1.

 木の枝にみっしりと生えた葉は濡れていた。
 夜通し降った雨の名残だろう。夜が明けて、まぶしい陽に照らされても、空気や地面はしっとりと湿っている。
 行く手をさえぎるように伸びた枝を掻き分けて、進む。
 どうどうと音を立てて流れ落ちる滝を背にして人里へ。
 あの炎の地獄から、。二日が過ぎていた。


            *


 やがて、スルトの姿は跡形もなく失われてしまった。
 呆然と立ち尽くし、彼女の体から湧き上がった粒子を吸い込む右手を見つめるシグルドに、冷たい雫が降ってきた。
 火照った体に注ぐ雫に導かれて、シグルドは天を仰ぐ。
 甲高い鳴き声を上げて、何かが頭上を横切った。
 美しい、青い翼だった。
「ルサルカ!」
 ヴァンが歓喜の声を上げた。
 優美な魔物は、千切れた尾を引きずりながらも、頭上を何度も旋回する。
 雨脚は、次第に強くなった。
 燃え盛っていた木々が蒸気を上げる。むっとした熱気が周囲を包み込んだ。
 炎は次第に勢いを失い、やがて無惨に焼き尽くされた木々を残し、消えた。
 旋回をやめ、ルサルカはゆっくりと、ヴァンの前へと降りてくる。
「ルサルカ!」
 喜び駆け寄るヴァンの目の前で、魔物は、まるで糸が切れたかのように――その場に崩れ落ちた。
 愕然と、ヴァンは膝を折る。力なく横たわるルサルカの頭を、抱き寄せた。
 つめたい。
 水の魔物であるルサルカの体は、いつもひんやりとつめたかった。けれど、この冷え方は、いつものそれとは明らかに違っている。"終わり"が近い。確信がある。驚きに見開かれたままのヴァンの瞳から、ひとつぶ、涙が落ちた。
『……泣くな、ヴァン。定めだ』
 目を閉じたまま、ルサルカは言った。
『お前も契約者だ、分かるだろう。魂を分け合った片割れを失えば、生きられぬ』
 ヴァンは必死に首を横に振る。目の前の現実を、なんとか否定したかった。
 ルサルカは、笑ったようだった。
『若い者たちは近くの里へ逃がした。すべてが終わったわけではない。ここから始まる命もあろう。時は流れ、命はめぐるもの。それが理。ロルヴァも私も、覚悟の上だったのだよ』
「だけど……こんな……!」
 こんな理不尽な、命のめぐらせ方があるだろうか。仕舞いまで言えず、ヴァンは言葉を詰まらせた。
『ヴァン、私たちからの最期の助言だ。己を信じ、覚悟を持って進め。今まで己を生かしてきた掟を覆すものであっても、心が指し示す道を行くがいい。私はそうしてきた。だから今も、悔いはない』
「死ぬなよルサルカ!」
 子どものように、ヴァンは涙声を張り上げる。
 いや、彼はまだ子どもなのだ。十二、三の、未だ大人に庇護されているはずの。
 幼い頃に両親を失い、契約者として外界から里を守り続けてきた。幼いままではいられぬと、自らに独り立ちを強いたヴァンにとって、ロルヴァとルサルカは、等身大の自分でいられる数少ない居場所だった。
 彼女たちが後ろから支えていてくれたから、気丈に立っていられたのに。
 ひとりになってしまったら。
 どうやって歩けばいいのかもわからない。
『お前には、頑固だが気高い"母"がついている。もう大人のふりをする必要はないのだ。今まで辛かったな、ヴァン』
『旅立つか』
 美しい翡翠色のたてがみを雨にさらし、スレイプニルがルサルカを覗き込んだ。
『あまり放っておくと、ロルヴァがうるさい。ああ見えて、寂しがりでな……』
 黄金色に輝くくちばしを僅かに動かして、そのまま。
 ルサルカは動かなくなった。
 腕に抱いていたその体が、ずしりと重みを増すのを感じ、ヴァンは震える唇を噛み締めて、深くうなだれた。
 激しく体を打ち据える、大粒の雨。
 多くの命を蹂躙した憎悪の火を、ゆっくりと鎮めていく。
 けれど、焼け跡には無数の消えない骸が転がる。

