殉 情
【後 編】
何故こんなにも苦しいことがこの身に起こるのかと、ずっと思ってきた。
けれどあの時生かされ続けなければ、こんな安らかな気持ちになることもなかったのだろう。
今すぐ地獄に落とされ、その煉獄の炎で灼かれたいと思ったこともあったが。
死ねない苦痛は氷の刃のようにこの身を切り刻んだ。これが報いだと思う。
今日はレイがやってきて、神学を学びやがては神父になりたいと言った。
レイは優しい子だ。その優しさが時には、弱点になってしまうかもしれないが。
あの子の光は人を救うだろう。俺よりもずっと。
俺はあの子たちに名前を与えたことをずっと悔いてきた。
しかし、最近になって、間違いではなかったのだと、そう思えるようになった。
あの子たち小さな体を抱き締めるたびに、体中に広がるしみるような優しい痛み。
温かくて、つい涙ぐみそうになる。
俺がずっと、自らの生命を絶つこともなく、こうして生き長らえてきたことには。
特に理由もない。
理由もないし、義務でもないのにこうして、片田舎の神父などを続けてきたのは。
信じていたからだ。
自分がこの世界に、生まれてきてよかったのだということを。
ニナやカレスの分の生命を背負って、生きる定めなのだということを。
そしてそれはもしかしたら、あの子たちに出会うためだったのかもしれない。
ハルト、レイ。
君たちをあの晩見つけたことが、間違いではないのだと。運命だったのだと。
馬鹿みたいに子供みたいに今でも。
信じているよ。
―――ファスト・ヴォルディモートの日記より抜粋
1.
体、熱い。
(―――どうしてこんな目に遭わなきゃいけないんだろう。ガイアズメールを探そうと言い出したのは僕じゃないのに。もう裏切りとか、そういう痛いの、嫌なのに。やさしいところにいたいのに)
そこまで一気に心の中で吐き出して、緩く頭を振った。どろどろを追い払うように。
ちがう。こんなこと本当は、考えているわけじゃない。
(やさしくされたいのに)
誰にも傷つけられたくないのに。
やさしくしたい。やさしくされたい。
ただそれだけなのにどうして、うまくいかないんだろう。
信じても、裏切られるんだろう。
もう苦しい。信じ続けるの、体力使う。心、磨り減る。
(難しいです、神父)
日記をベッドの上に伏せて置いた。壊れた蛇口のように溢れて止まらない涙が通ったあとが冷たい。
体の内側から熱が全て、外に向かって溢れ出して行っているみたいで。
頬とか手とかが、どうしようもなく熱い。
(信じ続けるの、こわいです)
こっちに過失がなくても、ぶつりと途切れる絆。振り払われる手もある。
どうせ、完全に、鍵のようにぴったりとはまらないなら。わかりあえないなら。
初めから、手を繋いだり、もたれかかったり、しなきゃいいのになんで。
寒いから、とか。そういう理由で。
誰かを想ったり、想われたり。
なんで。
強まったり、弱くなったり、まるで打ち寄せる波のように繰り返す雨音が、さっきからぐるぐると耳元で回っている。
体、熱い。
冷やしたい。
力の入らない足で立ち上がった。地面が揺れている錯覚。
思わず傍にある壁に手をついて、ずりずりと扉の方へ近づいた。
(鍵、かかってるんじゃないの?)
そんなことをぼんやり思っている。
足が折れたみたいに、ずるずる引きずって。
アザラシとか、足のないイキモノが、必死に地面を這うのに似た速度で。
役立たずの足。折角二本、あるのに。
ドアノブに手をかけて緩く回すと。
かちり。
開いた。
別に意外だとも思わなかった。思考回路がうまく、繋がっていない感じ。
扉をゆっくりと押し開くと、まずは光。
朝の眩しい日差しが、扉と向かい合わせになっている窓から降り注ぎ、暗い場所に慣れた瞳を容赦無く射抜いた。
瞳孔が収縮する痛み。ぎゅっと。
何とかその痛みをやり過ごし、緩慢な動作で左右を見回すと、右側にすぐ非常口が見えた。
あそこから、外にでられるだろうか?
ここは一体どこだろう、ハルトは一体どこだろう。人気がないのは何でだろう。
考えてみて、すぐに止めた。わからないことをずっと考えていてもしょうがない。気が重くなるだけだ。
よたよたと、まるで歩き始めて間もない赤子のように前に進んだ。
縋るように非常口のドアを掴んで、回す。
開いた。
扉のすぐ下にあるコンクリートから、数歩歩くと、靴の裏に濡れた地面。
斜めに降り注ぐ雨が、髪も頬も服も、関係なしに嬲って。
つめたくて。
心地よかった。
「どこに行くの?」
不意に後ろから声がして、弾かれたように振り返った。
非常口のすぐ傍の壁、辛うじて雨に濡れない場所にもたれかかって、軍服姿の女が一人、そこにいた。
血を塗ったように赤い口唇。
―――楽ニナリナサイ。
「僕に……」
筋肉は、少し使っていないとすぐに衰える。久しぶりに震わせた声帯が、軋むようで声が掠れた。
「なにをしたんだ」
育った村、キトの傍。シャトーの街の路地裏で、出会ったときに。
この目の上に手を当てて。
「別に、何も?」
視線を足元に落としたまま、女は口元に困ったような笑みを浮かべた。
「嘘だ!」
吼える。そういう表現が一番似合う声の使い方をした。ぎしぎし、声帯が軋んだ。
こんな声、出したこともない。
嘘だ。自分を取り巻く全てのものに叫びたかった。こんなの嘘だ。
「あんたに会ってから、全部おかしい、こんな……」
どくどくと鼓動が早まる左胸。押さえつけるように拳を当てた。
"ここ"に。渦巻く嵐。
見たくない、そんなものばかり流れ込んで、押し流されて、飲み込まれる。
考えたくもないことばかり、溢れ出して、溺れる。
「貴方の心を捻じ曲げて、悪意でも植え付けたって、言いたいの? あたしが?」
足元から視線を持ち上げ、蔑むような笑みを口元に浮かべたまま、マリアは真っ直ぐにレイを見つめた。
射竦められて、レイは黙った。
「言ったでしょ、素直になりなさいって。心の枷を外しただけよ。貴方が言ったこと、思ったこと。全部、貴方がいつも押し殺してる本音なのよ」
「嘘だ! 僕はこんなこと、思ってない……」
「貴方自分だけ、綺麗だとでも思ってるの」
打ち付ける雨が、髪から滴って頬を濡らし、顎から落ちる。
色々なものが混ざり合った水が、馬鹿みたいに見開いたままの目に入って、視界がぼやけた。
痛いのは、瞳だろうか。寒いのは。冷たいのは。
体だろうか。それとも、この拳を押し当てたままの、肉の内側だろうか。
(やさしくされたいのに)
傷つけられたくないのに。痛い。
「自分だけ、聖人君子のように、立派で優しくて、ひとを憎んだりしないって、本当にそう思ってるの?」
無慈悲に無差別に、降り注ぐ雨のように。ざくざくと刺さってくる言葉に少しの容赦もなく。
「ありえないでしょ、ひとなんだから」
痛くて、血塗れになる。
ききたくない。
「違う……」
違う。喚きたかった。何もかも違う。何が違うのか、わからないぐらい。
こんなんじゃなかった。こんなはずじゃなかった。
ゆるゆると首を左右に振ると、髪についた水滴がばたばたと落ちた。
「可哀相にね」
同情して、突き放す。自分の近くから。下へ突き落とす。
他人の顔をする。そんな冷たい声。
膝の力が急に抜けた。びちゃりと、膝が濡れた土にぶつかる。
「大佐。こちらにいらっしゃったのですか。猊下がいらっしゃるという連絡が」
「え?」
地面を見つめているレイには、マリアの瞳に新しい玩具を見つけた子供のような、きれいな光が走ったのが見えるはずもなかった。
「今行くわ。迎えに出ます」
「え。でも……」
通達に来た一般兵が、マリアの傍に座り込むレイをに視線を向けてから、また上官に戻した。
彼は……?
