【オーガスタ・ジル・サージェントの嘆願書】
偉大なる我らが父、肥沃なるアスガルドの主、国王アスガルド六世陛下。どうか、卑小なるわたくしの願いをお聞き届けください。
どうかその偉大なお力でラッセルをお救いください。
今、わたくしの住まう北の領地ラッセルは、未曾有の危機に晒されております。王都から遠く離れてはいても、これだけの騒ぎとなれば、様々な噂がお耳に届いているかと存じますが、真実をお伝えするために筆を執った次第でございます。
まずは今ラッセルを蝕むドラゴンと、救世主と崇められる伯爵、カリストフ卿。
そして、領地を混乱に陥れていると言われる、領主の息子について、お伝えしたいと存じます。
1.
古ぼけた扉が、軋んだ音をたてて開いた。
くたびれたブーツが、年季が入ってつやを失った床を踏む。
とたんに、喧騒の奔流が一気に彼を飲み込んだ。
まだ昼過ぎだというのに、酒場は賑わっていた。ところ狭しと並べられたテーブルを各々囲み、決して上等とはいえない酒をあおっている。
未だ青年と呼ぶには未成熟な細身の体で、彼は椅子と椅子の間をすり抜け、カウンターに向かう。その表情は、すっぽりとかぶったフードに隠され、うかがい知ることはできない。
「パンをくれ」
カウンターに硬貨を置き、彼は店主に短く告げる。
広大な森と、人間が暮らす領域の、ちょうど境界あたりに位置するこの酒場は、簡単な雑貨屋も兼ねていた。店主は胡散くさそうに素顔を見せない客を眺めまわしてから、硬貨をつまみあげた。
「ちょっと待ちな」
店主は硬貨をあらためてから、横幅のある体をゆすって、店の奥へ引っ込んだ。
「それより、聞いたか?」
すぐ傍のテーブルで、いかにも柄の悪そうな男がふたり、向かい合って座っていた。一方の男が、向かい側にぐっと身を乗り出す。
「領主の息子にかけられた賞金が、また跳ね上がったらしい」
相手の男は、つまらなそうにグラスを口元に運ぶ。
「またか? 生きてるかどうかも分からねぇガキの首に、貴族の位が買えるほどの賞金をかけるたぁ、伯爵様も必死だな」
彼は、カウンターにもたれて店主を待ちながら、男たちの会話に耳をそばだてた。
「二年前に両親や領城の人間を虐殺して逃げたんだからな。伯爵様も、領主代行として黙ってはいられないんだろうさ。一国をも滅ぼすと言われている秘宝を持ち逃げしてるとなりゃ、尚更だろう」
「ドラゴンオーブ、か? 異界からドラゴンを呼び出す宝珠、なんて、本当に存在するのかね?」
「さあな。だが、二年前からこのラッセルがドラゴンに襲われ続けてるのも事実だろ。伯爵がドラゴンを退ける力を持っていなかったら、このあたりはとっくに焼け野原だって話じゃないか」
「俺としちゃあ、伯爵が"ドラゴンイーター"を持ってるっていう話も眉唾モンだけどな」
「そりゃそうだが、領主の息子の首をとれば、大金持ちになれるのは本当のことだろ?」
「結局信じられるのは、世の中お金だけ、ってことか!」
「お待ちどうさま」
男たちの下品な笑い声をさえぎるかのように、店主が奥の部屋から戻ってきた。
彼は頷き返して、カウンターに置かれた袋を受け取る。
「釣りは要らない」
短く言い置いて、彼は店主に背を向けた。
店主はいささか多すぎる釣りを手に、呆気にとられた様子だったが、すぐに意味ありげな笑みを浮かべて「まいどあり」と彼を送り出した。
店主の手に握られた金は、怪しい客の来店を"忘れさせる"には、十分すぎるはずだ。
「シグルド若様は、案外近くにいるかもしれないぜ」
戸口へと向かう途中、先程の男の声に、ふと彼の足が止まった。
「領主の息子が? こんなところに?」
突拍子もない話に、相棒は怪訝そうに目を細めた。そして、すぐ傍で途切れた足音に気づいて、周囲に視線を走らせる。
彼は、それ以上怪しまれないように、まっすぐに戸口に向かった。
「昨日、ヴィントの村がドラゴンに焼き払われたらしいからな」
静かに、酒場の扉が閉ざされた。
人里に背を向けてしばらく歩くと、踏みならされた道はすぐになくなり、周囲はもの言わぬ木々ばかりになった。
渡る風に、生い茂る葉がざらざらと揺れる。
「ご無事で何よりです」
木陰から、長身の女が姿を現した。
旅装束に身をつつんではいるものの、身のこなしには隙がない。
膝のあたりまでを覆うマントの裾からは、長剣の鞘がのぞいている。
「酒場の様子はいかがでしたか、シグルド様」
彼は、女を振り返り、目深にかぶったフードを下ろす。
未だ少年っぽさを残す、端正な顔立ちがあらわになった。怜悧さを感じさせる深い緑の双眸を、女に向ける。
「ヴィントが焼かれたのは、本当のことらしい」
2.
