マテイの炎
【C.C.C.】-Fire of Mathey-


6.

「あの男、姉上と共にマテイに連行されたはずだったんだ」
 最小限に声をひそめ、ルミアルが切り出した。
 ところはアルマロス郊外。住宅地を抜けたさらに向こう。外壁に程近い場所だった。
 辺境警備という名目で、自警団はこのあたりに本部を設置している。
 しかし考えてみれば妙な話だった。
 ひとびとは熱に浮かされていたから気づかなかったかもしれないが、本部は住宅地に近いほうがいいに決まっている。何故彼らはこのような街外れに本部を構えたのか。
 本部の入り口が見える、細い路地にふたりはいた。
「姉さんをたぶらかして一緒に捕まったはずの男が五体満足に自警団のリーダーなんか張ってる、か。確かに怪しいな。でもルミアル、あんたなんであの場にいたわけ?」
「あの場?」
「だから、ハマエルじいちゃんの」
 カイナは途中で言葉を切った。まだすべてを口に出せるほど、消化できたわけではない。
「……街で、お前に関する情報をあつめていた」
 気まずそうに、ルミアルも目を逸らす。
「人ごみのなかでクリストファ伯を見かけて、僕の知っている姿とは随分違ったからな、確証が持てずに追いかけたんだ。途中で人波にもまれて見失って―――あの路地に出たときには、クリストファ伯はもう倒れていた。割って入ろうとしたら殴られてな」
「そっか……」
「もっと早く辿りつけていたなら」
 ルミアルが形の良い唇を噛む。
「あんまり、変わらなかったと思うよ」
「それは! 僕が子どもだからか!」
「違うって!」
 かんしゃく玉のように爆発したルミアルの口を、カイナが覆った。
「あいつらは集団で動いてるんだ。黒幕に何の目的があるのかは知らないけど、自警団の大部分はこの街の男で、自分たちで街を守ることに誇りを持ってるんだ。だから迷いがないんだよ。正義感に溢れてるんだから。たとえ大人だってさ、単身で飛び込んでいったら敵わないよ。……あんたのせいじゃないんだってば」
 口元を押さえられてもがいていたルミアルが、しゅんと静まった。
 そっと、口元を覆っていた手を離す。
「父が亡くなれば、次の領主は僕だ」
 体の両脇で拳をきつく握り締め、ルミアルはうつむく。
「ラヴァル家は未だ、領地とむすびついて、貴族であることをゆるされている。領民も我々を立ててくれている。だから僕は、領地の人々を守らなければならない。貴族は搾取してふんぞり返る位ではない。いざというときに自らの持てる力のすべてをもって、民を守る存在なのだ。僕は……姉上が館から連れ去られるのを見ているしかできなかった。僕が幼いから、弱いから奪われる! これ以上黙って見ているのは嫌だ!」
「自分の限界を知ること」
 路地からわずかに顔を出し、カイナは本部の入り口をうかがった。
「先生も言ってたでしょ、無理してぶっ倒れたら意味がないんだって」
 カイナの左手が、うつむくルミアルの頭を乱暴に撫でる。糸のように細い金髪が、さらさらと指に絡んだ。
「それってさ、安全に自分の足元守ってろって意味じゃないんだよ。自分の出来る手段で、出来る限りのことをするってこと。力で敵わないんだったら、他の方法考えるしかないでしょ。正面突破がいつだって正しいわけじゃない」
「カイ……」
「うまく口裏合わせてね!」
「お、おい!」
 引き止める腕もむなしく、カイナは路地から飛び出している。
「たすけてぇ! 吸血鬼がぁ!」
 悲壮な絶叫が静まり返った街外れに響き渡る。
 腹をくくって、ラヴァル家の後継ぎは本部に駆け込んだ賞金稼ぎの背を追った。


