1.

 この道を通るといつも、心が躍る。
 正門から左手に進み、校舎の裏手にある森へ向かう道だ。
 学生たちの喧騒を避けるように森に抱かれた場所に、剣術指南所がある。
 学院に併設されているこの指南所は、生徒たちに広く門戸を開いていた。もちろん、庶民の奨学生にも。
 ロキエルは、半年ほど前からこの指南所に通いはじめた。
 指南所の師範に声をかけられたのだ。
 「お前の剣は、磨けばもっと光る」。肩を壊すまでラッセル家に召抱えられていた元騎士は言った。
 教養の授業の一環として、貴族の子弟に"剣の握り方"を教えに来ていたときのことだ。
 筋がいい、と言われて戸惑った。剣の扱い方を覚えたのに、深い意味などなかったからだ。
 身を守るために必要だった。それだけのこと。上手いも下手もない。
 剣術をこれ以上学んだところで何になるだろう? どうせ、アカデミーを出たら、必要なくなる技術だ。
 それでも、自分の"持ちもの"を褒められたのは初めてだった。
 人間は現金な生きものだ。好意を向けられると、警戒心が揺らぐ。
 事実ロキエルは、生活のために続けている給仕の仕事を休んでまで、週に一度ここへ通うようになった。
 もちろん指南所は貴族の子弟どもの巣窟だ。嫌な思いをすることのほうが多い。しかし、力を得られていると実感するのは嬉しかった。

 おかしい。
 違和感に気づいたのは、緑のなかに指南所の建物が見えてきた頃だった。
 いくら校舎から離れ、周囲を木々に囲まれているとはいえ、静か過ぎる。
 普段ならば、この場所からも模擬剣を打ち合わせる音が聞こえてくるはずなのに。
 胸騒ぎを覚えて、歩調を速めた。
 指南所の飾り気のない扉を、勢いに任せて押し開く。
 開かれた視界に飛び込んできたのは、剣の一振りになぎ払われ、こちらに吹っ飛ばされてくる男の背中だった。
 受身もろくに取れぬまま、すぐ傍まで転がってきた男を見とめて、ロキエルは息を飲む。普段からこの指南所を我がもの顔で闊歩している、有名貴族の三男坊だった。
 家を継ぐ必要もなく、家の名をまるで自分の持ちもののように振りかざしているこの男を、ロキエルは心の底から軽蔑していた。
 しかし、大柄で腕っ節も強いこの男の剣技は、指南所のなかでも一、ニを争う。
 それをいとも簡単になぎ払い、呼吸がままならないほどに消耗させるとは、相手は一体何者だ?
 男はだらしなく仰向けに転がったまま、必死に全身で息をしている。
 目が離せなかった。これがいつも、この世の王のようにふんぞり返っているアレンデール家の三男坊だろうか。
「アレンデール殿」
 まだ高さを残した若い男の声が、無様に転がる男を呼んだ。
 近づく足音に顔を上げる。
「怪我はないか」
 声の主を確かめて、ロキエルは目を疑った。
(子どもじゃないか)
 まだ子ども特有の細さを残した少年が立っていた。
 亜麻色の髪に、深い緑色の瞳。驚くほど整った顔立ちをしている。
 片手に模擬剣を下げ、頬をわずかに上気させてはいるが、呼吸を乱してもいない。
 名門アレンデール家の三男は、いまだ呼吸も整えられず、「平気、です」とあえぐのが精一杯だというのに。
 まさか、こいつが? 一回りも体格の違うアレンデールを打ち負かしたというのか。
「すまない。力の加減ができなかったようだ」
 深緑の瞳に憂いを含ませて、少年が詫びた。声も背筋もぴんと伸びていて、立ち居振る舞いに隙がない。
(育ちがいいんだ)
 その予感は、おそらく間違っていないだろう。
 ふと、少年が顔を上げて、ロキエルを見た。
 まじまじと見つめられていたことに気づいたようだった。
「貴方も、指南所の生徒なのか?」
 無遠慮なほどまっすぐに見つめられ、ロキエルはたじろいだ。恐れのない、意志の強い瞳だった。
 物怖じをしない意志の強さ、彼がいるだけで、場の空気が引き締まるような、圧倒的な存在感。
 こんなやつ、今まで一体どこにいたんだ?
 少なくとも、学院内で見かけたことはない。
「わ、若様! おやめください!」
 今の今まで無様に転がっていたアレンデールが、ばね仕掛けの玩具のように上体を起こした。
「こいつ――アレスは庶民の出です! 若様とは住む世界が違います!」
 てめえ、と悪態が落ちそうになった。
 突然跳ね起きて何を言うのかと思えば。
 無防備にさらされた背中を、思いっきり蹴り飛ばしてやりたくなった。
 しかし、忘れてはいけない。この扱いが当たり前なのだ。この世の真理のように、引かれている境界線。
 慣れている。
 彼がどこの貴族の坊ちゃんかは知らないが、これで興味を無くすだろう。
 笑い出しそうになった。いつも世界は同じように動く。何も変わらずに、くだらない。
 けれど、こみ上げた笑いを、ロキエルはすぐにしまいこんだ。
 少年が、さもつまらなさそうな眼差しをアレンデールに向けたからだ。その瞳に浮かんだ不快感を、ロキエルは確かに見た。冷ややかなそれは、侮蔑の色にも似ていた。
 想定外の出来事に、思考が働かない。
 しかし、何に驚いているのか深く考える暇はなかった。
 更なる衝撃が、雷のようにロキエルを襲ったからだ。
 少年が身をかがめ、アレンデールが取り落とした模擬剣を拾い上げる。自分で刃のほうを掴み、その柄をこちらに差し出したのだった。

