1.

 たよりない炎が、ゆらゆらと揺れている。
 光源はただひとつ。先頭に立つレンという男が持つカンテラだけだ。
 アスガルドまで通じているという遺跡を奥深くまで進むと、さすがに光も乏しくなり、崩落も激しくなっている。
 決して平坦な道ではないというのに、先を行くレンとゲルダの歩みはよどみない。この遺跡で生まれ育ったというゲルダならば分かる。しかし、彼は――盲目だというではないか。

――目が見えないのは生まれつきのことで、他の感覚が発達しているんです。ですから、日常生活に支障はありません。足手まといにはならないと思いますよ。

 フィルハイム一党の人間が、わざわざアスガルド側の出口まで案内してくれる。それだけでも恐縮していたというのに。一夜明け、前に現れた案内役と対面したシグルドたちは、更に驚愕した。
 一月ほど前、不慮の事故で命を落とした先代の代わりに、この一党を率いているという若く美しい義賊の娘ゲルダ。そして、古くからこの一党に所属しているという、盲目の青年だったからだ。
 もちろん、頭領を借り受けるのは申し訳ない、と遠慮はした。しかし、どうしてもと訴え出たのは他でもない、ゲルダ自身だったのだ。

――こんな聖都から離れた場所で、福音を持っている人に会えるなんて、きっと運命だわ。あたしたち、力になりたいの。あなたたちのためっていうより、あたしたちの心のためなのよ。

 模範解答のようなゲルダの説明を、もちろん全て鵜呑みにしたわけではない。何しろ、一党のならず者たちが残らずヴァンの前に額づいても、ゲルダだけは頑なに接触を避けていたからだ。
 遠くから向けられていた敵意に満ちた眼差しに、気づかぬほど鈍感ではない。
 一夜明けたぐらいで、「是非協力させてほしい」と言われても、簡単に信用などできないのが普通だろう。
 それでも、何故彼女たちに先導されて出発したかというと――エギルたちに華々しく送り出されたからに他ならない。
 ブリガンディアの人々はやはり、老いも若きも神官もならず者も、例外なくイドゥナ聖教を強く信奉しているらしい。ふてくされていた"お嬢"が改心したと喜んだエギルたちは、まるで大合戦への出陣を見送る勢いで、彼らをアジトから追い出したのだった。
 罠だとしたら、厄介なことになる。地の利は完璧に向こうにあるのだ。
 出口ではなく、どこか別な場所へいざなわれている可能性のほうが、高いかもしれない。
 ゲルダたちと同道するのには、もう一つ不都合なことがある。部外者がいるおかげで、今後について話し合うことができないのだ。
 横を歩くフェスターと目が合った。彼女もまた、同じ焦燥を感じているらしい。小さく首を振ることで応える。相手の出方をもう少し見極めないことには、動きが取れない。
「ひゃああっ!」
 後方で、突然甲高い悲鳴が上がった。
 驚いて振り返ると、ルクスがうなじを両手で押さえて、その場にうずくまっている。
「どうした」
「い、いま、上から水が! 降ってきた!」
 突然の出来事によっぽど驚いたのか、ルクスはうなじを必死に防御しながら、裏返った声をしぼりだす。
「水?」
 誰に促されるでもなく、皆一様に天井を仰ぐ。
 地下とはいえ、いたるところに穴が開いていて空気が通り抜けていくのだから、湿気が淀んでいるわけでもない。むしろ空気は乾いているほうだ。どう考えても、天井から雫が落ちてくるとは思えない。
「気のせいじゃないのか?」
 暗闇で視界が効かないからと、怖じる心が何かを勘違いしたのではないのか? 虫か何かがうなじをかすめたとか。
「気のせいなんかじゃないよ! 指が濡れてるもん!」
 すっくと立ち上がったルクスが、ずいっとシグルドに右掌を向けた。
 訝しむ気持ちを隠そうともせずに、シグルドは半眼になって少女の指先に触れる。
 ぬるりと。
 確かにすべる感触があった。
「なんだ?」
「ほら! あたし嘘ついてないでしょ!」
 得意げにルクスが胸をそびやかす。自慢することか、とは思ったが口には出さなかった。無意味な諍いをしている場合ではなさそうだ。
 ひんやりと、頬を撫でて過ぎる空気がつめたい。
 地下だからと思っていたが……。
「なんか、ヘンだ」
 独白のように、ヴァンがぽつりとこぼした。
 違和感を覚えているのは、シグルドだけではないようだ。ぴたりと立ち止まったヴァンが、咽喉をぐっと反らし、天井を睨んでいる。
 ヴァンに倣ってシグルドも天井を見上げる。けれども、のっぺりとした闇に阻まれて、その様子をうかがい知ることはできなかった。
「ネズミが棲みついているんです」
 カンテラの明かりをこちらに向け、レンが穏やかに言った。
「大きなやつでね、アジトの倉庫も荒らす。困ったものです」
 ゆらゆらと揺れる炎に照らし出された青年の顔は、穏やかだ。
 しかし、シグルドは違和感がぬぐえない。初めて会ったときから感じていた。
 "まるでつくりもののようだ"と。
「そうですか。よくあることなんですか?」
 未だぶるぶると震えているルクスの背中を平手で叩きながら、シグルドは柔和な笑みを浮かべるレンに向き直った。
「ええ。アジトのように人がせわしく出入りする場所にはなかなか姿を見せませんが、奥に入ってくると、ね。彼らの領域です。お気をつけて」
 軽く小首を傾げて微笑したあと、レンは再び歩き出した。立ち止まらせる気はないようだ。
 かすかな炎に自慢の金髪を輝かせて、ゲルダもまたレンの背中を追う。あれほどあからさまに親切心を押し付けていた彼女が、遺跡の奥地に入った途端、全く口を開かなくなった。それもまた、シグルドの中にわだかまる違和感を、いっそう煽り立てる。
「若、良いのですか?」
 とうとう痺れを切らしたフェスターが、隣にならんだ隙に耳元で囁いた。
「分かってる」
 ただの道案内などではないことは、分かっている。何かがおかしいということも。
 しかし、思惑が知れない。
「もう少し、様子を見よう」
 なみだ目のまま唇を尖らせるルクスを引きずって、シグルドは先行する二人の背中を追った。


