1.

 息ができない。
 冷たい。体が重い。
 背中だけが、引き裂かれそうに熱い。
 抵抗できない流れに、もてあそばれ、押し流されている。

 塔が燃えている。
 領城のシンボルである尖塔が、下のほうからじわじわと、舐めるように広がる炎につつまれてゆく。
 人々の悲鳴と、あの男の哄笑。
 大きく開かれた、ドラゴンの鮮やかな赤い口腔。放たれた、灼熱の炎。
『シグルド様!』
 まばたきもできない、その視界に、躊躇いもなく飛び込んできた、彼女の背中。
 突き飛ばされて、体はテラスから外へと飛び出した。
 背中に、激しい痛みを感じた、そのあとで。
 見えない糸に引き摺られるように、体は落下する。
『地位と城を持たぬおまえは、ただの世間知らずの小僧だ』
 その背後に、黒く輝くドラゴンを従えて、男は嘲笑う。
『足掻いたところで、おまえには、何もできない』
 意識が途切れる、その一瞬。
 高い水しぶきを聞いた。
 全身が激しい、そして冷たい流れに飲み込まれる。
(死ぬのか……?)
 このまま、人々の悲鳴を、両親のなきがらを、放り出したままで。
 炎に包まれた、生まれた場所をわすれて。
 あの男の哄笑に屈して、死ぬ――のだろうか。
 何もできずに。
 体を覆う水が、体温を奪う。
 流れが速い。
(こんなところで、僕は……)
 沈む。
 深い、闇の底へ。

 チカリ、と。
 暗闇の中で何かが輝いた。
――……ド。
 青い光だ。
 ゆらり、ゆらりと左右に揺れている。
 透き通っているのに、冷たくはない。
――シグルド。
 寄せては返す、声。
 呼んでいる? 一体、誰が……。


