マテイの炎
【C.C.C.】-Fire of Mathey-
4.
細くのぼる煙を見上げると、いつもどおりのくすんだ空がある。陽が傾きかけて、わずかに橙色に染まっていた。
不意に視界が歪んで、カイナはうつむく。手の甲を目に押し当てた。
鼻をつくのはいやな臭いだ。肉の焼ける臭いだった。
背後から近づいた気配が、カイナの頭を鷲掴みにして乱暴に撫でた。
「……あのガキが、目を覚ましたよ」
低い女の声が心地よく耳に馴染む。
体を捩って振り返り、カイナは白衣の胸に飛び込んだ。
「こないだの晩会ったばっかりだったのに。おかしいところなんて全然なかったんだよ……」
体温が、我慢の糸を切った。イシスは、小刻みに震えるカイナの背を擦る。
煙草の香りがする白衣に額を押し付けて、カイナは咽喉までせりあがる嗚咽を噛み殺した。
*
マスターに買出しを頼まれていた。そのあたりに居合わせた蠍を引きずって、カイナは食事時でにぎわう繁華街に出かけた。
露天の建ち並ぶメインストリートは、夜間の静寂が嘘のように活気に溢れ、ぼんやりしていると人とぶつかりそうになる。
荷物はすべて屈強な運び屋に押し付け、カイナはするするっと人波をすり抜ける。強かに逞しく荒野に生きるひとびとの活気を感じられるから、カイナはこの通りが好きだった。
昼間ばかりは、陰惨で殺伐とした空気を感じずに済む―――はずだったのだが。
絹を裂くような女の悲鳴で、ふたりは異変に気がついた。
絶え間なく揺れ動いていた人波も一瞬とまり、声の方向へ顔を向ける。
「おい」
身を屈めた蠍が、強張った声で囁いた。
悲鳴につづき、ざわめきが起こる。そう遠くはない。一本向こうの通りか。
カイナは駆け出していた。固まった人ごみをすり抜け、わき道を目指す。そこから隣のとおりへ抜けられるはずだ。
「おい、カイナ待てよ!」
両手に大荷物を抱えた蠍は、ひとびとの只中で巨躯をもてあます。しかしカイナは振り返らなかった。嫌な予感がする。
饐えた臭いのする裏路地を抜けると、もう一本の大通りへ出る。露天の並ぶ先程の道とは違い、しっかりとした店を構えた商店街だった。
細道から飛び出して、素早く周囲を見回す。
騒ぎの原因はすぐに見つかった。右手側に人垣がある。
人垣をかたちづくる人間の中にちらほらと羽飾りをつけた男たちを見出して、カイナは思わず舌打ちをした。
「あんたたち、こんな昼間からなんなのよ!」
苛立ちにまかせて叫べば、人垣が次々に振り返る。
顔の売れた賞金稼ぎの乱入に、いくつかの顔が苦い色を浮かべる。
カイナが大股に歩み寄れば、人の壁が割れて、道ができた。
「こんな時間からパトロール? 自警団って勤勉なの、ね」
厭味が尻つぼみに消えた。
割れた人垣に導かれた先に、数人の男と、その傍らで気を失っている人形のような少年と、
血だまりがあった。
「CCC嬢か」
血だまりに片脚を浸した男が振り返った。数日前の晩も同じような出会い方をした男だ。
自警団の事実上のリーダーである。
しかしカイナは、カゼルの顔など捕らえない。視線は血だまりの中心に縫いとめられて、動かせなかった。
「なに、これ」
ぼろっと零れ落ちた言葉を、カイナは他人事のように聞いた。
唇の端が強張って、上手く喋れない。ひきつっているような気がする。
自発的に瞬くことを忘れた双眼が、水分をもとめてちりちりと痛んだ。
「てめぇら一体何してやがる」
野太い怒号が背後から突っ込んできた。再び閉じた人垣を乱暴にかきわけて、両腕に紙袋を携えた巨漢が、氷像のように固まっているカイナの傍らに立った。そして、唖然と息を飲む。
「”じいさん”」
呟いて、蠍も絶句した。
血だまりの中心に横たわっているのは、小柄な老人だった。
「残念なことだが」
沈痛な面持ちで、カゼルが口を開いた。
「彼も悪魔の犠牲に―――」
言葉は途中で途切れた。小さな体が突っ込んできて、カゼルの胸倉を掴み上げたからだ。
「じいちゃんがあんたに何したっていうの!」
吸血鬼は人を襲うことによって仲間をつくる。噛まれた人間は、”運がよければ死ぬ”。そうでなければ仲間になるのだ、というのが定説ではある。
しかしアルマロスにおいてそれは、自警団が貴族たちを攻撃するための大義名分でしかなかったはずだ。
ハマエルが吸血鬼に襲われて仲間になり、ひとびとを襲った?
