殉 情
【前 編】
天上への扉は開かれる。
大いなる父よ、愚かな子らを憐れみ給え。
深き慈愛(あい)で包み給え。
救いと願いは叶えられるだろう。
清く美しき御使いの降り立つ、
神の眠る地、
マハノンへ集え。
―――アンデレ著『至高天』より抜粋
序章
「神の眠る地、か……」
暗い夜道を、がたごとと1台の車が進んでいた。
何しろ荒地が多い地形だ、滑るようにとはいかない。ヘッドライトが闇を切り裂くように照らし出す少し先を見つめて、大きな岩などに当たらないようにうまくハンドルを切る。
後続のトラックをバックミラー越しに確認した後、運転席のファンがこぼした。
「それにしても、場所の情報はおろか伝説さえほとんどない遺跡が、本当にあるんですか? しかもゴルゴダなんて僻地に」
「遺跡は案外、僻地に埋もれてるものさ」
後部座席の右側、窓を開け放って喫煙中の隊長殿が、風を受けてなぶられる寝癖が残る黒髪を押さえた。
空は目立ちすぎるから陸路がいい、なんて自分で言ったくせに、先程からこの隊長殿は、「もっと頑張ってよ」などと変なことを言う。
だったら、空の道を使えばよかったでしょう。反論しても「それは駄目」と言われる。全くもってわけがわからない。
マハノン。
古文書に何度か名前が登場するだけで、一切が闇に包まれている古代遺跡。
サイジョウ・ファミリーがレジスタンスと並行して発掘作業を行う理由のひとつは、このマハノンを発見することにある。
しかし。
見つけてからどうするのかは、全て隊長の脳ミソの中に書いてある。隊員の誰一人として、マハノンを探す意図を知らない。
一体そこに、何があるのかも。
とりあえずやることは、教会側よりも先にマハノンの最深部に辿り着くことだから。
大急ぎで車を出せと急かす隊長側から、皆に一言だけ。それだけ。あとはノーコメント。
「マハノン、って、一体なんなんですか?」
サイジョウの隣に座ったリョウコが訊いた。
半分開いた窓から、天上に仲良く並んだ赫と蒼の月を眺めていたサイジョウが、その声に視線をリョウコの方へ戻した。
「『天上への扉は開かれる。父よ、愚かな子らを憐れみ給え。深き慈愛で包みたまえ。救いと願いは叶えられるだろう。清く美しき御使いの降り立つ、神の眠る地、マハノンへ集え』。―――古代人の預言者アンデレの著作『至高天』の一部だね。だけど"集え"と言っている割に、場所も何も書かれていないんだ。だからそんな場所は存在しないのかもしれない。普通はそう思う。―――ファンくん、灰皿取って」
灰が長くなってきた。そのまま車の外に放り投げるのは、本人曰く「良心の呵責に耐えられない」らしい。
だったら、お部屋ももう少し綺麗に保ってくれればいいのに。少なくとも2日ぐらい。と、助手席に座るモエは思った。
片手をハンドルから離して、車に備え付けの灰皿を渡してやると、「ドーモ」とあまり感情の籠もっていない礼が返ってきた。
「だけどね」
そのまま、まだ長い煙草を灰皿に押し付けて消してしまうと、直ぐ様その灰皿をファンに押し戻した。
「色々な場所に記述があるんだ。他には神学者フィリポの『エデン』にも『微睡みの楽園』として書かれているし、神学教授トマスの『福音』の中でも『安息の地』と描かれてる。伝説もないのに、記述には統一性がある。神が眠る場所、という点でね。だから、その遺跡のには本当に"神が眠ってるんじゃないか"と僕は思うんだよ。もちろん、言葉どおりじゃないけどね」
分からないというようにリョウコが眉をひそめて首をかしげた。
どうも釈然としないらしいリョウコに、サイジョウは苦笑した。行けば分かるよ、などと少し無責任なことを言う。
「会いにいこうよ。―――神様にさ」
1.
まだ浅い眠りの中。
昔の記憶をなぞるように、夢を見ていた。
"夢だって分かってる"眠りの中で。
『ガイアズメール? 神の船のことか? 創世記の?』
『そう。発掘関係者なら誰もが一度は探したいと思う伝説の遺物さ』
混ぜてもらった発掘仲間の中で、年齢が近いこのシロウとは良く話した。
『その情報がなんと、ここらへんに流れてきてるって話なんだな』
『やめとけよ。ガイアズメールに触れるべからずっていうのが暗黙の了解だろうが。やばいんじゃねぇの』
『臆病者だなハルト。誰よりも先にガイアズメールを見つける。これこそ発掘を志すものの永遠のロマンじゃんか』
『死んだらロマンも何も意味ねーんだよ』
なんて言いながら、惹かれなかったといえば嘘になる。
発掘に集まってくる物好きな奴らは、誰も見たことのないものを見つけるのが好きだ。
一番初めに触れるのが好きだ。
もちろん自分だって、例外じゃなかった。
神が御使いを使わしたという伝説の神の船『ガイアズメール』。
神話の話だ。実在などするはずがないというのがもっぱらの見解だが、しかし、教会がその探索を禁止していることが気になる。
神話を汚すというのが禁止の主な理由だが、本当は神の船は実在して、"探されたら困る何か"があるのかもしれない。
本当に存在しなければ、そんなに大げさに「探すな」なんて言わなくても済むはずだ。
そういえばジェイクも言っていたっけか。「探すな」と。
実在するとしてそこに一体何が、あるんだろうか?
欲求はやがて欲望となり、ぐるぐると血管中を駆け回ってとうとう、脳を侵した。
麻薬のように。
『最近街外れに居座った奴らがその情報持ってるらしいんだ。なんだか格好からして怪しいし。ちょっと覗かせてもらうだけならバチあたんねーって』
シロウは極めて楽観主義だった。
しょうがない乗せられてやるか。そう思うことにした。
本当は自分が一番、欲しがっていたのかもしれない。
情報を持っているらしい奴らは、街外れの廃屋に居座っていた。
一ヶ月ほど前から、色々な機材を運び込み、なにやら測定しているらしい。
そう言えば、この街は少し磁場がおかしいという話もある。
奴らが拠点であるその廃屋を空けるのは、昼飯時のわずかな時間だけらしい。
こんな辺境の街とは思えない厳重な警備ぶりだ。
『何で俺が』
そのわずかな時間を利用してもぐりこんだ廃墟の奥には、辺境の町には不似合いなほどの巨大なコンピュータが並んでいた。
その前に俺を押し出して、シロウはさっさと扉の前まで戻ってしまった。どうやら見張りのつもりらしい。
『だって、ハックはお前のお得意じゃんか』
扉のすぐ傍に立ったまま、少し低い声でシロウが言う。
『だから俺を勧誘したってのか?』
『まぁ、それもある』
『"だから"、だろ』
文句をつけながらも、視線はモニターに、指はキーの上にそれぞれ向けられていた。
コンピュータは好きだ。ある一定の指示を出せば希望通りに動いてくれる。
人は予想外な反応を示す。
それゆえに傷ついたり泣いたり。だけど、予想外のその反応が、時に喜びの涙すら流させることがあって。
そんなふうにうまく出来てないから、天秤にかけたら結局は、人のほうが好きだ。
『なァお前さ』
扉に張り付いたまま、ひそひそとシロウが呟いた。
『何』
指をキーの上に滑らせながら、振り向かずに返した。
『ソフィアさんとどーなってんの』
『どうって……』
思わず一瞬、指が止まってしまった。
『いいよなー、美人だし頭いいし優しいしー……』
『やらねーからな』
『感じ悪ィ』
『言ってろ』
画面に浮かび上がる膨大なデータの中から、必要なものだけを探そうと目を走らせる。
神の船。神の船。神の……。
『……ファレスタ……?』
FARESTA.
