沈黙のディーヴァ




1.

「それで、目的はなんなのかな」
 大衆食堂という言葉がしっくりとくる定食屋の、奥まったテーブルにつくなり、銀都佳沙(しろがね つかさ)は笑顔で切り出した。
 丁度向かい側に座ろうと椅子を引いていた男は、一時停止ボタンを見えない誰かに押されたかのように固まる。
「目的、といいますと?」
 ようやくぎこちなく笑みをつくって、青年は席につく。文字にするとしたら、えへらっとした笑みだ。顔にへばりついてるようで、なんとも白々しい。
「勝利が奢るからご飯を食べに行こうなんて、何か目的があるんじゃないかと思って」
 太刀打ちの出来ない完璧な笑顔で、都佳沙は案外ひどいことを言う。
 明るめの茶色に脱色した髪に、オレンジのTシャツにジーンズ姿の青年、神田勝利は、中高時代からの馴染みに絶望的な顔を向けた。
「ひどいっ、都佳沙ちゃんったら、俺をそんな人間だって思ってたんだ!」
 勢いをつけてテーブルに突っ伏し、さめざめと泣きまねをしてみせる。大袈裟な挙動はもうすっかり慣れっこだ。今更どうこう思うことでもない。
「本当に何もないなら、謝るけど」
 疑ってかかったことは事実なので、都佳沙は純和風な玲瓏とした面立ちを翳らせて、つけくわえる。
 すると、勝利の泣きまねがぴたりと止まった。
 目の下に敷いていた両腕からうっすらと顔を持ち上げて、窺うような上目遣いで都佳沙を見る。
「……なんていうか、その」
 さきほどの、えへらっとした笑みが再び広がった。
「お願いがね、ありまして……」
 バツが悪そうに勝利はハハハと力なく笑った。
 全身の力を抜くように、都佳沙は大きく嘆息する。
 結局のところ、そういう話なんじゃないか。


            *


 私立神宮館大学。
 都内にある、有名私立大学のひとつ。履歴書にこの大学の名前があると、ある程度の箔がつく、そういうレベルの大学だ。
 神田勝利は、その神宮館大学の二年に在籍している。
 そんな大学に在籍している勝利は、根っからの優等生というわけではなかった。むしろ、高校の二年までは試験は一夜漬けというタイプで、決して成績がずば抜けているというわけでもなかった。
 ところが、高校三年になったあたりで何かのスイッチが切り替わったものか、絶望的に難しいといわれた神宮館を志望し、その上合格してしまった。
 なんというか、ねぇ、自分の将来のことも考えないとならんし。特別やらなきゃいけないこともないし。エスカレータで高校まで来たから、受験も経験してみたかったし。
 無事に難関大を合格してみせたあとで、勝利は言い訳のようにそう言って見せたものだった。今では自由奔放な大学生ライフを楽しんでいるらしい。
 柔軟な人間だ、と思う。しなやかというのか。
 少しばかり人と違った家に生まれ育ち、人と違った生業を持っている都佳沙にとって、神田勝利という人間は憧れの対象なのである。
 そのときそのとき置かれた状況にしっかりと適応して、楽しむことが出来る才能を持っている。
 学校を楽しみ、部活を楽しみ、時にはサボることすら楽しんでいたように見える。
 義務教育の延長線として高校に通っていた―――しかも真面目な学生とはとてもいえなかった都佳沙にとっては、そんな勝利がまぶしく感じられるときがある。
 自分の現状を憂えているわけではないし、本人はどことなくお調子者のところがあるので、面と向かっていうことはないけれど。


