「Please call my name」
【前編】
―――あの臭いを覚えている。
薄く開かれた扉の向こうから、滲み出す生々しい鉄の臭い。
遊び疲れて、家に辿り着く頃には、もうすっかり空は暗く。
いつもは夕闇にぼんやりと柔らかく浮かぶ、オレンジ色の家の明かりが見えないことを不思議に思いながら、ドアを開いた先。
足元に腕が見えた。白く細くしなやかな愛おしく自分を撫でた腕。
ひたひたと、茶色い床を汚す赤黒い海。
白い壁に、まるでスプレーでもしたように散った、飛沫。
むせ返るような生々しいその臭いに、思わず口元を覆った。
まるで獣のような呻き声が自分の口から漏れてゆく。
止めることなど出来ない。垂れ流しだ。
小さな体に、小さな脳ミソに。鮮烈に刻まれたその情景は、今もなお消えることがない。
手前にひとり。奥にひとり。
この小さな体を愛し、「息子」と呼んでくれた二人。
たった二人の肉親を、俺はこういう形で失った。
ある日突然に。
1.
「オイ、起きろ。時間だぞ」
どさりと、仰向けに寝転んだ腹になにやら重いものを投げ落とされ、一瞬呼吸が止まった。
「……何しやがる……」
反射的に跳ね起きたのは、狭い部屋だった。
鳩尾を防御もせずに殴られたような息苦しさと鈍い痛みが、吐き気となって食道を駆け上る。
腹の上を見ると、四角く膨らんだ黒いカバンがあった。
よくもまぁ、こんな重いものを上から腹に落としてくれたもんだ。
犯人はもう既にこの部屋を出ている。閉まりきらずに半ば開いた薄いドアを見て、舌打ち。
もっとマシな起こし方はねぇのか。
おかげで、酷く唐突に夢から引きずり戻された。後味も雰囲気もそのままに。
気持ち悪い。
頭からズレて背中に回っていた枕を持ち上げて、半ば開いた扉に向かって投げつけた。
ぼふっと気の抜けた音がして、ドアが閉まる。
たったあれだけのスキマが、どうしてこんなにもこの心をかき乱すのか。
幼い頃に刷り込まれた情景のせいだとしても、忌々しい。
「おい、ファスト!! いい加減に起きろッつってんだろ!?」
向こう側からガン、とドアを蹴る音に、ファストは仕方なくベッドから降りた。
今日は薬の取引に同行する予定だったことを、今になって思い出した。
*
首都、カルチェ・ラタン。
信仰と政治の源の下町で、生まれた。
両親のほかに肉親はなく。そのことについても別に、気にしたこともなかった。
十分幸せだったのだ。
しかしその幸せは、ある日突然崩壊した。
6つか7つになる頃だっただろうか。
家に戻ると、玄関は半ば開いており。夕方を過ぎていると言うのに電気すら灯っておらず。
不審に思ってドアをあけると、目に飛び込んできたのは両親の変わり果てた姿だった。
年を重ねてゆくうちに徐々に手に入れていった真実をツギハギさせると、こうだ。
父親は、地方都市ロレーヌを牛耳るヴォルディモート教会の後継ぎで、母は、その街の街娘。
身分違いの恋だった。
若い二人は手に手を取って駆け落ち。人が多すぎて、逆にまぎれられるだろうと、カルチェ・ラタンにやってきた。
祖父は血眼になって父を探した。たった一人の後継ぎだったからだ。
ようやく見つけて連れ戻そうとしたら、思いのほか抵抗するので。
支配することに慣れきっていた祖父は逆上し、二人を銃殺した。
その時ちょうど出かけていた俺は、全てが済んでしまってから、その惨状へたどり着いたというわけだった。
祖父は、すぐに俺を引き取ろうと言い出した。
数回しか見たことは無いものの、その顔は今でも忘れられない。
両親を殺しておきながら、いけしゃあしゃあと、一緒に暮らそうと手を差し伸べる。
卑しい顔。
父親が懇意にしていた商人、ゲールート家の主人が、手を差し伸べてくれた。
―――成人するまで、カルチェ・ラタンで修行させてはどうでしょう。私が面倒を見ますよ。
嫌がって暴れる俺に手を焼いていた祖父は、その妥協案に飛びつく。
その日から、俺はゲールート家の養子となった。
ゲールート家には、同い年のカレスという子供がいた。
おっとりとした、物腰の優しい、心の穏やかな子供だった。
俺は、養子という立場をちゃんと分かっていたから、ゲールートの人間が何かとカレスを立てるのを、別に気にしたことはなかった。
はっきり言ってしまえば、カレスよりも勉強も運動も出来たけれど。
屋敷に仕える人々が、小さなことを見つけてはカレスを褒めることも、別段悪い気はしなかった。逆に、一緒に讃えてやりたい気もした。
心優しいカレスが、好きだったからだ。
―――ファスト、ごめんね……。
しかし、その優しい心を痛め始めたのは、褒められる本人だった。
屋敷の人々が何かと自分を持ち上げることで、俺に罪悪感を抱き始め。
人の褒め言葉を、上手く受け取れなくなったのが、中等学校に上がる頃のこと。
今まで対等でいられた二人の間に、罪悪感と言う溝が出来た。
カレスは必要以上に俺に気を使うようになり、俺にはそれが窮屈だった。
中等学校を卒業する頃、俺は養父であるカレスの父親に申し出た。
掘っ立て小屋でいいから、小さな家をください。俺は、この家をでます、と。
ゲールート氏は、困ったように笑うと、一言だけ言った。
―――すまないね。と。
カレスと離れて暮らし、あいつは商業の道へ、俺はまるでそれが当然のことのように神学の道へと足を踏み入れた。
が。祖父と父との確執や、この世界を取り巻く"教会"のあまりの強力さとその不条理さに、次第に学ぶ気力を削がれていった。
そのときだった。あの男と出会った。
奴は言った。
―――私を信じろ。
*
(この程度か)
仕事を終え、目立たぬ酒場で夜明かしをした後、ようやく賑わいだした街へ出て、手の内の報酬を見た。
いまだ学生であるファストが手にするには、大きな額だ。が。
こんなもんじゃない。
それでもそう思ってしまうのは、ファストのあまりの志の高さ故か。
(俺の目指すところはこんなもんじゃない)
そのためには、こんなにちまちまとした悪行を続け、ちろちろと反乱の火を燻らせているわけにはいかないのだ。
こんなのは、反政府でもなんでもない。ただのチンピラじゃないか。
と、顔も出さなかった統率者に、心の中で悪態をつく。
ランドウ・アンティクリスト。
ファストが籍を置く大学の、やり手と呼ばれる助教授の名だ。
完璧な作り笑顔で宗教史なんぞの教壇に立つくせに、裏では数々の反政府・反響会組織と繋がっている。
食えない男だ。
ファストが、彼の研究室に呼び出されたのは、半年ほど前の話だ。
『君。何を考えてるんだ?』
最低限の礼儀だけを守って踏み込んだ研究室は、生活感が全く見られないほどに整えられていた。
その中にたたずんでいた黒髪に青い瞳のいかにもインテリ然の男は、フレームなしの眼鏡を引き抜くと、そう言った。
またお小言か。
そう思って、ファストはげんなりする。
ふざけた、そしてどう答えて欲しいのかが見え見えの答案に、全く的外れのものを書く。
最近そういう楽しみを覚えたばかりだった。
それについて散々、「君は何も理解していない」と教授たちからお小言を言われてきた。
こいつもそんなもんか。
『君は随分、宗教史や宗教への考え方への造詣が深いみたいだ』
『嫌味ですか』
『いや? 褒めているんだよ、素直にね。こんなに綺麗に"外して"ある答案は初めてだ』
『………………』
『そして、大げさに外した答えにも、センスがある。深く知っていなければこれほどのことも書けないだろう。まぁ、頭の硬いご老体の教授方には理解しがたいかもしれないが……。これはなかなかの、危険思想だよ』
『ご忠告痛み入ります』
『そう硬くならないで欲しいものだ。私は君に期待しているんだ。―――どうだ、ひっくり返したくは無いのか?』
椅子に座ったまま、目の前に立つファストを見上げ、ランドウは声を低めて囁いた。
『質問を繰り返そう。"君は一体何を考えている"? この社会を、"信じて"いるのか?』
大きな机に頬杖をついて、深い青い瞳を向けてくる。上目遣いに。心の中にもぐりこむように。鋭く。
『君の頭脳と情熱があれば、決して不可能じゃない。私にそれらを提供するつもりがあるのなら、私も協力を惜しむつもりは無い。どうだ』
『なにを……』
『私を信じろ』
2.
