The Tower of BABEL
【邂逅編】
―――人は不思議だね。
それは一体いつの言葉だったろう。
―――同じ過ちを何度も繰り返し、同じ傷口を何度も抉って。
血を流し続けるのか。ひたすら。
人間とは、酷く学習能力の無い愚かで純粋な。
動物だね。
1.
ばちんと、頬に硬いものが当たった。
地面に転がったそれを見下ろすと、小さな小石だった。
飛んできた方を振り向くと、にやにやと笑った子供たちがたくさんいた。
色の無い、音の無い。そんな世界で。
子供たちの口が動いた。
―――……ケモノ。
(やめて)
ゆるゆると首を振って、堪える。
そんなこと言わないで。
―――バケモノ。
がばりと体を起こすと、ベッドの上だった。
額から、つうと汗が零れて頬に伝った。
静寂に包み込まれた室内で、自分の荒い呼吸しか聞こえない。
頬に張り付いた、部分ごとに長さの違う髪を払い除けた。
本当は、こんな髪型邪魔でしょうがないのに。
本当は、キモノなんて、窮屈で仕方ないのに。
神聖に見える。崇高に見える。
だから? 一体それがなに。
ノロノロとベッドを下りて、部屋の隅にある姿見の前に立った。
ほの暗い、月明かりの下でぼんやりと浮かび上がる自分の姿。
人々の前にさらしている自分の姿とは似ても似つかない、とても幼い顔。
ゆっくりと手を伸ばし、鏡の表面に触れた。
つめたい。
「……私は、誰?」
―――泣いたらダメよ、リョウ。
いつかきっと全部、全部、上手くいくって。そう言ってくれたけど。
それは一体いつ? もう疲れたよ。
*
「ジェイクの野郎、色々と見繕っといたって言ってたけど、やっぱりなぁ、堅気じゃねぇな」
「……なんでこんな、物騒なものばっかり」
「生活用品は現地調達が基本なんだよ。そうしたら必要なものなんて、このぐらいしかないだろ」
「でも」
ジェイクが用意してくれた荷物をここにきて初めて確かめた二人は、正反対の反応を示した。
レイに至っては、眉をひそめて黙り込んでしまっている。
「今必要なのは、"これ"だろうが」
その中から黒光りする拳銃を一丁取り出し、弾倉に弾を込め始める。
「でもそれでどうやって……」
「人も機械も、弱点は同じだって、知ってるか、お前」
天頂に上った満ちた月から、落ちてくる酷く赤い光。
「今月は赫月(カクゲツ)の月か」
自分の手にしたピストルに反射するその光に導かれるように、ハルトは天を仰いだ。
この星に付き従う二つの衛星。正反対の蒼と赫の光を落としてくるそれが、交互に星に近づく。
空を見上げると、驚くほど大きな赫い月が、不気味なほどの色を落としている。
そのはるか後方に小さく、蒼い月が見えた。
「……俺は、蒼月(ソウゲツ)の方が好きだな」
月と似た赫の瞳を細め、まるで愛おしいものを見るように空を見上げる。
そんなハルトの表情を、レイは今まで、見たことがなかった。
「赫月は気持ち悪いしな」
中断していた弾込めを再開させ、しばらくしてかちゃん、と元に戻す。
「それで、弱点は分かったのか?」
「え?」
いきなり向き直られて、レイはリュックを持ったまま固まってしまった。
「だから、弱点は分かったのかって聞いてんだよ」
すっかり別なことを考えていたレイは、とっさに答えられずに黙り込む。
大げさに溜息をついたハルトは、銃口を真っ直ぐに、レイの瞳に向けた。
「は、ハルトっ……」
空洞が右目の前に広がっている。その果てない奥に、人を傷つける弾丸が静かに眠っている。
「ココだ。人間も機械も、ココやられたら一発だ」
瞬きも出来ずに、向けられた銃口を凝視。ようやく潤いが足りなくなって目が乾きだして初めて、瞬く。
「びっ……、」
ゆっくりと動作で銃を降ろしたハルトに、「びっくりさせるなよ!!」本気で怯えた声でレイは叫んだ。
「ばァか、本気で怯えてんじゃねェよ」
「ハルト!」
それでも怒りが覚めやらないらしいレイの絶叫に付き合わず、ハルトは3番坑道へ向かって歩き出した。
―――そんなものの引き金、貴方に引けるの?
