「Please call my name」
【後編】




―――わずかに湿った床にそのまま座る。
 硬いベッドも、鉄格子も、もううんざりだ。
 小さな窓から差し込む光も、いっそ無いほうがマシ。
 自分が囚われている虚しさをさらに引き立てるから。
 もうどうでもいい。どうでもいいから。
 何も考えなくて済むようにしてくれ。
 狂いそうだ。
 あの赤が、あの赤だけが蘇って。

 狂いそうなんだ。


1.

 いつからここにいるのだろう。
 あの血の海から、記憶は断片的にしか残っていない。
 この体を引きずり上げた兵の腕の冷たさ。この牢に放り込まれた後のがしゃりと閉まる鍵の音。
 この脳ミソが。
 きっともうこれ以上傷つかないように、入ってくる情報を制御しているんだ。本能的に。
 いまだに働く自己防衛本能。
 壊れてしまえばいいと、切に願う。
 自我を手放せたら、一体どれだけ楽だろうか?
 わずかに差し込む光に、両手をかざした。
 強い光に両手は真っ黒い影になる。
 まるでそこからどす黒い色が滴るような気がして、慌てて降ろした。

―――僕は……、僕はお前が心配なんだッ……!
―――僕たちは、"兄弟"だろう……。

 今になって。
 抱えた膝に額を押し付け、小さく蹲った。
 今になって、雑音にしか聞こえなかった声が、愛おしく柔らかく、温かく響くなんて。
 救いようのないバカだ。

 コツリ。コツリ。
 硬いコンクリートの廊下を靴の裏で打つ音が徐々に近づいてきた。
 見回りの時間でもない、食事の時間でもない。
 単調に繰り返される日常から離れたその足音に、膝に押し付けた頭を持ち上げた。
 視界にちらりと掠めたのは、金だ。
 自分の鉄格子の前に立ち、こちらを見下ろす。
 漆黒の聖服に金のロザリオ。それは、尊き司教クラス以上の聖職者を表す。
「……ファスト・ヴェルディモート?」
 細いしなやかな指を鉄格子の一本にかけ、聖職者は端正な顔で牢の中を覗き込んだ。
「……あんたは?」
 久しぶりに交わす会話。声帯が掠れた声を出した。
「……名乗る必要もない。教会側の人間だと分かればそれでいい」
「司教クラスがお供も連れずにどうした」
 口元を歪めて、嘲るようにして笑ってやる。
 気高くも、群れるのが好きな教会側の人間にしては珍しいじゃないか。
「私とお前の話に、邪魔は要らん」
 青く透き通った瞳がまるで宝石のように美しく、そして冷たい。
 もう麻痺してしまっているはずの感覚が、ひやりと冷たくなるのを感じた。
「……ありがたい説法で、"神の国"にでも行かせてくれるのか?」
 刺すような瞳に射竦められながらも、必死に屈しないように対抗する。
 あんたは殺してくれるのか? 暗にそう言ったつもりだった。
 今更生きていたところで、この心が何も産まないことも、わかっていた。
 誰かが厳しく罰してくれなければ、生命を奪ってくれなければ、この体に罪悪感を抱いたままでも、物を食い、生き残ってしまう現金な生き物だということも。
「お前は、"神の声"が聞こえるらしいな」
「…………ああ。心底平等なカミサマのおかげでな。信仰心と関係なく、平等にお声をかけてくださるらしい」
「お前は殺さない」
 皮肉のつもりで言った言葉も、目の前の男には一切効果がないようだった。
 逆に、切り替えされた台詞にこちらの方が目を見開いた。
「なん……だって?」
 ただひたすら望んでいたのは、この体からの解放だった。
 感覚も意識も自我さえも手放して、楽になりたかった。
 この檻の中で、こうして蹲っていたら、きっと楽になれると思っていたのに。
「神父になれ。それならばここから出してやる」
「ふざけんなっ……!!」
「お前に選択権は無い。我々はお前を殺さない。お前は田舎の教会で教えを説くだけでいい」
「何を……」
 ……かちゃん。
 反論は、小さくなって消えた。
 鉄格子の隙間から投げ入れられた光る何かに目を奪われた。
 足元に転がったそれは、銀色のロザリオだった。

―――ねぇ、ファスト。聞いて。

「お前のその頭脳と、血が惜しい」
 男が言っている言葉を、何ひとつとして理解することは出来なかった。
 ただ、震える手を伸ばして、わずかに湿った床に転がるロザリオを拾い上げた。

―――私もカレスも貴方が好きなのよ。大事だから。貴方が心配なの。

「二ナ……」
 拾い上げたその金属は、床の冷たい温度を敏感に飲み込み、まるで氷のようだった。
「死は贖罪では無い。ただの逃亡だ。……選ぶのはお前だ」
 コツリ。
 硬い靴の底が、冷たい床を打つ。
 コツリ。
 次第にその足音が遠退いてゆく。
 手の中の冷たい金属が、やがて人間の温度を吸い取ってぬくまってゆくのを感じながら、こみ上げる涙を抑える術を知らない。

 またきっと、性懲りもなく生き残ってしまうんだ。
 大事な人を屠りながら、何度も。何度も。


            *


「よろしいのですか、大司教」
「何がだ」
「あのファストとか言う男。随分と頭が切れる様子。生かしておいて大丈夫なのでしょうか」
 薄汚い地下牢から地上へ戻った男を待っていたのは、従えて連れてきた自分より幾分か階級の低い男だった。
 黒い聖服に身を包み、看守が差し出した資料を机に広げ、しげしげと見つめている真っ最中だ。
「いいも悪いもない。その資料を見たなら分かるだろう。その男の苗字で分からないのか」
「苗字……ですか?」
 上司に促されるまま、男は今まで捲ってきた資料の一番初めのページを開いた。

―――ファスト・ヴェルディモート。

「地方都市ロレーヌの大教会を代々治めているヴォルディモート家の直系だ。父親からその血を引き継いでいる。父親は生憎と、身内に殺されたらしいが。
"神の声"を聞くことが出来る遺伝子は、そうそう多くは無い。失うには惜しい。繋いでいかねばならないだろう」
「しかし……」
「消すのは、何かが起こってからでも遅くは無い。行くぞ」



2.

「神父様、どうかお話を聞いてください。私は一体どうすればいいのでしょうか……」
 狭い室内に、向かい合わせの椅子一組。二人の間は、細かい網で遮られている。
 ごくごく一般的な懺悔室の風景。
「私は、私は夫を愛しています。それでも、それでもあの人に会うと、どうしても…………」
(下手なゴシップよりも、面白い仕事だよな)
 網戸のような仕切りの向こうで、ハンカチでしきりに目元を拭う若い夫人を見やりながら、心の中で呟いた。
 信仰心の篤い人々が口にするのは、いつも紛れもない真実だ。
 人々が駆けずり回って調べてくる王家や著名人のスキャンダルなんかよりも、よっぽど生々しくてリアリティがある。
 聖服をまとって、ロザリオを首からかけるだけで、少しの曇りのない信頼を寄せてくる。
 それは心地いいようであって、酷く重苦しいものでもあるのだ。
 スキャンダルを楽しんでいるわけにもいかない。それに応えるという責任が、こちらにはあるのだから。
「……神父様。私は一体……」
「神の前で……」
 この田舎の教会に来るまでの間、必死に読み返して覚えなおした聖書の中から、引用できる文句を探す。
 自らの本心ではなくても、「もっともらしい」教えを説いてやれる自分が、いっそ惨めだ。
 勝手にしろと。好きにしろと言えるなら、もっと楽だろうに。
 思ってもいないことを口から吐き出すのは、苦しい。
「……神の前で貴方は、夫たる人への愛を誓いました。その誓いは、清く、崇高なものです。貫きなさい」
「……はい」
「貴方は今回のことで、自分の生活にとって何が一番大切なのかを試されたのです。貴方の迷いは間違いではありません」
「ありがとうございます」