朝の市場は人でごった返していた。
よくもまぁ、こんな朝から元気に出歩けるもんだ。
徹夜で、もう眠りたがっている頭。芯のあたりが冴えているのだけが分かる。
「……ト、ファストってば!!」
人込みを縫うように歩いていると、突然後ろから肩に手を置かれた。
たったさっきまで、薄汚い裏社会の真っ只中にいた体は、かなり敏感に反応する。
ばっと振り返ると、よほど恐ろしい顔をしていたのか、後ろに立っていた女がびくりと震えた。
胸元にかかった銀のロザリオが、光を反射して、揺れる。
「……なんだ、ニナか……、驚かせるなよ」
「びっくりしたのはこっち! なによ、後ろから肩に手を置いただけじゃないの!」
腰に手を当てて、ぷぅと頬を膨らますと幼い顔が更に幼く見えた。
これで自分よりひとつ年上だというのが、ファストには信じられない事実だ。
「こんなところで何してるんだ」
「なにって、朝市の買い物」
泣いたカラスがもう……とはよく言ったものだ。ニナはくるくると表情が変わる。
「朝市の買い物? ゲールート家の未来の奥様が、そんな必要あるってのか?」
「もう! 冷やかさないでよ! 今日は月に一回の大きな市場の日だから、見に来たのよ!」
ニナは、ゲールート家に代々仕える専属料理人の娘で、ゲールート家の敷地内に家がある。
そういう関係上で、幼い頃からカレスやファストと付き合いが深い、いわゆる幼なじみと言うやつだ。
現在は、カレスの婚約者でもある。
一方的に惚れ込んでいたのはカレスのほうだが、今ではニナもしっかりとそれに応えている。
「ファスト?」
小柄のニナが、すっと手を伸ばして、ファストの頬に触れた。
ぞくりと背筋を駆け上がる、訳のわからない感情が、心臓を鷲掴みにする。
「顔色悪いけど、寝てないの?」
クマ出来てる。そう言って、柔らかい手をわずかに頬に滑らせた。
「最近は屋敷にも全然顔出さないし、旦那様もカレスも、心配してるんだから」
掌から伝わる体温。心底心配しているような、柔らかな鳶色の瞳。
(やめろ……)
「大学にもあまり顔を出してないって言うし、家にもあんまり帰ってないって言うし……、何かあるの?」
(そうやって、どんな防御壁も中和して、勝手に中に入ってくるのは止めろ)
黙りこんだままのファストに、ニナは不審げに眉をしかめた。
「ファスト……」
「やめろ!」
ぱしっと乾いた音がした。ファストが我に返ったのはその一瞬あと。
二ナの手を払い除けたのだと気付いたのも。
「なによ! 心配してるんじゃないの!」
「誰が頼んだんだよ、そんなこと」
引き返せと、頭の中で冷静な自分が宥めた。どんどん意地になって、どんどん引き返せなくなる言葉を紡ぐ口唇を、なんとか止めようとする。
が、睡眠の足りない脳は、あまり感情を制御できずに。
心にもない言葉が口から滑り落ちた。
「お前には関係ない」
「何よその…………」
二ナの言葉が、途中で不自然に途切れた。
怒りでは無い、敢えて言うなら痛みをこらえるように顔をしかめ、腹部を押さえる。
「おい、ニナ……」
手に下げていた籠が落ち、中から果物が零れ落ちた。
籠を持っていた方の手で口元を覆う。みるみるうちに顔が青ざめ……。
どさりとそこに倒れこんだ。
ざわざわと、人の流れが停滞し、円形に人垣が出来る。
誰か医者を。
人込みの中からそんな声がして、やっとファストはニナを抱き上げた。
*
「おめでたです」
「は?」
思わず聞き返してしまった。
目の前に座った老年の医者は、伸びすぎた眉毛に隠れた小さな目をしょぼつかせて、律儀に繰り返した。
「おめでたです」
「本当ですか!?」
今度聞き返したのは、ベッドの中のニナだった。
がばりと勢いよく体を起こすのを、看護婦が止める。
「わぁ、そうなんだ……。どうりで最近体の調子が良くないと思ってたのよね」
看護婦の制止も振り切って、ベッドから降りてしまう。
「もう大丈夫です。家に戻りますから」
にっこりと微笑む顔からは、嬉々とした感情が溢れ出ていた。
「でも……」
制止し切れなかった看護婦が、心配そうに声を掛けるが。
「大丈夫です。ちゃんと送り届けてもらいますから!」
と、無責任にニナは、ファストの腕に自分の腕を絡めた。
具合の悪さも、妊娠の所為だとわかったら、すっかり飛んでしまったのだろうか。
こういう無意識からの行動は、止めてもらいたいんだよな。
ニナの腕が見事に絡んだ自分の腕を見下ろして、ファストは溜息をついた。
「お大事に」
にこにこと手を振る老医師に見送られて、ファストとニナはその町医者をあとにした。
まだその兆候さえ出ていないのに、ニナはしきりに自分の腹部へと手をやる。
「子供かぁ……」
そう呟いて、幸せそうにへら、と笑う。
「ガキがガキ産んでどうするんだよ」
「なによそれ〜」
からかうように言ってやると、ニナは素直に膨れた。
「そういうところがガキだって言ってんだよ」
「男の子かな〜、女の子かなぁ〜」
ニナは気にせず、幸せな想像へと心を飛び立たせていた。
「ゲールートの家にしてみれば、きっと男の子が欲しいんだよね。でも、女の子もいいなぁ。色々一緒に服選んだりするの、楽しそうじゃない?」
「知るか」
「ファストってばつまらない」
「つまらなくて結構」
「ねぇねぇ」
本当にこいつの感情の起伏にはついていけない。表情だけでなく感情もくるくると変わる。
くいくいと少し下から服を引っ張る仕草に、面倒くさそうに視線を合わせる。
視線を合わせた鳶色の瞳は、少し不安そうに。
「……カレス、喜ぶと思う?」
「……今からあいつの踊りだす様子が目に浮かぶよ」
「へへ、ありがと」
ニナは少し、照れくさそうに笑った。
*
―――ねぇ、帰ろう?