深い、深い闇のなかに、いる。
手探りで、木の幹をたどる。
行くあてがあるわけではない。けれど、戻ることもできない。
靴が、小枝を踏み割る。
風が梢を揺する。
夜に生きる獣の、息遣いもある。
しじまの只中ではない。
人の気配がないからといって、夜の森は決して、安息の地ではない。
今にも肉食の獣が飛び出してくるかもしれない。この首を食いちぎるかもしれない。
それでも、かまわなかった。
行くあてなど、どうせ、ないのだ。
帰るべき場所も、もうない。
張り出した木の根につまづいて、膝からその場にくずれおちた。
服の内側にしまいこんでいたネックレスが、その反動でぼろりと転がり落ちる。
首からぶらさがった青く透きとおった石は、闇のなかで、確かな輝きを放っていた。
右手でそっと、どこか温かみのある光をつつみこんだ。
光を握る手は、あまりにも土で汚れている。
こみ上げる涙を押し戻すように、強く目をつぶった。
「何者だ」
静かな、けれども鋭い声が林の間から飛んできた。
右手につつみこんだ石を、慌てて服の内側にしまいこむ。
「こんな夜更けに、『神の庭』で何をしている」
まだ若い、男の声だった。つめたく、硬い。
ひび割れた唇を開いて、声を上げようとした。敵意がないことを伝えたかった。
けれども、獣のような息遣いがこぼれるだけで、声にはならない。
「伯爵の手の者か!」
男の語調が荒く、険しくなった。声と共にたたきつけられた殺気に、身がすくむ。
「名乗るつもりがないのなら、こちらにも考えがある」
生き物が動く気配と、ちらりとよぎる小さいけれども鋭い光を、感じた。
鞘から抜いた剣が放つきらめきだった。
からからに渇いた口を動かして、声を絞り出そうとする。まるで言葉を知らぬ赤子のような、うめき声にしかならない。
ざっ、と。草を蹴って、間近に飛び込んでくる殺気の塊と、きらめく刃の白さ。
そこで、意識はぷつりと、途切れた。
*
「お待ち下さい!」
剣同士がぶつかりあい、わずかな火花が散った。
「何故止める、フェスター!」
自らも剣を抜き、間合いに入った従者に、シグルドは声を荒げた。
「子どもです」
驚いて、シグルドは剣を下ろした。
フェスターも自らの剣をおさめ、僅かに身をずらした。
幹の太い木の根元に、少女がひとり、倒れていた。
「……こんな場所に、何故子どもが」
「分かりません。しかし、随分と衰弱しているようですね。休ませましょう」
少女を助け起こそうと、フェスターが地面に片膝をついた。
「カリストフの間者でないと、何故言える」
シグルドは、従者の甘さをとがめるように、少女から視線を逸らす。
「仮にそうだとして」
少女の背に片腕を差し込みながら、女剣士は主を見上げた。
「わたしと貴方で、手に負えないような相手に見えますか」
シグルドはふてくされたように、ぐったりと弛緩している少女に視線を戻した。
年の頃は14、5だろうか。肩につくかつかないかほどの黒髪も、服も腕も、すべて土で汚れている。体は華奢で、まだ女性らしいやわらかさにも乏しい。
訓練を積んだ人間ふたりを相手に出来るとは思えない。
フェスターは、不遜なほどに強い眼差しで、シグルドを見上げる。
「それに、彼女が間者でないとしたら、本来貴方が守るべき領民ですよ。何より、お母上がよく仰っていたはずです。女性にはやさしくなさい、と」
「僕が運ぶ。お前の腕では無理だ」
しばしの沈黙の後、剣をおさめたシグルドが、フェスターが抱き起こした少女を受け取った。
フェスターは、二の腕から下が失われた左腕を見下ろし、苦笑する。
思ったよりも軽い少女の体を肩に担ぎ上げ、シグルドはさっさと野営地へ向かって歩き出した。
「……すまなかった。少し、神経質になっていたんだ」
隣に並んだフェスターに、囁きほどの小声で、シグルドは詫びた。
