1.

 まるで雲のうえを歩いているような心地だ。
 毛の長い上質な絨毯は、足元をおぼつかなくさせる。
 ルクスは、後ろ手に寝室の扉を閉ざし、体を引きずるようにして寝台に倒れこんだ。
 反発はすくない。体が沈みこんでゆく。最高級の寝台である証拠だ。
 サージェント城に身を寄せるまで、体感したことのない柔らかさだった。心地よくもあり、落ち着かなくもある。
 今は、違和感のほうが強かった。
 鳥の羽をふんだんに使った枕を腕に抱え込み、顔をうずめる。
 本来ならば、決して味わうことのなかった最高級の調度品。しかし、共に旅をする男は、これらと同じようなものに囲まれて育ったのだ。
 この城を訪れてから、シグルドと会話を交わすことが減った。
 彼が時折見せる貴族としての顔を、これまで以上に強烈に意識してしまうからだ。しかも彼は、ルクスの住む土地を治める公爵の息子。いわば、王子のような存在なのだ。
 野山を駆け、地に潜り、人目をかいくぐるようにして生活をしていた頃は、生き残ることが最優先で、それ以外に意識が向かなかった。けれど、こうして人里に滞在するようになってからは、身分の差というものをより一層感じるようになっていた。
(住んでいる世界が違う)
 勿論、生まれの違いなどでシグルドが態度を変えることはない。イル・ラッセルの領城で、貴族に囲まれて育ったとは思えぬほど、分け隔てがない。
 それでも、ルクスは萎縮してしまうのだ。
 王都にまで名が知れ渡る、この世のものとは思われぬほどの美しい姫君オーガスタ。騎士の中の騎士と、市民の羨望を集めるロキエル。眩しすぎて、まともに目も合わせられないような人々と、対等に言葉を交わすシグルドを見ていると――。
(あたしには、理由がないから)
 ヴァンやゲルダのように。
 共に旅をする、確固たる理由が見当たらない。

 ぎゅっと、枕に顔を押し付けた。
 手首が額に触れる。
 不意に、強い力で握られた感覚が蘇った。

――ルクス!


            *


「ルクス!」
 夕暮れを告げる塔の鐘をかき消すほどの声で、少年がルクスを呼んだ。
 サージェントの、大通りだ。
 行き交う人波を押し分けて、石畳を駆け寄ってくるその姿。
 まばたきもできずに、呆然と立ち尽くすルクスの手首を、彼は掴んだ。
 息を切らし、肩を上下させ、少年はルクスを見つめる。
 髪も瞳も濡れているように黒く、鼻の頭にはそばかすが残っている。背丈は、ルクスよりも少し高い。
 ありえないことに、見慣れた姿だった。
 共に村の中を駆け回って育った。
 幼馴染。
「フォルグ……?」
「よかった!」
 半信半疑のまま名を呼んだルクスは、次の瞬間、強い力で抱き締められていた。
 背骨を折られてしまいそうなほどの力と、触れ合う体温に、ルクスはようやく、目の前の存在が幻ではないことを実感した。
「生きてたんだな、ルクス」
 耳元に届く幼馴染の声は、震えていた。
「フォルグこそ……」
 おずおずと背に腕を回し、抱き返す。
 酷く混乱していた。
 自分以外、村の人間はすべて死んだと思っていた。それなのに、幼馴染が目の前に現れた。
 そして彼が、記憶の中よりもずっと逞しくなっていることにも、戸惑った。
「……どうして?」
 様々な疑問が、一言になって零れ落ちた。
「あのときオレ、山にいたんだ。もしかしたら、新しい鉱脈が見つかるかもしれないって話だったから。兄貴と一緒に……」
 ルクスは驚いて、フォルグから少し体を離した。
 漆黒の瞳を見つめ返す。
「ラルグ兄さんも、生きてるの?」
「ああ」
 頷いたフォルグは、その瞳に憂いを滲ませ、うつむいた。
「足をやられちまって、まともに立てなくなっちまったけど、さ」
 ルクスも声を失って、目を伏せた。
 フォルグの兄であるラルグは、屈強な若者だった。村の誰よりも働き者で、豪快で逞しい。ルクスの面倒もよく看てくれた。そして――。
 本当の兄に、なるはずの人だった。
 姉と一緒にいるときのラルグの笑顔を、今でもありありと思い出すことができる。
 力自慢の彼がまともに歩けないなんて、なんという拷問なのだろう。
「怪我が治るまで、親戚の世話になってたんだ。ここで仕立て屋やっててさ。本当は、サージェントなんかに来るのはイヤだったけど……」
 フォルグの顔に、苦渋の色が滲んだ。
 無邪気に遊んでいた頃には、一度も見せたことのないような表情だった。
 急に、よく知っているはずの幼馴染が、他人のように見えた。
「どうして?」
 サージェントはこれほどまでに大きな街で、ドラゴンの攻撃を受けたこともない。サージェント侯爵は善政を行っているし、強力な騎士団もある。
 傷を癒すのに、これほど恵まれた環境もあるまい。
「だってさ、サージェントって、シグルドの母親の家なんだろ?」
 唾棄するように吐き捨てるフォルグの言葉に、ルクスの心がさっと凍った。
 苦渋に歪ませた瞳に、憎しみすら滾らせて、フォルグは続ける。
「村を焼いたのは、シグルドだからな」


