1.

 美しい切断面ではなかった。
 足元に転がり落ちた水の魔物の尾は、まるで引きちぎられたかのような、無惨な断面をさらしている。
 腕に抱いたロルヴァのもの言わぬ体から、ヴァンはゆっくりと顔を上げた。
 ぼんやりと、焦点を結ばぬ瞳をさまよわせて、無造作に投げ捨てられたものを見る。
 じんわりと土に広がる赤黒い液体、炎の獰猛な輝きを跳ね返す、宝石のような青い鱗。
 何が落ちているのか、すぐには分からなかった。
 幾度か、まばたきをする。
 そして唐突に、理解した。
「ルサ……ルカ?」
 唇から、名が零れ落ちた。
 物心ついた頃から、常に傍にいてくれた美しい魔物。
 里長をつとめるロルヴァの、魂を分け合った同胞。少々生真面目すぎるきらいはあったが、気高く優しかった。
 獣のような雄たけびが迸った。体が、理性の呪縛を離れ、勝手に動いた。
 膝に乗せていたロルヴァの体が転がり落ちるのも構わず、ヴァンは飛び上がる。
 咆哮しながら、宙に浮かぶスルトに飛びかかった。
 しかし、握った拳はスルトに届くことはなかった。見えぬ壁にぶち当たったかのように、ヴァンの体はあっけなく後方に吹き飛ばされる。
 勢いよく地面に叩きつけられ、体の至るところを打ちつけ擦り切って、幾度も転がり。
 それでも、唸り声を上げて跳ね起きた。
『ヴァン、やめるんだ!』
 再びスルトに挑みかかろうとするヴァンの進路を、スレイプニルが遮る。
 勢いよくその体にぶつかり、ようやくヴァンは前進をやめた。
 体中、至るところを擦り切り、額からも血が滲んでいる。憤怒を眼差しに込めて、スルトを睨み上げた。
「俺たちが何をしたっていうんだ!」
「知らぬことは罪だと言ったはずだ、小僧!」
 激情を剥きだしにして、スルトが叫び返した。
 予想だにしないほどの、燃え滾る憎悪を真正面からぶつけられ、ヴァンは動揺した。
「貴様らの哀れな本能だな。いつも自分たちばかりが被害者だと思い込む。差別をするな、虐げるなと叫びながら、自分たちが一番偏見に満ちていることに気づきもしない!」
 スルトの足元で、炎の巨人が火炎を吹き上げる。
 昂ぶる感情に呼応するかのように、火柱が上がった。
「アスガルドの民、イドゥナの子――。自らの居場所を知っているものは、幸福だということさ。己の居場所を知らぬもの、奪われたものもいるのだ」
「ゆ、ゆるしてくれ……!」
 かすれた男の声が、里の方から聞こえた。
 スルトは体を捻って、振り返る。
 年老いた男が、地べたに這いつくばっていた。
 もはや立って歩くことができないのか、腕を使って這いながら近づいてくる。
 頬に、稲妻のような傷痕を持つ男だった。
「ゼオ爺……」
 ヴァンがあえぐように、老人の名を呼んだ。
 若い頃は屈強な狩人として名をはせた男は、怯えきった眼差しで、頭上に立つスルトを見上げている。
「あの時は、ああするしかなかったんだ。里の掟だった! 一度里を去ったものを入れてはならぬと……。お前たちを追い返すしか……」
 スルトはその双眸を細めて、無様な老人をひと睨みした。
 炎の絨毯のように広がった炎から、無数の矢が生まれ、浮かび上がる。
 燃えさかる炎の矢は、一直線にゼオへと飛んだ。
 老いた体を、獰猛な炎が容赦なく貫く。ルクスが思わず顔を背けた。
 ごうっと音を立てて、老人の体が燃え上がった。炎に呑まれた自分の手を目の当たりにし、ようやくゼオは絶叫した。
「ゆるしてくれ!」
 業火は一瞬で、上ずった悲鳴と共に老人の体を飲み込んだ。
「ゆるしてくれ、ラケル――ラケル!」
 うわごとのように、ゼオは何度も女の名を呼んだ。