柔らかい光の中に、差し出される小さな手を思い出す。
町外れにある、ゲールート家の庭園にある離れは、子供達にとって格好の隠れ家だった。
ファストへの罪悪感を押さえきれないカレスは、次第に卑屈になり始めた。
泣き喚いてヒステリー気味になるカレスを押さえるためには、たくさんの言葉を並べるよりも、距離を置いた方が良かった。
そのため、ファストはよくこの離れに来ては一人で本を読んでいた。
迎えにくるのはニナの役目だった。7つ年下の弟の手を引きながら、掘っ立て小屋のドアを押し開く。
母親の形見だという銀のロザリオが太陽の光を反射してきらりと輝く。
『またケンカしたの?』
『違う。あいつが泣くから出てきたんだ』
父親譲りらしい視力の弱さを補うためにかけた眼鏡を引き抜いて、本から顔を上げた。
『意地っ張り』
『うるさい』
『ね、帰ろ?』
ファストの手から本を奪い取って、隣の弟に手渡し、手を差し出す。
『おうちに帰ろう?』
いつも仕方なく、妥協してやったフリをして、ファストはその手を取る。
それをいつも待っていたことに、いつまでも気付かずにいた。
それはまだ、幼い頃の話だ。
……何で自分が今、ここにいるのかよく分からない。
もう半年近く、この敷地に足を踏み入れたことなんてないのに。
何故今、ニナに手を引かれて、大きな玄関をくぐったのだろう。
迎えに出たカレスが、ファストの顔を見てぱぁっと瞳を輝かせた。
「ファスト! 一体どうしたんだい!? いや、そんなことどうでもいい。朝食は? まだなら一緒に……」
まるで犬のようだな、とファストは思った。
カレスの後ろに、ふさふさと揺れる尻尾を見たような気がした。
だけど、嫌いじゃない。
「それより、こいつから報告」
と、隣に立つ二ナの頭に、乱暴に手を乗せてやる。
「ニナ? どうかしたの? やけに帰りが遅かったけど……」
「遅いも何も、路上でぶっ倒れたんだよ」
「え!? それで平気なの!? 大丈夫なの!?」
今度は耳も尻尾もぱたりと垂れている。まるで自分が具合が悪いかのように顔を真っ青にして、ニナの両肩に手を置いた。
「それが……、それがね、私……」
いざとなると、真っ赤になって俯く。
さっきまでの勢いはどうした、と背中を押してやろうとしたとき、食堂に続く扉が開いて、しばらく見なかった顔が覗いた。
「やあファスト、久しぶりだ。元気だったかね?」
カレスの父で、この屋敷の主。自分の一応の養父。レイドル・ゲールート。
やり手の商人とは見えない、紳士的な相手の態度に、ファストはおどけるように肩を竦めた。
「まぁ、それなりに」
ファストのその返答に、レイドルは苦笑して、言葉を続けようと口を開いた。
が。
「やったあ!!」
感極まったカレスの絶叫に、生まれるはずだった言葉は飲み込まれてしまった。
「おめでとう、ニナ!!」
「ばか……、"おめでとう"はカレスもじゃないの……」
「あ、そうか」
言い合っては同時に顔を赤らめるふたりに、苦笑するファストと、訳がわからず怪訝そうな顔をするレイドル。
幼いあの頃のような、和やかな空間がそこには、確かにあった。
「おめでとうニナ。これはいよいよ、結婚を早めなければいけないかも知れないな」
食堂で、食後のコーヒーを堪能しながら、レイドルが口を開いた。
ニナは、心底嬉しそうな顔をして、「ありがとうございます」と返した。
「旦那様、そろそろお仕事の時間でございます」
「おっと、もうそんな時間か」
お抱えの執事がレイドルの横から囁いた。
ゆっくりとコーヒーを堪能する時間もないわけか、と溜息をつき、レイドルは、残りのコーヒーを一気に嚥下すると立ち上がった。
「ニナ、ジェードに診てもらうといい。……ファスト、ゆっくりしていきなさい」
お抱え医師の名前を口に出し、レイドルは颯爽と食堂を後にした。
「それにしても、ファスト、久しぶりだね」
訪れたわずかな沈黙を破ったのは、カレスだった。
コーヒーカップを口元に運びながら、この世の天国を味わったような、幸せな顔で微笑んでみせる。
「ねぇカレス、ファストの顔色、悪いと思わない? それに目の下にクマが出来てるの」
コーヒーの飲めない猫舌のニナが、適度に温くなったミルクティーを口に運びながら、カレスに問題提起する。
「そういえば。大丈夫? 眠いなら寝室使ってもいいよ」
「きっと夜遊びなの」
ふふふ、と、ニナがからかうように言った。
普通なら、苛立つはずなんてない。流せる言葉が。
睡眠が足りてない、理性が著しく欠如した思考には刺さり、薄汚い取引の後の、やさぐれた心に沁みた。
「だって最近、こっちにも顔出さないし、学校もあんまりって。きっと、誰かイイ人でも出来たんじゃないかな〜って、私は思うのね」
「なるほど」
へらへらと笑いながら、本人の意思など関係なしに話を進めてゆく二人に、募る苛立ち。
ただの八つ当たりで、ただのやさぐれでしかないと分かっていながら、自分を宥める術を持たない。
何も知らないくせに。自分勝手な悪態が、心の中に生まれた。
「それにしても、本当に最近こっちに顔は出さないし、訪ねて行っても家にいないし……。一体どうしてるんだい?」
「……いちいち、そんなもの全部、お前に報告しなきゃいけないのか」
己の口から滑り落ちた、あまりに低く冷たい声に、ファスト自身が驚いた。
和やかだった場の雰囲気が、一瞬にして凍りつく。
「そんなつもりじゃなくて、僕はただ心配を……」
「それが鬱陶しいんだ!!」
勢いをつけて立ち上がると、がたりと椅子が後ろに倒れた。
その音に、怯えるようにニナが震えた。
「だって、ファスト。僕たちは"兄弟"だろう?」
この屋敷で、同じ時を重ねて育った。だから……。
何かを求めるような、カレスのそんな瞳。柔らかい、いたわりを含んだ瞳。
穢れを知らないその瞳が、汚れきったこの心を突き刺して、抉るような気がした。
「そんなの……、いつ決まったんだ」
何も知らないくせに。
夜毎、違法であるドラッグを売りさばいたり、チンピラ集団と小競り合いしていることなんて。
それを知った後も、"兄弟"なんて言えるのか?
「ファスト!!」
縋るような声が背中に絡みついたが、構わない。
そのまま食堂を後にした。真っ直ぐに玄関を抜け、広い庭を抜け、門を出た。
ひたすら和やかで柔らかな空間が、今はただ。ただ痛いだけだ。
「やぁ」
門を抜けたところで、すぐ横から声がかかった。
体の隅々まで絡み付いてくるようなその声音には、聞き覚えがある。
「おはようファストくん。いい天気だね」
全てを見透かした上で、見当違いの言葉を放ってよこす。
物分かりの良い、頭の切れる、優しい助教授を演じてみせるそのサマ。裏側を知っているだけに、反吐が出る。
「助教授こそ、朝の散歩ですか」
待ち伏せていたに違いないことぐらい、自分にだって分かる。けれど、苛立ちをどうしても抑えることが出来ずに、効かないとは知っていても嫌味を言うのを止められない。
「そんなところだ。運良く、君が見つかった」
するりとかわされる。分かっていても、苛立たしい。
「昨日の"集まり"には、お出でになりませんでしたね」
「ああ済まない。ちょっとね、"研究"が立て込んでいたんだ」
「何の研究だか……」
下卑た笑いと共に、吐き捨てる。それすら彼にとっては、何のダメージにもならないことぐらい、重々承知で。
「君と話がしたいんだが。そうだね、お題は"神について"でどうだい?」
くい、顎で招く先に、一台の車が止まっていた。
偽善者を気取るとき特有の、フレームなしの眼鏡の奥で、青い瞳がスッと細められた。
拒否権なんて、ない。
「分かりました」
せいぜい、厭味ったらしく丁寧な言葉で応じてやることぐらいしか、取れる手段は残されていなかった。
*
「昨日の取引は、上手くいったみたいだね」
「上手くいかないほうが、おかしいでしょう」
「あはは、それはそうだ」
車がどんどん街中から遠ざかり始めると、ランドウは、フレームなしの眼鏡を引き抜いた。
ペルソナをはがすその行為。温厚な神学の助教授から、背教者に成り下がるその瞬間。