「いやー、目立ちますね、都佳沙くんは」
 神宮館大学の門構えをくぐってしばらく、並木道を歩いているところで、ぽつりと勝利が呟いた。
 連れ立って歩く友人に、都佳沙は目を遣る。
「部外者が珍しいだけじゃないのかな」
 確かに周囲からの視線を感じないわけではなかったが、たいしたことだとは思わなかった。
「いーや、中学高校ならまだしも、大学なんて色んな奴らが私服で出入りするところでしょ。ちょっとぐらい見かけない顔の奴がいたって、別に気にならないよ」
 何故か得意げな顔で勝利は説明をした。
 そんなものなのかな、と都佳沙は小首を傾げた。
 なにしろ大学はおろか、学校というシステム自体にあまり馴染みがなかったので、よく分からない。
「やっぱり涼しげで知的な美貌ですかねぇ」
 勝利の口元に締まりはない。面白がって調子に乗るのは彼の癖だ。取り合わないほうがいいのは経験で分かっている。
「ところで、現場はどこ?」
 捻じ曲がった会話をもとのラインに力ずくで戻すと、勝利は子どものように唇を尖らせて見せた。別にそれも本当に怒ったわけではなく、彼なりのコミュニケイションの一環だ。
 実際、尖った唇はすぐに平坦に戻っている。
「何か感じる?」
 急に真面目な顔になって、すこしだけ声をひそめる。
「特には」
 あっさりと応じると、勝利は顔に大きく落胆、と書いた。
「あーでも、都佳沙が言うならそうなんだろうな」
「本当に怪奇現象なんて起こっているの?」
「疑ってるの!?」
「別にそういうわけじゃないけど」
 大袈裟な悲嘆を途中で遮って、都佳沙は並木の果てに見える校舎を眺めた。
 歴史ある大学の大体がそうであるように、老朽化した校舎を建て直したり、新校舎を建て増しにしたりする所為で神宮館の敷地内はどこか混沌としている。
 廃病院を思わせるような不愛想な建物の横に、きらきらと光を反射する硝子張りのビルが建っていたりする。
 新と旧とが入り混じっている”すきま”に歪みが出来ることは何も不思議なことではない。
 古い建物が持つ力場や気配といったものは、不可思議な世界の生きものを呼びやすい。
 が、それ自体はあまり問題ではない。どこでも同じことだ。
 たとえそれがどこであったとしても、多くの人が存在する場所である限り、負(マイナス)の因子はあるのだ。
 それどころではないのだと。
 勝利は定食屋で言った。
 先月の半ばごろ。新学期が始まったあたりから、神宮館大学の敷地内で不可解なことが起こっているのだと。
 校舎の廊下から突然白い腕が生えてきて手招きをしていたとか、天井から突然血の雨が降ってきただとか。
 いわゆる学校の七不思議的な噂は今までもあったのだが、ここ最近それらが顕著に表れだしたらしい。
 危害を加えられたという話はないようだが、元々霊感というものが皆無である勝利にとっては薄気味悪いことのようで。
 いっぺん見に来てくれ、と頼まれたのだ。
 数少ない友人の頼みを無碍に断ることもできないし、大して忙しいわけでもなかったので、乞われるがままに神宮館についてきたのだった。
 都佳沙に何ともないって言ってもらえたらさ、安心するじゃない、というのが勝利の言い分である。
 ようするに、安心がほしいというわけなのだろう。しょうがないとは思いながらも容赦してしまうのは、おそらく勝利の人徳の為せるわざだ。
 お調子ものに見えて人付き合いがマメなので、彼の周りにはいつも人が集まる。
「特に異常はないみたいだけど。別に勝利は見えるわけじゃないんだから、構わないんじゃないのかな」
 すると、勝利は項のあたりを軽く掻いて、都佳沙から視線を逃がす。
「うーん、まぁ、俺は……ね?」
 歯切れが悪い。
「勝利」
 都佳沙は、改まって友人の名前を呼んだ。
「まだ何か隠し事をしているなら、早めに言ってくれたほうが僕としては助かるんだけどね」
 穏やかな口調とは裏腹に、都佳沙の黒目がちな瞳は冷たい。
 笑みに限りなく近い引き攣りを口元に浮かべて、勝利は宙に目線を向けた。
「いや、隠し事っつーか……」
「勝利!」
 駆け足が後方から追ってきた。
 ふたりは近づいてくる足音を振り返った。
 上背のある、派手な男が駆け寄ってくるところだった。
 彫りの深い顔立ちは、整っている部類に入るだろうが、軽薄に見えた。日に透かすと金に見えるほどにまで脱色してある髪と、よく日に焼けた肌が、その度合いをぐっと引き上げている。いわゆる、ギャル男と呼ばれる部類。
 男は追いつくなり、勢いをつけて勝利に抱きついた。
「勝利くんはっけーん!」
「うわ、紘之……!」
 ぐるりと肩に腕を回して、派手な男は勝利を捕まえる。
 何故か突然青くなって、勝利は逃れようともがいた。
「勝利ー、例のハナシどうなってんの? 結構こっちとしてもヤバいんだけど」
「ちょっと待て、紘之。ものには順序が必要なんだ。今は―――」
「オバケ退治が出来る奴連れてくるって言ってくれてたじゃん。勝利のこと信じてないわけじゃないけどさァ、いのりが怖がって……」
「いやー! 今はやめてええ!」
 勝利が声を張り上げて悲鳴を上げても、手遅れだった。
 九月中旬、まだ半袖で過ごせるほどの陽気のもとであるはずが、勝利はすぐ傍から冷気を感じた。
「勝利」
 いっそ厳かな声で、都佳沙は親友を呼んだ。
 ぜんまいの切れかかった人形のようにぎこちなく、勝利は旧友をかえりみる。
 壮絶な微笑が待っていた。
「一体どういうことなのか、”順序だてて”僕にも説明してくれるよね?」
 首振り人形よろしく、勝利は必死に頷いた。



2.

「桜井紘之くんです」
「ドーモ」
 昼時を過ぎた学生食堂は、最盛期の活気こそ失っているものの、そこそこ混んでいた。
 入り口から一番遠いテーブルを確保した勝利は、向かいに座っている旧友に、隣に座っている大学からの友人を紹介した。
 都佳沙は静かに笑っているように見えるが、勝利にはよく分かっている。こういうときが、一番怒っているときなのだ。
 白皙の、玲瓏とした和風美人は、これでいて、胸のうちに激情を飼っている。
 怒らせると怖いのだ。
「銀都佳沙です」
 漆黒の瞳を細めて、都佳沙は名乗った。
 語調が完璧な営業用であるのをを感じて、勝利はこっそりと溜息をついた。
 タイミングが悪すぎた。
 本来ならばもっと、ちゃんと、説明をしてから引き合わせるつもりだったのだが。
「なんか怒ってんじゃねぇの」
 さすがに気配を察したらしく、こっそりと紘之が耳打ちをしてくる。
 おまえが飛び込んできたからだ、とは言えない。元はといえば自分の説明不足が招いた失態だ。
 覚悟を決めて、勝利はぱちんと眼前で両手を合わせた。
「ごめん! 俺の説明不足でした! ちゃんと話すから機嫌直してください」
 神社にお参りをしているような神妙さで、勝利が拝んだ。
 はじめて、都佳沙はうっすらと苦笑した。
「僕も大人げなかったかな、ちゃんと説明してくれるなら、聞くよ」
「え、ほんとに?」
 拍子抜けした様子で、勝利がぎっちりと瞑っていた瞳をそおっと開いた。
「機嫌が戻らないほうがいいなら、そう言ってくれないか」
 意外、という文字を背中に背負っている勝利に、都佳沙は笑顔をひきつらせる。
「冗談です! そんなわけないです!」
「だったら、説明してくれるかな」
 このままでは堂々巡りだ。
 騙されるように連れてこられたことには腹が立つが、いつまでも無益なじゃれあいを続けているわけにもいかない。言いたいことがたくさんあるのをぐっと押さえて、都佳沙は話を切り替えた。
「俺のカノジョの話なんスよね」
 若干ひかえめに、桜井紘之が切り出した。
 やはりどことなく都佳沙の雰囲気に気圧されたのかもしれない。
 特別どこが他者と違っているというわけではないのだが、都佳沙は周りから”浮いて”見える。
 艶のある漆黒の髪と瞳に、凛とした容貌は日本人形ぐらいに端正だし、何よりも漂う気配が冬の空気のように澄んできりりとしている。
 若者に似つかわしくない落ち着き払った様子が、時折つめたさすら感じさせることがある。
 あまりにもイマドキな紘之からしてみれば、異界の人間にも見えるだろう。
 “特に霊媒師という肩書きを聞けば”。
「学校がヘンだっていうのは……」
「そこまでは、さっき勝利から聞きました」
 どこか異世界のものを見るような紘之に、都佳沙は向き直った。
 冬の空気にも似た眼差しから目線を逃がし、紘之は中指にはめたシルバーリングをもてあそんだ。
「なんか、学校が後期始まってからずっとヘンなんだけど、いのりの周りで―――ああ、いのりってカノジョなんだけど。あいつの周りでそういうのが多くって、大分参ってるみたいなんだよね」
 僅かに指よりもゆるいリングを回しながら、とつとつと紘之は説明する。
「俺も元々そういうの、霊ってやつ? 見えるほうじゃなかったんだけど、最近見るようになっちゃって。でも誰に相談すりゃいいのかわかんねぇし。勝利だったら、冗談って流さないだろうなって思ったら、知り合いでそういうのの専門家がいるっていうから」
 都佳沙は、紘之の隣で紙コップに注がれたコーヒーを覗き込んでいる勝利を見た。
 彼の人間性は大学においても正しく広まっているようだ。
 いざというときに、真正面から向き合ってくれる確かさ。それはしっかりと、周りに伝わっている。
「その、いのりさん? 昔からそういう勘が鋭いひとだったのかな?」
 クリーム色のテーブルの上に置いた手の先で指を絡ませると、都佳沙は改めて紘之に向き直る。
 すると紘之は、苦いものを口に含んだような顔をした。
「ぜんぜん。だけど、ちょっと前に事故に遭い掛けて、それから急に」
「事故?」
「交通事故。結局、なんともなかったんだけど」
 ふっと、都佳沙は柳眉をひそめた。
 命の危険と隣り合わせたあと、”体質”が変わってしまうのは良くある話だ。つまり、急に色々なものが見えるようになってしまう、ということ。
「とにかく、会ってみないとなんとも言えないな。会わせて貰うことは平気?」
「あー、それは別に、いいけど」
 小さく頷いて、紘之は携帯電話を引きずりだした。
 素早くぽちぽちとメールを作成して、送信する。
 会話が途切れた。
 待ち時間が出来た。
「そういえば、最近都佳沙っち、あいつと連絡取ってんの?」
 合間を埋めるように、勝利が切り出した。
 あいつ、というのは中高時代の共通の友人のことである。何かと言えば三人でつるむことが多かったもうひとりは、高校と同じ学園の大学部に進んでいる。
 高校というのは不思議な空間だったのだと、今更ながらに思う。卒業してしまえば、どれだけ仲の良い友人同士でも、会う機会は激減するのだから。
 それぞれの生活リズムが出来て、時間を擦り合わせるのは難しくなる。
 そんな生活の中で勝利との付き合いがまだ続いているというのも、不思議な話ではあるのだが。
「たまには。勝利のほうが頻繁に連絡取っていると思ってたけどね」
「なんだかんだで、あいつって片意地張るところがあるでしょ。息抜きさせてあげなきゃって思って押しかけるんだけどさァ、すっごいあからさまにヤな顔されちゃうんだよね。失礼しちゃうわ」
「どうせ、連絡もせずに押しかけるんだろ」
 都佳沙は僅かに口元をゆるめる。
「なんでバレたのかしら」
 冗談めかして勝利も笑った。
 破天荒で突発的な行動に見えるから、真心が伝わりにくいのだ。おそらく本人もそれを分かっているのだろうが、いわゆる”照れ隠し”に違いない。
 真っ向から「だいじょうぶか」と尋ねていくのは気恥ずかしい。

