1.

 揺れる。視界が、上下に。
 激しい息遣いが、はたして自分のものなのか、それとも先に立って手を引く母のものなのか、もう分からなかった。
 どれほど走ったのだろう。もはや前後も時間も分からなかった。ただ、母に手を引かれるまま、走るだけだ。
 初めは幼子の歩幅を気遣っていた母の歩調も、今では荒々しく広い。
 踏み均された道などない深い森の中、幾度も張り出した木の根に足を取られて、転びそうになる。
 このまま、死ぬまで走り続けるのだろうか? 永遠にこの責め苦が続くのなら、今ここで息絶えてしまったほうが、楽だ、きっと。
 朦朧とする意識で、楽になることばかりを考える。
 そもそも、何のために走っているのだろう?
 考えるのも億劫だ。ちいさな体を引きずる力にすべてを委ね、思考を放棄しようとしたそのとき。
 母の足が止まった。
 すでに慣性にまかせて走っていた足はもつれ、そのまま母の背に倒れこむ。
『止まれ! それ以上先へ踏み込むことは許さぬ!』
 頭上から、野太い男の声が降ってきた。
 母親の腕の間から顔を出し、空を仰いだ。
 酸素を求めて、体が激しく上下する。母も同じだった。視界はまた、上下に揺れる。
 ぼんやりとかすむ視界に、三つの影が映った。
 三対の翼がゆるやかに羽ばたいていた。獅子の体に鷹の頭を持つ獣が、それぞれの背に男を乗せ、宙に浮いているのだった。
『自ら里を捨てた身で、どの面を下げて帰ってきた』
 中央に陣取る男が、威圧的にふたりを見下ろした。色の違う双眸が、まるで串刺しにするように母子を射抜く。
『私は……』
 母は、かすれた声を絞り出した。
 激しい呼吸に、言葉がとぎれる。
『私は、どのように罵られても、構いません。ですが……!』
 母は、小脇から娘をぐっと前に押し出した。両肩を掴む母の指先が、細かく震えている。
『娘だけは、お助けください!』
 男たちの視線が、この目に集まる。
『お分かりでしょう! この子はもう既に、炎の加護を受けております! このまま、アスガルドの民と共に、生きてはゆけません! どうか、里に迎え入れてやって……』
 グリフォンの激しい羽ばたきが、母の声をさえぎった。
 ひっ、と咽喉を鳴らし、母がこの体を後ろに引き戻す。
 先程まで立っていた場所に、無数の羽根が鋭利なナイフのように突き刺さった。
『自業自得だ、愚か者が!』
 鋭い一喝が、中央の男から降った。あの男の、頬に走った稲妻のような傷痕と、憎悪に煮えた血走った目は、今でも忘れることができない。
『里のものの制止をすべて振り切って、何があっても構わぬと"ここ"を飛び出していったのは貴様だろう!』
『わ、私はここで殺されようと、構わないのです!』
 きつく娘を胸に抱いて、母は声を張り上げた。
『どうか娘だけは! 契約者は、街では生きていけません! 呪われた民と罵られ、死ぬよりもひどい責め苦を受けるんです! この子はまだこんなに小さくて、自分がどんな力を持っているのかも分かっていないのに、人々は構わず石を投げる! お願いです、どうか……里の子として育ててはくれませんか!』
『去れ!』
 恫喝が、びりびりと空気を揺らした。
『すべて己の選んだ運命だ。里は、一度ここを捨てた人間に扉を開くことはない!』
 頬に傷を持つ男は、それ以上取り合うこともなく、母子に背を向けた。
 付き従う左右の二人も、お互いに顔を見合わせたあと、それに倣う。
『兄さん!』
 声を振り絞って、母は叫んだ。
『お願い兄さん! このままじゃ……! この子は死んでしまうわ!』
 頬に傷を持つ男は、こちらに背を向けたまま、しばらく何かを考えている様子だった。
『兄さん……!』
 母の涙声が、その背に追いすがる。
『……これが掟だ、ラケル』
 一際大きく、グリフォンが羽ばたいた。
 三つの影は見る見るうちに遠ざかり、森に残されたのはか弱い母子と、木々を揺らす風ばかりだった。
 母の膝が、枯れ枝をぱきりと折ったように崩れた。渡る風に、乱れた髪が巻き上げられる。
 呆けたようにじっと、グリフォンが消え去った空を見つめる瞳に、光はない。
 まるで飲み込まれそうなほどに深い絶望を宿した双眸は、これからたどる茨の道を見つめていたのかもしれない。


            *


 あまりの熱さに、シグルドは絶叫した。
 まるで、体中の血が沸騰したかのようだった。
 高温に熱された杭が、左胸に深々と埋まっている、ような。
 体を内側からじりじりと焼かれている。
 がくりと膝が折れた。地面に両手を突いて、激しく咳き込む。

――この苦しみに、お前は耐えられるか?