 涙を拭きながら、夫人は席を立った。
 狭い懺悔室にたった一人で座り、頬杖をついた手で、額と目を覆った。
 間に合わせの、誰にでも使える台詞で、どうして皆納得するのだろう?
 自分なら絶対に無理だ。
 癒されはしない。そんなことで。


          *


「しんぷさま〜」
「しんぷさまぁ。これ、シスターが持っていけって」
 教会の重い扉を押し開けて、お世辞にも上等とは言えない服を纏った子供達がカゴにたくさんの卵を抱えて入ってくる。
 近くの孤児院の子供達だ。決して裕福では無い。それなのにこうして時々物を持ってきてくれるのだ。
 そのたびに、くすぐったさと罪悪感とが、心の中でせめぎあう。
 尊敬されるような神父では無い。
 心の中ではいつも、どろどろとしたものがせめぎあっているのだから。
「ありがとう。君達が食べればいいのに」
「ううん、いいの」
「しんぷさまが食べて」
 にっこりと満面の笑みを浮かべる子供達に、つられてついついこっちも笑ってしまう。
 その綺麗な心に、癒されるどころか、傷つけられる自分がいる。
 本気で人を救うつもりもないくせに、どうしてこうやって、教えなど説いているのか。
 惨め過ぎる。

 夜。
 教会から繋がる自分の申し訳程度の居住スペース。
 部屋の隅に置かれた机の上に、昼間貰った卵をかごのまま載せておく。
 少し足りない視力を補うために、滅多にかけない眼鏡をかけ、引っ張り出してきた機械端末を少しいじくると、目の前のディスプレイに青白い光が灯った。

 人を救うと、大声で叫んでおきながら、裏ではこうだ。
 教会本部から無造作に流れ込んでくる情報に、眉をひそめる。
 寄付がどうの。地方教会の勢力争いがどうの。
 どろどろのキタナイ裏側。咽喉から手を伸ばし、利益を貪ろうとする。
 何ひとつ、綺麗なものなど見つけられない。こんなものが世界を動かしているのかと思うと、ぞっとするのを通り越して吐き気すら催す。
「やってられるか」
 ぶつりと電源を落として、その機械ごと机の隅へと押しやる。
 眼鏡も引き抜いて、机の上に投げ出す。
 これ以上ここでやっていく自信がない。日々磨り減ってゆく神経。まるで少しずつ狂っていくようだ。
 いっそ逃げてしまおうか。
 一日に一度は必ず思うことだ。しかし、次の瞬間吐き出すのは溜息。
 逃げ場所なんて何処にもない。

―――ぎゃぁ……。ふぎゃぁ……。

 サカリのついた猫のような鳴き声が、静まり返った部屋の中に響いてきた。
 また隣の家の猫だろうか? まるで人間のように万年発情期の煩い奴だ。
「煩い」
 思わず口に出して言ってみる。黙っているよりはスッとした。
 しかし、いつまでも止まないその鳴き声が、猫とは少し違うことに気付いた。
 まさか? そんなことを思いながら、立ち上がり、ぼんやりと蝋燭が灯る礼拝堂へと入ってゆく。
 音が響くように出来ているその礼拝堂に、鳴き声は絶えず響いていた。
 間違いない。
 わずかな灯かりを頼りに声の主を探すと、入り口から一番近い椅子に、小さなかごが二つ、並べて置いてあるのを見つけた。
 闇の中にぼんやりと浮かび上がる白い布にくるまれて。
 わずかな光を反射して、きらりと金色が光った。
 まるで魂を削るかのように。その小さな体を震わせて泣いている淡い金髪の赤子。
 その隣には、我関せずと言ったように、悠々と寝息を立てている漆黒の髪の赤子。
「……なんてところに捨ててくんだよ」
 礼拝堂の入り口を見ると、わずかに開いていた。
 いつも、中途半端に開いた扉には苦しめられる。
 さっきまではいなかった。それは確かだ。
 今から必死になって探したら、置いていった奴が見つかるだろう。
 しかし。
 恐る恐る伸ばした手を、恐らく反射的に金髪のほうの赤子が掴んだ。
 小さな指を人差し指に絡め、握り締める。
 すると、割れるような鳴き声が次第に収まってゆく。
 静かになったことに気付いたのか、隣で眠っていたもう一方がうっすらと目をあけた。
 暗闇でもしっかりと分かる、ルビーのような赤い瞳は、漆黒の髪に良く映えた。
 なんて対照的な二人だろう。
 この世に生を受けてまだ間もない二人を見下ろして、思った。


            *


「大丈夫です。私どもで引き取りますわ」
 深夜。教会から少し離れた場所にある孤児院の一室で、老年と言ってもいい品のいいシスターと向かい合う。
 その腕には、黒髪の赤ん坊が抱かれていた。
 彼は静かなもので、温かい腕の中で、また悠々と寝息をたてている。
「よしよし。泣かないでね」
 部屋の隅では、まだ若いシスターが、ぐずる金髪の赤ん坊を必死にあやしている。
「深夜に突然すみません。私ではどうしようもなかったので……」
 神父と言う職業についてから滅多に真実を口にすることはなかったのに。
 このときばかりは本心だった。赤ん坊の世話など、全く分からなかったのだから。
「いいえ。これも何かのお導きでしょう。この子たちとの出会いをくださったことに感謝いたします。ファスト神父」
 丸い眼鏡の奥の、温和な瞳を細めて、シスターは微笑んだ。
 優しい、人を包み込む微笑み。自分には絶対出来ない部類の笑み。
 同じく神の教えを説く人種であるのに。自分と彼女達はまるで違って。
 悩みを抱え苦しむ人々を、慰めながら心の奥でいつも、飢えた心を埋めるに足る優越感や、その他の何かを探している。
「それでは……、私は」
 これ以上惨めになる前に。そう思って席を立った。
 窓際の若いシスターが、赤子をあやしながら「おやすみなさい」と言った。
 その声のすぐ後に。
「お待ちください神父」
 何もやましいことなどないのに、どきりとした。
 呼び止めた老年のシスターの方を何故か恐る恐る見ると、彼女は静かな赤子を抱いたまま、微笑んでいた。
「この出会いは決して偶然では無い。私はそう思います。ですから、ファスト神父。この子たちに名前を」
「え…………」
 何もかも振り切って逃げたい衝動が、心の奥底から噴き出してきた。
 名前だって? そんな重いものをどうして俺が。

―――名前はもう、決めてあるの。

 胸にかけた銀のロザリオが揺れ、綺麗に弧を描いた。

―――古代の言葉でね、"翼"と"光"を表すのよ。素敵じゃない?

 やめろ。
 蘇る微笑み。下腹部に当てられた白い掌。
 甘い余韻に浸りたがる心を、冷静な頭がなんとか制止しようとする。
 しかし、抵抗も空しく、傷ついた心は、一歩一歩と赤子に近づくことを許した。
 やめろ。こんなのは、エゴだ。
 この子達は違う。違う人間に、自分が消してしまった存在を投影するのは、生命への冒涜だ。

「この、黒髪の子の方を、"ハルト"―――」

 やめろ。こんなこと。誰も救われない。

「そっちの金髪の子を、"レイ"と」

 やめてくれ……―――!!

 その日の記憶は、そこで途切れている。



3.

