1.霹靂





「あ、光った」
 ブラインドの隙間から、黒く淀んだ空を見上げ、要が嬉々として言った。
「何が嬉しいんだ?」
 先程まで近所に買い物に出ていた一馬は、突然の土砂降りに見舞われ、すっかりと濡れ鼠になっている。
 何も事務所に戻る3分前に降り出さなくてもいいじゃないか。そう思うと機嫌は急降下だ。
 バスタオルでがしがしと髪を拭きながら、デスクに向かい、大きなくしゃみをする。
「いいじゃないか、好きなんだよっ」
 顔だけを一馬の方へ向けて、頬を膨らます。
 雷が好きだなんて、自分でも少し子供じみていると思う。しかし、好きなのだから仕方ないじゃないか。
「要、コーヒー……」
「あっ!!」
 一馬の言葉は、稲妻の轟きに掻き消され、要の耳に届くことはなかった。
 要は瞳を輝かせて空を見上げる。
 黒い空に走る竜のような閃光。古代の人が「神鳴り」と呼んだ、あの轟き。
 自然が生み出す芸術だと要は思う。
 当分雨は止みそうにないし、雷は遠退きそうもない。やれやれとため息をついて、一馬はマイマグカップを持って台所へ向かった。
 要の雷好きだけはどうしようもない。コーヒーメーカーの蓋を開け、フィルターに挽いたあとの粉末を入れる。
 その間も要は、まるで手に吸盤がついているかのように窓から離れない。
「あれ?」
 コーヒーメーカーの電源を入れたところで、要が変な声をあげた。
「どうした?」
 台所から顔だけを出して要をみると、要は少し振り返り、外を指差した。
「キレーなお姉さんが、ずぶ濡れで今……」
「要は年上が好きなのか?」
 さっきのお返しとばかりに意地悪そうに言ってやると、要はムキになって一馬に向き直った。
「違うよっ! お姉さんが今、ここの階段を…………」
 コンコン。
 要の言葉を遮るように、呼び鈴のついていないドアがノックされる。
 二人とも返事を返せずにいると、ドアが控えめに開いた。
「あの……、成瀬一馬さんは、いらっしゃいますか」
 顔を出したのは、文字通り水も滴る美女だった。


            *


「はい、どうぞ」
「あ、ありがとう」
 要が差し出したタオルを受け取って、その女性は小さく微笑んだ。
 雨に濡れたせいか、顔色も悪く、口唇などは紫色になっていた。
 しかし、綺麗に染まった髪といい、整った顔立ちといい、美人と言っていい部類の女性だった。
 二十歳前後だろうか?
「急に降ってきたものだから……」
 金に近いほど色素を抜いた茶色の髪を丁寧に拭き、苦笑する。
「御堂(ミドウ)ゆうさん、と仰いましたね?」
 こちらもまだ髪が濡れたままで、女性の向かいに腰掛けた一馬が問い掛けた。
 事務所にいるときはいつもスーツ姿の一馬だが、今日は先程の雨の洗礼を受けて、ラフなTシャツとジーンズといういでたちで、本人は恐らく不本意だろう。
「はい」
 要のほうに向けていた視線を一馬のほうへ戻し、ゆうは小さく、しかししっかりと頷く。
「"探偵としての僕"に用があってきたわけでは、無いですよね?」
 一馬の表情は、要が言うところの「仕事モード」に入っていた。少し青みがかった深い瞳が、真っ直ぐにゆうに向いている。
 自分のことを「僕」と呼んだことが、その最たる証拠だった。
「………………はい。『夢喰い』のお話を、伺ってきました」
 暫く黙ったあと、ゆうは決意したように、射るような一馬の瞳を見つめ返した。
「……分かりました。それでは詳しい内容をお聞かせ願えますか」
 激しい稲光が、一瞬だけ部屋中にストロボを焚いた。

「私と……、その同居人の話なんですが」
 要が目の前に置いたコーヒーカップから立ち上る湯気を見つめながら、ゆうが口を開いた。
「同じ時間に『起きてる』ことが出来ないんです」
「え…………?」
「一定の距離内で、例えば同じ部屋とかにいるときに、一方が起きているともう片方は揺すっても声を掛けても起きないほど深く眠ってしまって……」
「一定の距離、だけなんですか?」
「はい、ある程度離れると平気なんですけど……。初めは生活のパターンが違うからなのかと思ったんですけど、それが1ヶ月も続くから……いい加減なんというか、怖くなって……」
 膝の上で組み合わせた手をきつく握り、ゆうが苦しそうに顔を歪めた。
「……同居人について、お聞きしてもいいですか?」
 一馬がそう切り出すと、何故かゆうがぴくりと震えた。
「御堂さん?」
 訝しげに一馬が声を掛けると、弾かれたように顔を上げ、「すみません」と呟く。
「同居人は、片桐信(カタギリマコト)といいます……」
「不躾ですみません、男性、ですよね? 恋人ではないんですか?」
「それは、違います」
 まだ濡れた髪を揺らして首を左右に振り、大げさに否定したゆうは、しっかりと一馬の顔を見据えて言った。