「ハルト待てよ!」
追いかけてくる足音を背中に感じながら、手の中のピストルに視線を落とす。
(もう二度と)
―――私なら大丈夫よ。貴方のしたいようにしなさい。大丈夫よ。
(逃げない)
もう二度と、大事なものの手を離さないように。
―――行ってらっしゃい。
「任せとけよ」
*
「おやぁ? お久しぶりですね。お昼、訪ねて来てくださったんですって?」
「お出迎えかね?」
テントの外へでるとそこに、一人の男が立っていた。
別段驚いたふうもなく、サイジョウは肺に取り込んだ有毒の煙を吐き出す。
「いいえ。深夜の喫煙タイムです。テントの中だと、あんまり助手がいい顔しないもんで」
「相変わらずのタヌキぶりで、安心したよ」
「今日は、軍服じゃないんですね」
指と指の隙間から、吸いかけの煙草を地面に落とし、靴の先で踏み消す。
赫い月の光を背に、黒い外套を棚引かせる目の前の男にサイジョウは害のない笑みを向けた。
「老けましたね」
「何もかもがあの頃のままとはいかないだろう。いたって自然さ」
「そうですか。それならいいです」
サイジョウは彼の名前を呼ばない。
呼ぶことが、痛みに直結することを無意識のうちに悟っているから。
「人間とは、不思議な生き物だね」
どこかで聞いたような台詞が鼓膜を振るわせた。
返答をせずに目の前の相手を見つめていると、男は、赫い月明かりの中にそびえたつ、鋼鉄の塔を見上げた。
「何度も同じことを繰り返す。愚かなことを何度も」
不気味な光の元で輝くその黒い影は、まるで悪魔の城。
「……この町も、同じことを繰り返す。ひたすら上に手を伸ばし、得意げな顔をしてそして。あとは裁かれるだけだ」
「この廃墟は、裁かれた後のなれの果てですか」
「君はやはり、感付いているようだね。この遺跡で古代、なにがあったのか」
「なんのことですか?」
ポーカーフェイスで言い放つが、相手にとっては「肯定」にしかならないだろう。
もちろんそれで構わない。
「捕まえないんですか? 教会の研究室から逃げ出した僕を?」
「見ての通り、私は休暇中だ。君を捕まえる義理もない。それに君に、どれほどのことが出来るのか。あまり悲観はしていない。勢力にはならんよ」
「あまり楽観のし過ぎもどうかと思いますがね」
サイジョウは、眼鏡のフレームを少し乱暴に引き抜いた。
「追う義理もないと、貴方は言うんですね。酷い人だ」
"君"だなんて、そんな呼び方するんですね。"貴方"は。
「僕は少しだけだけど、貴方が追ってくれることを、期待もしてみたんですよ」
「すまないね」
「いいえ。貴方が自分の目標の上にあるものにしか、興味を示さないことぐらい知ってますよ。だけどこれが、悲しい性ですね、寂しがり屋の、人間のね」
引き抜いた眼鏡をワイシャツのポケットに突っ込んで、サイジョウは赫い月を仰いだ。
「あの二人なら、秘密の洞窟に行っちゃいました。追ってきたんでしょう」
「酷い男だな、匿ってやっているんじゃないのか」
「僕は引き換えるものと同等の働きしかしないんです。今回に関しては、寝床を提供しているのでプラマイゼロですね」
ふっと、口元に歪んだような笑みを浮かべ、男は外套を翻した。
死神のように闇に溶けてゆこうとする。
「そうだ、今更ですけど」
月を仰いだまま、ぽつりとサイジョウがこぼした。
その一言だけで、相手の足を止めるには十分だった。
振り向きもしないその背中に向かって、一言。
「元気ですか?」
2.
