1.
見事に鍛えられた体躯を持つ女だった。
砂色の髪を風に遊ばせ、真紅の隻眼を天馬へと向ける。
「やはり、スレイプニルか」
女性らしい厚みをもつ唇をゆっくりとゆるめ、艶然と微笑する。
「黒旗騎士……」
気づけばシグルドは、再び剣の柄を握り締めていた。
明らかに、志願兵たちとは格が違う。
あれほど動揺していた男たちが、彼女の一喝で落ち着きを取り戻した。厄介な相手だ。
女はスレイプニルからシグルドへと赤い瞳を流した。
彼女は隻眼だった。左眼は、鷲のシンボルをつけた眼帯に隠されている。
場に不似合いなほど優雅に腰を折り、女はシグルドに頭を垂れた。
「お初にお目にかかります、公子。本当に、フリッグ様に似ていらっしゃる」
「軽々しく母の名を呼ぶな……!」
女の挑発的な口ぶりに激昂し、シグルドは声を荒げる。
腰を折ったまま、頭だけを持ち上げ、女は不敵に笑った。
「わたくしはスルトと申します。カリストフ伯の命により、あなたの首を、――頂きに参りました」
爆音が上がった。
シグルドのすぐ傍で、一本の木が突然燃え上がったのだった。
周囲を囲む風に煽られて、炎は瞬く間に隣の木に燃え移る。
「くそっ……」
悪態をこぼして、少年が愛馬の首を叩いた。スレイプニルは、美しいたてがみを持つ頭を、一振りした。
風が――凪いだ。
最後のあおりを受けて、女騎士の砂色の髪が、一瞬だけ舞い上がった。
「おや、どうされたのかな?」
大袈裟に眉を持ち上げ、スルトは風の魔物を眺めやった。
「風の眷属の中でも最高位と言われる天馬、スレイプニル。あなたほどの力を持ってすれば、我々を吹き飛ばすことなど、容易いのではないのか?」
『火種の気配だ』
澄んだ、美しい声が言った。
咽喉の筋肉を使って、発せられたものではない。空気を震わせずに、直接心に届く。
ルクスは思わず、背後にいる美しい馬を仰ぎ見た。
美しい翡翠の瞳は、まっすぐに黒旗騎士を見据えている。
『火の眷属を前に風を起こすほど愚かではない。侮るな、小娘』
ハッ、と。スルトは吐き捨てるように笑った。
「得意技を封じられても、気位の高さは変わらんというわけか。だが、威勢ばかりがよくても、惨めだぞ。さあ、里の入り口を開いて逃げ込んだらどうだ? ここで風を呼び続ければ、貴様らの大事な森が燃え尽きるぞ!」
「……貴様、何者だ? 普通の人間ではないな?」
迫る炎からルクスを庇いながら、フェスターは黒の騎士を睨みつける。
スルトは、陶酔しきった濡れた真紅の瞳を、フェスターに返した。
「お望みならば、ご覧に入れよう」
スルトの頭上に、拳ほどの炎が生まれた。
渦巻きながら、次第に大きくなってゆく。
やがて炎は、大人の男を握りつぶせるほどに巨大な――手の形になった。
馬上で、少年が息を飲んだ。
「炎の、巨人……。お前も契約者か……!」
頭上で妖しげにうごめく炎に、明々と照らされながら、スルトは不敵に微笑する。
左眼を覆い隠す眼帯を、自らむしりとった。
眼帯の下から現れたのは、髪と同じ、砂色の瞳だった。
「閣下から頂いた力だ。私はいまや、この世界の力の源である、ドラゴンの眷属となったのだ。貴様らごとき、敵ではない」
スルトは、頭からむしりとった眼帯を、無造作に投げ捨てる。
眼帯は、地面に落ちる前に炎につつまれ、一瞬で燃え尽きてしまった。
「ひぃっ……! バケモノ!」
男たちの中からひきつった悲鳴があがった。
スルトの頭上で燃え盛る炎の手は、純朴に生きてきた男たちを、恐慌状態に突き落としたのだった。
「オ、オレは下りる! こんなところで死にたくねぇ!」
「待ってくれ! オレも……」
ひとりが踵を返せば、あとはなし崩しだった。
我先に森を出ようと、無防備な背中をさらして駆け出してゆく。
シグルドには、スルトの意図が分からなかった。
「血迷ったのか? 黒旗騎士に『ふたつ緒』がいるなんて知れたら、カリストフの立場も……」
「それも、彼らが無事に人里に帰れたら、の話だろう?」
公子の戸惑いを、スルトは赤子の無知を哀れむように、鼻で笑い飛ばす。
シグルドの中で、戸惑いが不穏な予感に変わった、その刹那。
スルトの頭上から、炎の手が掻き消えた。
逃げ惑う志願兵たちの上に、すぐさまその異様な姿を現す。
大きく開かれた炎の掌は、哀れな男たちを、頭上から叩きつぶした。
正視できず、ルクスは顔を背ける。轟音と共に、大地が揺らいだ。
耳を塞ぎたくなるような断末魔を押しつぶし、『炎の巨人』はあたりを一瞬にして、炎の海に変えてしまった。
2.