「……こんなことを続けて、本当に何かが変わるってのか」
相手の変化に合わせて、こちらも口調を変えてやる。
「こんなの、ただのチンピラと何が違うってんだ」
「その通り。何も違わない。だが、小さな波紋はやがて数々の波紋を生み、小さなうねりもやがては大きな波に……」
「改革は何代も後の子孫に託せと? 馬鹿らしい。そんな、何年も何十年も先のために、全てを賭けてやる気はないんだ」
「"革命"は、ハデに鮮烈に……か? なかなか君も野心家だね」
「俺はこの体制が気に入らないんだ」
政府とは名ばかり。全てを取り仕切っているのは教会。
ほぼ完璧な独裁体制以外の、なにものでもない。
刃向かう者は"背教者"の烙印を押され消される。異端と指を指され、追われる身になる。
一体これのどこが、"神に選ばれた楽園"だというのか。
「まぁいいさ。本題に入ろう。……最近、教会サイドがさすがに私たちを煩く思い始めたらしい」
「そうですか」
「そこでひとつ、教皇でも誘拐してみようかと思ってるんだが」
まるで、ちょっとそこまで買い物に行こうと思っている、とでも言いたそうな軽いその口調に、ファストは一瞬流しかけて、固まる。
「…………本気で言ってるのか?」
「私が冗談を言ったことが?」
そんなこと、掃いて捨てるほどある。けれど、ランドウのわずかに刺を孕んだような口調が雄弁に語っていた。
奴は本気だ。
「もちろん、私は君を信頼してこの話をしているんだ。君にも力を貸して欲しいと思っている」
「……なんですか、これ」
目の前に差し出された、ランドウの三本の指に、ファストは訝しげに眉をひそめた。
「三ヵ月後、私たちの大学から教皇庁へ学生を派遣することが決まっている。もちろん、今度の試験での首席だ」
「………………」
「私は教授達から君の指導を仰せつかっている。―――三ヶ月。その間に君には首席になってもらう」
「なっ……!」
「難しいことじゃないだろう。君にとっては」
不可能では無い。確かに。"どうすれば教授たちの気に入る答案が書けるか"なんて、分かりきってる。
だがそれが、どれほど苦痛か。
ファストは、口唇を噛み締めて、隣に座る男を見据えた。
相変わらず、助教授は大したことなさそうな顔で、薄く笑って見せた。
「……いいのですか」
「何がだね」
ファストを彼の自宅前で降ろした後の車内。今まで一度も口を開かなかった運転席の男がランドウに声をかけてよこした。
「危険ではないのですか。このような近くに置いておいて。……察しはしませんか」
「手の内に入れれば入れるほど、勘は鈍るものさ。手の内に飼っておいて、適度に餌を与えておけば、満足させることなど。ましてや」
ランドウは、内ポケットから煙草を取り出すと、一本咥え、ケースをぐしゃりと握り潰した。
「飢え死にさせることなんて、容易い」
ランドウがゆっくりと手を開くと、歪んだケースと、中に残っていた折れた煙草とがばらばらとシートに落ちた。
「武器はいつも、諸刃の刃の方が強いものさ」
3.
「ファストさぁん、こんにちはぁ」
間延びした声と共に玄関の扉を叩く音がする。
昨日遅くまで聖書と格闘していたファストは、ぴりぴりと渇いた痛みを訴える目を押さえながら、玄関へと出た。
「うわぁ、目が真っ赤ぁ」
ドアを薄く開けると、太陽の光と共に耳に刺さるような高い声が聞こえてきた。
「……ニナ」
「明日で試験最後なんだってね。最近頑張ってるみたいだから、差し入れ」
にっこりと微笑む二ナの顔は、最近心なしか少しふくよかになった気がする。
「ああ、悪いな」
差し出された籠を受け取って、それでもう終わりにしたかった。
もう一度ベッドに倒れこんで、数時間ぐらい惰眠を貪りたい。
何しろここ数日ろくに眠りもせずに試験勉強をしていたのだから、仕方がない。
が。
「ねぇそれからファスト! 聞いて!」
「あ?」
面倒くさそうに返事を返すが、腕のあたりを掴むニナの顔があまりに無邪気なので、振り払うことも出来ずに。
「この間検査したらね、子供の性別が分かったの。産まれるまで調べるか調べないか迷ったんだけどね、名前を早く考えたくて。それで、どっちだったと思う?」
「……どっちだったんだよ」
「へへへ〜、男の子」
「へぇ。で、なんだよこれは」
目の前に差し出されたピースサインに、ファストは眉をしかめた。
「ふたり」
「?」
「双子なの!! ね? すごいでしょ? すごいでしょ〜?」
「へぇ」
今度は、間に合わせの返事ではなく、本当に驚いた。
目を見開いて、素直に「すごいな」と呟いてしまった。
「名前もねぇ、もう決めてあるの」
「はぁ?」
今度は呆れてしまった。いくらなんでも、あと5ヶ月近く先の話だ。そう言ってやると、「早くからそう呼んであげたいんだもん」と切り替えされて、反撃することができなかった。
「この間私、ここから古代語の辞典借りていったでしょう?」
「ああ」
そう言えば、と思い出す。その頃は頭の中に知識を詰め込むのに精一杯で、いつだったかもおぼろげなほど記憶が曖昧だ。
「"ハルト"と"レイ"っていうのよ。古代の言葉でね、"翼"と"光"を表すのよ。素敵じゃない?」
何度か、冴えない頭の中で繰り返してみる。そして。
「……悪くないな」
「でしょう?」
目立ち始めた腹部を押さえて、ニナが満面の笑みを浮かべた。
「姉さんっ! やっと見つけた。やっぱりここだったんだな!」
通りの向こうから大声を上げながら駆け寄ってくる少年の姿がある。ニナと同じ淡い茶色の髪に鳶色の瞳をした、快活そうな少年。
「ジェイク!? どうしたのよ?」
「どうした、じゃないよ……。今日はジェードさんが調子を診てくれる日じゃないか。時間までには戻ってくるって言ったのに、帰ってこないから……」
「えっ!? もうそんな時間なの!?」
ニナの年の離れた弟であるジェイクは、ファストの目から見れば、「姉よりもしっかりしている」ように見える。
だが、同じ血は争えないもので、屈託がなく、好奇心が旺盛なところはそっくりだ。
なぜかはよく分からないが、ファストを実の兄のように慕い、やたらと引っ付きたがるのだ。
「ほら、そこに迎えの車が来てるから早く乗って。オレはこのままぶらぶらして帰るから!」
と、姉の背中を押して、少し離れたところに停まっている車へと押しやる。
分かったから押さないでよ、と少し膨れて見せた後、ニナは「またね」と手を振って車の中へと消えた。
「ね、ファスト!」
今度はジェイクが、目を輝かせてファストを見上げた。
もう睡魔が体中を飲み込もうとしていたが、まるで小動物のようなきらきら輝く瞳を邪険に扱えず、相槌を返してやる。
この瞳には弱いのだ。
「邪魔しないから中に入れてよ。本貸して欲しいんだ。こないだ借りたの持ってきたから」
「俺の家は図書館じゃないんだぞ?」
「いいじゃん〜、堅いこと言わないでさぁ。図書館は返却期限があるから嫌なんだ」
しぶしぶドアを開いてやると、ジェイクは「やったぁ」と歓喜の声をあげて家の中に飛び込んだ。
勉強用の教材と、趣味で集めた本でいっぱいになっている本棚の前。
まだ少し低めの身長をカバーするように必死に背伸びする姿が、微笑ましい。
邪魔しない、という言葉は嘘ではなかったらしく、ジェイクはひたすら静かに本を選んでいる。
それを横目で見たあと、ファストはベッドに横になった。
そこで記憶が切れる。
*
ひたすら、高い天井。開放的というより、心の中身まで覗かれるようで気持ち悪い。
「"ファストくん"」
似合わない聖服に袖を通し、前を歩く助教授が、敢えて他人行儀な呼び方で呼んだ。
カルチェ・ラタンのほぼ中心に位置する、聖ガイア大聖堂と、それと対をなす教皇庁。
事実上の、国の中心だ。
貴重な睡眠時間を犠牲にして、ファストは今、ここに立っていた。
「なんでしょうか、助教授」
紺色の、ローブのような聖服。この世界に存在する服の中で、もっとも似合わないものだと自覚はあるのに。
何故自分は今、これを着ているんだろうか?
