1.

「"ふたつ緒"って、魔法が使えるひとたちのこと、だよね?」
 生い茂る木々の枝を掻き分けながら、ルクスが先頭を歩く。
「妖しい呪術をいっぱいやってる、怖いひとたちだって聞いた」
 危ないから先を歩くなというのに、少女はいつのまにかさくさくと先陣を切ってしまう。
「"ふたつ緒"は、魔物と契約をした人々のことだ」
 いい加減いさめることにも疲れたシグルドは、少女の無謀さに呆れつつもその後ろに続く。
 目的地ははっきりしているのだ。迷うこともあるまい。
 目指す"ふたつ緒の里"は、この場からでもはっきりと見ることが出来る大滝のそばにあるはずなのだから。
「契約? 魔物と?」
 張り出した枝を掴んだまま、ルクスがシグルドを振り返った。大きな瞳を意外そうに見開くと、実にあどけない表情になる。
 年はまだ十五だと言っていた。普段はつとめて気丈にふるまおうとしているようだが、おそらく好奇心が旺盛で無邪気な彼女が、本来の姿なのだろう。
「魔物の持つ魔力を得る代わりに、命を差し出す約束をする。ふたつの命を持つもの、という意味で"ふたつ緒"と呼ばれているが、呪われた民と呼ばれることもある。――ただ」
「ただ?」
 意味ありげに言葉を切ったシグルドを、ルクスは無邪気な様子で促す。
「隣国ブリガンディアでは、"福音の徒"と呼ばれている」
「ふく、いん?」
「神から授かる力だそうだ」
 ルクスは不思議そうに首を傾げる。
「呪われた力なのに?」
「国によって、考え方が違うものです。特にブリガンディア神聖国は、宗教国家ですからね。魔法を使えるということは、とても尊いことのようですよ」
 フェスターの説明を聞いても、ルクスは得心がいかない様子で、唇をとがらせている。
「魔力に秀でている人々は、この神の庭を中心に古くから暮らしていたらしい。アスガルドは周辺の部族を併合しながら大きくなった国だからな。"ふたつ緒"を多く輩出する種族を武力で併合してきた歴史がある。だから彼らは、アスガルドでは虐げられている」
 呪われた民と呼ばれるのも、その歴史に由来する。
 そもそも、この地域に古くから暮らしてきた人々は、アスガルドの人々に比べれば肌の色が濃く、薬草の扱いに長け、自らの神を信奉していた。
 肌の色や生活習慣、信仰の違い。戦の勝者と敗者。それが、今の確執を作り出した。
 呪われた民と呼ばれるようになってから、彼らは人里はなれた場所に独自の集落を作って暮らすようになった。
 もちろん、アスガルドの支配を受け入れ、里を出たものもいた。
 アスガルド人と所帯を持った者もいる。王都から遠く離れたこのラッセルでも、肌の色が濃い子どもたちをたくさん見かける。表立って彼らを差別するものは、誰もいない。
 だが、独自の習慣を守り続け、住む世界を分けた人々には、冷淡だった。
 自分たちの文化を受け容れない民を、魔物扱いをして蔑む。


 シグルドも、幼い頃は呪われた民と呼ばれる人々を恐ろしい生き物だと思い込んでいた。
 いずれ領主となり、土地を治めるものが、偏見を妄信するべきではない。と、シグルドを諌めたのは、父の片腕で優れた参謀でもあったデュヴォー伯爵だ。
 彼もまた、褐色の肌の持ち主だった。アスガルドの支配を受け入れ、その文化習慣に溶け込むことを選んでも、彼は自らの出自に誇りを持っていたのだ。
 シグルドの教育係であったこの老伯爵は、侵略と略奪の歴史を幼い生徒に教えた。
 滅多なことでは声を荒げることのない、好々爺然とした男だったが、老獪という言葉があれほど似合う者もいないだろう。
 二年前、領主が殺されてからというもの、自ら望んで領城を去り、自らの領土へ引きこもったと聞くが、今はどうしているのだろうか。
『ふたつ緒が忌避されるのには、もうひとつ理由がございます』
 書物を挟んで、向かい合わせに座った生徒に、デュヴォーは静かに告げた。
『魔物と契約を結んだそのときから、片方の目の色が変わります。左右の目の色が違う。ふたつ緒は、自らが契約者であることを、決して隠すことができないのでございます』
 穏やかな老伯爵の声を思い出しながら、シグルドは決して取り戻すことの出来ない穏やかな日々を改めて惜しんだ。