 大声に、本部に待機していた自警団のメンバーは外に転がり出た。
 駆け寄ってくる小柄な少女に目をしばたく。
「CCCじゃないか……!」
 その後方からも息せき切らした少年が駆け寄ってくる。
「西門! 西門に……」
 華奢な少女が倒れこんでくるのを受け止め、当直であったパン屋の息子は、ちょうど反対側の西門方向を仰ぎ見た。
「応援呼んで来いって言われて、あたし、一番足が速いから、だから……」
 いつも肩で風を切ってアルマロスを闊歩している賞金稼ぎが、怯えきった様子で息を切らしている。
 普段は自警団を目の敵にしているようなCCCでさえすくみ上がらせるとは。なんという化け物なのか。やはりこの街は自分たちが守らなければならない。
「分かった。すぐに行く」
「ありがとう。南の詰め所にも、行かなきゃ……」
「頼む。お前ら行くぞ!」
 各々得物を手に取り、男どもは西門の方向へ駆け出してゆく。
 あとにのこされたのは、がらんと無人になった本部のみ。
「……あっけないな」
 男どもが走り去った方向に舌を出しているカイナに、ルミアルは歩み寄った。うまく行き過ぎた。これでは拍子抜けしてしまう。
「言ったでしょ、基本的にあいつら、いいやつなのよ」
 先程までの名演技はどこへやら、カイナはすたすたと無人になった本部に向かう。
「別に軍隊でも何でもない。純粋に街を守りたいだけ」
 戸締りもなにもあったものではない。開け放たれたままの本部に踏み入る。
「だから、裏で操ってる人間がいるなら、許せない」
 本部内部は閑散としていた。
 自警団本部と大層な名前が掲げられていたところで、特になんの仕事があるわけでもない。定刻におこなわれる見回りと、交代の当直ぐらいだ。
 壁一面に貼られたアルマロス全体の地図。それのところどころに赤いペンでつけられた印。中央に据えられたテーブルに投げ出された書類ばかりが、作戦本部らしさをかもし出していたが、床に転がった酒瓶がそれを台無しにしている。
「何もないわね」
 地図の前に立ち、腰に両手を当ててぐるりと室内を見回す。
 件のテーブル、床に転がった空き瓶、壁際に据えられた本棚。それ以外は何もない。
 ルミアルはこのような庶民の居住空間がめずらしいのか、うろうろと歩き回っては、さまざまなものを吟味している。本棚につめこまれた書籍の上にはうっすらと埃がつもっていて、汚れた指先にげんなりと嘆息した。
「ちょっと待った!」
 本棚から入り口の方へ移動する少年を、カイナがきびしく呼び止めた。
 一歩を踏み出したままの体勢で、ルミアルはぎくりと立ち止まる。
「半歩、後ろにもどって」
 有無を言わせぬ強い口調に、言われるがまま本棚の前へ後ずさりする。
「もう一回、一歩前へ」
「な、なんだ一体」
「いいから!」
 渋々、一歩前へ出る。足元で木の床がきしんだ。
 むずかしい顔をして、カイナがテーブルを迂回して近づいてくる。
 本棚の前にしゃがみこんで、指の骨で床を何度か叩く。
 今度は顔が汚れるのも構わずにぺったりと耳をつけた。気でも狂ったのだろうか。
「この下、空洞がある」
 男どもに踏みしめられた床に耳をつけたまま、カイナが上目遣いにルミアルを見た。
「馬鹿な。床に継ぎ目などどこにもないぞ」
 こんなに分かりやすい場所ならば、すぐにばれるではないか。
「多分なにか仕掛けがあるんだ。そんなにむずかしいものじゃないと思うんだけど……」
「おい、本部のドアが開いてるぞ!」
「畜生あいつ、ぶっとばしてやる!」
 荒々しい男の濁声が近づいてくる。地を揺るがすような足音が複数、こちらに向かってきていた。
「うわ、ヤバッ! もうちょっと持つと思ったのに!」
「だからあんなお粗末な作戦では」
「そんなこと言ってもしょうがないじゃない! どこか、どこか隠れるところ……」
「この部屋の何処にそんなものがあるんだ!」
 ルミアルが、埃の積もった本の背に、苛立ちに任せて拳を叩きつけた。
 やっぱりこんな賞金稼ぎなど、信用するべきではなかった、と自分の失策を悔やんでいるそのときに。
 足元から床が消えた。
「え」
「あれ」
 本当に呆気にとられたときには、声すら出ないものだということを、ふたりは体で知った。
 床という支えを失い、重力に導かれるままに落下する。
 ぱたん、と頭上で何かが閉まるような音。それとともに明かりがうしなわれ、周囲は完全な闇に包まれた。
 しばらくして。
 にぶい音と共に、ふたりは冷たく硬い場所に落下した。
「いたーい!」
 もうもうと上がる土ぼこりのなか、カイナの絶叫が周囲に反響する。響き方から考えて、随分と高く広い空間のようだ。
 ルミアルは、したたかに打ちつけた背中を擦りながら、やっとのことで上体を起こす。

 ―――なんだ誰もいねぇじゃねぇか。
 ―――くそっ、逃がしたか! 今度見つけたらただじゃおかねぇ!