フェスターは、微笑しながら首を横に振る。
「いいんです。位が買えるほどの賞金が貴方の首にかけられているのは、本当のことです」
「フェスター」
改まって、シグルドが従者の名を呼んだ。フェスターは顔をそちら側へ向け、言葉の続きを待つ。
「僕は、成し遂げることができるんだろうか」
女騎士は、闇の中に浮かび上がる、主の端正な横顔を見つめた。
緑の双眸には、強い決意とともに、深い悲しみも揺れている。
フェスターは、主を襲った運命の過酷さに、そっと目を伏せた。
「わたしは、信じ続けています。――二年前の、あの日からずっと」
小さく吹き出す気配に、フェスターは伏せていた目を主に戻した。
「お前はいつもそうだ。できるどうかわからないことは、"できる"とは言わないな」
シグルドは、かすかな笑いを噛み殺したあとで、凛と顔を上げた。
「それでいい。お前はついてこい。その腕のケリも、僕がつけてやる」
深い悲しみを湛える瞳に、憎悪の炎が揺れた。
「ドラゴンを、殺す」
3.
空が燃えている、とルクスは思った。
陽が傾いて、空ばかりでなく、木々の葉や道のおもてまでも赤く染まっている。
日暮れまでには村に戻らなくてはならない。歩調を速めた。
隣町まで買出しを頼まれていたのだ。夕飯に必要な食材もある。家族を待たせることにも罪悪感はあるが、何よりもルクス自身が空腹だった。
まっすぐ続く道の果てに、灰色の岩山がせり出してくると、もう村は目前だ。
かつては貴重な石が採れることで有名だった鉱山も、今ではすっかり枯渇してしまい、村は貧しい生活を強いられている。
ルクスも年頃の娘だから、街道沿いにある隣町まで出かけると、着飾った同じ年頃の少女たちに目が行くが、必死に鉱山からの自立を目指す村に、誇りも持っている。
そして、何よりルクスが誇らしいのは、六つ年の離れた姉だ。美しく、器量もよく、料理も上手い。来月には、嫁入りが決まっている。
ルクスは、懐からネックレスを引っ張り出して、茜色の太陽にかざした。
黄昏時の太陽でも赤く染めることの出来ない、深い青の石。
この石は、自分の荷物を整理していた姉が、ルクスの首にかけてくれたものだ。
村がまだ鉱山の町として栄えていた頃から、家に伝わっているものらしい。姉も、母から受け継いだものなのだという。
「わたしはもうすぐ別の家に嫁ぐの。だからこの石は、今からルクスのものよ」
てっきりこの石も嫁入り道具のひとつだと思っていたルクスは、慌てて首を横に振ったのだが。
「お母さんには秘密ね」
まるで子どもの遊びのように、姉が口の前に人差し指を立てるものだから。
思わず頷いてしまったのだ。
幼い頃から着飾ったことなどないルクスにとって、初めての装飾品だった。何度も懐から引っ張り出しては、輝きを確かめてしまう。
急いでいたのも忘れて、ルクスが石の輝きを確かめていたそのとき、すぐ近くの林から、気味の悪い鳴き声と共に無数の鳥が飛び立った。
鳥に導かれるように空を見上げたルクスは、その場に膝から崩れ落ちた。
ぐるりと村を取り囲む灰色の山々の上に、漆黒の影が浮かんでいた。
巨大な翼が、風をはらみながら力強く羽ばたいている。
夕陽の赤を跳ね返す、艶のある漆黒の鱗、鋭い爪。鞭のようにしなる、長大な尾。
ルクスは、取り落とした荷物を拾うことも出来ず、足で地面を蹴るように、後退りをした。
ドラゴンだ。
この二年の間、ラッセルを苦しめ続けている、黒い悪魔。
悪魔は口を大きく開いた。ちりちりと、まるで蛇の舌のように、炎が揺れている。
伯爵様、助けて、と。
気づけばルクスは、叫んでいた。
けれども、無情にも。
ドラゴンの口から、劫火が溢れ出した。
*
「姉さん!」
自らの悲鳴で、ルクスは目を覚ました。
跳ね起きて、荒くなっている自分の呼吸に戸惑う。