「ねえ、水の音がする!」
 ルクスが、突然そんなことを言った。
 目を閉じて、なにやら静かにしていると思ったら、そんなことだったのか。
「沢があったら、ひとやすみしよう!」
 言うが早いか、ルクスはもう軽やかな足取りで駆け出している。
 これが、「殺してやる」と叫んでこの首を絞めた少女と同一人物なのだろうか。シグルドは思わず自らの首を撫でた。
「いい娘ですね」
 みるみる遠くなる少女の背中を見守って、フェスターが呟いた。
「……うるさいだけだ」
 シグルドはわざと、仏頂面になって吐き捨てた。その様子すら微笑ましいとばかりに、フェスターは口元をゆるめる。
「私は、すこし安心しました」
 ルクスの背を見失わないように目で追いながら、フェスターは突然そんなことを言った。
 シグルドは、視線だけを従者に流して、先を促す。
「若が他人に心を開いてくださって」
「別に、僕は!」
 大袈裟なフェスターの言葉に、シグルドは思わず反発する。
「あの日から、若はカリストフ伯を打ち倒し、ラッセルを取り戻すこと以外に、興味を持たれなくなりました。あれほどお好きだった音楽への執着も、薄れてしまわれた。……責めているわけではありません。ただ、お辛くはないのかと」
「今は、そんなことを楽しんでいる場合じゃ、ないんだ」
 楽しめるはずがないだろう、とシグルドはうつむいた。
「彼女を同行させる、と聞いたとき、はじめは驚きました。リスクも考えた。けれど、本当に嬉しかった。旅を始めた頃の若は、絶対に彼女の同行を許さなかったはずですから」
「あいつが、ついていくとうるさかったからだ」
 小声で短く呟くと、シグルドは歩調を速めた。
 素直ではない主君の背中に、フェスターは微苦笑をこぼした。


            *


 大きな枝を払い除けると、開けた場所に出た。
「うわぁ……」
 思わず感嘆の声が漏れる。
 そこは、沢ではなかった。
 美しく澄んだ水をたたえる、泉だったのだ。
 しかしルクスの瞳は、水面よりも別の場所に吸い寄せられた。
 水際に、真っ白い生き物がいる。
 優雅に首を下げて、水を飲んでいる。
 純白の馬だった。
 馬が水を飲むたびに、水面に波紋が生まれる。
(たてがみが、緑色だ……)
 風になびくたてがみは、淡い緑色をしていた。
 ぴくりと耳を動かして、馬が頭を持ち上げた。
 首をルクスに向け、その顔をじっと見つめる。
 その瞳も、翡翠の石をはめ込んだように美しい緑色だった。
「あなた、凄くきれいね」
 遠くから、ルクスは呼びかけた。
 馬は一瞬も目をそらさずに、ルクスを見つめている。
「どうしたの、あなた、ひとりなの? ご主人様はいないの?」
 何故か、ルクスは近づけなかった。馬があまりに気高すぎて、気後れしてしまう。
「どうした、誰と話してる?」
「うわ!」
 背後から声をかけられ、ルクスは文字通り飛び上がった。
 慌てて振り返ると、怪訝そうな顔をしたシグルドが立っている。
 跳ね上がった鼓動をおさえるように胸に手を当てて、ルクスは何度か深呼吸を繰り返す。
 シグルドは、そんな少女の様子に、一層いぶかしげに目を眇めた。
「見えるでしょ? すっごくきれいな馬が」
 泉のほうを指差し、ルクスは再び馬を振り返って。
「……あれ?」
「馬なんて、どこにいるんだ」
 そこにはただ、美しい水をたたえた泉があるだけだった。
 緑のたてがみと瞳を持った馬など、どこにもいない。
「だって、本当にいたんだもん……」
 言い切りはするものの、ルクスは歯切れが悪い。まるで幻のように音もなく消えてしまったのだ、仕方がない。
「幻でも見たんじゃないのか?」
「そんなこと……」
 端から否定的なシグルドの言葉にも、強く反論することができない。
 幻と言われれば、そんな気もしてくる。あまりに美しすぎたのだ。
「本当に見たのに……」
 あきらめきれずに、ルクスはほうっと小さな溜息をついた。