 はるか頭上から、苛立った男どもの声が降ってくる。
「なんていうか、超古典的っていうか……」
 腰から落下したらしい。ズキズキと痛む腰を押さえて、カイナは立ち上がる。
 頭上を見上げると、うっすらと四角の形に光が漏れてきている。随分と高い。打撲で済んだだけ、ラッキーと言うものだろう。
「……ここに梯子があるぞ」
 周囲の壁をぺたぺたと触っていたルミアルが、カイナに批難の眼差しをむけてくる。
 見ればなるほど、落下した穴のあたりからここまで、縄梯子が設置されていた。落とし穴などではなく、ちゃんと入り口として機能しているようだ。
「仕掛け動かしたのはあんたじゃない」
 不可抗力というものだ。自分ばかりが悪いように批難されるのは納得できない。カイナは唇をとがらせる。
「大体おまえには計画性というものが―――」
「おや、仲間割れかな? うつくしくないね」
 一条の強烈な光が横合いから飛び込んできた。人工的な、闇を照らすためにつくられた光だ。
 唐突に照らされたライトは無遠慮にも、カイナの顔を舐めてゆく。闇に適応しかけた瞳孔が、対応しきれずに痛みを訴えた。
 聞き覚えがある声だった。
「正直君がここまでくるとは思わなかった。甘く見ていたよ、申し訳ない」
「お出迎えはありがたいんだけど、礼儀がなってないんじゃない? まぶしいんだけど」
 光を遮るように片手をかざす。注がれる光の向こう側から、かすかに笑う声が届いた。
「これは失礼。だが君だって不法侵入だよ、CCC―――カイナ・シラギ・クレスタ嬢」
 ゆっくりと、光が顔からはずされる。カイナの体を舐め下ろし、今度は頑丈なブーツを照らし出した。
 硬いコンクリートの床に踵を打ちつけて、男が現れる。見覚えのある顔が、見慣れない恰好をしていた。
 自警団のリーダーを張る男は、何故かまっさらな白衣を着ていたのである。
「なにそれ、何のつもり」
 思わず笑ってしまった。似合わないにも程がある。
「これが僕の本当の姿だよ、CCC嬢」
 大仰な男は、両腕を大きく広げて見せた。
「貴様っ―――!」
 傍らから弾丸のように飛び出したものがある。
 憎悪をこめた呻き声と共に、ルミアルが白衣の男に向かって突っ込んでいった。
「姉上を何処へやった!」
 未だ幼い腕がカゼルの胸倉を掴み上げる。
 カゼルは、胸元に絡む少年の腕をさもつまらないものを見るように眺めおろした。
「ああ、誰かと思えば、ラヴァル家の坊ちゃんじゃないですか、お久しぶりだ」
 カゼルはわずかに口元をゆるめる。目元にふくんだ笑みは、暖かであるとはとても言えない。
「貴様、何故のうのうと!」
 姉と共にマテイに捕われたのではなかったのか。
「やれやれ、大した嫡男殿だなぁ」
 胸倉を掴み上げられたままで、カゼルは軽く肩をすくめて見せた。
「お父上がお倒れになったと聞いていますよ。いくら安定しているラヴァル領とはいえ、貴族を取り巻く環境は決して楽観できるものではない。そんな時期に聖都をはなれてこんな辺境まで姉探しですか。アシュタロスも嘆くでしょうね」
「軽々しく姉上の名を呼ぶな!」
「君にも失望したよ、CCC嬢」
 ルミアルの頭越しにカイナを眺め、カゼルは頤を持ち上げた。
「名うての賞金稼ぎが、温室育ちの子どもの妄言にあっさりと手を貸すとはね」
「残念だけど、あたしは義賊じゃないの。自分にメリットがあると踏んだだけ。こっちだって生活かかってるんだから」
 カイナは後方に半歩脚を下げる。重心を落として、背中のほうへさりげなく手を回した。
「噂の二丁拳銃―――か。だがこちらには、自分から飛び込んできた盾がある。撃とうなどとは―――」
「くっ!」
「思わぬことだ」
 早業だった。
 カゼルは自らの胸倉からルミアルの腕を引き剥がし、いとも簡単に後ろ手に捻り上げる。
「い、いいから撃て! こいつだけは許すわけには……」
 じりじりと痛みを訴える程度に腕を捻り上げられて、ルミアルは端正な顔に苦痛の色を浮かべる。
 重心を低く構えたまま、カイナはルミアルとカゼルの顔を見比べる。
 懇願するような幼い瞳がまるで刺さるようだ。だが。
 カイナは溜息をひとつ、全身の緊張を解いた。後ろに引いていた足を戻し、無言で両手を挙げる。
「おまえっ、どう……!」
「賢明な判断、だ!」
 鈍い打撃音のあと、ルミアルがくたりと脱力する。無防備にカゼルの腕に重みを預けた。
「ルミアル!」
 思わず駆け出してから、カイナは己の失策に気づいた。
 カゼルの背後から無数の靴音が迫ってきた。慣性に逆らってようやく脚を止める頃には、奇妙な服装の男どもにぐるりと周囲を囲まれている。
「いやな趣味」
 思わず笑ってしまった。
 カイナとルミアルの間には、先程カゼルが放り出したライトが転がっている。
 唯一の光源であるそれが照らし出しているのは、自警団のリーダーを自称する男の勝ち誇ったような笑みと、ぐるりと周囲を取り囲む、漆黒の軍服姿の男たちだった。



7.

