1.

 耳障りな音が遠のいていく。
 ゲルダは、天井を移動してゆく化け物の影を、呆然と見送った。
 周囲をほのかに照らしていた青白い光も徐々に弱まり、再び濃密な闇があたりを包む。
「……う」
 膝に抱え上げた青年の唇から、かすかなうめき声が零れ落ちる。はたと我に返り、ゲルダはレンの顔を覗き込んだ。
「レン、大丈夫?」
 苦しげに眉根を寄せたあと、レンはゆっくりと上体を起こした。
「一体、何が起こったんだ?」
 頭が痛むのか、レンは右手で額を押さえ、ゲルダに問いかける。その声が掠れているのが、ゲルダには痛々しい。
「変な、蜘蛛みたいな化け物が降ってきて……それで」
 説明をする自分の声が、思った以上に震えていることに気づいて、ゲルダは改めて、自分が怯えていることを知る。
 見たことも、想像したこともない化け物だった。
 この遺跡には何かが住んでいるとは聞いていたけれど、下級の魔物か、ただの獣だろうとタカを括っていたのだ。
 あの、血に濡れたように赤い六つの眼。
 思い出すだけで背筋が冷たくなる。
「巨大な力が爆発するのを感じた」
 小刻みに震えるゲルダの肩を、なだめるようにレンが撫でる。
 あたたかい掌がむき出しの肩をさする。それだけで、ゲルダの動揺と怯えは驚くほど静まっていった。やっぱり、レンだけはいつだって、あたしの味方だ。
 そうだ、レンに伝えなければならない。この目で見た、あの光。
 ゲルダは、ぐっとレンに顔を近づけ、声を潜めた。
「シグルドっていう男、あいつの手の紋章が、バケモノが出てきた途端、光り出したんだ」
 言葉を切って、一呼吸を飲み込む。ごくりと咽喉が鳴った。この目で見たことを、光を知らぬレンに伝えなければならない。使命感に、鼓動が速まる。
「青い、強い光だった。バケモノは、その光を浴びた瞬間苦しみ出して、逃げ出したんだ」
 言葉にしてしまうと、あまりに簡素だ。あの強烈で、まばゆい光をどうやって言い表せばいいのか分からない。思うように伝えられずに、ゲルダは唇を噛んだ。
「やはり彼は、只者ではないようだな」
 静かながら、深い声が呟いた。その重い響きに、ゲルダは安堵した。ことの深刻さを、レンはちゃんと受け取ってくれている。つたない言葉でも、ちゃんとこの動揺を汲み取ってくれる。
(あたしのことを、ちゃんと分かってくれる)
 それがどれほど、ゲルダにとって幸福なことなのか。
 父親を亡くしてからというもの、ゲルダは叱られてばかりだった。必死に、ひとりで立って、ひとりで考えて歩こうとしているのに。
 今までゲルダを可愛がってくれていた長老衆さえ、「そちらへ行くな」、「浅慮が過ぎる」と小言ばかりだ。
 どうしたらいいのかなんて、本当は分からない。
 誰も教えてくれなかった。
 父親の仇を取りたくて、一党を守り抜きたくて、必死に戦っているのに。
 誰もゲルダの努力を認めてはくれない。優しく、褒めてはくれない。
 頑張っているね、と頭を撫でてはくれないのだ。
(絶対に、見返してやるんだから)
 バケモノの謎を解いて、この奇妙な旅の一行の化けの皮を剥いで、ひとり残らず「間違っていました」と額づかせてやる。
 誰よりも真摯なのは、他でもない自分なのだ。
 その頑張りを、レンだけはいつも認めてくれる。優しく労わってくれる。
「やっぱり、レンもおかしいと思うでしょ?」
 高揚に、頬が上気する。認められることが、嬉しかった。
 間違ってはいないのだ。何故なら、彼は誰よりも賢く、有能だから。彼と意見が同じなら、この道はきっと、間違ってはいない。
 しっかりと刻み込むように、レンは首を前に倒した。
「その不可思議な力を持っている限り、彼はそのバケモノに、襲われないということだ」
 ごくりと、ゲルダの咽喉が再び鳴った。
 レンの声には、警戒の響きが色濃い。
 おそらくあの旅の一行は危険なのだ。間違いない。


