夢喰い





1.

―――ねえ、どこに行ったの。
     戻ってきて。


        *


 僕は交差点の真ん中で立ち止まった。
 またあの声だ。右手の中指と人差し指で、右のこめかみを押さえた。
 耳鳴りのように、毎日毎日耳元で囁く。
 声。
 男なのか、女なのかさえ。二重三重にブレて歪んでハモって。
 分からなくなる。

 僕はここにいるじゃないか。ここに。
 一体どこに戻ればいいって言うんだ。

 視線。
 僕の背中に突き刺さった。
 絶え間なく人の行き交うスクランブル交差点の真ん中で、僕は振り返った。
 交差点の向こう側。遥か遠くの歩道に、女が立っていた。
 白いワンピースを着て、焦げ茶の髪が肩の上で揺れている。
 誰だよ。呼ぶなよ。

 背筋を冷たいものが伝って落ちる。認めちゃいけない。
 そんなことを思って、僕は駆け出した。
 交差点を渡り切って、小道へと。
 角を曲がった途端、人とぶつかり、もんどりうって仰向けに倒れた。
 上から容赦なく日差しが降りかかってきて、眩しい。
「すみません」
 その日差しを遮るように、人影が覆い被さってきた。声が降ってくる。
 耳になじむアルト。
 僕は、視線を上へ持ち上げた。
 長身の男がひとり、そこに立っていた。
 若いようだが、ダークグレーのスーツにサングラスをしていて、かなり怪しい。
「大丈夫ですか」
 声とともに差し出されたその手をおずおずと握ると、男がぐっと引き起こしてくれた。
「随分とつかれてるんですね」
 服の埃を払う僕を見て、男が言った。
 疲れてる?
「僕ですか? そうだな、仕事が立て込んでるから……」
 そういえば、ここ最近ろくに眠っていない気がする。
 疲れていてもおかしくない。何か、忘れているような気もするけれど。
「違いますよ。"憑かれて"るんです。自覚はあるでしょう? 聞こえるんでしょう」
 声。
 男が言った。
 僕は目を見開いて、目の前の怪しい男を見つめた。
「あなた、一体……」
 僕の瞳に滲む訝しげな光に気づいたのか、男は「失礼」と言ってサングラスを外した。
「私は成瀬一馬(ナルセカズマ)というもので、そのテの仕事を少し」
 サングラスの下から現れたのは、蒼い瞳だった。
 西洋人のような透き通った水色ではなく、濃い蒼。光が当たると、揺らめく夜の海の色。
「どうも私、"こういう"のを見ると方っておけないタチでして。貴方さえよければ祓う手伝いなんぞ、させて頂きたいのですが」
 僕はまだ、突然現れたこの成瀬という男を信用していいものかどうか迷っていた。
 品定めするように上から下まで眺めていると。

―――帰って来て。

 耳元でまた、声がした。
 成瀬の肩越し。ずっと向こう側に、あの女が見えた。
「ヒッ……!」
 悲鳴を上げたくても、咽喉が思うように働いてくれなくて。
 ようやく零れたのは、擦れた声だけだった。
 もうどうでもいい。
 目の前の男の怪しさよりも、じりじりと迫る恐怖から逃れることのほうが重要である気がした。
「成瀬、さん。助けてください」



2.

 助けてください。
 そう呟いて、瞬きをした次の瞬間、僕は森の中に立っていた。
 今の今まで、街中にいたはずなのに。
 周囲を見渡しても、鬱蒼と茂る木々と、葉と葉の間からもれてくる木漏れ日と、鳥の鳴き声、湿った空気。
 それしかなかった。
「成瀬さん、貴方、超能力者ですか?」
 瞬間移動。そんな言葉が脳裏を掠めた。
 隣に立つ成瀬は相変わらずにこにこして、「どうでしょうね」と言った。
「そこを」
 成瀬の指が僕の足元を指差した。
 剥き出しの黒い土を。
「そこを掘ってみてくれますか」
「えっ……?」
「お願いします」
 にっこりと微笑まれて、すっかり反論のタイミングを失ってしまった。
 促されるまま地面に膝をつくと、湿った冷たさが服越しに染みてくる。
 水分を含んだしっとりとした土を掻き分ける。爪の間に土が入る。
 幼い頃以来だな。こんな風に土に触れるなんて。
 いつのまにか僕は、その行為に没頭していた。


          *


―――カズマ。
 黙々と地面を掘り返す"彼"を見つめている成瀬の耳に、まだ幼さの残る少年の声が聞こえてきた。
―――なんでそんな生温いことしてるんだよ? 早く現実見せてやりなよ。
「要(カナメ)」
 少し声を低くしてたしなめるように言ってやる。
「言葉だけで納得させられるようなら、とっくにやってる」
 低く静かな、有無を言わせぬ声。
―――……わかったよ。早く終らせてよね。
 少年の声は明らかにふてくされていた。
 また静寂が戻ってくる。