聞き覚えのある地名だ。確か遥か昔に聖域として一般人の立ち入りが禁止された区域。
聖なる山脈―――。
『ハルト、やば……』
神経がモニターに集中しすぎて、周りの雑音がすっかり聞こえなくなっていた。
引きつったシロウの喘ぐような声に現実に引き戻されたときにはもう。
脇腹に焼け付くような痛みが走ったあとだった。
貴様ラ一体何者ダ―――。
そう聞こえた気がした。
しかしもう何も。
予定よりも早く戻ってきてしまったその男たちの顔や形。ましてや服装など、覚えている余裕もなかった。
撃たれた傷口からどんどん外へ出たがる血液のことも、構えなかった。
へたり込んでいるシロウを引きずるようにして廃屋を逃げ出し、人気のない森まで来るのが精一杯だった。
茂みに隠れて廃屋の入り口を見ていると、飛び出してきた男が仲間たちと合流し、なにやら物凄い勢いで話し始めた。
話の内容まではわからない。しかし、こちらにとってあまりいい話ではないだろう。
『ハ、ハルト……俺たち……』
地面に蹲ったままシロウはがたがたと震えている。
『自分で持ちかけてきて、怯えてんじゃねぇよ。データ盗んだわけじゃなし、向こうだってそんなに忠実に顔覚えてないだろ。とりあえず数日静かにしてたほうがいいな』
怯えるシロウをなだめて、そこで別れた。
動揺していなかったといえば嘘になる。しかし、何とかなるだろうとタカをくくっていた。
自分が手に入れたキーワードがどれほど重要で、どれほど危険なものなのか、分かっていなかった。
そのときはまだ。
*
『全く、傷が耐えないわねあんたも。それで今度は何?』
『それが、シロウの奴に引っ張られてさ、街外れの廃屋までいったんだけど』
弾丸が掠った傷を手当てしていたソフィアの手が、少し止まった。
『あそこに?』
『大丈夫だって。……多分』
『多分って、ハルトあなたねぇ……』
『電話。鳴ってる』
お小言モードに入りそうになったソフィアをうまく遮るように、隣の部屋に置かれている電話が鳴り出した。
『全く、どうしようもない悪ガキなんだから』
呆れたように溜息をつくと、手早く手当てを済ませ、ソフィアは隣の部屋に姿を消した。
だから、動揺してるのはこっちなんだってば。
相も変わらず白衣姿のその背中に呟いた。
こんなふうに、平気だ平気だって。大丈夫だって言い聞かせるように繰り返さないと、不安なんだってば。
しばらくして、隣の部屋からがしゃんと大きな音が聞こえた。
『ソフィア?』
『平気。花瓶、倒しただけだから』
思えばそのとき、声がやけに大きいとか、少し震えてるとか、気付けばよかった。
『そうだ、ちょっと隣の町までおつかいに行ってきてよ』
『おつかい? これから!?』
時計を見て時間を確かめる。もう夕方だ。
しかも"おつかい"なんて、なんだか名前がガキっぽいし。
『急に思い出しちゃって。明日どうしても要るの。お願い』
隣の部屋から戻ってきたソフィアが、顔の前で両手を合わせた。
いつもは大人びている彼女がなんだか、可愛かった。から。
『仕方ねーな』
手早く服を着て立ち上がった。
『それとね、なんだか街の入り口、塞がれてるみたいだから。地下の通路から行ってよ』
『あそこ、前から"使っちゃだめー!"ってゆってたじゃん』
街の外に通じる地下の通路。街に届けを出していないから、その存在が知れると色々と手続きその他が必要なのだと。
だから幾ら便利でも使っちゃ駄目。と日ごろから言われていたのに。
『場合が場合なの。ほら、行く!! いつもの薬屋だからね!』
『で、でもさ。もし奴らがここまで来たらどう……』
『あんたなんか、"知らない"って言ってやるから平気よ』
『ひでー』
『保身よ。当然でしょ!』
と、なんだかんだ言っているうちに本棚が寄せられて、地下への階段が姿を現した。
早く、と後ろから背中を押される。
分かったよ、分かりました。頷いて階段を降りた。
『貴方は、貴方の好きなようにすればいいわ』
後ろから声が聞こえた。一体何のことだろう。そのときは、何も分からなかった。
『大丈夫よ。行ってらっしゃい』
言い聞かせるような声が柔らかくて、愛しい。
ソフィア、突然なに?
振り返って訊こうとしたところで、本棚が元通りに閉まった。
辺りは一切の闇に包まれて、何も見えなくなった。
狭い壁、両手をついて階段を降りる。靴は履いているはずなのに、石の階段から冷気が這い上がってくるような気がした。
素早く本棚を元に戻してしまったソフィアがそのとき何を考えていたのか、俺は知らない。
だけど、直前にかかってきた電話のことだけは、後から話に聞いて知った。
―――シロウが殺された。
*
そのときは、案外早くやってきた。
まだ夜にもならないうちに乱暴に玄関が開かれる。
怪我の手当てをしてやっていた子供を裏口から返し、ソフィアは対応に出た。
『こんな中途半端な時間に何の御用かしら。見たところ、怪我人でも病人でもないみたいだけど』
不躾に上がりこんできた男たちは、皆フードを着込んでいたが、わずかに見える服は黒に銀の線が施された軍服のように見えた。
腰に手を当てて、威圧するようにソフィアは、3人の男たちを見渡した。
『黒い髪に赤い瞳の男がここにいると聞いてきたが?』
『それを聞いてどうするつもり?』
『いいから質問に答えろ! 奴はどこだ!! 知ってるんだろう!?』
『―――"あの情報"が、よっぽど大事なのね』
『なっ……』
口にした途端、男たちの顔色が変わった。
"あの情報"が何かなんて、知らない。知っているはずもない。けれどカマをかけてみた。
―――あんたなんか、"知らない"って言うから。
追い出した年下の男の面影を、思い出してみる。
ごめんね。
小さく呟いた。
『"知ってるわよ"。だけど、彼を追ったって何にもならないわ。あいつは何も知らないわよ。"調べさせたの、私だから"』
やけに冷静に口が回る。
頭の奥の方で、必死に計算している自分がいる。
必死に言葉の落とし穴、掘ってる自分がいる。お願い"落ちて"。
なんでだろう。全然怖くないの。
大丈夫だよ。好きなように、前に進んでいいよ。
邪魔させないから。
子供っぽいとか、馬鹿にしてたけど。前だけ見てる目がずっと、好きだから。
『貴様ッ―――』
いきり立つ右側の男を、一番前に立つ男が片手で制した。
フードから覗く、眼鏡をかけた奥の瞳は、深い蒼だった。
『真実を告げたまえ。庇ってもろくなことはないぞ。本当にお前が?』
その蒼が湛える光は酷く冷たく、気圧されそうになる。負けそうになる。
『本当よ。それが何か?』
負けないように、ぐっと目に力を込めて、目の前に立つ男を見据えた。
すると、男はばさりと顔からフードを落とす。壮年の、上品そうな顔立ちをした男だった。
『"大佐"』
左隣の男が呼んだ。
大佐? 軍の人間?
すると、フードを落とした男は、真っ直ぐにソフィアを見た。そして一瞬だけ、憐れむような笑いを目元に浮かべると、踵を返した。
『始末しろ』
氷よりも冷たく、ダイアモンドよりも硬い声が耳にもぐりこんだ。
目の前の二人の男が、ホルスターからピストルを抜き取るのを、酷く冷静に見てる。
大丈夫。何も怖くないよ。
真っ直ぐ前、見てていいから。
翼を追って、空、見てていいよ。
ごめんね。あんたのこと知らないなんて、言えなかった。
言葉に出さず、口唇だけで囁いた。
―――愛してる。
*
あとから考えてみれば、たくさんあった筈なんだ。
手がかりが。
声とか仕草とか、他愛もない言葉の端々に、きっと。
だけどそのとき、俺はひとつも。
たくさんあった手がかりのそのひとつすら。
拾い上げられなかった。
もうすっかり日の暮れた道を、街に向かって戻る。
途中で、ここらへんでは滅多に見ない車と何台か擦れ違ったが、気にもならなかった。
塞がれていると言っていた入り口もいつも通りで、今更ながらに胸を撫で下ろす。
何だ結局、何事もなかったんじゃないか。
そんな、馬鹿なこと。思った。
玄関の前まできて一度立ち止まる。
診療は終わってるはずなのに、診療所の電気がついていた。が、別に気にしない。
ソフィアの場合、診療時間など、ほとんど関係がないのだ。
早朝だろうが、深夜だろうが、怪我人や病人が来れば診る。
また誰か来てるんだろう、そんなことを思いながら、玄関のドアを開けた。
『ただい……』
途端。ただいまも言い終わらないうちに胸倉をつかまれて、わけがわからないうちに殴り倒された。
後ろに無様に転がって、手に抱えていた荷物が地面に散らばる。
『何しやがるっ……!』
殴られた左の頬。口の端、切った。口の中に広がる鉄の味。
顎に向かって一筋落ちた血を拭いながら立ち上がろうとして、体が動かなかった。
『殺してやる!!』
目の前に立ちはだかった、俺を殴っただろう男が、泣いていた。泣きながら叫んだ。
いつも不機嫌そうな顔をして、散々文句つけて、勝手に俺を目の敵にした男が。
無様に地面に転んだままの俺の上に馬乗りになって、胸倉を両手で掴んで、がくがくと揺さぶった。
『てめぇのせいだ……』
ぱたぱたと、ルードの頬を伝った涙が、顔に落ちた。
嗚咽に掠れた声は、なんだかルードの声じゃないみたいだった。
『てめぇが殺したんだ』
『何……』
殺した? 何の話?