            *


 輝きが失われ、契約の紋様も互いの姿も、再び闇の中に沈みこんだ。
 背後から無遠慮に近づく気配に振り返ると、少女が立っている。
 ルクスは断りもなしに、シグルドの右手をつかまえた。
 自分の顔に近づけて、まじまじと刻まれた紋様を睨みつけた。
 炎のように掌や指先に絡まりつくその紋様は、どれだけ睨みつけても全く光らない。ルクスは唇を尖らせて、手の持ち主を見上げた。
「何したの?」
「僕は何もしていない」
 憮然と、シグルドは答えた。
 "自分の意志"では、何もしていない。勝手に発動した力だ。
 納得がいかないとでも言いたげに、ルクスは唇を尖らせた。不満げな顔をされても、シグルド自身が説明できないのだから、仕方がない。
「若の力に跳ね返されたというのなら、あの化け物は魔物でしょうか」
 シグルドの傍らに、フェスターが歩み寄る。彼女の視線もやはり、未だルクスに捕まえられたままのシグルドの右手にある。

――魔物と、呼んでいいものか。

 すぐ傍で、清浄な光が生まれた。
 導かれるように振り返った先に、優美な天馬の姿を見つける。
 翡翠色のたてがみを揺すり、細くしなやかな肢を運んで、スレイプニルはヴァンの傍らからシグルドの傍へ歩み寄った。
 化け物の鋭い肢が穿った地面の穴へ、その気高い鼻先を寄せる。
 スレイプニルが放つ淡い光に照らし出されて初めて、シグルドは、地面がおびただしく濡れていることに気がついた。

――惨いことをする。

 深い深い、憂いの響きだった。
 シグルドは、無惨に踏み荒らされた地面を見下ろして、言葉を失っていた。
 つま先のすぐ傍まで、滴りが広がっている。赤い、水面だった。

「なにこれ、血……?」
 ルクスが両手で口元を覆った。
 濡れた地面を目の当たりにした瞬間、鉄さびた臭気が押し寄せたような気がした。

――あれはおそらく、"はざま"の住人だ。

 血の海から鼻先を持ち上げて、スレイプニルが翡翠色の双眸をシグルドへ向けた。
「……はざま?」
 聞き覚えのない単語だった。訝しげに、シグルドは透き通るようなその眼差しを見つめ返す。