――憎しみで枯れた大地に血の雨を降らせても、何も育ちはしない。

 痛みすら感じるほど強く降りしきる雨の中、シグルドは唐突に、ロルヴァの言葉を思い出した。
 まだ僅かに輝く、右掌の紋章を見つめ、立ち尽くす。
「シグルド……大丈夫?」
 か細い呼びかけと共に、背後に歩み寄る気配があった。
 スルトを打ち倒してから、微動だにしないシグルドを、少女が案じたのだろう。
 振り向くことも出来なかった。見つめ返して、一言「平気だ」と告げれば、済むはずなのに。
 全身を支配しているのは、極度の疲労と――虚脱感だった。
「シグルド?」
 横から回り込んできたルクスが、気遣わしげに見上げてくる。
「……殺すつもりは、なかった」
「え……?」
 激しい雨音に阻まれて、呟きはルクスの耳には届かなかった。
「なんでもない」
 あどけなさを残す大きな瞳に見上げられて、シグルドはただ、右手を強く握りこんだ。
 唯一の解決策だと信じて、この力を求めた。
 ドラゴンを打ち倒すことが出来るなら、すべての問題も片が付くと思っていた。
 けれどこの力は、容易く心と体を飲み込んでしまう。
 使役するはずの力に、自分が支配されてしまいそうだ。

――復讐は生み出すんだよ、新たな絶望をな!!

 カリストフを憎む心が無いと言えば、嘘になる。
 あの男を再び目の前にしたとき、果たして平静でいられるのだろうか。
 憎しみで、我を忘れたりはしないだろうか……。

――憎悪の連鎖は、滅びにつながる。

 刻み込むように静かに告げた、ロルヴァの言葉が、耳元にまとわりついて、消えない。


            *


 里に残された遺体の弔いを終えて、一行は里を後にした。
 火事を聞きつけて帰ってきた里の若者たちに、追い出されたのだった。
 余所者を里に入れたから、こんなことになったのだ。
 ひっそりと暮らしていたのに、一体我々が何をしたというのか?
 何を説明しても、受け容れられそうになかった。
 スルトをこの里近くまで近づけた責任も、ないわけではない。
 抗わずに、踵を返した。
「……何も言わずに出てきて、良かったのかな」
 里を出てから、ルクスは何度も問いかけてくる。
 事情を一切説明しなかったこともそうだろうが、ヴァンに一言の別れも告げずに出てきたことが、引っかかっているのだ。
「彼らに何を言っても、今は信じてもらえなかっただろう」
 ルクスの本心に気づきながら、シグルドは敢えて迂回する。
 真新しいロルヴァとルサルカの墓標の前に立ち尽くし、振り返りもしなかったヴァンの背中を、思い出していた。
 かける言葉など、何一つ思いつかなかった。
「そういうことじゃ、なくてさ!」
 業を煮やして、ルクスが小走りに前に回りこんでくる。
「ルクスはヴァンくんに、何か伝えたかったのですか?」
 フェスターの問いかけに、ルクスはしばらく考え込んだあと、うつむく。
「何か、っていうか。さよならぐらい……」
 しょんぼりとうつむくルクスの肩を、フェスターの右手が労わるように撫でた。
「気持ちは分かります。でも、あれ以上留まってはいけなかった。彼らには、彼らの世界や価値観があります。外部の人間が長く居座るのは、いいことではない」
「うん……」
 ようやく、ルクスはゆっくりと首を前に倒した。

 高い馬の嘶きが空気を揺るがしたのは、そのときだった。
 一同は、弾かれたように空を見上げる。その先には――。
 翡翠色の尾とたてがみ。天馬スレイプニルの姿があった。
 優美な馬の背には、少年がいる。
 左右色違いの双眸で、一行を――シグルドを見据えている。
 上空で、ヴァンは腰に帯びた剣をすらりと抜いた。
 一度目を閉じ、額に剣の平らな面を当て、何かを唱えている様子だった。
 そして双眸を開き。
 スレイプニルと共に急降下した。
 天馬が着地するのにあわせて、その背を蹴って高く飛び上がる。
「はァ――ッ!」
 気迫と共に、剣を振り上げ、シグルドに飛び掛った。



2.