          *


 胸にじんわりと広がる冷たい傷みに、ルクスはきつく目を閉じた。
 柔らかい枕に強く顔を押し付ける。

――しばらくはサージェントにいるから訪ねてこいよ! 兄貴も喜ぶ!

 瞳に宿した憎しみを振り払うように、フォルグは笑った。
 その笑顔すら、ルクスの胸に突き刺さる。
(どうしよう)
 フォルグと別れて、この部屋に戻るまで、何度も何度も繰り返した。
 一体、どうしたらいいのだろう?
(帰る場所なんて、もうないと思ってたのに)
 この手は、固い土を掻いた感触を今でも覚えている。
 土に混じった石で、爪が割れた。命を失った人々の、重い体を引きずった腕の痺れすら、まだ残っている気がする。

 ひとりだ、と思ったから。
 もう誰も、自分を知る人がいなくなったと思っていたから。
 無鉄砲になれたのだ。
 獣や魔物が息を殺す深い森にも、ためらわずに踏み込むことができた。
 大罪人として恐れられる公子と共に、旅立つことも。
 勿論はじめは、目的があった。
 シグルドが何者なのかを見極める、という目的が。
 けれど、ルクスはもうシグルドを疑わない。
 彼を知ったからだ。
 決して逞しいとは言えないその肩に、悲壮なほどの決意を背負って立っていることを、知ってしまったから。
 命を預ける、と託されたラッセル家の短剣も、はじめは絆だった。
 それも今は重い。
 与えられた剣の重みに見合うものを、持ち合わせていないからだ。
 ヴァンにもゲルダにも、戦う理由がある。
 彼らにしかできない役割がある。
 自分はどうだろう?
 命を賭ける旅に同道する資格が、あるのだろうか?
 戦うこともできない、非力な小娘だというのに。
 足を引っ張らないと言えるだろうか?
 優しい彼らのことだから、きっと許してくれるだろう。
 それでも、自分の存在が妨げになったときのことを考えると、胸が締め付けられるように痛む。
(あたし、どうしたら)
 このまま共に――シグルドと共に、旅を続けてもいいのだろうか?

(どうしたらいいの?)



2.