―――八年後。
「神父様。僕は一体どうすればいいんでしょうか? 彼女には婚約者もいるし、何より身分が違いすぎる……」
 いつの世も、人々は愛に思い悩んでいる。
 薄い仕切りの向こう側で、この世の終わりのように、青年は頭を抱えている。
 昔の自分なら、一体どう答えていただろう。
 拾い上げた答えはあまりに偽善者くさく、自分でも反吐が出る。"青かったな"と苦笑する。
「身分なんかが邪魔になるようなら、君の気持ちはそこまでなんだよ」
 頬杖をつき、柔らかい微笑を浮かべながら、向こう側の青年を見た。

 型に嵌った救いを説き続けるほどに、自分の心が歪んでは汚れてゆくのを感じていた。
 それならいっそのこと、自由に。自分なりに見つけた答えを提示した方が、気が楽だということに気付いた。
 もう聖書の暗誦は要らなかった。

「死ぬ気なら何だって出来る。自分にとって何が一番大事なのか。まずはそれからだろう。本当に彼女が欲しいなら、連れて逃げるのも一つの手だ。しかしそれには、数々の人の想いを背負う覚悟が要る」
 叫び、涙。悲しみ。
 一つの幸せと引き換えに、失われるものがある。
 その全てを抱いて尚、エゴを貫く程の覚悟があるのならば。それ程の思いがあるのなら、振り返らないほうがいい。
「君の心に……―――」
 網越しに、青年の左胸のあたりを指差した。
「それだけの"我儘さ"はあるかい?」
 青年は、驚いたように目を見開き、やがて決意したように大きく息を吸い込んだ。
「……僕は、彼女しか要りません」
「―――なんだ、もう答えは出ているじゃないか」
 ファストが苦笑すると、青年も同じように笑った。


            *


 宗教は確かに人を救う。
 そのことに気付き始めたのは、一体いつの頃からだろう。
 神も聖書も十字架も。
 人を救ったりはしない。
 『宗教が人を救う』というのは、もっと別な意味でだ。
 ひたむきによせる信仰が。真っ直ぐな想いが相手にダイレクトに届くから。
 真っ向から人にぶつかるその向こう側に、いつでも光はあるのだ。
 彼が、彼女が昔、そうしてぶつかってきてくれたように。

(本当は)
 懺悔室から礼拝堂へ抜け、隅の方の長椅子に腰掛けた。
 昼下がり。斜め上から差し込む光が、教会上部のステンドグラスを通過し、床に綺麗な絵を描いていた。
(人の悩みを聞きながら、本当に癒されているのは)
「……俺なのかもな」
「なんのハナシ?」
「ぅわっ!?」
 突然、後ろから視界に飛び込んできた頭に、ファストは素っ頓狂な声を上げた。適度に広い礼拝堂に、よく響いた。
「ヘンな声〜」
 慌てて立ち上がって振り返ると、ひとつ後ろの椅子に登り、こちらの椅子にもたれかかっている小さな体を見つけた。
「ハルト……びっくりさせないで」
 激しく内側から左胸を打ち付ける鼓動を持て余し、ファストは、悪戯っぽい笑みを顔中に浮かべている少年を見た。
「え? オレ、ちゃんと『ファスト神父』〜って呼んで入ったんだぜ? ファスト神父が返事してくれなかったんじゃんか」
 長椅子にあぐらをかいて座り、ハルトはぷぅと頬を膨らました。
「済まないね、気付かなくて……。で、どうしたんだい? 今日はレイは?」
「レイは掃除当番。あのさぁ、この間部屋で見せてくれた本あるじゃん? アレ、もっかい見たいんだ」
「本?」
「なんだっけ……あのキレーなさ、ヒラヒラ飛ぶやつ!」
「チョウ?」
「そう! チョウの本!!」
 ハルトの瞳が、新しい玩具を手に入れたようにぱぁっと輝いた。
 そう言えばこの間、部屋の掃除をしていたときに、ちょうどやってきたハルトとレイが手伝ってくれたのだが。
 途中から掃除などそっちのけで、二人は各々発見した本にかじりついてしまったのだった。
 特にハルトが興味を示したのは、考古学の本。とりわけ古代の生き物の生態や標本、化石の写真などを載せた図鑑だった。
「すっげぇよな。キレーだし、空飛べるし。本当に滅んじゃったの?」
 礼拝堂から居住スペースである部屋に移動している間も、ハルトは興奮気味だ。
 そのルビーのような瞳を輝かせて、見上げてくる。
「そうみたいだね」
「もったいないなぁ……。でも、化石はあるんだよね!?」
「いくらかは見つかってるみたいだね」
「じゃあ、オレさぁがそっと!」
 ファストの聖服の端を掴み、ハルトはへへ、と笑った。
 艶やかな黒い髪を、ぐしゃぐしゃと撫でると、また笑った。

「あ、あった。ほら」
 本棚の端から分厚い本を引き出し、ハルトに手渡した。
「ぅあっ!!」
 小さな両手には大きすぎるその本を、必死に胸に抱え込む。
「あげるよ」
「え……?」
「俺はもう使わない」
「あ! 神父が"俺"って言った!!」
 手に入れたばかりの本を抱えたまま、ハルトが目を大きく見開いた。
 無意識のうちに使った一人称に、ファストは思わず口元を覆った。気をつけて、外側と内側との言葉づかいを分けていたのに。
「ああごめん。忘れてくれ」
「なんで〜? カッコイイのに!!」
「は?」
「滅多に言わない神父が"俺"って使うの、なんだかカッコイイじゃん」
 素直に気持ちをぶつけてくるハルトに、ファストは苦笑した。
「全く。君には適わないよ」
 どうして君はこんなに、真っ直ぐなんだろうね。
―――それよりねぇ、本当にこれ貰ってもいいの? すっげぇ高そうじゃん。
 壊れ物を扱うように、分厚い表紙を持ち上げる小さな手。
―――カラスアゲハって、キレイだな。
 すぐに本の中の世界に自分を持ってゆける集中力。
 数分後には静かになって、食い入るように紙面を目で追う。

 ごめんね。
 この子達を愛おしく思うたび。その純粋な光を眩しいと思うたび。
 こみ上げてくる罪悪感に押しつぶされそうになる。
 君達に、勝手に"名前"を押し付けて、―――ごめんね。


            *


「ねぇレイ。ハルトがどこに行ったか知っている?」
 外から窓ガラスを拭いているレイに向かって、まだ若いシスターが問い掛けた。
 幼い体に、肩の後ろまで伸びた金髪をひとつに束ね。まるで女の子のように愛らしい少年が振り返る。
「しらないです。でももしかしたら、教会かも」
 朝も早くから、チョウがどうのこうのと言っていたのを思い出し、告げる。
「あら、ファスト神父のところね。本当にハルトはファスト神父が好きみたいね」
「そうみたいですね」
 レイは視線を窓に戻し、はぁ、と息を吹きかけた。
 白く曇るガラスの上を、白い布で丁寧に拭いてゆく。
「レイは行かないの?」
「だって今日は当番だし、それに……神父様のこと苦手だから……」
 神の道を説くものは、禁欲を旨とする決まり。
 一つの宗教によって強力に束ねられているこの世界に於いて、知らない者などいない、常識。
(このあいだ、部屋のすみで酒瓶見つけたし。聖服がなんとなく煙草くさいし)
 純粋に教えを信じているレイにとって、そのような神父を信じることは出来ない。
 苦手、と幼いながらに柔らかい言葉で対応したものの、本音を言うと「嫌い」なのだ。
 暴れん坊のハルトは、彼の破天荒さを気に入っているようだし、なんだかんだいいつつ村の人々も彼の事を頼りにはしてはいるけれど。
 飲酒喫煙も、暗黙の了解になっているけれど。
(そんなの、なんかヘンだ)
 きゅっと布で擦ったガラスに映る自分の顔が、酷く不機嫌そうになっているのに、レイは自分で驚いた。
「あらあら。レイは難しい年頃なのね」
「シスター……」
 裏口から、孤児院の院長を務める、最年長のシスターが出てきて、レイに声を掛けた。
 今までレイの相手をしていた若いシスターは、院長に一礼をして、孤児院の中に戻ってゆく。
「レイはファスト神父に抵抗があるのね」
「だって、おかしいもん。規則破りだし、何考えてるかわからないし……」
「確かに彼は、型にはまった神父ではありません。けれど、人の痛みがわかる人です。そう毛嫌いしてはいけませんよ。何より、レイ」
 レイの細い両肩をしっかりと掴み、院長は顔を覗き込むようにかがみこんだ。
「貴方とハルトを見つけて、名前をつけて下さったのは、ファスト神父なのですよ?」
「なまえ……?」
「そう。古代の言葉で"光"という意味だそうです。素敵な名前ね」
 じわりと、腹の辺りから何か温かいものが湧き出すのを感じた。
 今まで、ただ単に自分と他人とを区別するだけの記号としか考えていなかった"名前"。
「ひかり……」
 口の中で繰り返した。
 この名前の持つ意味。
(ゲンキンだ……)
 幼い子供が使うには難しい言葉で、レイは自分の今の心を形容した。
 今の今まで、大ッ嫌いだと思っていた人物が。
 この体に名前を与えてくれたというだけで。ただそれだけで好感度を上げたこと。
 嬉しいと思ってしまったことが、少し忌々しかった。