炎の掌が、害虫をおしつぶすように地面にたたきつけられた。
周囲の木々が、一瞬にして炎につつまれてゆく。
熱波が、断末魔と共に吹きつけ、肉の焼ける強烈な臭いが、鼻腔を突いた。
しかし、シグルドは目を閉じることも、鼻を覆うことも、できなかった。
まばたきもできずに、真紅に塗りつぶされてゆく人々と森を、見ていた。
「……き」
かすれた声が、きつくかみ合わせた歯の間からこぼれた。
「貴様ァッ――!」
絶叫と共に、シグルドは剣を抜いていた。
一瞬で間合いを詰め、スルトに上段から斬りかかる。
黒旗騎士も、素早く剣を抜き、顔の上で公子の剣を受け止めた。
「民の―――」
刃を押し当てたまま、シグルドは、スルトの色の違う双眸を睨みつける。
ふつふつと腹の底から噴き出してくる怒りを、自分でも制御できない。
「人の命を何だと思っているんだ!」
剣の柄を握る手が、ぶるぶると震えている。
猛々しい力を受け止めながら、スルトがその美しい顔を歪めて、笑った。
「アスガルド人が何人死のうと知ったことか! 私の忠誠はただ、閣下のもとにあるのだ!」
女のものとは思えぬ力で、スルトはシグルドの剣を押し返した。
続いて横薙ぎに払われ、シグルドはやむなく後方に退く。
「それがカリストフの……」
剣を構えなおし、シグルドは地を蹴った。スルトの懐に飛び込もうとする。
「若様!」
しかし、飛び込む前に、従者が後ろからシグルドの体を抱え込んで、後方に引き摺り戻した。
シグルドの鼻先を、苛烈な炎が通り過ぎた。髪が一房、巻き込まれて、散る。
巨大な炎の手が、いつの間にか間に割って入っていた。
あのままスルトに突っ込んでいたら、おそらくあの手に握りつぶされていただろう。
「それがカリストフの意志か!」
命の危険にさらされても、姉同然に育ったフェスターの片腕に抱えられても、シグルドの激情はおさまらなかった。
咽喉をひらいて、声の限りに叫ぶ。
「民の命を軽んじるような人間が、どうして領地の支配など望んだ! 貴様らの望みは、一体何だと言うんだ!」
頭上の魔物が放つ炎に明々と照らされながら、スルトは泰然と立っていた。
左手を腰に当て、剣を持つ右手はだらりと体の横におろしたままだ。それは、明らかな余裕のあらわれだった。
手負いの獣じみたシグルドの憤怒も、今の彼女には脅威ではないのだ。
「我らの嘆きが、貴様に届くものか」
口元に冷めた嘲笑を浮かべ、緩慢な動きで剣を収める。
「罪深いな、公子」
まるで哀れむように、スルトは色違いの双眸をほそめた。
彼女の後方に広がる森は、もうすでに業火に飲まれている。
灼熱を背負いながら、熱をはらんだ風に煽られながら、それでも彼女はひとしずくの汗も流さずに、立っている。
それは果たして、彼女が既に火の眷属であるからなのか、それとも。
彼女の内に宿る憎悪が、木々を焼く炎よりも苛烈だからなのか。
あきらかな激情が、彼女から立ちのぼっている。
「我らが何故かなしいのか、どれほど考えたところで貴様には分かるまい。無知とは、最も忌むべき罪だよ。しかし、誰しも生まれは選べぬもの。お前も、私も。ゆえに今はその無知を許そう。せめてもの慈悲だ」
武器を収め、空になった手を、スルトはシグルドへ差し伸べた。
轟音と共に、スルトの頭上で炎の巨人が渦巻く。巨大な手の形から、獣の顔へと変わり、けたたましい咆哮を上げたあと、やがて。
燃えさかる炎の剣へと、姿を変えた。
掌を天に向けて差し伸べられたスルトの手に、ゆっくりとその柄を下ろした。
「二年もの間、よく逃げ延びたものだ。しかし、もう疲れたろう? 両親の下へ、今、送ってやる!」
掴んだ剣を、スルトは頭上に高々と掲げた。
「死ねェ、シグルド――ッ!」
スルトは咆哮と共に剣を振り下ろした。
ゴォッ、と空気がふるえ、切っ先から炎が放たれる。
まるで意志を持った生き物のように、放たれた炎はまっすぐ、シグルドの左胸めがけ、飛んだ。
速すぎる。
避けることも、阻むことも、これでは叶わない。
迫る火炎に、まばたきも出来なかった。
(こんなところで)
死ぬわけにはいかないのに!