 革の手甲が主の腕を離れ、応接室の床に落ちた。
 あらわになった素肌を目の当たりにして、オーガスタが息を飲む。
 相対した客人が、ゆっくりと口元に笑みを広げた。
 その笑みに操られたかのように、オーガスタはその場に――膝をついた。深々と頭を垂れる。
「ご無礼をお許しください! よもや、貴方様が来てくださるとは、夢にも……。わたくしの書簡は、届いておらぬものと……」
「使いの者の命、助けてやれずに申し訳ないことをした」
 落ち着いた、張りのある若い男の声が答えた。声には、深い憂いの響きがある。
 オーガスタの背後、壁際に控えたロキエルは、客人の佇まいに息を飲む。
 決して立派な身なりとはいえない。豪奢な客間には不似合いなほどだ。
 それでも、威圧されてしまう。
 彼の生まれが――血筋が伝える気品なのだろうか?
「いいえ! こうしてラッセルまで足を運んでくださっただけで、あの者も報われましょう。わたくしも使いの者も、覚悟の上でございました……」
「……こうは、考えなかったのか」
 身をかがめ、男は手甲を拾い上げた。慣れた様子で、右腕にはめ直す。
「君が書簡をしたためた相手が、君たちの敵と、通じているとは?」
 ゆったりとした足取りで、男はオーガスタの目の前に立った。
 頭を垂れたまま、オーガスタはその大きな瞳を更に瞠った。
「"国ぐるみ"ではないかとは、考えなかったのか、サージェントの美姫」
 冷え冷えとした沈黙が、人払いをして静まり返った応接室に広がる。
 ロキエルは腰に下げた騎士剣に意識を向ける。主君に徒を成すのであらば、相手が誰であろうと容赦をするつもりはなかった。
「いいえ!」
 伏せた顔を凛と上げ、オーガスタは力強く答えた。
 オーガスタを見下ろす男の、透き通るような青い瞳には、ごまかしを許さない厳しい光がある。
 武器を持っているわけでもない。
 言葉を荒げているわけでもない。
 身なりは貧相な旅装束だ。
 だというのに、何故これほどまでに気圧されるのか。
 今すぐここから逃げ出したいという衝動を必死に押さえ込み、オーガスタは挑む心地で客人を見つめ返した。
「いいえ、欠片も!」
 更に強い口調で、オーガスタは否定を繰り返した。
 旅装束の男は、見定めるかのようにゆっくりと、目を細めた。
「くっ……」
 やがて、客人の口元から小さな笑いがこぼれた。
「あはは!」
 男は声を上げて笑い出す。
 オーガスタとロキエルは、呆然とその様子を見守った。
「噂以上のお方だ! 実に凛々しい。まったく、恐れ入った!」
 ひとしきり快活に笑ったのち、男は膝を折った。
 目線を合わせるようにかがみこんだその男からは、先程までの厳(いかめ)しい気配は消えていた。瞳には、悪戯っぽい光さえ宿っているようだ。
 差し伸べられた男の手に、オーガスタは戸惑う。
 動揺するオーガスタを労わるかのように、彼は微笑を浮かべた。
「お立ちください姫。今、私と貴女はしがない旅商人と姫君。本来膝を突くべきは、私の方だ」
「お、おやめください! そのような畏れ多いこと、わたくしにはとても……!」
「ならば、対等に椅子に掛けて話しましょう」
 柔和な笑みが、オーガスタの警戒を解く。
 おずおずと、差し出された革に包まれた右手に掴まる。
「ご承知の通り、私は額づかれるのに慣れていない」
 ゆっくりと引き上げられたオーガスタは、男の手によって優雅にソファへと誘われた。
 雲の上を歩くようなおぼつかない足取りのままソファに掛けると、向かい側に男が腰を下ろす。
「さて、と」
 腿に両肘を置くような体勢で、年若い旅商人は身を乗り出した。
「さっそく、貴女の可愛い従弟殿のお話をいたしましょう、姫」
 組み合わせた指の先に顎を乗せ、瞳に再び鋭い光を宿す。
「私のことはそうですね、カイル。カイル・モーガンとでもお呼びください」
 謎の旅商人の口元に、じんわりと不敵な笑みが滲んだ。


            *


 暗く急な階段をのぼり、二階へたどりつく。
 きしむ床を踏んで、一番奥にある部屋の扉を叩いた。
 返事はない。いつものことだ。
 もう慣れはしたが、憂鬱になるのを止めることは出来ない。
 フォルグは、憂いに沈む自分の顔を、無理矢理明るい笑顔に作り変えた。
「兄貴、入るよ」
 一呼吸を置いて、一気に扉を押し開いた。

 室内は静かで、暗かった。
 押し開いたドアが立てる軋みが、良く響く。
 空気はぬるく、篭っていた。
 固く閉ざされ、カーテンの引かれた窓。大通りに面しているその向こうからは、人々の賑わいや、駆け抜けてゆく子どもたちの笑い声が聞こえてくる。
 まるで別世界の出来事であるかのように、この部屋からは遠い。
 一歩踏み込んで、ドアの傍に置かれたテーブルを眺めれば、全く手をつけられた形跡のない昼食のトレイが、フォルグが運んだそのままに放置されている。
 ちくりと、胸の辺りが痛んだ。
「ただいま!」
 憂いを振り払うように大声を上げて、大股に室内を横切る。
「もう夕方だぜ? 空気が重いんだって」
 窓際に立ち、フォルグはカーテンを一気に開け放った。
 どっと流れ込んでくる夕陽に目を細めながら、窓も押し開く。夕暮れ時の柔らかい風が吹き込んできた。
 すぐ下の道を、幼い兄弟が連れ立って駆け抜けてゆく。
 どの家も夕食の支度に忙しく、どこからともなく食欲をそそる匂いが漂ってきた。
 しかし、そのあたたかな生活の温度も、この部屋に重苦しく垂れ込めた沈黙を薄めてはくれない。
 むしろ、この部屋の陰鬱さがより一層際立つように思えた。