そんな話が信じられるものか。
「かわいそうに」
カゼルはゆっくりと目をほそめた。瞳に同情を滲ませる。
「見てごらん、彼の首筋を」
血だまりに横たわる老人を、カゼルは指差した。
示されるまま、カイナは顔をそちらへ向ける。
年輪のような皺が刻まれた首筋に、くっきりとふたつの丸い痕がある。
「だからなんだって言うの!」
カイナは噛み付いた。
噛み痕が遺された死体が見つかったのも事実、身なりのいい亡霊の噂が立ったのも事実、しかし吸血鬼化した没落貴族がひとびとを襲うなどという事実は確認されていない。
自警団は貴族出身者ばかりを選んでは殺している。いくら鬱屈が溜まっていたとしても、やりすぎだ。おかしい。
「みんなじいちゃんが誰かを襲うのを見たっていうの!?」
人波が動揺したように揺れた。困ったように互いの顔を見るばかりで、意見をいうものはいない。
「俺たちに、毎日悪魔に怯えて暮らせっていうのか」
カゼルの傍らに控えていた男が割って入った。苛立たしげに、カイナの細い腕をカゼルの胸元から引き剥がす。男の胸元にも、自警団の構成員であることを示す羽飾りがへばりついている。
逞しい腕が、後ろからそっとカイナを引き寄せた。気づけば、蠍がすぐ傍にいる。
ここのところ、自警団の男どもは気が立っている。小競り合いを起こすのが賢くないということを、カイナも重々承知している。承知しては、いるが。黙っていろというのか。
しかし蠍はめずらしく、きびしい目をしていた。その瞳が現状を受け入れているわけではなく、苦々しい色で満ちているのを見て取って、カイナも咽喉元まで出かかったたくさんの罵声をなんとか飲み下す。
爪が食い込むほどに拳を握り、きつく目を瞑る。大きく息を吸い込み、吐き出した。
ゆっくりと閉ざした瞳を開き、カイナは一歩を踏み出した。ひたひたと寄せる、まだ新しい血だまりのほうへ。
数日前までかくしゃくと元気だった、うつくしい眼差しを持つ老人のもとへ。
「お、おい! こういう死体は全部自警団が管理す―――」
カイナをリーダーから引き剥がした男が慌てて少女の肩を掴んだ。瞬間。
低い呻き声が上がる。男はよろめくように後ずさると、その場にうずくまった。
腹部を押さえて、激しく咳き込む。
みぞおちに肘鉄を打ち込まれたのだということに、本人はおそらく気づいていないだろう。
それほどに少女の動きはすばやく、迷いがなかった。
悶絶する男には目もくれず、カイナはハマエルの体に歩み寄った。汚れも厭わず、血の海に膝をつく。
すっかりと血の気を失った肌に触れると、もう既に熱はうしなわれていた。
ふと、真上から影が落ちた。横手から、逞しい腕が伸びる。
「俺が運ぶ。おまえはあのガキを背負って来い」
右肩に、蠍の刺青を持つ男だった。青い双眼に、深い哀悼の色がにじんでいる。
口を開けば泣き出してしまいそうで、カイナは無言で頷いた。
視界の端で、ぐったりと気を失っている十三、四ほどの少年に視線を移す。
こめかみあたりに血が滲んでいる以外、外傷はなさそうだ。
陽光を跳ね返す白っぽい金髪に、つくりもののように整った顔立ちの少年だった。肌は透けるほどに白く、体は華奢で、このあたりの子どもとはとても思えない。
自警団は、もはやカイナの動きを阻もうとはしなかった。
ぐったりとして重い少年の体をなんとか背負うと、気まずそうに沈黙する人垣を抜けて、イシスの診療所へと足を向けた。
*
泣き腫らした目を擦りながら、カイナはゆっくりと歩き出した。
イシスの診療所は街のはずれにあり、ここはその裏手にある丘だった。
「この間の晩に、じいちゃんがさ」
