曇ト4月t目




1.

「やだぁ、またきた!」
 嫌悪感を露にした女の声が耳に届いたのは、教室を出ようとしているまさにそのときだった。
「なぁに? またアレ?」
 ふと興味を引かれてふりかえると、窓際にいるクラスメートの女子ふたりがひとつの携帯電話を覗き込んでいるところだった。
「まじキモイ! ほんと、なんなんだろコレ!」
 携帯電話の持ち主らしい女子が、忌々しいものにふれる手つきで携帯電話をいじっている。
「またアレかぁ」
 すぐ傍にぬっと人影があらわれたので、要はおどろいた。
 見れば、中学時代からの友人が、片腕に書類をたくさん抱えて立っている。
「あれ、何おまえ今から帰んの? じゃあ俺も途中まで行くわ。待っていなさい」
 なぜか上から命令されてしまった。
 相手が調子のいいのはいつものことなので、仕方ないとあきらめつつ、要は教室後ろ側の扉傍で待った。
 先程騒いでいたクラスメイトたちは、もう既に別の話題で盛り上がっているようだ。
 また、アレ? アレとは一体なんだろう。
 巷の噂などにはとんと疎い要には、何のことだか見当もつかない。

「あのさ、アレってなに」
 校門を出たあたりで、要はとうとう友人に訊いた。
 神田勝利は一瞬ぽかんとしてから頤を持ち上げて中空をにらみ、それからぽすんと手を打った。
「ああ、アレ!」
 芝居がかった大袈裟な動作に、要は眉をひそめる。
「だからアレって何さ」
 俄かに友人の機嫌が悪化したのを悟って勝利は降参するように両手を挙げた。
「ケイタイのね、メール」
「メール?」
「なんつーか、チェーンメールみたいなやつ」
 勝利の口調に深刻さはなかった。
「流行ってるの?」
 使用頻度は高くないとはいえ、要も一応携帯電話を所持している身だ。そんなものが流行っていれば、一度ぐらい届いていてもいいようなものだが。
「んー、流行ってんだけどね。女子のあいだで」
 勝利も不可思議そうに首をかしげる。
「それも、修恵の女子のあいだだけなんだよね」
 修恵、とはふたりが通う私立学園の名前である。この場合はおそらく狭義で、高等部を指すのだろう。
 確かにそれは不可解だ。
 無差別に送りつけるのならば、話は簡単だ。
 だが、特定の高校の、特定の性別だけをねらうというのは、とてつもなく手間がかかるんじゃないだろうか。
 敢えて手間のかかる方法を選んでいることが、たしかに気持ち悪い。
 分かりやすく渋い顔をする友人に、勝利はなぜか得意そうな顔をする。
「もっとキモチワルイのはその中身でさ」
 何でおまえが得意そうなんだよ、とは思ったのだが好奇心のほうが勝った。黙って先を促す。
 すると勝利は自分の携帯電話をひらいて、なれた指先でいくつか操作をすると、要の前に差し出した。

―――曇ト4月t目。

「……なにこれ」
 液晶画面にならんだ文字に、要は整った眉を寄せる。
「だから、それがメールのタイトルなのよ」
「これが?」
「そう。で、本文はナシ」
 なめらかな筆が背中を撫でていった気がした。
 妙な寒気が一瞬だけ体を包む。
 確かにこんなものを突然送られてきたら、「キモイ」と言いたくなるのもわかる。
「差出人とかは?」
 要は勝利に携帯電話を突っ返す。
 別にこの携帯電話が悪いわけじゃないのに、と少しむくれてから、勝利はそれを受け取った。
「それが、返信してもかえってくるんだって。宛先不明で」
 なんだそれは。
 ますますわけがわからなくなってしまった。
 一体そんなことが可能なものなのか。
「だからさー、銀サンちの領分かとも思ったんだけど、なんか今いないじゃない?」
 ふたりの共通の友人で、常識ではちょっとはかれない現象を相手に仕事をしている人間がいる。しかし、高校生の身でありながら全国を忙しく飛び回る彼は、今週頭から学校を休んでいた。
「タチの悪い悪戯だったらいいんだけどネ。今のところ被害とかは出てないみたいだし、キモチワルイけどさ」
 実際男子生徒には害がないそうなので、ふたりともまったくもって他人事である。
 要にしてみても、大変そうだなとは思うけれど、結局のところはあまり深刻には受け止めていなかった。
 そのときには。
「そーいえば、校舎裏にある古い桜の樹さぁ、やっぱり切られるんだってな」
 勝利自身もあまり大事にはとらえていないようで、すぐに話題は校庭に生えている大きな桜の樹に切り替わった。
 大きな樹なのだが、根元のあたりに病気でもあるものか、切られるのではないかという噂が随分とひろまっていた。
「そっか、やっぱり切られるんだね」
 高等部のシンボル的な存在だっただけに、やっぱりさみしいものがある。
 要は少年とは思われないような愛らしい顔を翳らせて、つぶやいた。
「しょうがないけど、寂しいよねぇ」
 大きく首を縦に振って、勝利も同意をしめした。


