1.
容赦もなく、全身の重みを預けて。
男の体が倒れこんでくる。
愕然と、ゲルダはその体を受け止めた。
重い。
貧相な男の体に、これほどの重量があるなど、思ったこともなかった。
声を振り絞って、名前を呼ぶ。体を揺すってみても、指一本動かない。
触れ合った肌が、失われてゆく温度を伝える。
不意に、命を失ったはずのエギルの体が、激しく震えた。
背に刺さった化け物の肢が、無理矢理に引き抜かれたからだった。
生暖かい血しぶきが跳ね、ゲルダの頬に飛んだ。
頬に散る血潮のあたたかさに、見開かれた目から涙が溢れた。
やけにゆるやかに、化け物の肢が振り上げられる。
今度はエギルの体ごと、この身を貫くつもりだろうか?
エギルの亡骸の重みと、全身を包む虚脱感のせいで、動けない。
だつだつと落ちる雫が、容赦なく降り注ぐ。
「レン……」
エギルの体からあふれ出した血で、全身が濡れる。
涙で視界が曇る。何も見えない。
どうして、こんなことになってしまったんだろう。
やさしくかけてくれた言葉も、この身を抱いてくれた温かい腕も。
全て、嘘だったのだろうか?
高々と振り上げられた肢が、確実にこの体を狙って振り下ろされる。
凶暴な槍を、突然飛び込んできた影が、受け止めた。衝撃に、地面が揺れる。
「ゲルダ、逃げろ!」
屈強な肩に化け物の肢を抱えて、ブラギが叫んだ。
凶暴な力に全身が軋む音が聞こえるようだ。
「ブラギ……」
体が動かない。掠れた声で名を呼ぶのが精一杯だ。
ブラギは、血に濡れた肢の一本を抱えながら、首だけを動かして後方を振り返った。
苦悶に歪む顔で、まっすぐにシグルドを見つめる。
「お嬢を……助けてくれ!」
全身の力を振り絞るような、絶叫だった。
弾かれたように動いたのは――ルクスだった。
シグルドの傍を飛び出し、エギルを抱きかかえたまま動けずにいるゲルダの腕を取る。
「いやだ……」
ゲルダがその細い腕を振り払う。
必死に、エギルの亡骸を抱きしめた。
「あたしひとり、逃げるなんて……」
「だってこのままじゃ!」
強い声がゲルダを一喝した。
ぎこちなく瞬いて、ゲルダは初めて少女の顔を見た。
「このままじゃ、みんな死んじゃうよ!」
少女の胸元で揺れている石が、淡く輝いている。
その輝きを跳ね返すように、ルクスの目が濡れていた。
「みんな、貴方のこと助けようとしてるんだよ!」
ゲルダの二の腕を掴み、ルクスは必死に引っ張り起こそうとする。
意思を失ったエギルの骸が、ゲルダの腕から転がり落ちる。
少女のものとは思えぬ力に引き起こされ、ゲルダは震える足で地面に立った。
「ゲルダ、ここは、あぶない」
全身に、過ぎるほどの重みを抱えてきながら、ブラギが優しく促した。
まるであの日、制止を無視して遺跡の奥に踏み込むゲルダを、たしなめたときのように。
少女の腕が、強くゲルダを引く。
石畳に躓きそうになりながら、ゲルダはエギルとブラギの元を離れた。
高いいななきと共に、自ら光を放つ美しい天馬が石畳を蹴った。
ブラギの体を別の方向から突き刺そうとする禍々しい肢に、その肢体ごとぶつかってゆく。
化け物の体が、ぐらりと傾いた。
その隙に、シグルドとフェスターは剣を抜き、ブラギの元へ駆けつける。
しかし、ブラギは凶悪な肢の一本を抱えたまま、助力を拒んだ。
「俺は、いい。ゲルダを……助けてくれ!」
力ない呟きを最後に、ブラギの体は、シグルドたちの目の前で、血に濡れた肢に押しつぶされた。
剣を握ったまま愕然とするシグルドを新たな獲物と見定め、ブラギを押しつぶしたその肢が振り下ろされる。
舌打ちを落とし、シグルドは後方に飛びのいた。
肢は強固な甲殻に覆われている。剣を抜いたところで、ダメージは与えられないだろう。
剣を握る右手を、見る。
契約の紋章が刻み込まれた手だ。
先程、この化け物を退けた、あの光。
必要なのは、今だ。
しかし、どれほど念じても、右手がその輝きを宿す気配はない。
「くそっ……!」
「シグルド! 今は退いたほうがいい!」
どこか離れたところから、ヴァンの声が飛んでくる。
間髪いれず、暴風が巻き起こった。化け物の侵攻が、止まる。
「シグルド!」
「若様!」
闇の中から呼ぶいくつもの声に引きずられるように、シグルドは化け物に背を向けた。
(肝心なときに使えないなら……)
忌々しげに、右手を見つめる。
(何のための力だっていうんだ!)