心なんてなかったらよかった。
初めから。組み込まれていなければよかった。
そうしたらこんなふうに、傷つけあうことも、悲しむことも、寂しくなることもなかった。
愛し合えなくても、たった一人でも。
こんなにも泣きたくなることなんてなかったんだろう。
*
何度聞いても、心地いいとは程遠い音が、だんだん強く聞こえてくる。
しゅるしゅる、その腹を地面に這わせる音。
生理的に悪寒を掻き立てるその音に、レイは身震いをした。
「でかい穴だな」
夕方、例の大蛇が飛び出してきた穴を横目で眺めたあと、ハルトはすたすたと空洞へと向かって歩いてゆく。
先程現れた場所を過ぎても、向こうが仕掛けてくる気配はない。
しかし確実に、しゅるしゅると動き回る音と、しゅうしゅうという舌の音が鼓膜を震わせる。
「どうやら、空洞部分の照明は全部、落ちてるらしいな」
狭い坑道から空洞へと出る少し手前で、ハルトが立ち止まった。
行動内部には相変わらずぼんやりとした電灯が点されていたが、目の前に広がるのは完全な闇だ。ところどころぽつりぽつりと、緑色の非常灯が見えるが、それは灯かりにはならない。
「賢いやつだな。灯かりがあるとこよりも、ないとこの方が有利だって知ってるんだ」
だから坑道で仕掛けてこなかったのだと、ここまで来て悟った。
「……ハルト」
目を細めて空洞を見据えていたレイが、呼んだ。
視線を向けてやると、白い指で真っ直ぐに、空洞の奥を指差した。
「向こうに、扉が見える」
その指先が指す先に視線を滑らせ闇の中を見るが、ハルトの目には何も見えない。
しかし、視力の点では劣っているハルトである。レイの真面目な性格のこと、こういう場面で冗談は言えないだろう。
ハルトの考えどおり、レイの目にはしっかりと扉が見えていた。
非常灯にぼんやりと浮かび上がる、岩壁にはめ込まれた鋼鉄の扉。
「じゃあそこに行って……」
しゅぅ。
耳元で急に聞こえたその生々しい呼吸音に、ざわりと一瞬で足元から脳天まで。駆け抜けた悪寒。
少し遅れて身構えようとするよりも、早く。
―――ドッ。
「ハルト!」
えらの張った巨大な頭で思い切り腹に体当たりを食らわされ、そのまま数メートル先まで飛ばされる。
「……かはっ……」
岩壁に叩きつけられた背中がギシギシと軋んだ。吐き出した掠れた喘ぎと少しの血液。
ずるりと地面に滑り落ちて、蹲った。
しゅるしゅると近づいてくる気配を感じて、腹部を押さえたまま何とか顔を上げると。
目の前に赫く光る二つの光が見えた。闇の中に、鮮やかに浮かび上がる。
「……なんて、親切な標的だよ、オイ」
「ハルト!」
「来るな!」
駆け寄って来そうなレイを制して、ハルトは背中の壁に体重を預けてよろよろと立ち上がった。
冷静に、自分の体に起こっている現象を判別する。
(アバラ一本)
確実にイカレてる。
「お前は、お前が見えてる扉に行けっ……!」
吹っ飛ばされた間も握って離さなかったピストルを手の中に確かめ、そんな自分を心の中で褒めながら。
思った以上に掠れて震えてしまう声で叫んだ。
「でも!」
「いいから!!」
がちゃりと安全装置を親指で外す。
少し躊躇ったあと、レイの金髪が空洞の奥へと駆け出すのを見届けて。
目の前のバケモノに向き直った。
―――ガウン。
センサーがレイの動きを感知したのか、そちらに向かおうとする蛇に向かって、一発。
四方が岩に囲まれた空洞内に、その乾いた音はよく響いた。
「おいおい待てよ。獲物はまだここにいるんだろうが」
レイのほうに向けかけた頭を、ゆっくりとこちらの方に戻すのを確認して、にやりと笑った。それでいい。
口の端に伝う血を乱暴に拭い取り、中に残る鉄の味を吐き出した。
「賢い機械は嫌いじゃないぜ。人間なんかより、よっぽど分かりやすくて」
喋ると折れているらしいアバラに直接響く。呼吸をするたびに鋭い痛みがズキズキと突き上げてくる。
ちろちろとまるで炎のをように、口元から覗く舌を見つめ。
右手を持ち上げた。銃口を相手に向ける。
相手は先刻もそうしたように、首を大きく持ち上げた。その大きな頭をそのまま、こちらに叩きつけてくるつもりだろう。
小刻みに点滅を続ける左目。そちらが恐らく核。
点滅を続けるその左目に照準を合わせて―――。
―――そんなものの引き金、貴方に引けるの?