            *


「きゃあああ!」
 がっしゃーんと様々なものを引き倒す音と、女の悲鳴が聞こえた。
 思わず要は足を止めて、音のしたほうに顔を向ける。
 家の傍にある商店街の只中だった。要のほかにも何事かと足を止めている買い物客がちらほらいる。
「奈摘さん」
「やだ要くん! 恥ずかしいところ見られちゃった」
 八百屋の店頭で、重ねてあったダンボールを伴って倒れている女性が、不覚だとばかりに顔を覆った。
 ダンボールの傍に松葉杖が落ちているのと、彼女の右足が包帯と添え木とでふくれあがっているのを見とがめて、要は慌てて歩み寄った。
「だいじょうぶですか?」
 要は現在、親とは離れて知り合いと暮らしている。持ち回りで家の仕事をすることもあるので、商店街の人間とは随分となじみだった。
 何よりも、本人にはあまり自覚がないのだが、頭に「絶世の」をつけてもいいぐらいの美少年であるから、商店街のおば様方は総じて要にとても甘い。
 奈摘は八百屋の娘で、現在はOLとして働いているのだが、若い女性らしく常連の男の子にやっぱり甘い。
「ごめんねぇ、ありがとう」
 いつもはびしっとスーツを着こなしている奈摘も今日は普段着だった。オフィスレディらしくいつもは涼しげに施されている化粧も、幾分かやわらかい。要に手を借りて、ようやく立ち上がる。傍に転がっていた松葉杖を拾って、差し出してやった。
「足、どうしたんですか?」
 どこからどう見ても骨折している。
「うーん、事故に遭っちゃってねぇ。折っちゃったのよ」
 恥ずかしそうに奈摘は肩を竦めた。
「こら奈摘! だから気をつけろって言ったでしょ!」
 八百屋の奥から、恰幅のいい女のひとが飛んでくる。八百屋のおかみさんで、奈摘の母だった。
「あら、要ちゃんおかえり」
 見慣れた少年の姿を発見して、おおらかに破顔する。
 母親に至っては、「ちゃん」扱いである。要もこのあたりに住んでもう五年ほどになるので、その扱いも仕方ないのかもしれないし、最初からあまり気にしていない。
 それよりも、普段は家に帰ったときにしか言われない出迎えの挨拶を、いたるところでもらえるほうが嬉しかった。
「もう、大声出さないでよ、恥ずかしいなぁ!」
 飛び出してきた母親を振り返って、奈摘は照れ隠しに大声を出す。
「事故って、大変ですね」
 奈摘の足が包帯と添え木とで普段の何倍にも膨らんでいるのが痛々しい。包帯がやけに白いから尚更だ。
「もう、この子がフラフラ歩いてるからなのよ! 足以外はぴんぴんしてるんだからだいじょうぶよ」
 大きな掌で、母親が奈摘の背をばしりと叩いた。
「フラフラってあのねぇ。私だって疲れてたのよ! ……たぶん」
「たぶん?」
「うーん、事故のショックかなぁ、あんまり覚えてないのよね。事故の前後のこと」
 左側の松葉杖だけで体をささえて、奈摘は顎のあたりを撫でた。
「ああ、そういえば要ちゃん、修恵の桜切られちゃうんだって?」
 考え込む娘の傍らで、何かを思い出したように八百屋のおかみさんが切り出した。
「え? あ、はい」
 こっくりと首を前に倒して、要はうなずく。
「あらァ、残念ねぇ。立派な樹だったのに」
 ふくよかな頬に片手をあてて、心底残念と彼女が嘆息する。
「桜……?」
 なぜかそのとき要は、奈摘の顔に緊張のようなものが走ったのを見た。
「そうよ。アンタの卒業式あたりにもちょうど咲いてたじゃないの」
「あ、ああそうね」
 曖昧に奈摘がうなずいた。
「奈摘さん、修恵に通ってたんだ」
 要は自分よりも十ほど年上の奈摘がどこの高校に通っていたかなど、もちろん知るはずもなかった。
「そうよー、要くんの先輩になるんだから。言ってなかったっけ?」
 ぱっと表情を変えて、奈摘は要の話に飛び乗ってきた。その”くいつき”具合に、またもやすこし違和感を覚える。
 まるで、桜から話題を逸らそうとしているかにも思えた。
「奈摘ィ! 会社から電話だ!」
 八百屋の奥から男の怒鳴り声が飛んできた。
「はぁーい! 要くん、さっきはありがとね! 恥ずかしいから忘れて!」
 住居になっている店の奥に大声を返して、奈摘は照れ笑いひとつ残してそそくさと入っていってしまった。
 母親は、なぜかその背を複雑な顔で見送っている。
 娘の姿が店の奥にすっかり消えてしまうと、彼女は改まったように要に向き直った。
「要ちゃん、修恵の女のコたちに変なメールが流行ってるって聞いたんだけど」
 声をひそめて、おかみさんが口をひらく。
 商店街の情報網とはすごいものだ。在学中の要がたったさっき知った情報を、既に仕入れている。
「そうみたいです」
 自分では体験したことがないので、煮え切らない返事しかできない。
「どこから送られてきているかとか、やっぱり分からないのかしら」
「え?」
 要と違って、彼女は深刻だった。
 僅かに目を伏せて、いつもは溌剌とした表情に憂いをうかべる。
 ここ―――八百善の娘は奈摘ひとりきりだ。別に被害を受けているとも思われない。何しろ被害者は修恵学園高等部の女子に限られている、はずだから。
 けれど、彼女の表情は当事者以外のなにものでもなかった。
 状況が飲み込めていない要に対して、おかみさんはしばらく逡巡した様子だった。しかし、覚悟を決めたのか、伏せた顔をあげて。
「奈摘ね、あんなおっちょこちょいの子だけど、ふらふら道路に出てっちゃう子じゃないのよ。本人は疲れてたんだって言い張るんだけどね、そんなに忙しい時期でもなかったから、ふらふら赤信号で出てっちゃうなんて信じられなくってね」
 潜めた声で、奈摘の母は一気に喋った。
「事故に遭ったっていうから慌てて病院に駆けつけたら、あの子取り乱しちゃってて。なんでも、届いたメールを見た瞬間に、半狂乱になったっていうのよ。それが―――」
 終いまで言わなくても、要には話の筋がわかった。
「あの変な題名のメール、なんですか」
 低い声で確かめると、いつも快活な彼女が沈んだ顔でうなずいた。