揺さぶるのを止めたルードが、俺の胸倉を掴んだ両手に額を押し付けた。
胸倉を掴む両手が小刻みに震えていて、必死に嗚咽をこらえる振動が。
リアルにこの体に染みてゆく。
まるで世界全てが、揺れているみたいだ。
『畜生……』
両手に額を押し当てたまま、ルードがうめいた。その声が地響きみたいに体中に響いた。
『ルード。やめろ』
いつの間にか傍に来ていた男が、俺の体の上で蹲ったままのルードの肩に手を置いた。
いつも温厚そうなその瞳には、深い悲しみが湛えられているような気がした。
男に促されて、ルードは胸倉から手を離した。ゆっくりとこの体の上から退く。
俺はそれでも寝転んだまま、まばらに星が散らばる空を見上げていた。
体が金縛りに遭ったように、うまく動かない。
『クロイツ……』
止めに入った男の名前を呼んだ。
けれど、その先を聞けなかった。「何があったんだ」。とても。怖くて。
しかし敏感に空気を読み取ったのか、クロイツは足元に視線を落とす。
一瞬の沈黙。凍りつくような、その空白のあと。
『ソフィアが殺されたよ』
弾丸で心臓を貫かれたって、こんなに痛くない。
きっとそうだ。
『嘘だろ……?』
仰向けに倒れたまま、うめいた。
誰も訂正してくれないことなど分かっていながら。それでも誰かに「嘘だ」と、言って欲しかった。
急に片腕をつかまれて、地面から引きずり上げられた。
強い力で引きずられるまま、家の中に入る。
俺の腕を引いているのはルードだった。足元がふらつく。
まるでゼリーの上でも歩いているような、ぐにゃぐにゃした感じ。
電気がついたままの診療所の扉を開き、俺の体をどん、と中に押し込む。
二つ並んだ診療所のベッド。左側。
白いシーツの上に、横たわっている、からだ。
ふらつく足を一歩前へ出す。もう一歩、前。
地面が揺れているみたいに、足元が覚束ない。やけに、左胸の内側がうるさいと思ったら。
心臓の音だった。
―――親はふたりだもん。それ以上の人に必要とされてたら、モトは取ってるでしょ。
よかったね。そう言って笑う顔。
―――ハルトの目は別。気持ち悪くないもの。
赫い月は嫌い。そう言ってつまらなそうにする。
―――安心してよ。私、自分に必要だと思ったもの以外は、近くに置かないの。
ソフィアは? 俺のこと必要? ガキみたいに訊いたら、額にひとつキスをくれて。
しあわせで、やわらかいじかん。
思い出せば思い出すほど。胸が詰まって息が出来ない。
ベッドの傍まで来て、上から見下ろした。
真っ白。整った顔が、人形みたいに見えた。
頬に触れてみる。自分の手が、小刻みに震えていた。
つめたい。
―――貴方は、貴方の好きなようにすればいいわ。
ぱたり。
雨の雫のようにひとつぶ、どこからか水が落ちた。ソフィアの頬に。
何かと思ったら、自分の涙だった。
自分の泣いていることすら分からないぐらい、体の神経全部がイカレてた。
こうなること知ってて、逃がした?
思い当たることなら、たくさんある。
『ッ―――……』
噛み殺しきれなかった嗚咽が、歯と歯の間から零れ落ちた。
もう視界がぼやけて歪んで、ソフィアの顔が見えない。
―――大丈夫よ。
子供に言い聞かせるように、やさしい。やさしいことば。
愛しい声。
もう聞こえない。
(てめぇのせいだ)
(てめぇが殺したんだ)
ルードの言葉が耳元でぐるぐる回った。
頭を脳味噌を圧迫するように、がんがんと響き渡る。
『るせぇんだよ……』
振り払おうときつく目を閉じたら、両目からばたばたと涙が落ちて。止まらなくて。
がくりと膝の力が抜けた。
口唇を噛んで、今にも吐き出しそうになる狂ったような叫び声を、必死に押さえた。口の中で血の味。
てめぇのせいだ? てめぇが殺した?
うるせぇんだよ。そんなの、言われなくたって。
俺が一番知ってる。
たくさん、目の前に示されていた兆候のひとつすら、つかめないまま。
大丈夫だって、その一言だけで安心して。馬鹿みたいに。
苦しいとき、平気だ平気だって、大丈夫だって繰り返さなきゃ不安に押しつぶされそうだっていうことを、一番知っていたのに。
『畜生……』
俺のせいだ。
*
つめたい。
肌がそう感じて、ゆっくりと目を開いた。
うつぶせに倒れたまま、右の頬が触れた床はもう、体温を吸い取って大分温かくなっていたけれど。
冷たいのはそこじゃなかった。
痺れているがなんとか動く左腕を床から引き剥がして、乱暴に頬を拭った。
まだ焦点を結ばない目に、体の内側から染み出した水分を拭った掌をかざす。
涙。
あれから、あの街を出てひとり。蝶とガイアズメールを追い続けた。
見つけないと、気が済まなかった。
彼女の生命まで奪ったものを、見つけないと気が済まなかった。
「見つけても……、気が済まなかったけどな……」
楽になど、なれるはずもないし、なりたくもない。
塞がることのない傷口、抱いたまま死ぬまで。ずっと。
そのまま。
痛いままがいい。
身を捩ると、何とか体が動くことに気付いた。
両手を床について、体を地面から引き剥がす。
ひどい肩こりの時のように回らない首を必死に回して辺りを見渡した。
「ベットあるんじゃんか」
部屋の隅に簡易のベッドが置かれているのを目に留めて、悪態をついた。
畜生床に放り出しやがって。
もう眠る気にはなれないものの、このまま床にへばりついている気にもなれなかった。
だるい体に鞭打って、ようやくベッドまで辿り着き、腰掛ける。
「ごめんな」
呟いた。
届くはずもないのに。
2.