            *


 迷いのない足取りで、レンは先へ進んでいく。
 転がった岩や、崩れかかった段差もものともせず、まっすぐに。
 あの一行の化けの皮を剥いでやろうと言い出したのはゲルダだ。レンはいつものように苦笑して、「ゲルダがそうしたいなら、協力するよ」と言った。
 具体的にどうするのか、ゲルダは知らない。けれど、昔からレンは一党の中の誰よりも賢かった。任せておけば―――きっと大丈夫だ。今までだってそうしてきた。いつだって、レンはゲルダの味方だった。

――帰らないと、親方に、しかられる。

 耳元に、どんくさい声が蘇ってきた。
 まだ幼かった頃、当然一党の"仕事"などには連れて行ってもらえず、ゲルダはひどく退屈していた。
 別に遠出をしなくても、身近にこんな楽しい遊び場がある。軽い気持ちで、ゲルダは父親達の留守に遺跡の奥深くへと踏み込んだのだった。
 ついてきたのは、年の近いブラギだ。野生児同然のところを、ゲルダの父親が拾った。それ以来ブラギはゲルダの一番の手下になったのだ。
 彼はひっきりなしにゲルダを止めた。
 奥はあぶない。遺跡はとてもひろい。
 初めは相手にしていなかったゲルダだったが、あまりにしつこく「帰ろう」と促すものだから、ついに堪忍袋の緒が切れた。

――ブラギの臆病者! それでもフィルハイム一党の一員なの!? もういい、あたしはひとりで行くから、勝手に帰りな!

 弱虫、のろま、思いつくだけの罵倒を浴びせて、ゲルダは駆け出した。俊敏さには自身がある。体の重いブラギなら、すぐに振り切れる。
 案の定、追いかけてくる足音は遥か後方に遠ざかり、本当にゲルダはひとりになった。
 無我夢中で走ったから、どこまで来たのか分からなくなってしまった。
 アジトの近くなら、幾度も探検したことがある。けれどここは――見知らぬ場所だ。
 追いすがる足音ももう聞こえない。
 急に、心細くなった。
 そんなに遠くは来ていない、はずだ。確信はない。無我夢中で走ったから、距離感もわからない。
 明かりも持たずにきてしまった。しばらくは明るかったのに、気づけば闇の中だ。
 踵を返した、つもりだった。けれどそれが、来た方向なのかはわからない。