            *


「そんなことがねぇ」
 年のはなれた同居人が、深刻な顔つきでこぼした。
 商店街での出来事を話して聞かせたのは、何も要の口が軽いからではない。八百善のおかみさんに相談を持ちかけられたからだ。

――― 一馬ちゃん、なにか分からないかしら。

 おそらく藁にも縋りたい気持ちだったのだろう。
 奈摘は近頃、ひどく魘されているというのだ。
 ちなみに、要同様ちゃん付け扱いされているのは、目の前に座っている同居人である。
 要よりも八つほど年上で、一応肩書きのほうは探偵ということになっている。だが、推理作家に出てくるような名探偵とはとても程遠いわけであって。
 八百善のおかみさんはよっぽど困っているとしか言いようがない。
 もちろん彼―――成瀬一馬も地元の商店街で贔屓をしてもらっているだけに、何かしてやりたいのは山々なのだろうが、如何せん、背の低いひとの代わりに電球を取り替えてあげるようにはいかない。
「ちょっとむずかしいな」
 案の定、一馬は濃紺の瞳をほそめて苦そうにつぶやいた。
「だよね」
 元々むずかしい問題なのだ。一介の探偵ごときにどうこうできるとは、要も思っていなかった。
「雅さんとか、何か分からないかな」
 要は知り合いの名前を持ち出した。
「俺も同じことを考えていたけどね」
 話題に上った人物は、一般常識ではとても片付かない事件などに詳しい人物だった。
「明日にでも、少し訊いてみるよ」
「うん、お願い」
 頼みの綱に関しては昔馴染みの男に任せることにして、要はふたりで住むには贅沢な一軒家の階上に引き上げた。



2.

 薄紅色の花弁が視界をうめつくし、奈摘は悲鳴をあげて飛び起きた。
 荒々しい呼吸が聞こえたと思ったら、自分だった。
 こめかみから顎に向かって一筋汗が滴り落ちてくる。
 何度も深く呼吸をして、体を落ち着けようと試みた。
 程なくして早鐘のようだった鼓動が少しずつ落ち着いてくる。
 今は何時だろうと考える余裕が出来て、奈摘は枕もとの携帯電話を持ち上げた。
 メールが届いていた。
 一瞬、心臓が止まった。
 折角落ち着いたはずの鼓動が、更にうるさく鳴りはじめる。
 寝てしまおう。朝、確認しよう。
 携帯電話を枕もとの充電器にもどして、奈摘は頭から布団を被った。
 が、いつまで経っても眠気がやってこない。
 どうしても枕もとに意識がいってしまう。
 しばらくきつく目を閉じて眠ろうと試みてから、しかたなく奈摘は体を起こした。
 この寒買い換えたばかりの携帯電話は、この間勢い良く落としてしまったせいでいろいろなところに傷がついている。
 かすかに震える指先で画面をひらくと、目に痛いほどの光が一気に溢れ出した。
 メールボックスを開く。個別に割り振られたフォルダを確認した時点で、奈摘はホッと胸を撫で下ろした。
 彼氏からだった。
 安堵して、メールを開く。

―――調子どう? 俺が代わってやりたいぐらいだよ。何かあったら言えよな。

 みじかいメールだった。
 思わず口元に笑みを浮かべてしまう。
 途端に胸の奥がにぶく痛み出す。
 しあわせだ、と思うたびにつらくなる。
 もう忘れてしまおうと決めたはずなのに。
 あの時、三人で約束をした。このことは黙っていよう。もう忘れよう。
 約束どおり、忘れた。忘れていた。

 あのメールが届くまでは。


            *


 意味不明な文字の羅列に、一体どんな仕掛けがあるんだろうか。
 勝利から教えてもらった文字列をノートの隅に書き出して、要は首を傾げた。
 漢字、カタカナ、数字にアルファベット。
 規則性がわからない。
 なぜ女子だけなのか。
 なぜ修恵学園の生徒だけなのか。
 なのにどうして、奈摘に届くのか?
 その日一日は、全くと言っていいほど授業に身が入らなかった。
 これでも受験生だというのに、よくない。そうは思うのだが、なかなか簡単に割り切れるものでもない。
 せめて学校にいるうちは忘れようとも思うのだが、休み時間の度にクラスの女子の誰かが嫌悪感も露な悲鳴をあげるのでは、忘れられるはずもない。
 要の憂鬱が晴れたのは、放課後になってからだった。