引き金にかけた人差し指がぴくりと止まった。
真っ直ぐ。こちらの心臓まで刺すような。そんな視線を思い出して、息を止める。
(見てろよ)
脳裏に掠める面影に、そう言ってやる。あの頃とは違う。
「機械の方が、分かりやすくて従順で、可愛いんだけど。俺は分かりにくい人間のが……」
震える右手に、腹部から離した左手を添えて。大きく持ち上げられたその首の上部。
―――赫月はきらい。月が血を流してるみたい。
天頂に輝く赫い月を落とすように。
引き金にかけた人差し指に力を込めた。
分かりにくくて複雑で、どうしようもなく我儘な人間の方が。
"貴方が"。
「好きなんだ」
―――ガゥン。
尾を引いて残る、反響する銃声がひとつ。
少し間をおいて、ずぅんと地響きを伴って倒れる巨体の影が、またひとつ。
それを耳で確かめて、意識を手放した。
*
緑色の非常灯に照らしだされ浮かび上がった扉。導かれるように手を触れると、しゅん、と開いた。
ほの暗い空間が続いている。
ほんの、少し前のことを思い出す。ガイアズメールに辿り着いた時のこと。
もう遠い昔のことのようだ。
目の前にある空間は、そのガイアズメールのコンピュータールームに似ていた。
巨大なディスプレイにコントロールパネル。
ふらふらとディスプレイの前に立つと、ブゥンという唸りを上げて、電源が入った。
ぼんやりと、次第に明るくなってゆくディスプレイを、食い入るように見つめていると、見覚えのあるマークが目に飛び込んできた。
金色に輝く、十字。
「……教会?」
《Welcome…》
文字が浮かび上がり、一瞬遅れて一斉に照明が点いた。
まとまりかけていた考えすら、一瞬で塗りつぶしてしまう強烈な光。
脳裏を灼き潰す。
とっさに目を閉じたものの、目蓋の裏にいつまでも残像が残った。
ガウン。
どぉん。
そろそろと目蓋を開けたそのとき、空洞の方から乾いた銃声となにか巨大なものが倒れこむ音が聞こえてきた。
それらの音はぼんやりとしていたレイを、現実に引き戻すには十分すぎるほどで。
「ハルト!」
叫び、レイは、照明が灯った明るすぎる空洞へと駆け戻った。
*
―――……ト、ハルトってば。
体を揺さぶる腕の、遠慮気味な力。
前もどこかで。この体で感じたことがある。
―――どうして貴方はそんなふうにいつも。無理ばっかりするの。ひとりで空回って虚しくないの?
