1.
「愛しているよ、ゲルダ」
まるで土にしっとりとしみこむような、情愛に満ちた声音だった。
こんな場面で、そんな潤った声を出せるなんて。
ゲルダは思わず、笑ってしまった。
「――うそつき!」
手が素早く、腰に伸びた。
慣れ親しんだ得物をつかみ出す。闇の中で、小刀が炎を浴びて光った。
二本の短刀を交差させ、グレンデルの喉元に押し当てる。
「……もう下手な芝居はいいよ」
すみれ色の瞳が、強い意志の炎をたたえていた。
「何を信じて、何を掴むのか。これからはあたしが決める」
掴めなかった、世話役と幼馴染の。
地獄から救い出してくれた、か弱い少女の。
自ら選べと差し出された、魔力を持った青年の――。
いくつもの手。
「あんたのこと、ひとつも……」
うっすらと、瞳に涙が滲む。決してこぼさぬように、喉元を掻っ切れるその距離で相手をきつく睨んだ。
「ひとつだって! 知らなかった!」
どこで生まれて、何のために。
思い返せば、何も知らない。本当の、名前さえ。
ただ、あやすように与えられた温度に縋りついていただけ。
その記憶も、甘く幸福ではあるけれど……。
「だからあたしは、自分の耳で聞いたものを信じる。エギルの、ブラギの言葉……。あんたの言葉も!」
あとからあとから滲み出す涙を振り払うように、ゲルダは頭を揺すった。
「あんたが、親父や皆をあんなふうにしたなら……。あたしは、フィルハイム一党の娘として、あんたを絶対許さない!」
「……たったひとりで一党か。細腕一本で、何ができる」
「ひとりでも! あたしはフィルハイムの――義賊の娘だ!」
交差させた刃を、腕を開くように振るう。
しかしその刃は、低い天井から真っ直ぐに振り下ろされた化物の肢にはじかれた。
はじき返される反動を利用して、ゲルダは後方に飛ぶ。
猫のように体を丸めて、しなやかに着地した。
間髪を入れず、グレンデルの背から二本の化物の肢が伸び、ゲルダを追尾する。
体勢を立て直す間もない。
迫る鋭い爪に、あまりに無力な短刀を掲げた。
しかし凶暴な牙は、ゲルダに届く手前ではじき返された。
「――シグルド!」
美しい顔立ちをゆがめ、グレンデルが吐き捨てた。
ゲルダは、掲げた短刀の向こうに立つ背中を見た。
右手に輝く剣を持ち、ゲルダをかばうように立つ、青年の背だ。
「信じるものは決まったな?」
肩越しにわずかに振り返り、シグルドが問う。
右手から淡い光が湧き立ち、髪や服が揺れていた。
愛用の短剣を握りなおし、ゲルダはしっかりと頷いた。
――立て。
シグルドからぶつけられた言葉を、今度は自分に言い聞かせる。
立ち上がって、前に進め。
生き残る、義務がある。
両の足でしっかりと立つゲルダを見届け、シグルドは背から凶悪な肢を生やす男に向き直った。
「それならお前はひとりじゃない」
淡い光を放つ剣の柄を、両手で握りなおす。
「僕も一緒だ」
一瞬で胸が満たされ、全身に震えが走った。
「うん――!」
体中を満たしてゆく興奮をおさえるように強く、強く頷いた。
*
「ドラゴンイーターか」
憎々しげに舌打ちを落とし、グレンデルは淡い光をまとう青年を睨みすえた。
「目的は何だ?」
シグルドは足を開いて立ち、強い意志の宿る瞳で仇敵の下僕に問いかける。
「私が欲しいのは貴様の命だ、シグルド。ドラゴンイーターを手に入れたというのなら尚更、見過ごすわけには行かない」
「カリストフの望みは何だ? ただラッセルだけを望むような男じゃないはずだ」