*
少女に手を引かれ、がむしゃらに走った。
走る少女の胸元で揺れる石が、ちらちらと光る。
「……戻ってきちまったか」
先頭を走っていたヴァンが、深い溜息と共に足を止めた。
ルクスが立ち止まるのと同時に、ゲルダは膝から崩れ落ちた。
床に突いた左手が、びちゃりと音を立てる。生ぬるい感触だった。
「ここは……アジト? なんか、生臭いにおいがする……」
走り通しで、息が上がっている。ルクスはゲルダの右手を掴んだまま、壁に背を預けた。
シグルドとフェスターは無言だった。
「……明かり、つけるぞ」
少しためらう様子を見せたあと、ヴァンが壁の松明に火をつけた。
ぼっと音を立て、赤々とした炎が周囲を照らし出した。
ひっ、とルクスの咽喉が鳴った。
ゲルダは、床に突いた左手を濡らす水を見下ろした。
炎を受けて、赤く光っている。
「……ひどい」
ゲルダの手を離し、ルクスは両手で口元を覆った。
公子と従者は、痛ましげに目を伏せた。
ゲルダは視線をさまよわせた。
手を濡らす、赤い水。その傍に、人の手が見えた。しわがれている、老人の腕だ。
ゆるく開かれたその掌の傍に、光るものがあった。
かじかんだようにうまく動かない指先で、ゲルダは黄金色に光るものを拾い上げる。
指先でつまめるぐらいの、ちいさな……。
金色の指輪だった。
鎖を通してあり、首からかけられるようになっている。
ぺたりと地面に座り込んで、指輪を掌にのせる。
――ほら! これ、きっと純金だよ!
親指と人差し指の間に挟んで、得意げに差し出した。まだ、子供を脱したばかりの自分だ。
初仕事の戦利品だった。
義賊の娘に生まれながら、男どもはゲルダを仕事場へは連れて行かなかった。
"仕事"への同行が許されたのは、十五の年。ようやく一人前に数えられるようになったのだと、ゲルダは鼻高々だった。
――そのような小物、爺はたくさん見てきておる。
鼻を鳴らし、父親の右腕であった男が笑った。仕事の最中に片足を失ってからは、アジトで留守番をする事の多くなった、ゲルダの教育係だった。
――もう! じゃあ、こんなのバル爺にやるよ!
初めての仕事なのに、もっと褒めてくれたらいいのに。
半ば拗ねながら、ゲルダは男にその指輪を押し付けた。
――いつか絶対、もっと凄いもの見せてやるから! それまで持ってて!
黄金の指輪を渡されたバル爺は、訝しげに親指と人差し指に挟んで目を眇める。
――どうかの。こんなもの、酒代の足しにもならん。
コインのように宙に投げては受け止める。軽い扱い方だった。
ゲルダ自身も、今の今までそんな約束をしていたことなど忘れていた。
指輪から顔を上げ、ゲルダは地面に投げ出されているしわがれた腕を見た。
血に濡れた腕を伝って、その顔、その体を順番に見た。
老人の骸には、腰から下が無かった。
別の男の足、腕。
血にまみれた床には、まるで人形のように亡骸が折り重なっている。
――絶対! 絶対捨てるなよ!
――さあな、爺の気分次第よ。
指輪を乗せる手が、震える。
千切れた鎖が、赤い海の中に落ちた。
急に、体の奥から大波がこみ上げてきた。
両手で、強く指輪を握り締めた。拳を額に押し付ける。
咽喉に力を入れても押し戻せない嗚咽が、噛み締めた唇の間から零れ落ちた。
なくしてしまった。
何もかも。
一体、何が間違っていたというのだろう。
ひとり、残されて。
どうやって生きていけばいいのだろう?
2.