「私、彼を拾ったんです」


            *


「要、コーヒーを淹れなおしてくれないか?」
 目の前ですっかりと冷えてしまったマイマグカップを持ち上げて、一馬がようやく乾き始めた前髪を掻きあげる。
 向かいの椅子はもはや無人だ。雨に濡れたゆうをあまり引き止めるわけにもいかず、後日、日を改めてということで今日の話し合いはすぐにお開きになった。
 要が面倒くさそうにコーヒーメーカーをいじっていると、一馬はデスクに座り、黒電話の受話器を持ち上げた。
 慣れた手つきでダイヤルを回す。要は、不機嫌そうな一馬が一体何処へ電話をかけているのか、分かるような気がした。
《は〜い、こちら銀(シロガネ)で〜す、只今電話に出ることが出来ないので〜》
「雅(ミヤビ)」
 やけに高音の声が鼓膜に鳴り響いた。構うことなく一馬は低く押さえた声を向こうへと投げつける。
《なんだ、やけに不機嫌そうだな》
 受話器の向こうから今度は普通の男の声が返ってきた。
「不機嫌の原因を作っておいて、よく言う」
《あぁ、ゆうちゃんがそっちへ行ったのか。そろそろそんな頃かと思ってたよ》
 やっぱり雅さんだ。新しいコーヒーをカップに注ぎながら、要は納得する。
 銀 雅。古風と優雅とを併せ持つ名前だが、本人は三白眼の男性である。一馬とは故あって昔からの知り合いらしい。
 積極的に『夢喰い』を売り出そうとしない一馬の元に、その依頼を持ち込んでくるのは大抵雅だ。
 人に頼まれると嫌と言えない一馬は、大体その依頼を受けてしまうわけだが、そのあとはいつもこのように巨悪の根源である雅へとクレームをつける。
 雅はある意味、そんな一馬とのやり取りを楽しんでいるようにも見える。
《ゆうちゃんから聞いただろ? 彼女、俺の知り合いのモデルさんでね。俺の本業がカメラマンだから、相談を受けたってわけだ》
「本当にその話は"俺の領分"なのか?」
 暗に「そっちの領分じゃないのか」と言っているわけだ。
《俺だって自分の立場から色々調べたさ。でも、この件に『死人』は関わってない。それなら俺の出る幕はないだろ?》
 霊媒師一族として名を馳せる銀一門の次男坊である雅が言うからには、それは確かなのだろう。
 一馬が苦虫を噛み潰したような表情で、大げさに溜息をつく。
《生きている人間は、"成瀬"の領分だろう? なぁ》
「分かったよ」
 溜息と共に一馬が吐き出す。それは降参の証だった。
「詳しい話が聞きたいんだ」
《分かった。じゃあいつものとこまで出て来い。晩飯ぐらいなら奢ってやるから。要くんも連れて……》
「いいの!?」
 二人の会話に耳をそばだてていた要が、受話器の向こうから聞こえてくる雅の言葉に驚きの声をあげる。
《なんだ、要くんそこにいたのか。何が食べたい?》
 途端に雅の口調が甘くなる。一馬が時々変な趣味があるのではないかと疑うほど、雅は要を可愛がっている。
 むすっと黒電話の受話器を要に差し出し、運ばれてきた新しいコーヒーを口に運んだ。
 やがて、楽しそうな会話を終えて要は「ちん」、と黒電話の受話器を置くと。
「今日の晩御飯はお寿司だって」
 嬉しそうに笑ってみせた。


            *


―――私、彼を拾ったんです。

 頭の中で声が回る。大きなビルの前に車を止めて、昼間のことを思い出す。
『拾った? どういうことですか……?』
『そのままです。丁度私がマンションに戻ったときに、駐車場で傷だらけで倒れていたから……』
 足早に立ち去ることも出来ずに見下ろすと、見上げた男と視線が絡む。
 どこか空ろな視線を絡めたまま、男が言った。
―――拾って。
 一言だけそう告げて、真っ直ぐ見上げる捨て犬のような目。
『だから私、信を拾ったんです』