 校門に向かうにつれて、なぜか浮き足立っている女子が増えていることに気がつく。
 “うきうき”した気配がどこからもたらされるものか、校門を出たところで要は悟った。
 校門から少し歩いたところに、一台の車が停まっている。黒い乗用車だった。
 その車にもたれかかるようにして、背の高い人影がある。
 ファッションスーツに身を包んだいかにもオトコマエな金色短髪の男に、周囲の空気が騒がされているのだった。
 見覚えがありすぎるその姿に、警戒心もなく要は小走りに近づいた。
「雅さん」
 高校生の接近に、男は片手を挙げて、車から体を起こす。
「近くを通ったからさ。少しだけ待ってみようと思ってね」
「ごめんなさい、雅さんもいそがしいですよね」
 まさかこんなに早く反応があるとは思わなかった。
 が、よくよく思えば面倒見の良い相手のこと、今日も無理に時間を作ったのかもしれない。
 自分が考え無しだったような気がして、急に申し訳なくなった。
「大人には甘えておきなさい」
 勝ち誇ったように言われてしまえば、それ以上謝ることもできない。
 小さく笑ってしまった。


「修恵のまわりをちょっと調べてみたけど」
 滑り出した車が、はじめの信号に引っかかったところで、派手ないでたちの男が口を開いた。
「俺としては別に引っかかるものはなかったかな」
 力になれなくて悪いけど、と銀雅はつけくわえた。
「そう、ですか」
 落胆するのは筋違いと分かっていながら、やっぱり要はガッカリした。
 彼はいわゆる怪奇現象と呼ばれる方面にはプロフェッショナルだ。その目に間違いはない。
「ああ、そういえば桜、切るんだって?」
 沈んだ空気を引っ張り上げるように、雅は話題を変えた。
 雅も修恵学園の卒業生だったか。
 春になれば毎年見事な桜を咲かせていただけに、在学生のみならず卒業生にも噂は広まっているらしい。
 要がこっくりとうなずいて応えると。
「まぁ、あの樹にも色々あったからな」
「いろいろ?」
 独白に、すばやく要が飛びついた。
「後輩方には緘口令が敷かれてるかな? 俺が高三だったから、丁度十年前か」
「いいですよ、煙草。慣れてるし」
「……バレてましたか。ゴメンネ」
 苦味を含んだ笑いを浮かべて、雅は煙草を引きずりだした。
 同居人同様、彼もまた重度のスモーカーなのである。なんとなく落ち着かない様子は、それに違いない。短くない付き合いで、重々承知だ。
「んで、十年前なんだけどね」
 窓を細く開いてから、雅は煙草に火をつけた。
「あの桜の裏、今は埋め立てられてるけど、俺が通ってた頃は崖ってほどでもないけど結構危なかったのよ。整備もされていなければ柵もなくってね」
 全く知らなかった。
 確かに桜は高等部の敷地ギリギリに生えている。裏門から伸びる道に面していて、道とはかなり段差がある。が、傾斜はしっかりとコンクリートで整備されているし、フェンスが張り巡らされているから、間違っても落ちるということはない。
 けれども、剥き出しの傾斜で柵もなかったとすれば、かなり危ないように思える。
「隣のクラスのコだったんだけどねぇ。ある朝桜の裏手の道でみつかってさ」
 メンソールの紫煙を、雅はほそく吐き出した。
「落ちても死ぬ高さじゃないって、タカをくくってたのが裏目に出たっていうのか。打ち所が悪かったのか。……まぁ、冷たくなってしまってたわけ」
 相槌も打てずに、要は黙って目を伏せた。
「その他にも、どこにでもありそうな噂もたくさんあったけどね。卒業前にあそこで告るとどうだとか。まぁ、その一件があってから事件を知ってる在校生はあんまり近づかなくなったけど」
 何しろ死因があまりはっきりとしないわけだから、薄気味悪かったのかもしれない。
「石川奈摘って名前、知ってますか」
 ふと思い立って、要は顔なじみの名前を引っ張り出した。
 まさかとは思ったけれども、一応念のため、だ。
 都内でも有名な私立高校である修恵学園は、小子化なんて言葉を知らないかのようなマンモス学園である。
 いくら年が近いとはいえ、イコール顔見知りとは限らない。
「いしかわ? なつみ?」
 煙草を備え付けの灰皿に押し付けて消しながら、雅は首をかしげた。
 やっぱりか、と要が肩を落としかけると。
「八百屋のむすめ?」
 予想外に、てごたえがあった。
「知って、るんですか?」
「ああ、クラスメートだったけど」
 どうかした? と逆に雅がいぶかしんだ。
 要は掻い摘んで、先日のやりとりを説明した。
 修恵学園高校の女子にしか届かないはずのメールが、なぜか奈摘には届いているということ。奈摘がそのメールをとても、おそれているということ。
「怯えてるってことは、あいつは知ってるってことだ」
 素早く新しい煙草に火をつけて、雅は目をすがめて前方を見た。
 ぽろりと目から鱗が落ちた心地で、要は運転席を見た。
「だってそうだろう、メールが届いた奴らはただ意味不明で気持ち悪がってるだけだろ。半狂乱ほどまで取り乱すなんて、尋常じゃない。あいつはそのメールがどういう意味合いなのか分かってるんだ」
 交差点でハンドルを左に―――要の住処がある方向に切って、雅はきっぱりと言った。
「そのメールってのは、本当は不特定多数を狙ったもんじゃないかもしれないな」
「どういうことですか?」
「修恵の高等部の女子だった、特定の人間に送りたかったものが、伝播して広がってるのかもしれない」
「そんなことって、あるんですか?」
「ひとの心ってやつは、結構色んなことができちゃうものなんだよ」
 すこし苦味を含んだ笑いを、雅は口元にひらめかせてつぶやいた。



3.