――へいき、なんだから。

 口に出して、自分を鼓舞する。言い聞かせなければ、足が震えだしそうだった。
 来た方向――と思う方へ、歩き出す、一歩。
 また一歩。不規則に高鳴った鼓動が、うるさくて、邪魔だ。
 前へ進めば、いつかはどこかへたどりつくはずだ。大丈夫。
 もう一歩を踏み出そうとした瞬間、両足の間を何かが素早く通り過ぎた。
 咽喉から引きつった悲鳴がこぼれた。がむしゃらに踏み出した足が、段差に躓いて、派手に転ぶ。
 嫌な方向に足が曲がる感触と、鈍い痛み。
 べしゃりと地面についた両手を踏ん張って、立ち上がろうとした、けれど。左足が、うまく動かない。
 甲高い鳴き声を上げて、ネズミが顔の横を通り過ぎた。
 何かが、音を立てて、切れてしまった。
 両目から、どっと熱いものがあふれ出す。もう、自力では立ち上がれなかった。怪我はそれほどひどくはない。けれど、心が折れてしまっていた。突っ張った腕に、力を振り絞れない。
 このまま死ぬんだ。ぼんやりと、そんなことを思う。
 咽喉が勝手に泣き声をあげた。獣の声のようだった。自分の声とは思えない。勝手に、ぼろぼろと落ちて、止まらない。
 助けて、たすけてほしい。
 明るいところへ連れて行ってほしい。光の射す場所へ。
 ここは暗くて、どうしようもなく暗くて、寒い。


(あのとき、どうやって戻ったんだっけ)
 レンの持つカンテラの炎をぼんやりと眺めて、ゲルダは記憶の底を探る。
(そうだ。ブラギに見つけられて。散々酷いこと言ったのに、あいつ、あたしのこと背負って戻ってくれたんだっけ……)
 アジトの手前で、エギルが待っていた。ひょろっとした貧相な体で飛び上がって、涙声で取りすがってきたのだった。

――お嬢! 心配させないでくださいよ!

 怒鳴りつけられると思っていたのに、頭を乱暴に撫でる手が震えていた。
 びっくりしたのと、安心したのと。ごちゃまぜになって、また泣き出してしまったのだった。
 もちろんそのあと、父親にはこっぴどく叱られたけれど。
 どうして急に、こんなことを思い出したのだろう。
 くすぐったくて、恥ずかしくてたまらない思い出なのに。
 ああきっと、ネズミの話を聞いたからだ。
(だからあんな、嫌な思い出……)
 父のだみ声を思い出して、ゲルダは急に憂鬱になった。
 そうだ。父親の仇を取るために、こんなところに踏み込んできたんだ。くだらない感傷に浸っている場合ではない。今度は絶対に大丈夫。だって、レンが一緒だから。

 ぴちん、と。

 かすかな音を聞きとがめて、ゲルダは足を止めた。
 小さな、高い音。そう、たとえば天井から雫が滴るような――。
「やっぱり何かいる!」
 風の契約者が、鋭く叫んだ。
「上だ!」
 声にはじかれるように、ゲルダは天井を見上げた。
 黒く巨大な塊が、どっと鈍い音を伴って、目の前に落下してきた。



2.