          *


 ざくっ。
 指先に何か固いものが当たった。掘り当てたみたいだ。
 黒い土の下、指と指の間に、何か白いものが見えた。
 まるで僕は"憑かれた"みたいに土を払いのけて、その下にあるものを掘り出した。
「うわっ……!!」
 それを掘り出して、僕は慌てて飛びのいた。
 真っ白な。細い。関節と、関節。
 ホネ。
 腕のホネ。
 肘から下。右手と左手。
「ああ、見つけましたね」
 上から覗き込んでくる成瀬が、平然と言った。
「どうして、骨なんか……っ……」
「貴方のためなんです」
 成瀬の言葉が耳に溶けた瞬間、今度は廃墟の玄関に立ち尽くしていた。
 振り返ると、玄関のドアは開いたままで、そこから生い茂る木々と、湖が見えた。
 窓という窓のガラスは全て割れていて、家具の一切ない床にばらばらと散らばっている。
 ガラスのない天窓から落ちてくる光を反射して、きらきらと輝いている。
 打ち捨てられて、どのぐらいだろう。
 埃と蜘蛛の巣だらけの広いエントランスを見渡した。
「どうぞ」
 まるで空気のように自然に、隣に立っていた成瀬が、何かを差し出した。
「え…………?」
 斧だった。
「あれを、壊してみてください」
 成瀬の人差し指が、僕の視線をエントランスの奥へと導いた。
 この部屋の一番奥。突き当たりに、壁に貼り付けられた姿見があった。
「成瀬さん、一体これは……どういう」
 僕はたまらなくなって聞いた。
 こんなことが何になるんだろう。一体何をしてるんだろう。あんたは誰なんだ。
 聞きたいことだらけだった。
「貴方を助けるためです」
「だったら説明ぐらい……!!」
 相変わらずの笑顔にも、今回は騙されなかった。
 声を荒げて、詰め寄ろうとすると。
「あの鏡を壊してくれたら、話しますよ。だからお願いします」
 今度は困ったような顔をした。まるで捨てられた犬のような顔だった。
 僕はいつのまにか、差し出された斧を手に取っていた。
 まるで僕のものではないように、怯える心とは裏腹に足が動いた。
 廃れた空気しかない部屋で、ひたすらその姿見だけが輝いて見えた。
 異質。おかしいもの。
 姿見に向かい合うように立って、上から下までを眺め回した。
 自分の姿を。その後ろの成瀬の姿を。そして……。
―――その遥か後方。玄関のドアの辺りに、あの女の姿を見つけた。
「わああああっ!!」
 搾り出すような悲鳴を上げて、反射的に腕を振り上げ、下ろした。

―――がしゃん。

 派手な音がして、鏡がばらばらに砕け散った。足元に転がる。
 慌てて後ろを振り返ると、成瀬が立っていた。他には誰もいなかった。
 荒い吐息が聞こえた。一瞬遅れてそれが自分のものだと気づく。
 ばくばくと、左胸の肉を圧迫するように動悸が激しい。
 吹きだした冷や汗が、目に染みた。
「どうぞ」
 いつのまにか傍まで来ていた成瀬が、僕の手から斧を受け取り、姿見のあったほうを指差した。
 促されるまま、そちらを見た。
 そこにあったのは、頭と両腕のパーツが足りない、人の白骨死体だった。


          *


「じゃあ、あの死体がずっと、僕を呼んでたって言うんですか?」
 湖のほとりに立ち、僕は成瀬に訊いた。
 成瀬は立ったまま湖面を見つめている。蒼い瞳で。
「なんでですか? なんで僕が呼ばれるんですか? 僕は何も……」
「次できっと、分かりますよ」
 成瀬の目が僕の目を見た瞬間、また風景が変わった。
 自分のマンションだった。
 随分と懐かしい気がする。
 もうどのくらい帰ってきていないんだろう。
 ……どうして帰ってきていないんだろう。
 僕はずっと、もうずっと長い間、何か大事なことを忘れているような気がする。
 なにか……。

 成瀬が開いたドアは、寝室だった。
 カーテンが引きっぱなしの。薄暗い寝室。
 ベッドが中央にひとつ。それだけで一杯になってしまうような、狭い狭い部屋。
 掛け布団が、少しだけ盛り上がっていた。中に何か入っているみたいに。
 僕には、それが何か分かった。
(そうだ、"あの頃"僕は、やばい金に手を出して、そのあと、追いかけられて。逃げて逃げて)
 だから掛け布団をめくり上げて、"それ"がそのまま、そこに在ったときも。
 別段驚かなかった。逆にほっとすらした。