 自宅からそれほど離れていない場所に、とりあえず構えている探偵事務所がある。
 もちろん万年閑古鳥なのだから、従業員や助手を雇っているわけでもなければ、唯一の関係者がふらりと出歩いても問題はないわけだ。
 煙草が切れた。そんな理由でふらふらと商店街に出たのだ。
 近場の自動販売機には置いていない銘柄なので、商店街の中にあるタバコ屋に行くことにしている。
「もういや!」
 金属質の悲鳴を、耳が拾った。なんとか言葉になっているが、聞き取りづらい女の声だった。
 足を止めて、一馬は悲鳴を目で追った。
 見慣れた商店街の風景だ。すぐ傍に並べられている野菜はどれも艶やかでみずみずしい。
「忘れたはずだったのに!」
 尖った悲鳴は、その店の奥から飛んでくる。
 慌しい騒音を伴って、金切り声が近づいてくる。
 松葉杖の女が、覚束ない足取りで店の表に転がり出てきた。
「奈摘!」
 聞き覚えのある声が―――こちらも随分取り乱している―――若い娘を追ってくる。
 ところ狭しと並べられた野菜のせいで、店のなかはひどく狭い。
 あちこちに、骨折しているらしい足をぶつけているのだが、彼女の勢いは全くおさまらない。猛然と商店街のとおりへと向かってくる。
 痛みを感じていないのは、あまりいい状態ではない。
 一馬は大股に歩み寄ると、今にも転びそうな奈摘の進路をはばんだ。
「奈摘さん、ちょっとごめんね」
 小さくささやいて、驚いている奈摘の額に、自らの右手を押し当てる。
 驚きに瞠られた奈摘の瞳が、とろりと焦点を失って、膝ががくりと崩れた。
 からりと音を立てて、松葉杖がコンクリートに転がる。
 一気に力の抜ける体を、一馬は抱きとめた。
「奈摘! ……ああ、一馬ちゃん」
「急に倒れちゃって」
 母親の顔が、見慣れた相手と娘を見とめて、ほっと緩む。
「ありがとねぇ。昨日も要ちゃんに助けてもらっちゃって。ホント、どうしちゃったのかしら」
 ぐったりと力を失った奈摘を、母親が心配そうに覗き込んだ。
「眠っているだけですよ」
 いやに確信をもって、一馬が断言した。
 たとえうら若い女性とはいえ、気を失っていればそれなりの重みがある。店の奥には媚びこむのを請け負いながら、一馬は一瞬脳裏にちらついた情景を反芻する。
 とても幻想的で、うつくしい情景だった。


            *


「え、奈摘さんに会った?」
「夕方あたりにね」
 その晩、要は同居人から夕刻のいきさつを聞いた。
「なんだか随分と追い詰められているみたいだ」
 結局のところ煙草は買い忘れてしまったものか、どことなく手持ち無沙汰に一馬は告げた。
「取り乱していたから、ちょっと強引に眠ってもらったんだけどね」
 ダイニングにあるテーブルで参考書を開いている要にむかって、窓際に設置されたソファーのあたりから、一馬は意味ありげに右手を振って見せた。
「……めずらしいね」
 要は心の底から言った。
 この同居人にはすこし常人と違った力が備わっているのだが、彼自身はそれを行使するのを好まない。
 だから、よほどのっぴきならない状況以外では、その力を使ったりはしないはずなのだ。
「そうでもしないと、落ち着かなさそうだったからね」
 本人もあまり本意ではないらしい。ちいさく肩を竦めるのが見えた。
「で、だ」
 癖のない黒髪を、一馬は後ろ側に掻きやった。
「たった一瞬だったけど、大きな桜の樹が見えた」
 常人とは少し異なる色の瞳をほそめて、一馬は夕刻垣間見た情景を蘇らせる。
 要は思わず、持っていたマーカーをぽろりと手から零した。
「桜?」
 とんでもないものを、見落としていたような気がした。
「あたりは真っ暗で、大きな満開の桜がぼんやりと、光っているみたいな」
 限りなく白に近い花弁が、吹雪のように乱舞する。それはとてつもなく美しい情景だった。
 閃光のようにまたたいてすぐに消えた光景だというのに、フラッシュの残像でもあるかのように克明に残っている。
「奈摘さんが……」
 うわごとのように要がつぶやいた。
「桜がどうかしたのか?」
 要は答えなかった。白いままのノートに転がしたマーカーをぼんやり見つめている。
 木々もすっかりと葉を落とす、こんな季節はずれの時期に。
 やけに何度もその単語を耳にしたことに、今更になって気がついた。
 蚊帳の外の話だと、かかわりはないものと除外していたけれど。
 しかし思い返せば、いつも背中に添うように、常にそこにあったのだ。
 桜は。