「このままでいいわ」
突き放す。
大地に膝をついたまま。
地面に向いているはずの瞳が、焦点を結ばない。
細い金の髪を伝って、ぱたりぱたりと落ちる雫。それとは別のところから、雫が下に落ちた。
瞬きを忘れた、乾きそうな瞳から。涙。
叩きつけるような雨は、まだ降り続いている。責めるように。
無慈悲に。
*
「生きてるんですか? この……ひと?」
サイジョウの上からカプセルの中を覗きこんだファンの声が、微妙に震えているのは寒さゆえか。
"ひと"というところに疑問形をつけたのは、彫刻のように整ったその姿のせいだろう。
「ううん。死体。多分。―――ファンくん、そこのパネルからデータ、取ってくれる? 取れるだけ」
片方の手をポケットに突っ込んだまま、サイジョウは、右手の甲でカプセルの中の男の頬をひたひたと叩いた。
「つめたいし」
「……あの、冷凍保存だったりしたら、生きてても冷たいんじゃないですか?」
パネルに端末を接続させながら、半ば呆れた声でファンが指摘した。
「あーそっか。そうだねー。ファンくん頭いいねー」
口調はふざけていても、目線は鋭かった。頭から足のほうまで、ゆっくりと視線を滑らせる。
金の髪。白磁の肌。
「神の眠る地、……か。確かにね」
見られている側にしては酷く不躾な、観察するような目線を滑らせたあと、サイジョウは一人、納得したように呟いた。
モエとファンは、一体何のことやらと顔を見合わせている。
「"分かる"?」
男の死体(仮)から顔を上げ、サイジョウは振り向いた。視線の先に、リョウコがいた。
これがどういうことか、君には分かる?
先程からリョウコは、わけのわからない悪寒に襲われていた。
寒さだけではない。何か、本能的な畏れのようなもの。じりじりと足元から這い上がって、飲み込もうとする、闇。
「このひと……"あの"?」
この間話してくれた、あの?
質問に質問で返すと、サイジョウは頷いてみせた。
「そうだよ。この世界の真ん中辺りにある、からくりの一部だよ」
―――ある種の、神様だよね。
サイジョウの話を思い出す。
あ、と思った。そして直ぐ様、怖い、と思った。凄く怖い。
世界がこんなふうに出来てるんだって、分かった気がした。
「あの、そこで、その距離で、分かり合ってるのはいいんだけど。俺とモエと、置き去りなんだけど」
「ごめんごめん。君たちにもしっかり話すよ。ここじゃダメだけど。ちゃんと、落ち着いて話したいから」
こんなところで立ち話、できるような話題じゃないんだ。
置いてきぼり食らったふたりが不服そうな顔をしているのに、サイジョウはそう返した。
「とりあえず"これ"は、この星に今生きている人間が、見つけちゃいけないもの、なんだよ」
「じゃあなんで残ってるんですか」
カプセルのへりに張り付くようにして、モエが中を覗きこんだ。
睫毛長い〜。などと観察した感想を漏らす。
「いい質問だね、モエちゃん。本人がこの場所を忘れていたからだよ。いや、思い出せなかった、と言ったほうがいいのかな」
「……ますますわからないですー」
「いずれ……」
ドォン……。
サイジョウの台詞を引き裂くように、遥か上の方で巨大な音が響いた。
爆発音。わずかに床が揺れる。もしも天井が鋼鉄で出来ていなければ、ぱらぱらと岩が零れ落ちてきたかもしれない。
「おいでになったかな」
灰色の天井を仰ぎ、サイジョウがこぼした。
立て続けに爆音が上がり、激しく床が揺れた。凹凸にツギハギされた天井に、亀裂が入り、小さな板がはがれて落ち始めた。
「マズイなー。崩すつもりだなァ……」
「崩す!? そんな、大変じゃないですか! 潰されちゃいますよ!」
あくまで呑気に天井を仰いでいるサイジョウに、リョウコは慌てた。
「そうだね、逃げなきゃね。ファンくん、データは?」
「65パーセント」
「……しょうがない。それでいいよ。切り上げて」
「隊長。このカプセルの中に花…………? 入ってますけど」
カプセルの中に半分頭を突っ込むような格好をしていたモエが、体を起こしてサイジョウを見た。
「花?」
「見たことないんで、わからないですけど多分花」
「それ、持ち帰って」
遥か上方で立て続けに爆発音が鳴り響いた。鋼鉄の板がはがれ、剥き出しになった岩肌から、ぱらぱらと土が落ちてくる。
ここを完全に、土の下に埋めてしまうつもりだな。
そうしてそのあと、聖地にでも制定して、ひとを入れないって計画か。
「懲りないなー……」
「え?」
仕方ない、という風に笑ったサイジョウを、リョウコが不思議そうな目で見た。
「いや、一緒だと思って」
エレベーターに向けて歩き出しながら、呟いた。
「神の船の"仕舞い方"とね」
2.
がちゃがちゃ。
ドアノブを握って回して見ても、もちろん開くはずもない。
当たり前だ。自分は今、監禁されている立場なのだ。
けれど、ハルトは溜息をついた。
ここで鍵が開いてたら楽なのに。
なんて、酷く怠慢なことを思ってみたりする。
「もぉちょっと、身体検査は慎重にしろっての」
服のあちこちを弄って、目的のものを探り当てたハルトは、溜息をついた。
このズサンさが命取りなんだってば。こっちとしては助かるけど。
取り出した細い針金を鍵穴に差し込む。この辺は得意分野だ。しばらくするとかちり、と音が鳴って、ドアノブが回った。
ぴったりに作られた鍵じゃなくても、トビラは開く。
別方向からのアプローチも、悪くない。
(あんまり質が高いとこじゃねーな)
細ォく扉を開いて、辺りを見渡してみる。
もっと"質"が高いところなら、こんなヌルイ身体検査で済むわけがない。
そう言えば、と思い出す。ゴルゴダの軍施設。
街のすぐ傍に建てられたこの建物は、軍施設とはいえ、かなりお粗末なものだった。
辺境配備。そんな言葉が良く似合う。
あまり危機的な状況に巡り会ったことがないのは明白だった。ある意味のどかだ。
何しろ、そろぉりと顔を出して廊下一本見渡しても、監視がいないのだから。
(超ラッキーかも)
まだ見放されてない。そんな気がする。まだいける。
なるべく音を立てないように廊下に出た。
レイを探さないと。
あまり広くない施設だ。そう離れたところにはいないだろう。と、左右を見渡していると、自分の右側、二つほど離れた扉と、その先にある非常口がわずかに開いているのが見えた。
ゆっくりと足音を消して近づき、扉の隙間から中を覗きこんだ。
誰もいない。
思い切ってドアを開き中にすべりこみ、ドアを閉めた。
かっと激しい稲光。次の瞬間、どぉんとどこかに落ちたような音がした。雷が近い。
室内を見渡しても、別段変わったところはなかった。唯一、引き倒されたようなテーブルと、その近くに転がる色々な荷物。
「ここにいたのか、あいつ……」
思わず駆け寄って、バラバラに散らばったものをひとつひとつ拾い上げた。
確かに自分らの荷物。
「……幾らなんでも武器は没収か」
大体のものは元のままだが、流石に武器類は綺麗さっぱりなかった。
拾い集め、ふと顔を上げると、わずかに乱れたベッドの上に、開いたままの分厚い日記帳が伏せてあった。