             *


「……やっぱり変だな」
 ぼんやりと不健康な光を放つディスプレイを見つめて、一人ごちる。
 どれだけ漁ってみたところで、"神の声"に関するデータが見つからない。
 教会本部の内部コンピュータに接続しても。だ。
 初めに疑問に思ったのは小さなことだった。
 この世界では、「"神の声"が何故聞こえるのか」を科学的に検証することが禁止されている、ということを知ったからだった。
(科学的に突き詰めていけば、ボロが出るってことか?)
 教会側は、神から与えられる恩寵への冒涜だ、とは言うが、いささか強引だ。
 教会ほどの力がなければ、とても抑えられなかっただろう。
 代わりに手に入った情報が、何百年も前に行われた、神の船「ガイアズメール」の探索が途中で打ち切られたこと。
 その直後に、ファレスタ山脈が立ち入り禁止になったこと。
(上層部は何を隠してやがる)

 昔から聞こえ続けてきたノイズ。
 この、自分には全く意味のない雑音が生命を繋いだと言うのも不思議な話だ。
 一体何が貴重だったと言うのだろうか?
 地下牢に訪れた男の面影を思い出し、胸元の銀のロザリオに触れた。
 あのあと、あの男の正体はすぐに知れた。
 思った以上に「有名人」に出会ったことに、後から気付く。
 大司教ラジエル・エレアザール。
 表向きは現教皇ケルビーニ8世の強力な補佐官だが、影で全ての権力を掌握していると言われている。
 彼が何故自分を生かしたのか。
 それを考えてゆくうち、"神の声"にぶち当たった。自分が持っていたものは、それしかなかった。
 それでは何故?

「……わかるか、そんなもん」
 何分、情報が少なすぎる。
 点在する事実と事実を繋ぐだけの情報が入ってこないのでは、仮説すら立てられない。
 けれどもしかして。
 あくまで仮説として。
 この"声"が、神の恩寵の証などではなかったら?
 教会の、というよりも教会上層部を占める"神の声"を聞くことの出来る人間の権威は失墜することになる。
「しかも、その嘘がばれると、信頼も壊れるな」
 今まで民をたばかってきたことが露呈すれば、教会の権威すら、無傷ではいられないだろう。
 考えれば考えるほど。損得勘定ばかりのハリボテに、呆れるを通り越して同情する。

 ギィ。

 何かが軋むような音がして、ファストはハッと顔をあげた。
 木のドアに目をやると、わずかに開いている。
 ぞくり。
 背中を駆け上る悪寒と既視感。トラウマと共に。
「誰だ!!」
 威嚇するように声を荒げると、ヒッと咽喉が鳴るのが聞こえた。
 ざっと、後ずさりする音。
 薄暗い中で、ちらりと視界に映った色に、まさか、と思いながら近づいてゆく。
 半分開いた扉を手前に引くと、怯えきって青白い顔になった幼い子供が、今にも泣きそうな顔をしてそこに立っていた。
「レイ……」
 普段聞きなれないファストの荒々しい声がよほど怖かったのか、レイの体は小刻みに震えている。
 怯えさせないようにゆっくりと手を伸ばし、その金の髪をゆっくりと撫でた。
「……大きな声を出して悪かったね。でも、一体どうしたんだい? こんな時間に。シスターには?」
「ぬけだして、きました」
「夜道は危ないだろうに。一体どうしたんだい?」
 私を嫌っているはずなのに、とは口には出さないでおいた。
 必死に隠しているつもりでも、幼い子供が感情を殺しきれるわけもない。にじみ出る嫌悪感は、肌に突き刺さるほどだったのだ。
 ドアを大きく開いて、部屋の中へ導きいれようとしても、レイはそこに立ち尽くしたまま動かない。
「聖書って……」
 俯いたレイの白い顔に、艶やかな金髪がぱらぱらと覆い被さった。
「聖書って一体、なんですか」
「レイ……」
「ハルトが今日、聖書を火にくべて……何も信じられないって。部屋に閉じこもって出てこない……。聖書には尊い教えがつづられているんでしょう!? 僕は、ハルトのことも、何もかも……分からなくなっちゃって……」
 ぼすっとファストの腰に強くしがみついて、レイは泣き出した。
 ひくっ、ひくっとしゃくりあげる振動を己の体で感じながら、宥めるようにレイの小さな背中をさすった。
「レイ。聖書が、救いをくれるわけでは無いよ」
「え……?」
「ひとつひとつの言葉が、自らの境遇に、傷口に重なったとき初めて、癒しになる。答えはひとつでは無い。受け取る人の思いで変わるんだ。昨日は通り過ぎた言葉も、明日には癒しになるかもしれない。……難しいけど、頭のいい君なら、きっと分かる。縛られてはいけないよ」
 教義や戒律ばかりに縛られて、自分を見失ってはいけない。
「聖書に"答え"を求めてはいけない。"答え"は自分で手に入れるものだ。私たち神父と言う生き物も、答えはあげられない。聖書と同じで、手助けしてあげることしか出来ないんだよ」
「……神父はどうして、聖書を持ち歩かないんですか?」
 答えを探す手助けをしてくれると言うのなら。いつでもすぐ傍に置いておいてもいいのに。
 何より"神父"なのだから。持ち歩くのは当然と、レイは思っていた。
 見上げるレイの緑の瞳に、ファストは少し驚いたように目を見開いた。
 しかしすぐにその表情を消し、苦笑するように口元を緩める。
「私には、聖書が重いんだよ」
 涙を一杯に溜めた瞳と視線を合わせるようにかがみこんだ。
「レイ。右手を出して」
 促されるまま、おずおずと差し出されるその小さな手を、自分の両手で包み込んだ。
「この手に、分厚い聖書を持っていたとしたら、いざと言うときに対処が遅れてしまうだろう。聖書は、自分が一番大事だと思う言葉を"ここ"に、入れておけばいいんだよ」
 トントンと、自分のこめかみを指差して、笑ってみせる。
 きょとんとするレイの右手をもう一度両手で包み込んだ。伝わる子供特有の高い体温。
「この右手は、何か大事なものを掴むとき、守るときのために、空けておこう。ね?」
 まだ、他人を傷つけるものを何ひとつ持たない無力な掌。
 無力で、強い掌。
 呆然と、自分の右手を見下ろしているレイの小さな体を、そっと包み込んだ。
―――私は、掴めなかったから。
 声には出さず、心の中だけで呟いた。

 あの頃、この両手は人を傷つける道具で塞がっていたから。
 いつでも差し出されていた大切なものを掴むことなど出来なかった。
 優しい手を。
「大事なものって、なに?」
 恐る恐る伸ばした手が、ゆっくりと背中に回り、きゅっと服を握り締めた。小刻みに震えている。
「私の答えは、君の答えじゃないよ」
 愛するもの、慈しむもの、尊ぶもの。
 それは全て、ひとりひとりが決めるべきこと。
「神父の大事なものって、なに……?」
「………………もうずっと前に、なくしてしまったんだ」


 君たちだとは、とても言えなかった。
 それはただの我儘だから。
 自分のせいで失われた生命を託すように名を与え、勝手に想いを押し付けておいて。
 それなのに、君たちが「大事」だなんて。なんて自分勝手だろう。
 それでも。
 あの夜、この教会で出会った君たちを愛おしむ心に、嘘などひとつも。
 たったのひとつもなかったんだと言ったら、君たちは笑うだろうか?
 笑って言うのだろうか。
 なにそれ。と。



4.