            *


「いい加減にして!」
 鞭のようにしなる怒声が真正面から叩きつけられて、奈摘は肩をすくめた。
「今更こんなところに呼び出して、どういうつもり。約束したでしょ」
 亡霊のように枝葉を伸ばす老木を背負って、小柄な女が声を張り上げている。
「奈摘、あんた考えすぎだよ」
 怒髪天を突いている小柄な女の隣で、頬がこけるほどに痩せた女が、憐れむように奈摘を見つめた。
「何か悩んでるんじゃないの? だからなんでも”アレ”のせいにしようとするんでしょ」
 つめたい風になぶられる髪をおさえて、痩せた女は奈摘から目をそらした。
「やめてよ! 気づいてるんでしょ!」
 松葉杖に縋りついて、奈摘は怒鳴り返した。
「あんたたちの、その腕とか、顔とか! 本当は思ってるんでしょ、朱美かもしれないって!」
 小柄な女の腕にも、まっさらな包帯が巻きつけられ、もう片方の痩けた頬には湿布が当てられている。
 ふたりとも、急所をするどく刺されたかのように、奈摘から視線を逃がした。
「朱美が怒ってるんだ、わたしたちがあの時、怖くなって逃げたから」
「何よ、あの子が勝手に落ちたんじゃない!」
 頬を怒りに赤らめて、小柄なほうが奈摘の胸を突き飛ばした。
 覚束ない脚は呆気なく崩れて、奈摘はその場に仰向けに倒れた。
「別にあたしたちが突き落としたわけじゃないでしょ! あの子が! 勝手に足を滑らせたんだから!」
 両腕を後ろ手について、奈摘は立ちふさがる同級生を見上げた。
「打ち所が悪くって、即死だったって言うじゃない! 下に駆けつけたって、助けられなかったのよ!」
 怒りと目に見えぬ恐怖に、愛らしい顔が強張っている。
 息継ぎもせずにまくし立てる言葉は、まるで自分を宥めすかそうとしているように震えていた。
 彼女も同じように、恐怖にひたされている。
「わたしたちが、言葉で追い詰めたんだよ、あの子のこと」
 目元が俄かに熱くなった。目のふちに盛り上がる水分で、視界が歪んだ。
「わたしたちが、楽しく笑って、しあわせになってるから」
 望まれて、愛されて、ゆるされているから。
「だってようやく忘れたんだよ!」
 痩けた頬に当てられた湿布を抑えて、今まで黙っていたひとりが嗚咽を零した。
「私たち、ずっと怯えてたじゃない、高校卒業してからも、ずっと! ようやく普通に笑えるようになったのに! 朱美!」
 封印していた名前を叫んで、後方の桜を振り仰ぐ。
「私たちだって、十分苦しい思いしたのに、まだ足りないの!? ねえ、聞こえてるんでしょう!?」
 震える絶叫に促され、奈摘は地面に転がったまま、巨木を見上げ。
 まばたきと呼吸とを、同時にわすれた。

 頬につめたい欠片がひたりと落ちた。
 薄紫のほんのりとした光が一気に視界を埋め尽くす。
 ごう、と音を立てて突風が枝を強く揺さぶると、牡丹雪の群れが横殴りに叩きつけた。
 しかしそれは、雪などではなかった。
 人肌に触れても融けもせず、ひたひたとへばりつく。
 老木が、決して今咲くはずのない花を零れんばかりに開かせていたのだ。
「朱美……」
 容赦なく降り注ぐ薄紅の花弁を愕然と見上げて、奈摘は友人だった少女の名を呼んだ。


            *


 校庭に踏み込んですぐに、違和感に気がついた。
 一部が異様に明るい。
 かといって、何か灯りがあるわけではなかった。
 淡い光が、ぼんやりと零れるように広がっているのだ。
「桜が……」
 声に焦燥を混ぜて、要は傍らを振り仰いだ。
 無言で、一馬は歩調を速めた。その横顔には、日常では全く見られないきびしさがある。

―――周藤朱美。
 修恵学園の卒業生である派手な男は、少し調べたあとでその名前を持ち出した。
 十年前、整備がなされていなかった崖から転げ落ちて、不慮の死を遂げた少女の名前だ。
 事故の直前、友人と諍いを起こしていた、という話も出たが、少女たちはそろって知らないと首を横に振ったという。
 そのうちの一人が、石川奈摘だった。

―――だけどな、あの桜のまわりは一回調べたんだぜ。
 いぶかしむ様子で、霊媒のプロフェッショナルはつけくわえた。
―――死んだ奴の仕業じゃない。

 それならば一体、誰の。
 何の―――。


 呆けたように桜を見上げる女たちは、近づいてくる足音で我に帰った。
「奈摘さん」
 母校のブレザーを着た少年が駆け寄ってくるのを、奈摘は皿のように目を見開いて迎えた。
「要、くん」
 彼がどうしてここにいるのか、分からなかった。名前を呼ぶことしかできない。
 要は、地面にへたり込んだままの奈摘に小走りに駆け寄って、手を差し出した。
「要、すこしの間頼む」
 氷づけになった奈摘たちの傍らを、スーツ姿の男が追い越した。
 ぎこちなく首を動かして、奈摘はすぐ傍をすり抜ける人影を見上げた。
 見慣れた人物のはずだった。”ご近所さん”だ。
 商店街の近くに事務所を構える自分よりもすこし年下の探偵。
 常に温厚で、荒事になんて向いているようにはとても見えない。仕事の方も忙しくしているようには見えない。
 そのどことなく頼りない様が、商店街の小母様方に要とは別の意味でちやほやされている理由ではあるのだろうけれど。
 奈摘にとっては「人が良さそう」以外の印象があまりなかったのが正直なところだ。
「成瀬さん」
 思わず、呼び止めた。
 歩みをふと止めて、昼行灯で有名な探偵が肩越しにすこし、振り返った。
 かすかに口元を引いて、笑みの形を作る。
 奈摘はそのとき。
 彼の目が人とは違う、夜の海の色だということに、はじめて気がついた。
 普段の温厚さがなりをひそめて、何か不穏だった。
「すぐに、済みます」
 まるで魔法の呪文だった。それ以上なにも聞けない。
 あれは、同じひとだろうか。
 太い幹に歩み寄る背中を見つめて、奈摘は息を飲んだ。
 くちびるが震えていることに、遅れて気づく。

 同じ、ひと、だろうか。

 やがて漆黒の背中が病を持っているという桜の幹に、右掌で触れた。



4.