            *


「シグルドってば!」
 激しく体を揺すられて、シグルドは覚醒した。
 真上に、少女の顔があった。ルクスは大きな藍色の瞳を歪めて、今にも泣き出しそうな顔をしていた。
 彼女の胸元から、肌身離さずつけている首飾りが零れ落ちて、シグルドの目の上で青い石が揺れている。
(さっきの、青い光は……まさか)
「生きてるなら! さっさと起きてよ!」
 ぼんやりと目を開いたシグルドに気づき、ルクスは気まずそうに顔をそらした。
「滝に飛び込んだのなんて、ほんの一瞬だったのに。その間に溺れるなんて、シグルドって器用!」
 照れ隠しのためか、ルクスは憤った様子でまくし立てる。
 シグルドは上体を起こし、周囲を見回した。
 滝の裏側なのだろう。どうどうと、水の落ちる音が絶えず聞こえている。
 大人の男がぎりぎり立って歩けるほどの高さの、洞窟の中だった。
 薄暗く、空気は湿っていた。
「溺れたわけではなかろう」
 洞窟の奥のほうから、しわがれた声がかけられた。
 シグルドたちは、声の方へ顔を向ける。
 奥からは、光が差し込んでいた。それほど長い洞窟ではないようだ。その出口に、人影がある。
 出口から差し込む光を背負い、顔かたちなどははっきりしないが、ずいぶんと小柄な人物のようだった。
「水の中ではなく、闇を漂うておったのだよ」
 湿った地面に杖をつきながら、しわがれた声の持ち主は、ゆっくりと近づいてくる。
「そなたには、深い絶望が取りついておる。業の深き御仁のようじゃな。この婆の盲いた目にも、隙あらばそなたを取り込もうとする闇の魔手が見える」
「貴方は……?」
 立ち上がり、シグルドは老女を迎えた。自分の胸に届くか届かないかぐらいの背丈しかない老女だった。
 白髪を長く伸ばし、背の中ほどで結わえている。
 肌の色は浅黒く、まとっているのは原住民である彼らの、伝統的な衣装だった。
 首から下げた、羽根のついた首飾りを揺らしながら、老女は顔を上げた。
 白く濁った双眸が、シグルドを射るように見据える。
「そなたが捜し求めていた里の、長をしているものよ」
 老女の言葉に息を飲み、シグルドは視線を合わせるように膝を折った。
「突然の来訪をお許しいただきたい。私は……」
「存じておる。そなたの気配は父上に瓜二つじゃな、シグルド殿」
「父も……ご存知ですか」
 ようやく、シグルドはそれだけを言った。
 老女の持つ奇妙で神秘的な雰囲気に、呑まれかけていた。
 森の中で出会った、スレイプニルを駆る少年。彼は明らかに、アスガルド人に敵意を抱いているようだった。
 里に踏み込むことが出来ても、長には簡単には会えぬものと思っていたのだが。
「驚いているな? 何故疑わぬのだと、問いたいか。ならば答えよう。私は、そなたたちが森に入ったときから、そなたたちを見ていたからだ」
「見て? しかし……」
 言いかけて、シグルドは口をつぐんだ。
 老女の目は、一見しただけで視力を失っていると分かるほど濁っているのだ。
 指摘しかけて、明確に言葉にできずに、黙った。
 長は、笑みの形に口元をゆるめた。
「無論、私の目はもう既に見えぬ。だが、私の片割れの力が目になるのだ。そなたらが先程森で出会ったルサルカは、我が片割れ。あやつのおかげで、水のある場所ならば、その場所を見ることができるのよ」
「あの……綺麗な鳥が?」
 驚いたように、ルクスがこぼした。
「あれもれっきとした魔物じゃよ。気味が悪くなったかね?」
 まるで見えているかのように的確に、長はルクスの方へ顔を向け、尋ねた。
 ルクスはしっかりと、首を左右に振った。
「ううん、……あたしたちを助けてくれた」
「では、森に入ってからずっと感じていた視線というのは……」
 フェスターが、合点がいった様子で呟く。
「ほう、さすがに騎士殿は勘がいい。気づいておったか」
 長は見えぬ目を瞠り、満足そうに幾度か頷いた。
「滝に近づいてからは、空からヴァンに偵察をさせたりもしておったが」
「あのスレイプニルに乗っていた少年ですか」
 長は改めて、シグルドに向き直った。
「左様。そなたたちの動向を探っておった。本当に、ドラゴンを打ち倒すに足る器なのかを――見定めるためにな」
 シグルドは思わず息を飲んだ。
「ドラゴンを倒す方法が……ありますか……!」
 声が震えた。
 信じていないわけではなかった。
 けれども、相対したドラゴンの力はあまりに、絶望を覚えるほどに圧倒的すぎて。
 “あんなもの”を、人の力で倒せるのだろうか、と。
 この里を目指しながら、常に不安だった。
 古い文献と伝承を頼りに、ふたつ緒の里を目指したけれど、そこに答えがなかったら、一体どこへ向かえばいいのだろうか、と。
 長は、シグルドの戸惑いを視力を失った瞳に映し、しばらく、黙っていた。
「方法が、ないわけではない」
 やがて、ゆっくりと口を開く。
「ただし、それには危険が伴う」
「どのような危険も覚悟の上です! 城を追われたその日に、ドラゴンを倒すためには身を惜しまぬと決めたのです!」
 シグルドは身を乗り出し、熱を帯びた口調で長に迫った。
 長は、くるりと踵を返した。杖をつきながら、ゆっくりと洞窟の出口へと歩き出す。
 肩透かしを喰らい、シグルドは呆然とその背を見つめた。
「ついてきなさい」
 肩越しに少しだけ振り返り、長は三人に告げた。
「そなたにはまず、ドラゴンの真実を語らねばなるまい」