まさに、血の海だった。
屈強な男たちの体が無惨に引き裂かれ、あちこちに散らばっている。
これほど残虐な虐殺を、シグルドは見たことがなかった。
五体満足に残っている体は見当たらない。
うめき声と共に、ルクスが口元を覆う。
シグルドも凝視することが出来ず、地獄絵図から目をそむけた。
視界の端に、光るものを見たのは、そのときだった。
松明の光を受けて光る、刃を。
「やめろ!」
ぞっと背筋を這い上がる悪寒と共に、体が動いた。
力なく座り込む娘の手の腕を掴む。
「離してよォ……ッ!」
首筋にナイフを当てたまま、ゲルダがもがいた。
炎の輝きを受けて、小刀がぎらぎらと光った。
ゲルダががむしゃらに振り回すナイフを、シグルドは乱暴に、もぎ取った。
音を立てて、ナイフが遠くへ転がる。
涙で濡れた瞳に怒りをたぎらせ、ゲルダはシグルドを睨み据えた。
「何するのよ……!」
爛々と輝く憤怒の瞳に、シグルドの胸にも激情がこみ上げた。
「ふざけるな!」
自分でも聞いたことのないほどの怒声だった。
手負いの獣のようにうずくまるゲルダの肩が、震えた。
咽喉の奥から、こみ上げる熱をそのまま吐き出す。
「お前は、自分がどれだけの人々に生かされたのか、気づいていないのか!」
一度あふれ出したら、激情は止められなかった。
腹立たしくて仕方がなかった。怒りで、声が震える。
「お前を守るために、どれだけの命が失われたと思っているんだ! そのうちのたった一つだって、こんな死に方をするべきじゃなかった! お前はそれほどまでに愛された命を、自分から捨てるつもりなのか!?」
きつく噛み締められたゲルダの唇から、こらえきれない嗚咽が零れ落ちた。
大きな瞳に張った涙の膜が、炎を受けて、光った。
「だって……」
掠れた声が、細く、落ちる。
「だってあたし……もう、どうしたら……いいのか」
ふくれあがった涙が、雨のようにばたばたと落ちた。
「わかんないよ……だってみんな……みんな死んじゃっ……」
仕舞いまで言葉は続かなかった。
ふたたびこみ上げた嗚咽に、咽喉をふさがれてしまった。
肩を震わせるゲルダに、シグルドは。
紋章の刻まれた右手をそっと、差し出した。
差し出された手の真意を測りかねて、ゲルダが泣き腫らした目をシグルドに向けた。
「立て」
きっぱりと、シグルドは告げた。
ゲルダの大きな瞳が、更に見開かれた。
「お前には、立ち上がって歩く義務がある」
強い、けれども静かな声だった。
「お前を逃がした誰一人、お前の死を願う者はいないはずだ」
差し出されたシグルドの手を、ゲルダはじっと見つめる。
奇妙な紋様が刻まれた手だ。
レンは、彼らを信用するなと言っていた。
(だけど、レンは……)
ゲルダから全てを奪ったのは、レン――なのだ。
もう、何を信じていいのか、ゲルダには分からなかった。
「……エギルとブラギの最期の言葉を覚えているか」
「え……?」
「お前に、逃げ延びて欲しいと言ったはずだ」
――あんたは、一党全員の娘だ。絶対に……、生き残って……。
――ゲルダ、ここから逃げるんだ!
「彼らの命がけの遺言を、僕は守る覚悟がある。僕のことを信じられないなら、二人の言葉を信じればいい」
ゲルダは、老人が残した指輪を強く握り締めた。
彼らはどんなときも、いつだって。ずっと一緒にいて。
ゲルダの味方だった。
「立ち上がる覚悟があるなら、彼らの誇りにかけて――お前を守る」
真摯な、深い緑の瞳だ。
ゲルダは、こわばった腕をそっと、持ち上げた。
奇妙な紋様を刻み込んだ青年の手に、血に濡れた自分の手を、重ねた。
思っていたよりもずっと、あたたかい手だった。
「立てるな?」
シグルドの手が、ゲルダの震える指先をしっかりと包み込む。
幼子を諭すような、優しい声だった。
「……うん」
震える声で頷いて、ゲルダはその手を、強く握り返した。
*
「……"はざま"って、何? ヴァン、知ってる?」
木箱に腰掛けて、ルクスが呟いた。
亡骸の折り重なる酒場を避けて、一行は食糧庫に身を寄せた。
一本の松明が作り出す、わずかな光に寄り添う。
「聞いたことがない」
片膝を立てて座ったヴァンが、静かに答えた。
「スレイプニル(あいつ)、そんなこと今まで一言も……」
松明の光が描くいびつな円の境界に、ゲルダは自分の肩を抱くように座っている。
シグルドが手渡してくれたケープを肩から羽織り、体を小さく丸めている。
ふと、左の二の腕を握る、自分の右手を見つめた。
糸の切れた人形のように言うことを聞かなくなった体を、力強く引き起こした掌を思い出した。
その温度を。
「……あの魔物、どうやって現れたのでしょうか?」
倉庫の入り口の側に立ち、見張りの役目を務めながら、フェスターが呟いた。
「突然に、あの男の頭上に現れたように見えましたが……」
「僕もそのことを考えていた」
炎の灯りが届かぬ場所で、壁に背を預けて立ったままのシグルドが応える。
「天井を伝って来たにしては、音がしなかった」
本性を現したグレンデルの頭上に、一瞬にして現れたあの化物。
ドラゴンイーターの力におののいて、遠くへ逃げたのではなかったのか?