砂っぽい風が、連れ立って歩く女ふたりの髪を乱暴になぶる。
「気をつけてお帰り、って言ったんだ。なんだかすっごくくすぐったい気分になってさ。あたし、父親も母親も子どもの頃に死んじゃったし、おじいちゃんとかおばあちゃんとか、そういうのに憧れてたのね。だから」
じんわりと視界が滲む。せっかく止まった涙がまたこみ上げてくるのを感じる。
「だから、うれしかったんだ」
声が不自然に揺れた。カイナはうつむいて、小さく鼻をすする。
カイナが育ったのは、アルマロスからは随分と離れた、田舎の村だ。
ろくでなしの父親とやさしかった母親を失ったあと、こじんまりとした教会に引き取られた。
育ててくれた神父夫妻や周りの人間は、勿体無いぐらいの愛情をカイナに注いでくれた。
本当の家族だと、今でも思っている。かけがえのない、大切なものだ。
さびしい思いをしたことはない。あたたかい愛情に常につつまれていた。恵まれていると思う。
自分を不幸だと憐れむこともなく、愛情に餓えることもなかった。
けれども、祖父母というものへの憧れは強かった。
老人といっても実際の親戚とはすっかり縁が切れてしまっていたし、教会を訪れるのは敬虔な信者ぐらいで、長い時間を共に過ごしたことがない。
知識があり、経験豊富であり、口煩くはあっても愛情を持って諭してくれる。ハマエルは、カイナの理想の祖父像だった。
生まれた村を出て、腕一本で荒野を渡り歩く。自分の面倒はある程度自分で見ることができる。一応、一人前のつもりだ。
けれども、ハマエルと話すときは何故か、随分と子どもっぽくなっていることに気がついていた。
甘えていたのかもしれない。
「ハマエル翁は高潔な人間だった」
イシスは苦味を堪えるような顔をした。
「残念でならんよ」
「じいちゃん本当に吸血鬼になってたのかな」
「それについては」
イシスの右手が裏口の扉にかかる。
まるで焦らすかのように立ち止まり、わずかにカイナを肩越しに振り返った。
「話さなねばならんことがある。聞かねばならんことも」
「聞くって、なにを」
自分にだろうか? この件についてカイナは何も知らない。
ずいぶん間の抜けた顔をしていたのか、イシスが口の端で笑った。
「おまえにじゃない。猪突猛進な子猫殿にさ」
頭の上に疑問符を浮かべるカイナには構わず、イシスは診療所の扉を押し開く。
「触れるな!」
途端、鋭い叫びに出迎えられた。
未だ幼い声は、金属質で耳ざわりだ。
「俺だってな、触りたくて触ってるんじゃねぇんだぞクソガキ!」
野太い怒号も聞こえてきた。イシスは思わず片手で顔を覆う。
「ガキふたりを置いていくんじゃなかった」
げんなりと吐き出して、闇医者は大股に処置室に歩み寄った。白いカーテンで区切られただけの空間へ、割って入る。
「騒ぐなガキども、ここは一応病院だよ」
カーテンを勢いよく引いたその先は、ごくごく普通の診察室だった。
医者用の机と椅子、薬棚、壁際に寄せられたベッド。シーツやカーテンは病的に青白い。消毒液の臭いに満ちている。まさに病院以外のなにものでもない。
「だってこいつがよ!」
清潔なシーツとはまったく相容れない大男が苛立った声を上げる。ベッドから飛び出そうとしている小さな影を押さえ込んでいるところだった。
運び屋の逞しい腕に押さえ込まれた少年が、恨めしそうにイシスを睨んだ。
「学習能力のないガキに睨まれたって、痒くもないね」
ベッドに歩み寄り、女医は愛らしい顔立ちの少年を見下ろす。
「何度目だい、お坊ちゃん」
「っ、誰も世話をしてくれなどと頼んではいない!」
「そうかい」
イシスは鼻で笑った。