不可避の炎の前に、本能が頭を守ろうと腕を動かした。
両腕で顔を庇った、その瞬間に。
世界は、闇につつまれた。
ぱつ、と。
きつく瞑った瞼の上に、雫が落ちてきた。
冷たい、おおつぶの雫だった。
続いて、頬に、顔を庇った腕に、いくつもの雫が降ってくる。
シグルドは、ゆっくりと瞳を開いた。
周囲は暗い。けれどもそれは、自らの命が失われたからではない。
頭上に、何かが覆いかぶさっていた。
巨大な何かが、テントのようにシグルドたちを包んでいるのだった。
「な、何者だ!」
不可思議な天蓋の向こう側から、動揺したスルトの声が聞こえる。
咽喉を反らし、シグルドは頭上を仰いだ。
青く輝く瞳を、見つけた。
そして、金色に輝く、嘴を。
シグルドたちを覆う天蓋が、”翼を広げた”。
しなやかな首を天へと伸ばし、嘴を開いて、鳴いた。
覆いが取り除かれ、再び陽の光を受け容れたシグルドの目に、周囲のどの大木よりも巨大な、美しい鳥の姿が飛び込んできた。
羽も、体も、瞳も青い。ただ、嘴ばかりが金色に輝いている。
体中がしっとりと水に濡れ、尾は、魚の尾鰭になっていた。
天に首を伸ばし、巨大な鳥は幾度か鳴き声を上げる。
間もなく、無数の雫が天から降り注ぎ始めた。
雨脚はすぐに激しくなる。地面に雫をたたきつけ、足元から水蒸気を立ち上らせる。
緑を容赦なく飲み込んだ炎は、次第にその勢いを失いつつあった。
「ルサルカ……!」
水の滴る翼を広げた鳥を見上げ、馬上の少年がつぶやいた。
『ヴァンよ、この者たちを連れて、門をくぐれ』
「門を……? でも」
ヴァンと呼ばれた少年は、不安げに青く美しい鳥を見上げた。
『長の命だ。火の眷属ならば、私の敵ではない』
威風堂々とした鳥の姿に、ヴァンは頷くことで応えた。
「頼む」
愛馬の首を軽く数度叩く。
仕方がない、というようにスレイプニルが鼻を鳴らした。
「きゃあっ!」
不可思議な感覚に、ルクスが悲鳴を上げた。
体が、浮いている。
「暴れるな! 逆らわなければ落ちない!」
シグルドの足元で、風が渦巻いた。次の瞬間には、ふわりと体が浮き上がっていた。
スレイプニルが、しなやかな脚で地を蹴った。そのまま、空へ舞い上がる。
その軌跡を追うように、突風が吹いた。
見えない糸に引き上げられるように、シグルドたちの体も宙を舞っていた。
緑の絨毯のように地を覆う木々を飛び越え、豊かな水を湛えた湖を越え、そしてその体は――。
威容を誇る滝の只中へと、飛沫をあげて飛び込んでいった。
*
断末魔と共に、屈強な男が地面に倒れた。
咽喉をばっさりと切り裂かれていた。
「まったく」
曲がった刃を持つ短刀から血を払い、男は悪態をついた。
「あいつの仕事は大雑把だな、取りこぼしの始末をするのはいつも俺だ」
小柄な男は、頭からすっぽりとフードを被っている。
彼の周りには、哀れな志願兵たちの、無数のなきがらが転がっている。
炎に包まれた湖のほとりから、大分離れたこの場所まで、やっとのことで逃げ延びた人々だった。
「死人に口なし、というところですか」
背後から不意にかけられた声に、ヘズは慌てて振り返った。あまりの勢いにフードが頭から落ち、醜く焼け爛れた顔があらわになる。
「ずいぶんと、残酷なことをなさるものだ」
いつのまにか、男がひとり、背後の木にもたれていた。
醜い歯をむき出しにして、ヘズは下卑た笑い方をした。