2.

 風に、真紅の旗がひるがえっている。
 中央に、鎌と剣のシンボルが交差したその旗を、無数の男たちが囲んでいた。
 皆、がっちりと体格がよく、各々武装をしているが、統一された装備ではないことが、彼らが寄せ集めの軍団であることを示していた。
 広大な神の庭の、威容を誇るタピオの滝の程近く。神秘的な雰囲気にはあまりに不似合いな、剣呑な様子だった。
 男たちは、焚き火を囲んで車座になり、苛々となにかを待っている。
 そこへ、滝の方角から、ふたりの男が駆け戻ってきた。
「駄目だ」
 ふたりは疲れた表情で輪に加わると、溜息と共に吐き出した。
「全然駄目だ。滝の近くまでいくと、すんげえ風が吹いて、前に進めなくなっちまう」
 偵察に出ていた男ふたりは、髪も服も乱れており、長い間北風に吹かれ続けたかのように、唇がひび割れている。
「……そんな風の話なんて、聞いたことないぞ。なぁ?」
「ああ……」
 人が進めなくなるほどの突風など、にわかには信じられない。けれども、偵察ふたりは、哀れなほどに疲れ切っている。男たちは、顔を見合わせた。
「それはきっと呪術だ」
 しわがれた声が割り込んだ。
 男たちは、一斉にその声を振り返る。
 車座から少し離れた大木の根元に、小柄な男が座り込んでいた。
 男は頭からすっぽりとローブをかぶっていて、その容貌をうかがい知ることは出来ない。ただ、フードの奥からのぞく瞳ばかりが、ぎらぎらと輝いている。
 彼の顔が、二目と見られぬほどに焼け爛れていることは、皆が知っている。彼が、市民兵の集まりであるこの「赤旗兵団」に志願したとき、自らその素顔を晒して見せたのだった。
「ドラゴンに焼かれたのさ」と、彼―――ヘズは語る。
 二年前のあの日、ヘズは領城でドラゴンの襲撃に遭い、その業火を浴びたのだという。
「俺は見たんだ。シグルドがオーブを使うところを。だから俺の顔は焼かれた。あの日から、この国は地獄じゃねぇか。俺は、自分の親に手をかけて、領民を殺したあいつを、絶対に許せねぇ」
 赤旗兵は、元々、正規軍が行き届かない辺境を警備する、有志のあつまりだった。
 しかし二年前、突如として現れたドラゴンの襲撃によって、領主を団長とする白旗騎士団と、デュヴォー伯の青旗騎士団が壊滅してからは、都市部の警備や、大罪人の捜索を担っている。
 豊穣と力を現す鎌と剣の旗は、彼らのシンボルなのである。