蠍に比べれば枝のように細い腕が、少年の手首を無造作に掴み上げた。一流の人形師が技術のすべてを注いで作り上げたような顔が、苦痛に歪む。
「大きな口叩くじゃないか、体も満足に動かせないチビが」
ぐっと身をかがめ、少年の碧眼と眼差しを合わせる。
「自分の限界を見極めな。何でも出来ると自惚れるなよ。無理をとおして自滅するのはただの阿呆だ。出来ることと出来ないことを知って、その内側で最善をつくすのが、大人ってものなんだよ」
イシスは強く引き寄せた腕を乱暴に突き放した。苦痛のうめきが少年の咽喉からこぼれる。
壁に背を預け、肩を震わせて呼吸をととのえる。無意識の産物なのか、片手で右腕を庇っていた。
「まずは、世話になった人間に”ありがとう”ぐらいは言えるようになりな」
傲然と腕を組む闇医者から、少年はあからさまに顔を反らした。
一向にあらためられる様子のない態度に、イシスは肩をすくめる。
「やらなければならないことが、あるのに……!」
ならず者たちから顔を背けたまま、少年はうめくように零した。
手負いの獣だ。めいっぱい外敵を威嚇している。かたくなに心を閉ざしている。
痛々しさすら感じて、蠍は少年から目線をはずした。
イシスは神聖な診察室で、さも当然であるかのように煙草に火をつけている。
「話があるんじゃなかったのか」
そちらを振り返り、運び屋は闇医者を促した。
「気が進まなかったが、ハマエル翁の遺体を解剖した」
紫煙と共にイシスが吐き出した。診察室の空気が一瞬こおりつく。
「おかしいと思ったことはないか。自警団の奴ら、吸血鬼と烙印を押した死体を頑なに自分たちだけで処理していた。一度だって医者の触れる余地なんかなかったんだ。安全のためとは聞こえがいいが、いささか常軌を逸している」
「言われてみりゃ、おかしいかもな。何か出たのか」
「薬物反応が出た」
少年の瞳がイシスをとらえる。反射的な行動だったのか、すぐに顔をそらした。
「死因は、薬物中毒によるショック死で、ほぼ間違いないだろう。吸血鬼にらしくない死に方だと言わざるをえないな」
「じいちゃん、ドラッグなんかやるはずないよ」
「ドラッグを使って殺されたのさ。おそらくは、”首から動脈に抽入された”んだ」
強風が、眼前にたちこめていた霧を吹き飛ばした。
なにかが、繋がった。
「確かか」
するどく蠍が問う。
「確証はないが、わたしは自分の直感を信じるよ」
「クリストファ伯は……」
変声期も迎えていないあどけない声が割って入った。
「化け物になど、なってはいなかった」
驚いて、カイナは声の主を見る。
相変わらず壁に背を預け、右肩を庇ってはいるものの、少年はつよい目をしていた。
違和感に戸惑う。初めて彼を見たときと、何かが絶対的に違っている。
不自由もなく育ったであろう特権階級の少年は、あいかわらず女とも見紛ううつくしい顔立ちをしているのだが、”つくりもの”だとは、もう思えなかった。
目だ。
爛々とひかっている。
虎視眈々と獲物を狙うけだもののような輝きだった。
「クリストファ伯って、ハマエルじいちゃんのこと?」
少年はゆっくりと刻み付けるように頷いた。
「彼は昔、父が懇意にしていた聖都の貴族だ」
「聖都……」
遥か遠くの大都市を思い浮かべた。王城があり、議会と教皇庁があり、十五年前まではすべての文化と権力の中心だった。
「お前はその、”クリストファ伯”に用があってわざわざこんな辺境まで出かけてきたのかい」
少年の首が、今度はゆっくりと横に振られた。
「僕は―――」
逡巡するように一度うつむいて、それから少年は顔を上げた。
鋭く潔い眼差しを、一同に向けた。
「僕は、マテイを探しに来た」
5.
