなかったものを、目の前に突きつけられた気がした。
「傷の舐めあいは悪いことじゃない。だけど、言わなきゃ、言葉で確かめなきゃ、俺たち"ひと"は何一つだって満足に、相手に伝えられないんだよ」


            *


 折り畳み傘を丁寧に畳んで要が事務所のドアを開いたとき、一馬は年代ものの黒電話を耳に当てていた。
 事務所の中を見渡しても誰も居ない。
 耳元に聞こえてくるだろう声に相槌を返しながら、一馬が要を見て、僅かに笑ってみせる。
 要は、いつもとは違う位置に置かれている来客用のソファーにカバンを置くと、制服のブレザーを脱いで、いつものように台所へ向かった。
「それでお前に、御堂さんの家族構成を調べて欲しいんだ。―――え? 嫌だよ、本家に借りを作るつもりはない。もう何年、あの敷居を跨いでないと思ってるんだ。それに、情報網なら銀の方が広い」
 冷蔵庫の中に、雅が持ってきたであろう手土産のケーキを発見して、コーヒーを淹れようと試みながら、聞こえてくる一馬の声に無意識のうちに耳を傾けていた。
「もし、俺の予想が正しいなら、原因は割れる。―――頼む」
 大げさな吐息が、少し離れても聞こえた気がした。
 電話口の向こう、銀雅の譲歩の溜息。
 それ以外の声はくぐもって、要のところまでは届かなかった。
 ただ、電話を切ったあとの、酷く安堵したような一馬の溜息だけが、深く響いた。
「カズマ……」
 控えめに声を掛けた要に向かって、一馬は苦笑してみせる。
「そのケーキ、賞味期限は今日までらしいから、一緒に食おうか」
 お前は甘いものが苦手だろ。雅が特別に甘味を押さえたのをお前のために買ってきてくれたみたいだから。結構有名な店らしいぞ。
 何事もなかったかのようにケーキの説明をする一馬の声を、どこか遠くに聞きながら、要は無理矢理相槌を打つ。

 カズマはいつも。
 自分のことだけは置き去りにする。
 いつでも、今もなお血を流す傷口から、目を逸らすんだ。




                      to be contenued…




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