―――ファスト神父の、日記だって。
レイが言っていたものだ。開けないのかよ。訊いたら、人の日記見るの? と露骨に嫌な顔をされた。
開いてる。
ひっくり返して、しばらくぱらぱらと目を通した。表情がだんだん深刻になってゆく。
「どこ行ったんだあいつ」
日記を閉じ、荷物をまとめながら一人ごちた。
最近どうもおかしかった。やけに神経質でカリカリしていた。
追われているゆえのプレッシャーだとずっと思っていたのだが、それにしては度が過ぎる。
(そう言えば非常口も開いてたな)
ちょっと出てみるか。思い立って、立ち上がった。
*
元から薄く開いていた扉を軽く押すと、その先は嵐だった。
空は明るいのに、土砂降りで。なんだか世界がちぐはぐだった。
(なんだよ)
軒下に少しだけ、コンクリート。その先は剥き出しの土で。
少し離れたところで足跡が入り乱れ、そのくぼみに水がたまっていた。
軍施設の敷地の内と外。隔てるための安っぽい緑色のフェンスに取り付けられた扉が開け放されていて、足跡がその向こうへ消えていた。
けど。
ハルトの視線はそこより向こうを真っ直ぐに見ていた。
こんなすぐ傍、だったっけ。この施設。
フェンスの向こう側に木々が生い茂る場所があった。ゴルゴダの街のはずれ。
神様の意地悪。
気がついたら、降り注ぐ雨の中、歩き出していた。
レイを探さなきゃ。
ぼんやりと思ったものの、思っただけ。
(ここから少し歩けば……)
いつの間にか駆け出していた。ぬかるんだ土に足を取られるものの、前へ。
開け放たれたままの扉から外へ出て、緑の密集するほうへ。
足が道のりを覚えている。
何度も"おつかい"に行かされた道。
降りしきる雨の中、街外れに立つ、木々に囲まれた一軒の家の前で立ち止まる。
寒くないのに体中がびりびりと震えた。頭の芯が、張り詰めて、瞬きすらうまく出来ない。
急に走ったせいで心臓がどくどくうるさい。吐き出す荒い息が白い霧になって消えた。
(ソフィアの)
家。
雨が強くなり、地面に当たって跳ね返り、視界が白くなった。
服が水を吸ってずっしりと重くなる。押しつぶされそうになる。
白くけむった視界の端で、何か黒いものが揺れたような気がして、ハルトは慌ててそちらに顔を向けた。
「奇遇なことだ。"翼"くん。一人かね」
自分と同じように雨に打たれるままの男がそこにいた。
雨の幕の向こう側でも、それが誰なのかはっきり分かった。
黒い外套を着込んだその男は、まるで死神のように見えた。
「あんたこそこんなところで、何してるんだ。軍のお偉方がお供も連れずに」
「懐かしい場所に来たからね。少し考え事をしていただけさ」
そう呟くと、その男―――ランドウ・アンティクリスト―――は、傍にある一軒の家を見上げた。
相手の視線を追うように、もう一度懐かしい家に視線を戻したハルトは。
「懐かしい?」
訳が分からないというようにこぼした。
この家が? この男といったい何の繋がりが?
「私がまだ、この地位に就く前。この土地でマハノンの調査をしていたことがある」
家を見上げたまま、やけに素直にランドウが語り始めた。
「そのとき賊にガイアズメールのデータを見られてね。その輩を始末したことがあるんだよ」
「……なんだっ、て……?」
「ここで一人、女を始末したな。誰かを庇っていたようだが、その演技があまりにも必死でね。乗せられてやることにした」
「てめぇッ―――!!」
「……いきなり、なんだ」
ぱしり。
殴りかかった右の拳が、いとも簡単に相手の左手に止められた。足元がぬかるむ。
斜めに降り注ぐ雨の直撃を受けて尚、ぎりっと睨みつけてくるハルトの目を見つめ、ランドウはふと、「ああ」と呟いた。
「思い出した。彼女が庇っていたのは"黒い髪に赤い瞳"の男だったね。……君かね」
「庇うって……なんだよ!?」
ソフィアは何も悪くない。何にも関わっちゃいない。なのに、何故殺されなければならなかったんだ。
一緒に暮らしていただけで。
すると、ランドウは初めて驚いたように、少し目を見開いてみせて、そのあとすぐ憐れむような色を瞳に浮かべた。
「そうか。君は知らないのか」
「何がだよ!?」
「彼女はこう言ったんだよ。"あいつは何も知らない。データを調べさせたのは私だ"ってね」
胸にどすりと、何か大きなものがぶち当たった時のように、息が出来なくなった。
ランドウの言葉を理解するまで、普通の何倍も時間がかかった。何?
調べさせたのは私、って。なんだよそれ。
何でそんな嘘、ついたんだよ。
「君は庇われたんだよ。見え見えの芝居だったけどね。あまり彼女が必死だから、騙されてやることにした。思えばあの時、必死に探してでも君を消すべきだったかもしれないな」
「……ソフィアの、嘘に気付いて、気付いてて、殺したってのか」
関係ないと、分かっていてそれでも。"始末"なんて、そんな一言で片付けて。
頭が痛い。息もうまく出来ない。声が千切れる。
酸素の足りない脳が、急にむちゃくちゃ重くなって、がくりと首が下を向いた。
枯れかけた向日葵のように。
「彼女が身を呈して君を守ったんだろう。彼女の気持ちに誠意で応えたに過ぎない」
「誠意だと!? 何もしてない女、殺すのが誠意かよ!?」
ぐっと胸倉を掴んで締め上げた。けれど目の前の男は、息苦しそうな顔ひとつ、しなかった。
「責任転嫁はしないほうがいい。君のせいだろう」
「そんなの……! 俺が一番知ってんだよ!!」
誰のせいか、なんて。誰より自分が一番知ってる。
そんなこと、言ってるんじゃない。
「手を離したまえ」
―――ガウン。
「っァっ―――!!」
至近距離で。
耳が潰れるかと思った。
左目がうまく開かない。閉じた目蓋が生暖かいのは、血だろうか。
右目だけを開いて、目の前の男を見た。
黒光りするピストルが雨の中、細い煙を上げていた。
掠ったのは顔の左側。目のすぐ横。"わざと外した"。
たらたらと零れ落ちる血が雨と混ざり合って顎から下に落ちた。
「こんなの、痛かねぇよ」
片目を閉じたまま、笑ってやった。こんなの、威嚇にならねぇよ。
「あいつはもっと……」
もっと。
思い出すだけで、腹の奥から何か、言葉に出来ないどうしようもないものが湧き上がってくる。目頭に。
白い体にいくつも、こんな武器で穴を開けられて。鉛の弾、飲み込まされて。
致死量以上の、弾丸。弄ぶみたいに。
その痛みと比べたら、こんなの。
痛かない。
「そうか」
口元に笑みすら浮かべて、目の前で男が引き金を引いた。もう一発。
今度は肩を弾丸が射抜いた。ぱッと、血飛沫が散る。
「うァッ……!!」
ヒキツレた悲鳴が口唇から零れ落ち、男の胸倉を掴んでいた手が離れた。
肩を押さえて無様にその場に倒れおちる。
5本の指と指の隙間から、溢れ出す赤いぬめり。
痛みに一瞬気が遠退く。必死にそれを呼び戻して、ランドウを見上げると、額に銃口が当てられた。
見下ろす男の蒼い双眸は、絶対零度。
口元に浮かぶ卑しい笑みは、嘲弄。
何がおかしいんだよ。
「てめぇ、だけは……」