果てなく長く続いている記憶の、はじめのほうは最早おぼろげだ。
人が、生まれてからあとの数年を覚えていないのに似ている。
昔より今、昔より今、と求めてゆくうち、許容量の足りない脳ミソが空を探して一番初めの記憶から消してゆく。
人のシステム。
私はずっとある強迫観念に襲われ続けている。
消さなければならない。あれだけは。
あのおぞましいものだけは、この世界に残しておいてはならないのだ。
しかし、私には、その場所が分からない。
人のシステムによってデリートされた記憶。今は思い出せない。
軽いノックが執務室に響いた。
「入りたまえ」
許可を出すと、扉がゆっくりと開いた。
「ラジエル」
その扉の隙間から、小さな体が覗いた。
「報告がひとつ。君にとっては朗報でもあり、悪い知らせでもあると思うけど……」
東軍の大将を任せている、幼い子供の姿をした男だった。
とある事情で成長が止まっていて、これでももう随分な年らしいが、正式な年齢は不明だ。
いつもは柔和な光を湛えているその瞳が、今日はやけに強かった。
「マハノンが見つかった」
ガタリ、と自分の後ろで音がした。急に立ち上がったせいで椅子が後ろに倒れたのだと言うことを、どこかで頭の隅で考えた。
「どこだ」
性急に問いただす声に震えが混じる。それが興奮なのか恐怖なのか、分からない。
「以前から睨んでいた通り。例のふたりを連れて行ったときに、"バイブル"を回収したんだけど、君が手放したときに埋め込んだって言ってたマイクロチップが反応したんだ。間違いない」
「……ゴルゴダか」
磁場の揺らぎ、不自然な地形。数々な証拠が現れながらも、今までマハノンの存在を確認できずに来た最有力候補。
ゴルゴダ。
「皮肉なものだな。あのバイブルが最終的な証拠になるとは……」
この世から消滅させたいもの同士が引き合うとは、なんと皮肉なことだろう。
口元に自嘲が浮かんだ。
「どうする」
ミカエルの強い瞳が真っ直ぐにラジエルを射た。
黄金の瞳を見つめ返し、一拍の空白の後。
「出る。東軍を動かせ」
「御意に、猊下。用意するものは?」
「"マハノンを葬る"。それに必要なものを」
「やはり、壊す……のか」
「あれをこの世界に残しておきたくはない」
存在する限り、この体をこの心を、蝕み続けるものならば要らない。
―――お前は生きなければならない。この世界を見守るものとして。
誰の声かももうわからない声が、ずっとこの体を絡め取る。
その言葉に従うために、わずかでもこの心に迷いを生じさせるものならば。
「惜しくはないのか」
確認をするように、ゆっくりとミカエルが訊いた。
執着がないのだといえば、間違いなく嘘になる。けれどこれから先、無限に時間が続くのだとしたら。
迷ってはならない。
故に、この心に波紋を広げるものの存在は、消してゆかねばならないのだ。小さな石だとしても。
泉に投げ入れられた小さな石も、やがては大きな波紋を生むことがある。
記憶が大事と叫びながら、人が徐々に幼い頃からの記憶を忘れてゆくように。
デリートしてもいいはずだ。
「惜しくはない」
しばらくミカエルは大司教の顔を見つめていたが、やがて二三度頷くと、踵を返した。
「準備が出来次第呼びに来る。君に異存がないのなら、僕が口を挟む権利はない」
軍服を着た小さな背中が遠ざかり、やがて扉の向こうに消えた。
ぱたり。
扉が閉まる音が静まり返った室内にやけに大きく響き渡った。
「お勤めご苦労様です」
執務室を出たところで、ミカエルはそんな声に出迎えられた。
まだ夜明けには程遠い時間だ。そこにいる人物に、素で驚いてしまう。
「早起きだね。不規則な生活はお肌に悪いよ。その綺麗な肌が荒れるのは嫌だから、気をつけてね」
「出られるのですか?」
戯言など全く無視で、突き入れてくる。真っ直ぐな槍のように。
この部下の、そういう少し生真面目なところが、ミカエルは逆に気に入っていた。
糸のような銀の髪を綺麗に纏め上げた自軍の大佐が、そこにいた。
「マハノンが見つかったという報告を受けました。猊下及び大将閣下が動かれるのではと思い、既に収集はかけてあります」
「いつも仕事が早くて助かる。手間が省けたよ。それから、火薬を少し積み込んでくれないか」
「……火薬、ですか? いかほど」
「"一つの街が吹き飛ばせるほど"」
全然少しじゃないじゃない。
にっこり笑って火薬の量を指示する大将に、ジャンヌは整った眉をひそめた。
「我々が気に病むことは何もない。全ては猊下の御心のままに」
ふっと顔から笑みを消し去り、姿に似合わぬ大人びた口調でミカエルが言った。言い聞かせるように。
くるりと向きを変え、先に立ち、ミカエルは歩き始めた。
「出陣だ。行くぞ」
*
見たくない。
思い出したくない。
何も。
見上げる天井の黒ずんだ"しみ"から、ドロドロと何かが零れ落ちてくるような気がした。
まるで傷口から溢れ出す、血液のようだと思った。
血は渇くごと、どんどん黒ずんでゆく。それは心が抱える闇故なのか。それとも元々、こんなふうにドロドロと汚れているのだろうか。
放っておくと瞬きすら忘れていて、眼球がちりちりと痛みを訴えだし、初めてゆっくりと目蓋を下ろした。
染み出してきた涙が乾いた目の表面に沁みて、痛い。
夢と現、その間を何度も行き来しているような気がする。
境界線が酷くおぼろげで、脳の辺りがドロドロと溶けているような気がする。
理解能力が極端に落ちて、簡単な文字の羅列すら、きっと読めない。記号を文字として、認識できないだろう。
もう自分自身、ここにいるのかどうか、存在しているのかどうかすら。
分からずに。
存在というものの、なんと曖昧なものだろう。
錯覚というのは器用なもので、そこに"ない"ものすら"ある"ものとして知覚させるのだから。
もしかしたら初めから自分なんて、存在しないのかもしれない。
……だなんて。面倒くさい。
もう考えたくない。痛いのは、苦しいのは嫌だ。
何でこんなふうに息が詰まるような思いをしなければならない?
理不尽だ。不条理だ。
―――力を抜いて。そう、いい子ね。
目蓋の裏の闇に鮮やかな赤い口唇。
小さな声で囁いているはずなのに、脳の奥深くまで捻じ込んでくるようだ。
―――ゆっくり、私の目を見て。
やわらかい声なのに、逆らえない。吸い込まれ、落ちてゆくような。
誰、だったっけ。
どこ、だったっけ。
―――心を押さえつけておくのは苦しいでしょう。自由になっていいのよ。誰にもその権利はあるのだから。枷を外してしまいなさい。
黒い、軍服の女だった。綺麗な栗色の髪の、ゾッとするような美貌の……。
鮮やかな赤い口唇と、黒く塗りつぶされた長い爪。大きな瞳。長い睫毛。
パーツパーツだけが浮かんでくる。それを一つにまとめようとすると、どうしてもうまくいかない。
―――思ったこと、感じたこと。心にとどめておかなくてもいい。吐き出してしまいなさい。
らくになるから。
おかしいのは"そこ"からだ。気付いたのに、もうどうする気にもなれなかった。
指先の一本すら、動かすのが億劫で、たまらない。
このままがいい。どろどろと溶けてゆくような感覚。体が液化。滴り落ち、地面に沁み。
台地に還るなら。
もう何も、考えなくて済むのかもしれない。
楽に、なれるのかもしれない。
もうどうでもいい。
何も考えたくない。
見たくない。
"思い出したくない"。
何も。
―――やめて。誰か、助けて、助けてください。
神様。
*
「お疲れ様です」
「そっちもね」
車を降りた途端、形どおりの挨拶に迎えられた。
軍服とそろいの外套を肩から羽織って、肩から背にかけてをヴェールのように包む髪を少し邪魔そうにかき上げて、微笑んでやった。
「すぐお会いになりますか?」
「いえ、少し休むわ。相手が魔法使いじゃあるまいし、煙のように姿を消したりしないでしょう」
赤く塗りつぶした爪の生えた手で、犬のように纏わりついてくる男をあしらった。
「大佐殿は大変お綺麗でいらっしゃる」
そのまま軍の施設に足を踏み入れようとしたところで、耳元をかすめた声に、ぴたり。
足を止めた。
肩越しに少し振り返る。
「格好だけはね。飾れるものは飾るわよ」
辺境配備の正規軍一般兵は、初めて会った西軍大佐の、その言葉に黙り込んでしまった。
何と言えばいいのかわからない。困ったようなその顔に、マリアは諭すように笑ってみせた。
「私についての嫌な噂でも、聞いた? 残念だけど、その噂、ほぼ事実だと思うわ」
自分の耳にも色々な噂は入ってくる。
大司教の情婦。色目で誘って褥で息の根を止める悪女。
あまり事実と異なっていないから、自分で苦笑してしまう。
「だけど不思議ね」
マリアは、自分の目の前に赤いマニキュアで染めた手をかざした。
「洗い流せば、この血だらけの手も、綺麗に見えるのだから」
ナイフだったり、ピストルだったり。
はさみすら握れなそうといわれるこの白い手が持つ武器は様々で。
朝でも昼でも、夜の他人の褥であろうと。構わずに。
他人の赤でこの掌を染め上げる。
「私はいいのよ、幾ら汚れたって」
かつり。ヒールの音を響かせて、マリアは軍施設の中に足を踏み入れた。
呆気に取られた一人の兵を残して。
遠くでどろどろと、雷鳴。
―――マリア。
耳元をくすぐるような甘い声が蘇ってきて、マリアは思わず苦笑した。
(ねぇラジエル、それは誰?)
知ってるんだから。
同じ名前の、似たような顔の、"誰か"をこの肩越し。どこか遠くに見てるってこと。
女の勘は、鋭いんだから。
一度だけ、見たことがある。
聖ガイア教会の大聖堂の中で、ひとり。巨大なステンドグラスを見上げてその名前を呼んだでしょう。
そのときに悟ってしまった。あたしじゃない。
だけど、それでもいいよ。貴方が抱き続けている痛み。少しでも中和できるなら。
このこころの痛みなんて、構わない。
この手を幾ら汚したって、構うもんか。
薄暗い廊下を真っ直ぐ歩くと、前方で、左手にある扉が開いた。
気がついて、少し足を止める。
すると、見覚えのある金髪が覗いた。
向こうもこちらに気がついたらしく、目が合う。
「……お疲れ様です」
向こうが言った。
「そっちもね」
また同じように返す。
年齢は自分のほうが下なのに、階級がひとつ上だとこんなものだ。
尤も、正規軍の西と東は、あまり仲が良くないのだが。
「大佐はお仕事で?」
「半々、かしら。貴方もう、エルから聞いて知っているんでしょう?」
「金髪のほうですか」
立ち止まったままの相手に、こちらのほうから歩み寄る。静まり返った廊下にヒールの音がやけに響いた。
「やりかたがキタナイって、罵ってもいいのよ。貴方の上官は、少し気に食わないみたいだし」
すぐ傍まで来て頭ひとつ以上違う男を見上げる。
―――君がやったんだ?