――妹は里を捨て、アスガルドの民と所帯を持ったよ。

 いつだったか。身寄りを失ったゼオの口から、唯一の肉親の名が零れ落ちたことがあった。
 夏の祭りのあと、酔った勢いだっただろうか。酒の杯を片手に、しんみりと語る横顔を、ヴァンは思い出していた。

 スルトの足元から、炎の絨毯が消えた。
 ゆっくりと着地したスルトは、迷いのない足取りで、火達磨になって転げまわる老人に歩み寄った。
 しなやかな足を持ち上げ、したたかにゼオの背を蹴りつけた。
「母は死んだ。貴様に追い返された、すぐあとにな」
 老人を焼く炎を受けて、スルトの瞳は爛々と輝く。そこには、憎悪と狂喜とが交じり合っていた。
「冬の川に、私を抱いて入った。だが不幸にも、私ひとり、助け出されてしまった。それから私が生きてきた地獄。語るより味わったほうが早かろう。どうだ、苦しいか!」
 しかし、答えはなかった。
 ゼオはもう、もがくことすらできなかった。徐々に黒ずんでゆく体を見下ろし、スルトはつまらなそうに鼻を鳴らした。
 もう一度乱暴に、消し炭になりかけている男を蹴り転がす。
「貴様ッ、いい加減に!」
 背後から怒気が迫った。スルトはゆっくりと振り返り、右手をかざした。
 白刃が降ってくる。
 シグルドが激しい怒りと共に振り下ろした剣を、スルトはいとも容易く、片手で受け止めた。
「こんなことをして何になる!」
 スルトの手に刃を押し当て、シグルドは吠えた。
 しかし炎の契約者は、嘲笑うかのように口の端を持ち上げる。上目遣いに、シグルドの顔を覗き込んだ。
「お前がそれを言うのか、公子」
「なに……?」
 わずかに、シグルドの力がゆるむ。スルトは不敵に笑った。
「お前がやろうとしていることと、同じじゃないか。――復讐だよ」
 剣を受け止める手に、力を込める。それだけで、シグルドの剣はあまりに容易く、中心から折れてしまった。
 息を呑み、シグルドは後ずさる。いよいよ、スルトは狂喜の笑みを深くした。
「私には見えるぞ、貴様の心に渦巻く憎しみの炎が。全てを奪われたことがかなしいだろう、諸悪の根源に同じ思いをさせてやりたいと思っているのだろう?」
「……復讐は、何も生みはしない!」
 折れた剣をぶら下げたまま、シグルドは苦々しく吐き出した。
 スルトは、哀れむように目を細め、鼻を鳴らす。
「綺麗事だな! だがな、私たちは身を削った分の対価をきっちり貰わなければ、決して満たされないように出来ているんだよ!!」
 唇を噛む公子に、スルトは掌を向けた。
 掌から炎の塊が生まれ、見る見るうちに膨張する。
 人の頭ほどまで大きくなった炎が、弾丸のようにシグルドに飛んだ。
 炎は、とっさに頭を庇ったシグルドの体を、あっというまに飲み込んでしまった。
「若様!」
「シグルド!」
 フェスターとルクスが慌てて駆け寄ろうとするが、上がる火柱の苛烈さに、近づくことも出来ない。
 炎の中でうごめく人影を見やり、スルトは満足げに口元をゆるめる。
 哀れな公子はこのまま、あの老いぼれのように消し炭になって崩れ落ちるのだ。
 生意気なガキだったが、公子にさえ生まれなければ、このような死に方はしなくても澄んだだろうに。生まれを選べないということは、時に最大の不幸になりうるのだ。
 人体を中心にして燃えさかる火柱に、スルトは背を向けた。もうこの里に用はない。
 しかし。
 突如として背後で膨れ上がった"力"に、慌てて振り返った。
 目に飛び込んできたのは、真っ二つに裂ける炎の柱。そして、輝く剣を片手に、飛び込んでくるシグルドの姿だった。
「何度やっても!」
 結果は同じだ。力の差は歴然としている。
 スルトは再び片手をかざして、振り下ろされる刃を受け止め――ようとした。
 しかし、指先がその剣に触れた途端。
 スルトの体は、強い衝撃で後方に跳ね飛ばされた。
 右手から、稲妻のように全身に走った激痛に、スルトの唇から悲鳴が迸った。