 盛大な溜息が、連れ立っていくつもこぼされる。
 昼間でも光の射すことがない、アジトの奥。一党の人間が溜まり場として使っている酒場の奥で、初老の男たちがひとつのテーブルを囲んでいた。
「まったく、お嬢のお転婆にも困ったものだ」
 苦々しい口調で老人の一人が呟き、手にしたグラスを一気に煽る。
「勢いよく飛び出していったが、どうせまた下らんことでも考えておるのだろう。これでは、いつまで経っても先代が浮かばれんわい」
「毎日毎日、そんなふうに愚痴ってばかりいると、椅子に根付いちまうぜ」
 呆れた顔を隠しもせずに、エギルが老人たちの愚痴に割って入る。
 小柄で貧相な体を精一杯膨らませて老人たちを威嚇するも、歴戦の猛者たちは軽く鼻を鳴らして無視を決め込む。
 張り合うことを諦めて、エギルは深々と溜息を落とした。
「爺さんたち、そんなにお嬢に意地悪ばっかりするなよ。確かに空回りしてるところもあるが、お嬢だってまだ子どもなんだ。大目に見て、手助けしてやってもいいんじゃねぇのか。昔は皆、蝶よ花よとお嬢を可愛がってただろうに」
 彼らは先代と共にブリガンディア中を駆け巡ってきた一党の古参兵たちだ。体の衰えに伴って一線を退きはしたものの、未だ一党の中核を担う男たちなのである。
 幼い頃に母親と死別したゲルダは、まさに"一党の娘"として多くの男たちに育てられた。特にこの長老たちは口うるさく、一党の流儀や戦いの心得、日々の生活に至るまでを叩き込んできた。
 ゲルダは、父や長老連中に大いに叱られ、大泣きしては立ち直りながら成長してきた。その成長を誰より楽しみにしていたのは、実は長老連中ではなかったか。
 一番奥に座す、最年長の男が大袈裟に鼻を鳴らし、口元に蓄えた白くなった髭を扱く。
「何度言っても聞き入れてもらえんでは、いくら辛抱強い爺といえども辟易するわい」
 隣に座した大柄な男が腕組みをしたまま大きく頷いた。
「お嬢は気は強いが、己の間違いをしっかりと認め、正していける娘だった。ところが、頭領を亡くしてからというもの、口ではしきりに"分かっている"と言うが、その行いが正されたことはない。何を言うても無駄よ」
「そんな……爺さんたちが諦めちまったら、誰がお嬢を叱ってくれるんだよ……」
「もう充分叱っただろう。よく下調べもせずに出かけては豪族の警備兵に追い詰められ、頭領の仇を取ると意気込んでは、今まで共生してきたセドの人間たちからも反感を買う。本来なら、そろそろ自分が道から外れていることに気づいてもいい頃だがな」
 猛者たちの言葉は的確で手厳しい。確かに、頭領を失ってからの一月は、一党の者たち全てがゲルダに振り回されているようなものだった。老兵たちが辟易し、若いものたちが反発するのも、致し方ない話ではある。
 白い髭を撫でながら、最奥の男が方を落とすエギルに鋭い眼差しを向けた。
「エギルよ。忠告というものは、何もかも取り返しがつかぬときになって、初めて素直に飲み込めるもの。今はゲルダの胸には届かぬ。夢ばかりを追っている、今はな」
 老人たちの意思は岩のように硬い。エギルはそれ以上の歩み寄りを諦めた。
 貧相な方を更に落として、長老衆のテーブルに背を向ける。
「それでも、お嬢はやっぱり、俺にとって大事な"娘"なんだよ……」
「エギル」
 切実なエギルの独白を聞きとめたのか、白ひげの老人が小男を呼び止めた。
 エギルは肩越しに力なく、テーブルを振り返る。今更、何の話だろう。すっかり匙を投げたのではなかったのか?
 しかし、意志の衰えを全く感じさせぬ鋭い眼光に射抜かれ、エギルは思わず背筋を正した。
「今のゲルダは、自ら考えることを放棄しておる」
「考えを、放棄? どういうことだい、そりゃあ……」
 訝しげに目を細め、エギルは改めて老人たちに向き直った。
「ワシは、あの男が好かん」
 今まで頑なに押し黙っていた、額に大きな古傷を持つ男が、吐き捨てる。
「あの男、って。レンのことか?」
 しかし老人はそれ以上は何も言わず、大袈裟に鼻を鳴らしただけだった。
 言葉の続きを、白ひげの男が引き継ぐ。
「あの男に手綱を握られておるのを、あれは気づいておらんのだ。あの男が吹き込むことを、全て自分で考えたことだと思い込んでおる。いや、あの男が巧みに、そう誘導しておるのだろうが……」
「オ、オイ、待ってくれよ爺さんたち。レンは昔から一党にいた仲間じゃねぇか!」
「全く、お前は人が良すぎる。この稼業にはつくづく向かん男だ」
 白ひげをしごき、老人は哀れむようにエギルを眺める。
「ふらりといなくなり、唐突に戻ってくる。どこに、何のために出かけているのか、誰も、それこそゲルダも知らぬのだろう。第一あの男、この一党に出入りを始めてから―――全く年を取っておらぬではないか」
 ごくり、と自らの咽喉が鳴る音を、エギルはどこか遠くに聞いた。背筋がぞっと、冷たくなる。
 レンがいつからこの一党に出入りを始めたのか。正確には思い出せないが、ゲルダが生まれる前だったのは確かだ。何故なら、彼はゲルダの母親と共にやってきたのだから。
 ゲルダは今年で十八になる。
 レンの容貌は、その間、全く変化していないように見える。
 ふらりといなくなり、ふらりと戻ってくる。常に傍にいるわけではないから、その違和感に気づかずにいたけれど。明らかに、普通ではない。
「俺、お嬢を呼び戻しに……!」
 駆け出そうとしたエギルの足を、突風が押しとどめた。
 ごうっと音を立てて、酒場の入り口から風の塊がなだれ込んでくる。
 椅子やテーブルが押し流され、グラスや皿が落下し、耳障りな音を立てる。
「馬鹿な! ここは地下だぞ!」
 テーブルを叩くようにして、老人たちが立ち上がる。
 怒声をかき消すほど荒れ狂う風が、室内を照らす篝火を煽りたて、やがて。
 完全な闇に飲み込まれた。