今は違う。違うよ。
あの頃とは絶対に違う。
「……ハルト!」
今度は少し強い力で揺さぶられた。
痛いって。アバラ折れてんだから。傷に響くって。
「起きろよ」
なんだよ、いいかげんに……。
「……あれ?」
下の下のほうへ落ちていた意識が急に引きずり上げられた。
何の考えもなしに瞳を開くと、天井から強烈な白い光が降り注いできて、あまりの鋭い痛みに再び目を閉じてしまった。
「くっ……まぶし……」
「照明が点いたんだ。あの扉の向こうにコンピュータールームがあって……」
「そっか。まぁ、これで第一関門突破って感じだな」
横たえた体を何とか起こし、すぐ傍の壁に背を預け、呼吸のたびに軋むアバラに手を添えた。
「改めて見ると、本当に大きいんだね」
少し離れたところに横たわる、真っ白な蛇の巨体をしげしげと見つめ、レイが独り言のように呟いた。
体の一部と目のあたりだけ皮がはがれ、銀色の機械組織が剥き出しになっている。
「あーもう、少しはか弱い俺のことも考えて欲しいもんだぜ。まぁ、アバラ折るのは初めてじゃねぇけど」
「え!? 折れてるの!?」
「多分。息するたびにきしきしする……って、だから何でお前が泣きそうな顔するんだって」
「だって」
まるで犬みたいだ。怪我している自分よりも情けない顔をするレイに向かって、ハルトは正直にそう思った。
「んで、どうだったんだ? 機械の方は」
「あ、それが、ここのコンピューター、教会のらしいんだ」
「はぁ!? っ……テテテ」
思わず自分のアバラのことを忘れて大声を上げ、その次の瞬間腹を押さえて蹲る。
一人漫才みたいだ。今度はレイがそう思った。
「あの起動画面はそうだよ。クロスが出た。中を見るにはパスワードが必要みたいだけど……」
「おかしくないか? ここは教会の勢力が弱いところなんだろ? 何でこんなところに教会の機械があるんだよ?」
「そんないっぺんに聞かれても、僕にだって分からないよ」
「…………レイ」
「え?」
一瞬にして鋭くなったハルトの突き刺さるような眼差しが、レイの肩越し、向こうを見ていた。
そのあまりの鋭さに、何事かと問う前に。
「動かないで」
レイのこめかみに冷たいものが押し当てられた。
*
薄い夜着の上にガウンを羽織っただけの格好で、リョウコはバルコニーに出た。
はるか下方。細い道に連なる人々の列。簡易の寝袋などで路上に寝転がる姿。
自分がいるのは、はるか高みの塔の最上階。
(助けてください)
毎日毎日繰り返される言葉はもう聞き飽きた。
悪寒を感じて、リョウコは胸元でガウンの襟を掻き合せた。
そんなふうに手を伸ばさないで。私を遠くにやらないで。
押し上げないで。
こんな高い塔、要らない。私の故郷はこんな場所じゃなかった。
街の外れまで続く人々の列を見たくなくて、空を仰いだ。
すぐ傍に。巨大な赫い月。
きっとナイフを入れたら、真っ赤な血が滴り落ちるに違いないんだ。
「お母さん……」
人々を見るのも、月を仰ぐのも。辛くて目を閉じた。
バルコニーの柵をきゅっと強く握りしめる。
「私、どうすればいいの?」
ごてごてと飾られて、舌を噛みそうな丁寧な言葉を強要されて。
ここにいれば、何の不自由もないけれど。
心が不自由だ。
「空……」
こんなに近い。
高く上っても、これ以上上っても。息が出来なくなるだけなのに。
教会は間違ってるのよ。
周りの大人たちはみんなそういう。そうかもしれない。確かに私だって教会なんて好きじゃない。
だけど。
こんなふうに高くまで手を伸ばして。それで。一体何が掴めるというのだろう?
「もう私、駄目なんだよ」
バルコニーの手すりを掴んだまま、リョウコはずるずるとそこにへたり込んだ。
もう上手く、聞こえない。
「助けて」
どこかから、頭の中に直接、悲鳴を聞いた気がした。
3.