 漆黒の棺が、喪服の男たちに担がれて、遠く丘を往く。
 聖都から程近い、緑の豊かなラヴァル領の、堅固な城から運び出されたその棺は、ゆるやかな丘を下って、多くの誇り高き先祖の眠る墓へ運ばれるのだ。
「泣いてはなりません」
 すぐに俯きがちになる弟の腕を引いて、うつくしい娘がひそめた声で、鋭く言った。
 十八九という頃合の娘は、黒いヴェールで覆われていようとも隠し切れない秀麗な顔立ちに、毅然とした威厳を保っていた。
 口を開けばとめどなく零れそうな嗚咽を堪えるために、幼い弟は唇を噛む。
 葬列を眺める沿道の領民たちが、うつくしい姉弟を見て目元をおさえた。
「おかわいそうに、坊ちゃまはまだ母親が恋しいころでしょうに」
「奥方はもうずっと病に臥せってらして、甘えたくても甘えられなかっただろうに」
 憐れみといたわりのこもった囁きすら、緩みきった涙腺を刺激する。
 堪えきれず咽喉を鳴らした弟の手を、姉がもう一度強く引いた。
「ルミアル」
 潤んだ両目に力を込めて、涙が零れ落ちるのを阻止する。棺と共に隣を歩む姉を、ルミアルは見上げた。
 黒いヴェールの隙間から弟を見下ろす姉のうつくしい瞳は、深い悲しみと悲壮な決意とがせめぎあって揺れていた。
「あなたは領主の息子です。民の前で泣いてはなりません」
「お嬢様、坊ちゃまはまだお小さいのに……」
 乳母が横合いから助け舟を出そうとした。ルミアルはまだ五つで、大人の葬列に遅れぬように歩くのもやっとだった。くわえて、彼の母は病弱であり、物心ついたときから既にベッドの上の住人だった。甘えた記憶がない。乳母はそんな幼子をずっと憐れだと思っていた。
 ろくにふれあいも出来ぬままに母親が逝ったのだ。子どもが母を恋しがって泣くことの、何がいけないのか。
 しかし、透き通るような金の髪を纏め上げた娘は、後ろを歩く乳母を肩越しに振り返り、きっぱりと首を横に振った。
「ルミアル、母上はあなたの前で一度でも泣きましたか」
 自分と同じサファイアの如き双眼で見詰められ、ルミアルは首を横に振って応えた。
 母はどれほど病状が悪化しても、子どもたちの前で嘆くことはなかった。
 瞳を潤ませながらも毅然と顔を上げる弟に、令嬢は目元を和らげた。小さな手をやさしく握りなおす。
「ひとは、守るべきものの前で泣いてはなりません。わたしたちは彼らを守らなければならない。今、中央の体制はめまぐるしく変わっています。皆不安なのです。特に母上は広く慕われていらしたのだから、尚更です。皆、心細く思っていることでしょう」
 わかりますね、と姉は念を押した。
「あなたは次の領主です。毅然としていなさい。その背中はわたしが支えます。どうしても泣きたくなったら、わたしの部屋においで。だから今は、泣いては駄目よ」
 姉の目も、普段に比べたら随分と水分を多くたたえている。
 かなしくないわけではない。
 つないだ手から伝わるかすかな震えが、なによりも雄弁だ。
 口を開けば泣き言が零れそうだから、ルミアルはさらに強く唇を噛んだ。
 こっくりと首を前に倒した。それが精一杯だった。
 つないだ手を解いて、アシュタロスは弟の肩を抱き寄せた。
 水気をふくんだ風が肌をゆるやかに撫でてゆく。
 そのときルミアルは、姉の前では泣かぬと決めた。
 守るべきものの前で泣いてはならぬというのならば。
 何があっても決して、姉の前では泣かぬと、きつく心に誓ったのだ。


            *


 ノックに返事がなかった。
 肉親とはいえ、女性の部屋に勝手に入るのははばかられたが、結局ルミアルは扉を押し開いた。
「姉上?」
 扉の真正面にある、庭に面した窓の前で、アシュタロスが弾かれたように振り返った。
 胸元に何かを庇ったように見えた。
「ルミアル、ノックぐらい……」
「お返事がなかったので」
 ノックはしました、とつけくわえると、アシュタロスは何故か茹で上げたように真っ赤になった。
「姉上?」
 怪訝に思って声をかけると、アシュタロスはぎこちなく弟から顔を逸らした。こちらに向けられた耳までも赤い。
「具合でも悪いのですか」
「な、なんでもありません」
 慌てて否定するほうが、よっぽど怪しいのだが。
 腑に落ちない顔で黙りこむ弟に、アシュタロスは苦笑した。大きく深呼吸をしてから、右手の人差し指を口元に当てる。
「ひみつにしてね」
 向き直った姉の左手には、手紙のようなものがしっかりと握られていた。
「わたし今、好きなひとがいるのよ」
 はにかむその表情は、まるで少女のようだった。
 ルミアルはおどろいた。まばたきを忘れた。
 そのあとに湧き出してきたのは、驚くべきことに苛立ちだった。
 今すぐに、まるで宝物か何かのようにしっかりと握られている手紙を破り捨ててしまいたいとすら思って、そんな自分にも驚いた。
 冷静に考えてみれば、姉ももう二十歳を越している。縁談の話もいくつか舞い込んできていた。
 いずれは訪れることだ。姉はいつか嫁いでゆくのだ。覚悟はできていたはずだ。
 しかし、突きつけられた現実の、なんと胸を抉ることか。
 姉がいなくなるということを認めたくなかった。
 拳を握り締めて、ルミアルはうつむいた。
「ルー?」
 ルミアルが十を越えてからはほとんど呼ばれなくなった愛称で、アシュタロスが呼んだ。
 視線を持ち上げると、叱られた子どものような顔の姉がいた。
 窺うような瞳のなかに、揺れる戸惑いを見て、ルミアルは急に情けなくなった。
 母の葬儀の日に何があっても守ると決めた姉に、ただのやきもちで怯えた子どものような顔をさせるなんて。
「なんでもありません。姉上が随分取り乱しておいでなので、面白くて」
「い、意地悪な子!」
 再び頬を真っ赤に染めて、アシュタロスは弟から顔をそむけた。


