桜 闇
それは、しなだれかかる女の腕。
夜闇にぼんやりと浮かぶ白。
風が通り抜ければ、招くように揺れる。
薄紅の香りを散らす。
枝垂桜。
「お待ちしておりました」
狂い咲きの枝垂桜のした、長い黒髪の女が振り返る。
濃い紅の振袖に髪の艶が良く映える。
「来て下さって、嬉しいわ。わたくしずっと待っていたの」
振袖ほどに紅い口唇をほころばせて笑む。
「……お待たせしてしまいましたね」
応じたのは、若い男だった。
黒の、そこにある闇と同色のスーツを着ている。
女は、薄桃の爪の生えた手を、男の左胸あたりに滑らせた。
「酷いわ、こんなに待たせて。ずっと、待っていたのに」
細めた瞳は、熱っぽく潤む。
男の体にしなだれかかると、桜の香りが強く香った。
「ちっともお変わりありませんね」
やわらかい声音で男が応じた。その声に誘われるように、女は顔を上げる。
「だって、貴方が迎えにきてくれるまで、美しいままでいないといけないと思ったんだもの。ねぇ、あの頃のままでしょう?」
女は、男の右手を両の手で取って、自分の頬へ導いた。吸い付くようななめらかな感触が、掌に触れた。
「ずっと、傍にいましたよ」
頬に掌を滑らせるようにして男が言う。
女が黒の瞳を見開いて見上げた相手の瞳は、自分とは別の色彩だった。
青だ。
濃紺の瞳は穏やかで、まるで夜の凪いだ海の様。
吸い込まれそう。
「貴女はずっと、気付かなかったのかな」
男は、口元に困ったような笑みを浮かべた。
戸惑う女の頬から手を離し、ぐるりと太い桜の幹を回り込む。丁度、女の居た反対側まで。
そこに立てかけてあったスコップを、地に突き立てる。
「"彼"はもう、殺されていたんですよ。貴女の家の者にね」
男は呟きながら地を掘る。回り込んできた女は、片手を桜の幹に。まるでそれを支えにするようにして立っていた。
男の作業を呆然と見る。
「貴女は"彼"がいつか迎えに来ると思って」
がつり、とスコップの先が何か硬いものに当たった。男は、スコップを地におくと、土に膝をつく。手で、掘り当てたそれの土を払った。
「だから、うつくしくいようとしたんでしょう、桜子さん」
目当てのものを探り当て、男は女―――桜子を見た。
そのまなざしに、桜子はたじろぐ。
"あのひとではない"。
「ご覧なさい」
静かで、それでも有無を言わせぬ声音だった。
ひくりと自分の肩が震えたのに、桜子は少し遅れてから気がついた。
「貴女が探していたものは、ここにあるんだ」
濃紺の、まなざし。
桜子は、その声に導かれるように一歩踏み出した。ぞうりの裏で、じゃり、と土が鳴った。
男が立った今掘った穴のふちに立ち、中を覗き込む。
土の中に白。
白い骨。
「宗二郎さんの骨だ。彼は外国に旅立つ前の晩に、殺されて埋められていたんだ」
「嘘」
桜子の口唇が震えた。
笑おうとして、笑えない口元。
「貴女が今も昔のままうつくしいのはどうしてなのか。もう五十年も前の話なのに、あの頃のままなのか。自分でわかっていますか」
男は再びスコップに手をかけた。今度はまた元々桜子が立っていたあたりに突き立てる。
「やめて」
繰り返す土を掘る音に、桜子は耳を塞ぐ。首をゆるく左右に振ると黒檀の髪が揺れる。
「お願い、やめて……!」
「貴女のいる世界ではないんです。もう」
男はスコップを置いた。耳を塞いでうずくまる桜子へ近づいた。
「貴女は、この桜に残った思念。残っていてはいけません」
この枝垂桜はなぜか、まだ寒い二月に一日だけ、狂ったように咲く。
それは元々ここに屋敷を構えていた旧家の令嬢の、命日だという。
この狂い咲きは、桜が魅せる幻だ。
女の哀れな恋情を傍らで見つめ続けたこの桜が見る、夢。
男は、右の掌を桜の幹に触れさせた。
掌にあたたかいものが伝わる。
例えるなら、脈動。
うずくまった桜子は、ふと異変を感じて自分の右掌を見た。
はらはらと舞う桜の花びらの中、ほのかな光を放って、薄れ始めていた。
―――桜子。君につりあうようになるまで、待っていてくれないか。
声がした。
背中にあたたかく被さってくる。
振り向くと、舞い落ちる薄紅の花弁の中、先程男が掘った穴の傍らに、若者の姿があった。