ルミアル・ファレグ・ガリース・ラヴァル。
少年はそう名乗った。
長い名前にカイナがむずかしい顔をするので、「ルミアルでいい」と投げやりにつけくわえた。
「おまえ、本当に賞金稼ぎなのか」
日も暮れ、人気のなくなった路地を繁華街から反対方向へ向かう。酒瓶や硝子が散乱する道を、カイナは躊躇いなく進んでゆく。置き去りにされぬため、ルミアルは自然、早足になった。
準備があるので一度家に戻ると言い出したカイナについてきたのだった。
こんな場所に家などあるのだろうか。宵の口を迎えて活気付いている街に背を向け、どんどんと人気のないほうへ向かっている。
ぐるりと周囲を見回せば、廃墟やみすぼらしいアパートメントが建ち並んでいる。
聞けば、旧市街だという。
「人を見かけで判断しちゃいけないって教わらなかった?」
振り向きもせずに、カイナは歩きづらい道をさくさくと進んでゆく。
人は見かけでは判断できない。そのことぐらいルミアルは知っている。けれどもあまりに不似合いすぎた。
年の頃は十七八の、小柄で細身の女。言動にはまだどこか子どもっぽいところが残されている。
賞金稼ぎといえば、腕っ節が必要になる。荒くれ者と対峙しなければならない。
賞金首になるようなならず者と互角に争えるとはとても思えなかった。
普段ならば、どれほど他人が虚勢を張ろうが嘘を並べようが構いはしないルミアルだが、今回ばかりは話が違う。自分に影響が出る。ゆえに慎重になっていた。
ふと、カイナの足がとまった。
三階建ての、コンクリートで造られた四角い建物。上方を見上げると、通りに面した硝子は粉々に割れて、窓の役目など果たしていないように思われた。無事なのは一階だけだ。
まともな人間が住むような場所ではない。ましてやルミアルのような上級貴族は。
ただの廃墟ではないか。
少女の傍らに立って、ルミアルは不安げに同行者を見上げる。
まさかここが家だなどと言い出すのでは。
ルミアルの怯えた目に、何故かカイナは勝ち誇ったような笑みをこぼして、金属で出来た扉を押し開いた。
錆びた金属特有の軋みをたてて、扉が開く。
「せ、施錠はしないのか」
開かれた隙間から室内に踏み込むカイナに、ルミアルは目を瞠る。
「ん? ああ、いいのいいの、普通は入ってこられないからさ」
何がなにやら分からなくなった。混乱をもてあましながら、ルミアルはカイナにつづく。
とても人が居住するような空間とは思えなかった。まず、狭い。領内にある別荘の玄関の半分ほどもない。更には横倒しになったテーブルや椅子や棚などが散乱し、床は足の踏み場もないほどだ。
暗がりの中でもつまずかず、カイナは器用に部屋を横切る。壁際で唯一まともに立っている食器棚の抽斗を、無造作に引っ張った。
じゃりじゃりと靴と砕けたガラスが擦れる音を聞きながら、ルミアルはやっとのことでカイナの傍までたどりついた。横から、抽斗を覗きこむ。
ふつうの抽斗ではなかった。
底面にまるで電卓のような数字のボタンが並んでいる。
厚みのないボタンの上で、カイナの指がなめらかに踊った。ボタン全体が一瞬、緑色の光を放つ。すると、食器棚の右隣の壁に鋭利なカッターで引いたような線が現れ、そのまま真横に”開いた”。
「光栄に思ってね」
抽斗を押し戻しながら、カイナは呆然とする少年を見下ろした。
「あたし、家に男を連れ込むの、初めてなの」
いたずらっぽく笑って、賞金稼ぎはくっきりと長方形に空いた穴へと歩き出す。