赤い絨毯が真っ直ぐ伸びる廊下を、教皇の元へと歩きながら、助教授は首だけを少しファストの方へ向けた。
「社会的地位というものを、君はどう考えるかね?」
「はい?」
「世間が認める、その人物のステータスというものを、君はどう考えているかね」
眼鏡が太陽の光を反射し、瞳の表情が読めない。
一体何を考えているんだ、こんなところで。心の中で舌打ちをして、ファストは言葉を捜した。
「……社会的地位というものは、それに比例して、社会での自由が増してゆくものと考えます。それと同時に、その人物がどれだけ社会という場所から"信頼"を得ているかの指標にもなる」
「そうだね。だから例えば、もちろん例えばの話だが、君と私とが、別々な意見を述べたとき、社会という場所はどちらを信用すると思う?」
何の話だ。こんなくだらない討論、普段なら怒鳴り散らしてやりたいところだが、場所が場所だけにそうもいかない。
「助教授、一体どういう……」
「おっと、部屋についたようだ。詳しい話はのちほど」
図ったように―――いや、実際図っていたのだろう―――目の前に巨大な扉が現れた。威圧するような扉。
権力の象徴。
そのあまりの壮麗さに、馬鹿馬鹿しくて言葉も出ない。
何が「祈れ、働け」だ。「禁欲を旨とせよ」だ。聞いて呆れる。
ぎぃ、と大げさに軋んで開いた向こう側から、光が溢れてきた。
そうなるように設計されているのだろう。後光だとでも言うつもりか。
最近めっきり弱くなった太陽の光が、鋭い痛みとなって目を刺した。
その向こうに、この国の頂点があった。
*
会見は本当に短いものだった。
当たり前のことを至極丁寧に言われて、言われた内容ももう覚えていない。
聖書からの引用だったか? それとも使徒の言葉から?
考えてみても答えが出ない。大したことはなかったんだろう。
もう、教皇の顔すら満足に思い出せない。
幸せという名の脂肪に包まれた体が、巨大な椅子に乗せられているだけ。
胸元にかかる、金色の巨大なロザリオが、彼が宗教者なのだということを大げさに叫んでいた。
これから数日滞在するためにあてがわれた部屋は、地方の教会や修道院からは考えられないほどに豪奢なもので、この部屋に泊まれたということを神に感謝する部類の人間もいるのだと思うと、吐き気がした。
そう言えば、大学に入った頃に、素性を隠して訪れた父の実家、ヴォルディモート教会も、この部類だったような気がする。
荘厳な教会で、権力を示そうとする。
人々がすっかり寝静まった深夜。
教会側から教皇庁へと抜ける抜け道の中、前方を歩くランドウは何も言わない。
(何故こんな抜け道なんかを知ってるんだ?)
なるべく足音を立てないようにその後ろに続きながら、浮かび上がった疑問符を持て余す。
昼間の意味不明な質問といい、なにやら腑に落ちないことが多すぎる。一体この男は"本当は何をしたのだろうか"?
世の中をひっくり返したいとは言ってるものの、全く熱意が感じられない。
そう、言うならばまるで、まるでゲームのような……。
狭く細い道は、そのまままるで奈落へと向かっているかのようだ。
前を歩くランドウが掲げるランプの光が、一歩、一歩と前へ進むごとに不安定に揺れて、まるで火の玉のように見える。
その淡い光が残してゆくゆらりゆらりとした残像が、やけにくっきりと目に残った。
暗い場所は嫌いだ。
無意識のうちに小さくなっている体に気付いて、馬鹿らしいと笑ってはみるものの、訳の分からない不安はどうしても消えない。
真っ黒い壁に、実は血がべっとりとついているような気がしてならない。
あの日。そうあの日だ。
真っ黒な壁に触れた手が、ぬるりと滑ったから。
足元にひたひたと寄ってくる、人懐こい赤い海。
―――おとうさん?
返事はしっかりしろって、教えてくれたじゃないか。何で応えてくれないの。
―――おかあさん?
あんまり早く寝ると夜眠れなくなるからダメって、言ってたのに。
どうして。
揺さぶる手にも、赤黒いぬめりのある液体が張り付いた。
やがてそれはかさかさに渇いて、はがすとぱりぱりと零れ落ちた。ばらばらに。
ねぇ、起きてよ。起きてよ起きてよ起きてよ。
―――起きてよ!
「ファスト」
突然掛けられた声に、体が情けないほど震えた。
暗くてよかった。
振り向かないまま、ランドウは言う。
「お前は、その体に流れる血を、憎んだりはしないのか?」
質問の意図がわからない。だから黙っていた。すると。
「ヴォルディモートという血が、お前の両親を殺したのに?」
この男は、人の心を読むことも出来るのだろうか? もしかしたら出来るかもしれない。その冷たい瞳なら。
今考えていたことと、同じようなところを突かれて、思わず息を呑んだ。
「だからと言って、抜き取るわけにもいかない」
精一杯取り繕ってそう返すと、相手は苦笑したようだった。
「それはそうだ。だが、きっとお前はこれから先、その血を憎むようになる」
「予言?」
「勘だ」
呟いて、ランドウはランプの火を吹き消した。
奈落への扉が、目の前にあった。
*
一枚の巨大な絵画の裏から、教皇の寝室へと踏み入れる。
ひたすら広い部屋が、ぼんやりと浮かび上がった。
部屋の中央に、豪華な天蓋のついたベッドがひとつ置かれている。一人で寝るにはあまりに大きなベッドが。
教皇の寝室に抜け道。
何かがあったときでも、すぐに、"誰よりも一番先"に逃げられるようにとの工夫。
反吐が出る。
巨大すぎるベッドの、中央部分が膨らみ、規則的に上下している。
安らかな夢でも見ているのだろうか?
威嚇用に、とランドウが持たせたナイフで、このまま突き刺してやりたい気分だった。
足音を立てないように、などと気をつけなくても、高級な絨毯が足音を吸収してくれる。
一歩一歩近づくうち、頭のずっと奥の……そう例えばもしかしたら、本能と呼ばれるような場所が、警鐘を鳴らした。
おかしい。上手く運びすぎる。上手く行き過ぎる。
第一、こんなに簡単に教皇の寝室に忍び込めるものか。
後ろに控えている男は「上手くやった」という。……一体何を?
何かがおかしい。何か……。
ぐるぐると渦巻く理性と切り離された体は、一歩一歩ベッドへと近づき、安らかに規則的な呼吸を繰り返す体へと近づいた。
どくどくと鼓動が煩い。
意識が朦朧としてくる。
豪華な羽毛布団に、手をかけようとした……。
刹那。
後ろからぐいとナイフを持った右手を引っ張られた。どすりと、鈍い衝撃。
「助けてくれェェェェエ―――!!」
絶叫。
一瞬何が起こったのかわからなかった。
順を追って確かめよう。そう思って、ナイフを握っているはずの右手を見る。
すると、握られているはずのナイフの刃が、見えない。何故か、後ろに立っていた男の腹に、埋まっている。
そして、ナイフを自分の体に埋め込んだまま、叫んだ男の顔を見る。
「―――ランっ……」
名前を呼ぼうとして出来なかった。
豪華な天蓋つきのベッドで、教皇が跳ね起きる。それと共に、部屋の外からがやがやと人の声。
「ここだ、ここにっ侵入者が……!」
腹部にナイフをつきたてたままでランドウが叫ぶ。
「賊だ!」
ベッドの上で教皇も叫ぶ。
一体なんだ、これは……。
何の冗談だ。
救いを求めるように、腹からナイフを生やしたままのランドウを見上げると、わずかに血を伝わせた口の端を持ち上げて、奴は笑った。
ぞくりと、足元から髪の毛の先まで、駆け上った恐怖。
"嵌められた"!