「これらが、最近あの男が調べていた情報です」
 目の前に広げられた資料を適当に拾い上げ、ぱらぱらと目を通しては、再び机の上に投げ出す。
 その行為を何度か繰り返したのち、金糸の髪を持つ青年は、つまらなそうに足を組み替えた。
「……鼻の効く男だな」
 口元に歪んだ笑みを浮かべ、ラジエル・エレアザールは吐き捨てた。
 確実に、的を射た情報のみを求めてくる。どの情報にアクセスしているかが、"こちら側"につつ抜けだということも、もちろん承知の上で、だ。
 大胆で、侮れない男。
「この分ですと、"神の声"について、おおよその仮説は立っているものかと……」
「そのようだな。無駄なものには何ひとつ手をつけていない」
「いかがなさいますか」
「そろそろ潮時か。飼い繋ごうとしたところで、恐らくは飼い主の手に余るだろうな。少々惜しいが……、よかろう」
 組み合わせた足の上に手を重ね、目の前に立つ不健康そうな副官を見上げ……。
「―――消せ」


            *


 布団にもぐりこんで、ほぼ1日。
 さすがに空腹を感じて、ハルトはもぞもぞと布団から這い出した。
 目のあたりが突っ張って、気持ち悪い。ひりひりする。
 充血すると、白目のところまで赤くなって、キモチワルイんだよな。
 二段ベッドの上から、なるべく音を立てないように下りながら、ハルトは、小さいながら大きな問題に眉をしかめた。
 赤い瞳。
 この星の人間達の中では、珍しい部類に入る。
 だから、親を捜せないこともないと思った。
(寂しくなるのは、オレだもん)
 いつも、もしかしたら親が見つかるかもしれないと思いながら、やめる。
 要らない。
 そう思われて、置き去りにされて。
 自分が探して見つけて尚。拒絶されたら。
 悲しくて泣くのは自分だ。

 時計は見えなかったが、孤児院全体がしん、と静まり返っているところを見ると、どうやら深夜らしい。
 何か口に出来るものを探して、台所へ行こうと、寝室に隣り合わせになっている勉強部屋へと足を踏み入れた。
 ぼんやりと。ランプのオレンジ色の光が見えて、とっさに足が竦んだ。
 部屋の隅が、ぼんやりと明るくなっている。
 ぱらり、ぱらりと。
 なにやら本のページをめくる音が絶え間なく聞こえてきた。
 恐る恐る、足音を立てないようにそちらの方へ近づいて…………。

 ギィ。

 踏みしめた場所が悪く、古くなった床が軋んだ音を立てた。
 普段は気にならない程の音が、やけに大きく、化け物の叫び声のように聞こえた。
「―――ッ!!」
 息を呑む音が自分の咽喉と、向こう側から同時に聞こえた。
 相手は慌てて立ち上がったのか、がたりと椅子が後ろに倒れる。
 ぼんやりとしたオレンジ色の光に映し出されたその容貌に、ハルトはへなへなとそこに座りこんだ。
「……レイ、びっくりさせんなよ……」
「それはこっちの台詞だよ……」
 音を立てないように椅子を直しながら、レイは大きく安堵の吐息を吐き出す。
「なにしてんだよ、こんな時間に」
「ハルトこそ。お互い様だろ」
「オレは……」
 ぐきゅるるる……。
 意気込んで何か言ってやろうとしたハルトの口より先に、腹の方が喋りだす。
 ぷっ、と、一瞬置いてレイが吹きだした。
「うるさい! 笑うな」
 至極無理なことを、ハルトは顔を真っ赤にして言った。


「で、お前は何してたんだよ」
 台所から拝借してきたパンを頬張りながら、ハルトはレイの手元を覗き込んだ。
 読めない単語のほうが多い、古代語の辞典。
 ほら、と、レイの白い指先が、ある一行を指差した。

『レイ【rey】―――光、輝くものの意』

「シスターが教えてくれた。僕の名前の由来なんだって」
「へぇ」
「人事じゃないってば! ほら」
 と、レイは、無関心そうなハルトに、他のページを慌ててぱらぱらとめくって突き出した。
「なんだよ……」
「ここ!」
 先程と同じように、別のところを指差し、レイはハルトを促した。

『ハルト【halt】―――翼、希望の意』

「…………」
 ハルトは、一点を見つめたまま沈黙した。
「ファスト神父が、つけてくれたんだって」
 オレンジ色の光に浮かび上がる言葉の並びに、ハルトの視線は吸い付いたまましばらく動かなかった。


            *


「神父」
 礼拝堂に整然と並んだ長椅子の、一番前に座り、ファストは本を読んでいた。
 斜め後ろから掛けられた声に、目線を持ち上げる。
 目元から眼鏡を引き抜いて隣に置く。それから立ち上がった。
「やぁ」
 振り向いた先には、成人を迎えたばかりぐらいの、線の細い青年が立っていた。
 ファストの視線は、ゆっくりと彼の頭から下へと降りてゆき、左手で止まった。
「ごめんなさい」
 その視線の行方に気付いた青年が、泣きそうに顔を歪めた。
「……また、やっちゃいました」
 青年の左手首には、ぐるぐると白い包帯が巻かれていた。
「私に謝ることじゃないよ」
 小さな子供のように怯えた目をする青年に、できるだけ優しい声でファストは言ってやる。
「自分の体に、謝らないとね」

―――死にたいんじゃないんです。

 数ヶ月前から、彼は頻繁にこの教会を訪れている
 村の料理屋で働く彼は、ある日突然に、自傷行為を始めてしまった。
 その理由は自分でも分からないと言うし、死ぬつもりもないという。
 どうして。
 自らに問い続ける彼の悲痛な叫びを、数ヶ月に渡ってファストは聞いてきた。

 彼の父親に聞けば、母親が彼を産んで死んでいるという。
 精神関係の医者に聞けば、無意識のうちの罪悪感が、自分の存在を許さないのではないかという。

 けれど、何ひとつとして、告げてやることは出来なかった。
 自分のせいで誰かが傷つく、悲しむ、いなくなる。
 その痛みは、他人が思っているほど小さなものでは無い。
 胸に大きな穴を開けて、簡単に閉じることは無い。傷口が塞がったかに見えても、ある日突然疼きだすこともある。
 その痛みを。背負ってしまう罪悪感を。
 知っているから。

 お互いの苦しみを曝け出して、干渉しあうのはよくない。
 どちらも辛い。

「生まれてきて、よかったんでしょうか」
 ファストと並んで腰掛け、青年は目の前の十字架を見上げた。
 ステンドグラスから零れる淡い光が、青年の白い頬をたくさんの色で彩った。
「誰も、答えられないよ。それにはね」
 胸元のロザリオを無意識に探りながら、ファストも同じように十字架を見上げる。
 自分自身の存在価値なんて。
 自分で取ってつけても虚しい。
 無理矢理探しても、悲しい。

「ただ、痛みを抱いていくことは、悪いことでは無いと、私は思うよ」
 最近、そう思えるようになった。
 失われたものは、あまりに大きいけれど。
 その全てを背負うからこそ、見える光もあることを知った。
「救いは、いつも小さなところに、石ころと一緒に転がってるんだ」
 目を凝らさなければ、注意深く見つめなければ。見つからない。
「だから、下を向いて歩くことも、後ろを振り返ってみることも、悪いことじゃない」
 すぐそこに。足元に。通り過ぎた場所に。
 大事な何かが落ちているかもしれないから。
「急いで顔をあげて、前を向いて歩くことばかり考えなくても、構わないさ」
「……神父」
「私も常に、振り返ってばかりいる」
(あの頃を)
 手の中におさまる銀のロザリオを見つめたまま、ぽつりと呟いた。