直接は責めなかったものの、ミカエル・シャイアティーンという男は、気に食わないようだった。
「俺にその権利、ないですから」
「だけど納得してない顔してる。構わないわ。なんと思われても」
一枚壁を隔てたような、他人行儀なその返事に、マリアは薄く笑った。
この男はいつも、冷静な向こう岸で他人事のフリをしている。自分には関係がないという。
(私に関わりたくないんだって、知ってる)
そのまま擦れ違い、奥にある控え室へと歩き出した。確か指示されたのは、次の角を右に曲がった突き当たりだったはずだ。
「貴方も」
しばらく歩いた後、後ろから声が追いかけてきた。振り返らずに足だけを止めて、背中で聞く。
「貴方もジャンヌも、何故そんなにあの人に……」
猊下に。
アフライド・ゼインはそこで言葉を切った。けれどマリアには、彼が何を聞こうとしたのか分かった。
何故そんなにも猊下に入れ込むのか。
「"分からないの"?」
「は?」
「……そうね。もしかしたら基本的に、男の人には分からないのかもしれないわね」
そして、体半分だけ振り返り、右の手で拳を作り、心臓の上に当てた。
「痛みがくるのよ。ここに」
かなしみが。
静かで、それでいて苛烈な。慟哭が。
けれど。ズタズタの傷を背負って、なおも威厳を持って立ち続ける男の。背中にある傷口をみることが出来るのはもしかしたら、女だけかもしれない。
抱き締めたいと思うのも。
「あたしとジャンヌは、見ての通り仲良しじゃないけど、あの子の一途なそういうところ、嫌いじゃないわ」
「それは貴方が、猊下の傍にいる優越感じゃないんですか」
初めてアフライドが嫌悪感を表すように顔を歪めた。
ジャンヌより傍にいるから、そんなふうに、憐れむようなことも言ってやれるんじゃないのか。
「東は、本当にみんな仲良しね。羨ましいわ」
アフライドが嫌悪感を露にするのは、自分の上官を軽んじられたと思ったからだろう。
他人のために真剣になれる男は、嫌いじゃない。けど。
「傍にいるゆえの痛みなんて、考えたこともないでしょうね」
この悪女の向こう側、遥か遠くに聖女を求めるその視線の、あまりの清らかさに灼かれ続けることなど。
貴方には想像もつかないことでしょう。
「私は少し休みます。そのあと、あの子たちに会わせてちょうだい」
声もなく立ち尽くしているアフライドに背を向け、マリアは再び歩き出した。
誰にも理解されたいとは思わない。
どこか遠くで鳴っている雷の音を耳に流し込みながら、思った。
あの人にも、理解してもらわなくて構わない。
この生命、この体全てで、貴方を愛せる。
それだけで構わない。
何も要らない。
3.
夜明け前。
東の空が仄かに白いひかりを生み出し始めた。白と紫と、蒼と黒。綺麗なグラデーションが次第に上昇してゆく。
光が闇に勝つ。
しかしその太陽の侵略を拒むかのようにゆっくり。しずかに。
雨が降り始めた。
「いやぁ、夜明けの煙草は美味いネ〜。コーヒーが欲しいとこだけど」
「ナニ贅沢なことゆってるんですか。ほら、さっさと降りてくださいよぉ」
「えーヤダよ〜、雨降ってるよ、濡れちゃうよ」
「たいちょ〜〜〜〜〜〜っ……」
目的地に辿り着いた車の後部座席にふんぞり返って煙草を燻らせているサイジョウと、世話役のモエがまた痴話喧嘩を繰り返していると。
「じゃあこのままここにいて、僕たちの帰りを待っててくださいね。何をするのかも分からない遺跡の中に行って帰ってきますから」
ばさりと羽織っていたジャケットを脱ぎ捨て運転席に投げ捨てるように置くと、いつもの冷静かつマイペースな口調でファンが言った。
しかし、いつも通りのはずのその口調に、ちくちくと刺すようなものを感じて、サイジョウは顔色を変えた。
「えっ? ちょっとファンくん待ってよ、何で怒ってるの?」
「隊長、何のために気合入ってんですか?」
ファンが運転席のドアを閉めたところで、慌ててサイジョウが車から降りた。
次第に強まってゆく雨粒が、容赦無く髪に降り注ぐ。
後部座席の扉を閉めるのも忘れたまま、サイジョウは冷静な部下の言葉を心の中で繰り返す。
何ノタメニ気合入ッテンデスカ?
「……僕、気合入ってる?」
少し真面目な顔で、訊いてみる。
「もちろん。びしっとスーツ着てる辺りがもう。当社比250パーセントぐらい気合入ってますけど。もしかして、もしかしなくても自覚ナシの方向で?」
「うん。その方向にベクトル向いてる。で、ファンくんは何で怒ってるの?」
「折角珍しくそれこそかなり奇跡的に隊長が気合入ってるのにぐずぐずしてるからでしょ」
男ふたりが次第に本降りになる雨の中、カサもささずに向かい合って回りくどい言葉を交わしているサマは、ハタから見るとかなり滑稽だ。
「ずっと探してたのに、なに躊躇ってんですか?」
逆立てたファンの短髪が、雨に打たれて次第に植物のようにしおれてくる。
いつものほほんとしたタレ目が、今日はやけに鋭く尖って見えた。
(ああそうか)
怒りでもなく、焦りでもなく。その瞳に戸惑いが揺らいでいるのを感じて、サイジョウは何故か納得した。
落ち着かないのは自分だけではないのだ。
苛ついてしまうのは決して怒りではなく。
ずっと目標にしてきたマハノンが目の前にあって。
探し続けてきたものがいきなり覚悟もなく目の前に放り出された時の、持て余してしまって落ち着かない気分。
その流し方が、お互い分かっていないだけで。
(僕も、戸惑ってるんだな)
突然、それこそ予想外に、棚からぼた餅のようにマハノンが見つかって、びっくりしちゃってたんだな。心が。
そんな普通のことに、改めて今気付いた。
君たちがいてよかったと思うときは、いつもこういうときだ。
自分では気付かないことを気付かせてくれる。
突然見つかったマハノンを前に、何とかしなきゃと気合だけが先走って、戸惑う心と噛みあわない不安定な感じ。
(上に立つもの失格だな)
こんなふうに、気持ちをふらふらさせてちゃいけない。
「ごめんね」
閉め損ねていた後部座席のドアを閉めて、言った。
「言葉よりも態度がホシイです」
「うわ、ファンくん女の子みたいだね。ちゅーしてあげようか?」
茶化してみると、ファンは、無表情なりに眉間に皺を寄せて不服そうな顔をしてみせた。
「ごめんごめん」
「あんまり"ごめん"を乱発してると言葉が弱くなりますよ。狼少年になっちゃいますよ。誰も信じてくれなくなっちゃいますよ」
モエとリョウコは、ちゃっかりとあんまり大きくない折り畳み傘にふたりで入りながら、このやり取りを呆然と見守っていた。
もっと分かり易い話の仕方なら、いっぱいあるだろうに。
へたくそだ。
でもこれがもしかしたら、"らしい"のかもしれない。
「じゃあ行こうか」
空から落ちてきた水滴を受けて、すっかり濡れてしまった眼鏡を引き抜くと、サイジョウは、目の前にある既に棄てられて何十年も経っているであろう劇場の廃屋を見据えた。
マハノンを抱く土地を。
*
がんっ。
傾いて上手く開かない扉をファンが足で蹴り倒すと、ぼふりと埃が舞い上がった。
長い間うち捨てられていた元劇場に電気などもちろん通っているはずもなく、目の前に広がるのは闇だけだった。
「うーん、困ったなァ」
目の前の闇を見つめ、雨に濡れた黒髪をかきあげながら、サイジョウがぽつりとこぼした。
「僕、埃ダメなんだよね〜。発作が起きたらどうしよう」
がんっ。
ファンが今度は扉の代わりにサイジョウの背中を蹴った。
「うわ」
あまり危機感のない悲鳴を上げて、サイジョウが中に転がり込む。
「さっすが隊長〜。隊長たるもの先陣を切らないと、ですね〜」
頭の上の方でほわほわの髪を一つにまとめたモエが、先程のお返しとばかりに言葉を放った。