「ああ、あなた……」
視界が不意に、曇った。
頬を伝う雫の、ぬくもり。
「ずっと傍に、いたのね」
*
振袖姿の幻が失せて、成瀬一馬はひとつ、大きく息をついた。左手の中指で、ネクタイを緩める。
二月に狂い咲く桜についての調査が、今回の依頼だった。
一馬は、いまだ幹につけたままの右手を引き剥がす。かすかなぬくもりが手の中に残っていた。
地においたスコップを持ち上げ、ぐるりと木を一周する。と、二つの新しい穴。
片方の中には、旧家の令嬢と恋仲だった貧しい医学生の白骨。
そうしてもうひとつには、おびただしい数の女性の白骨。
君につりあうようになって戻ってくるから。待っていてくれないか。
男はそう言って海外に留学したことになっている。が、現実は、留学する前の晩、桜子の家の手のものに殺されていたのだという。
待てども戻らぬ男を待つうち、桜子は少しずつ心を病んだ。
あのひとがくるまで、うつくしいままでいなくては。
繰り返し繰り返しそう言っては、若い女たちを殺し、その血を浴びていた。
その遺体をこの桜の下に埋めていたのだという。
そして、まだ寒い二月、自害して果てた。この桜の木のもとで。
それからこの桜は、二月に一度だけ咲く。
彼女の命日に。
懐から一枚、古い写真を取り出した。
それは、この一件の調査中に手に入れた写真だった。
満開の桜のした、紅の振袖を纏った艶やかな女の姿。
裏を返せば、筆の流麗な字。―――桜子、17歳。
話に聞けば、桜子は32で死んだときまで、このままの姿だったと聞いた。
一馬は、咲き誇る桜を見上げた。
薄紅が闇の中にぼんやりと浮かび上がる。まるで自ら光を放っているかのように。
桜は何故、あれほどまでにうつくしく、妖しく咲く。
桜は、人の血を吸うほどに、紅く、うつくしい花を咲かせるのだという。
一陣、風が吹いた。
目をくらませるほどの花びらの乱舞に、一馬は思わず目を庇った。
風が通り過ぎた頃、再び瞳を開けると。
桜は。
足元に薄紅の花弁を散らして、見事に。潔く。
すべて。
散っていた。
足元を見下ろすと、歩く隙間もないほどに、花びらに埋め尽くされていた。
ここから帰るのに、この花びらを踏んでゆかないといけないのかな。
花びらの海に一人取り残されて、困った。
あたりには強い花の匂い。
足元の花びらは、侵しがたいうつくしさを誇っていた。
ひとの生命を吸って咲いた花なら。
踏んだりは出来ない。
戸惑っていると、胸の内側で、響く振動があった。
携帯電話の、バイブレーション。
はっと現実に引き戻されて、相手も確かめずに出る。
もしもし。
≪これから行ってもいい?≫
挨拶もなく、聞きなれた声が言う。
これから? 左手首の時計で、時間を確かめる。
午前一時二十分。
「どうかしたのか?」
こんな時間に。
≪大学の飲み会があって。場所がそっちに近いんだ。今から自分のアパートに戻るの面倒だから、泊めて≫
こんな時間にあっさりとそんな要求が出来るのは、やはり以前一緒に暮らしていた時期があったという気安さだろう。
「あとどれぐらいかかる? 今、外なんだ」
≪夜遊び?≫
電話口の向こうで、端正な顔をしかめているのが目に浮かぶ。思わず苦笑した。
「お前が言うなよ。仕事だったんだ」
≪あと30分もしないで着くよ。間に合わないなら、勝手に入るけど≫
「ああ、それならそれでもいい。出来ればコーヒー淹れておいてくれると助かる」
分かった。じゃあね。
切れた。
再び一人に戻ってみると、周囲の妖艶な雰囲気が、消えていた。
電話のお陰だろうか。現実に引きずり戻された気分だ。
目の前にあるのは、ただの枯れ枝とただの散った花びら。
一歩踏み出すと、さくりと足元で花びらが鳴る。
もしかしたら知らぬうちに自分も、桜の見せる幻に魅せられていたのかもしれなかった。
スコップを持って、すぐ近くに停めてあった車に乗り込むと、ほのかに桜のかおりがした。
丘に立つ、丸裸の桜を見ながら、エンジンをかける。
煙草を取り出して、火をつけずに銜えた。
もう、二月に桜は咲かないだろう。
夢の終わり。
<了>