 ゴーン。

 村の時計台が、正午を告げる鐘を鳴らした。
「そろそろ戻ります。……また来ても、いいですか?」
「いつでも。私でよければね」
「神父は、間に合わせの言葉を使わないから、安心します」
 今にも消えそうな儚い笑みを作って、青年は立ち上がった。
 こたえる言葉が見つからなくて、ファストは曖昧に笑みを作った。



 青年が外に出ると、ばたばたと、小さな子供が二人、教会に駆け込んでいった。
 その動きを微笑ましいとばかりに視線で追って、再び前を見ると。
 男がひとり、立っていた。
「君……」
 旅人らしく、頭からすっぽりとフードをかぶっていた。
「ファストと言う男を知っているか?」
 頭からずるりとフードを引き摺り下ろすと、鳶色の髪と瞳が露になった。まだ若い男。
「え、神父の、ことですか?」
 すると、男は嘲るように鼻で笑って。
「神父なんぞ、やっているのか。あの男は」
 と吐き捨てた。
「どういうことですか……」
「俺は仇を追ってるんだ」


             *


「ファスト神父!!」
 青年が出て行って、数秒もしないうちに、新たな来訪者が訪れた。
 ばたん、とけたたましくドアを開け放ったのは、きっと活発な黒髪の少年だろう。
 声がハモって聞こえたから、多分その後ろを金髪の少年がついてきているのだろう。
 今日はいつにも増して来訪者の多い日だと、溜息をついて振り返る。
「いらっしゃい、ハルト、レイ。今日は何の用……」
「ねぇ! オレたちに名前くれたの、神父なんでしょ!?」
 言い終わらないうちに、少年達の切り返しに言葉を封じ込められた。
 胸を、巨大な鉄球で押しつぶされたような衝撃が、少し後から来る。
 絶望?
 それとも少し違う。胸を矢で射抜かれたような鮮烈な痛み。
 目を逸らし続けてきた罪に、突然光を当てるような……。
「どこ? オレたち、どこに置かれてたの!?」
 瞳を輝かせて、二人が見上げてくる。
 ねぇどこ、と、黒い聖服にしがみつく。揺さぶる。
 頭がくらくらした。

―――名前はもう決めてあるのよ。古代の言葉で"翼"と"光"っていう意味なの。

 これが報いだろうか。
 自分勝手に、自己満足を押し付けた自分への。

 震える指を差し伸べて、礼拝堂の隅の長椅子を指差してやりながら、頭の中では別なことを考えていた。

―――"ハルト"と"レイ"って。

 生まれてくることすら出来なかった生命。
 それを託したことを、きっと君たちは許してくれないだろう。

「ごめん」
 譫言のように零れ落ちたその言葉に、今の今まできゃっきゃと騒いでいた少年達が、黙り込んだ。
「なんで?」
 緑と赤の瞳を零れ落ちそうなほどに見開いて、二人が問うてくる。
「い、いや、私なんかが勝手に名前をつけてしまったから……」
 思わず、本当のことを言えずに取り繕ってしまった。
 怖かったのだ。
 嫌われるのが。傷つくのが。
 子供みたいに。
「なんで? すっげ嬉しかったのに」
 ハルトが、赤い瞳を細めてにかっと笑った。
「うれし……」
「だって。僕たち人からものもらったことないから。孤児院だと、物はみんな共同でしょう? 名前は自分だけのものだから。そう思ったら……」
 レイが少し恥ずかしそうに俯いて、言葉を紡いだ。
「名前って、生まれてから初めてもらったプレゼントでしょ? すごく、すっごく、嬉しかったんだ」
 "翼"と。"光"と呼んでくれて。
 僕たちを、見つけてくれて。
 ありがとうと、今は心から言いたい。

 純粋に微笑む二人を見て、ファストは声も出せずにいた。
 不自然に開いた口唇から、掠れた喘ぎが零れる。
 思わず右手で口元を覆った。しかし、零れ落ちる熱のこもった吐息は止められるはずもなく。
 どうしたの?
 心配そうに見上げてくる色違いの瞳が、ぼやけた。
 視界に薄い膜が張ったように、世界が歪んだ。

 違うんだ。

 自分の声を、どこか遠くで聞いた。
 がくりと、力の抜けた膝が落ちた。すぐ傍の二人を引き寄せて、両腕に抱き締める。
 ただのエゴだ。自己満足だ。そんなことはたったのひとつも言えず。
 ただ、両腕に小さな温もりを感じながら、譫言のように繰り返した。
 ごめん、と。

「ごめんって……なにが?」
「ハルト、レイ。君たちの名前は……死んでしまった子供達の名前なんだ。私の我儘で、押し付けたんだよ。ごめん」
 なくしてしまった生命を。取り戻したいがために。
 虚しいと知っていて。君達を傷つけることを知っていて。
「謝んないでよ!!」
 腕の中で、ハルトが叫んだ。
 ふと、抱き締めた腕の力を緩めると、意地っ張りのハルトが、その赤い瞳にいっぱいの涙を溜めていた。
「どんな理由だって、いいんだ。ムズカシイ話、わかんないしっ! でもさ……、でもオレたち、捨てられたんだよ」
 きゅっと握り締めた小さな拳が、小刻みに震えている。
「親に要らないって、言われたんだよ。神父は……、そんなオレたちを見つけて、名前をつけてくれたじゃんか。大事だったものの名前、つけてくれたじゃんか……」
 もしかしたら誰の目にもとまることなく。凍えてしまったかもしれない自分達を。
 見つけてくれた。ただそれだけでいい。
 大人のムズカシイ理屈はわからないけれど。この気持ちは、大人になったら変わるのかもしれないけど。
 今はこれでいいんだ。
「オレこの名前、すっごく気にいってるんだ。この星中探したら、同じ名前のやつなんていっぱいいるかもしれないけど」
 強く抱きすくめるファストの腕の力に、窮屈そうにしながら、ハルトが言った。
「ファスト神父がつけてくれた"ハルト"って名前、ひとつしかないんだからさ」
 同じ響きも。こめられる思いが違ったら、同じものじゃないから。
「だって、すごいことだよね……」
 今まで腕の中でじっとしていたレイがその緑色の瞳を細めた。
「孤児院にいるのに、シスター以外に名付け親がいるなんて」
 呟いたあと、レイは恥ずかしそうに俯いた。
 金の髪に隠れきらない耳が、ほのかに赤い。
 名付け親と? そう呼んでくれるの。我儘を押し付けたこの自分を。
 この腕の中の小さな小さな生命を。これほど愛おしく思ったことはなかった。
 酷く力を込めたらきっと折れてしまうような、そんな小さな体を強く抱いた。

 嗚咽に震える声で、やっとのことで囁く。

―――ありがとう。



5.

 炎は、人の知らないところで燃え始め、いつのまにか燃え広がる。
 誰がそれを、咎めることが出来るわけもない。
 平穏に慣れすぎて、忘れていたことがある。
 自分が本当は、罪を背負って生きていたことを。