"絆"とはいかなるものであるか。
血で結ばれるものなのか。それとも。
想いが結ぶものなのか。
果たしてそれは、どちらが強いか。
*
「貴方達、一体何者なの。こそこそと何を嗅ぎ回っているの?」
かちりと、こめかみから頭蓋まで。小さな音がやけに大きく響く。
息を呑むことさえ躊躇われて、レイは、やけにゆっくりと息を吐き出した。
「なんてことをしてくれたのかしら。これがあったから今まで私たちは安全だったって言うのに」
ピストルを押し当てられて、身動きの取れないレイは、自分の後ろ側で何が起こっているのかが分からない。
目線だけを滑らせると、スーツ姿の足が見えた。
かつりかつりとヒールの音が響いて、倒れている蛇の元へと動くのがわかった。
それ以外にもたくさんの人の気配。
「教会のコンピューターが、身を守ってくれてたわけだ」
蛇の元へと歩み寄る、40を超えた辺りの―――夕刻はリョウコの後ろにいた―――女に、ハルトが言った。
「……なんですって?」
「そうだろ? ここを押さえておかないと、安全じゃないんだろ? 教会の弱みでも、隠しておいたわけ?」
レイは止めようと体を動かしたが、即座にこめかみに強く銃口を突きつけられて動きを止めた。
ハルトの悪い癖が発動しているのは明らかだった。
土壇場に追い込まれれば追い込まれるほど、相手を煽らずにはいられないのだ。
女はつかつかとハルトの元まで近づいてくると、上から威圧するように見下ろした。
「口は災いの元だと、教わらなかったの、坊や」
ガンっ。
「ッ……!」
ハルトの腹をめがけてヒールの踵を容赦無く落とし、ぐっと力を込めて踏みつける。
「口が過ぎるようね。貴方に何がわかるっていうの。教会なんて組織に、この国の全てを握られていていいとでも言うの?」
「弱み握ってるから、教会があの塔に手を出せないんだろ。確かに俺は余所者だし、難しいことは知らねぇけど。反抗勢力とか言いながら、相手の弱み握らないと対等にもなれない奴らが、国をひっくり返すなんて言ってもただの遠吠えにしか聞こえないことぐらいなら分かるぜ」
「このっ……!」
頭のほうへ逆流した血液が、女の頬を赤く染めた。
「ハルト!」
乾いた銃の咆哮と、立ち込める硝煙の匂い。レイの絶叫。
自分の頬のすぐ横の壁に弾丸がめり込むのを、ハルトは瞬きもせずに見届けた。
「次は当てるわよ」
「手、震えてんぞ」
ぐっと低い声でハルトが言った。今度は女がわずかに怯んだ顔を見せる。
「自分の計画に邪魔なモノを殺す覚悟もないくせに、偉そうなことぬかしてんじゃねェよ」
―――ガゥンガゥンガゥン。
レイの隣に立つ男でも、ハルトを見下す女でもない、別なところから立て続けに銃声が起こった。
自分のこめかみから銃口が外れたのを感じて、レイが隣を見ると。今まで自分を制圧下に置いていた男が地面に転がっているのが見えた。
少しして血の海が足元に広がる。
「……ぁっ」
口から血を吐き出し、女が前のめりに倒れた。握っていたピストルが地面に転がる。硬い音が空洞に響いた。
「君の言っていることは、全く正しい」
空洞への入り口の辺りから、場面にそぐわない穏やかな声が聞こえてきた。
倒れこんだ女を支え、仰向けに寝かせてやると、ハルトは顔を上げた。
そこここにいたたくさんの男たちが、いまや地に伏せる肉の塊となっている。
「人を傷つけるからには、自らも常に傷つけられる覚悟を背負わなければならない」
黒い外套を纏い、黒髪に青い瞳の。上品そうなフレームのない眼鏡をかけた男。
年の頃はもう初老と言っても過言ではないはずなのに、髪の毛には一本の白髪もなく、目元口元に刻まれた皺が逆に上品さを引き立てていた。
手に握られたピストルを除けば。
「……あんた」
「二人とも、強い目だね。信じるものに向かって突き進む、若い瞳だ」
隣に横たわる男の体温がどんどん失われていくのをその手で感じながら、レイは近づいてくる初老の紳士を睨みつけた。