左の腕がだらりとうまく動かない。体の自由を奪われた状態で、額に銃口を押し当てられ。
生命の全てを相手に握られているのに、怖くは無かった。
ふつふつと湧き上がる、痛みを伴う怒りだけが。この男に向けられた感情だった。
どんなきもちで。
あんな嘘をついたの。
治療用のメスぐらいしか、危険なもの持ったことなくて。
もちろん、ピストルなんて向けられたことがないくせに。
毅然と、嘘なんてついたの。
教えてよ。痛み。
その分抱いて、生きてくから。
「てめぇだけは、俺が殺してやる」
手負いの獣。それがぴったりとはまる、獰猛な赤い瞳に、ランドウはわずかに目を細めた。
抵抗など出来ないはずのこの男の瞳。生かすも殺すも自分次第の男の瞳が、今にも噛み付きそうな険しさを湛えている。
こころだけは。服従しない孤高の獣だ。
額から銃口を放し、そのピストルをハルトの方へ放ってみせた。
ぼすりと、水を吸って重くなった服に当たり、地面に落ちた。
「ならば来るがいい。私が目指す場所まで」
「甘い、な。今更……見逃すって、のかよ」
殺してみせろということだろうか。
手を伸ばせば届く位置に転がっているピストルを見たまま、痛みで途切れ途切れになる言葉を繋いだ。
「私は"神殺し"をしたいのだよ。そこまでお前が辿り着けるか、見届けてやる」
「神、殺し…………」
「来るがいい。カルチェ・ラタンへ」
ばさりと外套を翻し、ランドウはハルトに背を向けた。
傷口を押さえた片手を地面に滑らせ、ランドウが放り投げたピストルを拾う。
黒光りするピストルを、血のついた手で握った。
無防備にこちらに背を向けたまま、軍施設の方へ歩いてゆくランドウの背中に、照準を合わせた。
「"光"くんは」
まさにハルトが引き金を引こうとしたそのタイミングで、ランドウが口を開いた。
「丘に向かったよ」
「くそっ……!」
ピストルを持ったまま、何とか立ち上がり、ハルトはランドウとは反対方向に駆け出した。
びちゃびちゃと濡れた地面を走る足音が次第に遠ざかってゆくのを背中で聞きながら、ランドウは濡れた髪を掻きあげた。
「あの目は、名付け親譲りだな」
*
「先客だね」
1階でエレベーターの扉が開いた瞬間、そんな声に出迎えられた。
高い、まだ幼い子供の声だった。
一番前に立っていたファンが、後ろ手にモエとリョウコとを庇った。
こちらに向けていくつも銃口が並べられていたから。
しかし、そんな緊迫感もどこ吹く風、ポケットに両手を突っ込んだままの、あくまでリラックスした体勢で、サイジョウが前に進み出た。
「東軍大将閣下? それに部下の皆さん?」
濡れた黒髪が頬に張り付くのを邪魔そうに掻きやったあと、ぐるりとサイジョウは居並ぶ軍服の人間達を見渡した。
「お噂はかねがね伺ってますよ。うちの父がお世話になっているようで」
父親? と、軍服の人波が動揺に揺れた。
ミカエルの傍に立つジャンヌとアフライドも、同様に眉をひそめる。思い当たる人物がいない。
「こちらこそ。僕は君のお父さんには嫌われてるみたいだけどね」
しかし、ミカエルはにっこりと微笑んで返した。
「君も、色々なものを掘り返しているって聞くよ」
「ああ、大将閣下は発掘がご趣味でしたっけ? どうです? ゆっくりお茶でも」
「そうだね。そうしたかったけど。無理みたいだね」
「何かお急ぎのご用事でも?」
「この遺跡、崩さなきゃいけないんだ」
「それは残念。まぁ、僕もそうそう暇人ではないので、そろそろお暇したいんですが」
「帰さないよ」
まるで殺し文句のようにさらりと言われて、わずかに沈黙が流れる。
「……大将閣下は、大胆でいらっしゃる」
ストレートな口説き文句ですね、などとおどけて見せながら、サイジョウは、強い視線を真っ直ぐミカエルに向けた。
「この遺跡を見つけられてしまったからには、残念だけど」
しかし、射るような視線を向けられても、ミカエルは笑顔を崩さなかった。
「マハノンと抱き合って眠ってよ。―――永遠にね」
アフライドの握ったピストルの銃口が、ぴたりとサイジョウに照準を合わせた。
*
丘とは名ばかりの、切り立った場所に一人、立った。
風が強く、聖服の裾がはためく。
白い肌に容赦無く攻撃を仕掛けてくる雨粒が、痛いとすら感じられるほど、雨は強い。
小高い場所から、遥か下を見下ろした。
わずかに集まる、町とも呼べぬほどの集落と、その向こうに、古びた劇場跡。
あの地下、だっただろうか。
おぼろげな記憶と照合しようとしてみても、うまくぴたりと合わない。
しかし、動かぬ事実としてマハノンがそこに存在する以上。自分の記憶のほうが不確かなのだと認めるしかない。
人の記憶というものは、都合のいいように作り変えられたりしているのだ。
見渡す大地はあまり緑が濃くなく、荒地ばかりが目立つ。
(綺麗なものが見たかったが……)
どうやら無駄足であったらしい。
きっと、どんなに綺麗なものを見たとしても、満たされないのかもしれないな、とふと思った。
この空洞は、埋まらないのだろうと。
ただ唯一救いなのは、穢れたものを全て洗い流そうとする、痛いほどの雨だろうか。
全て何もかも、洗い流してほしい。そう願う。
「猊下。お風邪を召されます」
聞き慣れた声が背中に溶けた。
「マリアか。お前こそ風邪を引くぞ」
背を向けたまま言った。
「あたしは平気」
何がどう平気なのか。どこからその確証が出てくるのか。分からないが、マリアがきっぱりと言う。
「どこ、行ったのかと思った」
足音がすぐ後ろまで来た。マリアはいつもそうだ。隣には並ばない。
「ラジエルさ、高いところ好きだよね。ずっと聞こうと思ってた。どうして?」
雨に掻き消されそうな小さな声。降り注ぐ水を掻き分け、必死に泳いで、この耳まで辿り着いたことば。
「高い場所から、大地を見下ろしたとき。たまらなく綺麗だと思える瞬間がある」
連なる山々や、緑。いびつな形の荒野。自然だけではなく、人々の営み。
傍で見ないで、遠くから見下ろすことで、綺麗だと思えるものがある。近くにあるときは、醜いと思っても。
「それを時々、見たくなることがある」
「きれいなものが、見たいんだね。そういうときって、心が凄く、疲れてるときだって聞いたことあるよ」
その場にしゃがみこんで、マリアは、眼下に広がる情景をぼんやりと見た。
きれいかな、よくわからない。
あたしそんなに、風流じゃないし。もっときれいなもの、知ってるし。
「あたしは幸せだよ。こんなふうに丘に登ったりしなくても、きれいなものがすぐ傍にあるから」
視線を感じて顔を上げると、ラジエルが不思議そうな顔でこちらを見ているので、にっこり笑った。
いつもの女を売りに出す笑顔じゃなくて。子供みたいな。
「ずっときれいでいてね」
貴方のためだけに、傍にいるから。
ずっときれいなままでいてね。
「マリア……」
ラジエルが何か言おうと口を開いたが、次の瞬間黙った。
視線がマリアの向こうを見ている。
立ち上がって、マリアも振り返ってみる。
そこには、濃い碧の瞳を濁らせたまま、ふらふらと丘を登ってくるレイの姿があった。
3.