 鈍い振動音が会話を切った。
 すぐさま紘之が、震えだした携帯電話を開く。
 いくつかボタンを押したあとで、椅子を引いて立ち上がった。
「ちょっと迎えに行ってくるから」
 言い残して、食堂を出て行ってしまった。
「都佳沙、都佳沙」
 頭ひとつほど周囲から浮いて見える紘之の背中を見送っていると、勝利が呼びかける。
 顔をそちらに向けなおせば、やけに神妙な顔つきで、勝利が手招きをしている。
 促されるままに、少し身を屈めた。
 勝利といえば、ぐっと体を乗り出して、口元に手を当てたりなんかして、完璧に内緒話の体だ。その恰好のほうが目立つと思うのだけども。
「あのさ、紘之の彼女、永瀬いのりちゃんっていうんだけどさ」
 囁きにまで声のトーンを下げて、勝利が内緒話を始めた。
「交通事故に遭ったってさっき、紘之が言ってただろ?」
「大事はなかったんじゃないのかな」
 勝利の囁き声に、都佳沙はあっさりと普通のトーンで応じる。
 一瞬だけつまらなそうな顔をして、勝利は溜息をひとつ落とすと、乗り出した体を元に戻した。
「そ。命に別状はなかったんだけどさ、なんていうか、それからぱったり、喋れなくなってるんだよね」
「失語症? 身体的な問題?」
「いーや、別に体に異常はないみたい。精神的なもの? 俺にはよく分からないんだけど。だから、色々と質問すると、いのりちゃん困っちゃうからさ」
 先に話しておこうと思って、と勝利がつけくわえた。
「分かった」
 勝利はまったくもって相変わらずだ。
 些細な努力で回避できる軋轢は、ちゃんと迂回する。その”根回し”ができる。
「何笑ってんの?」
「いや、ごめん。勝利が相変わらずだからね」
 なんだか安心したのだと言えば、勝利は真顔で。
「何か変なもの喰った?」
 心底心配した様子で、そうのたまった。
 こういう気の抜けた迂闊さが、彼の欠点といえば欠点ではある。
 僕は、勝利の相変わらずな人の好さに安心してたんだけどね。直に言葉にすると調子に乗るので、溜息で代用した。
「悪ィ、遅くなって」
 舌足らずな声が割り込んだ。
 先程席を立った紘之だった。背後に華奢な影を連れている。
 細い姿を視界におさめて、思わず都佳沙は目を瞠った。
 意外だったからだ。
 紘之の彼女というから、ぱっと目を引く、今時の派手な女の子を勝手に想像していたのだが。
 薄く染めた淡い茶の髪はすとんと肩から背に落ちている。薄化粧こそ施されているものの、派手な印象はない。どちらかといえば、清楚に見えた。
「永瀬いのりです」
 つないだ手を僅かに引いて隣に並ばせてから、紘之が紹介する。都佳沙は椅子を引いて立ち上がった。
「銀都佳沙です」
 どことなく頼りない気配を発するいのりに都佳沙は微笑して名乗った。
 ほわりとやわらかく笑み、淡い髪の毛を揺らしていのりは会釈をした。



3.