小鳥のさえずりが、彼女を少しずつ悪夢と切り離した。知らず知らずのうちに溢れ出していた涙をぬぐいながら、あたりを見渡す。
生い茂る木々の只中に、ルクスは座り込んでいた。
頭上のあたりだけが、ぽっかりと開けている。晴れ渡った空に、雲がたなびいていた。
「目が覚めましたか」
どうして自分がここにいるのか思い出せずにいると、体の左側から女の声がかかった。
ルクスは、思わず体にかけられていた毛布を握り締め、声の主を振り仰ぐ。
女がひとり、座っていた。
鍛え上げられた体躯だと、旅装束の上からでも分かる。けれども、決して女性らしさを失っているわけではなかった。長く伸ばされた焦げ茶の髪は、首の後ろでひとつにまとめられている。
「具合はいかがです、水は要りますか」
「……誰?」
胸元に毛布を引き寄せたまま、ルクスは聞いた。見知らぬ人間だった。
それと共に、昨晩の記憶がありありと蘇る。自分は、殺されかけたのではなかったか。
女は動じなかった。姿勢を正し、深く頭を垂れる。
「昨晩は、大変失礼しました。謝って許されるものでもないとは思いますが、事情があり、気が立っていたものですから」
「伯爵様の敵なんでしょう!? だから、こんなところにいるんだ! だって、『神の庭』に入ってくる人間なんて、密猟者かお尋ね者しかいないもの!」
ルクスの口調は徐々に熱を帯びる。腹の底から、ふつふつと怒りが煮え滾り始めた。
「伯爵様は、領主様がいなくなってからずっと、ラッセルを守ってくださってるんだから!
ドラゴンを追い払う力だって、持ってらっしゃるんだ! ……なのに」
急に視界がくもって、女の姿が歪んだ。目元がじんわりと濡れたことに気づいて、ルクスは両手で顔を覆った。
「なのにどうして……ヴィントを守ってくれなかったの……」
もはや、怒りの矛先をどこに向ければいいのか、ルクスには分からなかった。
二年前、領主が喪われ、ドラゴンが現れるようになってからというもの、領民にとっては、カリストフ伯爵だけが頼りだった。
伯爵は英雄だった。
悪の化身であるドラゴンを、たちどころに追い払ってくれる。――そのはずなのに。
「……ヴィントの方でしたか」
深い溜息をひとつ落として、女が立ち上がる。草を踏んで、ルクスの傍らに膝をついた。
「村のことは、お気の毒でした」
いたわりをこめて、肩に置かれた手さえ、ルクスには不快だった。
「触らないで!」
思わず跳ね除けた手が、女の旅装束を捲り上げる。
暴かれたマントの内側を見て、ルクスは愕然と言葉を失った。
左腕の、二の腕から下が、なかった。
「ごめんなさい……!」
咄嗟にルクスは詫びた。
「あたし、知らなくて、ごめんなさい」
声が震えた。呼吸が乱れて、指先からつめたさが広がった。
女は激昂もせず、やわらかく微笑した。
「大丈夫ですよ。辛い目に遭ったのに、やさしいんですね」
女は、右手でそっと、ルクスの髪を撫でた。
何かを必死につないでいた糸が、ぷつりと、切れた。
「ふ、う……うう……」
あとは、言葉にならなかった。
ルクスは、隻腕の女剣士の胸に倒れこみ、声を上げて泣いた。
*
せせらぎから掬い上げた水を、口元へ運ぶ。
清涼な流れが咽喉を伝って体の奥へと流れ込む。
その流れは、川と呼ぶには細い。けれども、深い森の只中にあっては、貴重な命綱だ。
耐えず水に濡れているからか、周囲の岩は苔むしていて、滑りやすい。
シグルドは緑色に塗られた岩に片足を乗せ、足を取られないように張り出した枝を掴んで、小川へ身を乗り出していた。
シグルドは左腕で口元をぬぐいながら、枝に絡めていた右手をそっと、離した。
ゆっくりと、苔に足を取られないように気をつけながら、前へ傾けていた重心をもとに戻す。
枝から取り戻した右手は、左の腰へと伸ばす。
シグルドは振り向き様に、鞘から剣を抜いた。