かつん、からから……。
張り詰めた空気の真ん中を切り裂いて、睨みあう両者の間に転がったものが、鋼鉄の床に跳ね返って硬い音を立てた。
その場の全ての視線がその小さなものに集中した。
拳大の、深緑色の、楕円形の、もの。
「……手榴弾だ!!」
どこからか声が上がった。黒い人波がざわざわと揺れ出す。
「爆発するぞ!!」
再び響き渡ったその声で、張り詰めた緊張感はぶつりと切断された。
「待て! 落ち着け!!」
この狭い通路で爆発すれば、確実に巻き込まれる。パニックに陥った人波には、アフライドの制止も意味がなかった。
我先にと狭いT字路から脱出を図ろうとする。
「くそっ……!」
悪態を吐き出したアフライドの足元で、投げ捨てられたその小さな物体が、勢いよく白い煙を吐き出し始めた。
一気に目の前の視界が白く染まる。
「大将!」
慌てて、傍にいるミカエルの腕を掴んで、自分の後ろに庇った。
「ジャンヌ!」
「平気よ!」
「畜生ッ……」
口をついて悪態が零れ落ちた。してやられた。
目を凝らしても今は、何も見えない。
「ないすふぉろー。ファンくん」
黒い人波に紛れ込み、T字路から脱出したサイジョウが、のんきな声を出した。
「そうじゃないと隊長、死んでたし」
「そうだね。こうして人込みにまみれれば無作為に発砲も出来ないだろうしね」
「だけど……」
こちらに気付いて果敢にも掴みかかってきた一般兵に、お得意の鉄拳を叩き込んでやりながらモエがサイジョウの方を見た。
白い霧に阻まれて、うまく視線は合わせられないが。
「このまま皆さんと同じ出口から出たら、多分上で捕まっちゃいますけど」
「そうだねー。何とかならないかなぁ」
もう走るの疲れた、などとサイジョウは相変わらず呑気なことを言う。
だんだん煙幕の効力も薄れてきた。このままでは囲まれるのも時間の問題だろう。
(どうしよう)
モエに庇われる形で必死に走りながら、リョウコは心の中で繰り返した。どうしよう。
どくん。
鼓動が不自然に一回、鳴った。視界がそれに合わせてブレる。
(何?)
今見えている映像に、何か別なものが被さる……。頭痛がする。
("見える"……?)
脳裏に一瞬で、フラッシュのように焼きついた情景に、リョウコは一瞬、息を止めた。
ざぁっと煙が晴れた。進行方向に突然、複数の銃口が現れて、ファンは慌てて立ち止まる。
モエも、背中にリョウコを庇い、威圧するように目に力を込めた。
「案外早く、囲まれたもんだね」
もはや諦めたといった体で、サイジョウはポケットに両手などを突っ込んでいる。
後ろにも、人の気配。近未来的な通路で、円形に囲まれる形になってしまったらしい。さっきよりも性質が悪い。死角が多すぎる。
―――サイジョウさんはお父さん?
リョウコが尋ねてきたのを思い出した。急に。お告げのように。
(愛して欲しいばかりで)
求めることばかり、一生懸命だった頃がある。
高みへ手を伸ばして振り払われて崩れ落ちたこともある。
幼い頃から、重ねてきた時間。どうして与えられないのだろう。やさしさが。
温もりが。
親の愛とか、そういう、右を向いても左を向いても、当たり前の、ものが。
理不尽だとずっと、思ってきた。
けれど今は。
視線だけを動かして、すぐ傍にいる"家族"を見渡す。
(愛することが)
与えることが、できる。それは、普通一般のものさしでは、計れないようなかたちであったとしても。
―――いざとなったら守るよ。
本音だよ。
みんな大事だよ。誰一人、小指の先だって、傷つけられたくないよ。
サイジョウと目が合ったファンが、怪訝そうに眉をひそめた。
くすりと、自嘲気味に笑ったように、見えた。それと共にポケットの中をわずかに探るような仕草。
訳もわからないのに、ゾッとした。冷たさが、心臓の傍から急激に、弧を描くように広がってゆく。体中に。
―――皆で生きて、幸せになろうよ。
「詐欺師っ……!」
ぎりっと口唇を噛み締めて、ファンが地面を蹴った。
体ごと。至近距離の黒服にぶつかる。
突然の行動に、一瞬遅れて周囲の銃口が一斉にファンの方へ向いた。
渇いた咆哮がいくつも鉄の壁にぶち当たって砕けた。弾丸が頬や腕を掠って、小さな赤い飛沫が散る。
体当たりを食らわせて、よろめいて倒れた一般兵から奪い取ったマシンガンでファンは、敵連中の足元に発砲した。
「馬鹿野郎!!」
相手方がたじろいでいるうちに、強引にサイジョウの腕を引き戻して、ファンが叫んだ。
のほほんとマイペースな彼の、吼えるような絶叫だった。
マシンガンをモエの方に放って、サイジョウの襟首を掴んだまま、ファンは包囲網を駆け抜けた。
「んなモノ、持ち歩くんじゃねェよッ!!」
すぐ傍にあった扉を蹴破り、サイジョウが手に持っていた小型の爆弾を引っ手繰ると、その中に放り込んだ。
後ろに続いたモエがリョウコの手を引いてその扉の前を通過した直後、爆音と炎がそこから噴き出す。
その炎に阻まれて、追っ手の足が止まった。
「イタ、痛いんだけど、ファンくん……」
「幸せになるんじゃねぇのかよ!? 生きて!!」
どうせ、あれ持ったまま突っ込もうとか、そういう馬鹿なこと、考えてたんだろうけど。
握り潰す強さで。サイジョウの手を掴んだまま、叫ぶ。
「あんたが、俺やモエや、リョウコの手、掴んで。やさしくしたんだ。勝手に、振りほどくみたいな真似、絶対許さないからな!!」
引きずり戻すために、いる。
この人は本当に頭が良くて、普通、見えなくてもいいところまで見えてしまうから、自分の足元が見えないことが多い。
だから、大きな崖に立って、一歩前。奈落に落ちる前に。この腕を掴んで引きずり戻すぐらいの役目が出来るなら。
傍にいる意味は。
あるんじゃないだろうか。
傷の舐め合いのように固まって。他に行くところもなく。
それでも、確かに。
与えているこの想いは、そして与えられているこの想いは、間違いなどではないのだろう。
この腕に感じる、しがみつくような、縋りつくような、傷つける一歩手前の痛みも。
「ごめんね」
「だから! あんま"ごめん"って連発するとッ……」
「傷、あとで手当てしようね」
頬に腕に。弾丸が掠ったあとがたくさんあって、赤い水が体の中から溢れ出していた。
弾かれたように振り向いたファンの顔が、痛みをこらえるように歪んだ。何かを我慢するように口唇を一度噛んで。
「あんた、最低……。残酷すぎ……」
掴んでいたサイジョウの手を振り解いて、その腕でぐっと目を擦った。腕の血が、顔にわずかに残った。
「二度とあんな真似……、しないでください……」
上擦って震えたままの声で、ファンが言った。
「……怖かったです」
"ここ"しかもう、なくて。そんな大事なものが、目の前で消えるかもしれない。そう思ったとき、こみ上げた恐怖はとても言葉では言い表せない。
「隊長! 行き止まり!!」
後ろからモエが叫んだ。
目の前に迫ってきたのは鋼鉄の壁だった。右側に細い通路が一本あるが、その先も行き止まりだった。
遥か後ろの方でざわめきと足音。いずれ追いつかれる。
「袋のネズミだな……」
ぐるりと辺りを見渡して、流石に少し余裕のない声でサイジョウが呟いた。
すると、モエの手を離したリョウコが、右側の細い通路に駆け込んだ。
突き当たりの壁に、まるで医者が患者に聴診器を当てるように手を当てる。
「リョウコ、ちゃん?」
「この先!」
呆然としている3人に向かって、リョウコが叫んだ。
「洞窟に繋がってます!」
「え……?」
「さっき急に、見えたの! 100パーセント、自信は持てないけど……! だけど……」
怖いのか、口唇が小刻みに震えている。咽喉も引きつっているのか、うまく声が出ない。
歩み寄ったサイジョウが、リョウコの頭を乱暴に撫でた。
「信じる」
緊張の糸が音を立てて切れた。頭を痛いぐらいの強さで撫でられた瞬間、リョウコの両目から、涙が一粒ずつ、こぼれて落ちた。
「モエ」
「"どのぐらいで"?」
リョウコの頭に手を乗せたまま、サイジョウが後ろのモエを見た。
ぱしんと片方の掌に拳を叩き合わせて、モエが不敵に笑ってみせた。
父親というものは知らなくてもいつか。
"お父さん"になれればいい。最近は、そう思う。
戦闘モードのモエの笑顔に、いつもののほほん笑顔を返して、言った。
「120パーセントで」
4.