 教室は無人だった。
 大きくとられた窓からは、やわらかい橙の光が落ちてきている。もうすぐ日が暮れる。
「壁から手が出てきたんだって?」
 都佳沙は、教室後部の壁を撫でた。ざらりとした感触が、白い壁から掌に伝わる。
「どう? 何か感じる?」
 いきなり白い手がぬぅっと現れたという壁を丹念にあらためる都佳沙を、後ろから勝利が覗きこんだ。
「この校舎は暗いね」
 質問には答えずに、都佳沙はじっと、壁を見つめた。
 教室内の照明は消えているとはいえ、外はまだ十分に明るい。窓から入ってくる陽光で十分足りるはずだが。
 何故か、暗い。そう思った。
「いちばん古いからかな」
 いつもいるからわかんねぇ、と勝利は言った。
 紘之といのりは、ドアの入り口でことの成り行きを傍観している。まるで黒魔術の儀式を見守るかのように、その表情は硬い。
 おそらく自分たちが巻き込まれるまで、心霊現象やら霊媒師やらはテレビ業界の”でっちあげ”だと思っていたに違いない。
 それでいいのだと、常々都佳沙は思っている。巻き込まれないほうがしあわせなのだ。
 総じて、心の闇が絡んでいることが多いのだから。
(時折、例外があるといえば、あるけれど)
 紘之としっかりつながれた、いのりの細い手を少しだけ眺めてから、都佳沙は壁に視線を戻した。
 瞬間。
「うわっ……!」
 引き攣った悲鳴は勝利の口から飛び出した。
 先程まで都佳沙が撫でていた壁から、ずるりと土色の指が突き出していたからだ。
「動かないで」
 土から這い出すように伸びてくる指先を見据えたまま、鋭く都佳沙が言った。
「刺激しないほうがいい」
 明らかに命を失っている土気色の手は、いまや腕の半分まで現れていた。
 手のかたちは整っている。女のもののようだった。
 一瞬にして、なごやかな空気が張り詰める。ぴんと張った糸のような緊迫感のなか、都佳沙は自らの右手を土気色の手に重ねた。
 強いものではない。
 本来、人に見えるほどの想念ではない。
 生きている人間に害を及ぼせるほどの力も、持っていないはずだ。
 ならば、何故こんなふうに現れるのかといえば、おそらくは。
 他の、強い想念に引きずられているから、だろう。
 事実、少し力をくわえただけで、土気色の腕の輪郭はやわらかい粘土のように崩れ始めている。
―――どうして。
 断末魔にも聞こえた。細い、硝子を引っかくように耳障りな女の声が。
 触れた掌を通してしみてきた。
―――どうして、あいつだけ、ゆるされるの。
 輪郭を失った現世への未練が、やがてとろりと溶けて―――消えた。
「ゆるされる、か」
 ひやりとした感触が残る右手を引き戻し、都佳沙はひとりごちた。
 いよいよ、予感が確信にちかづいた。はじめから感じていた、せつない予感を後押しする。
 出来ればことのからくりを暴かずに済めば―――。
「鳥肌たった」
 思わずこぼれおちた。そんな独白が勝利の口から。都佳沙の思考は分断される。
 勝利は幾分血の気の失せた顔で剥き出しの腕を擦っている。
 なまじ霊感が皆無である勝利にとっては、生まれて初めての心霊体験だったのだろう。いつもの調子のよさはすっかりと形をひそめてしまっている。
「出ようか」
 神妙な顔つきをしている勝利を慰めることもせずに、都佳沙はドアのほうへ歩き出した。
「え? 他の場所見なくてもいいわけ?」
 いまだ鳥肌のおさまらない腕を撫でながら、勝利は慌てて親友の背を追う。
 呆然と立ち尽くしている紘之といのりを促して、都佳沙は廊下に出た。
 数多起こった心霊現象の現場。それを見たいと言ったから連れてきたというのに、まだ一箇所目ではないか。
「大体分かったからもういいよ」
 つぶやく都佳沙の声は、普段以上に無感情に聞こえた。
 横滑りの扉をすぱんと開いて、一歩廊下に踏み出して、立ち止まった。
「困ったな」
 秀麗な面立ちをふと、翳らせる。
「何が?」
 横からひょっこりと勝利が顔を出し、言葉を失った。
 古い病院を思わせるリノリウムの廊下が、左右に広がっている。
 ただの廊下が。延々と。
 ここ以外の扉は全て、元から何もなかったかのように失われている。
 右手に少し歩けば、自転車置き場に出られるはずの扉ももちろん失せて、延々と一本の廊下が伸びているだけだ。その果ては、闇に飲まれてしまっていて見えない。
「……残念だな」
 心の底から、都佳沙は落胆した。
「どうあっても、暴かないといけないのか」
 つぶやいた都佳沙の横顔には、痛みに耐えるような色が浮かんでいた。