2.

 絶叫が迸った。
 理性と精神の制御をはなれて、本能が上げた叫びだった。
 刀身が放った衝撃に跳ね飛ばされ、スルトの体は宙を舞う。
 したたかに地面に叩きつけられた体は、何度かバウンドして転がった。
 雷に打たれたかのように、体中が痺れている。
 両手で、地面にうつぶせた体を持ち上げようとしたスルトは、上体を起こしたところでバランスを崩し、体の右側から再び倒れこんだ。
 腕の支えが、急になくなったのだった。
 違和感の出所を確かめるために、スルトは右側を見た。
 色違いの双眸に映ったものは、砂のように崩れうしなわれた右腕――だった。
「な……」
 それ以上は、言葉にならなかった。
 熱を含んだ風にさらわれて、崩れた"腕"が、舞い上がる。
 呆然と横たわるスルトの視界に、人の足が割り込んだ。
「シグルド、貴様ッ――!」
 這いつくばったまま、キッと顔を上げ、スルトは近づいてきた男を見上げた。
「その剣、もしや」
 シグルドは、右手に古ぼけた剣をぶら下げていた。紙すらも裁てそうにない、刃こぼれを起こしている剣。だが今は、淡い光を帯びて輝いていた。
 風に巻き上げられた、スルトの"腕"の粒子が、その刀身に吸い込まれる。輝きが、一層増した。
「ドラゴンイーター……!」
 憎々しげに、スルトは吐き捨てた。
 シグルドは、何も答えない。伝説の剣を重そうにぶら下げ、全身で深い呼吸をしている。業火に包まれていたとは思えない、火傷ひとつない姿だったが、なにやら様子がおかしい。
 うつむいた青年の額からは、まるで涙のように汗の雫が落ちている。
「それで、お前は閣下に復讐するつもりか!」
 残された左腕を使って体を起こし、スルトは吠えた。
「見ろ! 貴様が復讐の武器を求めて踏み込んだために、この里は滅んだ! 復讐は何も生まない!? 復讐は生み出すんだよ、新たな絶望をな!!」
 狂ったように、スルトが哄笑した。
 シグルドは、水に濡れた犬のように、首をひとふるいしただけだった。
 額に手を当て、滴り落ちる汗をぬぐう。
「……退いてくれ」
 公子の唇から、か細い声が漏れた。
 場違いな呟きに、スルトは目を瞠る。
「僕は、お前を殺したくない」
 ざっ、と。足元から脳天まで、寒気に似た感覚が走るのを、スルトは感じた。
 それは、凄絶な怒りだった。嫌悪感すら伴う、激情。
 何を言っているんだ、この男は!?
「戯言を! 今更人を殺すことに怖じたか! 閣下の下へは行かせんぞ! その力を手に入れたのならば尚更……」
 スルトの全身が、一瞬にして炎に包まれた。
 未だ痺れの残る体を奮い立たせ、片腕を支えに立ち上がる。
「生まれたそのときから炎の加護を受けてきた。"付け焼刃"になど、負けるものか!」