「くそっ!!」
見事に騙してくれたランドウへなのか、それとも見事に騙された自分へなのか。
それともその両方へなのか。
分からない悪態が口をついて零れ落ちた。
がやがやと、人の声と足音がどんどんと近づいてくる。
握ったままだったナイフを離し、窓へと駆け寄ると、そのまま蹴破って飛び出した。ここは2階で、下は植木。大したケガはしない。
ただ、割れたガラスが体中に細かい傷を作った。
思ったとおりほとんど無傷で地面に辿り着くと、がむしゃらに走った。
明かりはほとんどなく、ただひたすら広い庭。
視界の端にちらりと門が見えたような気がする。
一体どうなってる、どうなってるんだ。
夢なら覚めてくれ! 今すぐ。
*
「如何でしたか?」
ナイフを脇腹に刺したまま、壁にもたれかかり、ランドウはベッドから降りた教皇を見た。
「これで貴方様のお悩みも、一つ減ったというものでしょう」
「とんだ茶番だ」
「おや、これは手厳しい。貴方様が最近、ロレーヌのヴォルディモート教会が煩いと仰るから、私が払って差し上げたのに」
「ほう?」
「一応私共の大学に"ヴォルディモート家の跡取"として籍を置いておりますれば、あの耄碌ジジイもある程度の責任は取らずにはおれますまい」
ずるりと自分の手でナイフを抜き取り、近づいてきた衛兵に手渡した。
「食えぬ男だ。この間、反政府組織の内部にもぐりこんだと思ったら、今度はヴォルディモート家の跡取に近づき、一体何をするものかと思えば。たった数ヶ月とはいえ、可愛い教え子だろうに」
「私にもね、夢や理想はあるんですよ。そのために、形振り構ってはいられないんです」
腹部を覆った手を目の前にかざし、その赤に目を細め、ランドウは呟く。
「彼は高潔です。理想があり、それを追うだけの力もある。ただ」
自分の体から流れ出したその赤。その色をしばらく見つめた後、再びランドウは口を開いた。
「ただ彼は、あまりに大切なものが、守るべきものが多すぎて、こんなふうに自分を犠牲にすることが、出来なかっただけですよ」
4.
どうやってここまで辿り着いたのか、よく覚えていない。
町の外れにある、ゲールート家の庭園の離れの、地下室。
幼い頃、よくカレスやニナと遊んだ場所だ。
一族の人々もほとんどその存在を知らない、格好の、隠れ家。
カレスと小さな諍いをすると、いつもニナが迎えにきた。
体中に細かく出来た切り傷が今更痛い。
時間の経過が分からない。
一時間しか立っていないようでもあるし、一年が経ったようでもある。けれど。
今頃はきっと、色々な場所をひっくり返しては、自分を探していることだろう。
―――私を信じろ。
いつもいつも、その甘美な誘惑に負けてきた自分に気づいた。冷静になって考えてみれば、何もかもがおかしいじゃないか。
上手く出来すぎていて、完璧すぎて、おかしいじゃないか。
ただの小さな反乱組織が、教皇を誘拐できるほどの力があるなんて、おかしい。
"信じろ"というランドウの言葉にいつも、うまく言いくるめられてきたのだと気付く。
―――社会的地位というものを、君はどう考えるかね?
―――例えば、君と私とが、別々な意見を述べたとき、社会という場所はどちらを信用すると思う?
「あんただろ……」
そんなの決まりきっている。証拠なんて何ひとつない。この身の無実を証明するものなど。
あんな通路を知っていて、よく思い出してみろ、教皇も全然慌てていなかった。
奴は"内部"の人間なのだ。
上手く泳がされていたのだ。罠を仕掛けたつもりで罠に落ちたのは、自分。
「………………だせェな」
俯いた顔に、少し伸びた前髪がぱさりとかかった。無意識のうちに、かき上げようと顔に持っていった手で、目を覆った。
ぱりぱりと何かが零れ落ちる。ランドウの返り血が渇いたのだろうか?
両親から溢れ出た血のように。
ギ……。
わずかな軋むような音に、過敏に反応して震える体。
もうどうでもいいと思っているくせに、何に怯えるんだ?
やがて、入り口が開いたのか、わずかな光が差し込んでくる。
目元を覆った手をはずし、少しだけ目を開いた。もう昼だろう。柔らかい光。
それを見て、また目を閉じた。もうどうにでもなれ。
「ファスト! いるんだろう!?」
「ファスト、どこにいるの?」
聞こえてきたのは、今にも泣きそうな、幼なじみの声。
*
ちらりちらりと揺れる光は、ニナがいつも提げている銀のロザリオだろうか?
「ファスト……」
すぐ傍まできたニナが、へなへなと床にへたり込んだ。
大きな鳶色の瞳が、涙をいっぱいに湛えている。
憐れまれているような気がして、ささくれだった余裕のない心が、ぴりと痛んだ。
「……何しに来た」
二人から目を逸らし、吐き出した。思った以上に声がかすれていた。
「ファスト……」
ニナの口から、絶望にも似た喘ぎが零れ落ちた。
一体それは誰の名前だろう? 自分の名前に思えなかった。
悲しいまでの現実逃避? 自分という存在に未練はなかった。その名前も、なくても構わない。
早く消えてしまえ。
「早く帰れ。もう構うな」
「ファスト……何を言うんだ……」
「いい加減にして!!」
カレスの言葉を引き裂くような、悲痛な絶叫が辺りに響き、左の頬に鋭い痛みが走った。
一瞬置いて、殴られたのだと気付く。
「私もカレスも貴方が心配なのよ!? どうしてそんなことが言えるの!?」
ぽろぽろと零れ落ちる涙をそのままに、ニナの白い指がファストの胸倉を鷲掴みにした。
けれど、温かいはずのその言葉も、狭くなりすぎた心には、入る隙間もなかった。
「誰が頼んだんだ、そんなこと……」
細い指を乱暴に払い除けて、立ち上がった。体の色々なところに出来た細かい傷が、ばらばらに痛む。
苦しい。
「心配って、頼まれてするものなの!? 私もカレスも、貴方が好きだから、大事だから……、それで心配して何が悪いの!? どうしてそうやっていつも、見ないフリするのよ!?」
(やめてくれ)
頬を伝う涙をそのままに、すっくと立ち上がったニナが、下から睨みつけてくる。
嗚咽を必死に噛み殺す口唇が青ざめて、かたかたと震えている。
「やめろよ……」
いたたまれなくなってファストはニナから目を逸らした。
視界の端に今にも泣き出しそうなカレスの顔が映った。
一体どうしてこんなに遠くまで来てしまったのだろう?
戻ろうと思っても、もう道が分からない。
「ねぇ、ファスト、帰ろう……」
―――おうちに帰ろう?
まるであの頃と同じように、ニナが手を差し伸べた。
そのとき初めて、自分がいつも、いつもこの手を待っていたことに気付いた。
意地を張って飛び出しては、格好をつけて。それでも最後に差し伸べられるその手を。
いつだって待っていたんだ。
「煩い!!」
過去も今も、優しさもぬくもりも全て。
引き裂くように叫び、ニナの手を払い除けた。同時に涙腺が壊れる。
今まで起こった全てのことがいっぺんに溢れ出し、声が詰まった。
自分の力でどうにかなると信じていた。どうにかできると信じていた。
自分ひとりで。ひとりで……。
「もう俺に関わるな! お前たちには関係ない!!」
もう帰れない。引き返せない。その手を取れない。
手の届かない場所まで、離れてしまったから。
「関係ないなんて……! 僕たちは"兄弟"だろう!? お前が心配……」
「もう放っておいてくれ!!」
しがらみ全てを振り切るように叫んで、飛び出した。
引きとめようと伸ばしたカレスの手が、力なく落ちてゆくのを視界の端に見た。
これでよかったのかもしれない。いやきっとそうだ。
触れ合えば巻き込む、甘えれば傷つける。
階段を駆け上り地上へ出る。暗闇に慣れすぎていた瞳孔が、光を吸収してきゅっと縮むのを感じた。
鋭い痛みと共に。
掘っ立て小屋から外へ出て、膝に両手をついてうな垂れた。
体が酷く重い。
疲れの所為だけではなくて、ぴしぴしと開きだした体中の傷口の所為でもなくて。
ただ悲しかった。
必死に嗚咽を噛み殺す口唇の上を、雫がいくつか伝って落ちた。
触れ合えば巻き込む、甘えれば傷つける。だからもう、手を伸ばさない方がいい。
嗚咽とも喘ぎともつかない呼吸をどこか遠くで聞きながら、溢れ続ける涙を乱暴に拭った。
ぼやける視界で、足元の芝生を見下ろしたとき……。
何か大きな影が覆い被さっていることに気付いた。
はっとして後ろを振り向いたところで、頭を鈍い痛みが駆け抜け、意識は堕ちた。
さらに底へ。
*
横から差し出された掌に、ニナは自分のそれを重ねた。
相手の掌が予想以上に温かくて、自分の手がどれだけ冷たくなっているかに気付く。
「帰ろう」
「……カレス。ファスト、は……」
「大丈夫だよ。僕たちが信じないと、ダメじゃないか」
「……そう、だよね」
カレスの手を握り締めて、一歩前へと歩みだした、そこで再びニナは、足を止める。
「どうしたの?」
怪訝そうに眉をしかめるカレスにも応えず、ニナはしばらく、自分の腹部に手を当てたまま、そこに立ち尽くしていた。
「ニナ?」
心配になってカレスがニナの顔を覗き込むと、ニナは驚きに目を見開いてカレスを見つめ返した。
「今、動いた」
「え……?」
「お腹蹴った」
生温い温度の、皮膚の下。感じた鈍い振動。
いのちの震えに、タガがいっぺんに外れた。
―――古代文字で"翼"と"光"って言う意味なの。素敵じゃない?