            *


「離れて、良かったのかな?」
 人気のない廊下をひたひたと歩きながら、都佳沙は傍らの人間に声をかけた。
「傍にいてあげたほうが良かったんじゃない」
「半信半疑、だったんだよね」
 紘之は質問には答えなかった。
 彼の全身を包んでいる軽薄さが幾分か薄れて、神妙な顔つきになっている。
 ふたりは今、延々と続く廊下をひたすら歩いている。
 先程の教室だけはしっかりと残されていたので、その傍に三人を置いて様子を見に行こうとした都佳沙に、意外にも紘之がついてきたのだった。
「俺もずっと、レイカンとかそういうのなかったからさ。学校でヘンなことが起こってるとか聞いても、冗談だろって思ってたし。自分の目で見るまで信じられなかった。自分の目で見てからも、レイバイシっていうの? そういう人間がいるってことも、正直信じられなかったからさ。勝利がそういう知り合いがいるって言ったときも、ホントかよって思った。てか、さっきまで、思ってた」
 一気に吐き出してから、紘之は長い吐息をついた。
「それが、まともな反応だと思うよ」
 飾りのない正直さに、都佳沙は好感を持った。
「本来は、めぐりあわないほうが幸せなんじゃないのかな」
 人の世に、未練を残す命の残滓。心の闇。
 それらを屠ることを生業にしている生きものも、確かにいる。が、それにめぐり合わずに生きていくことがおそらく、健全なのだ。
 延々と、無表情な廊下は続いている。
「俺、高校までひどかったんだよね」
 わずかな合間を置いてから、紘之が口を開いた。
 ひどい?
 抽象的な形容詞に、都佳沙はかすかに眉をひそめた。
「荒れてたんだ。俺んち、母子家庭でさ。金がねぇわけじゃないんだ。神宮館通ってるぐらいだし。だけど、オヤジが……って、家の話はどうでもいっか。―――いのり、幼馴染でさ」
 ようやくそこで、イマドキの衣をまとった紘之と、清楚ないのりが線で繋がった。
「何度も、追っ払ったんだぜ、ウザかったし。だけど何回も、叱りにくるんだよな。怖がってたけど。俺が怒鳴るから。震えてたけど。怖いんならなんでつっかかってくるんだよって、わけわかんなかったけど」
「すごいな」
 素直に驚いて、都佳沙は賛嘆のことばをこぼした。
 何が? と顔に書いて紘之が都佳沙のつくりものめいた顔を覗き込んだ。
「そんなにまでして叱ってくれるひとは、なかなかいないよね」
 繊細そうないのりに、そんな芯の強さがあったことも、意外だったけれど。
 撥ね退けられても叱りに来てくれる存在は、なかなか欲しがっても与えられないものじゃないか。
 一瞬だけ呆気に取られて、紘之は少しはにかむように笑った。
「今、あいつの家族海外にいてさ。本当なら高校卒業と一緒に、あいつも向こうに行くことになってたんだけど。一緒にここ受けるって、残ったんだ。俺、ほんとにぜんぶどーでもいいって思ってたから勉強とかしてなかったし、無理だからって、言ったのに」
 結果なら、彼が今立っている場所がどこかを考えれば分かる。
 どれほどの努力があって、支えがあったのかなんて、簡単に想像することも出来ないが。
 優等生ではないにしろ決して馬鹿ではなかった勝利が、この大学に受かるまでどれほど苦労をしてきたかを一部とはいえ、見てきた。
 すくなくともそれ以上のくるしみがあって、それだけの絆が存在しているのだろう。
 ふたりのあいだには。
「このあいだ、いのりが事故に遭ったって連絡があったとき、頭ンなか真っ白になって、なにも考えられなくなってさ」
 紘之は目をふせて、リノリウムの床を見る。
 靴の裏がこすれて、場違いにかわいらしい音を立てる。
「……結局は、無事だったんだね?」
 はてなく続く廊下の先を見据えて、事務作業の確認のように都佳沙がたしかめた。
「病院にいく途中でいのりにばったりはちあわせて。喋れなくなってっからびっくりしたけど。平気だって。ほんともう、死んでもいいって思った」
 そのときの安堵を思い返しているのか、紘之は長い溜息をついた。
 気心しれた相手だったらば、「簡単に死ぬなんていうもんじゃないよ」などと老人めいた忠告を与えるところなのだが、当の都佳沙といえば、無表情に黙って薄闇に飲まれた道の先を見据えている。
「あんたのこと、疑ってたけどさ、頼むよ」
 一二歩前に踏み出して、紘之は都佳沙の前に回り込んだ。
 浅黒く日焼けして、痛むほどに脱色した髪を持つ男の顔のどこにも、軽薄さはなくなっていた。突き刺すように真っ直ぐな、それでいてどこか怯えを含んだ目が、真っ向から都佳沙を見た。
「俺、いっぱいいのりに迷惑かけたからさ、俺が出来ること、全部してやりたいんだ。助けてやってよ」
 こころ温まる言葉の、はずだった。
 普段ならば、頼もしく頷いてあげたいところだった。
 だが、都佳沙はふっと端正な顔立ちを翳らせる。
「僕に出来ることは、全部してあげたいけど―――」
 いたたまれなくなって、都佳沙は紘之から視線を逃がした。良くも悪くも正直であり、清廉である都佳沙には珍しかった。
 紘之の顔にふと、いぶかしむ色が広がるのと、まるで停電が起きたかのように世界が闇に飲まれるのは同時だった。
 完全なる闇、だった。
 深夜に照明がすべて落ちたときでも、きっとこれほど暗くはならない。
 すぐ傍にあるはずの壁も、足元の床すらも見えない。
「な、なんだ!?」
「動かないほうがいい」
 動揺する紘之に、都佳沙は鋭く告げた。
「羨んでるんだ」
 其処此処に、雑踏のような気配を感じる。
 ぐるりと周囲に気配をめぐらせて、都佳沙はつぶやいた。
「ウラヤム?」
 知らない単語のように紘之が鸚鵡返しにする。
「此岸と彼岸との間には、紛うことなく、境界があって理がある」
 ひゅう、と北風にも似た音を立てて、闇の中から何かが飛んできた。羽虫のように肌を掠めてまたどこかへ消える。
 ぬるりとした冷たさが咽喉のあたりを撫でて通り過ぎ、紘之は息を飲んだ。
「どんな事情があっても、どんなに未練があっても、その理を捻じ曲げて、留まることはできない」
 都佳沙は右腕を持ち上げ、真っ直ぐに伸ばした。
 ふかく呼吸をして、中空に伸べた指先に意識を集める.。
 意識を澄ませるのは、たるんだ糸を張る作業に似ている。
 一本の、白い糸を描く。Uの字に垂れたそれを、そろそろと両端から引っ張るように。
 切れ長の双眸を、一度閉ざした。
 指先で、アルファベットをくずしたような印を描いた。
 ほの白い軌跡が、指先の滑ったあとに残る。
「桜井さん、これから僕はとてもひどいことをしなければならない」
 ぼんやりと宙に残った掌大ほどの印に、掌をかざして、都佳沙は閉ざした瞳をひらいた。
「ごめんね」
 ふっ、と。
 自ずから発光する印が闇に溶けた刹那に、窓ガラスを盛大に割ったような音が響き渡った。