「カズマ?」
 助手席からの小さな声が一馬を現実に引きずり戻した。
「本当にただ、"拾った"だけ、なのかな」
 助手席に視線を向けると、要はフロントガラスに打ち付けては流れ落ちる雨の雫を見つめていた。
「要はどう思う」
「僕は……」
 言葉では表現しにくい―――敢えて言うなら物憂げな―――表情でフロントガラスの向こうを見つめたまま、要が重たい口をこじ開ける。
「ゆうさん、なんだか辛そうだったし、それに……そんなのなんだか、嫌だよ」
 要は敏感な子だ。感受性がとても強く、人を嫌いになれない。
 人を信じようとする子だ。
 その優しい柔らかい心に、他人の想念が「感染」する。
 だから恐らく今も、先程のゆうの物憂げな雰囲気が「感染」しているのだろう。
 一馬は黙ったまま、要の柔らかい猫っ毛を乱暴に撫でた。
 要は、今にも泣きそうな顔で少しだけ笑った。

「待たせたな」
 そのとき、後部のドアが開き、明るい茶の短髪を逆立て、サングラスをかけたデザインスーツの男が滑り込んできた。
「雅さん!!」
「相変わらず激しく胡散臭いな」
「要くん、久しぶりだな〜」
 一馬の言葉を綺麗さっぱり黙殺して、銀 雅は助手席の要に微笑む。
「銀のおじさんが嘆く姿が目に浮かぶ……」
 人のよさそうな雅の父親を思い浮かべて、一馬は大げさに溜息をついて見せた。
「"銀"は兄貴が継ぐからいいんだよ。それより車出せって」
 こんな怪しげな格好で腕利きの霊媒師だとは、誰が信じるだろう。
 本人曰く、本業はカメラマンだからカメラマンに見えればそれでいい、と豪語しているが、正直なところカメラマンにもあまり見えない。

 降りしきる雨の中、車がゆっくりと動き出した。


            *


 綺麗な水色のカサをたたんで、カサ立てに入れる。
 成瀬一馬の事務所を出て自宅に戻ったときには、もう既に日が暮れていた。
 元々雨が降っていたから、空の暗さはあまり変わったわけではないのだけれど。
 ゆうは、たった今カサ立てに入れたばかりの水色の傘を見つめた。
 事務所を出るときに、綺麗な顔立ちの少年―――ハナブサ カナメ、だったと思う―――が貸してくれたものだ。
 部屋には、玄関以外には全く電気がついていない。
 いつものことだと思いながら、のろのろと靴を脱いだ。触れたフローリングの床が、冷たい。
 淋しいのかな。とゆうは思う。
 何も変わってないじゃない、と言い聞かせる。
 昔からひとりだったじゃない。大きすぎる部屋をあてがわれて、モノばかり与えられて、ひとりだったじゃない。
 慣れていたはずだった。ひとりの部屋から出かけるのも、そこへ帰るのも。
 だけど。
 おかしいことに、「ひとりじゃない」空気を少しでも覚えると、今まで平気だった「ひとり」の空気がたまらなく寒い。
 人間の適応能力の素晴らしさを、このようなときほど恨めしく思う。
「へんなの」
 口に出した言葉が静まり返った廊下の壁に反響した。
 リビングのドアをあけると、暗い室内に家具の影がぼんやりと浮かび上がった。
 部屋の隅に寄せられた大きな白いソファーに、いつものようにその姿を見つける。無機質だらけの室内にたった一つだけ、温度を持った有機物。
 けれどそれは、人形のようにぴくりとも動かない。
 ソファーのすぐ傍まで行って、上から見下ろした。
 元から色素の薄い髪。目蓋の奥に今は隠された瞳が、淡い灰色だということをゆうは知っている。その端正な顔に見合う体は、華奢に見えて案外男らしいことも。
「……信?」
 無駄だとは分かっていても、毎回声を掛けてしまう。
 答えは返らない。