「その望みを知る必要はあるまい。貴様はここで――死ぬんだ」
グレンデルの背の皮膚を突き破るように、禍々しい肢が飛び出した。
人でも魔物でもない、その凶悪な姿にシグルドは息を呑んだ。
「そこの契約者が言うように、私はある程度の距離ならば越えることができる。それなりに力もあると自負もしているよ。だが、その剣だけはいただけないな。スルトを一刀に伏したというその力、まがい物ではあるまい」
シグルドは唇を噛んだ。
この剣を受けて崩れ落ちた、炎の使い手を思い出していた。
「ドラゴンイーターを手に入れたとはいえ、貴様はまだ生身の人間。この遺跡が崩れれば、生き残れまい」
グレンデルが右上を挙げ、掌を天井に向けた。
細くしなやかな腕が、肘から禍々しい爪に変わって伸び、石造りの天井に突き刺さる。
「ゲルダ」
優しい声音で、グレンデルが呼びかけた。
「私を憎むがいい。体のすみずみ、血の一滴まで、憎しみを刻み込むがいい。それは、自らの命を憎むことだ」
「……どういう、こと?」
「私とお前には、同じ血が流れている」
ゲルダが息を飲んだ、そのとき。
天井を突き破って、禍々しい化け物の爪が槍のように降り注いだ。
砕かれた天井が、一気に崩れ落ちる。
分厚く積み重ねられた石を、一気に刺し貫いた無数の爪。
地響きが足元を容赦なく揺すった。
「この遺跡を貫く、柱の根幹を破壊した。まもなく崩れ去るだろう」
降り注ぐつぶてに逃げ場を失う公子一行を楽しげに眺め、グレンデルは口元をゆるめる。
「その力が本物だというのなら、生き残ってみせるがいい。その力が、降り注ぐ石すら防げるというのなら、な」
ゆらりと、グレンデルの姿が揺らいだ。
「私を追っておいで、ゲルダ。――愛しているよ」
まるで煙のように、その姿が掻き消えた。
2.
遺跡は跡形もなく崩壊していた。
かろうじて支えあっていた部分もすべて破壊され、ただの瓦礫の山と化していた。
全景を見下ろせる高台に立ち、ゲルダは吹き付ける風に目を細める。
「ゲルダ……」
後ろからそっと、あどけない少女の声がかかる。
「あたしが皆を殺したのかもしれない」
振り返らずに、ゲルダは呟いた。
背後で、少女が息を飲む音が聞こえた。
「あたしが、レンを信じてたから。皆の気持ちを、信じられなかったから……」
「ゲルダのせいじゃないよ」
後ろからおずおずと伸びてきた手が、ゲルダの右手を優しく包んだ。
「……だったらあたしは、何を憎んだらいいの?」
手首に触れる、他人の体温。
少し熱いその温度に、景色がにじむ。
「あんなことになったのに、あたしまだレンのこと信じたがってる。……馬鹿みたい」
ルクスと結ばれていないほうの手で、ゲルダは滲み出した涙をぬぐう。
自分でも信じられない。
心のどこかでまだ、あの男を憎みきれない自分がいる。
エギルとブラギの最期を見届けて、尚――。
幼い頃に、甘い菓子のように与えられた温度を、忘れられずにいる。
「でもゲルダは、あたしたちのこと助けてくれたでしょ」
震えるゲルダの手を、ルクスは少し強めに握った。
「自分がやったなんて、信じられない……」
食料庫の入り口を崩れた岩で塞がれ、逃げ場がなくなったそのとき。
ゲルダの体からまばゆい光が爆発した。
溢れ出す光に包まれた、次の瞬間。
シグルドたちは、この丘に立っていたのだった。
涙をぬぐったその掌を見つめる。
一体、何が起こったというのだろう?