 周囲を包んでいた闇がこまかく砕けて零れ落ちていく。
 あっけなく。
 そう、これらもまた、それほど強いものではないのだ。
 普通ならば、そこに存在していても生きている人間には知覚されないぐらいの。
 耳鳴りのような悲鳴を残して、未練の残滓がはらはらと砕けて落ちた。
「どう、なってんだ」
 自失から立ち直って、紘之が喘ぐように言った。
「え? ふたりともどっから出てきたわけ?」
 瞳を皿のように見開いた勝利が、直に座っていた廊下から立ち上がり、駆け寄ってくる。
「空間が、捻じ曲がってる」
 端的に都佳沙が告げた。
 ループしている。
「嘘だろ、じゃあ出口なんてどこにも―――」
 ずるっと、ぬめりのあるものが滑る音に、勝利は口をつぐんだ。
 背筋が総毛立つような感覚に、まずは目線を動かし、そのあとにおそるおそる振り返った。
 粘度のあるものが、どっと天井から落ちてきて、床にじわりと奇妙な水溜りを広げた。
 まるで意志を持っているような赤い水面は、その表にふつふつと水泡を浮かべ始める。
「いのり!」
 未だぺたりと床に座り込んだままのいのりに、慌てて紘之が駆け寄った。彼女が一番、不可思議な水の傍にいる。
 細い腕を掴んで、引きずるように立ち上がらせた。
 紘之が細身の影を背に庇う間にも、赤い水面はまるで沸騰しているかのようにぶくぶくと泡だっていた。
 やがて、その中央部からむくりと何かが浮き上がってくる。
 ひとの頭に見えた。
 赤い雫を滴らせて、人の頭が鼻の中ほどまで浮き出していた。
 ぽっかりとあいた洞のような眼が、此岸の生きものたちをどんよりと見つめていた。
「どれだけ羨んだところで、あなたたちはこっちに戻ってこられないだろう!」
 朗と響く声を張り上げて、都佳沙は大股に、顔の半ばほどまで浮き出した異形のものに近づいた。
 ふつふつと泡立つ水面からのっぺりとした影が湧き出してくる。
 むくりと、うすっぺらいものが幾つも立ち上がった。
 どうやら、説得に応じるつもりはないようだ。
 都佳沙はふと、凛と涼しげな面立ちを翳らせる。
 本来なら彼らを消す必要もない。生きている人間に害を及ぼせるほどの力を持たないものなのだから。
 野生の獣が必要以上の獲物を狩らないのと同様に、この世に留まる思念の何もかもを消し去ろうと思っているわけではない。
 厳然とひかれた、こちらとあちらの境界を跨ぎ越えてしまう怨念こそ、狩るべきものであるならば。
 ただ此岸が愛しくて彷徨ってしまう未練まで、祓うつもりはなかった。
 彼らはただ、”うらやましくて”引きずられてきてしまっただけだ。
 集まって、膨張してしまった。
「―――残念だ」
 顔半ば浮き出した赤い影がひとつ、そして、のっぺりとした影法師がいつつ。
 臨戦体勢のそれらを眺めて、都佳沙はひとつ、吐息を落とした。
 おそらく、既に彼らに個というものはないのだ。
 妬ましさがすべてを引きずっている。
 身を切るように押し寄せる、冷気にも似た殺気が何よりの証拠だった。
「勝利」
 後方に右手だけを伸べて、親友を呼ぶ。
「ライター、持っているなら貸してもらえないかな」
「へ?」
 勝利は場違いに間抜けな声で答えた。
「返せなくなるかもしれないから、大事なものじゃないほうがいいんだけど」
 相変わらず、都佳沙は異形のものと向き合ったままだ。手だけが強請るように伸べられている。
「それは、いいけどさ、百円だから。ってか、大丈夫なの」
 おそるおそるにじり寄ってきた勝利が、リレーのバトンを渡すように都佳沙の手にオレンジのライターを滑り込ませた。
「ありがとう。それじゃあ少し下がっていて。心配しなくてもいいよ、―――彼らは僕には何も出来ない」
 都佳沙の声はいつも、凛と澄んでいて冷気すら感じさせるものだが、この時の声は普段とは何かが違っていた。
 もっと、人間的なあたたかみに欠ける、というのか。
 冷酷に聞こえた。
「正直なところ、僕はあんまり仕事の顔を君に見せたくないんだけどね」
 ぽつりと、自嘲めいたつぶやきが零れた瞬間、薄暗い空間に光が爆発した。
 ちっ、と小さな音を立てて都佳沙が安っぽい百円ライターに火を灯した。ただそれだけのことが、莫大な熱量と光量とを生み出した。
 ライターが生み出せる炎の粋を、完璧に越えていた。
 そして何より、焔は新雪よりも白かったのだ。
 じわじわと空間を侵食する闇を力づよく払い除ける眩しさだった。
「手加減っていうものをあんまり知らないんだ。悪いね」
 都佳沙は、熱を感じていないように見えた。
 煌々と白銀の炎をともすライターを握る腕は、床に水平にのばされている。
 ゆらりと揺れたしなやかな腕が、まるで小瓶の水を撒くように、左から右へと翻った。
 人魂にも見える白い炎が、黒影に飛びかかる。
 硝子に爪を立てるような奇怪な悲鳴が上がって、勝利は思わず耳を塞いだ。
 毅然と立つ都佳沙の背にはばまれて、ばけものたちの姿はよく見えないが、ライターから飛び移った炎がじわじわと、影法師を飲み込んでいくのが見えた。
 悲鳴は、影法師から上がっている。
 ぎぃぎぃと軋むような音をあげて、縮んでゆく。
 あまりにも一方的な虐殺に見えた。何も知らない勝利にも、力の差があまりにも歴然としていることに気がついた。
 のた打ち回り、食い殺される影の間をすり抜けて、都佳沙は赤い水溜りに近づいた。役目を終えたライターを呆気なく、リノリウムの床に放り出す。
 からりん、と渇いた音がやけに大きく響いた。
 四方で行われている凄惨な饗宴などまるで気にする素振りもなく颯爽と脚を運んで、都佳沙は、ふつふつと泡立つ赤いちいさな海を無遠慮に踏みつけた。
「忠告はしたよ」
 頭半ばまで現れている女の顔を見下ろす都佳沙の瞳に、温度はない。
 殺戮者の貌(かお)。
 霊媒を生業にするものとして、標的を見つめる目だった。
 ぎぃ、と古い扉が軋むような声で、血まみれの顔が鳴いた。
 ずるずると、床に埋まっているだろう体を引きずり出そうと、必死に身を捩る。
 融解しかけた赤黒い体が、少しずつ、這い出してくる。
 冷気を宿す黒曜石のような瞳をすぅっと細めた。都佳沙がしたことといえば、それだけだった。
 強い衝撃が床から吹き上げた。赤黒い海の、直下から。
 崩れかけていた禍々しいそれを、見えない巨大な拳が下から突き上げたかにも見えた。
 水気を多く含んだ粘土を壁に叩きつけるような音と共に、あまりにも呆気なく、それは四散した。たかく吹き上げられて、大粒の雨の如く降り注いだ。
 血の雨のような雫にさらされながら、都佳沙はさみしげに双眸を閉ざした。
 影法師を食い尽くした白銀の炎が、やがて赤い雨さえも包み込み、陽炎のようにふっと消える。
 何も残らなかった。