―――拾って。
 信の声が耳の奥にこびりついて離れない。
 どさりと手にもっていたバックが床に落ちた。
―――ペットでもいいから、拾って。
 信のその言葉で、二人の関係は決まってしまった。
 飼うものと、飼われるもの。
 ゆうが自分の意志を挟み込む前に、信は決して侵せない境界線を引いてしまった。
 見えない壁。
「どうして……?」
 なにが「どうして」なのか、ゆうには分からなかった。けれど、全てが理不尽に思えてしょうがなかった。
 口に出した途端、虚しさと寂しさと哀しさがいっぺんに湧き上がり、せめぎ合い、呼吸が出来なくなった。
 呼吸困難に陥った咽喉から零れ落ちたのは、かすれた吐息。
 ぱらりと、冷たく冷えた頬に何か熱いものが道を作った。あとからあとから、堰を切ったように溢れ出す。
 それを両手で拭いながら、そこへずるずるとへたり込んだ。
 真っ暗な部屋の中で感じられるものはただ、涙の熱さだけだった。


            *


「御堂ゆう、21歳、独身。職業、モデル」
 寿司屋の奥の座敷に収まると、雅は、持参してきた封筒の中から、一枚の履歴書を取り出して、テーブルの上に置いた。
 今よりも幾分か幼い顔のゆうの写真と、生年月日に住所、学歴や資格などが書き込まれている。
「で、これが彼女の仕事ね」
 続いて雅が取り出したのは、数点の大きく引き伸ばした写真だった。
「うわぁ」
 横で「松」のにぎりを堪能していた要が、思わず身を乗り出して声をあげた。
「すごいね」
 今日のゆうはほぼノーメイクだった。それでも綺麗な顔つきだと思ったのだ。が、さすがに専門のメイクと専門のカメラマンがつくと迫力が違う。
 こちらを見据える視線が、ぞくりとするほどに強い。
「彼女も、プロだからね。で、この写真を撮ったプロは、俺」
 どうだ凄いだろうと言わんばかりの雅に、要は素直に「凄い」と喜ぶ。
「で? お前のところにその話が転がり込んできた経緯は?」
 脱線気味の話を無理やりに押し戻して、一馬が訊いた。
「この二枚を見比べてみろよ」
 そう言って、雅は一馬の前に二枚の写真を並べた。
「こっちが一ヶ月前、こっちが一週間前。"目の強さ"が違うだろ?」
 衣裳は違えど、どちらもパンツルックで、真っ直ぐにカメラを見据えているショットだった。
 しかし明らかに、最近の目が「弱い」。差し出された一ヶ月前の写真は、その大きな瞳が射るように、威嚇するように見つめてくるのに対して、最近の瞳にはその凛々しさが無かった。
「ゆうちゃんは元々、このきりっとした綺麗めの顔に、強烈なインパクトを持つその視線が売りだから。最近どうも調子が悪いみたいで、悩み事か何かがあるのかと思って話を聞いたわけだ。で、話をしてる途中で、なんだか彼女が纏ってる空気が重くて。心霊的なものかと思ったわけ。それで、俺の領分であるそっちの観点から随分と調べたんだが、『死人』は関わってなかったんだ」
 一馬は口を挟まずに聞いている。
 銀一門の血を引く雅の心霊的な勘は、絶対的に信頼してもいいものだと一馬は思っている。口に出すと調子に乗るので言わないが。
「とすると、あと可能性があるのはお前の領分だろう。あんまり思いつめてるみたいだから、お前を紹介したんだよ」
「…………他の奴を当たればいいだろ」
「つれないなァ、表の"成瀬"、裏の"銀"の仲だろ」
「………………いつの話だよ」
「まぁ、それでだな……」
 温度が全く削がれた一馬の言葉に、雅が露骨に話をを変えた……ように要には思えた。
 一馬は家のことを言われるのを極端に嫌う。
 それがなぜかとは、要は知らないし、無理に聞こうとも思わない。
 前に一度雅が教えてやろうかと申し出てくれたが、悩んだ末にやめることにした。
 影でそんなふうにこそこそと聞き出すのなんてフェアじゃない。そう思った。
 一馬はきっと、必要だと思ったときには話してくれると信じているから。

「その同居人と彼女はどういう関係なんだ?」
「何も聞かなかったのか?」
 要が自分の意識から現実に戻ってきたときには、もう既に仕事の話が再開していた。
「……拾った、ってことだけで素性とかは何も……」
 困ったような一馬の言葉に、雅は何度か頷く。
「ああ、それは仕方ない。ゆうちゃんも知らないんだ」
「知らないって……一緒に住んでるんだろ?」
「マコトくんのほうが何も話してくれないみたいだから。だからそれは直接、本人に会って聞くしかない」
 雅は、テーブルの上に置いた写真を見下ろしながら、小さな溜息をついて言った。

「飼い主とペット、なんだってさ」



                           to be contenued……




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