「イタイイタイ、背骨が折れる」
などと背中を擦りながら、サイジョウは目を細めて辺りを見回した。
比較的暗闇に強い瞳が次第に慣れてきて、自分たちが入り込んだところが広いエントランスホールなのだということが分かった。
足元にはたくさんのガラスや壁の一部、コンクリートなどがバラバラと零れ落ち、気をつけないと足を取られる。
埃がダメだとか言っている割にサイジョウは、目の前にある大きなコンクリートの塊を足で除けて、真っ直ぐに奥へと歩き出した。
劇場へ入るための一枚の大きな扉が見つかったからだった。
普通の扉よりも分厚く、柔らかい素材で出来ているそれは、内側からの音を漏らさないための特別な扉だ。
一体どれほどの音を吸収してきたのだろうか。今は役目もなくそこに存在するだけ。
内ポケットから辛うじて濡れなかった煙草を引きずり出すと、銜えて火を点けた。
一瞬にして真面目モードに切り替わってしまった隊長の背中と、仲間内の顔を見回して、3人は慌てて背中を追う。
「リョウコちゃん、気をつけてね。足元」
前を歩くモエが、リョウコに向けて手を差し伸べた。
自分も入っていっていいのか、それともここで待っていればいいのか。迷っていたリョウコは、にっこりと微笑むモエの手に自分の手を重ねた。
サイジョウは、目の前にある扉の取っ手に手をかけたまましばらく黙っていたが、やがて扉を押し開いた。
たくさんの座席が並ぶ劇場の、中ほど。劇場の座席としては、視覚的にも聴覚的にもベストな辺りだ。
上を見上げると二階席はおろか三階席まである。天井は遥か遠く。よくは見えないが、その天井にはなにやら宗教画が描かれているようだった。
天使の羽根が見える。
煙草を銜えたままズボンのポケットに手を突っ込み、しばらくその絵を見上げていたサイジョウは、一番傍にある通路から舞台に向けて階段を降りはじめた。
(オーケストラが)
聞こえるような気がするのはきっと錯覚なのだろう。
それとも残留思念なのかもしれない。長い間聞き続けた音を、この劇場自体がもう、覚えているのかもしれなかった。
壊されることもなく見捨てられた場所が今も尚、自らの終わりを認められずに奏でているのかもしれなかった。
観客のいない宴を。
一段一段。一番低いところにある舞台に向かい、足元の階段を降りる。何故かこのホールだけは、防音のための強固なつくりのせいなのか、あまり崩れてはいなかった。
それが逆に、いきなり全ての人が消えていなくなったみたいで、本能的な畏れを掻き立てるのだ。
靴の底が固い床を打って、響く音がうるさい。
端にある階段から舞台の上にあがる。舞台の真ん中には、吊り上げてあったろう照明器具が、酷い地震があったあとのように無残に転がっていた。
「ここらへんかな……」
こつこつと靴の底で照明器具が転がっている辺りの床を何度か叩いて、サイジョウは、後ろについて上がってきた3人を振り返る。
「モエ。ここ」
自分の足元を指差して、短く告げた。
しっかりと頷いたモエは、繋いでいたリョウコの手を離し、そこまで歩いてゆく。
サイジョウが指し示したところ辺りにしゃがみこむと、傍に立つ隊長を見上げた。
「"どのぐらいで"?」
「うーん、30パーぐらいでよろしく」
「了解」
もう一度頷いて、モエは、両の拳を握り締めた。
一体何をするのか分からないリョウコは、傍に立っているファンを見上げるが、彼は全く動じない様子でモエとサイジョウの方を見ている。
「たァッ!!」
掛け声一発。モエは、その拳を舞台の床へと叩きつけた。
うわ、と思わずリョウコがうめいてしまうのと、足元が揺れたのは、同時だった。
バリバリ、とまるで雷のような音が響き渡って、舞台の床が、抜けた。
「きゃーーーっ!!」
いきなり足元の床が抜けるような気分、ってよく使われる形容だけど。
こんな気分なんだ、とやけに冷静になっている自分と悲鳴を上げているカラダ。上手くかみ合ってなくて、なんだか変だった。
どうしよう、などと思っている暇もなく、リョウコはなにやら硬い地面にどさりと不恰好に落ちた。
どぉん、となにやら大きな音が聞こえたのは、先程舞台の上に乗っていた照明器具も一緒に落ちたからだろうか?
「もぉ〜〜〜っ!!」
辺りの闇はさらに濃く、慣れたと思っていた目も、全く役に立たなかった。
少し離れたところで、怒り心頭のモエの声が聞こえた。
「隊長が30パーって言ったからそうしたのに〜っ! 床抜けちゃったじゃないですか〜っ!!」
「ゴメンネ? 僕の計算違いだ」
「いっつも何事も目分量で済ますから駄目なんですってば〜っ!!」
「ゴメンネ?」
夫婦漫才のようなそのやり取りを耳に流し込みながら、足元を探っていたリョウコの肩に突然ぽんと手が置かれた。
ひぃっ、と悲鳴にならない声を上げて、大げさに震えてしまう。
「大丈夫?」
が、すぐに聞き慣れた声が隣でして、ほっと胸を撫で下ろした。
「ファンさん」
「立てる? 立てないならおぶるけど」
「えっ!? いいです、立てます、歩けます!!」
「ならよかった。―――ほらそこの人たちも。早く行こうよ」
リョウコに手を差し伸べて引き上げてやりながら、ファンが闇の向こう、その他の二人の方へと声を投げた。
「ファンくん、センサー」
「了解」
ファンは、首にぶら下げていたゴーグルを引きずり上げて目に当てた。
あれ、ファッションじゃなかったんだ。傍に立っていたリョウコがちょっと見当違いの感想を心の中で呟いた。
そんなことを思われているとは露知らず、ファンは、背負っていたリュックから端末を引きずり出し、なにやらカチカチと操作し始めた。
端末についたディスプレイに液晶がともり、闇しかないその空間に、目を突き刺すような鋭い光が溢れ出した。
傍に立っていたリョウコは、あまり色素が濃いとは言えないその赤い瞳に直撃を受けて、思わず両手で目を覆ってしまった。
イタイ。
「あ、ごめんね」
目ざとくそれに気付いたファンが謝罪して、しかし手は止めない。
「えーと、この更に下ですね。今度は爆薬使ったほうがいいですよ。この地面、硬そうだから………………―――あれ?」
「なにやら問題発生かね、ファンくん」
液晶を覗き込むファンの視線が、あるところでぴたりと止まった。
ジッとそこを凝視しているファンに、かなり偉そうな態度でサイジョウが訊く。
しかしすぐには返事が返ってこない。流石のサイジョウも、その反応には眉をしかめずにはいられなかった。
「え、あのですね。この間情報更新したじゃないですか。そのとき、色々新しいデータ、組み込んだじゃないですか。早速反応が出てるんですよね。うわ、何でここにいるんだろう?」
「何が引っかかったの?」
「ここにいるみたいですよ、ハルトさんたち」
「えっ、なんで!?」
これはサイジョウも予想外だったらしく、珍しく取り乱した声を上げた。
「だって、反応出てるんですもん。うわ、偶然って怖いな」
レイに渡した荷物に通信機。その他、遺伝子通信の利用でハルトの位置は分かるようになっている。
いずれ使うことになるだろうと、身の回りの周辺機器に、その位置をキャッチする情報を入れておいたのだが。
まさかこんなに早く反応するとは。
(偶然、ね。果たしてそうか……)
運命。
そんな言葉がちらりと脳裏を掠めた。
「ファンくん、通信機持ってきてる?」
「え、あ、まぁ。上の奴らと連絡取らないといけないんで」
「貸して」
*
さぁさぁとノイズのように響くのは雨の音だろうか?
もう眠るつもりはなかったものの、体に残っていた麻酔のだるさで、どうやら転寝してしまっていたらしい。
うっすらと目を開くと、壁の遥か上のほうにひとつだけある、鉄格子のはまった小さな窓を見た。
わずかな光が漏れてきている。夜明けだろうか?