「呪術、だって?」
「呪われた民さ」
 訝しげな様子の志願兵たちに、片膝をたてて座ったまま、ヘズは答えた。
「ふたつ緒の里がこの近くにあるんだろ? あいつらはアスガルド人が嫌いなんだ」
 屈強な男たちが、一様に不安げな顔をする。
 腕っ節には自信がある。が、魔法や呪術といった類のものには、剣では太刀打ちできない。
 そもそも昔から、ふたつ緒は異端だと教え込まれてきたのだ。幼い頃に聞かせられた教訓めいた御伽噺でも、必ずふたつ緒はアスガルド人を陥れる存在だった。
「商人から密告があったんだろ、この近くでシグルドを見たって」
 ヘズは首を捻って、後方を振り返る。赤い旗を持って立っている巨漢の傍、大きな切り株に、女が足を組んで座っていた。
 しなやかな足を優雅にほどいて、女は立ち上がった。
「商人と名乗っていたが、どうかな。へりくだっているようで、随分と不遜な男だったが」
 女は、カリストフ伯直属の軍―――黒旗騎士団の鎧をまとっていた。
 長身で引き締まった体躯に、黒を貴重とした鎧はよく似合う。逞しさを引き立てる褐色の肌ならば―――なおさらだ。
「ふたつ緒が、シグルド公子と結託しているという情報もある。それゆえの妨害かもしれんな」
 女は、血のように赤い隻眼を、屈強な戦士たちに向けた。左眼は、黒旗騎士団のシンボルである鷲を縫い取りした眼帯に隠されている。


「あの方は誰です? 正規軍の騎士様のようですが」
 後ろから肩をたたかれ、車座のひとりが振り返る。
 金髪に碧眼の、軟弱そうな男が座っていた。近頃出入りを始めた商人だったか。アスガルド中を回っている行商ということで、腕っ節は弱いが、知識だけは豊富だ。
 肩をたたかれた男は、すこし離れた場所に立っている女騎士をまぶしそうに見つめた。
「兄ちゃん、行商をやってるくせに、案外もの知らずだな。スルト様は、カリストフ伯爵の親衛隊のおひとりさ。シグルド討伐に名乗りをあげた俺たちに、お力を貸してくださるってんだ。ありがてえじゃねえか」
「へえ、あの方がスルト様ですか。想像していたよりも、随分と若くてお美しいんですねえ。鬼神のごときご活躍だと聞いたものですから、もっと、こう……がっちりとしたお姿を想像していたんですけど」
「おい、お前!」
 女の声が飛んできた。
 男と商人は、弾かれたように顔を上げた。密談をとがめられた子どものような動作だった。
 赤い右目が、まっすぐに軟弱な商人を射抜いている。
「見ない顔だな。行商か」
 不遜に腕を組み、顎を反らして、スルトは問いかけた。
「は、はい」
 貫くような眼差しから逃げるように、商人はうつむいた。
 スルトは、しなやかな足運びで車座を通過した。男たちは慌てて、戦女神に道をゆずる。
 うつむいた商人の視界に、武装した騎士の足が割り込む。
「顔を上げろ。名は?」
 一呼吸を置いて、商人は毅然と顔を上げ、女騎士を仰ぎ見た。
「カイル。カイル・モーガンと申します。お声をかけていただけて、光栄です」
「近頃、よく出入りをしているらしいな」
「おかげさまで、贔屓にしていただいております」
「わたしがいるときには顔を出さないようだが、何故だ?」
「手前のような行商が、お目汚しをしては失礼だと思いまして、自重しておりました」
 血に濡れたような隻眼と、氷のような碧眼が、しばらく見つめ合った。
 ふっ、と口元をゆるませたのは、スルトだった。
「面白い男だな。アスガルド中を回っているというが、風を操る魔物について、聞いたことはあるか?」
「いくつか、存じ上げております。しかし、今回は随分と強い力を持っている様子。おそらくは、風を生む天馬――スレイプニルではないかと」



3.