「ロ、ロストテクノロジーか?」
思わず声が上ずる。隠し通路から先はくだりの階段になっていた。通路はほそく、圧迫感がある。
「そこまで大袈裟なものじゃないよ。聖都にもあるんじゃないの?」
ルミアルが両手で壁を探りながらでなければ足元が覚束ないのに対して、さすがねぐらにしているだけはある。カイナはためらわずに靴音を響かせて着実に地下に歩を進めている。
高度なコンピュータ技術は、遥か太古に失われている。
今現在は、世界各地に点在する遺跡から発掘した技術を研究し、解明したごく一部を、日常生活に流用しているのみだ。
セキュリティロックは、中央では随分と実用化されてはいるが、このような辺境で見るとは思わなかった。
「おまえ、一体なにものなんだ」
「だから、賞金稼ぎだってば」
最後の一段を降りきって、カイナは溜息と共に振り返った。
「それにさっきからおまえおまえって。あたしにはちゃんとカイナって名前があるんですけど!」
ルミアルはついと視線を逸らす。
「妙な名前だ」
「あっ、そう」
苛立ちをこめて呟き、カイナはつきあたりの扉を向こう側へ押し開けた。
やわらかいオレンジ色の光がほんわりと溢れ出した。だが、闇に順応していた目にはそれすらもまぶしい。ルミアルは思わず両目をつぶった。
「本名は結構まともなんだけどね」
カイナの声が移動している。そろそろと目を開くと、小柄な背中が室内にすべりこんでゆくのが見えた。
「本名? カイナというのは偽名か」
ものの少ない部屋だった。
テーブルが中央にひとつ、奥の壁際に寄せられたベッドがひとつ。入り口のすぐ右手には流し。左手側の壁にはカイナの背丈よりも高い戸棚がひとつ。戸棚の傍に、別の部屋に通じているだろう扉があった。
片付いているといよりも、ものがないという印象だった。
「ま、偽名って言ったら偽名かもしれないけど。今名乗ってるほうが大事なんだ。血の繋がった親がつけてくれた名前にはいい思い出がないからさ。酔っ払ったら暴れる親父が、怒鳴りつけるときに必ずあたしの名前を叫んでたから、昔の名前で呼ばれると、どうしても背筋がぞくっとするんだ」
羽織っていたジャケットをベッドの上に放り出し、カイナは戸棚に歩み寄る。
「今の名前は、あたしを拾ってくれたひとがつけてくれたものでね。こっちの名前はすごく大事。誰に呼ばれても平気。胸張ってられる」
「例の、育て親、か」
入り口で立ち止まっているルミアルを振り返り、カイナはすこしだけ苦笑して、「まぁね」と呟いた。
*
「マテイ?」
ときは、数時間ほど遡る。
煙草を唇に挟んだまま、イシスが鸚鵡返しにした。
「なんだそりゃ」
蠍がいぶかしげに眉間に皺を寄せる。
「この街の地下にあると聞いている。貴族専用の収容所だ」
現地住民たちは顔を見合わせた。そんな話は聞いたことがない。
「貴族の収容所だって? 貴族は何か起こしても、大概が金を払えば許されていたんじゃないのかい? 今はどうだか知らないけど」
「ふつうの収容所ではない。身分の違うものと交わったものを強引に連行していたんだ。公に認められた存在ではなかったから、皆ただの噂だろうと思っていたが……」
ルミアルは瞳の力を翳らせてうつむいた。
「噂ではなかった、ということか」
診察机の上に鎮座した硝子の灰皿に煙草を押し付け、イシスは最後の紫煙を細く吐いた。
「それにしたって、選民思想も極められたりだね、身分違いの色恋は罪か。尊い血筋に下賎のそれが混ざるのは許せないって?」