 ちらちらと、視界を淡い光がよぎっては消える。

――"力"を手に入れたら、常にお前の体を蝕む苦しみだぞ。
――耐えかねて、自ら命を絶ったものもいる。
――気が狂ってしまったものも。
――この"力"は、やがてお前から、あらゆる"光"を奪うだろう。

「シグルド」
 耳元に、かがみこむ人の気配があった。
「もういいのですよ」
 大地にしみこむ水のような、やわらかく涼やかな声。
 体を焼き尽くし、引き裂こうとする熱にあえぎながら、シグルドは声のほうへ首を起こした。
 シグルドの肩にやさしく手を乗せて、彼女は在りし日と同じ笑顔でたたずんでいた。
 美しく伸ばされた亜麻色の髪が、艶やかに背に流れている。
「貴方は父上に似て、すべてをひとりで背負い込もうとする」
「母、上……」
 呆然と呟く息子に、美しい母は、慈愛の笑みを向けた。
「数多の責め苦にも諦めず、よく今まで耐え抜きました。これ以上貴方がひとりで苦しんでどうするのです? 気が狂わんばかりの苦痛に耐えずとも、民を救う方法ならば、きっと他にあるはずですよ」
 母は、もがき苦しむ息子の首に、たおやかな腕を絡めた。
「私はこれ以上、息子が苦しむのを見たくはありません」
 シグルドは、熱を持ち、汗で滲む腕を地面から離し、首に絡んだ細腕を掴んだ。
「私が我儘で頑固であることは、母上もよくご存知のはずです」
 ゆっくり、シグルドは母の腕を首から解いた。
 母は、悲しそうに息子と同じ深緑の瞳をゆがめた。
「自分の息子が苦しむのを望む母は、世界のどこにもいないのよ」
「母上は常々、『民は私の子どもだ』と私に仰られた。『お前も民も、同じだけ大事なのだ』と。幼い私は、貴方を独り占めできないことに嫉妬し、駄々をこねながら、貴方が愛し労わる民を、兄弟として育ったのです」
 ふるえる膝を叱咤して、シグルドは立ち上がった。
 全身に激しい痛みが、稲妻のように駆ける。
 左胸を見下ろした。光を放つ剣は、確かに体を貫いている。けれど、血の一滴も流れはしない。柄を握ろうとしても、すり抜ける。
「シグルド、思いなおしてちょうだい。このままでは死んでしまうわ」
 母は、地面に座り込んだまま、息子を見上げ、懇願した。
 なまぬるい汗が、こめかみを伝って、顎から落ちる。
 わずかに体を動かすだけで、鋭利な刃物で突き刺されたような痛みが走る。
 確かに、腹を痛めて産み落とした子の、不幸を願う母などいないのだろう。
「けれど貴方は……」
 両足に力を入れて、ふんばる。ここで無様に倒れこんで、やさしい腕に抱かれたなら、もうあとには戻れなくなる。
「貴方はきっと、『お前の決めたことならば、迷わずに行け』と突き放す女(ひと)だ。貴方の腹から生まれた私が、それを一番よく知っている」
 体を冒す熱に、目がうるむ。視界が滲む。見下ろす女の姿が、ぼやける。
 輪郭がぼやけて、尚更、シグルドの核心は深まった。訴えるように息子を見上げる顔が見えなくなって、迷いも消えた。
 あの人は、いつまでも無様に座り込んでいるような人ではないのだ。
「もうやめろ!」
 シグルドは顔を上げ、叫んだ。
「下らないまやかしで僕を試したつもりか! こんなことをいつまで続けたって無駄だ! 僕は絶対に屈したりはしない。気が狂いそうな責め苦にも、死にたくなるような痛みにもだ! 奪いたいなら、どんな光も奪えばいい! それでも僕は―――」
 急激に腹からこみ上げた熱に、たまらずシグルドは咳き込んだ。口を覆った右手の、指の隙間から、生あたたかいものがあふれ出す。口の中に、じわじわと鉄の味が広がった。
 手を染めた液体の色を確かめもせず、口元を乱暴に腕でぬぐう。
 何が体の内側を傷つけたのか、考えている余裕もなかった。
 文字通り血を吐きながら、毅然と顔を上げる。自分を試す、目に見えぬ意志に向けて。
「生き残ってみせる」



2.