頬を流れる熱い涙が、顎から落ちて。腹部を覆う腕に落ちた。
涙の落ちた腕を持ち上げ、胸元で揺れるロザリオを握り締めた。
―――……悪くないな。
困ったような、そんな笑顔が鮮やかに思い出される。
私たちと違って、貴方はとても頭が良くて視野が広くて。何でも見えてしまうひとだから。
どんどん遠くへ行ってしまう。
でもね、そんなに急がなくてもいいよ。昔に戻りたいよ。
お願いだから……、一緒に。
カツン。
硬い靴の踵が石の階段を打ちながら降りてくる。
その足音に、カレスとニナは顔を上げて、階段の方を見た。
地上から差し込む逆光で、浮かび上がる黒い影。
「……ファスト……?」
掠れた声で、ニナが呼んだ。
ねぇ、一緒に帰ろう?
5.
ジリリリリリリリリ。
けたたましく鳴り響くベルの音が、底をたゆたう意識を上へと引き上げる。
目覚ましだろうか? もう朝?
うっすらと開いた瞳に飛び込んできたのは、見慣れた部屋でもゲールートの屋敷でもなく、コンクリートの壁だった。
気付けば、自分が横たわっているのもベッドなどではなく、ただの床。灰色の地面。
ジリリリリリリリリ。
耳障りなその音は、まだ続いている。
一定の間隔で途切れながら続くそれが、やがて電話のものだと気付く。
地面に張り付いた上半身を起こすと、酷く後頭部が痛んだ。
(ここはどこだ?)
牢屋ではなさそうだ。牢に電話なんてない。
後ろから突然誰かに殴られ、連れてこられたのだ。
重い体をなんとか起こし、立ち上がる。部屋をぐるりと見渡せば、隅に無造作に置かれている机の上に、時代遅れの黒い電話が乗っていた。
体を引きずり、壁にもたれ、受話器を取る。
《おはよう》
耳から流れ込んだその声が、脳全てを絡め取るような不快感。
《気分はどうだい? "ファスト君"》
「…………"助教授"こそ、大変ご機嫌なんじゃないですか。掘った穴に上手く、堕ちた奴がいて」
何でこんなに冷静なんだろうか? 感覚が麻痺しているとしか思えなかった。
《君が、傷ついてるんじゃないかと思ってね》
「……っ」
傷ついている!? そんなこと分かりきっている。そんな、小さな怪我どころの話じゃない。
分かっていて、この男はそんな、一見優しい台詞を平然と吐いてみせる。
傷をつけ、慰めてみせる。歪んだ慈愛が塩を擦り込む。
なのに、優しい響きが、不意に目頭を熱くさせる。
あまりに屈折して、グチャグチャで、訳がわからなくなる。あんたは何がしたい。
何が欲しい。
「……俺はあんたを……、あんたを信じてたのに……ッ……」
《信じる……?》
電話の向こうで、相手はくっと笑ったようだった。
《"信じる"。―――それは一体、何世紀前の言葉なんだい?》
―――"私を信じろ"。
《何も信じてはいけないよ。何も預けてはいけない託してはいけない。この世界にあるもの全て、何ひとつとして信じられるものなどないよ。それは神ですら例外では無い。自らの存在すら、例外では無いよ》
「何が欲しい」
それで何が欲しい。何に縋る。
何ひとつ信じず、何ひとつ預けず、託しもせずに。この世界を信じずに、それで一体何が手に入る?
足掻かず手を伸ばさず、それでは何をすればいい。
《……君にひとつ道をあげよう。そして私とゲームをしよう。その戸棚の中に、ピストルと弾丸がある》
質問には答えず、淡々とした声は続く。
《ここは、私たちが使っていたアジトの一番奥だ。私の手のものがたくさん潜んでいる。君は、そのピストルひとつで、このアジトから逃げ出すんだ。無事に逃げ切れたら。君を自由にしてあげる》
「"信じろ"と?」
《殺さないと、殺されるだけだよ。動くものは全て殺した方が確実だ。健闘を祈るよ》
ぶつり。
唐突に途切れた会話。単調な通話音が続いた。
受話器をそのまま床に投げ出し、目の前に見える戸棚を開く。
確かにそこには、一丁の拳銃と予備の弾が用意されていた。
ゲーム? くだらなすぎて笑える。それを高みで見物するというつもりなのか? まだ通話音が遠くで続いている。
射撃の訓練以外には引き金を引いたこともない物体が、なぜか手になじんだ。ああそうか、取引で扱っていたからか。
もうどうにでもなれ。
そう思ったくせに、死ぬのは怖い。とてつもなく。
弾をこめる指先が、小刻みに震えていた。死にたくないから? それとも人を殺すのが怖い?
どっちもだ。
失われるのは、怖い。
迷いを振り切るように、安全装置を外して天井に向かって一発。
耳を突き刺すような発砲音。予想以上の衝撃が腕を伝って体中に響き渡った。
―――ねぇ帰ろう?
(ごめん)
体中に弧を描くように浸透してゆく鈍い痛み。
(もう、戻れない)
あの頃のように、何も知らない頃のように、笑えない。もう。
立ち込める硝煙の臭い。振り払うように、ドアを開いた。
*
この廊下には見覚えがある。地下を血管のように這い回るアジトの中を、血液よろしく駆け抜け、ようやく見覚えのある場所に出た。
壁に片手をついて、使い終わった弾を地面にばら撒く。
荒くなった呼吸を整えながら弾を入れ替えて、鼻の辺りに浮かんだ汗を拭った。汗では無いぬるりとした感触が、頬を滑った。
(あ……)
はっとして掌を見つめると、赤い色。
頬を掠った弾丸が残した痕と、返り血。
ぎゅっと握り締めると、にゅるりと滑った。この血もやがては、渇いてぱりぱりとはがれる。
土に還る。
ガウン―――!
もはや耳になじんだ発砲音が聞こえた。
ばちん、と硬い音がして、自分の首のすぐ傍の壁に、穴が開いた。
目の前に真っ直ぐ伸びる通路に、一人の男がいた。
ニヤリ、と口元を歪めて笑う。
(楽しんでる……)
殺そうと思ったら、殺せたはずだ。
ランドウにまわされてきた男たちは皆、まるで狩りを楽しむかのように逃げるファストを追う。
「くそっ……!」
もはや何に向けたか分からない悪態が口から零れ落ちた。
もうガクガクしている足を無理矢理動かして、駆け出した。
わざと狙いを外している弾丸が、首の横、腰の横を掠めて追い抜いていく。
掠り傷からじわりとにじむ血の感触。
暗い通路をひたすら走る。闇に慣れすぎた目は、光なんてなくても辺りの状況を見渡せることを知った。
目の前に、開け放たれた扉が見えた。通路を途中で塞ぐ扉だ。あれを閉めてしまえば、少しは追っ手を減らせるだろうか?