「貴様、何者だ」
「おっと、穏やかじゃありませんね」
シグルドの背後で、ひとりの男が驚いたように両手を挙げた。
背に大きな荷物を背負った旅装束の男。その姿は、街道などでよく見かける行商人に似ている。
「見ての通り、ただの旅商人です」
剣を突きつけられているとは思えないほど落ち着いた様子で、男はへらりと笑った。
「足音を立てずに人の背後に近づくのが、最近の商人の流儀なのか」
男は両手を上げたまま、芝居がかった様子で肩をすくめて見せた。
「どうも、癖でね」
背の高い、軟弱そうな男だった。足で歩いて荷を仕入れ、売りさばいている商人には見えない。白っぽい金髪に碧眼の優男で、腕が立ちそうでもない。
けれども、背後に回られるまで全く足音がしなかった。
只者ではあるまい。
男は、まるで突き刺すようなシグルドの視線を受けて、苦笑した。
「しかし、そんなに毛を逆立てて威嚇していては、すぐにバレておしまいになりますよ」
はっ、と息を飲むシグルドの反応に、男は意味ありげに口元を吊り上げて笑った。
「――シグルド・グロリア・ラッセル様?」
男はわざと言い聞かせるように、丁寧にその名を発音した。
「お前は、何者だ」
「親殺し、民殺しの大罪人が、人々が畏れ嫌う『神の庭』で何をしていらっしゃるんです?」
シグルドは、半ば振り返っていた体勢から、素早く男に向き直った。剣の刃を、男の首に押し当てる。
「何者だと訊いている」
「ただのしがない商人です」
咽喉元に刃を押し当てられながらも、男は泰然とシグルドを見下ろす。
「しがない商人が、忌み嫌われているはずの『神の庭』で何をしている」
「商品を手に入れるためには、多少の危険は止むを得ません」
男は涼しげに、青い双眸を細めた。
「こんな森に、どんな商品があるっていうんだ」
「モノばかりが売り物ではありませんよ。活きのいい情報だって、立派な商品ですからね。たとえば、『ドラゴンを崇める一族が暮らす村の傍で、大罪人の公子を見た』――とかね」
「貴様っ……!」
いきり立って、シグルドは男に更に詰め寄った。鋭い刃が、男の咽喉もとにうっすらと傷を残すが、商人はたじろぐ様子もない。
「貴方は本当にまっすぐなお方だ」
それどころか、烈火のごとくに憤るシグルドを、幼子をいたわるような眼差しで見下ろしたのだった。
怒気を削がれ、シグルドは男の咽喉に押し当てた剣を引いた。後ろに半歩下がり、慎重に距離を取る。
「カリストフの手の者か」
「いいえ、俺は貴方の敵ではありません」
「味方だ、とでも言うつもりか」
男はゆっくりと首を横に振る。
「俺はただ、貴方の道行きに興味がある。貴方が何を求め、何を為すのかが知りたいだけです。敵でも味方でもない。今はね」
両手を胸のあたりまで挙げた降伏のポーズで、男はへらりと笑ってみせた。
シグルドは半ば驚き、半ばあきれて、剣を鞘にしまいこんだ。
「消えろ、不愉快だ」
シグルドが吐き捨てると、男は芝居がかった様子で一礼をした。
「カイル・モーガンと申します。以後、お見知り置きを、シグルド公子」
「貴様、いい加減に……」
乾いた小枝を踏み割る音が、シグルドの声を遮った。
音を振り返ると、一本の木にすがりつくように、少女が立っている。
昨晩保護した少女だった。
彼女は、こぼれんばかりに瞳を見開いて、シグルドを見つめている。
その瞳に、燃え上がるような憎悪が宿った。
「うわあぁああ!」
獣のような咆哮をあげ、少女は木陰から飛び出した。勢いに任せ、シグルドの体を地面に押し倒す。
受身も取れぬまま、シグルドはしたたかに背中を打ちつけ、地面に転がった。
衝撃で呼吸もままならない咽喉に、何かが絡まりつく。
「殺してやる!」
馬乗りに乗り上げた少女が、首に手をかけていた。
