1.

 城の入り口へ続く階段を目指す途中、廊下を折れたところで、ロキエルは小柄な人影と出会い頭にぶつかった。
 短い悲鳴のあと、分厚い本が床に落下する。
「申し訳ない。怪我は?」
 相手を確かめるよりも先に素早く詫びて、床に落ちた本を拾い上げた。年季の入ったそれは、どうやら城下の地図の変遷をまとめたもののようだった。
「ごめんなさい。あたしが前を見てなかったから……」
 高い、少女の声が詫びる。
「お城なんて初めてだから、迷っちゃって」
 黒髪の少女が、照れ隠しをするように首の後ろの方を掻いた。
「きみは、シグルドの……」
「あ、ロキエルさん!」
 シグルドと旅をともにする少女は、ロキエルを見とめて口元を押さえた。その頬が、わずかに赤らむ。
「確か、ルクス嬢だったね。本当に申し訳ない。どこか痛むところは?」
 身をかがめて少女の顔を覗き込む。ルクスははじかれたようにしゃんと背筋を伸ばした。
「だ、だいじょうぶです! あた――わたし、こう見えて丈夫なんです! 鉱山のある村で育ったから!」
「それは良かった。これは、城下の地図だね」
 少女が取り落とした分厚い本を差し出した。ルクスはそれを、重たそうに両手で受け取る。
「ありがとうございます。知り合いが城下街にいるっていうから、地図を貸してもらったんです。わたし、サージェントは初めてだから。シグルドは出歩けないし、フェスターは忙しそうで……。だから、自分で調べようかな、って。……でも」
 細い両腕で鈍器にもなりそうな本を抱え、ルクスは途方に暮れている様子だった。
 彼女に何が起こったのか、大方予想がついた。
 不謹慎だとは思いながら、こみ上げる笑いを堪え切れない。
「さては、図書館のヌシに捕まったね」
 ルクスは全身を使って深いため息をこぼす。
「……髭が胸まであるおじいさんに捕まりました」
「やっぱりね。ご愁傷様というべきか」
 サージェント城の図書館には、ヌシが棲んでいる。
 立派な爵位を持つ、貴族のご隠居なのだが、地位や名誉や富よりも、知識を愛する奇妙な男なのだ。
 家督を早々と息子に譲り、終の棲家をアスガルド随一とも言われる図書館に定めた。
 知識を求めて訪れるものを彼は拒まない。しかし、視点を合わせてはくれない。皆が皆、"自分と同じレベル"で、情報を欲しがると思っている。
「城下の南側だけ分かればいいんですけど、これ……」
 文字通り手に余る文献を見下ろして、ルクスは悲しそうに眉尻を下げる。
「サージェントができた頃から今までの地図なんだそうです。すごく嬉しそうに探してくれたから、なんだか断れなくて……」
 おそらく彼女は、持ち運べるサイズの手軽な地図を欲しがっていたに違いない。
 しかし、ヌシには通じなかったらしい。
「南町、か。だったら、私が案内しようか?」
 知らぬ場所ではない。土地勘のない少女がひとりでうろつくよりは、ましなはずだ。
「ええっ!?」
 良い提案だと思ったのだが、ルクスは文字通り飛び上がった。ふるふると首を横に振る。
「い、いいいいです!! そんな、ご迷惑かけられません! ロキエルさんだって忙しいのに!!」
「それほど分刻みのスケジュールでもないんだ。それに、ルクス嬢は姫の客人だからね、迷惑なんてとんでもない。明日でもいいのなら、案内するよ」
「でも……」
「こんなところにいた! ルクス!」
 廊下の向こう側から、高い声が飛んできた。
 悪巧みを見咎められたかのような顔をして、ルクスがぱっと声を振り返る。
「もうすぐ日が暮れるのに戻ってこないから心配したじゃない。迷子になってたんでしょ」
 足早に歩み寄ってきたのは、見事に締まった体を大胆に露出した娘だった。
 波打つ金髪が見事な、華やかな印象の娘。確か、ゲルダといっただろうか。
 くびれた腰に片手をあてて、呆れ顔をつくる。
「なにその本、どうしたの?」
「ええと、城下の地図……」
「……その分厚い本が? 地図には見えないけど」
「これには、わけが……」
「へえ」
 ゲルダは大して興味がなさそうな相づちを打った。ちらりと上目遣いに、ルクスの向こう側に立つロキエルの様子をうかがう。
「もしかして、邪魔した?」
 からかうような笑みを口元に浮かべ、ゲルダが言う。
 一瞬間を置いてから、ルクスは真っ赤になった。
「ち、ちが! ちがう! 変なこと言わないで!」
「へえ、そう」
 先程よりも随分と興味深そうに頷いて、ゲルダはにやにやと口元をゆるめる。
「本当にちがうんだってば! そんなの、ロキエルさんに迷惑でしょう! 部屋に! 戻ろう!」
 片腕で本を抱え、ルクスは空いた方の手でゲルダを強く押す。
「はいはい分かった。シグルドには言わないから」
「だから!」
 ルクスの声は今にも泣き出しそうに裏返っている。
 強引に角の向こうにゲルダを押しやって、申し訳なさそうな顔をロキエルに向けた。
 小さく会釈をするので、苦笑しながら片手を挙げて応える。
 すこしだけほっとした様子で表情をゆるめ、ルクスもまた、角の向こう側へ消えた。
 明るく素直な娘だ。接していると、自然と穏やかな心地になる。
 明日は、少し無理にでも時間を作ろう。
 黒旗騎士団がサージェントに入るとなれば、シグルドたちも長くはここには滞在できまい。ルクスが知人に会うと言うのなら、早いほうがいい。
 そのためにも、抱えている仕事を前倒しに片付けなければ。
(そういえば)
 再び階段へ向けて歩き出しながら、ロキエルはふと、昔のことを思い出した。