 息苦しさを感じて、フォルグは風に導かれるように時計塔を見上げた。
 そしてふと、先程の邂逅を思い出した。
「そうだ兄貴! 今日さ、すげえことがあったんだぜ!」
 フォルグの胸は一瞬にして、期待と喜びに満たされた。
「誰に会ったと思う?」
 彼女の生存を知れば、きっと兄も喜ぶはずだ。幼い頃から、本当の妹のように可愛がってきた少女なのだから。
 枕元に駆け寄り、横たわっている兄の顔を覗き込んだ。
 眠ってはいない。
 空ろに目を開き、天井を見上げている。
「なあ兄貴、誰に会ったと思う?」
 少しでも兄の注意を引きたくて、フォルグの声は自然と大きくなる。
 緩慢に首を傾けて、ラルグの空ろな双眸が弟をとらえた。
「ルクスだぜ! あいつ、生きてたんだ!」
 フォルグは誰よりも、兄とこの喜びを分かち合いたかった。まっすぐに兄を見詰め返して、こらえきれずに上ずった声で叫ぶ。
 ゆっくりと、しかし確実に、ラルグの瞳が見開かれる。
「ルクス、……が?」
 ラルグは、かすれた声を絞り出した。最後に兄の声を聞いたのはいつだったろう、思い出せない。嬉しくなって、フォルグは大きく頷いた。
「あいつが……生きているのか」
 しかし、フォルグの期待を裏切って、ラルグは呆然と呟き、空ろな瞳を再び天井へと向けた。
 共に、幼馴染の生存を祝うつもりだったのに。肩透かしを食らったフォルグは、それ以上兄に追いすがることが出来なかった。
「ここにも、来いって言ったんだ。兄さんにも、会いたいって……」
 ぎこちなく、そう告げるのが精一杯だった。
 兄は天井を見つめたまま、彫像のように動かない。
「も、もうすぐ夕飯だからな。持ってくるよ。少しでも食わないと、おばさんに怒られるぜ」
 早口に言って、フォルグはベッドから離れる。
 テーブルの上に放置された昼食のトレイを持って、足早に部屋を後にした。

 扉を閉めて、背を預けてもたれかかる。
 急に泣き出したくなった。
 ルクスが生きている。
 それがどれほど、フォルグに希望を与えてくれたか。
 兄にもきっと、同じように喜びを与えてくれるものだと、信じていた。

 あの悪夢の夜から、兄は変わってしまった。
 村一番の働き者で、逞しさと優しさを兼ね備えた兄を、フォルグは心の底から愛し、誇りに思っていた。
 嘘やごまかしを嫌う彼は、思ったことがすぐ顔と口に出てしまうため、トラブルも多かった。だが、その裏表のない性格は周囲の人々にも愛されていた。
 だからこそ、フォルグにはこの状況が耐えられないのだ。
 ドラゴンの襲撃を受け、崩落した岩に左足をつぶされたあの日から、兄は生ける屍となってしまった。
 一日中ぼんやりと、虚空を見つめて過ごす。
 食事もろくに咽喉を通らず、あれほど逞しかった体が、日に日に痩せ細ってゆく。
 もう二度と、あの豪快で活き活きとした笑顔を見ることは出来ないのだろうか?
「……ちくしょう」
 あまりにも自然に、声がこぼれていた。
 目を見開いたまま、いつのまにか、フォルグは泣き出していた。
「ちくしょう、シグルドの野郎……」
 ドラゴンさえ現れなければ。
 すべてを失わずに済んだのに。
 『シグルドは生きている』――。近頃、まことしやかに囁かれる噂を耳にするたび、腹の底からこみ上げるこの憎悪を、どうしたらいい。
「殺してやる……」
 ふつふつと滾る憎悪を、噛み合せた歯の間から搾り出す。
「殺して、やる……!」
 呪いをかけるように、フォルグはうめいた。
 目をきつくつぶると、大粒の雫が頬へと落ちた。



【つづく】