 ざらついた樹のおもてと、掌とがぬるりと滑る錯覚がある。
 突風に憐れなほど白い花弁が散って、視界すべてが埋め尽くされる。

 ふと、音が消えた。

 強固な特殊硝子で世界をくぎったようにも思えた。
 無音の、かがやかしい世界が広がっている。
 夜ののっぺりとした闇はどこにもない。
 燦燦と注ぐ日の光が、凛々しく枝葉を伸ばす桜の、若葉の隙間から土にまだらな模様を描いている。
 ひとりの少女が、まだ若々しい桜と向かい合って、幹と額とをあわせていた。
 あどけなさが残る面で、頬を上気させている。
 何かの儀式―――と呼ぶには稚拙だ。おまじないの類かもしれない。口元が囁くように動いている。
 祈るように。
 少女の背後に、別の人影が歩み寄って、声をかけた。
 男だった。
 少女はしゃんと背筋を伸ばしてから、おそるおそる振り返る。
 神の手が早送りのボタンを押したのか、情景がいきなり高速で動き出した。
 いくつもの夜が訪れ、いくつもの、朝がきた。
 脈々と継がれて来た歴史。
 これは、桜の記憶だ。
 病に伏した老木の、走馬灯なのだ。
 己の死を、もう知っている。

 徐々に勢いとみずみずしさを失ってゆく樹木の傍で、一馬はふと苦笑した。
 死骸に群がる、ハイエナとおなじだ。自分は。

「山下くんが純子の彼氏だって、知ってるよね、朱美だって」
 幾度目かわからない夜が訪れたとき、世界に音がよみがえった。
 すぐ傍、幹に縋るように気の弱そうな少女が立っていた。向かい側に、三人。
 ひとりには見覚えがあった。
 まだあどけない顔をしているけれど、確かに石川奈摘だ。
 リーダー格は別の、小柄で気の強そうな女だった。真正面からこちら側を睨み据えてくる。
 ふたたび世界は高速になる。
 怒りに醜く歪んだ少女の顔。喚きたてる声も、大袈裟な身振りも滑稽なほど不思議な動きだった。
 じりじりと、弾劾されているほう―――おそらく周藤朱美だ―――は後退している。
 背後を顧みると、昔馴染みの言葉どおり崖に近い急な傾斜がある。
 実際に目の当たりにすると、かなりの高さだった。背筋が僅かに粟立つ。
 一体なぜこんな夜更けに彼女たちがここに集まったのか、弾劾の理由がなんなのか、細部はわからない。
 ただ、朱美の脚が、批難に押されてずるずると、後ろに下がっていることだけは分かった。
 すぐ傍まで迫った朱美の体が、するりとこちらの体をすり抜けた。
 ふらつく足が際をふみはずして、少女の体が後ろ側に大きく傾ぐ。
 あとはもう一瞬だった。
 一馬は振り返らなかった。
 一瞬にして死人のような顔になる、三人の少女を見ていた。
 随分と長い間、彼女たちは固まっていた。
 ひとりの口が喘ぐように動いた。朱美の名前を呼んだのかもしれない。
 どっと、崖のほうに殺到し、地獄の底を覗き込むようにそっと顔を出す。
 何度かお互いに顔を見合わせたあと、小柄な女がぱっと身を翻した。
 泣き出しそうな顔で、もうひとりの痩せた女がそれを追いかける。
 奈摘は、一番最後まで地獄の底を覗いていた。
 血が出るほどに唇を噛み締めて、やがてそこから走り去った。

「あなたは彼女たちを、憎んでいるのかな」
 背後に現れた気配に、一馬は訊いた。
「恨んでいた、かもしれない。だけどもう分からない」
 か弱い声が答えた。
「謝って欲しいとか、償って欲しいだとか、認めて欲しいだとか、そういうことじゃない」
 抑揚にかける、細い声は寂しそうに続けた。
「私の記憶は、桜の樹と一緒にこのまま消えてゆく。私は死んでしまって、あの子たちは生きている。もう変わらないことは知っているの」
「あなたの強い意識が、この樹に混じってしまった。死期を悟った桜の走馬灯が、外にまで流れ出してしまっている」
 そして、修恵学園の敷地内に影響を及ぼしている。
「あなたは一体、彼女たちにどうして欲しい」
「忘れてほしくない」
 きっぱり、朱美は―――彼女の残留思念は言った。
「たとえ薄れても、しあわせになっても、私がいなかったことには、してほしくない」
 片隅でも、かまわない。
 数年に一度でもいい。
 “何もなかったこと”には、してほしくない。
「だけど知っているの。ひとはいつか、忘れてしまう。桜がなくなったら、皆すこしの間だけ寂しがって、あとは忘れてしまう。知っているけど」
 在ったことは、真実なら。
 忘れられるのはつらすぎる。

 眼前では、忙しく世界が回っている。
 子どもたちが忙しなく動き回り、静寂も訪れる。
 連綿と繰り返される昼と夜。
 記憶の連鎖。
 これほどたくさんのものを、覚えていられるものなのか。
 ひとは、どうだろう。
 記憶の海とは。
 どれほど深いのだろう。