「君達の名付け親にそっくりだよ」
「……な、んだって?」
「ファスト・ヴォルディモート。よく覚えてるよ」
使い終わった弾を地面にばら撒き、新しい弾丸を充填しながら、男は眼鏡を引き抜いて地面に落とした。
ぱりん、という繊細な音を立てて、砕け散る。
「あんた一体……」
「ナツコさん!!」
ハルトの声を途中で引き裂き、幼い女の声が飛び込んできた。
坑道の方から、夜着の上にガウンを羽織っただけの少女が飛び込んできて、他には目もくれずハルトの横に横たわっている女の元へ駆け寄った。
「ナツコさん、ナツコさん!!」
白い夜着が赤く染まるのも構わずに、少女はその腕で女を抱き起こした。
「……やだ、置いてっちゃやだ。また私、ひとりぼっちになっちゃう……!」
腕の中で徐々に失われてゆく温度。それを生身の肌で感じながら、少女は泣き崩れる。
傷口に掌を当てて、目を閉じる。
すると、傷口に当てた掌から淡い光が漏れた。
徐々に傷口が閉じてゆく。
「……無駄だよ。もう血が足りない」
レイの背後から、無慈悲に男が告げた。
けれど少女はきっと、そのことぐらいは気付いていたはずだった。傷口を綺麗に修復して、地面に女を横たわらせた。
「崇められたって、こんなときに……」
ぱたぱたと、女の体の上に雫が落ちた。
女の上に泣き伏せて、嗚咽交じりに少女が零す。
「神様だって言われたって、一番大事なときに救えなくて……、こんな力、意味ないのにっ…!」
「だから言ったんだよ」
「え……?」
男がゆっくりと少女の傍まで足を進めた。
傍にきた男の気配に、少女が顔を上げる。
「……人はそんなに高いところに、手を伸ばしてはいけない。所詮人は、人でしかありえない。神になどなれないよ」
高い高い塔を作って。
奇跡を用いて。
神へと手を伸ばして。
「君だって、神にはなれないよ」
かちゃり。
男は微笑みながら、少女の額に銃口を突きつけた。
「何をするんだ!!」
たまらなくなってレイが叫んだ。しかし少女は真っ直ぐに男を見上げ、怯む様子もなかった。
「神になんてなりたくないわ。貴方は一体何がそんなに悲しいの」
(何がそんなに悲しい?)
少女の切り返しに、男は少し驚いたように目を見開いたあと、額から銃口を外した。
「そうだね、強いて言えば、この世界に神がいないことだね」
外套の懐をわずかに開いて、ピストルを中にしまいこむ。そのとき、レイは外套の内側で揺れる金十字を見た。
「……教会?」
「そうだよ」
喘ぐようなレイの独白に、いとも簡単に男は答えた。
「ただ、私は現在休暇中だから、世をたばかった偽のメシアに制裁を加える権限はないね」
ちらりと少女のほうへ目線をやって、吐き捨てる。
「これも、制裁でも何でもなくただの私用だって?」
累々と重なる骸を見渡して、皮肉をこめてハルトが言うと、男は再びいとも簡単に「そうだよ」と答えて見せた。
「君の言うとおり、覚悟のないものは狩られて当然なのさ。動物だろうと人間だろうと、所詮この世は連鎖で出来てる。弱いものが喰われるのは自然の摂理だ」
「じゃあお前もか?」
片腕で腹を支えて、ハルトは男に銃口を向けた。
「当然だ」
発砲音がして、腕に鈍い痛みが走ったと思った次の瞬間。ハルトの手から銃が弾き飛ばされていた。
「つぅ……、傷に響くっつーの……」
じんじんと手が痛みを訴える。そのうえ、呼吸をするだけで骨がきしきし鳴るのが聞こえるようだった。
「畜生……〜、今日は厄日だ〜……」
「ハルト!」
腹と手を抱えて蹲るハルトに、慌ててレイが駆け寄った。
反射的に傍に転がったピストルを拾い上げると、男に向けた。
強く強く、相手を見据えた。気持ちで負けないように。
もちろん、銃など射撃の練習以外で握ったことはない。実戦など初めてだ。しかし―――。
「よく似てる」
銃を下ろし、男が目を細めてレイを見た。その向こうに誰かを見るように。