            *


 がやがやと、やけに外が騒がしい。
 今日は礼拝の日でもないはずだし、一体何事だろうか。
 自室の方で取り寄せた資料に目を通していたファストは、その紙の束を机に投げ出し、立ち上がった。
 礼拝堂へと抜けたとき、正面の扉がゆっくりと開いた。
「出て来い! 人殺し!!」
 入り込んでくる光に照らし出されたその影に、ファストは思わず息を呑んだ。
 浴びせられた罵声よりも、何よりも。その人間がここに存在すると言う事実が、衝撃を与えた。
「…………やっと見つけた」
 両開きの扉に手をかけたまま、真っ直ぐにこちらを見据えてくる鳶色の瞳。
 成人をとうに過ぎたらしいその精悍な顔つきに、しかし、確かに昔の面影を見つけて、押し黙る。
「ファスト!!」
 吼えるように青年が叫んだ。
「久しぶりだなジェイク……」
 やけに冷静な自分に、自分で驚く。
「よくもそんな白々しい挨拶が出来たもんだ」
 半ば開いた扉の向こう側から、がやがやと人の声が聞こえてくる。
 どうやら村人達が集まっているようだ。
 ファストの視線が向こうに向いていることに気付いて、ジェイクは後ろ手に扉を閉めると、口元を歪めて笑った。
「悪いけど、あんたのしてきたこと全部、話させてもらった」
「そうか」
 さして興味もなさそうに、ファストはその言葉を流した。
「思ったとおり、ショックなんて受けないんだな。この村も、教会も、あんたには、大事なものなんて何もないんだ」
「お前だって、大事だよ」
「ふざけたこと言うな!! 俺が今まで……どんな気持ちで……」
 ジェイクは、つかつかと歩み寄ってくると、ファストの聖服の胸倉を掴んだ。
「姉さんとカレスが死んで、あんたが殺したんだと聞かされて……。本当かどうかを確かめる前にあんたは消えて……俺は一体、何を信じればよかったんだよ!?」
「弁解できることなんて、何もないさ」
 二人の生命を奪ったのは、確かに自分だから。
 ジェイクは、掴んだ胸倉に、額を強く押し当てた。
「それでも……」
 ぐっと握り締め、額を擦りつけ、掠れた声を絞り出す。
「それでも俺は……あんたを信じたかったっ……!」
「……ごめん」
 もたれかかってくるジェイクの重みを受け止めて、ファストは、今にも消えそうな声で呟いた。
 ジェイクは、懐から取り出した封筒をファストに押し付け、離れた。
「……"教会"か?」
「俺はただの郵便屋だ。違法の発掘稼業をしてて、ヘマして捕まった。教会側から、この村であんたのことをばらして、その手紙をあんたに届けるなら、出してやるって言われて出てきただけだ。教会に組したわけじゃない」
「教会ってやつは、何度も同じ手を使うんだな」
 恩赦に交換条件。8年前と何も変わらない。使えるものは使うのだ。
 ぱらりと、白い紙に整然と並んだ印刷された文字に一通り目を通し、ファストは溜息をついた。

―――教会本部に組するなら、生かしてやらないこともない。
 そんな内容。

「渡して来いと、言われただけか? 殺せって言われたんじゃないのか」
「"殺してもいい"とは言われた。でも強制じゃない」
「なるほど」
 呟いて、ファストはその紙を二つに裂いた。

 向こうに筒抜けであることを知っていながら。あれだけ資料を集めて不信の意を明らかにしておいて。
 今更内側に引き込んだところで、従わないことなど目に見えているのに。
「"嘘をつけ"だな」
 びりびりと何度も紙を千切り、吐き捨てる。
 恐らく、仕向けられたのはジェイクだけでは無いはずだ。
 教会は、逆らったものをこんな簡単な妥協で許すほど、寛容では無い。
 とりあえずは、この村にいられなくするのが目的だろう。
 外のざわめきを聞けば、それがほぼ成功していることが分かる。
 行き場を無くし、居場所をなくし、そして、いずれ消される。
「はいそうですかと、消されてやるつもりもないけどな」

 ステンドグラスが描いた美しい色彩の上に、ぱらぱらと白い紙が散らばった。
「それでお前は」
 掌に張り付いた紙の欠片を払い、ファストは真っ直ぐにジェイクを見た。
「殺さないのか?」
 しばらくの間、ジェイクは目を見開き黙っていた。
 少しおいたあと、自分が一体何を問われたのか、気付いたように息を呑む。
「あ、あんたなんかのために、牢屋に入ってやるほど、俺はお人好しじゃねぇんだ!」
 慌てて取り繕った言葉が、ジェイクの答えだった。
「そうだな」


 ジェイクが去ってゆく背中を見送ったあと、ファストは教会の外へと足を踏み出した。
 ざわりと、たむろした人込みが揺れる。

―――俺はあんたを、許したわけじゃない。けど。

 ぐるりと円を描くように取り巻く人々を見回し、怯えたようなその視線たちに自嘲を漏らした。
 全ては報いだ。
 この村で、癒された自分は、もう十分じゃないか。

―――あの頃のあんたが好きだったから、殺せない。

(それでも俺は、お前になら殺されてもいいと思った)

「皆さん、お騒がせしました」

 どうか懺悔を聞いてください。
 今まで何度も受け止めてきた言葉を、今は、ここで叫びたい気分だった。
 不安そうな瞳は、否定の言葉を待ち望んでいるようだった。
 長年親しんだ神父が、元のまま"神父"でいてくれることを望む眼差し。
 簡単な言葉で否定してやることは、恐らく容易い。
 彼ら、彼女らが望むように、いい神父を演じてやることなど。
 けれど。
「皆さんをたばかっていたことを許してください」
 生温い幸せを、偽りで繋ぐことなど、意味がない。
 人々のざわめきと、戸惑う声が少し遠くに聞こえた。

「私は人を、殺しました」



6.

―――君は彼の"裏切り"を、許しておいてもいいと言うのかい?
 耳元で囁かれた言葉が脳髄にまで染みこんで離れない。
―――彼は君たちを騙していた。それでも構わないと?
 やめてくれ。と、耳を塞いで喘いでみたところで、頭の内側から響く言葉にはどうしようもない。
 神父の過去に呆然とする自分の前に、現れたもう一人の男。
 先日の若者は違って、決してフードを脱ぐことはなかった。相手の顔など知らない。
 けれど、抉るような威圧感のある声は、忘れられない。

―――君は、信じていたのに?

            *


 その知らせは小さな村に、瞬く間に響き渡った。
 掌を返したように彼をなじるものもいれば、信じられないと首をかしげるものもいて。
 直ぐさま村は、混乱の坩堝に叩き落された。
 孤児院すら、それは例外ではなく。
『教会にいってはいけません』
 ただそうとだけ告げられた。
 ハルトは、『そんなの関係ない!』と突っぱねたワリには、頭から布団をかぶって不貞寝の体勢で。
 やはりショックだったのだろう。自分だってそうだ。
 わぁわぁ、ぎゃあぎゃあ騒いでいる子供達を尻目に、レイは一人、勉強部屋で古代語辞典を開いていた。

 rey。そうつづられた文字の上を、何度も指でなぞる。
 古い辞典だ。なぞったあとの人差し指を見つめると、埃が黒く指を汚した。

―――ありがとう。

 嗚咽交じりの声を、まだ覚えている。あの腕の温もりを。
 がたり、と勢いよくレイは立ち上がった。勢いに負けて、椅子が後ろに倒れる。
 勝手口に向かって駆け出そうとした、そのときだった。
「そっちの玄関、シスターが見張ってるぜ」
 寝室から顔を出したハルトが、レイに言った。
「こいよ」
 しゅんと肩を落とすレイを、ハルトは手招きする。今出てきた寝室へと、レイを引きずり込んだ。
「見ろよ」
 ハルトは、ベッドの下のわずかな隙間の床下を指差した。わずかに色の違う板が何枚か見えた。
「あの板剥がすと地下に入れるんだ。そこから、村はずれの川べりまでいける」
「ハルト……」
「オレがイイワケしてやるから、俺の分も聞いてこいよ。嘘つくのは、オレのがうまい」
 抵抗するまもなく、レイは床下に押し込まれた。
「ありがとう!!」
 叫んで、レイは、床下の薄暗い穴へともぐりこんだ。


            *


「さて、と」
 あまり大きくないカバンに、詰めるものなどほとんどなかった。
 意気込んで出発の準備などしてみたものの、これでは気が抜けてしまう。

 引き止めてくれる人が、いないでもなかった。
 それこそ不思議で、声を失ってしまうぐらい驚いた。
 こんなことを口にしたら、物凄く綺麗事に聞こえるけど。
 その言葉だけで十分。本当にそんな気持ちだった。
 自分は恵まれすぎている。そう感じた。
 あれだけの罪を犯しておきながら、こんなふうに癒されて。
 もう十分だ。