「よければ、相手をしてくれないか」



2.

 どうしてこんなことになったのだろう。
 剣を垂直に構え、正規軍式の礼をしながら、ぼんやりと思う。
 貴族と交じり合いたかったわけではない。気に入られようとも思わなかった。ただ、独りで鍛錬ができればそれでよかったはずだ。
 それなのに、何を好き好んで貴族の坊ちゃん――しかも、おそらくはとんでもなく上流階級の――と模擬試合などしなければならないのか。
 相手の思惑も分からない。
 アレンデールの言葉を引用するのも癪な話だが、"住む世界が違う"のだ。
 必要以上に交わらずに生きたほうが、互いに居心地が良いはずなのに。
 どうして庶民だと知ってまで、声をかけたのだろう?
 ご立派な博愛精神だとでも?
 下々のものにまで、おやさしく声をかけてやる、と?
 だとしたら、とんでもない差別だ。
 考えるほど、苛立ちがふくらむ。
(どれほどのものか、見定めてやる!)
「はじめ!」
 号令とともに、床を蹴った。
 助走の勢いを借りて、右手で下から斬り上げる。
 決して正騎士の作法として褒められる型ではないが、構ってなどいられない。
 我流の動きに、正式な剣技を学んだ者たちは、大概怯む。少年もまた、面食らうはずだ。
 そこを、一気に叩き伏せる――!
 しかし、少年は驚くほど冷静に身を引いて、剣の一閃を交わした。
「くそっ」
 荒々しい舌打ちと共に、ロキエルは振り上げた剣に左手を沿え、一気に振り下ろした。
 少年は剣を真横に構え、その一撃を受け止める。十字にぶつかりあった剣が、高い音を上げた。
 目の真上でかみ合った刃にも、少年は全く怯まなかった。刃ごしにロキエルを睨み据えてくる。
 深緑の瞳がたたえる意志の強さに、飲まれそうになった。
 こちらの気のゆるみを、少年は見逃さなかった。
 かみ合った剣を下から一気に押し上げ、よろめいたロキエルの懐に、ためらいなく飛び込んでくる。
 手首を返し、横なぎに胴を狙う切っ先は鋭い。容赦のない一閃を、ロキエルは左肩引いて避けた。慌てて引いた足がもつれる。
 体勢を立て直す間も与えず、少年は逆から剣を横に振るう。
 ロキエルは無理に避けずに、剣を逆さに立て、その一撃を受けた。受け流す勢いを利用して、後方に下がる。
 間合いを取り、剣を握り直した。
「あんた、やるな」
 気づけば笑っていた。
 剣を合わせていたのはほんの一瞬のはずなのに、立ち止まるとどっと汗が噴き出してくる。
 今なら、アレンデールがあれほど消耗したことにも納得がいく。
 こいつは手練だ。
 身のこなしに無駄がなく、太刀筋は流れるようで迷いがない。気迫も相当なものだ。
 こちらも相応の精神力をもって望まなければ、気圧されてしまう。
「そちらこそ」
 肩を上下させながら、少年も笑った。
 向こうの体力も、削ることができている。
 アレンデールとの試合では、わずかに頬を上気させていただけだったのに、今は前髪が額にはりつくほど汗をかいている。消耗させたのは自分だ。そのことが、ロキエルに満足感を与えていた。
「今度はこちらから行くぞ」
 少年は瞳を輝かせ、剣を下段に構え直した。
 ロキエルの心のなかには、苛立ちもわだかまりもなかった。
 相手が誰だろうと、かまうものか。
 このときが、今まで過ごしてきたどのときよりも充実している。
「来い!!」
「たァ――ッ!」
 少年が振り下ろした剣を、今度はロキエルが正面から受けた。