 姫との出会いも、こんな曲がり角だった。



2.

 足元に、紙の束が散らばった。
 廊下を曲がるときに左肩が誰かにぶつかったのだ。
「悪い」
 相手を確かめもせずに詫びて、足元の書類を拾い集める。
「申し訳ありません。こちらも不注意でした」
 高く通る女の声がそう言って、ロキエルと同じようにしゃがみこむ。
「いいんだ。俺も急いでいたから……」
 集めた紙の向きを整えたところで、ようやくロキエルは顔を上げ、間近にしゃがみこむ少女の顔を見た。
 気にするな、と続けようとした言葉が、出てこなかった。
 驚きに声を失ってしまった。
「あんた……」
「え?」
 まだ表情にあどけなさを残す、うつくしい少女だった。
 動揺するロキエルに、不思議そうに目を瞠る。
「……どこかで、お会いしました?」
 鈴を転がすような声に、ロキエルは弾かれたように立ち上がっていた。
 かき集めた紙束を、少女の腕に押しつける。
 戸惑う少女を残して、擦れ違う。
「あ、あの……」
 追いすがる声にも振り向かずに、足早にその場を歩き去った。
 階段を駆け下り、校舎を出る。
 噴水の見える広場まで出たところで、ようやく歩調を緩めた。
 左胸の内側で、跳ねる鼓動を持て余す。
 自分でも驚くほど動揺していた。
 こめかみから顎のほうへ、汗が伝う。わずかな距離を歩いただけだというのに。
「何を逃げてるんだ、俺は……」
 自分自身に、舌打ちが落ちた。
 そう、逃げ出したのだ。逃亡する理由など、どこにもなかったというのに。
 反射的に体が動いた。
 相手が貴族――しかも、サージェント候のひとり娘オーガスタだったからだ。
 領主の娘がアカデミーに通っていることは知っていた。遠目に見かけたこともある。
 実物を目の当たりにしたことがあるのに、おそらくどこか遠い世界の人物だと思っていたのだ。
 突然目の前に現れて、驚いた。あんなにも間近に近づける人間だとは思わなかった。
 顎に流れる汗を、手の甲で拭う。速まっていた動悸も治まり始めている。
 何故あれほど動揺したのか分からない。
 きっと、どうかしていたのだ。深い呼吸をひとつして、顔を上げた。
 気持ちを切り替えて、正面に見える門へと歩き出す。あれは事故だ。ただの偶然だ。
 忘れてしまおう。
 しかしロキエルは、踏み出した足をすぐに止めた。
 砦さながらの頑強な正門が、きしむ音と共に内側に開かれるのが見えたからだ。
 普段学生たちは、咽喉を反らして仰ぐほど大きなその門を通ることがない。左右に作りつけられた通用門を通るのが常だ。
 門が開かれるのは、大掛かりな式典ぐらいのはずだが――。
 開門の理由は、すぐに知れた。
 いかにも高価そうな馬車が一台、石畳に蹄の音を響かせて進んでくる。
 その威風堂々とした姿に、擦れ違う人々が恭しげに頭を垂れた。
 馬車は無人だ。
 御者台に正装をした男がひとり座っているきりだ。
 ならば人々は何に畏まるのか。