 夜半に城に忍び込んだ賊によって、眼前で姉が連れ去られたのは、それから一月も経たぬうちだった。
 姉は町の男と遠くへ逃げ伸びようとしていた。
 父は厳格だ。おそらく一般市民との婚姻など許すまい。
 手に手を取って、駆け落ちをしようとしている最中、奇妙な仮面をつけた集団にふたりとも拉致されてしまったのだった。
 漆黒の衣を纏った集団にもまれて見えなくなる姉に、必死に手を伸ばす。
 声が嗄れるまで叫ぶ。伸ばした腕は短く、服の裾すら掴めなかった。


 ―――それはおそらく、マテイの徒だな。
 ―――大きな口叩くじゃないか、体も満足に動かせないチビが。
 ―――やれやれ、大した嫡男殿だなぁ。
 ―――あんたのせいじゃないんだってば。

 いくつもの声が入り乱れて、ぐるぐるとルミアルを取り囲む。
 あの忌むべき晩の再来なのか、ひとびとの悲鳴や絶叫までもが聞こえてくる。
 飛び込んだ深い水の底から、ゆっくりと浮かび上がるような、不可思議な浮遊感を感じた。



8.

「ね……うえ」
 自分の唇から零れた声で、覚醒した。
「あ、目が醒めた?」
 場違いに軽やかな声が応えて、ルミアルは完全に自分を取り戻す。
 傍らを見ると、後ろ手に縛られた賞金稼ぎが壁に背をつけて座っている。彼女の肩にもたれていた自分に遅れて気がつき、慌てて姿勢を正した。
「い、今のを聞いていたか」
「え? 何が?」
 うわごととはいえ、姉を呼んでいた自分が恥ずかしい。しかしカイナはきょとんとした顔でルミアルを見詰め返しただけだった。それがたとえただのごまかしであったとしても、ルミアルにはありがたかった。
「……聞いていないのならいい。それよりここはどこだ?」
 あたりを見回す。カゼルに腕を捻り上げられたあとの記憶がない。
 明かりは全くなかったが、座り込んでいる床がほのかに明るい。それは、床がなめらかな金属で出来ているからに他ならなかった。
 四方の壁すべてが、同じ素材で出来ているようだ。
「……遺跡か?」
「かもね。すくなくとも、アルマロスの人間が作ったものじゃなさそうだけど」
 咽喉を逸らしてカイナが天井を仰ぐ。今遺されている技術では、このような施設を作るのは容易ではない。
「どうして無事なんだ?」
 危機を作り出した人間が聞くべきことではないかもしれないが、聞かずにはいられなかった。
 吸血鬼狩りと称して容赦なく貴族たちを葬ってきたはずの男が、子どもだからといって情けをかけたとは思えない。抵抗の意志などなかったに違いないクリストファ伯ですら、あっさりと手にかけたのだから。
「なんかあったみたい。最初はもうやばいかもって思ったんだけど、あたしたちをここに押し込んで、焦ってどっか行っちゃった。ラッキーと言えばラッキーなん、だ、け、ど」
 もぞもぞとカイナが身じろぎをする。首を捻ってそちらを見ると、いつのまに解いたものか、両腕の自由を取り戻し、立ち上がる少女が見えた。
 ぽかんと目を見開いている少年貴族に気がついて、カイナは縄を得意げに掲げて見せる。
「言ったでしょ、賞金稼ぎなんだって」
 いつのまにかカイナの右手には、ちいさなナイフが握られている。一体どこに隠し持っていたのか。
「だけど厄介なのは」
 未だぽかんとしているルミアルの縄を切ってやりながら、カイナは最前の光景を思い出す。
「教会の残党が噛んでるっぽいのよね」
「なんだって?」
 きつく戒められて痺れた両腕を擦り、ルミアルは立ち上がる。
「あんたが気絶しちゃったあとなんだけど、軍服の男どもに取り囲まれたのよね。黒に金の縁取りで、左胸に金の十字の刺繍があるやつ」
 カイナは己の左胸の上で十字を書いた。
「馬鹿な! 旧教会正規軍の軍服だぞ。十五年前に一度解体されて、再編されたはずだ。今は白い軍服に変わっている」