「はァ――ッ!」
 白銀の刃を振りかざし、殺気の塊が降ってきた。
 反射が命を救った。殺意の落下地点から、シグルドは慌てて身を引いていた。
 ヴァンは、猫のようにしなやかに着地すると、今度は真正面からシグルドの懐に飛び込もうとする。
 横に払われる剣を、寸ででかわす。右手が腰をさまようが、求めるものは掴み取れない。シグルドは思わず舌打ちをこぼした。自前の剣は、スルトに折られてしまっていた。
 ヴァンが振り下ろした剣が、翡翠色の衝撃を放つ。
 顔の横を吹きぬけた風が、頬に一本の傷を残した。生ぬるい液体が、頬から顎に落ちる。愕然と、シグルドは立ち尽くす。
「どうした!」
 怒気でぎらついた目でシグルドを見据え、ヴァンが吠えた。
「いつまで逃げ回るつもりだ!」
「……戦う理由がない」
 戸惑いながら、それだけを返した。頬を伝う生ぬるい流れを、ぬぐうことすらはばかられた。
 ヴァンは間合いを計りながら、剣を構えなおす。
「戦う理由がないなら、黙ってここで俺に斬られるのか? こんなところで無様に死ぬために、お前は旅を続けてきたのか!?」
 ヴァンの意志を現すように、刃が翡翠色に輝いた。刃を中心に渦巻く、風が見える。魔力の発露、ふたつ緒――契約者の能力だ。
「"武器"なら、持ってるはずだろ」
 探るようなヴァンの眼差しで、シグルドは彼の真意に気づいた。
 途端に、絶望が蘇ってくる。無意識のうちに、右手を強く握りこんでいた。
「やめろ! この力はお前を滅ぼす!」
 理性の制御を離れた、言葉に表せぬあの高揚。力なく倒れた、スルトの体。
 掌に吸い込まれた、魔力という名の生命。
 この力は、諸刃の刃だ。
「そうやってお前は!」
 ヴァンの小さな体が、弾丸のように飛び込んできた。
 後方に下がった足が、張り出した木の根を踏む。そのまま、背中から地面に倒れた。
 起き上がろうとしたシグルドの腹に、ヴァンの膝が乗り上げる。こみ上げた圧迫感に、一瞬、意識が遠のいた。
 咽喉元に、ひやりとした感触が触れる。
 翡翠色に輝く、刃だった。
「ずっと、逃げてくのかよ……」
 降ってきた声が、震えていた。
 驚いて、シグルドは自分に馬乗りになる少年を見上げる。
「どんな覚悟もできてるって、お前、婆様に言ったじゃないか……」
 風に裂かれ血を流す頬に、雫が落ちてきた。
 大きな色違いの瞳が、溢れんばかりの涙をたたえて、光っていた。
「"殺すつもりはなかった"って言ったって、あの女を殺したのはお前だろ。もう、それはお前の力だろ。だったら、力のせいにして逃げるなよ!」
 シグルドは息を呑んだ。大粒の雫がまたひとつ、落ちてきた。
 豪雨にかき消されて、誰の耳にも届いていなかったはずの独白は――少年には聞こえていたのか。
「自分の力を怖がって……これから先どうするんだよ。あの女と、同じような奴らと戦うんじゃないのか? そのためにドラゴンイーターを探してたんじゃないのか!? あんたが全部あきらめちまったら、あんたを信じた婆様の気持ちはどうなるんだよ! 里が焼かれた意味がなくなっちまうじゃないか!」
「自分の、力……か」
 唇から自然と、呟きがこぼれた。
 霧が晴れた心地だった。
 目に見えぬ、形も知れぬ"大いなる力"。制御の効かぬ、未知のもの。
 抗えぬ、神の"みわざ"と畏れ、おののいた。
 この体のなかに、強大な別の意志を受け容れたつもりでいた。まるで乗っ取られたような違和感もあった。
 けれど。
 自分の力、か。
「覚悟して手に入れたんだろ。だったら、お前のものだ」
 見下ろすヴァンの瞳は、静かだった。
「そうだな、そのとおりだ。すべて、僕の手がやったことだ」
 ようやく、シグルドはまっすぐにヴァンの目を見つめ返すことができた。
 スルトを手にかけてからずっと、うしろめたかったのだ。
 本意ではなかったとしても、他者の命を奪ったことも。
 イドゥナの里が蹂躙される契機をつくってしまったことも。
 他人の視線を避け、うつむいていた。
 うしろめたさから、逃げ出したかった。
 ヴァンは、そんなシグルドの怯えに気づいたのだ。だから追ってきた。
 どんな苦痛も耐え抜いてみせる、覚悟はできている。たくさんの人間に、誓い続けてきた言葉だ。
 それなのに、今の自分はどうだ。罪悪感から、理由をつくって逃れようとしている。
 見えぬ力が勝手にやったことだと、言い逃れて。誰よりも、自分をごまかそうとしている。
 自分のしたことだ。
 認めることは、己の罪を思い知ること。けれど、逃げずに受け容れること。
 だから、見つめ返すこともできる。