少女の華奢な体のどこに、これほどの力があったのか。首を締め上げる腕を振り解こうともがいても、一向に外れない。
ぱたっ、と。
酸素を求めてもがくシグルドの頬に、水滴が落ちてきた。
ぼんやりとする意識の中で、雨が降ってきたのか、と思う。
けれど、頬の曲線を伝って流れ落ちるその雫が、あたたかいことに、遅れて気がついた。
きつくつぶった瞼を押し上げて、シグルドは、自分を殺そうとしている少女を見上げた。
「なんで、ヴィントを焼いたの……?」
またひとしずく、少女の瞳から水滴が落ちてきた。
次第に、首を締め上げていた手の力がゆるむ。
「姉さんはもうすぐ、お嫁に行くはずだったのに……。隣の家だって、赤ちゃんが生まれたばっかりだったのに! ドラゴンが……全部奪ってしまった!」
少女は、一際大きな嗚咽を飲み込んで、唇を噛む。
シグルドの咽喉から離した両手で、顔を覆った。
その両手が、ひどく土で汚れ、所々傷ついていることに、シグルドは気づいた。
「……やはりヴィントは、ドラゴンに焼かれたのか」
「ふざけないで!」
少女の怒声が降ってきた。
泣き腫らして赤くなった瞳で、それでもシグルドを射殺さんばかりに睨みつける。
「とぼけないでよ! 自分でやったくせに! 城のひとたちも、ドラゴンを使って殺したんでしょ! 自分の親まで……人殺し!」
「僕はやっていない」
両腕を広げて大地に転がったまま、きっぱりと、言った。
少女は狼狽した。
「うそ。だって皆、そう言ってる……」
「城を焼き、父や母、兵士たちの命を奪ったのは――カリストフ伯だ」
「うそ! だって、伯爵様は、ドラゴンを払う力を持ってらっしゃるもの! 今まで、たくさんの町や村をお救いになって……」
「それは全て、あの男がその場にいたときの話だろう。あの男が持っているのは、ドラゴンを打ち払う力じゃない。ラッセル家に代々伝えられてきた、ドラゴンを呼び出す宝珠『ドラゴンオーブ』だ」
「そんなの、うそだ……信じない!」
少女は、汚れた両手で耳を塞いだ。妄言を振り払うように、首を横に振る。
「カリストフはお前の村を助けてくれたのか!」
「いやだ、聞きたくない!」
少女は、金切り声をあげて、シグルドの言葉をさえぎる。必死に耳を押さえ、ふるえている。
シグルドは、腰から鞘に入った短剣を取り出し、自らが刃のほうを持って、柄を少女に差し出した。
差し出された短刀を不思議そうに見て、少女はゆっくりと耳から手を離す。ふるえる手で、柄に触れた。
「……僕は、自分の無実を証明することができない。だからお前には、僕を憎む権利がある。お前の刃なら、僕は受け容れる」
少女は、剣の柄を両手で包み込んだ。美しい装飾が施されたその柄には、紛うことなく、ラッセル家の家紋が彫りこまれている。
「もう少し時間をくれないか。僕は、絶対にカリストフを打ち倒すと決めた。僕が伯爵を打ち倒して、それでも僕を憎む心が止められないなら――その短剣で、僕を刺せばいい」
しばしの、沈黙があった。
ざわざわと、渡る風に木々が揺れ、無数の鳥が飛び交った。
「これから、どうするの」
手にした短剣をじっと見つめたまま、少女は訊いた。
「"ふたつ緒の村"に行く。ドラゴンを崇めている、と人々から忌み嫌われているが、何か打ち倒す方法があるかもしれない。あのドラゴンさえ無力化できれば、カリストフに勝つのは不可能ではない」
また、少女は黙り込んだ。じっと、何かを思案している様子だった。
やがて、短剣の柄を強く握り締め、立ち上がった。
ようやく解放されたシグルドも、少女と向かい合うように立つ。
少女は、意志の強い瞳でシグルドを見あげていた。けれど、そこには狂気じみた憎悪は既になかった。
「あたしは、自分で見たものしか信じられない。だから」
胸元に、お守りのように短剣を抱えて、告げた。
「あたしも連れて行って」
【つづく】