「兄ちゃん、商人のクセに、分別ってものがねぇのかい。こんな場面だと、どう考えたって、出てこねぇほうが賢いだろう。――まァ、兄ちゃん、ただの商人じゃねぇんだろうがな」
「おや、買いかぶってくれるんですか?」
のほほんと危機感もなく微笑して、カイルは木の幹から体を起こす。
「俺は、気配と足音がしねぇやつは、信用しないことにしてるんだ」
「貴方も、ただの志願兵じゃあないんでしょう。人を煽動するのがうますぎる。その顔も、貴方の本当の姿じゃないはずだ」
「詮索ってのはな、死にたがりがする愚行だぜ。今までどれだけの人間が、”知りたがった”おかげで死んだと思ってる? 足音もなく他人に忍び寄れるような手練(てだれ)が、そんな無様な死に方するのかい?」
「俺には俺の、考えや目的があるんですよ」
ヘズはいつの間にか、刃の曲がった短刀をもう一本、取り出していた。両手に構え、カイルとの間合いを計っている。
みすぼらしい容貌からは想像もできないほど、ヘズの動きは速く、的確だ。確実に急所を狙い、ほぼ一撃でしとめる。
その腕前を、カイルは先程目の当たりにしたばかりだ。
けれども、身構えるでもなく、僅かな笑みを口元にたたえているばかり。
あまりに落ち着いたその様子に、ヘズは飛び掛るきっかけをつかめずに、歯軋りする。
この男は、底知れぬ力を秘めているのか、それとも本当にただの阿呆なのか。
「……公子の味方か?」
間合いを計りながら、ヘズは唸るように問いかけた。
「いいえ。私はただの傍観者です。この騒乱の行く末を見届けるためにここにいる。この二年の間に、ラッセルに起きた数々の悲劇の、真実を知るために」
「たかが二年を知って、全てを知ったふりをするつもりか!」
突如として、ヘズが変貌した。。
鋭く尖った犬歯をむき出しにし、噛み付かんばかりの勢いで怒声を上げた。
「我らの絶望はもっと、深く、長く、歴史の闇に横たわっているのだ! 貴様らアスガルド人に何が……!」
はたと、ヘズは口をつぐんだ。
周囲の気配の変化に気づいた。そして、舌打ちをこぼす。
この男のつかみ所のない雰囲気に飲まれ、気づくのが遅れてしまった。
囲まれている。
姿は見えない。けれども、無数の殺気がヘズを射るように注がれている。その気配には、覚えがあった。
「クソッ! “そういうこと”か! 畜生!」
ぐにゃりと、ヘズの体が”溶けた”。
人の形が失われ、黒い塊がその場から空へと、弾丸のように飛び出していった。
漆黒の羽が数枚、はらはらと落ちてくる。
カイルはつまらなそうに溜息をこぼし、木々の間から空を見上げた。
一羽のカラスが、領城のある方角へと飛び去ってゆくところだった。
「手を出すなと言ったはずだ」
身をかがめ、艶のある羽根を拾い上げながら、カイルは呟いた。その声は、普段の彼からは想像もできないほど低く、重いものだった。
「畏れながら、手出しはしておりません」
誰もいないはずの場所から、声が返った。
カイルは嘆息して、肩をすくめる。
「まあいい、今回は助けられた。礼を言っておく」
「勿体ないお言葉です」
その言葉を最後に、無数の気配は煙のように、消えた。
「この騒乱は、ずいぶんと根が深そうだ」
いつもの調子でおどけたように独白し、カイルは滝の方角を振り返った。
「さて、どうするかね、――シグルド公子」
【つづく】