 寒々しい静謐が、世界を支配していた。
 誰もが無言だった。
 あまりにも無慈悲な所業をおこなうから、仕事とは関係ない場所で付き合っている人間には見て欲しくない。すぐには振り返ることが出来なかった。
 それに、あとひとつ。
 仕事が残っている。
「……空間が捻じ曲がっているのはね、理が破られているからだよ。彼らの所為じゃない」
 振り返る決心が、都佳沙には未だつかなかった。これからもっと、残酷な断罪をする。
 本当は、暴かずに済めばしあわせなのだろう、誰もが。
 けれどもゆがみを正さない限りは、捩れは決してなおらない。
「彼らは、ただ羨ましかっただけなんだ。だから引きずられるように集まって、ふくらんでしまった。あなたが」
 覚悟を決めて、都佳沙は閉じた瞳を開いた。
 迷いを振り払い、振り返る。
「あなたが今も、現世に留まっているから。―――いのりさん」
 奇妙な間があった。
 衛星中継の、時差にも似ている。伝わるまで、時間がかかった。
 唖然と口をあける男ふたりの後ろで、いのりがふと、目を伏せた。

「あなた本当は、先月の事故で、亡くなっているんでしょう」

 世界が凍りついた。
「どれだけ強い未練があったのかは分からない。だけど、それは許されないことだ」
 血を吐くような痛みを必死に押さえ込む。追及を緩めるつもりはなかった。
「ちょ、っと、待てよ」
 いちはやく立ち直ったのは紘之だった。
 まろぶように一歩踏み出して、獰猛な獣のような動きで都佳沙の胸倉を掴んだ。
「てめぇ何ふざけたこと言ってんだよ! いのりは……」
「このままだとあなたの周りに異界の穴が空く。本当は、気づいているはずだ!」
 咽喉元を締め上げる紘之の肩越しに、立ちすくむいのりを見据えて、都佳沙は声をはった。
「やめろよ! ぶっ殺すぞ!」
 紘之がきつく拳を握った。拳に殺意さえ込めて、都佳沙の頬に振り下ろした。
「紘くん!」
 繊細で、けれども芯のある透明な声が、紘之の動きを止めた。
 愕然と拳を下ろし、都佳沙を突き飛ばすように離すと、紘之はそっと、振り返った。
「もういいよ。ごめんね」
「いのり、おまえ、声……」
「うそついて、ごめんね」
 清楚な容姿にぴったりと嵌まる透明な硝子のような声だった。
 困った顔で、いのりは笑った。
 瀕死の負傷者めいた覚束ない足取りで、紘之はいのりに歩み寄った。
「おまえまで、何言ってんだよ」
 細い肩に、両手を乗せる。
 こんなにも簡単に、触れることが出来るのに。
「何のドッキリなわけ、これ」
 薄く笑う口元はひきつって、声は震えていた。
「本当はわたし、事故で死んだの。最期に、……最期に紘くんに、言いたいことがあって。言わなきゃって思って、そうしたらこうなってて。でも喋ったら、全部終わりだってわかってたから、今までずっと言い出せなかった。ごめんね」
「やめろよ……」
「銀さんのね、言う通り。こんなふうにズルしちゃいけないんだよ。変なことがたくさん起きるようになって、だけど怖くてやっぱり言い出せなくて」
 うるんだ瞳から一筋、白く透明な頬に雫が零れた。
「やめてよ、いのり」
「わたし、どうしても最期に紘くんに、会いたくって」
「黙れよ!!」
 雷が落ちたような怒声だった。涙をいっぱいに溜めた瞳で、いのりはじっと、紘之を見つめた。
「黙ってくれよ、たのむから……」
 いのりの細い両肩を握り締めたまま、紘之はうな垂れた。
「馬鹿、冗談だろ、ふざけんなよ、こんな」
 こんなことって。
 肩を掴んだまま小刻みに震える骨ばった手に、いのりがそっと、自分の手を重ねた。

「なんでおまえなの」
 うっすらと笑いが滲んだ声が言った。
 鉛のように重い頭をそっと、紘之はいのりの肩に乗せた。
「なんで、おまえなんだよ」
 渇いた笑いを、すぐに嗚咽が飲み込む。
 重みを預けるようにもたれかかる体を、いのりがそっと、包み込んだ。
 さみしさと愛しさとが同居する微笑は、慈愛の顔にも似ている。
 まるで、女神のような。
「子どもの頃からいつも、わたしのこと助けてくれて、ありがとう。いじめられたときも、庇ってくれて、すっごくかっこよかったよ」
「そんなの、いいんだよ」
「晃子さんが親戚から馬鹿にされたときにね、殴りこんでいったって聞いたときは、本当にびっくりしたけど」
「いいよ! 喋らなくて、いいよ……」
 ちいさく華奢な体を上から抱きすくめた。
「喋って全部、終わりになるんなら、言わなくてもいいよ、聞きたくねぇよ」
「だめ。聞いて」
 きっぱりと、いのりが突きつけた。
 昔と同じ、やんちゃを叱るときの、毅然とした声で。
「事故に遭ったときに、一番に紘くんに会いたかった。絶対会いたかった。……ありがとうって、言いたくて」
 震える体を抱きとめて、いのりは陽だまりのようにやわらかく微笑んだ。
「大好きだよ」
 囁くように。
「ずっと、ずっと。昔から、今も、これからも。見えなくっても、近くにいるから」
「……おまえがいなきゃ、何もできなかったじゃんか」
「できるよ」
「無理」
「だいじょうぶ。信じてる」
「俺、いっつもその、『だいじょうぶ』に、そそのかされて」
「だいじょうぶ」
 あとは、言葉にならなかった。
 聖母のような輪郭が、あわくぼやける。
 抱き込んだ温度がふと揺らいで、紘之は腕の力をゆるめた。
 やわらかい曲線を描く体が、透けていた。
「いのり……」
 今まで何度呼んだのか分からない名前を呼んで、紘之は腕を伸べた。
 それが。
 するりとすり抜けた。
 さみしそうに、いのりが笑った。
 ホログラムのように透けた白魚のような腕がそっと伸ばされて、紘之の顔の輪郭を包んだ。
 小さな体を精一杯伸ばして、いのりは、触れそうで決して触れることのないキスをひとつ。
 残して、消えた。


            *


 ざわめきが急に戻ってきた。
 やわらかな、黄昏の陽が斜めに差し込んで、床にまだらな模様を描く。
 呆然と立ち尽くす三つの影を不審そうに舐めまわして、事務員らしき女が通り過ぎた。
 紘之は、じっと自分の両手を見下ろした。
 空っぽの掌を。
 ゆるく、握って開いた。
 何度かそれを繰り返したあと、きつく拳の形に握る。
 勢いよく振り返ると、後方にいた都佳沙に掴みかかった。
 爪が食い込むほどに握り締めた拳を振り上げる。
「てめぇがっ……」
「やめろよ!」
 鋭い怒声が拳を止めた。
「そんなの八つ当たりだろ、都佳沙は悪くねぇだろ、やめろ!」
 厳しい顔をして、勝利が二人の間に割って入った。
「わかってる……」
 紘之はしずかに、都佳沙の胸倉から手を離した。
「わかってるよ、そんなの」
 ぷつんと糸が切れたように、紘之は膝から床に崩れ落ちた。
「畜生……」
 白くなるほどに握り締めた拳を、鈍い光沢のある床に叩きつけた。



4.