「うわぁ」
 咽喉を反らして、ルクスが感嘆の声を漏らした。
「まだけっこう距離があるのに、すっごく大きいね」
 すでに、どうどうと流れ落ちる水音があたりを包み込んでいる。しぶきがかかりそうなほどだ。
 滝つぼは大きな湖になっているらしい。
 滝の威容が見渡せるのも、湖の周囲に木々がないからに他ならない。
 もうすぐ森が途切れる。目指すタピオの滝は、目の前だった。
 今まで最後尾を歩いていたフェスターが、不自然にならない程度に歩調を速めて、シグルドに並んだ。
「……シグルド様」
 顔をまっすぐ前に向けたまま、小声で主を呼ぶ。
 すでに従者の考えに気づいているシグルドも、従者を振り返りはしなかった。
「分かっている。ずいぶん前から、視線を感じる」
「かなり露骨なので、プロではなさそうですが……。姿が全く見当たらないのが気になりますね」
「わざと気づかせているのかもしれない」
「……だとしたら、何者でしょうか」
「もう、ふたりとも!」
 前方を歩いていたルクスが、苛立った様子で振り返った。
「なにコソコソしてるの? 早くしないと陽が暮れちゃうよ。今日中に湖まで行くんじゃなかったの?」
「うるさいな、分かっている……」
 全く危機感のない少女の様子に、シグルドは溜息混じりに顔を上げ、声を失った。
 両手を腰に当て、きょとんと首をかしげている少女。その背後に。
 緑のたてがみと尾をたなびかせる美しい馬が、背に少年を乗せて、立っていた。
「ルクス!」
 声を荒げて、シグルドは少女を呼んだ。
 公子の柄にもない大声に、ルクスはきょとんとまばたきをし、何気なく背後を振り返り――。
「きゃあああっ!」
 悲鳴を上げ、転がるようにシグルドの背後に駆け込んだ。
 翡翠色のたてがみを持つ美しい馬は、一度前足を大きく持ち上げ、また静かに下ろした。
「アスガルド人が、タピオの滝に何の用だ」
 馬上の少年が、口を開いた。未だ声変わりもしていない、高い声だった。
 少年の瞳は、右が黒、左が翡翠色をしている。左右の色が違う双眸は、契約者の証だった。。
 シグルドは、怖じることなく、一歩踏み出した。
 毅然と、褐色の肌を持つ少年を見上げる。
「私は、シグルド・グロリア・ラッセル。ドラゴンの知識を求めて、ここまで来た。イドゥナの子の、大いなる智恵をお貸しいただきたい」
 少年は、色の違う双眸で、シグルドをじっと見つめ、
「我らイドゥナの子は、アスガルドに蹂躙された民だ。要請に応じる義理などない」
 見目に似合わぬ大人びた口調で、シグルドを冷たく突き放す。
「お言葉はごもっとも。けれど、もはやイドゥナの智恵にすがるより他に手立てが見つからないのも事実。恥を忍んで、お願い申し上げる」
 シグルドは、少年に頭を下げた。
 少年は、シグルドの体内までもを見透かすように、目を眇める。
「お前が領主の息子であるという証拠が、どこにある」
 頭を下げたまま、シグルドは唇を噛んだ。
「身の証がたてられなければ、取り合う余地はない」
 少年は白馬の首をやさしく叩く。主の合図を受けて、馬はシグルドたちに背を向け、滝の方向へ歩き出そうとした。
「待ってくれ」
 すばやく、シグルドが呼び止めた。馬と少年は、首をめぐらして、振り返る。
 シグルドは、腰に帯びた剣をおろし、マントを脱ぎ捨てたところだった。
「完璧な証はない。ただ――」
 上着を脱ぎ捨て、素肌をさらす。
 少年に、その背を向けた。
 馬上の少年は、さらけ出されたその背に、目を瞠った。
「二年前、ドラゴンの炎を浴びた痕が残っている。僕が領主の子であろうとなかろうと、ドラゴンに出会った証拠にはなるだろう」
 背中は、醜く焼け爛れていた。
 なまなましく残った火傷の痕に、ところどころ黒い斑模様が見える。
 それがドラゴンの業火が残す紋様だということを、少年は知っていた。
「ドラゴンの炎を浴びて、よく生き残ったものだな」
 少年は轡を引いて、改めてシグルドたちに向き直った。
「彼女の腕が、僕の命を救ってくれた」
 上着を羽織りなおしながら、シグルドは傍らを振り返った。
 その視線の先に、隻腕の従者が少女を庇うように立っている。
「彼女の犠牲のためにも、父や母、何の罪もなく殺された領民のためにも、そして今、ドラゴンの恐怖に苦しんでいる人々のためにも! 僕は――あの時、あの男を止められなかった僕は! 何としてでも、ドラゴンを止めなければならないんだ! 頼む、長に会わせてくれ!」
 少年は、思わず息を飲んだ。
 人形のような顔をした男だ、と思っていた。
 決して愚かではない。少年たちの一族を、「ふたつ緒」とも、「呪われた民」とも呼ばなかった。本来一族が名乗っている、「イドゥナの子」という名は、広く知られているわけではない。その点において、シグルドと名乗った男は、愚かではない。
 けれども、上空から彼らを数日観察して。
 いきものが持つ、生命の熱に欠けている、と感じていた。あまりに冷静すぎる、と。
 しかし、今。
 礼儀も駆け引きもかなぐり捨てた男の、深い緑の目に宿る輝きは、一体何なのか。
 たぎる熱を感じる。
(押さえ込んでいるのか)
 胸のうちに抱えた激情を、怒りや、憎しみを。
 敢えて、あふれ出さないように。