「そうだけど、いたのよ」
 しょうがないじゃない、とカイナが唇をとがらせた。
「だとしたら、ここは一体」
 なんなのだ、とまでは続けられなかった。
 劈くような悲鳴が扉越しに届いた。
 ひとつが上がったら、あとは連鎖するように絶叫が響き渡り、いくつもの足音が入り乱れた。
 そしてそれは確実に、こちらに近づいてきている。
「ひとつだけ約束して」
 鋼鉄の床に、ブーツの踵を高らかに鳴らして、カイナは扉へ歩み寄る。たくさんの悲鳴と靴音に思わずすくむルミアルとは違って、迷いや怯えがなかった。
 扉の前に立ち、小柄で細身の、賞金稼ぎとは思えぬ少女が振り返る。
 鋭い目でルミアルを射た。
「あたしから離れないで」
 ルミアルは唇を噛む。何も言えなかった。先程の状況を不利に動かしたのは自分の浅慮だ。
 思わず黙り込むと、カイナが首をかしげるようにして不敵に笑った。
「荒事は、あたしの仕事」
 どこか誇らしげに宣言して、カイナはノブも何もない扉の、傍らにあるパネルに触れた。
 空気が抜けるような音を立てて、扉が横滑りに開いた。
「おい!」
 反射的に叫んでいた。開かれた扉の向こうに漆黒の軍服を纏った男が立っていたからだった。
 俊敏にカイナが横に飛びのく。すると、時代遅れの軍服を纏った体がぐらりと傾いで、そのまま前のめりに倒れた。
 跪いて、仰向けに返す。既に息はなかった。
 白目を向き、顔は苦痛に歪んでいる。
 遠巻きにそれを眺め、ルミアルは思わず口元を覆った。
 “首筋に噛み痕がある”。
「いやあっ」
 間近で上がった悲鳴が、こみ上げた嘔吐感を忘れさせる。
 名の売れた賞金稼ぎCCCでもやはり女、間近で死体を見るのは―――。
「うわー、どうしようと思ってたのよ! ラッキー!」
 できたての死体の傍らで、カイナが何かを大事そうに抱き締めている。
 とても死体に慄いた人間の台詞ではなかった。
 拍子抜けして、ルミアルは目を凝らす。闇の中で僅かな光を跳ね返す、うつくしい金と銀が見えた。
 おずおずと、死体を迂回するように近づいた。
 賞金稼ぎは片手に一丁ずつ、金と銀のピストルを握っていた。
 眼前にかざし、目を眇め、丁寧に点検する。
「おまえの武器か」
「武器っていうか、相棒ね」
 心の底から安堵している様子のカイナに、ルミアルは興味をひかれる。
 思えば、大雑把で無計画でどこか粗野な少女が、この二丁のピストルを扱うときだけは細心の注意を払っていた。
「大事なもの、なのか」
「うん」
 即答で頷いた。迷いはなかった。
「あたしを育ててくれた人が預けてくれたの。絶対に生きて帰って、これを返すって約束してるんだ。こいつらと一緒にいるかぎり、どんなにあの村から遠く離れても、あたしは家族と一緒にいるって信じられる」
 彼女の言う”家族”が肉親でないことは、ルミアルにも分かった。
 身寄りのなくなった彼女を家族のように育ててくれたという、辺境の村の神父夫妻。そして、彼女が弟と呼んで可愛がる、その夫妻の息子。
 肉親を失ったということが、今の彼女に暗い影のひとつも落としていないのは。
 愛されているからか。
 ゆるぎない一本の柱のように、彼女を支える愛情と信頼とが、ルミアルには見えた。
 だから彼女は無鉄砲に、傍若無人に、突撃することが出来るのか。
 帰る場所がある。
 だから、前を見据えていられるのか。
 姉と言う存在だけで己を支えていた自分には、まぶしい。
 それでもルミアルには姉がすべてだった。
 病に臥せっている母よりも、領主として忙しい父よりも、誰よりも傍にいてあたたかく見守ってくれていたのだ。
 どれほど領主の嫡男としての自覚に欠けると罵られようとも、姉を取り返せるかも知れぬのなら、黙ってなどいられなかった。