2、

「ドラゴンの、真実?」
 洞窟を抜ける。
 降り注ぐ光に、シグルドは思わず目をほそめた。
 滝の裏側には、集落が広がっていた。
 集落の中央には、小さな泉が湧いており、人々の憩いの場となっているようだった。
 泉を囲むように、家々が並んでいる。木材を組み立てて作られたと思しき、簡素なつくりだった。
 盲目とは思えぬ確かな足取りで、里の長は泉のほとりまでたどり着き、シグルドたちを振り返った。
「ドラゴンは、実在すると思うかね」
 シグルドは怪訝そうに長の瞳を見つめ返した。
 質問の意味を、掴みかねた。
 いるか、いないか?
 いないはずなどない。
 背中を焼いた、苛烈な炎を思い出す。
「二年前、私はドラゴンと対峙しました。実在するもなにも……」
「しかし、そんな魔物はおらぬのだよ」
 きっぱりと、長はシグルドの言葉をさえぎった。
 あまりのことに、公子は言葉を失う。呆然と、長の顔を見つめて立ち尽くした。
 長は、光を失った目で、シグルドの動揺を射抜くように見つめ返した。
「では……」
 沈黙のあとで、シグルドはようやく、咽喉の奥からかすれた声を絞り出した。
「では、"あれ"は一体、なんだと言うのですか。あの悪魔が存在しないものだというのなら……。二年前から罪もない人々を苦しめ続けているあのドラゴンとは!」
「かつて、ドラゴンと呼ばれる種がこの世界を統べておった。その力は強大で、あらゆる魔術を使いこなしたと伝えられておる。しかし彼らは、遥か昔に死に絶えてしまった。各地に点在するドラゴンオーブは、彼らの遺産、彼らの魔力の名残。手にしたものの強い念を感じ取り、森羅万象から魔力を吸い上げ、増幅させる宝珠じゃ」
「人の、念……」
 体に刻み込むように、シグルドはゆっくりと呟いた。
「左様。今、この土地を荒らしているあの黒き竜は強大。よほどの強い念が働いているとみえる。ひどく強い怨嗟と絶望を放っておるからな」
「それがあの男の――カリストフのものだと?」
 シグルドは独白する。その声は、心なしか震えていた。
 動揺を隠せない。
 怨嗟? 絶望?
 野望と欲望の間違いではないのか。
 人の心が、あれほどまでに強大な魔物を生み出すことができるのか?

 あの日、灼熱の業火で領城とその周囲を焼き払った、黒き竜。
 二年経った今でも、その姿を思い出すだけで足がすくむ。もはや膿むはずのない背中に、痛みを感じる。
 恐ろしいのだ。認めたくはなくても、確かに。
 あれが、同じ人間が生み出した、心の影だというのか。
「たとえ……」
 いつの間にか震えだしていた指先を、きつく握りこむ。
 幻に怖じる自分を、奮い立たせるために。
「たとえどんな理由があったとしても、無辜の民を傷つけていいという理屈はない! ドラゴンが実在の魔物でないのなら、好都合だ。あの男を打ち倒すために……」
「そなたが力を求めるのは、復讐のためかね」
 静かな声が、シグルドの昂ぶりに水を注いだ。
 咄嗟のことに、言葉を返すことも出来ず、全てを見透かしているような濁った双眸を見つめる。
「背の傷の、家族の命の、友人の腕の、民の苦しみの対価を、憎むべき男の血で望むのか」
「復讐……?」
 知らぬ言葉で語りかけられたような、奇妙な違和感があった。
 今まで見過ごしていた何かに、無理矢理目を向けさせられたような。
 復讐、だなんて。
 考えたこともなかった。
 奪われた平穏を、取り戻すこと。望みはただ、それだけだった。
「己では気づかぬか。そなたにも黒き竜と同じほどに、深い絶望と激しい怨嗟が渦巻いておる。ドラゴンを打ち倒すほど強大な力を手に入れたとき、そなたは鬼神にならぬと言えるのか?」
 返す言葉を、シグルドは持ってはいなかった。
 蹂躙された領地を奪還し、民に平穏を取り戻すこと。
 ただそれだけを支えに、背に消えぬ傷を負い、帰る場所を失った痛みと孤独に耐え忍んできた。
 そこに、憎しみはなかったか?
 力であの男をねじ伏せたいという欲望は、本当になかったのか?