もう、何も見たくない。
俯いて、足元を見て、一歩一歩進んだ。
濡れた土に足が取られて、ぬかるむ。
ぐちゃぐちゃだ。見たくない。
我儘とか、悪意とか、人をきずつけるもの。
見たくない。
(やさしくしたいのに)
うまくかなくて。
(やさしくされたいのに)
かみ合わなくて。
(きずつけたくないのに)
食い違って。
(きずつけられたくないのに)
触れ合えば、摩擦で傷つく。
じゃあどうしてひとはひとと、一緒に生きていこうとするんだろう。
一緒に。
一人のほうが楽なのに。苦しくないから。
自分にだけやさしく出来る。きずつけなくて済む。
人間は、息を吸わなければならなくて、水を飲まなければならなくて、食べなければならなくて。
そのために。
色々な部分を譲り合い妥協し合い共有し合い。
我慢して。
簡単に見えて、難解な言葉を使って。
理解したように誤解してゆく。
動物みたいに弱肉強食じゃない。分かりやすく出来てない。
欲が、ある限り。楽に、なれない。
どうして滅びないのだろう。
(きれいなものがみたい)
周りに溢れるものは、尖っていてちくちく痛くて、ドロドロと足元をすくって、刃のようにきずつけてゆくものばかりだから。
そんな醜いものを少しでも忘れられるように、何かきれいなものが見たい。
少しでも、やさしくなりたい。誰かに対して酷いことばっかり考えるの、止めたい。
こんな自分嫌だ。汚くて。
ばさりと下ろした金の髪から、絶えず滴り落ちる雨の雫がまるで涙のようで、悲しい。
前髪の束、ぐっと掴んで、強く下に引いてみた。
頭皮がみしりと音を立てたが、抜けたのはほんの数本だけ。
(邪魔だな)
指と指の間に絡まりつく金の糸を見て、思った。
邪魔だ。何もかも邪魔だ。
絡まりついてくるもの全部、この体を取り巻くもの全部、なくなればいい。
「もう疲れた……」
がくりと膝が崩れて、そのまま地面にへたり込んだ。
もう指の先すら、動かす気になれなかった。何もしたくない。
ざっと、地面に落とした視界に靴が割り込んできた。
黒い靴。
人が近づいてきたのだということに、一瞬遅れて気付き、酷く緩慢な動作で顔を上げた。
斜めに降り注ぐ雨が、目の前に立った人のおかげで、顔にかからなかった。
昇りかけた朝日に反射して、金の髪がまぶしい。
逆光で表情はよく見えないものの、透き通った青い瞳がこちらを見下ろしている。
「大司教……猊下……?」
ラジエル・エレアザール。
表舞台にはあまり姿を現さない、事実上の教会最高権力者。
金の巻き毛に冷えた青の瞳の美丈夫。
ファスト神父の日記に何か記述が合ったような気が……、なんだっただろう?
よく思い出せない。
「辛いか」
手を差し伸べ、額にそっと触れてくる。バラバラに乱れた金の髪を梳くようにして顔の横に寄せる。
その掌が、雨に濡れていたにもかかわらず温かくて、レイは思わず涙ぐんだ。
「……もう」
許しを与えられるように額に触れたままの大司教の掌。
冷たくない。温かい温度がそこにあるだけで、なんと落ち着くことだろう。寄りかかる場所がある。
「見たくないです」
目を閉じたら、頬の上を涙が伝って落ちた。一滴。
もうなにも。見たくないです。
汚いものは。
汚い自分も。見たくないです。見たくない。
「ならば全て」
額に押し当てた掌をずらし、ラジエルは、その掌をレイの目に当てた。
「忘れてしまうか」
掌を当てられたところが徐々にぬくまってゆき、やがて皮膚が溶けるように境界が分からなくなり意識がさらに混濁してゆく。
(前も……こんな……ことが)
―――さぁ。ゆっくり目を閉じて。私の目を見るの。
(だけどもういい。もうどうでもいい)
―――自由に、なりなさい。自分の心を解き放てばいいのよ。簡単でしょう。
(自由に)
(自由に?)