 首筋に当てられた刃が、そっとはずされる。
 剣をおさめ、ヴァンは立ち上がった。
 打ち付けた背の痛みに顔をしかめながら、シグルドも起き上げる。
 まっすぐにこちらを射抜く眼差しに気づく。僅かに充血した瞳になみなみと決意をたたえ、ヴァンが立っていた。
「俺も連れていってくれ」
 ヴァンが発した言葉は、予想だにしないものだった。
 思わず目を瞠る。ルクスもフェスターも、言葉を失っているようだった。
 しかし、ヴァンの真剣な眼差しが、冗談などではないことを物語っている。
「俺はずっと、アスガルド人が全部悪くて、イドゥナは正しいと思って生きてきた。だけど里は、同胞に滅ぼされちまった。全部分からなくなったんだ。何が正しくて、何が間違ってるのか。何を信じたらいいのか。だから、里を出る。外の世界が知りたいんだ」
「里に残らなくてもいいのか」
 ヴァンの生まれ育った里は、炎に蹂躙され、壊滅寸前の状態だ。近隣に逃れた若者たちが戻ってくるとしても、数少ない契約者として里を守護していたヴァンが、旅立っていいものだろうか。
 ヴァンの視線が、シグルドの頭上を通り過ぎ、遠くを眺めた。
 今はもう、流れ落ちる飛沫の音しか聞こえないほど、離れた場所にある滝を。
「ルサルカが言ったんだ。たとえ、今まで信じてきたものを捨てることになっても、自分の心が望むように進め、って」
 迷いを振り払うように、ヴァンは眼差しをシグルドに戻した。
「俺を罵るやつだっていたよ。逃げ出すんだって、指さすやつもいた。だけど俺は、このまま"山火事に遭っただけ"みたいな顔して、今までどおり暮らしてなんかいけない。この世界がどうなってるのか……あんたについて行ったら分かる気がする」
 ふたりの間を、涼しげな風が抜けた。
 眼差しを交わしたまま、沈黙が流れる。和やかに鳴き交わした小鳥が、枝葉を揺らして飛び立っていった。
 ヴァンは、まっすぐに覚悟をぶつけてきた。体ごと、想いをすべて。
 里の若者たちに後ろ指をさされながら、ここまで来たのだ。生半可な覚悟ではない。
 痛々しいほどにがむしゃらで、向こう見ずな決断だ。シグルドは目を伏せて、こみ上げてきた笑みを、噛み殺す。
 同じではないか。自分と。

 遠巻きに様子を眺めていたルクスが、隣に立つフェスターを見上げる。何も答えないシグルドに、違和感を覚えている様子だった。
 フェスターは苦笑して肩をすくめる。彼女には、主君の意志など、既に知れているのだ。

 顔を上げ、まだあどけなさすら残す少年の顔を見つめ返す。ヴァンは、覚悟と緊張とを全身にみなぎらせて、今もそこに立っていた。
「分かった。……共に行こう」
 シグルドは静かに、少年に告げた。



【つづく】