今まで一度だって、あんな力が現れたことはない。
強い魔力を感じた、とヴァンは言う。
助けてくれた、とルクスは言う。
けれど、自分の力だとはとても信じられない。
――私とお前には、同じ血が流れている。
(どういうことか分からないよ、レン――)
何の変哲もない掌を、きゅっと握った。
*
「間違いない。サージェントの尖塔だ」
高台から、遺跡とは反対の方向を見渡して、シグルドが呟いた。
「出来すぎているようにも思えますが、結果的に良い方に動きましたね」
隣に並んだフェスターが、目を細めて同じ塔を見つめる。
「サージェントって、城塞都市だろ? 独自の軍隊を持ってるって聞いたことがある」
「ヴァンは本当に物知りですね。守り人として、里を離れられなかったでしょうに」
「長は……婆様は、本当に色んなことを知ってるひとだったんだ。それに、スレイプニルも人間のことを良く観察してた。外の世界も知らなきゃいけないって、ずっと言われてたから……」
「言われたことを実践できる者は少ない。お前の長所だな、ヴァン」
渡る風に亜麻色の髪をなびかせて、シグルドが呟く。
その足元に腰掛けて、眼下に広がる平野を見下ろしていたヴァンが、噎せた。
「……シグルドって、時々恥ずかしいこと平気で言うよな」
「それが、若のいいところですよ」
小さな呟きを耳にとめて、フェスターが冗談めかして言った。
「何の話だ」
「なんでもねぇよ」
怪訝そうな顔をするシグルドの足元から、ヴァンは立ち上がった。
「それより、日暮れまでに街にたどりつかなければ。サージェントは夜間の出入りは禁止のはずです」
「そうだな」
頷いて、シグルドは後方を振り返る。
無残に崩れた遺跡を見下ろした。
たくさんの命が奪われた場所だ。
あそこまで崩落してしまったら、弔うことも許されない。
紋様の刻まれた右手を見下ろす。
この力を、思うように使えていたら――。
失わなくても済む命があっただろうか。
「若」
空の掌をじっと見つめる主君の傍らに、フェスターが寄り添った。
「前を向いて、歩く義務があると――彼女に告げたのは貴方ですよ」
フェスターの言葉に導かれるように、掌から顔を上げる。
ゲルダが立っていた。
「行くの?」
すみれ色の瞳は赤く腫れていた。
それでも、もう泣いてはいなかった。
「サージェントへ行く。母方の類縁である、サージェント候のお力を借りることになるだろう」
旅の目的と自分の素性は、すでに彼女に告げていた。
彼女は知る権利があった。
グレンデルがカリストフの配下であるというのなら、フィルハイム一党は巻き込まれ、利用され、命を奪われたのかもしれない。
ゲルダがシグルドを憎むのなら、仕方がない。
「できることなら何でもしてくれるって、言ったよね」
「今の僕にできることは、そう多くない。それでもいいのなら」
「あたしも一緒に行く」
きっぱりとゲルダが告げた。
シグルドは、驚きに目を瞠った。
「あんたについていったら、またあいつに会えるんでしょ」
「……おそらく」
一度で諦めることはないだろう。
カリストフの元へたどりつくためには、配下の妨害を退ける必要がある。
「この、訳のわかんない気持ちに、ケリをつけたい。レンが――グレンデルが一体何を考えてるのか。あたしの力が何なのか。自分の目で確かめたい」
「生きて帰れる保証はない」
「このままここに残ってひとりで安全に生きても、きっと後悔する。それに……」
難しい顔をしているシグルドに、ゲルダは笑顔を向けた。
「なんでもしてくれるって言ったよね?」
シグルドは、眉間の皺を更に増やした。
「ヴァンといいお前といい、物好きばかりだ」
嘆息と共に吐き出す。
それは、了承だった。
「日暮れまでにサージェントの門をくぐる。早く行くぞ」
フェスターとヴァンは顔を見合わせて肩をすくめ、丘を下り始める。
ルクスはゲルダの背中を軽く叩いてから、従者と少年の背を追った。
「シグルド」
相変わらず難しい顔をしたままのシグルドを、ゲルダは呼び止めた。
踏み出しかけた足を止めて、シグルドは肩越しに振り返る。
「ありがとう、『一緒だ』って言ってくれて」
――それならお前はひとりじゃない。
――僕も一緒だ。
あの一言が、どれほど心強かったか。
すべて失って、自分はひとりだと思っていたのに。
倒れそうになった背を支えてくれた。
だから、共に行こうと決めた。
「お前は、ひとりじゃない」
改めてゲルダに向き直り、シグルドはしっかりと告げた。
「託された命すべてが、お前と生きていく」
ゲルダの胸元に揺れる黄金のリングの放つ輝きに、目を細める。
「自分を信じろ。お前に託された命を、信じるんだ」
「シグルドのことも信じるよ」
ゲルダは、鎖に通して首から下げたその指輪を、そっと右手で包む。
「信じても、いいよね?」
真っ直ぐにシグルドを見つめるゲルダの瞳には、迷いがない。
凛々しい瞳だった。
「期待に応えられるかは分からない」
信じてもらえるほど、高尚な人間ではない。
「あんたはそのままでいいんだ。そのままのシグルドでいてくれたら、あたしはあんたのことを信じていられる」
「……そのまま?」
「真っ直ぐ前を見ててくれたらいいんだ。自分の信じるようにしてくれたらいい」
真摯な眼差しを、シグルドは受け止める。
「分かった」
「約束だからね」
頷くと、花がほころぶようにゲルダが笑った。
【つづく】