そのガラスにぱちぱちと打ち付けるのは、やはり雨らしい。
さてこれからどうしたもんか。
がちがちになった体をほぐすように首を回したりしながら、考えてみる。
ここでゆっくりと死刑執行人が現れるまで待つ気はない。かといってどうするべきか。レイとは引き離されているし。
ベッドの横に腰掛けたまま腕組みなどしてしまって。いつになく深刻に考えてみるものの、分からない。
それに、目がやけに乾いて不快だ。ぴりぴり痛い。
(あー、泣くんじゃなかった……)
たとえそれが不可抗力だったとしても。
情けない。
―――し、…………し。
ざりざり。突然脳内に刺さるようにノイズががーがー言い出した。
またかよ、今度はなんだよと思いながら、嘆息。
いつもの"神の声通信"って奴だろう。
教会が特定の遺伝子に聞こえるように流しているオト。
―――あ……、ボリューム……こ……?
「は?」
上手く聞こえないが、なんだかいつもの通信とは違うような、気がする。
ボリューム? 何の話?
思わず相手もいないのに柄悪く聞き返してしまっていると。
突然。
《もっしも〜し。今度は聞こえる〜?》
がんっと。頭の内側でダイナマイトが爆発したみたいな衝撃がキた。
内側から叩き割られそうなボリュームで。全く危機感のない、あの声が。
「ってぇ〜〜っ!! テメェなぁっ! いつもいつも極端なんだって! ボリュームでかい、下げろ!!」
って、この声は聞こえるんだろうか。などと思っていると。
《うん、感度良好。あ、ごめんごめん。君のピアスにね、通信機つけさせてもらったから》
いつの間に。
思わず自分の右耳に手を当ててしまう。
「このタヌキ〜〜〜っ!!」
《どぉも。ところでさ、何でここにいるの?》
「"ここ"? っつーか、ここどこよ?」
《え? どういうこと?》
「捕まった」
《あーなるほどー。だからここにいるのか。納得。無様だねー》
「うるせぇんだよ。だからここはどこなんだっつーの」
《多分ね、軍の施設だね。"ゴルゴダ"の》
「………………」
相変わらずボリュームは最大で、内側からガンガンと響く声。だけどそれ以上に。
告げられた地名の、なんと鮮烈な痛み。
「……ゴルゴダ?」
しばらく黙り込んだあと、妙にひっくり返った声で訊き返していた。
あの日もう二度と、この土地の土を踏むことはないだろうと思った、街。
《あれ、知ってる場所?》
「まーな。……あんたは何してんの?」
《君も発掘者の端くれなら知ってるだろう。伝説の遺跡マハノンの反応が出た。その調査にきてるんだ》
「マハノン!?」
どこにあるのか、なにがあるのか。
一切分かっていない伝説の、幻の遺跡。考古学を志すものが求めて止まない、伝説の地。
ここに?
《で、調べ終わったあとにでも助けに行ってあげるーって、言いたいところなんだけど。多分軍の中枢が動くから無理なんだよね。何とかそこから出て、街のずーーーーっと外れのほうにある、壊れた劇場跡付近までいらっしゃい。そしたら拾ってあげるから》
「劇場跡? ああ、アレか。って、何でそんなにやさしーの?」
《僕はいつも人への愛で溢れているんだよ》
気分を害されたような口調だった。
失礼な、と頬を膨らましているサマが容易に想像できる声。
《じゃあ健闘を祈っちゃったりするね》
「あ、オイ!」
ぶつり。
一方的に通話は途切れてしまった。
さーさーと、ノイズのように残っているのは雨音だけだった。
なんだよ、一方的に。本当に台風だな。
立ち上がって準備運動のように肩を回したりしながら、大きく深呼吸をした。
本調子ではないものの、大丈夫、いけるだろう。
とりあえずはレイを見つけないと……。
「でもな、まさかな」
上に大きく伸びをしたあと、深々と溜息をついた。
ここが。
ゴルゴダだったなんて。
神様は意地悪だ。
*
「っと、通信終了〜」
頭からインカムを引き摺り下ろして、サイジョウが陽気な声を上げた。
「ってゆうかここ、本当に古代の遺跡なんですか?」
先程の場所の地面を爆破後、さらに地下に降りた一行は、古代遺跡マハノンに辿り着いていた。
古代遺跡というからには石造りの神殿などを思い浮かべるのが普通だが、マハノンはものの見事にその期待を裏切ってくれた。
まず出迎えてくれたのが鋼鉄の、横滑りの扉。
しかも、ロックされているのかびくともしないので結局、レーザーで灼ききる羽目になってしまった。のだが。
灼ききった途端。なにやらびーびー、いかにも精神衛生上によろしくないブザーが鳴りはじめ、周囲の電源が一気に入り、しかも照明が赤。
明らかに警戒態勢に移行してしまったわけだ。
閉まりかけた分厚い扉にようやく滑り込んで、辺りを見渡したファンが嘆いた。
さっきから、上からレーザーは降ってくるわ、床は抜けそうになるわ、散々なのである。
右を見ても左を見ても鋼鉄の壁で、まさかこれが遥か昔のものだとは。
「うん。実はね。昔のほうが科学、進んでたっぽいよ」
呟きながらサイジョウは、しげしげと辺りを見つめている。
「今は宇宙船作るの、禁止されてるけどね。昔はあったみたいだし」
「いいな、宇宙。行きたい」
先頭に立つファンがぼそりと呟いた。
左右にまばらに点在する扉を開けて中を見ると、何かの実験室のように見えた。
しかし、ほんの数日前まで人がいたようなまま放棄されているのが気になる。
「隊長。どっち?」
廊下の突き当りまで来ると、今度はT字路になっていた。
左右に伸びる道、どちらも突き当たりに扉がひとつずつある。
「えー? うーん、どっちだろう……」
「は?」
思わずそこにいる3人が綺麗なユニゾンを奏でてしまう。
しかし、当の隊長といえば、まだ乾かない体で「寒い寒い」などと連発して震えている始末だ。
「……分からないんですか〜?」
おずおずと後ろからモエが訊くと、サイジョウはのほほんの笑顔で「うん」と頷いた。堂々と。
「だって、遥か古代の遺跡の内部なんて、幾ら僕だって知ってる訳ないじゃない?」
いやだなぁ。と、隊長は超笑顔。
それに反比例して、一行の表情は徐々に暗くなってゆく。
「そうだ。リョウコちゃん、どっちだと思う?」
「えっ!?」
急に話を振られて、モエの後ろで彼女としっかり手を繋いでいたリョウコはびくりと震えてしまった。
まさかここで、こういう展開になるとは。
「え、だって、ダメですよ、私の力って……」
「外れだったらまた戻ってくればいいだけの話だし。責任とか、そうゆうの考えなくていいからね」
諭すような笑顔でサイジョウが言う。周りの二人を見渡してみても穏やかに笑っているから。
「じゃあ左」
心臓があるほう。
直感で答えた。
「了解、左ね」
さっさとサイジョウは左に折れて歩き始めた。
(もしかしたら、気を遣ってくれた、のかな……)
モエと手を繋いだまま、なんだかんだ言いながら先陣を切る隊長の背中を追いかけて。
思った。
どうすればいいかわからないし、何すればいいかわからない。私に。
(もっと役に立てればいいのに)
そう思ってしまう。私に。
気にしなくていいよって、言われた気がした。
突き当たりの扉は、エレベーターのようだった。
扉が開いて、貨物運搬に使うような酷く広いエレベーターに乗り込むと、サイジョウは、ボタンの辺りを調べ始める。
「地下4階だけ、行けないね」
カチカチと何度もボタンを押してみるものの、最下層の地下4階だけは反応しない。
どうも、壊れているわけではないようなのだが。
「ファンくん」
「はい」
つーかーで、ファンがサイジョウに端末を手渡した。
端末の端にあるコードを引き伸ばし、エレベーターのボタンの下についているパネルを開き、内部に差し込む。
そのまま床にどかりとあぐらをかいて座り込むと、無言のままかちゃかちゃとやりだした。
ふと手を止めたかと思うと、先程しまった眼鏡を服の内側からもう一度引きずり出して、かけなおし、再びキーに指を滑らせる。
サイジョウの周りに、誰も近寄れないようなオーラを感じて、リョウコは一人、離れたところでその様子を見ていた。
「よし」
かちゃん、と勢い良く最後のキーを叩くと、がくん、とエレベーターが下降をはじめた。
眼鏡を引き抜き、エレベーターの内部に差し込んだコードを抜くと、端末をファンに渡す。
傍の壁にもたれ、しばらく目頭を押さえていたサイジョウだが、
「あーあ。今日の僕の仕事はもうオシマイ。もう疲れた」
すぐに元に戻っていた。
(怖かった)
無意識のうちに、リョウコはそう思った。
人を、自分以外の生き物を全く寄せ付けないオーラだった。
―――あの人本当は、自分ひとりで何でもできるんだよね。
不意にファンの言葉が蘇ってくる。その言葉を、体が分かった瞬間だった。
本当にこの人、その気になればきっとなんだって出来る。
液晶画面を睨んでいる間、凄くつよく、つめたい目をしていた。
(しらないひと、みたいだった)
「さてと」
地面に足がついているのに、それでもどこか浮いているような、微妙に気持ち悪い浮遊感の中。
下降を続けるエレベーターの中は静かで、サイジョウの声がよく響いた。
「会いに行こうか、"神様"に―――」
4.