既に疲労の限界点を超えそうな体を必死に動かして、扉の先へと駆け込むと、勢いよく閉めた。
……途端。
カチリ。
何かのスイッチが入るような音に遅れて、後ろ手に閉めた扉の向こうで、立て続けに爆発音が響き渡った。
人々の絶叫がそこかしこで聞こえ、振動が辺りを震わせる。
ぱらぱらと、天井から落ちてくる小さな欠片。
振動が収まったところで、ファストは、自分で閉めた扉をゆっくりと開いた。
もうもうと立ち上る煙の中に、累々とつみあがる人の骸。
あらぬ方向に曲がった腕や足。千切れてしまったものもある。
爆弾……?
ファストは、今さっき通ってきた道を見渡して、呆然と立ち尽くした。
一体誰がこんなことを。……考えるまでもない。
「何だってんだ!!」
がん、と壁に拳を叩きつける。二三度それを繰り返すと、壁にじわりと血が滲んだ。
もう痛みも感じない。
感情のタガが外れたのか、いっぺんに重くなった体を引きずり、再び歩き出す。
止まることなど出来なかった。
もう少し歩けば、皆が溜まり場にしていた少し広めの部屋に出る。そこまで行けば、もう出口は目の前だ。
外へ出て、それから再び逃げたところで、一体何がどうなるのかなんてわからない。
それでも前へ進まなければ。背後から迫ってくるような見えない恐怖に押しつぶされそうだ。
やがて前方に一枚の扉が見えてきた。
四角いはずの扉が、ぐにゃりと歪んではじめて、自分の瞳が潤んでいることに気づいた。
一歩、一歩。近づくたびに、頬を幾筋も伝う雫。
悲しみも、痛みも、もう何も感じない。感覚全てが麻痺しているのに。
何処かが壊れているように溢れ出す雫を止められずにいる。
その先に、光……? ここから先に光が?
ふらふらと伸ばした掌がドアノブを握った。金属が飲み込んだ冷たさが、すぐに掌に沁みる。
こんなに冷えていても、それでもまだ、この手は温もりを持っていたのだ。ひとの温度。
ゆっくりとノブを捻る。
押し開いた先から、溢れ出る白い光。あまりに鮮烈であまりに鋭い。闇に慣れた弱い瞳を"潰す"光。
視界が死ぬ。
開かれた世界の先で、がたりと人が動く音。
近づいてくる足音。
覆い被さる影。見えない。
「来るなぁッッ―――!!」
咽喉を潰すほどの絶叫。無意識に構えたピストル。引き金を引いた。
何度も、何度も。鼓膜を破るような激しい咆哮が繰り返す。尾を引く。
目が、声が、耳が。
―――壊れる……。
「ファスト―――!」
(え……?)
激しい発砲音に紛れ、微かに聞こえたような気がした。聞き覚えのある声が。
信じられない、信じたくない。
あとずさった一歩。上手く力の入らない足がよろめいて、無様に尻餅をついた。
力の抜けた手から、ピストルが落ち、からからと音を立てて少し遠くへ転がった。
体の後ろに手をつき、なんとか体重を支える。目の前には、反動で半ば閉じた扉が見えた。
中から漏れてくる筋のような光。
―――あの臭いを覚えている。
薄く開かれた扉の向こうから、滲み出す生々しい鉄の臭い。
開いた隙間から、白い腕が見えた。人を傷つける武器など、一度も手に持ったことのないような白い腕。
その向こうに足が見えた。幼い頃、一緒に駆け回った足。
ひたひたと、ふたりの間を、茶色い床を汚す赤黒い海。
むせ返るような生々しいその臭いに、思わず口元を覆った。
まるで獣のような呻き声が自分の口から漏れてゆく。
止めることなど出来ない。垂れ流しだ。
手前にひとり。奥にひとり。
「嘘だ」
笑いが出た。
これじゃぁまるで同じだ。あの日と。
たった二人の肉親を失ったあの日と。
「嘘だ」
繰り返す。
そんなことを繰り返しても、事実は何ひとつ変わらないと知っているのに。知っていても繰り返してしまう。
かなしさ。
傷を抉る快楽というものを、ひとは持っているものなのだろうか、本能として。
例えばそう、張り始めたカサブタを引き剥がしてみたくなる衝動。
膿んだ傷に触れてしまう掌。
見てはならないものを、目を見開いて直視してしまう興味。
立ち上がり、よろめく足で。半ば開いた扉を押し開いた。
ギィ……。
軋んだ音を立てて、ドアが開いた。
足元にひたひたと寄ってくる、人懐こい赤い海。
壁にまるで花びらのように散った飛沫。
うつぶせに倒れた男の体を浸す水溜りは、まだ鮮やかな赤。
そしてすぐ近くに。あの日と同じように手を伸ばし、涙に濡れた瞳を見開いている、まだあどけない顔をした女。
その瞳が、わずかに揺らぎ、こちらを見た。
「ファスト……」
ひゅうひゅうと咽喉が耳障りな音を立てている。
重力に抗うように、ゆっくりと持ち上げた腕を、こちらに向けて。
「……すごく、さむい……。ねぇ……さむいんだよ」
宙を、ふらふらと漂う手を、握ってやることも出来ない。体がまるで、石になったようだ。
白い腕が、真っ赤だった。
「いっしょに……、かえろ……?」
ぱたり。
ゆるやかな弧を描いて、腕が床に落ちた。すぐ下にあった赤い水溜りが、ぱしゃりと音を立てる。
こちらを見つめたまま、開いた瞳孔。
視線を外せないまま、膝から床に崩れ落ちた。
「あ…………」
掠れたうめきが、途切れ途切れに、口から零れては堕ちた。それすら遠くに聞こえた。
枯れもせずに溢れ、溢れ、止まらない涙で、世界は歪んだ。
どこから。
なにが。
違っていたのだろうか?
狂ったのは、いつから?
「うわアああぁあァぁぁッッ―――!!」
まるで獣のような咆哮を。自分の絶叫を、まるで一枚壁を隔てた向こうのように聴く。
ばたんと音を立てて反対側の扉が開き、同じ制服を纏った、銃を抱えた男たちがなだれ込んできた。
左胸に、十字の刺繍。
ああ、教会の正規軍か。おぼろげな意識の中で、それだけを思う。
他には何も。
何も―――。
知らない男たちの腕がこの腕を掴み。力の入らない、まるでくらげのような体を持ち上げた。
引きずられるまま、抗わない。だって何もない。
もう何もない。何もいらない。
頼むから誰か。今すぐに。
この体をばらばらに壊してくれ。修復不可能なまでに。誰か分からないぐらいに。
もう何もいらない。地位も名誉も平穏も、この名前も。体も。
いのちも。
*
「ファスト・ヴォルディモートを捕らえました」
「ご苦労様」
丁寧に敬礼し、至極完結に報告する兵に、物腰だけ柔らかに告げてやる。
「怖い男だな」
兵が退出するのを見計らって、部屋の中央に据えられている椅子にふんぞり返り、教皇が嘲るように口元を歪めた。
「反政府のアジトごと、奴らを爆破するとは」
「だって、邪魔だって言ってたじゃないですか」
(だから言ったじゃないか)
手元に届けられた銀のロザリオを見つめ、心の中でランドウは独白。
―――何も信じてはいけないよ。
(そう言った私の言葉でさえ、信じてはいけないんだよ)
可哀相に。
「巻き添えを食った二人は?」
手元に残された報告書をぱらぱらと捲り、さして興味もなさそうに教皇が訊く。
「あれ? 忘れたんですか?」
ランドウはおかしそうに笑うと、被害者の男の苗字を指し示した。
「最近目障りだと仰っていたでしょう。ゲールートの財力」
to be contenued……