 胸に突き刺さった剣が、一際まばゆく輝いた。
 ずるり、と。胸の内側を根こそぎ引きずり出すような感触と共に、剣が抜けた。
 切っ先を下に向け、シグルドと相対するように浮かぶ。かすかに、上下していた。

――面白いな、小僧。

 光を放つ剣の"意志"が、そのままシグルドに届いた。
 体中を駆け巡る、沸騰したような血液の熱をもてあまして、深く呼吸する。
 こめかみから顎に、汗が滝のように流れ落ちていた。消耗している。
 認められたのか、見放されたのか、シグルドには分からなかった。
 ただ今は、崩れそうになる足を叱咤して、立っているのが精一杯だ。せめて無様に座り込んだりしたくはない。

――この祠に踏み入れた者たちの中で、『何もやらぬ』と虚勢を張ったのは、お前だけだ。

「僕には、差し出せるものなんて何もない」

――それでいい。私は強欲なほうが好きだ。容易く命を捧げるものほど、すぐに崩れてしまうものよ。長き眠りから放たれるのなら、少しでも長く楽しませてもらわなければ、意味がなかろう。

 剣が、くるりと宙で向きを変えた。まるで、柄をシグルドに差し出しているような形だった。
 魅せられたように、シグルドは輝く剣に手を伸ばす。

――だが侮るなよ。

 指先が触れる、その一歩手前で。
 厳しい声が、欲望に伸びる手を押し留めた。

――強欲は私も同じ。隙を見せればお前も喰らうぞ。

 威嚇するように、剣がその輝きを増した。
 刺さりそうなほどの強い光に、柄に伸びた指先が、ふるえた。
 芽生えた感情は、畏れだった。
 原初から、本能が持ち続けてきた畏敬の念。
 恐怖とも、少し違う。
 絶対的な力を前に、自分の無力さを恥じ入る気持ちと似ている。

(畏れるな!)
 ふるえる指先を叱咤して、手を伸ばす。
 ここまで来て。目指す光が目の前にありながら、怖じて引き返すなんてできない。
「今の僕には、何もない。迷いもない!」
 叫んで、柄を掴んだ。
 じゅう、と柄に触れた掌が嫌な音を立てた。熱さのあとに、皮が剥げるような痛みに襲われた。
 熱さと痛みと重さに、思わず掌から力が抜ける。取り落としそうになるのを、必死にこらえた。強く握り締める。
 離したら、二度と手に入らないかもしれない。
 熱波が吹き付けた。目も開けていられない。
 両手で強く柄を握り締め、シグルドは、肌を焼こうとする熱波に耐えた。

――契約の証だ。強欲な人間よ。

 熱波はシグルドの足元で渦を巻き、それから上空に向かって抜けていった。


 激しくはためいていた衣服が落ち着きを取り戻して、ようやくシグルドは目を開けた。
 足元に、しっかりと地面の感触がある。周囲は暗いが、闇の中ではない。ぼんやりと、傍にあるものの形が見える程度には、明るい。
「シグルド!」
「若様!」
 背後から二つの足音が折り重なって近づいてくる。振り返ると、ルクスとフェスターが、階段を駆け上ってくるところだった。
 シグルドは、洞窟の中に作られた祭壇の上に、立っていたのだった。
 ルクスの胸元で、夜光石がほのかな光を放っている。周囲がさらに明るくなった。
「その剣、もしかして……」
 おずおずと、ルクスがシグルドの手元を覗き込む。
 促されるようにして、シグルドも自分の両手の先を見下ろした。
 古ぼけた剣が握られている。
「あっ!」
 ルクスが声を上げた。
 刃こぼれをしていて、とても立派とはいえない剣がぼんやりと輝いたかと思うと、光の粒子となって四散してしまったのだった。
 火の粉のように舞い上がった光の"つぶ"は、何かに吸い寄せられるかのように―――シグルドの右掌に、吸い込まれた。
 シグルドは呆然と、空っぽになった掌を見下ろした。いつの間にか、炎を模したような刻印が、掌の中央から五本の指に絡まるようにして、描かれていた。