 シグルドはうつむく。
 自分の内側で、何かが音を立てて壊れたことを、悟った。
 高潔な理想と、重大な使命。ふるさとを追われてからの二年、世界の行く末は、自分の手にのみ、かかっていると思っていたのだ。
 生まれ持った公爵家の血筋と、ドラゴンと相対して生き残ったという幸運とを握り締め、自分こそが救世主なのだと。
 けれど今、自らの心の内側に、消すことの出来ない憎悪の炎があることを、知った。
 自分を戦いに駆り立てるのは、崇高な理想ばかりではない。決して拭い去ることの出来ない憎しみ。
 負のこころ。
 背中に負った消えない傷、この命と引き換えに切り落とした姉と慕う女の腕、たくさんの、命。
 失ったものが、多すぎる。
 どうして憎まずに、生きていけるだろう?
 憎まずに、旅立つことが出来ただろうか?
(僕は、聖人君子ではない)
 全てを許す、ことはできない。
 爪が食い込むほどに握り締めた拳を解き、シグルドは顔を上げた。
「憎しみがないかといえば、おそらく嘘になります」
 自分の醜さを認めた瞬間に、何故か体が軽くなった。
 憎しみを抱くことを、どこかで罪悪だと思っていた、自分に気づいた。
 世界を救うためには、負の感情を抱くことは許されないのだと。清廉でいなければならないのだ、と。
 けれど、生きているのだから。
 流す涙を、張り上げる声を、人を抱く腕を、持っているのなら。
 泣くことも怒ることも、愛することも。罪ではないはずだ。
 肩の力が抜けた。
 そして、ただひとつの真実だけが、残った。
「民の安寧を願う心に偽りはありません。それだけは……本当のことです」
 沈黙があった。
 光を失った双眸で、長はじっと、シグルドを見つめる。
 そして、静かに首を前に倒して、頷いた。
「憎しみで枯れた大地に血の雨を降らせても、何も育ちはしない。憎悪の連鎖は、滅びにつながる。そのことだけは、覚えておくといい。―――ヴァン」
 半ば振り返って、長は泉の向こう側へ声を投げる。
 泉のほとりから、少年が立ち上がった。
 ぐるりと泉を回って、長の隣に立つ。
「この者たちを、祠へ」
「……俺がですか?」
 ヴァンと呼ばれた少年は、明らかに不服そうに、唇を尖らせる。
「あの祠の扉が封印されておるのを、お前も知っておろう。魔力を持つものしか開けられぬ。この里で一番強い魔力を持つのはお主よ。ババの頼みじゃ、折れてくれぬか」
 そこまで下手に出られては、逆らえない。ヴァンはそれ以上抗わなかった。ふてくされた様子で黙り込む。
 長は、改めてシグルドたちに向き直った。
「さて、公子―――いや、これより先は血筋など関係あるまい。シグルド殿、そなたに覚悟を問おう」
 シグルドは無言で応えた。
 今更、言葉で説明することは何もない。
「この里の奥には、聖地と呼ばれ崇められる祠がある。そこに、ドラゴンを無力化する"力"が、眠っておるのだ」
「力、ですか」
「歴史にもたびたび姿を現しておる。ドラゴンオーブが解き放った森羅万象の魔力を、"喰らう"力よ。数百年前に、この大陸を統一したという少年王が持っておった剣も、この力」
「ドラゴンイーター……?」
 あえぐように、フェスターが呟いた。
 ドラゴンを打ち倒し、大陸を統一した少年王の伝説は、あまりに有名なサーガだ。
 彼が携えていた宝剣ドラゴンイーターは、強大な火竜を一刀で切り伏せたという。
「その剣が、ここに?」
「厳密に言うと、剣ではない。時と場合によってその形を変えるのよ。一番ふさわしい形に、な。使いこなすためには、試練に打ち勝ち、契約をむすぶ必要がある。祠に入ったからといって、確実に手に入るものでもない。下手をすれば命を落とす」
 長の声は、重く、深い。決して誇張ではないのだ。
「契約をむすべたとしても、強大な魔力をその身で喰らうことになるのだ。そのとき―――」
 長は、意味ありげに言葉を切った。
 風が、山火事の名残を運んで、人々の間をすり抜けていった。
 煤と、焦げた木の臭いだった。
 濁った長の双眸が、いっそう細められた。

「そのときお主は、人でなくなるかもしれぬ」



3.