閉ざされた目蓋をゆっくりと押し開けると、5本の指の隙間からうっすらと、向こう側が見えた。
棚引く栗色の髪が、見えた。
風が霧を吹き飛ばすように、今までずっと淀んでいた意識がざぁっと、晴れた。
―――催眠だ。あのとき彼女は僕に、催眠を……。
「レイ!!」
静寂を突き破り、男の絶叫が丘に響き渡った。
「てめぇ、レイを離しやがれ!!」
「ハルト……?」
目を押さえつけられた格好のまま、レイがうめいた。
ずっと聞いてきた幼なじみの声がもう随分聞いていないみたいだった。初めて聞く声、みたいだった。
「どうしたの。血だらけね」
ざっ、と、すぐ隣に足音と女の声が聞こえた。路地裏で自分に囁いた、あの声だった。
「うるせぇんだよ。名誉の負傷だ」
左の腕をだらりと体の横に垂らしたまま、左目の脇からまるで涙のように血を滴らせ、ハルトはようやく丘の上へ辿り着いた。
右手には、ランドウが投げ捨てたピストルを握って。
威嚇するように持ち上げたその銃口が向いているのは、レイに触れている、見たこともない男。
そして視線だけを、そのすぐ傍にいる女に流した。
「シャトーの路地裏で、あんたレイに細工したんだな」
「私は何もしていないって、この子にも言ったわよ」
シャトーの街で一度だけあったことのあるこの女は、確かマリアと名乗ったはずだ。
吹きさらしの雨に打たれ風に嬲られても、その口元に凄艶な笑みさえ浮かべ、胸の前で腕を組んでみせた。
「何もしてないって? 笑わせんじゃねぇよ。"催眠"だって、立派な細工じゃねぇか」
「……ハルト」
「黙ってろ。お前は何も悪かねぇ」
噛み合せた口唇がかちかちと鳴り出すのをレイは聞いた。噛み殺しきれなかった嗚咽が咽喉を這い上がって零れる。
「ハルト・シラギか」
レイの目の上から掌を離し、ラジエルは真っ直ぐにハルトを見据えた。
「ああ。ハジメマシテの挨拶もしたほうがいいかよ? "もう何百年も生きてるらしい"大司教猊下」
肩の出血が、だらりと垂れ下がった腕を伝って、指の先から地面に落ちてゆく。
遠退く意識を繋ぎとめようと、必死に噛み締めた口唇の端が破れ、血が伝う。
ハルトは、霞む視界で確かに見た。ラジエル・エレアザールの瞳がわずかに、見開かれたのを。
「あんたら教会が陥れて消してくれた俺たちの名付け親から、"さっき聞いてきた"ばかりなんだよ。色々、美しくない教会のナカミをな!」
ガウン。
丘の上に銃声が響き渡った。パッと風に金の髪が散り、舞い上がる。
一瞬遅れて、ぱらりとラジエルの左頬を赤いものが伝って落ちた。
「てめぇ、何するんだよぉッ!!」
抗議の声を上げたのはマリアだった。
(きれいでいてくれなきゃ)
「ぶっ殺してやる!!」
普段の妖艶さや気品はすっかりと消えうせ、髪を振り乱し、泣きじゃくりながらマリアが叫ぶ。
まるで大切なものを取り上げられた子供のようだった。
(ずっときれいでいてくれなきゃだめなのに)
今にもハルトに噛み付こうとするマリアの前に、伸ばされたのはラジエルの腕だった。
「ラジエル……」
呆然と、自分の体の前に差し出されたその腕を見つめ、叱られた子供のように、マリアはそこにずるずると座り込んだ。
「名付け親と言ったな。一体何者だ」
頬に血を伝わせたまま、拭おうとすらせずにラジエルが口を開いた。
まだ煙を吐き出したままの銃口をラジエルに向けたまま、ハルトはわずかに眉をひそめた。
「葬ってきたものの名前なんて、いちいち覚えてんのか? 相当な数だろうによ」
「何者だ」
壊れたレコードのようにラジエルは繰り返した。その声には有無を言わせぬ強さが宿っていた。
「ファスト。―――ファスト・ヴォルディモート」
反射的に告げてしまっていた。ラジエルの足元で、レイがぴくりと震える。
「なるほど」
首を小さく動かして、ラジエルは頷いて見せた。
「あの男は食えん。もっと早く、消しておくべきだった。あの男の遺志をお前たちが、継いだというわけか」
「……す…、…………に、……たちが?」
俯いたままのレイの口から、ぼろぼろとことばが零れ落ちた。
ラジエルが怪訝そうに足元に視線を落とすと、深い碧の瞳と視線が絡まった。涙を湛えたままの瞳。
けれど、濁ってはいなかった。痛みをこらえるように眉をしかめても、目を逸らさずに。
「消すって、本当に、貴方達が……?」
同じことばを、今度ははっきりと繰り返した。
(教会が?)
愛を説き、救いの手を差し伸べると言いながら。
ファスト神父の全てを奪ったのは、貴方達だというのか。
無償の愛。神の愛。
全て。まがいものだと。
「……全ては秩序に終結する。この世は真実だけが救いなどでは決してありえない。秩序のために、重ね続ける偽りもある」
「そんなものが救いなんかに!」
嘘で塗り固めたものなど。救いになるもんか。
そんな応急処置で、傷口が完治するわけがない。
強く強く、睨みつけてくる碧の瞳に、不意に重なってくるビジョンを感じて、ラジエルは息を呑んだ。
(この瞳、まるで……)
その記憶は一体、"いつ"のものだろうか。頭の中をかき回すようにして、記憶を探る。
嘘偽りを、許せず。傷ついても構わずに真実だけを求め続けるこの瞳を、ラジエルは知っていた。
綺麗な嘘より汚い真実を、見据えようとした目だった。
遥か、遥か遠い昔の。
―――政府のやり方は間違ってるわ。ここまできてあんな……。ねぇ、貴方は何も感じないの?
真っ直ぐな瞳を、汚し、踏みにじり、散らし、濁らせたのは。他でもない。
「マリア……」
譫言のようにラジエルの口から名前が漏れた。レイを見下ろしているはずのその瞳は虚ろに、どこか遠くを見ていた。
その場にへたり込んだままのマリアの肩がびくんと震える。
(あたしじゃない。知ってるよ。知ってる……)
呼ばれる名前は同じでも、こもる"気持ち"がまるで違う。
その落差にいつも、この胸がボロボロにズタズタに傷つけられて、血を流す。
この瞳は嫌だ。
一瞬たりとも視線を外そうとしないレイの瞳に、ざわりと心が揺れた。
今まで蓋をしてきたものを無理矢理にこじ開けてゆく力が、その瞳にはあった。
こじ開けられた記憶の隙間から、浮かんでは消えてゆく面影が、口々に耳元で囁く。
呪いの言葉。
(見るな)
「うわァッ!!」
ラジエルの右手が、前触れもなくレイの額を鷲掴みにした。ぎりぎりと力を込めると、レイの口からは呻き声が漏れる。
(その目で私を見るな)
ラジエルは、何かに憑かれたようにレイの額ごと目を押さえ、地面にねじ伏せた。
「レイ!!」
ハルトは、レイを押さえ込むラジエルに銃口を向けた。
人差し指に渾身の力を込め、引き金を引いた。
(いいよ。それでも。あたしは、バカな女だから)
ガゥン。
ゴルゴダの丘に、一発の銃声。
*
ごぶりと咽喉が嫌な音を立てた。
こみ上げてきたものを構わずに吐き出すと、口の中に容赦ない鉄の味が広がる。
カッと熱いのは、胸の真ん中だった。
がくりと膝が崩れ、地面に沈む直前、差し伸べられた手が抱きとめてくれた。
「う、うわぁあぁっ!!」
獣のような叫び声を上げ、金髪の坊やがずるずると後ずさり、なんとか立ち上がって駆け出していった。
「レイ!!」
ピストルを地面に投げ捨て、黒髪の子がその背中を追う。
丘はいつしか静寂に包まれていた。
自分が顔をうずめているのは、黒い聖服だった。何とか腕に力を込めて、相手の顔を見ようとするが、力が入らない。
ひゅうひゅう、咽喉がうるさい。
力を振り絞って、何とか体を仰向けにする。
いつの間にか雨は、上がっていた。
自分の胸元を見下ろすと、熱い部分を押さえている手が、真っ赤に濡れていた。
ジッと見つめていると、心臓の鼓動にあわせて赤い水が溢れて来るのが少し面白かった。
不思議。全然痛くない。
首を後ろに倒し上を見上げると、驚愕という言葉がよく似合う顔が、見下ろしていた。
黒い聖服でもよく分かるほど、自分を抱きとめた胸が赤く汚れているのに気がついて、口元に何とか笑みを浮かべてみようとして、失敗した。
「ごめん…ね…」
誰の声だろう。がさがさしてて、きれいじゃない。
震える手を持ち上げて、聖服の、血で濡れた辺りに触れた。金のロザリオまで、赤くなってる。
「きれいな、聖服、よごしちゃった、ね」
「マリア……」
「いいんだ、何も、言わないでよ……」
温かな胸に頬を寄せて、目を閉じた。頬や鼻の頭を容赦無く、熱い涙がこぼれて落ちる。
涙腺が壊れたみたいに、止まらない。
「しってた……。あんたがあたしの向こうに、誰かを見てたことぐらい。でも、いいんだ。あたしはさ、ばかな、おんなだから……」
あったかいね。こんなふうに抱き締めてくれたの、初めてだよね。
うれしいな。
「あたしを踏みつけたって、いいんだ。あんたは、あたしをぼろぼろ、に、ふみつけて、高いところにいて、いいんだよ」
もう、二度と開きたくないぐらい重い目蓋を、一生懸命持ち上げた。
見上げた青い瞳と、金の髪がきれい。
かみさま。
震える手で、頬に触れた。雨に打たれ、風に吹かれ、冷たかった。
黒い髪の子の弾丸がつけた傷痕をなぞって、血を拭う。
「あんたのためなら、血にだって、泥にだって、まみれて、やる。あんたのためなら、いつだって、死ねた……」
冷たいラジエルの頬より、あたしの掌のほうが冷たいのは何でだろう。
分かんないよ。あたし、頭よくないんだもん。
「なんにも、ない、なんにも、持ってないあたしを……、あんたがあの日、どぶから、ひろいあげてくれた、から」
うるさい、咽喉。もっとしっかり動け。
もっと、伝えたいことが、たくさん、たくさんあるのに。ことばが、出てこないよ。
「ねぇ、ラジエル……。あたしあんたのこと、ずっと信じてた。天使だって。バカ、でしょ。わらっていいよ。……だけどお願い。きれいでいてよ。ずっと……」
咽喉の奥から急に何かがこみ上げてきて、激しく咳き込んだ。
生暖かいものが溢れ出し、口元を覆った手を濡らした。
赤。
赤い色は好き。生命のあかしだから。
「ずっとだよ」
無理矢理に笑ったから、きっと今、きれいな顔じゃないんだ。
だけどいいの。あたしはきれいじゃなくたって。
貴方が、きれいでいてくれたらもう。何もいらないよ。
かみさま。
あのひちかったやくそく。
まもったからね。ほめてくれる?