「あの、さ」
 夏とあきらかに違うのは、日暮れが早くなった、ということだ。
 すっかりと紫色に彩られた空のもと、校門へ向かって並木道を辿る道すがら、今までずっと黙っていた勝利が口を開いた。
「その、ごめんな?」
「どうして?」
 気まずそうに詫びた友人に、都佳沙は問い返した。
「誰かがいずれはやらなければいけないことだよ。これ以上ゆがみが酷くなったりしたら、完璧に部外者の僕の同業者が投入されて、もっと酷い方法で彼女の秘密を暴いたかもしれない。これでよかったんじゃないのかな」
「だっておまえ、嫌な思いしただろ」
 毅然と、勝利は切り込んできた。
 勝利が気にしているのは、効率やら利益やら、そういうものではなかった。
 親友の、損害(ダメージ)だった。
「おまえに全部さ、被せたみたいじゃん。肝心の部分とか、キタナイこととか、全部」
 お天気少年を地で生きてきたはずの神田勝利が、可哀相なぐらい肩を落としているのを見て、都佳沙は苦味を含んだ笑みを浮かべた。
「誰かが、見やぶらなけなければならなかったことだよ」
 先程と同じようなことを、都佳沙はくりかえした。
「そして誰がやったとしても、しあわせな大団円にはならないことだ」
 たとえ、他の誰がここに立ったとしても、「めでたしめでたし」では終わらない。
「うん」
 頬のあたりを人差し指で掻いて、勝利は素直に頷いた。
「でも、さ。しんどかっただろ、ごめんな」
 だが、勝利もしつこい。
 自分が巻き込んだと、そう思っているのだろう。
 諦めたように微笑して、都佳沙は頷いた。
「わかったよ」
 もっとしんどいことなら、たくさんあるのだ。
 確かにせつなかったけれど。
 彼の知らない、もっと陰惨で血なまぐさい場所もある。
 けれども勝利は、自分が巻き込んだ一件で、都佳沙が傷ついたのではないかと、心のそこから心配しているのだった。
 こういう、一本気な誠実さを、いつもまぶしく思うのだ。
 彼に成り代わりたいとは思わない。自分の現状にも満足している。
 それでも、憧れというものはあってもいいものだと思う。
 自分のいる、その世界とまわりの人間とを余すところなく大事にできる才能を、うつくしいと思う。
「じゃあ今度は本当に、勝利に奢ってもらうことにする」
 苦笑から含み笑いに切り替えて、都佳沙は横目で勝利を窺った。
 うっ、と勝利は急所を突かれたような呻き声をあげた。
「わ、わかった。次の給料日まで、待ってくれ」
 きりりと表情を引き締めて、借金取立ての延期を頼むかのように言った。
「すぐがいいな。そんなに暇じゃないから」
「そんな殺生な!」
 悪魔めいた笑いを深くする都佳沙に、勝利は憐れな悲鳴をあげる。
「一竜っていう蕎麦屋の」
「は?」
「天蕎麦が食べたい」
 謎の言葉を聞いたかのように、勝利は一瞬だけきょとんとした。
 やがてその顔に、じわじわと笑みが広がる。
 蕎麦屋『一竜』の息子は、こみ上げる笑いを堪えながら、都佳沙の背を叩いた。
「わかった。任せておきたまえ」
 途端、借金塗れから大富豪になったかのように踏ん反りかえる。
「あ、そういうことならちょっと待って!」
 ふと何かに気づいて、勝利はジーンズのポケットから携帯電話を引きずりだした。
 ぽちぽちと操作をしたかと思うと、耳に宛がう。
 しばらく呼び出し音が続いたあとで。
「あ! これから暇?」
 電話をとったらしい相手に、前置きもなく喋りだす。あまりの唐突さに、相手がなんとなくわかっている都佳沙も苦笑する。
「なんだよ冷たいなァ。いいから一竜まで来いって。修恵からならすぐだろ。都佳沙もいるから。……都佳沙の名前聞いた途端真剣に聞く気になりやがって。信じられん」
 いつも勝利が唐突過ぎるからだよ、とぼやく声がかすかに聞こえてきた。
 正論だ。
「えー、いいだろ。晩メシ奢るから! じゃ!」
 勢いをつけて、勝利は電話を切った。
「そんなだから、会うたびに嫌な顔をされるんだよ」
 ぱくんと携帯電話を折りたたむ勝利に、都佳沙はぷすりと釘を刺した。
「大丈夫、なんだかんだで、あいつもやさしいから平気」
 さっきまでしょげ返っていた人物とは思えない。勝利は勝ち誇った様子で、ふふんと笑った。
 しかし都佳沙も、反論しようとは思わなかった。勝利の見込みは正しい。
 結局、彼の実直さを分かっているから、破天荒さも味として容赦してしまうのだ。
 もしも、彼のいない場所で同じ事件に巻き込まれていたとして。
 こんなにすぐに、笑えていたかはわからない。


 空は急速に、紫から紺色に移り変わっている。
 あと一刻も過ぎないうちに、闇が降るだろう。
 もっともっと、凄惨で血生ぐさい世界も知っている。
 これからも、たくさんの痛みや闇ややりきれなさに触れるだろう。
 けれど。
 その一切を持ち込まずに、他愛のないことで笑える世界が確かに存在しているという手ごたえは、力づよい後ろ盾になる。かならず。
「勝利がいてくれて、助かったよ」
「え? なに改まって」
「ライター、借りられたし」
「えーなんだ、そんなことー?」
 ぱあっと期待に輝かせた顔を一瞬にして翳らせる。百面相はお手の物なのだ。
 本音とせつない余韻とを胸の内に仕舞いこんで、都佳沙は歩きだした。
 やがて闇の降る世界へ。




<了>



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