 ひらりと、何か白いものが視界を過ぎった。
 開け放たれた扉の向こう、できたての死体が倒れこんできた廊下だ。細い道が一本、まっすぐに伸びている。
 その延長線上で、何か白いものが踊った。
 一瞬ルミアルは、カゼルを思い浮かべた。
 あの男が羽織っていた白衣はおそらく、あんなふうに翻るだろう。
 全身に緊張をみなぎらせて、おぼろな影に焦点を合わせ。
 ルミアルは絶句した。
 前方に伸びた一本の廊下に人影がある。しかし白衣姿の男などではない。
 引きずるほどに長いワンピースを纏った若い女性。
 きらきらと陽光を跳ね返していたはずの金髪は、すっかりと色が抜けて無惨な白髪になっていた。けれども。
「姉上!」
 体は勝手に動いた。声の限りに叫んで、鋼鉄の床を蹴って駆け出していた。
「ちょっと!」
 背後から制止する声が飛んできたが、足を止めることなどできなかった。
 まっすぐにこちらを見据える、憂いをふくんだ瞳。凛と、伸びた背筋。
 何度も夢に見るほどに焦がれた姿を今更、見間違うはずがなかった。
 前方で、白い影はひらりと身を翻す。奥へ―――濃い闇にぬりつぶされている先へと、すべるように消えていった。
「姉上! 待ってください!」
 背後から追いかけてくる靴音がある。おそらくカイナだろう。振り返る、たったそれだけの時間も惜しい。闇の中にくっきりと浮かんでいたはずの白い服も、もう見えない。
 まるであの夜のようだ。目の前であっけなく姉が連れ去られたあの夜。
 あれからもう五年も経っているというのに、この手はまだ。
 まだ届かないのだろうか。
「姉上っ―――!」
 声を振り絞って叫ぶ。金属でできた奇妙な壁に跳ね返り、まるであざ笑うかのように自分を追いかけてきた。


            *


 ルミアルがこぼれんばかりに目を見開いたと思った次の瞬間には、ちいさな体は弾丸のように部屋を飛び出していた。
「ちょっと!」
 今しがた離れるなと言ったばかりだというのに。
 制止の声も聞こえていないようだった。俊敏な背中はみるみるうちに遠くなる。
「ああもうっ」
 やり場のない苛立ちを悪態にして、カイナは横たわる死体をまたぎ超えた。まっすぐ一本に伸びる廊下を駆け出す。
 ブーツの踵と金属とがぶつかって、耳障りな音が鳴る。
 すばやさにはある程度自信があるのにもかかわらず、ルミアルとの距離は一向に縮まっている気がしない。それだけ彼が必死だということだろうか。姉の名を叫んだような気がするけれど。
 ルミアルの背中は振り向かない。おそらく前しか見えていないのだ。
 ゆくえの分からなくなった大事な人間を追い求める気持ちは、カイナにも痛いほどよく分かる。
 分かるからこそ、彼を危険にさらしたくはなかった。
 おそらくこの場所は古代の遺跡だ。高度なテクノロジーを誇っていた、文明の残骸なのだ。何が眠っているか分かったものではない。
「うわっ!」
 考え事をしていると、どうもいけない。
 壁がおのずと発するぼんやりとした光以外に光源が無いので、カイナは危うく突き当たりの壁にぶつかりそうになった。
 全力疾走だ。急には止まれない。両手を壁に突っ張る形で、なんとか激突はまぬかれた。
 道はそこで、左右に分かれていた。
 耳を澄まして、気配を追う。足音がよく響くのはありがたかった。右手側からかすかに靴音が届いてきている。
 じっとりと額に汗がにじむのを感じながら、右側に進路をとる。乱れた呼吸をなんとかなだめて、再び駆け出そうと―――した。
 二、三歩踏み出して、踏みとどまる。廊下の先は闇に飲まれて見えないはずなのに、不穏な気配がひたひたと水溜りのように寄せてきているのが分かる。本能的な勘だった。
 気配に遅れて、ぺたりとした足音。靴の踵の音ではなかった。はだしの足が触れる音だ。
 ルミアルではない。
 足音はひどく緩慢だった。引きずるように、ずるずると近づいてくる。
 やがて闇の中央がじんわりと滲んだかと思うと、白いものがぼんやり浮かび上がった。
 あまりに奇妙な格好に、一瞬それが何であるのか分からなかった。
 前かがみになってよろけるように足を踏み出す、人のかたちをしたものだということに気づいたのは、相手の表情が読み取れるほどに近づいたときだった。
 引きずるほどに長い白の衣を纏った白髪の女だった。肌は疫病にやられたかのように土気色になり、伸び放題の髪がふらつくたびに揺れる。