あたしこのひとのために。
「愛してるよ」
かみさま。
あたしこの人のために生きて。
死ぬよ。
頬に滑らせた白い手が、一瞬にして力を失い。
地面に落ちた。
遥か遠くで、けたたましい爆音と、何かが崩れる音を聞いたような気がした。
5.
怖い。
目の前で散った飛沫の赤があまりにも鮮烈で、脳裏に灼きついて離れない。
反射的に駆け出していた。怖かった。
過敏になった神経にざくざくと、全部刺さった。
血液、赤、痛み、苦しみ。全部。
痛い。
吐き出す息が荒い。それは走っているせいだけではなかった。苦しい。
大声で喚きたい。泣き叫びたい。そうしないと狂ってしまいそうだった。それを必死に荒い呼吸でやり過ごす。
レイ!!
さっきから後ろのほうで呼ぶ声が聞こえる。
来るな。今は誰も追わないでくれ。
「うっ……ぁっ……」
こらえてもこらえても、呼吸と共に零れてゆくのは嗚咽だろうか。
もうその呻き声の呼び方すら、よくわからない。
がさがさと生い茂る木々を掻き分け走ると、突然目の前が開けた。
遥か遠くまで見渡せる大パノラマ。びくりと足を止めるとそこは、断崖絶壁だった。
どうどうと、下の方で水の流れる音がする。
恐る恐る崖から下を覗き込むと、大雨の所為で水かさが増し、荒れ狂ったように流れている川が見えた。
土が混じって、黄土色に濁っている。
「レイ!」
追いついたハルトの声に、レイは振り返った。まるでバケモノに出会ったかのような、怯えた表情で。
「来るなっ!!」
歩み寄ろうとするハルトに、レイは叫んだ。
改めて目にした相棒は、傷だらけだった。左の腕はだらりと垂れ下がり、ぱたぱたと血が流れ続けている。
左目の端が切れて、血が涙のようだ。
幼なじみさえ、今のレイには恐ろしかった。
「レイ、こっち来いよ、危ないから……」
「来るな、人殺し!」
ヒキツレた咽喉から飛び出した台詞に、レイのほうが驚愕した。
こんなこと、言うつもりじゃないのに。けれど、心と体との間は断絶されていて、口だけが、怖さを押し流そうとして散々喚いた。
「僕はもう嫌だ。こんなの、誰かを傷つけたり、傷つけられたり。もっと、やさしくしたいのに……、もう何もわからないよ、もう嫌だよ、もう疲れた……!」
「レイ!」
傷だらけのハルトの、赤い瞳から逃げるように、無意識のうちに足がじりじりと後ずさりしている。
それに気付いたハルトが大声を張り上げた。
刹那。
がくん。
レイの足が、崖から後ろに落ちた。
「レイ!!」
レイの体はそのまま重力に引かれ、ぐらりと後ろに倒れる。
落ちる寸でのところで、レイの手が、崖のすぐ下の岩を掴んだ。
みしりと嫌な音がして、指の先から血が流れてきた。爪が割れたのかもしれない。
けれど、痛みは全く感じなかった。恐怖が痛みを中和してしまってた。
「レイ、手掴め!!」
崖から身を乗り出して、ハルトが片手を伸ばしている。
少し上。しかしその手を掴むためには、片方の手を崖から離さなければならない。
「い、嫌だよ! 怖いっ……」
必死に岩を掴む自分の手が、蝋人形のように真っ白だ。
腕の感覚が麻痺して、もう痛いとか、全然感じない。
棒みたいだ。
「掴め!」
差し伸べられている右手が、手の届きそうなところに。ある。
だけど怖い。
必死に体重全てを支えている片手を離すことも、誰かに生命を預けることも。
怖い。
「何してんだよ!! 早くしろよ、絶対に引き上げてやるから!」
この世界に、絶対と永遠はない。
こんなときにまで言葉尻を捕らえてしまう自分が、嫌いだ。
―――もう嫌だ。来るんじゃなかった。我儘に付き合いたくない。僕のせいじゃない。
(ちがう)
自己正当化の言葉が次々に生まれてきて、耳元をかすめては消えてゆく。
違う。どこかでそれを必死に、否定し続ける自分もいた。
どうどうと、足の下の方で水がうなり声を上げている。
音だけで、飲み込まれてしまいそうだ。気が遠くなる。
(僕の、"せい"だよ)
ここにこうして、いるのは。
選んできたのは。
全て自分が選んできた、こと。
自分以外の誰も責任が取れないこと。自由意志。それ以外のなにものでもない。
岩を掴む指が、痺れて青くなり始めていた。
血が通ってない。死んでゆく。
「レイ!! 任せろ、絶対、助けてやるから、手掴め!」
必死に体を乗り出して手を伸ばすハルトが、苦しそうに顔をゆがめ、叫んだ。
「"信じろ"!!」
自分の周りに張り巡らせた、防御壁の膜を突き破って。
耳から脳と、左胸に直接、刺さった。
信じろ。
―――信じてきたから。
急に、ファスト神父の日記の一文が蘇った。
理由も義務もないのに生き長らえ続けたのは、信じてきたから。そう書かれていた。
理由も、義務もないのに、なんでハルトと一緒にいるんだろうと、ずっとずっと思ってきた。
(そうだ)
理由も義務も、誰かに説明できるものなんて、何も持ってない。
だけど。
一緒にいたのは。
右手を岩壁から引き剥がして、ゆっくりと上に伸ばした。
視界が霞む。意識が遠退く。それでも上へ手を伸ばした。
必死に下へと伸ばすハルトの手に。
もう少し、あと少し。手が届く。
掴める。
一緒にいたのは。
信じて、いたから。
もう指が触れる、その一瞬に、突然。
―――左手が掴んでいた岩が崩れた。
がらりと崩れた岩を掴んだまま、もう、誰にも止められない速度で、宙に放り出された体が。
落ちた。
手を、上へ伸ばしたまま。
「レイ―――ッ!!」
名前を呼ぶ声が尾を引いて遠くなる。空が遠くなる。
掴み損ねた手を伸ばす男との距離が、どんどんと広がってゆく。遠退く。
やっと分かったのに。
やっと、掴んだのに。
答え―――。
激しい水音が上がった。
「ark」第一部完