「長は……」
 やがて、少年はゆっくりと口を開いた。そのとき。
「おい、あそこに誰かいるぞ!」
 男の怒鳴り声と、無数の足音が近づいてきた。
「あれがシグルドだ! いたぞ!」
 武装した男たちの中から、声が上がった。
 シグルドは舌打ちを落として、身構える。フェスターはルクスの腕を引いて、後方に下がった。
 男たちは、あっという間にシグルドたちの周囲を取り囲んだ。
 遅れて追いついてきた巨漢が、威風堂々とした旗を地面に突き刺すように振り下ろす。
「赤旗兵か……!」
 鎌と剣とが交差する赤い旗に、シグルドは呻いた。
「おい、あの馬は魔物だぞ。やっぱりシグルドは『呪われた民』とつながっていやがったんだ!」
 ぐるりと周囲を取り囲んだ男の中で、フードを目深に被った男がしわがれた声で叫んだ。
「俺たちの村を返せ!」
「この、親殺しめ!」
 男たちは二重三重にシグルドを取り囲む。
「ま、待ってよ! シグルドは……」
 身を乗り出しかけたルクスを、強引にフェスターが押し留めた。
「我慢してください」
「でも……!」
 フェスターは、ゆっくりと首を横に振る。
「彼らは今、頭に血が上っている。それに、こちらは無実を証明する手立てがありません。貴方が若のために憤ってくれるのはうれしい。ですが、今はこらえてください」
「だけど……!」
 ルクスは尚も食い下がろうとする。
「殺せ!」
「平和を取り戻すんだ! 俺たちの手で!」
 しかし、男たちの昂ぶった殺気は、もはや言葉で止められるものではなかった。
 既に各々が武器を構え、隙あらば飛び掛ろうとしているのだ。
 寄せ集めの、統一感のない装備が、男たちが兵士としては素人同然なのだとシグルドに伝える。
 本来ならば、鍬や鎌、または専門の工具を持ち、つつましく暮らしているはずの手。シグルドが守るべき民だ。敵ではない。
 母は、ことあるごとにシグルドに言った。
『よいですか、わたしたちは民を支配しているのではありません。わたしたちは彼らに生かされている。領民はわたしたちの父であり、母です。彼らを敬いなさい。そして、彼らに危機が迫ったら、持てる力の全てで守りなさい。それが、領を預かるものの使命です』
 父も、長い間そうして民との絆を築き上げてきた。自らも同じ道を生きていくつもりだった。――それなのに。
 今の、この状況は何だ。