 ―――でもよ、実際ゾンビみたいなのもいるんだろ。
 ―――白髪に赤い瞳の死体がいくつか見つかってはいるみたいだね。

 数日前に酒場で聞いた話がよみがえる。
 てっきり自警団のでっちあげだと思っていた。

 白い髪を振り乱し、亡霊が顔をあげた。
 すっかりとみずみずしさを失った皮膚の中で、落ち窪んだ双眼ばかりが爛々とかがやいている。
 何かを探すように眼球がうろうろと彷徨い、やがてカイナをとらえた。
 得体の知れない寒気がぞっと背中を撫で上げ、無意識のうちに足が後ろに下がろうとする。
 一拍をおいて、違和感の元凶に気づいた。目が血に濡れたように赤いのだった。
 赤い目の人間は存在する。カイナの尋ね人もそうだ。
 地方によっては悪魔の象徴とされることもあるが、カイナ自身はそのルビーのような瞳をおそろしいと感じたことは一度もない。
 しかし、こちらを見つめる白い亡霊の目は、カイナを見ているようで何も見ていないのだ。
 生気や理性がまったく感じられない。
 くぱぁっと女はおおきく口を開いた。
 口内の粘膜は赤く濡れている。上下の唇の間を唾液が糸を引いた。
 上唇の隙間から、ちらりと鋭い犬歯が覗いた。
 ぐるぐると咽喉が鳴る。飢えた肉食の獣のようだ。
 本能的な畏れがどこから湧いてくるのか、ようやくカイナは気づいた。
 女の目に映っている自分が、獲物だからだ。
 生存本能が警鐘を鳴らしつづけている。
 捕食されることへの恐怖なのだった。
 女の咽喉がけだもののうなりを上げた。咆哮だった。
 今までの緩慢さが嘘のように、一瞬で間合いが詰められる。
 むき出しの牙は一直線に、カイナの咽喉を狙ってきた。
 カイナも素人ではない。修羅場をこなした経験が、反射的に得物を引き抜かせた。突っ込んでくる女のこめかみを、金の銃で横殴りにする。
 鈍い音と衝撃が、銃を伝って右腕に響いた。
 弱っているらしい体は、あっけなく崩れ落ちた。べったりと床に座り込む女の額にすばやく照準を合わせて―――。
 ためらった。
 女は、赤い両目から、涙を流していた。
 開かれたままの唇から、絶え間なく嗚咽にも似たうめきがこぼれている。
 おそらく理性が残っているわけではないだろう。見開かれた両目に、正気の色はない。
 けれども女は人の形をして、確かに生きていた。
「くっそ」
 悪態をついて、カイナは愛銃で女の項あたりを強く打った。
 涙をこぼしたまま白目を剥いて、女の体は冷たい金属の床に沈んだ。

 ―――僕がおまえにこれを預けるのは、人殺しにするためではないよ。

 ここから遥か遠くにいる育て親の声が聞こえたような気がした。
 神父はいつも温厚だけれども、頑固だ。信念にはずれたことをしでかすと、こっぴどく叱られた。
 自分にカイナという新しい名前を与えた自称考古学者が消息を絶ってから半年後。
 夜半にこっそりと教会を抜け出そうとするカイナを当たり前のように発見して、彼は若いころに使っていたという二丁の拳銃を差し出した。

 ―――おまえが覚悟を決めてこの村を出て行くというのなら、僕は止めない。お前にとって”あいつ”がどれだけ大きなものなのか、僕も知っているつもりだ。だけれど。
 神父は一呼吸を置いて、深い緑の瞳に意思のつよい光を浮かべた。
 ―――おまえを案じている家族がいるということを、ちゃんと覚えておいてほしい。明日の朝になったらクレアは怒るし、ロビンは泣くよ。
 我が子と分け隔てなく育ててくれた”母親”と、幼いころから付きまとって離れなかった泣き虫の”弟”。
 カイナは思わずうつむいた。
 心配をかけたくなかった。ただそれだけで、夜中の出発を決めた。
 旅立ちを告げたら、きっと決心がにぶる。心配そうな顔をさせたくなかった。
 けれども思い返してみれば、それは自分勝手な考え方だった。
 黙っていなくなることがどれだけ心配をかけることなのか、自分だって味わったはずなのに。
 ―――戦うなとは言わない。ただおまえがふたたび”あいつ”や僕たちに会うときに、うしろめたく思わない道を往きなさい。僕たちはいつもおまえを信じている。だから、カイナ。自分を恥じないようにしなさい。


 神父から差し出され、受け取ったうつくしい銃は、力ではない。
 約束だった。
 今までまったく誰も傷つけずに生きてきたのかと問われれば、否というしかない。修羅場もくぐったし、格段に得物のあつかいもうまくなった。
 けれども、賞金稼ぎとしての名が売れれば売れるほど、カイナは慎重になった。
 引き金をひくのは、かんたんだ。技術と腕力とがあれば、人差し指に力を込めるだけでいい。
 それだけで、人はあっけなく死ぬ。
 力で強引にすべてを終わらせるのは、たやすい。
 簡単な道を選ぶほど、人間は考えることをやめる。
 視野がせまくなる。逃げることを覚える。力におぼれれば、驕るだろう。
 だからカイナは、最終手段と決めた。
 どうしようもない崖っぷちに追い詰められたら、人のいのちを奪ってしまうかもしれない。生き残りたいもの。
 けれど。力を持っているからこそ、ぎりぎりまで考える。あがくのだ。
 道をみずから切り拓く。その信念すら失ったら、おそらくもう、”親”には会えない。
 顔をあわせる勇気がない。
 胸を張って会いたかった。


 ピストルをホルスターにもどす。顔を上げ、闇に飲まれた廊下を見据えた。
 とりあえず今、自分がなすべきことは、弾丸のように飛んでいってしまった次期領主を見つけ出すことだった。


【NEXT】

【ark】