 わずかな手荷物だけを持って、礼拝堂に出た。
 祭壇の上に立ち、淡い光を落とすステンドグラスと、その光を背負う十字架を見上げる。
 10年近く、眺め続けてきた光景だった。
 時間帯によってこのステンドグラスが床に落とす影は違う。
 その違いすら、昔の自分は知らなかったのだ。
 生かされて良かったのだと、やっとそう思えるようになった。それだけでもう、十分なのでは無いだろうか。

「神父様!!」
 がたん、と扉が大きな音を立てて開いた。
 振り返ると、よっぽど急いできたのか、白い頬を真っ赤に染めた愛らしい少年が立っていた。
「レイ……」
 レイは、ファストの足元に視線を滑らせ、そこに置かれている荷物を見て、血相を変えた。
「神父様…………出てくの? 噂なんて、噂なんて気にしなくても…………っ!!」
 慌てて駆け寄ってきたレイが、しがみつくように抱きついてくる。
 ファストは困ったようにレイの頭を撫で、苦々しく笑った。
「火の無いところに煙は立たぬ。頭のいい君なら知っているだろう」
「いやだ、聞きたくない!!」
 ファストの腹あたりに顔を埋めたまま、レイは必死に首を横に振った。
 じかに伝わるその震えが、切なかった。
「君たちが望むような名付け親でいられなくて、ごめんね」
 頭をゆっくりと撫でながら、切ないほど優しい声で言うファストに、レイは必死で首を横に振る。
 後ろに回した手が、震えながら腰のあたりの服を掴んだ。
「君たちに出会う前に、私は幼なじみを殺した。この手でね。神父になったのだって、そうしたら牢屋から出してやるって言われたからだ。初めは、人を救うことなんて全く考えられなくて、苦しかった。でもね、この村に来て、君達を見つけて、癒しをもらった」
 あの時。この礼拝堂の隅で君とハルトを見つけなかったら、こんな穏やかななれなかったかもしれない。
「あはは、泥だらけだね。一体どこを通ってきたんだい?」
 レイの顔を覗き込むようにしゃがみこみ、涙と泥ででぐちゃぐちゃに汚れたレイの顔を、そっと拭ってやる。
 しゃくりあげながら、縋るように見つめてくるレイの首に、ファストは、自分のロザリオを外し、そっとかけてやった。
「これはお守りだ。気がつけば、ずっとこれが私のことを見守ってくれていた気がする」
 レイの首にはまだ少し長すぎる鎖。自分の腹部あたりで揺れる純銀のロザリオに、レイは恐る恐る触れた。
「ねぇレイ。神父と言う職業は、人を癒すものだと言うけれど、本当にそうなのだろうか」
 レイの小さな体を優しく包み込み、耳元で言った。

 誰かと対話しながら、誰かの綺麗な心に触れながら。
「本当は、私たち神父の方がいつも、癒されているのかもしれない。聖書や十字架なんてなくても、人は人を救える」
 何度も。何度でも。目頭が熱くなるような、切ない癒しを貰って。
「ありがとう。君に出会えて、幸せだったよ」

 ありがとう。親と呼んでくれて。


            *


 等間隔に植えられた街路樹が、昼下がりの心地よい風にさわさわと揺れた。
 ほとんど重みを感じないぐらいのカバンを持ち、ファストは既に、村外れまで来ていた。
 とりあえずはどこへ行こう。一度大きな街に出てみるか。
 それとも、灯台下暗しと言うから、カルチェ・ラタンに戻るのもまぁ、悪くは無い。
 頭の中でそんな算段をしながら、足元に落としていた視線を上げた。
「神父……」
 そこに、今にも泣きそうな顔をした青年が、立っていた。
 左手首には相も変わらず白い包帯が巻かれている。
「嘘だって言ってください」
 掠れた声で、青年が言った。
「嘘でもいいから、嘘だって言ってください」
 泣きそうな顔を無理矢理歪めて、笑う。
 難しいことを言うね。思わず肩を竦めてしまった。
「人を殺してなんかいないって、言ってくださいよ……」
 握り締めた指先が、小刻みに震えているのをファストは確かに見た。
 その右手が、握り締めているものも。
 昼下がりの太陽の光を反射して、鋭い光を発する。

「ごめん」
 小さく呟き、笑って見せた。
 慰めるためにこみ上げてくる、偽善塗れの言葉なら、幾らでもあげられるけど。
 君が本当に欲しいのは、そんなものじゃないんだろう。
 そんなの、君の嫌いな、"間に合わせの言葉"にしかならない。
「………………ッ」
 青年は、震える口唇を噛み締めて俯いた。
 きらりと輝いた雫が二つ、時間差で地面へと落ちた。
 その静かな軌跡を目で追う。

「ぅアっ……」
 空いた左手で覆った口元から、掠れた嗚咽が漏れた。
 右手が小刻みに震え、握った"もの"が、かちゃかちゃと揺れた。
「うわぁッ!!」
 ばっと顔を上げ、青年が地面を蹴った。
 ファストは、手に持っていた荷物をどさりと下に落とす。

―――この手は、大事なものを掴むとき、守る時のために……。

(聖書を持たず、俺がこの両手を開けておいたのは……)

「信じてたのにッ……」
 掠れた悲鳴が上がった。

 信じてくれた全てを、裏切り続けてきた自分への。
 これが"救い"だ。


 両手を、広げた。


            *


 寝室のベッドの上で、ハルトは古代語辞典とファストから貰った図鑑を並べて開いていた。
 【halt】。
 翼を表す文字の上を指でなぞり、綺麗に羽を広げたチョウを見つめる。
 自分も"翼"と言う意味の名前を持っていることが、嬉しかった。
 いつか飛べるだろうか。
 このチョウみたいに。


 光を染めるステンドグラスの下。
 レイは長い間、手の中の銀のロザリオを見つめていた。
 降り注ぐ赤や緑や黄色の光を反射して、キラキラと揺れた。
 "光"。
 金属は、レイの体温を奪って、徐々に暖かくなってゆく。
 優しく頭を撫でてくれた人の、手の温度に似ていて、胸が詰まった。
 ロザリオを握り締め、その両手を額に押し付けた。
 まるで祈るように。

―――もう一度、お願いだから、貴方のくれた名前で呼んでください。


             *


 ドンッ。


 鈍い衝撃が左胸にぶつかり、生暖かいものが食道を駆け上がった。
 口の中いっぱいに鉄の味が広がる頃、ようやく左胸のあたりが熱く、灼けるように痛み出した。
 広げた両手で、腕の中に飛び込んできた青年の体を掻き抱く。
「ごめん」
 呟くと、開いた口の隙間から赤いものがばたばたと零れ落ちた。
 小刻みに震える彼の肩に顔を埋め、強く抱いた。

 君の信じるような神父でいられなくて。
 君を救えなくて。
 傷つけて。
 ごめん。

―――ファスト。私たち、貴方が大事なの。
―――兄弟だろう。僕たち……。

 ごめん。信じてあげられなくて。
 いつも信じてくれていたのに。
 答えてあげられなくて、傷つけて、道を塞いで。ごめん。
 
―――神父がつけてくれた"ハルト"って名前は、ひとつしかないんだからさ。
―――すごいことだよね。シスター以外に、名付け親がいるなんて。

 ごめん。
 勝手に名前を押し付けて。
 それでも、喜んでくれて、抱き締めてくれて。
 泣いてくれて。

 ありがとう。
 君たちに、君たちに。いつも手を差し伸べてくれた君たちに出会えなければ。
 こんなに幸せだと感じることもなかった。
 君たちが信じて、頼って、慈しんでくれたから。
 愛してくれたから。

「俺は……君を……」
 君を、君を、君を。
 今まで手を差し伸べてくれた君を。
 誰よりも誰よりも。比べられないぐらいに……。
 こんなにも、こんなにも。


 ずるりと、自分の体を抱く腕が滑り落ち、聖服を纏った一人の男が地面に落ちる刹那。
 青年はたった一言を聞いた。




―――愛しているよ。





                        「Please call my name」……the end



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