――時と場合によってその形を変えるのよ。一番ふさわしい形に、な。

 里長の言葉を思い出す。
 今は、"時"ではない、ということか。

「どこかお怪我を?」
 シグルドの口元や手を汚す血液を見咎め、フェスターが血相を変える。
「いや、平気だ」
 嘘ではなかった。
 だるさはあるものの、苦痛はない。フェスターは、何か言いたげに口を開いたが、結局黙った。
「成し遂げたのか」
 下のほうから、驚きを含んだ声がかけられた。
 祭壇の下に、ヴァンが立っていた。
「……わからない」
 素直にシグルドは答えた。
 これが成功なのか失敗なのかは、わからない。
 ヴァンは、それ以上は何も言わず、一行に背を向けた。
「戻るぞ。俺だっていつまでも暇じゃ……」
『ヴァン!』
 スレイプニルがヴァンの前に姿を現した。
「どうしたんだよ、急に……」
 あまりに唐突な出現に、契約者であるヴァンもたじろいだ。
『早く戻れ! 里が……』
 鼓膜を破るような爆発音が上がったのは、そのときだった。
 顔色を失って、ヴァンが駆け出した。
 何か尋常ではないことが起こっているに違いない。迷っている場合ではなかった。シグルドたちも、慌てて祭壇を駆け下りる。
 祠から里へ続く洞窟は、長い間人の手が入っていないからか、苔むしている。何度も足を取られそうになりながら、まばゆい出口に向かって、ひたすら駆けた。
 嫌な予感がする。
 絶え間なく爆発音が上がり、悲鳴も聞こえる。
 そして何よりも。
 木々が燃え上がる激しい音と、焦げた臭い。
 火の気配だった。

「ルクス! お前は最後に来い! フェスター、頼んだぞ!」
 後方に声を投げ、シグルドは出口を駆け抜けた。
 途端、闇に慣れた瞳に膨大な光が飛び込み、目がくらむ。
 まず感じ取れたのは、熱さだった。
 頬に吹き付ける風が、熱を含んでいる。
 ようやく光に慣れた視界に映ったのは、呆然と立ち尽くしているヴァンの背中。
 そして、炎に蹂躙されている里―――だった。

 どん、と一際大きな爆発音が上がり、里の方角から何かが吹き飛ばされてくる。
 放物線を描き、ヴァンの足元に転がった。
 焦点の定まらない瞳で落下物を追いかけ、それが何かを確かめて、ヴァンは叫んだ。
「婆様!」
 地面に転がった小さな体に駆け寄り、必死に揺さぶる。
 力を込めて、何度も。声を荒げて呼びかける。
 シグルドは、その様子を愕然と見守った。何が起こったのか、理解できなかった。
 ヴァンがどれほど揺さぶっても、ロルヴァの体はぴくりとも動かない。
「おばあちゃん……? 嘘でしょ……?」
 フェスターの影から顔を出し、ルクスがふるえる声で呟いた。
 ふと、一行の上に影がさした。
「一体どこにいたのかと思えば」
 優越感に蕩けた女の声が、降ってきた。
 ゆっくりと、シグルドは顔を上げた。
「こんなところに隠れておいででしたか、公子」
 紅蓮の炎が、浮かんでいた。まるで翼のように広がっている。その上に、しなやかに鍛え上げられた体を黒い甲冑に包んだ女が、立っていた。
 砂色の髪と左眼、そして、紅玉のように赤い右目。
「スルト、貴様……!」
 公子一行を見下ろし、スルトは艶然と微笑した。
 炎に照らし出されたその美しい顔は、恐ろしいほどの生命力と喜びに満ち満ちていた。
「先程は邪魔が入ったからな。今度こそ決着をつけようじゃないか!」
 高らかに宣言し、スルトは何かをシグルドに向かって放り投げた。
 とっさに身を引いたシグルドの足元に、どさりと重量のあるものが転がった。
 輝く青い鱗、無惨に裂かれた尾鰭。

 ルサルカの尾――だった。



【つづく】