闇を切って。
この世界を包み込む、眩しい光。雲の切れ間から。
けれど、雨粒は絶えず落ちて。地面を打ちつけて。
不思議な空間がそこにはあった。
小高い丘の上に立ち、小さな町を見下ろした。
夜明けの光に照らし出され、町は微睡みから目覚めようとしている。
町と呼ぶのすら気が引けてしまうような場所だ。
昔は、その磁場の乱れから、何か巨大なものが埋まっているのではと、発掘者たちが多く集った町だったが。
今ではすっかり寂れてしまっている。
この町には以前マハノンの調査で訪れたこともあるが、昔はもう少しマシだったはずだ。
―――休暇取り消しのお知らせをしなくてはなりません。
先程本部から入った連絡を思い出す。
―――即刻ゴルゴダに向かっていただきたい。マハノンの反応が出ました。
「禁断の地、マハノン……か」
果たしてあの方はどのような気持ちでおられることか。
思わず口元に卑しい笑みが浮かんでしまった。
黒い外套を翻し、丘を下る。
ここの傍に、軍施設があったはずだ。
そこで本隊と合流することとしよう。
「神殺しだ」
教会正規軍西軍大将ランドウ・アンティクリストは、雨に嬲られわずかに紫色になったその口唇に、まるで祈りの文句のように言葉を乗せた。
*
空間が、ぐるぐると歪んできもちわるい。
天井が回っているのか、それとも自分が回っているのか、分からない。
腹の上に何か乗っているように息苦しい。
体が内側から火照りだす。咽喉が渇く。
熱があるのだろうか? 目蓋の奥が重くて痛い。
まるで耳に水が入った時のように周囲の音がぼやけていた。わぁんわぁんと大きく響く。
自分の苦しそうな呼吸が遠くに聞こえる。
無意識のうちに何かに縋ろうと伸ばした手が、傍にあった机を引き倒した。
がしゃん。がらがら……。膜を隔てた向こう側で、何かが倒れて落ちて転がる音。
何もかもどうでも良かったのに、少し気になって、重い目蓋を持ち上げ、床に視線を落とした。
サイジョウから押し付けられた荷物が床にバラバラと転がっている。
(神父の……)
だるい体を持ち上げ、上半身だけを何とか起こした。平衡感覚が死んでいて、すぐにもまた倒れこんでしまいそうだ。
散らばった様々なものの中に一冊、分厚い表紙の日記帳が落ちていた。
(日記)
茶色の、革の。長い紐の先に鍵のついた……。
ギクシャクと体を折り曲げて、震える指でそれを拾った。
たすけて。
わけも分からず呟いた。何をどう助けてほしいのかわからないまま。
だけどここは嫌だ。こんな感じは嫌だ。
頭も体も心も、全部どろどろでぐちゃぐちゃで。汚れていて、真っ黒で。
ひかりがない。
どうしてこうしているんだろう。こんなことしているんだろう。
問い続けて、答えも出ない。
"どうして一緒にいるんだろう"。
ここまで、一緒に来たんだろう。義務でもない、のに。
小刻みに震える手は白さを通り越して青かった。
血が上手く通ってないのかな、とぼんやり思う。
その手が鍵を掴んだ。
この世に生み出されたそのときから、凹凸として。一対になるように作られた、鍵。
ひととひとの付き合いも、こうだったらどんなにか楽だろう。
かちりと、少しの違いもなくはまる。ちゃんと伝わる。こんな風に出来ていればいい。ぴったりと。
差し込んで回すと、かちりと小さな音がした。
ばさりと少し日に焼けて茶色くなった紙が広がり、薄暗い中にぼんやりと浮かびあがった。
文字を視線でなぞっても、あまり上手く理解できない。思考能力が低下していて、同じ場所を何度もなぞってしまう。
記号が上手く、言葉に変換されてくれない。
けれど。あたたかかった。
(神父の字だ)
痛みを感じるほど、ささくれ立った心に沁みた。
本当に、他愛もないことがたくさん、丁寧な字で綴られている中に、ぽつりぽつりと、教会に関する記述がみられた。
神の声に関する推論や。
教会中枢部のこと。
ぱらぱらと捲ってゆくうち、やがて日記は白紙になった。
ぽつりと、紙の上に涙が落ちた。
"ここ"で、終わってる。神父の、いのちが。
今更そんなことでなくなんてどうかしてる。そう思うのに、止められなかった。
たがが外れて、壊れた蛇口のように溢れ出す。
白紙の日記を捲って、最後の一日にまで戻した。
一文字一文字、目で辿る。
―――教会の文献に、何度も同じ名前の大司教が登場する。ラジエル・エレアザール。その名は世襲されてゆくものなのだろうか。それとも。
*
がこん、と硬い音がしてエレベーターのドアが開いた。
ランプはB4。地下4階だ。
「寒い」
扉が開いた瞬間、足元に何か冷たいものが寄ってきた。
冷気。ドライアイスだろうか?
白い靄が足元に絡みつく。
半そで姿のファンが、自分の腕をさすった。
「神様の褥に辿り着いたね」
絡み付く冷気を振り払うように颯爽と、サイジョウが足を踏み出した。
そこは広すぎる空間だった。先程の劇場よりも広い。
あたり一面が鋼鉄で作られていて、天井も例外ではない。
かといって何が置かれているわけでもなく、部屋の中央部になにやら大きなカプセルがひとつと、それをコントロールするらしいパネルが置かれているだけだ。
それすら、エレベーターの位置からでは小さくて確認できないほど遠い。
巨大冷蔵庫。そう言い表してもいいぐらい、寒かった。
床を雲のように漂う冷気がすぐに靴や服について水になり、足元を濡らした。
ファンたちは、エレベーターを降りたものの、しばらく動けずにいた。
お互いに顔を見合わせ、わけも分からず頷きあうと、ゆっくりと隊長のあとを追った。
「"天上への扉は開かれる"」
一歩一歩、今にも走り出したい気持ちを押さえながらゆっくり近づく。
「"大いなる父よ、愚かな子らを憐れみ給え。深き慈愛で包み給え"」
心を落ち着けるように、まるで祈りの文句のように呟いた。
預言者アンデレが見た、マハノンとは一体。ここと同じ場所が見えていただろうか?
「"救いと願いは叶えられるだろう"」
カプセルのすぐ傍まで来て、サイジョウは、傍にあるパネルを操作した。
キーを叩く指先がわずかに震えているのに、そのとき初めて気付く。
(緊張か、興奮か、それとも別の……)
畏れだろうか。
「"清く美しき御使いの降り立つ、神の眠る地"」
漂う冷気が髪や肌に張り付き、しっとりと濡らした。
つうっとまるで涙のように頬を伝い落ち、キーの上を滑る手の甲へ落ちた。
「"マハノンへ集え"―――」
ぷしゅう、と気が抜けるような音がして、カプセルの蓋がゆっくりと開いた。
「やっと会えたね、神様」
覗きこんだカプセルの中には、白磁の肌に金の巻き毛の、彫刻のように美しい男が一人、横たわっていた。
*
8月29日―――
教会の文献の中に、何度も登場する大司教の名前がある。
ラジエル・エレアザール。
その名前は、大司教が世襲してゆくものなのだろうか。
しかし、色々な文献に記されているその人物は、皆金の巻き毛に青い瞳の美貌の男だという。
大司教になるために、容姿が基準になるとは思えない。
それでは一体。
この男は何者なのだろうか。
その名前を世襲してゆくものではないのだとしたら。
この男はそれだけの長いときを。
生き続けているというのだろうか―――。
―――ファスト・ヴォルディモートの日記より抜粋
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