――人でも魔物でもない、忘れられた種族。まさか、今ここでめぐりあうことになろうとは……。

 スレイプニルの言葉は、どこか謎かけのようで、きっちりとした真実の輪郭が伝わらない。シグルドが重ねて問いかけようとしたそのとき、背後から足音が近づいてきた。

――気をつけることだ。

 深く響く忠告を残し、スレイプニルは幻のように掻き消えてしまった。
「皆さん、大丈夫ですか?」
 すぐ後ろで、落ち着いた男の声が言った。
 振り返れば、レンが闇の中にその白い顔を浮かび上がらせている。
「貴方のほうこそ、大丈夫ですか」
 向き直り、シグルドは問いかける。
 彼は、あの化け物の肢に容赦なく跳ね飛ばされたはずだ。
「ええ、なんとか。それよりも、先を急ぎませんか。ここは決して安全では……」
「待って!」
 大股でレンを追い越し、ゲルダが間に割って入った。
 闇の中でも分かるほど、すみれ色の瞳が怒気を放っている。
「いい加減、あたしは我慢できない!」
 ゲルダは、右手の指先をシグルドに突きつけた。
「あんた、一体何者なの!? あの光は何!? 国境を通らずにアスガルドに行こうなんて、一体どういうつもりなの!? まさか、あのバケモノをけしかけたのって……」
「ゲルダ……!」
 初めて苛立った様子を見せて、レンが怒り猛る少女の肩を掴んだ。
「だって、レン! こいつらに直接聞いたほうが早いでしょ!? あの光が何なのか……」
「お、お嬢ォ……!」
 情けないほどに裏返った声が、遠くから呼ばわった。
「そこに……そこにいるんですか、お嬢ォ」
 広間の入り口のほうだった。ずるずると、何かを引きずるような音が近づいてくる。
 細く、金属質に高く、よく裏返る。
 エギルの声だった。
 やがて、闇の中から二つの影が進み出た。
「あんたたち……!」
 ゲルダが息を呑んだ。
 ブラギが、その逞しい肩でエギルを支え、おぼつかない足取りで近づいてくる。ふたりとも、満身創痍、血まみれだった。
「お嬢、そいつから、離れてください」
 震える指先を持ち上げ、エギルはまっすぐに、レンを指差した。
 指の示す先を確かめるために振り返り、ゲルダは無意識のうちに首を横に振っていた。
「なに、いってんの? レンは……」
「……アジトが、バケモノに、襲われた」
 野太いブラギの声が、途切れ途切れに告げる。
「皆、殺された」
 大きな瞳を更に見開いて、ゲルダは何度か、まばたきをした。
 異国の言葉を聞いたような気分だった。
 言葉の意味が、すぐに理解できない。
「……うそ」
「本当だ! ドルンの兄貴も、爺さんたちも! 蜘蛛みたいなバケモノに、みんな殺されちまった! バラバラにちぎられて、アジトは血まみれだ! あいつは血を浴びて、真っ赤に光ってやがった……。爺さんたちが、俺たちを逃がしてくれたんだ。お嬢を、助けるようにって」
 エギルもブラギも、頭から血に濡れてずぶぬれだった。エギルの右腕はだらりと垂れ下がり、機能していないようにも見える。
「でも、レンは……」
 救いを求めるように、ゲルダはレンを振り返った。
 そのときだった。
 強い視線と、目が合ったのだ。
 硬く閉じられて、一度も開かれた事のなかった、レンの瞳と。
 後ろから伸ばされたレンの腕に、ゲルダは無抵抗のまま絡め取られた。
 何が起こっているのか分からぬうちに、首筋に冷たい感触を押し当てられる。
「お嬢!」
 エギルが、引きつった声で叫んだ。
 ゲルダは呆然と、首筋に押し当てられた冷たさの正体を確かめる。
 鋭い刃だった。
「全く、どこまでも使えない娘だな。どれほど綿密に計画を立てたところで、全て狂わせてくれる」
 ぞっとするほど低い声が、耳の傍で聞こえた。
 まばたきも出来ずに、ゲルダは棒のように立ち尽くす。
 聞いたことのない声だった。こんなに、冷たい声は、レンの声ではない。
「レン……?」
 すがるように、名を呼んだ。
「動かないでもらいましょうか、アスガルド王国、ラッセル領の公子、シグルド・グロリア・ラッセル殿」
 けれどもレンはゲルダには答えず、まっすぐにシグルドを見た。
「たとえ愚かな賊の娘といえど、見殺しには出来ないでしょう?」
 口の端を持ち上げ、レンはぞっとするような笑みを浮かべた。
 その眼差しは、闇の中でも光る、赤い双眸だった。
「貴様、何者だ」
 低く身構え、シグルドは腹の底から声を絞り出す。
 レンは優美に首を傾け、咽喉で小さく笑った。
「お初にお目にかかります、公子。我が名はグレンデル。カリストフ伯爵閣下の、忠実な僕でございます」
 六つの赤い光が、天井で輝いたのはそのときだった。
 突如として現れたあの化け物が、その巨体を宙に躍らせる。
 不敵に微笑するレンの背後に落下してきたのだった。
 地響きが、あたりを揺るがした。



2.

 幼い子どもが泣いている。
 おぼろげな明かりに照らし出された暗い部屋の、寝台の上で。
 荒くれ者たちの目をぬすむようにして、声をひそめてしゃくりあげる。
 彼らは、少女が泣くのを喜ばないからだ。
 ドアの開く音に、少女はその小さな肩をふるわせた。いたずらを見咎められたような心持になった。
「ゲルダ?」
 穏やかな声が、戸口からかけられる。
 聞き覚えのあるその声に、ゲルダはホッと胸を撫で下ろした。彼には、見えない。
「泣いているのか」
 しかし、ゲルダの安堵とは裏腹に、現れた人影は的確に真実を射抜いた。ゲルダの体がまた硬直する。
 言葉を返すことのできないゲルダのもとへ、細身の影が近づいてくる。まるで視力が失われているとは思えないほど確かな足取りで、ゲルダの隣に腰掛けた。
「どうした、また叱られたのか」
 頭目や長老衆はゲルダに厳しい。気の強いゲルダは、人前で泣くことが出来ず、このようにこっそりと涙をこぼしていることが多かった。
 やさしく頭を撫でる手に、またどっと涙が溢れ出す。ゲルダは、必死に首を横に振った。
「お父さんに、お母さんのことを聞いたの」
「……頭は、何か?」
 ゲルダは再び首を横に振った。その振動は、掌から彼にも伝わっているはずだ。
 生まれてすぐ母親と死に別れたゲルダは、母の顔も知らない。
 長老衆も、「頭の良い、美しい娘だった」と言うばかりで、何も教えてくれない。
 父親に至っては、まるでそんな人物などいなかったかのように日々ふるまっている。
 男どもに囲まれて、日々厳しく躾けられて、ゲルダは孤独だった。
 時にはあたたかく、抱いて欲しかった。
「レンは、知ってるんでしょう、お母さんのこと!」
 ゲルダは青年の胸にすがりついた。彼は、誰よりもゲルダの母のことを知っているはずだ。共に旅をしながら、この一党にたどり着いたという噂話を、エギルの口から聞いたことがある。
「お母さんは、本当に死んじゃったの? お父さんは……お母さんのこと忘れちゃったのかな……」
 胸に顔をうずめて泣きじゃくる少女の背を、レンはやさしく撫でた。
「忘れてなんかいない。頭は、奥方をとても愛していたよ」
「じゃあどうして!? どうしてあたしに何も話してくれないの?」
 レンの腕が、ゲルダの小さな体を強く抱きすくめた。
 急に閉じ込められて、ゲルダは戸惑った。どうすることもできずに、ただその胸に耳を押し当てた。脈打つ鼓動の、音。
「君の母親と私は、ずっと一緒に旅をしていた」
 ふれあった体を通じて、直接響く言葉。今までたったの一度も明かされたことのない真実に、自然と体が震えた。
「生まれた土地を追われて、ここまでたどり着いた。決して、平坦な道のりではなかった。けれど、彼女はここで幸福を手に入れた。安住の地と、君という宝だ。だから私も、君を本当の娘のように思っている。いつでも、君の味方だ」
 確かな命の脈動に耳を押し当てて、聞いた。力強い言葉だった。
 だから、ゲルダは信じた。
 あの温度を。
 この体を抱きすくめる、腕の強さを。