 受ける、いなす。押し返し、切り返す。
 立ち位置を変え、間合いを詰め、また開く。
 どれほど繰り返しただろう。
 一刻が過ぎたかもしれない。一瞬かもしれない。
 もはや、時の経過も分からない。
(どうでもいい)
 この時が、ずっと続けばいい――!
「それまで!」
 女の声が、世界に割り込んできた。
 正面から剣をぶつけ合ったまま、ふたりはぴたりと動きを止めた。
 何が起こったのかを把握するよりも先に、横合いから突如として"三本目の剣"が振り下ろされた。
 かみ合った剣の接合部を容赦なく上から下へ打ち、二本ともをいとも容易く叩き落す。
 じん、と手がしびれるような衝撃を受けて、ロキエルは剣を取り落とした。
 思わず後ろに引いた足が、がくりと崩れる。体を支えられずに、そのまま後ろに倒れこんだ。
「な……」
 なんだ、と口にしたつもりだった。しかし、声にならない。息を吸い込んだ瞬間にむせて、激しく咳き込んだ。
 体に力が入らない。鉛のように重い。
 どっと噴き出した汗が、視界を奪う。眩暈がした。
 咳き込む音が、少し離れたところからも聞こえる。おそらく、少年も同じ状態に違いない。
 呼吸もままならない。こんなことは初めてだ。
「限度も忘れて戦いに没頭するなど、分別のある人間のすることではありません」
 ふと、ふたりの間に影がさした。低く深い、女の声が降ってくる。
 重石を乗せたような頭をなんとか持ち上げ、声の主を仰いだ。
 かすんだ視界のなかに、背の高い女の姿が見える。
 "三本目の剣"を慣れた動作で鞘に戻し、うなだれたまま全身で息をしている少年の傍らに、膝をついた。
 華奢ではない。しっかりと鍛え上げられている体躯だ。
(この女も、できる)
 ぼんやりと、そんなことを思った。
 少年の護衛だろうか。佇まいだけで強さを知らしめるほどの剣士を従えているなんて、この男――何者なんだ。
「約束の時間になっても戻られないので、心配しました。少々羽目を外しすぎですよ、若」
 たしなめる文句とは裏腹に、女の目には深い労わりの色が浮かんでいる。涙のように汗を滴らせる少年の肩に手をかけた。
「……は、は」
 かすれた声が、少年の唇から零れ落ちた。
「若?」
「あは、ははは!」
「わ、若、どうなさったんですか?」
 突然、少年が声を上げて笑い出した。
 床に後ろ手をついて天井を仰ぎ、何かの糸が切れたかのように高らかな笑い声を上げる。
 ロキエルは呆然と、少年を見つめた。護衛らしき女も、心配そうに主の顔を覗き込む。
「貴方は強いな!」
 汗に濡れたままの顔をロキエルへ向け、少年は言った。
 無邪気に微笑むその表情は、よくよく見るとまだ随分とあどけない。先程までの覇気が嘘のようだ。
「そっち、こそ」
 言い返す自分の口元が自然にゆるんでいることに、ロキエルは遅れて気がついた。
 こんなに何かに没頭して、充実した時間を過ごしたのはいつぶりだろう。
 もしかしたら、初めてかもしれない。
 彼との勝負は、純粋に楽しかった。
「アカデミーでこれほどの剣士に出会えるとは思っていなかった。イル・ラッセルを離れたら、しばらくは剣には打ち込めないものだとばかり……」
 少年は領城がある街の名を口にした。
 白磁の都とまで呼ばれる土地の名が、ロキエルを現実に引きずり戻す。
(ああ、こいつは貴族だったっけ)
 イル・ラッセルは公爵の膝元だ。やはり、相当の家柄なのだろう。
 少年は、重そうに体を引きずりながら立ち上がった。
「また、相手をしてもらえるだろうか」
 ぼんやりと座り込んだままのロキエルに歩み寄り、手を差し出す。
 あまりに簡単に差し出されたそれに、ロキエルは戸惑った。
 身分が違う。助け起こされるなど、本来は許されない。
 しかし、少年の態度には何の含みも感じられなかった。侮蔑や哀れみも、施しの気配も。
 いまだ痺れの残る右手を持ち上げて、少年の掌に自分のそれを重ねてみた。
 握り合わせると、あたたかな、ありふれた掌だった。
(なんだ)
 わだかまりが、一瞬でほどけた。
 普通の人間じゃないか。
 今まで、一体なんだと思っていたのだろう。
 散々、「同じ人間のくせに」と思っていたはずなのに。
 誰よりも身分にこだわっていたのは、自分のほう、だったのだろうか。
「俺でよければ。こっちも楽しかった」
 嫌味も含みもなく、言うことができた。
 今まで貴族と接するときにはいつも、慇懃無礼な仮面をかぶっていたのに。
 素の自分でいられたことに、自分が一番驚いた。
「良かった」
 年相応の顔で笑って、少年はロキエルを引っ張り起こした。
「貴方の名前を教えてもらえないか?」
「俺か? 俺はロキエル。ロキエル・アレスだ。3学年にいる」
「ロキエル、か。先輩だな。僕はシグルド」
「……え?」
「シグルド・グロリア・ラッセル。今年からしばらくアカデミーに通うことになった。よろしく」
 それが、シグルドとの出会いだった。



【つづく】