 答えは簡単だ。
 馬車に刻み込まれたサージェント家の紋章に頭を下げるのだ。
 石畳に車輪の音を響かせ、馬車が進んでくる。
 その場にいる人々の畏敬の念を受けながら、ロキエルのすぐ傍を通り過ぎた。
 巻き起こった風に、ロキエルの金の髪がわずかに揺れる。
 空っぽの馬車に、頭は下げなかった。
 くだらない。
 たかが紋章にどれほどの価値があるというのだ。
 この世界で価値があるものは名でも血でもない。財産だ。
 最後には、蓄えがものを言う。
 本来人は、働かなければ生きてゆけない。
 糧を得て、自らを食わせていかなければならない。
 なぜ身分のあるものが、その仕組みから外れていられるのか、ロキエルには理解ができない。
 おかしな話ではないか。
 受け取るものがあるなら、差し出すものがなくてはいけない。それが、この世の道理だ。だから人は働く。そして見返りを受け取る。
 生まれた場所が違うというだけで、何故優劣がつき、搾取するものとされるものに分かれなければならないのか。
 貴族? なにが貴いというのだろう。
 民のことを思うものも中にはいるだろう。当代のサージェント候や、ラッセル公はすばらしい方と聞く。
 しかし、多くは領民から何かを受け取ることに疑問すら抱かない。王都での流行や、屋敷の自慢ばかり。
 そして差し出すほうもまた、奪われることに慣れきっている。
 お互いの取引が、等価でなどあるものか。
 権利において平等であるはずがない。
 アカデミーでもそうだ。
 この敷地の中では、身分など関係ない。分け隔てなく求めるがままに学ぶことができる、と皆言うが、そんなものは建前だ。
 豪族たちは我が物顔でふんぞり返り、下級貴族たちはそれに尻尾を振る。ロキエルたち庶民は、隅の方で固まるしかない。
 教師たちも親からの物言いを恐れて、有名貴族の子供たちを叱ることもできない。
 何が平等だ。
 それでもロキエルは、アカデミーを卒業しなければならない。
 せっかく苦労をして入ったのだ。その恩恵ぐらいは、受け取ってもいいだろう。
 ここは、自分を生かすための踏み台になる。
 アカデミーを卒業するということは、その後の人生を楽にすることだった。
 経歴に箔がつく。働き口にも困らないだろう。
 自らの居場所を奪い合わなければ生きていけないのだ。庶民と呼ばれる人間は。
 のほほんと卒業して、領地に引っ込む貴族のボンボンとは違う。名だけでは、腹はふくれない。
 "住む世界が違う"。
 アカデミーに入って、間近で特権階級を観察して、ロキエルはさらにその確信を深めた。
 ここを出たら、二度とかかわり合いになどなるものか。
(俺は、搾取されて当然という顔はしない)
 階級を信仰しない。
 いいように利用されて、使い捨てられるのはごめんだ。
「あいつみたいに、なるもんか」
 ロキエルの呟きは、再び閉ざされる扉の重厚な軋みにかき消された。



【つづく】