「カリストフの兵だと? ラッセルの人間か」
 シグルドが腰に帯びた剣を抜き、レンに切っ先を向けて構えた。ゲルダはその様子を、まるで芝居でも見るような心地で見守っていた。
 後ろから羽交い絞めにされ、首には鋭いナイフを当てられているというのに、まるで実感がない。夢でも見ているようだ。
「先程、風の天馬が言っただろう。我らは"はざま"のいきもの。人でも魔物でもない、帰る場所を持たぬ一族」
「その化け物は何だ? 貴様も契約者なのか?」
 ふっと、レンは鼻先で笑った。明らかな嘲弄だった。
「化け物とは失敬な物言いだ。これは私の一部。影のようなものだ」
 蜘蛛のような化け物が、その前肢を高く上げ、一歩前に踏み出した。
 ゲルダのすぐ傍に、左の前肢が突き刺さり、地面に穴を穿つ。
 ぱたぱたっとその肢から雫が滴り、ゲルダの眼前を雨のように落ちてゆく。
 赤い、雫だった。

――蜘蛛みたいなバケモノに、みんな殺されちまった! バラバラにちぎられて、アジトは血まみれだ!

 先程のエギルの言葉が、耳元で何度も回る。
 無意識のうちに、ゲルダは首を横に振っていた。
 答えは明らかだ。真実は目の前にこれ見よがしに転がっている。それでも。
 信じたくはなかった。
「……レン」
 かすれた声で、ゲルダは名を呼んだ。
 後ろからこの首を羽交い絞めにするこの腕は、本当にあの日と同じものなのだろうか。
 ふと、やわらかい微笑で、レンがゲルダの顔を覗き込んだ。穏やかな微笑は、幼い頃からよく知っているものだった。
「ゲルダ、私が恐ろしいか?」
 やさしい声だった。こちらを見つめる、赤い双眸だけが、普段と違う。
 ゲルダは、力なく首を横に振った。体はずっと、小刻みに震えている。恐ろしくないといえば嘘になってしまう。けれど、怯えていることを認めてしまったら、二度とレンと分かり合えないような予感がした。
 一際やさしげに、レンが微笑した。
 願いが通じた、ような気がした。思わずゲルダの口元もゆるむ。
「父親がどんな断末魔をあげて死んだのか、聞かせてあげようか?」
 笑みを作りかけた唇が、歪んで固まった。
「……え?」
 引きつった唇で、ようやく一言だけを搾り出した。
 間近に近づいた赤い双眸が、一層細められる。
「お前が一月、血眼になって探していた父親の仇は、私だよ、ゲルダ」
 視界が、曇った。
 瞬きと共に、大粒の涙が頬にこぼれる。
 レンの腕の力がゆるんだのを感じて、ゲルダはギクシャクと体を返し、青年と向き合った。
 レンの呪縛から放たれた瞬間、後ろから伸びた力強い腕がゲルダを引き戻した。
 間を置かず、二本のナイフが闇を裂いてレンの懐へ飛び込む。
 的確に左胸に向かって飛んだナイフは、微動だにしないレンの前で、化け物の肢に払い落とされた。
「レン、てめぇ、どういうつもりなんだ!」
 懐から新しいナイフを抜き出しながら、エギルが叫んだ。
 ゲルダをレンから引き離したブラギが、その巨体の影に少女を庇った。
「お嬢はお前を、ずっと信じて慕ってきたんだ! それを……お前……」
 エギルの甲高い声も震えていた。離れ離れの時間が多かったとはいえ、ゲルダが生まれる前から共にいた仲間、なのだ。
 迷いを振り払うように、エギルは水に濡れた犬のように頭を振った。
「ここは今まで、実に都合の良い隠れ家だったのだが……」
 けだるげに、レンは溜息をついた。
「隠れ家……?」
「そうだろう? 生死と隣り合わせの日々、明日をも知れぬ荒くれ者の集団。人ひとりいなくなっても、誰も深追いはしない。そう――」
 レンはまぶしげに傍にある化け物の肢を撫でた。
「たとえ、遺跡の中で行方不明になっても、な」
「お前、まさか今までも……」
 ぞっと背筋を駆け上る悪寒に、エギルは言葉をふるわせる。
 レンは、闇の中でもくっきりと浮かび上がる真紅の双眸を細めて、微笑した。