 雫の落ちる音がする。
 洞窟の中は暗く、じっとりと湿っていた。
 滝の裏側にある集落を抜けた先には、もうひとつ、洞窟が口を開けていた。
 祠への案内を長に命じられたヴァンは、明かりも持たず、何も語らず、洞窟の奥へと入ってゆく。
 ためらいのない少年の歩みには、一切の問いかけを拒む強い意志が感じられた。
 ゆえに、シグルドたちも何も訊かず、ただその背の導く先へと歩を進める。
 仏頂面の公子と、その従者から少し離れて、ルクスは最後尾を歩いていた。
 服の内側からそっと、ネックレスを引っ張り出す。
 澄んだ青い石は、闇の中でほのかな光を放っていた。
 ふと足を止め、掌にのせたその石を、じっと見つめる。
――お嬢さん、珍しい石をお持ちのようじゃの。
 洞窟の入り口まで同道した里の長が、ルクスを呼び止めて、突然そう言った。
 もちろん、石は服の内側に隠してあった。そもそも長は目が見えぬのではなかったか? 
 思わず身構えて、ルクスは服の上から石を押さえた。
――夜光石は、真の闇でこそ光る不思議な石。その輝きは、人間の五感を越えて届くもの。アスガルド人は、宝飾として用いることが多いようだが、本来は穢れをはらう魔除けの石として、珍重されてきたものなのだよ。
 柔らかな長の声が、ルクスの警戒をゆっくりと解く。
――隣の町に買出しに行くとき、姉さんが首にかけてくれたの。
 長は、満足げに頷いた。
――その石には、旅の無事を祈るならわしがある。必ずや、そなたを災厄から守ってくれるだろう。
 途端、ルクスの胸から咽喉にかけて、熱いものがこみ上げた。
――それほどの大きさの石ならば、アスガルド王都に立派な屋敷を建てられるほどの価値になろう。姉上は、目先の豊かさよりも、そなたの無事を望んだのだな。
 こみ上げた熱が、じわりと目元を濡らした。
 せりあがった嗚咽を噛み殺すように唇をきつく引き結んで、ルクスは口元を両手で覆った。
 大粒の涙が、口元を覆う手の甲をいくつも、零れ落ちる。
――尊い祈りの輝きを、その石からは感じる。そなたを守る光じゃ。大切になさい。

 掌にのせた夜光石は、いつもどおりひんやりと冷たい。
 けれど何故か、ほのかなあたたかさを感じるのは、何故なのだろう。
 祈りの光が持つぬくもりなのか。
 ふるさとを思い出せば、今でも胸が張り裂けそうなほど、痛い。
 それでも今は、少しだけ、前を向いて歩けそうだ。
 たとえ、このぬくもりが錯覚だとしても。ひとりではないと思える、ただそれだけで、一歩を踏み出すことができる。
 村を焼かれたあの日から、帰る場所を失ったむなしさが、ルクスの心を飲み込んでしまっていた。
 帰る場所がないのなら、死んでいるのと同じだ。
 だから、いつ死んでも、どこで死んでも、どうやって死んでも、もう構わなかった。
 自分から全てを奪った奴に、一矢でも報いることができるなら、それでいい。
 たとえそれが叶わなくても、どんなところで野垂れ死にをしても、いい。何かを願うことも、どこかを目指すことも諦めて、神の庭に踏み入れたのだった。
 けれど今なら、何かを求めたり、目指したりすることも、きっとできる。
 とても、現金な生き物だと思うけれど。
 今は――前を歩く青年の道行きを、見定めたい、と思っている。
 前方を歩いていたシグルドがふと足を止め、ルクスを振り返った。
「どうかしたか?」
 立ち止まっているルクスに気づいて、いぶかしんだ様子だった。
 暗闇のなかに、ぼんやりと公子の端正な顔立ちが浮かび上がっている。
 黙って立っていれば、絵画か何かから抜け出してきた貴公子だと言われても信じるだろう。
 けれど彼はとにかく気位が高く、気難しく、失礼な男だ。何しろルクスは、初対面で彼に殺されかけたのだから。
 頑なで、尖っていて、近づきがたい。
(それでも……覚悟を持っている)
 逃げない、覚悟を。
 ルクスは服の上から右の腰に触れた。そこには、出会った日の朝、シグルドから渡された短刀がおさまっている。
 すべての行く末を見届けて、それでもまだ憎悪が消えないのなら、これで自分を刺せ、と。
 公爵家の紋章が掘り込まれた短刀を、シグルドはルクスに託した。
 その刃なら受け止めると、彼は誓った。命を預ける、と。
(だからあたしには、見届ける義務があるんだ)
 ルクスは、夜光石を服の内側にしまいこんだ。
 怪訝そうに首を傾けている公子の顔が、再び闇の中に沈む。
「なんでもない」
 迷いを振り払うように大きく首を振って、シグルドのもとへ駆け寄った。