            *


 質量のある黒い塊が、天井から落下してくる。
 べちゃりと、水分を含んだ布を叩きつけるような音がした。
 おぼろげなカンテラの光の中で、巨大な影がむくりと起き上がる。
 長い肢をいくつも持った、まるで蜘蛛のような……。
 赤い眼が六つ、光った。
 ぞっと、背筋を這い上がる寒気。
 これは"よくないもの"だ。
 直感が警鐘を鳴らしている。この六つの眼から、出来るだけ早く逃げなければ。
 それでも。
 足が、動かない。
(バカ! 動けよ!)
 だらしなく硬直した体を、ゲルダは何度も叱り飛ばす。それでも、両足はまるで石の床に根を張ってしまったかのように、微動だにしない。
 ひゅっと風を切る音と共に、細く長いバケモノの肢が一本、動いた。
 すぐ隣で、レンの体が宙を舞う。跳ね上がったその肢に弾き飛ばされ、後方の壁に背中から叩きつけられる。
 硝子が砕ける音と共に、周囲は闇に飲み込まれた。
「レン!」
 闇の向こうへ、ゲルダは絶叫する。もつれる足を何とか動かし、レンが弾き飛ばされたほうへ駆け―――出そうとした。
 彼女の足を引きとめたのは、光、だった。
 カンテラが失われた今、光るものはバケモノの六つの眼、それだけのはず。
 けれど確かに、ゲルダの眼は光を感じていた。
 青白い光を。
 ゲルダはゆっくりと、後方から射す光を振り返る。
 そこにはまるでアンバランスな旅の一行がいる。
 ゲルダは、息を呑んだ。
 青白い光の出所を、彼女は確かに、その目で見たのだ。


            *


 いくつもの関節を持った肢が、落下の勢いを伴って石の床を穿つ。
 ざっくりと床にめり込むその肢の鋭さに、シグルドは遅れて戦慄した。
 六つの赤い瞳が、カンテラの明かりを受けてぎらりと光った。
 肢の一本が跳ね上がったのは、次の瞬間だった。
 目にも留まらぬ速さで、カンテラを持つレンの体を弾き飛ばす。
「レン!」
 ゲルダの絶叫を最後に、光が消えた。
 化け物が、赤い瞳をゲルダたちの方から、こちらに向ける。
 巨大な肢をまばらに動かして、体ごとシグルドたちに向き直った。
 前肢の一本を高々と振り上げる。その先から、何故か雫が滴った。
「シグルド!」
 ルクスの悲鳴を背で聞いた。
 頭上に振り上げられた化け物の肢が、的確にシグルドの位置を測って振り下ろされた。
 風を切る音。右腕が、反射的に顔を庇おうと上がった。
 庇ったところでどうしようもない。下がっている余裕もない。前に転がるべきだった。
 舌打ちと共に、衝撃を覚悟した。
 そのとき。
 すぐ傍で、光が爆発した。
 きつく閉じた瞼の上からも分かるぐらい、強烈な。
 青白い光。
 耳に飛び込んできたのは、地を揺るがすような苦悶の呻きだった。人のものではない。明らかに、目の前の化け物の、だ。
 ゆっくりと、目を開く。鮮烈な光の出所は、すぐ目の前にあった。
 頭を庇おうと、反射的に持ち上げた右手。そこに刻まれた、炎のような紋章だった。
 契約の証。
 それが今、まばゆく輝いていた。
 地響きを引き連れて、化け物が後方に下がる。大きな体を極限まで縮め、その反動で高く垂直に飛び上がった。
 空中で器用に体の向きを変え、その肢で天井に貼りつく。
 がりがりと耳障りな音を立て、黒い影が遠のいていった。
 シグルドたちは呆然と、小さくなる化け物の影を追うことしか出来なかった。
 やがて、化け物の足音が聞こえなくなり、そして。
 シグルドの右手から放たれる光も弱まり、消える。
 再びのっぺりとした闇に、世界は包まれた。



【つづく】