――君を本当の娘のように思っている。

 足が震えて、立っていられない。まるで地面が揺れているようだ。
 兄弟同然に育ったブラギの大きな体の隙間から、おぼろげに浮かび上がるレンの白い肌を、ゲルダは見つめる。
「うそ……」
 これは、きっと何かの間違いだ。
 何かの作戦のひとつ、なのだ。
 だって、レンは、あの日……。
 震える足が、一歩前に出た。
 ブラギが制止するために伸ばした腕を振り払い、ゲルダはレンの正面に立った。
「ずっと、味方だって……」
 力強くこの体を抱いて、誓ってくれたはずだ。
 涙がはらはらとこぼれて止まらない。
 レンは、ゆっくりと双眸を閉ざした。柔らかな笑みが口元を彩る。
 それだけで、あの禍々しい赤い瞳が閉じられるだけで、何もかもが元に戻った、そんな気がした。
 動いたのは、化け物の肢だった。
 最前の二本が高々と持ち上がる。
 ゲルダは咽喉を反らし、その切っ先を見上げた。
 赤い滴りが、鋭い肢の先から落ちる。その矛先は確実に、ゲルダに向けられていた。
 大きさにそぐわないほどの速さで、二本の肢が振り下ろされた。
 まばたきもできずに、ゲルダは振り下ろされる凶暴な鎌を見上げた。
(おしまい、なのかな)
 しずかに、そんなことを思った。
 みんなと一緒に、死んじゃうのかな……。
 ゲルダはゆっくりと、目を閉じた。
「お嬢ッ――!」
 甲高いエギルの絶叫。
 そして、地を揺らす轟音。


 鈍い痛みと共に、地面に叩きつけられる。
 左側の頬をしたたかに打ち付けて、ゲルダは思わずうめいた。
 けれど。
 生きていた。
 背中に重みを感じる。生暖かいものが、背中にしみてくる。
「お、お嬢……」
 かすれた声が、すぐ間近で聞こえた。驚いて、ゲルダは目を見開く。
「無事、ですかい……お嬢」
 エギルの貧相な体が、ゲルダの上から覆いかぶさっていた。
 その背に深々と、ゲルダに振り下ろされたはずの化け物の肢が、刺さっている。
「エギル……あんた……」
 血に濡れた男の手が、ゲルダの頭を乱暴に撫でる。
「お嬢……。心配させないでくださいよ……。目を離すと、すぐ、これだ」
 ひとりで遺跡の奥に入り込んで、迷子になったあの日。
 ブラギにおぶられてアジトに戻ってきたゲルダを涙声で迎えた、そのときと同じ、乱暴であたたかい手。
「無事なら、よかった……。早く、ここから逃げてください。福音の方が、きっと……導いてくださる」
「いやだ……!」
 ゲルダは、頭を撫でるエギルの手を取って、叫んだ。
「あんたも……一緒に……!」
 もはや焦点を結ばぬ目で、エギルはじっと、手塩にかけて育てた"娘"を見下ろした。
「お嬢、あんたは、一党全員の娘だ。義賊の娘。……絶対、生き残って……」
 ふっと、力を失ったエギルの体がゲルダに倒れこむ。
 そして二度と、動かなかった。



【つづく】