 彼らには、戦う理由があるのだ。シグルドを憎む、理由が。
 シグルドは、彼らを憎いとは思わない。真実を知らない愚かな民だとは思わない。
 憎むべきは、彼らの平穏を奪い、まやかしで純真な心を操っている存在なのだ。
 何の罪もない民と戦うことは、できない。
 領民に危害を加えないと、旅を始めるときにシグルドは決めた。
 綺麗事だと言われようと、自らの誇りと戦う理由を守るために、誓ったのだ。
 着せられた汚名をそそぎ、彼らを救うための旅だ。そのために民を傷つけたのでは、噂の大罪人と何が違うというのか。
 しかし。
(さすがに、この数は厳しいか)
 嫌な汗が、こめかみから顎に向かって伝い落ちる。

 領民に追われたのは、何もこれが初めてではない。
 破格の賞金をかけられている身なのだ。幾度となく命を狙われてきた。
 けれども、ぐるりと周囲を囲まれたのは初めてだ。体当たりを食らわせて逃げるには、数が多すぎる。
 少年と馬とに気を取られて、接近する気配に気づかなかったのは、うかつだった。


 緊張感がはりつめてゆく。
 誰もが、きっかけを待っていた。
 大罪人の公子に切りかかる、きっかけを。


 気味の悪い鳴き声を上げて、鳥が一斉に木々から飛び立った。
「うおおおおお!」
 それを合図に、ひとりの男が斧を振りかざし、シグルドに飛び掛る。
 やむなく、シグルドも剣の柄に手をかけた。
 そのとき。
 美しい馬が、いななきと共に前脚を高く持ち上げた。
 木々の梢を揺すぶるほどのいななきが、突風を生み出し、斧を振りかざした男を吹き飛ばした。
 シグルドに飛び掛った男は、あまりにもあっけなく吹き飛ばされ、仲間数人を巻き込んで、地面に倒れこむ。
「くそ、なんだってんだ……?」
 額を押さえて起き上がった男は、自分の右手を見て、声を失う。
 手にしていた斧が折れ、刃の部分がなくなっていたのだ。
 まるで鋭利な刃物で切断されたかのような、見事な切り口だけが残っている。
 馬から生み出されたと思われる風は、尚も力強く吹きつけ、男たちを寄せ付けようとしない。
「じゅ、呪術だ……!」
 誰かがふるえる声であえいだ。
「呪われた力なんだ!」
 男たちの間に動揺が生まれ、瞬く間に不安となって広がった。
 魔法が絶えて久しいこの世界では、未知の力は恐怖の対象なのだ。
 視界の端で、何かがちかちかと瞬いている。ルクスは、フェスターの背に庇われながら、自分の周りをくるくると回るその光を目で追った。
 風にまぎれて、緑色の粒子がルクスたちの周りを巡っている。
 美しい馬を振り返った。その翡翠色の瞳は、周りを巡る粒子と同じように輝いている。
「……あたしたちを、守ってくれてるの?」
 思わずこぼれた呟きに、もちろん馬は応えなかった。けれども、凛としたその佇まいに、心の底から安堵する。守られている。そんな気がする。


「う、うわああああぁ!」
 絶叫を上げ、男が切断された斧の柄を投げ出した。
「呪い殺される! 殺されちまう!」
 尻もちをついたまま、足で地面を蹴るように後ずさる。
 恐怖と動揺は、弧を描くように伝播していった。志願兵たちは、じりじりと後退し、シグルドたちを囲む輪は、徐々に広がってゆく。
 もうすぐ彼らの恐怖は頂点に達する。今ならば、彼らを追い返すことができるかもしれない。
 ようやく見えた希望の光に、シグルドは思わず、剣の柄から手を離した。
 しかし。
「――静まれ!」
 女の力強い一喝が、男たちの狂乱を一瞬にして封じ込めた。
 ざわめきは水を打ったように静まり、あたりには風が吹きすさぶ音ばかりが響く。
 人垣の向こう側から、金属を揺するような音が、ゆっくりと、しかし確かに近づいてくる。
 男たちの壁が、割れた。
 黒い鎧が近づいてくる。
 褐色の肌を持つ、女騎士だった。


【つづく】