「皆が皆、それほどまでに偏狭なわけではない!」
噛み付く勢いでルミアルが顔を上げた。
「一部の過激派の意見だ」
ルミアルの潔癖な眼差しを見詰め返し、イシスは小さく肩をすくめる。
「それにしても、マテイとは厭味な名だな。伝承によれば、七層ある天界の第五層、禁を犯して人間と交わった、グリゴリたちの牢獄じゃないか」
グリゴリは、神に背き、人々に智恵を授けた天使と定義されている。
彼らは人間の娘と交わったことにより断罪され、天界に幽閉された。
天界とは名ばかり、果てなく荒野がつづき、火の柱がそびえたち、グリゴリたちは永遠の苦しみを与えられつづけている。
「そんなものがあるなら、噂ぐらい流れてきそうなものだがな。そんな情報、どこで拾った」
ガセではないのか、と暗に言っていた。
「考古学を生業にしている男に聞いた。アルマロスの地下には太古の遺跡があると。おそらくマテイはそこなのだと」
「信頼できる筋なのか」
「既知の男ではなかった。だが、考古学の知識は並外れていた。世情にも詳しい様子だった。何よりも―――マテイの情報を得たのはそれが初めてだった」
たとえそれがガセネタであろうとも、縋らずにはいられなかった。
どうしても謎の収容所を発見しなければならなかったのだ。
なぜならば。
「僕は姉上を連れ戻さなければならない。嘘偽りかもしれない、だが可能性があるならそれに賭ける」
ルミアルの澄んだ碧眼には悲壮な決意すら滲んでいるように見えた。
「その男に、CCCを探せと言われた」
蠍とイシスは、一斉に小柄な少女を振り返った。
「中央にも名が届く賞金稼ぎだと。―――知っているのか?」
「知ってるも何も……」
「どんな奴だった」
蠍の言葉を遮って、カイナは大股にベッドに歩み寄った。
鬼気迫る勢いでルミアルの肩をつかむ。途端、全身に電流のようにめぐった痛みに、ルミアルが顔をしかめた。
「め、珍しい容姿の男だった。黒髪に赤い瞳の」
「名前は!」
「シラギと。それだけしか聞いていない!」
ルミアルは強引なカイナの腕を払い除けた。
活き活きと、万華鏡のように変わるカイナの顔から、表情が消えた。
振り払われ宙に浮いた右手もそのままに黙りこむ。しばらく視線を彷徨わせ、何かを嚥下するように一度双眸を閉ざした。
「―――分かった。その話、乗る」
カイナは踵を返し、貴族の少年に背を向けた。
「準備するものがあるから、一端家に戻る」
横顔は、きびしかった。
夜を溶かし込んだような漆黒の瞳に、揺らがない決意が宿っている。
「どういう、ことだ」
唐突にあの女の態度が変わったのは何故なのか。
答えを求め、ルミアルの視線が運び屋と闇医者の間を彷徨った。
イシスは露骨に視線をはずし、蠍はわざとらしくこめかみを掻いた。
「あー、別に口止めされてるわけじゃねぇんだがな。堂々とバラすのもな……」
カイナの気配が完全に消えてから、大袈裟な咳払いをひとつ、蠍は少年に背を向けた。
「俺はこれからひとりごとを言うからな。ひとりごとだ」
何故か野太い声で発声練習をしてから、蠍は堂々と独白した。
「アルマロスを根城にしているCCC嬢は、ガキの頃自分を拾って世話してくれた育て親を探している。数年前から音信不通だって言ってたっけな。そしてそいつは、黒髪に赤い目らしい」
蠍は何故か胸を張って振り返る。
「ひとりごとは以上だ」
「不器用な男だねぇ……」
イシスが深々と溜息をついた。