 ヴァンは、洞窟の突き当たりで一行を待っていた。
 何一つ光源がないはずなのに、突き当りの壁はほのかな光を放っている。
 そこには、一枚の巨大な石のプレートがはめ込まれていた。
 奇妙な紋様が彫りこまれていて、それがほのかな輝きを放っているのだった。
「ここが祠の入り口だ」
 紋様が放つ青白い光の中で、ヴァンの色の違う双眸が三人を見渡した。
 不意に、ヴァンの背後にあの美しい天馬が現れた。
「今から扉を開く。そうしたら、何が起こっても責任は持てない」
 風もないのに、天馬の尾とたてがみは、かすかに揺れていた。
「覚悟はできている」
 ためらうことなく、シグルドは答えた。今更、引き返すことはできない。
「ひとつだけ、お前に訊きたいことがある」
 ヴァンは祠に入ってからはじめて、まともにシグルドを見つめた。
「もしもこの祠でお前が"ドラゴンイーター"を手に入れて、望む平和を取り戻して、その暁に……この里に何か見返りをくれるのか?」
 まっすぐなヴァンの眼差しに、シグルドは黙り込んだ。
 彼は真剣だ。望むものを与えると、簡単な口約束はできない。
「……その問いに今、僕が答えることはできない」
 彼ら、先住民との問題は根が深く、繊細でもある。
 あまやかな嘘をつくことは、許されない。
「望みがあるのなら、できる限りの善処を……」
「忘れてくれ」
 シグルドの言葉を途中でさえぎって、ヴァンは言った。
「俺たちの存在を、忘れてほしい。望みはただひとつ、それだけだ。自治も権利も望んじゃいない。ほうっておいてくれたら、俺たちは生きていける」
 予想だにしない要求に、シグルドは声をなくした。
 未だ、どこかにあどけなさを残す少年が、憂いに目を伏せる。
「それだけが……俺たちの望みなんだ」
 スレイプニルが、慰めるように、鼻先をヴァンの頬へ寄せる。
 ヴァンも、その鼻を手で撫で、応えた。
「扉を開く」
 重い沈黙を破って、ヴァンが紋様の刻まれたプレートに向き直った。
「何が起こっても、知らないからな」
 右手を伸ばし、掌をプレートに向ける。
 ふわり、と。足元からやわらかい風が起こった。
 ヴァンの服や髪を、下から巻き上げる。
 壁に向けた掌と、プレートに刻まれた紋様が、共鳴するように輝き始めた。
 ヴァンは瞳を閉じ、小さく何かを唱える。
 徐々に風は勢いを増す。目を開けているのも困難なほどだ。
 三人は腕で顔を庇い、体を押し戻そうとする風圧に耐える。
「何、これぇっ……! 飛ばされるっ!」
 体重の軽いルクスは、押し寄せる風圧に、じりじりと足が下がる。
「うるさいな、掴まれ……!」
 後方を振り返り、シグルドが手を伸ばした、その瞬間に。
 ふっと、すべての音と圧力が、消えた。
 まばゆい光に、視界が焼き尽くされる。思わず、きつく目をつぶった。


 喧騒に、シグルドは我に返った。
 大勢の人々の怒号と足音だ。
 まばゆい光で失われていた視力が、徐々に戻ってくる。
 鈍い痛みを残す瞳をゆっくりと開き、シグルドは絶句した。
 見覚えのある場所に立っていた。
 にわかには信じられず、ぐるりと周囲を見回す。
 バルコニーの傍に置かれたベッド、歴史書が開かれたままの机、床に敷かれた柔らかな絨毯――。
 まさか、そんなはずはない。
 混乱するシグルドの背後で、乱暴に扉が開かれた。
 慌てて振り返ると、黒い鎧をまとった兵士たちがなだれ込んでくるところだった。
 各々、剣を手に、殺気立っている。
 先陣を切る男が、獣じみた咆哮を上げた。
『シグルド、覚悟ォ――ッ!』
 ぞっと、背筋を寒気が這い上がった。
 やはり、ここは。

 二年前の領城――なのだ。



【つづく】