「魔物は、空間を越えることができるのか?」
「……力による」
うつむいたまま、ヴァンがシグルドの問いに応える。
「力の弱いやつは、動物と同じだ。少し雨を降らせることができたり、風を起こすことができたり……そのぐらい。だけど、力の強いやつは、距離だけじゃなく、時間も越える。あのバケモノが何かは分からないけど、強い力があれば、できないことじゃない」
「だったら……」
ルクスがこわばった顔を上げた。
そのすぐ傍で、ヴァンがゆっくりと頷く。
「この遺跡のどこだって、安全な場所はないってこと」
「―――その通り」
地の底から響くような声が、含み笑った。
ぞっと、背筋が粟立つような感覚に、ゲルダが顔を上げる。
入り口の傍に立っていたフェスターが、はじかれたように戸口から離れ、身構えた。
ヴァンはバネのように跳ね起き、シグルドは剣の柄に手をかけた。
戸口に、いつのまにか人影がある。
「グレンデル――!」
しぼり出すように、シグルドが人影の名を呼んだ。
闇の中でさえ爛々と輝く赤い瞳が、舐めるように一同を見渡した。
そっと、自分の肩に触れた手がある。
ゲルダはその感触に体を震わせた。
すぐ傍に少女の姿があった。
自分よりも小さな体で、肩に触れる指先だって震えているのに――。
ルクスはまるでゲルダをいたわるように、守るようにそこにいる。
――このままじゃ、みんな死んじゃうよ!
もしもあのとき、この子が腕を掴んでくれなかったら……。
立ち上がれていただろうか?
(あたしは今、何を信じるべきなんだろう)
どちらの手を、信じるべきなのだろう?
小さなルクスの手。そして、幼い頃から優しく包んでくれていた、レンの手。
いい加減に目を覚ませ、と。体の内側から叫ぶ自分の声も聞こえる。
甘やかな夢は終わったのだ、この地獄を見ろ――と。
(だけど、体はずっと覚えてる)
凍えそうな夜に、優しく抱きしめてくれたあのぬくもり。
簡単に忘れるなんてできない。
「ひとりにして済まなかったね、ゲルダ」
揺れるゲルダの心を見透かすように、グレンデルはそっと右手を差し伸べた。
「寂しかっただろう、おいで」
足が動いた。
差し出された手に導かれるように、立ち上がる。肩から、シグルドのケープが落ちた。
血に濡れたままの姿で、しっかりと立った。
「ゲルダ……」
すがるようにルクスに名を呼ばれた。
けれど、少女を振り返らずに、足を前に進める。
一歩ずつ、石の床を踏んで差し伸べられた手の方へ向かう。
四方から注がれる、刺さるような視線のどれにも、振り向かなかった。
真っ直ぐに、赤く光る瞳だけを見据えた。
手を伸ばせば届く距離。そこまで近づいて、見つめ合った。
「ねぇ、レン」
よく知っているようで、全くの他人に思えた。
まがまがしく輝く赤い瞳が、穏やかな記憶をかき乱す。
小さく首をかしげて、レンは言葉の続きを待った。
その仕草は、彼の癖だ。
「あたしのこと、好き?」
恥らう乙女のように、ゲルダは問いかける。
優しく目を細めて、レンは微笑んだ。
「愛しているよ、ゲルダ」
ゲルダは泣き顔で笑った。
「――うそつき」
【つづく】