「え……?」
「君達は本当に、その向こう見ずなところも瞳の強さも、そっくりだな」
呟きながら、男は開かれたままの扉の方へと歩き出した。
かちゃん。
男の背中がコンピュータールームに消えた瞬間、レイの指からピストルが落ちた。
指は固まったまま、小刻みに震えている。
生々しい鋼鉄の感触がまだ手に残る。目の前に持ってきて、ゆっくりと開いた。もう一度。閉じて開く。
「……あんたさ、リョウコ?」
呆然としているレイをよそに、自分の傍にきた少女にハルトは声を掛けた。
「うん」
頷きながら、リョウコはハルトの腹部に手を伸ばした。
「骨ぐらいだったら、くっつけ、られるから」
反射的に身構えるハルトに、リョウコは遠慮がちに言う。
怯えを孕みながら、それでも真っ直ぐなリョウコの瞳を少しの間見つめ、ふう、と大きく息を吐き出した。
人を見る目だけは、心得ているつもりだ。
「頼む」
腹を庇った腕を退け、背後の壁に体を預けて目を閉じる。
「……貴方の目」
ハルトの腹部に手を当てた遠慮がちなリョウコの呟きに、ハルトはうっすらと片目を開いて見せた。
まるで天頂の、月のような赫い瞳を。
「怖いか?」
「ううん、私……」
否定と共に首を緩く振り、何かを口にしかけて、また止めた。
キャンセル技は嫌いだ。そう言ってやろうかと思ったが、体の中に流れ込んでくる温かな温度に、心地よくて忘れた。
―――よく似てる。
ようやく手の感覚が戻ってきたレイは、自分が取り落としたピストルを拾い上げた。
冷たい。
そして、扉の方を見た。
先程の男が入っていったまま、何の動きもない。
名付け親によく似てる? 男の言葉の意味を考えて、レイは服の上からロザリオに触れた。
あのひとが残してくれた、形見。
(ファスト神父)
育った街の中でも村の中でもない。それより"外"でファストを知っている人物。
そんな人間は初めてだった。
(知っているのかもしれない)
つい数日前、シャトーの町で聞いた言葉の、本当の意味―――。
がちん。
何かが落ちるような音がして、急に照明が全て落ちた。
周囲は一瞬にして闇に包まれる。
少し離れたところで二人が息を詰めるのが聞こえた。
かつん、かつん。
息を殺していると、靴の音が等間隔で響きだした。
急に光を奪われた瞳は、周囲の状況を見渡すことが出来ない。
しかし、その闇の中で天鵞絨のような黒い外套が翻るのを、レイの瞳が捉えた。
「貴方は、一体……」
その気配がちょうど目の前を通ったところで、レイの口が動いた。
等間隔で響いていた足音が、止まる。
暗闇の中に、白い肌がぼんやりと浮かび上がった。こちらに顔を向ける。
「レイ・クレスタくん、ハルト・シラギくん。今度は私が軍服を着ているときに会おう。現在は休暇中で、私用もたった今済んだ。君たちのおかげで、余計なバケモノを相手にしなくて済んだよ」
「貴方は何故ファスト神父を……!」
再び歩き出した男の背中に、とうとう押さえられなくなって、レイは声を荒げた。
もう一度、男は足を止める。振り返らずに、背中で聞く。
知っていることがあるならば、知りたい。例え相手が敵対する組織の人間であろうとも。
ジェイクの家で聞いた言葉。
―――ファストは教会に殺された。
その言葉の意味を。真相を―――……。
「……私は、教会正規軍西軍大将、ランドウ・アンティクリスト」
男は歩き出した。振り返らずに坑道へと向かう。
レイもハルトも、もちろんリョウコも。動けなかった。リョウコなど、思わず口元を覆ってしまったぐらいだ。
大将。その立場はあまりに大きすぎた。元帥の下で、事実上軍を動かすだけの力を持った男……。
ランドウの言葉は続いた。残酷に、無慈悲に。静かに。
足音と共に遠ざかってゆくはずのその言葉が、今まで聞いたどの台詞よりも鮮烈に胸に刺さったのは一体。
何故。
「君達の名付け親を、破滅させた男だよ」