「とまぁ、あんたが探してるCCCはあの騒がしい娘だよ。信じる信じないは、あんた次第だけどね」
少年は、狐につままれたような顔で幾度かまばたいた。
含むような顔をして、蠍が入り口を顎でしゃくる。
表情をひきしめ、ルミアルはベッドを飛び出した。
*
「姉さんかぁ、どんなひとだった?」
戸棚を開き、一抱えほどの箱を取り出しながら、カイナはルミアルを振り返った。
木製の箱は金の装飾で縁取られ、殺風景な部屋には不似合いなほどうつくしい。
両腕で重たそうに抱え上げ、部屋中央にある簡素なテーブルに乗せる。
「姉上はおやさしい方だった。年が離れた僕を随分と可愛がってくれた」
「ふうん」
「何だその顔は」
にやにやと自分を見下ろす賞金稼ぎに、ルミアルは口をへの字に曲げた。
「ううん、お姉さんのことだいすきなんだな、って思っただけ。嬉しそうな顔してたからさ。いいなぁ、あたしも姉さん欲しかったな」
「兄弟はいないのか」
口にしてから、慌ててルミアルは口元をおさえた。
彼女は拾われ子だったのだ。
「いるよー。弟がひとり」
「え?」
「血は繋がってないんだけどね。あたしを育ててくれた教会の息子。あんた見てると思い出しちゃうのよね。どっちも女の子みたいな顔してるから」
「貴様、僕を侮辱しているのか」
「は? なんで?」
「女のような顔だと言われて誰がよろこぶか、馬鹿者」
「いいじゃないのよ別に。かわいいほうが絶対得だってば」
「だからうれしくないと言ってい……なんだそれは」
大雑把なカイナが、いつにない慎重さで箱を上にひらく。溢れ出したまばゆい輝きに、ルミアルは悪態を飲み込んだ。
「備えあれば憂いなしって、言うでしょ」
壊れ物を扱う手つきで、カイナは厳重に保管されていたそれを手にとった。
黄金色に輝く銃身があらわれた。
目を眇め、すみずみまで眺めてから、腰にまとわりついた頑丈なベルトの一部に押し込んだ。
箱の中に手を差し込み、今度は銀色の銃身を引きずり出す。
「これは、神父があたしに持たせてくれたお守り」
なめらかに輝く銀の銃身を、カイナはいとおしそうに撫でた。
「あの馬鹿を絶対に引きずって帰ってやるんだから」
きりりと表情をひきしめて、二丁目のピストルもホルスターにしまいこんだ。
「交換条件だからね。マテイ探索に協力するから、その考古学者のこと教えてよ」
ルミアルは呆気にとられた。
自分とほとんど身長も変わらぬような女だ。体格にめぐまれているわけでもない。むしろ貧相なほうだ。
しかし、最前までとは何かが明らかに違っていた。不安にはならない。
武装しただけだというのに、ただの少女は賞金稼ぎの顔になっていた。
「わ、分かっている! 支度が済んだなら、さっさと行くぞ」
ルミアルは大声を出した。そのままくるりと踵を返し、部屋を出てゆく。
すっかりとカイナに目を奪われていた自分に、遅れて気がついたのだった。気恥ずかしさと腹立たしさがない交ぜになっていた。
「ちょっと何よ! あてがあるの?」
いきなり背を向けたルミアルを、カイナは追った。
「あの男だ」
地上へ続く階段へ足をかけ、ルミアルは腹の底から憎々しげに搾り出した。
「クリストファ伯を殺した、自警団とやらを仕切っていた男だ」
「……カゼル?」
「僕たちから姉上を奪ったのは、―――あの男なんだ」
【NEXT】
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