「あなたは、誰」
 厳かに、少女の声が問い掛ける。
「どうして記憶に触れることが出来るの」
 やさしい誰何だったけれど。
 なぜか死刑を宣告されたような気持ちになる。
「私を、見つけにきてくれたの」
 声には、甘い淡い憧れのようなものが混じっていた。
 茨の城の奥深く、百年の眠りについていた姫のように。
 救世主に焦がれる声だった。
「違うよ」
 夢を見せてあげられなくて、悪いけど。
 きれいな嘘をついてはあげられない。


「この桜に宿った夢を、喰いに来ただけだ」


 陰と陽とに絶えず染めかえられる世界が、僅かに強張ったような気がした。
 そう。
 騎士でも天使でもない。
「俺はね、人の夢を足がかりにひとの意識にさわれる。だけどそれは、慈善事業でも正義感の発露でも何でもない」
 右肩越しに、振り返る。
 中空に、桜色の淡い光が浮かんでいた。
 不思議そうな顔をして、十六七の少女がこちらを見ていた。
「俺は、ひとの意識を喰って生きる、ばけものだよ」
 おおきな丸い瞳が、ひときわ瞠られた。
 夢を見せるんじゃない。
「自分のために、あなたを喰らいにきた。―――ごめんね」
 ひとならば、決して現れることのない瞳の色を僅かに翳らせて、小さく一馬は苦笑した。
 朱美は、黒目がちな瞳をめいっぱい見開いていた。大きな瞳が洞(うろ)のように見える。
 深い穴にも見えるその瞳がたたえる黒が、絶望に見えた。
 どれほどの朝と夜とを繰り返して、対峙していたのか。
 薄く透ける朱美の向こうには、やさしい夕焼けが広がっていた。

「あなたは、これからどれだけ生きるの」
 吟味するように目を眇めて、朱美は藍の瞳を見た。
 その問いには、いつも上手く答えられない。
 ひとの。
 やわらかい、生の。
 上辺のないうちがわ。
 記憶を糧に生きるおのれの業が、いつだって、重いのだ。
 ひとに眠りをもたらすことが出来る右手も、より容易く”餌”を得るための手段だ。
 呪わしいと嘆く裏側に、飢えも確かにある。
 たくさんのものに、与えられ、生かされている。
 呪いながら、嘆きながら、身投げも出来ないジレンマが背中に添うように、ある。

「あなたが」
 桜色の朱美の体をすかすように、黄金色の西日が注いできた。
「私という記憶を、投げずに年を取るなら」
 血肉にするなら。
 朱美はとても、やさしい目をした。
「いのちにするなら、ゆるしてあげる」
 傾いた太陽が、どろりと奇妙な形に熔ける。
 朱美の体が、指の先からはらはらと崩れ始めた。
 髪から、爪先から。
 薄紅の花弁になって、散る。

 ゆっくりと、夜がやってくる。
 最後の夜が。

 世界が、どこからともなく散りはじめた。
 何もかもがうつくしく潔い、はなびらになる。
 かすかに感じていた、老木の息吹が引潮のように遠ざかる。

「忘れないで」

 花に嵐か。
 すべて、すべて。
 さらりとかすかな音をたてて、遠くへ流れて消えてゆく。
 少しずつ、こちらも指先から薄れてゆく。
 “食事”は終わりだ。

 どうしていつも、夢の終わりはこんなにもうつくしいのか。
「どうしてみんな、やさしいのかな」
 こんな生きものにも。



5.

 桜が切り倒されたのは、それから数日後だった。
 件のメールもぱったりと落ち着いて、ただの笑い話になった。
 おそらくそのうち、忘れられるだろう。
 数年も経てば、無惨な切り株も、ただのオブジェのようになって。
 そこに美しい桜があったことを知る者はいなくなる。

 色々なものを、忘れてゆく。
 なまなましい衝動や感動、嫌悪感や恐怖。
 愛情まで。
 記憶には許容量があって、人間は忘れていくように出来ているといわれているけれど。
 忘れたくないと願うことは。
 忘れないで欲しいと乞うことは、傲慢な我儘ではないような気がする。


 あのあと、奈摘は要にそっと、不可解な言葉の意味を教えた。
 あの頃仲間内で流行っていた遊び。
 英文を不可思議な文字に変えて合言葉のように使っていたのだと。
 数日前、ノートに書き付けた文字化けのような文字列の下に、ひとつの英文を連ねて、要はぼんやり、それを眺めた。
 この、なんともいえない寂しさもいつか、思い出になるんだろうか。
 そしていつか、風化してゆくのか。

「要!」
 遠くから声を張り上げるように呼ばれて、要は顔を上げた。
 教室の前のほうで、勝利が手を振っている。
「次! 実験室だってば! 置いてくよ!」
 驚いて、教室の壁に引っ掛けられた時計を見た。
 もう昼休みが終わる時間だった。
「今行く!」
 大声で返事をして、要はノートを閉じた。

 誰かを忘れ、誰かに忘れられて。
 年輪をふやしてゆく。
 それだとあまりにも寂しいから。
 どうせ忘れてゆくように作られているシステムでも、ひとつでも多くのことを、覚えていられますように。
 慌てて引っ張り出した教科書を掴んで駆け出しながら、せめて、祈った。



 don't forget me.
 忘れないで。



<了>




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