―――しゃれこうべ。

「"園田さん"。園田亨(ソノダトオル)さん」
 ベッドに座り込んで、しゃれこうべを見下ろして固まっている「僕の名前」を、成瀬が呼んだ。
「もう、いいでしょう。認めてください」
 成瀬の声を背中に聞きながら、僕は、しゃれこうべを抱いた。
 自分の。

「貴方もう、死んでるんですよ」


          *


 園田亨の体が、歪んで、別の形になった。
 周囲の風景が溶けてなくなった。
 あとにはただ、真っ白な空間が残った。どこまでも広く、果てのない。白い空間。
 目の前でしゃれこうべを抱いているのはあのワンピースの女だった。

「結衣(ユイ)さん」
 成瀬は、しゃれこうべを抱きしめる「園田亨だった女性」を呼んだ。

―――どこに行ったの。帰って来て。

 ずっと叫んでいたのに。生きてるって信じていたのに。
 認めたくなかったのに。認めたくなかったから、閉じこもったのに。
 ここにいたのに。
「結衣さん、もう分かったでしょう」
 結衣の肩に手を置いて、成瀬は言った。


「だからもう、目を覚ましてください」



3.

「じゃあ、今回の仕事も無事に、"無事に"終ったわけだね?」
 助手席に座っている端正な容貌の少年、英要(ハナブサカナメ)は、頭の後ろで手を組んで、冷たい瞳で運転席を見た。
 まだ拗ねているようだ。
「黙って仕事に行ったのは謝るよ、要」
 苦笑交じりに、運転席の成瀬が謝罪した。この猫のような綺麗な少年を怒らすとどうなるのか、成瀬は経験上よく知っている。
 怒らすとどうなるのか知っている成瀬は、どう扱えば譲歩に持ち込めるのかも分かっていた。
 ひたすら低姿勢に徹すれば、要も折れる。
「じゃあちゃんと、僕にも分かるように説明してよ」 
 譲歩の兆しが見えて、成瀬は心の中で安堵の吐息をついた。
「依頼人は、甲田奈津子さん、甲田結衣さんの母親だね。娘がもう半年も目が覚めないから、どうにかしてくれってね」
「原因は?」
「半年前に、結衣さんの婚約者が、ヤクザがらみで殺されてる。婚約者が殺されて埋められたことを認めたくなくて、夢の中で婚約者になりきって、生きているように演じていたわけだ」
「一人二役?」
「そうだね。恋人の役と、それに徹しきれない自分と。あの夢の中には確かに二人いたよ。だから、俺は結衣さんに、園田さんはもう死んでるってことと、貴方は園田さんじゃないってことを分からせなきゃならなかった」
「重労働だね」
 さしてそうも思っていないくせに、要は肩を竦めてねぎらって見せる。
「……で、結衣さんは全部、忘れちゃったんだ。夢のこと」
「俺が喰ったからね」
 結衣の逃げ場所を。安らぎを。
 目覚めという辛い現実を突きつけて。
 成瀬の言葉の端に自嘲をかぎつけた要は、じっと成瀬を見つめた。
「カズマ、しょうがないよ。カズマは夢喰いなんだから。結衣さんだって、園田さんのこと全部忘れちゃったわけじゃないし、辛い夢が消えただけだし。夢を食べても、人は死なないじゃん!!」
「でもな要……」
 たしなめようとして、目覚めた直後の結衣の声が蘇った。

―――お母さん、私、ずっとずっと夢を見ていた気がするの。
    悲しくて、苦しくて、何かを探していて、どうしようもなく息苦しかったのにね。
    もうなんで悲しかったのか、苦しかったのか、思い出せないの。
    何が辛かったのか。何を探してたのか。亨をどれぐらいすきだったのか、もう分からない。

「記憶を喰ってるのと、何が違う」
 ハンドルに額を押し付けて、成瀬が言った。要に向けた言葉ではなく、自分自身への。
「思い出を喰うなんて、人殺しと何が違う」
 人の生きてきた時間を食うなんて。たとえ夢の中だとしても、人を想う人の真摯な気持ちを。
 喰うなんて。
「―――司祭さま。懺悔を聞いてくれる神様はどこにいる?」
 ハンドルに蹲ったまま、成瀬が言った。
 馬鹿なカズマ。
 許して欲しいなんて、欠片も思ってないんだ。懺悔したあとに、裁きを受けたいんだ。
 要は、唇を噛み締めた。
「カズマ、バカだろ。バカだから教えてあげるよ」
 かなしいひとだから。
 裁きなんて与えない。
 ハンドルに伏せたままの頭に、まだ華奢な掌を乗せた。


「神様がいるのは、聖書の中だけだよ」


                   <了>





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