 気を緩めれば、意識をすべてさらわれてしまいそうだ。
 シグルドは、両足に力を込める。
 ただ二本の足で立つということが、これほど苦痛だとは。
 視界が揺れるのは、周囲を焼き尽くそうとする炎が生む、陽炎のせいだけではあるまい。
 スルトの放った炎に包まれたあとから、記憶に空白がある。
 右手が熱くなったことだけは覚えている。次の瞬間、剣を携え、こうして立っていた。
 すべての音が遠い。
 自分と世界との間に、膜が張られているようだ。スルトの声も、しっかりとは届かない。

――殺せ。

 脈打つ鼓動とともに、鼓膜の内側から訴えかける、声。
 命を奪えと、絶えず囁き続ける。
 憎しみでなく、また、保身のためでもなく。
 純粋な欲求だった。
 "捕食"への。
 右手に握る剣から、明白な"空腹"の気配が伝わってくる。
 この剣――ドラゴンイーターという力の前では、魔力を持つものはすべて、餌、なのだ。
 強烈な眩暈と、内外から押し寄せる熱とに、自我が奪われそうだ。
 しかし手放してしまったら。
 この力は、彼女を喰らい尽くすだろう。跡形も残さずに。
 わずかに触れただけで、右腕の肘から下を奪い去った。それほどの力を、この剣は持っているということなのだ。
「退いてくれ」
 滲み出す汗に、視界も効かない。
 手の甲で額をぬぐい、ようやく呟いた。
 このままでは、自分を保ち続ける自信がない。
 彼女を喰らい尽くすことが目的ではないのだ。こんな勝ち方、本位ではない。
 スルトが、吠えるように怒鳴り返す。
 殺したくない。
 口走った言葉が、どれだけ甘やかな綺麗事なのか、分かっている。
 この旅を始めたときに、手を汚すことも厭わぬと、覚悟したのだ。
 自分の覚悟で振り下ろす刃ならば、どんな業も背負おう。
 しかしこれでは……。
 剣を手放せ、と何度も念じる。けれども、体はその命令を受け付けない。意識は朦朧としているのに、右手はしっかりと、剣を握ったままなのだ。

 片腕を失った体で、スルトが立ち上がる。
 全身に炎をまとい、鬼神のごとき気迫だ。
 頭上に掲げた左手に炎が集まり、やがてそれは、槍の形になった。
 現れた巨大な炎の槍は、切っ先をシグルドに向け、勢いよく、飛んだ。
 殺せ、と鼓動が促す。
 槍と共に、突っ込んでくるスルトの姿。
「やめろォォォ――!」
 絶叫。そして、空白。


 まさに一閃、だった。


 シグルドは、剣を高々と掲げ、弾丸のように飛び込んでくる槍とスルトに向けて振り下ろした。
 断末魔の悲鳴と共に、スルトの体が前のめりに、倒れた。彼女を包んでいた炎が、ふっと吹き消されたように消える。
 倒れこんだスルトの体が足にぶつかり、シグルドはようやく我に返った。
 既に、手に剣はなかった。何が起こったのか、理解しないわけには行かない。
 きらきらと、淡い光がシグルドの右手に集まってくる。まるで、何かを吸い込んでいるようだった。
 呆然と、シグルドは掌を見詰める。
 絡まりつくように浮き出した紋様が、光の粒子を吸い込んで、まるで喜ぶように輝いていた。
 その光の出所をだどって、シグルドは戦慄した。
 すぐ傍に転がっている、スルトの体。
 胸から腹にかけて、ばっさりと切り裂かれた傷痕が、ほの白く輝いている。光の粒子は、そこからシグルドの掌へと流れ込んでいるのだった。
「……かあ、さん」
 もはや立ち上がることも出来ないスルトの唇から、たどたどしい言葉がこぼれた。
 まるで、覚えたての言葉を操る幼子のような、舌足らずの。
「さむいよ、かあさん……むかえにきて……」
 スルトの輪郭が、ぼやける。
「かえり、たい……」
 泡がはじけるように、彼女の体はすべて、光の粒子となって砕け散った。


【つづく】