優しい檻


 ブラインドの隙間から差し込む夕陽が、フローリングの床にまだらな光を落としている。
 窓と向かい合わせのソファー。さらさらと零れてくる赤い光を見つめながら、両手にマグカップを抱えて溜息をつく。
 ちょうど試験期間の最中。出かけている主の代わりに、留守番を兼ねて事務所で試験勉強をしていた。
(試験……か)
 目の前に広げた教科書に視線を落として、意味もなくため息をつく。
 学校という場所。試験というシステム。
 その枠の外にいた頃は、どうしてこんなふうに、睡眠不足の一週間を過ごすことになるなんて想像出来たろう。
 まだまだ世界には知らないことが多すぎて、目が回りそうになってしまうけれど。
 机の上に転がしたシャープペンシルと、分厚い英語の辞書。
 使いすぎた目がぴりぴりと痛みを訴える。
 もう大体暗記を済ませたから、別にもうこれ以上、机に向かっている必要はないのだが。
 することもなくて、ずっと机に向かったままでいる。

 最近、時間が経つのがとても早く感じるようになった。
 密度が濃い分時間は、早く過ぎてゆくものなのだろう。それは幸せと呼んでいいものなのかもしれない。
 マグカップを机の上におき、ソファーに横になった。
 ぼんやりと窓を見つめると、斜めに少し開いたブラインドから、淡い光が零れ落ちてくる。
(檻みたいだ)
 横になった所為で、ブラインドの一枚一枚がまるで、鉄格子のように見えた。
 何故突然そんなことが思い浮かんだのかは分からないが。とにかく。
 檻みたいだ。そう思った。

 一体いつから、こうしているんだろう。
 つい昨日からの気もするし、ずっと前からのような気もする。
 一体いつまで、こうしていられるんだろう。
 最近、そんなことばかり思うようになった。

 縛られ続けた生活から、満たされた生活に。切り替わってからそれ程多くの時は重ねていないはずなのに。
 満たされていると思うたびに失うことが怖くなる。
 目の前にあるはずの道が、ある日突然崩れてなくなるような、そんな見えない不安が常に付きまとっている。影のように。
 昔はこんなに弱くなかった。怖いものなんて、何もなかった。

 とんとんとん。
 あまり厚いとは言えない事務所の壁を隔て、等間隔の足音が登ってくる。
 少しずつ、少しずつ近づいて、やがて事務所の扉が開いた。
「ただいま。あれ、要?」
「ここ。いる」
 なにやら間抜けな声がしたので、声だけを返した。寝転んだまま。
「ああ、そこか。見えなかった」
「うん」
 いつもなら、「目が腐ってるんでしょ」ぐらいは言ってやるのだが、今日はなんだか悪態をつく元気がなかった。
 寝不足だからだろうか。
 なんだか心が"やわ"い。
「今日はなんの仕事……?」
 ソファーに寝転んだまま。鉄格子のようなブラインドを見つめたまま。
 ぽつりと言った。
 いつもなら、別に興味のないことだけど。
 聞いてもいいかな、なんてそんなことを思った。
「ちょっとね。鳥を探してきた」
 スーツの上着を自分のデスクの上に投げ出して、一馬は簡易の台所へ入ってゆく。
「鳥?」
 起き上がらないまま訊き返す。
「そう。籠から逃げたんだって」
「そんなのまで探すの? 飛んで逃げられたら見つからないんじゃないの?」
「うん。でも、あんまり飛べないように羽は切ってあるみたいでね、そんなに遠くにはいけないんだって」
「ふぅん」
 こぽこぽとコーヒーメーカーが音を立て始めた。それをソファーの背もたれを隔てた向こうに聞きながら、日差しに目を細める。
「何で猫とか鳥とか……」
 何で急にこんなことを言いたくなったのか、分からない。
 ぽこりぽこりと浮かび上がってくる感情をそのまま口唇に乗せた。自分自身、意味も分からずに。
「逃げようとするんだろう」
 外は危険で溢れていて、その日の食べ物もままならなくて。
 その点飼われていれば、安全で餌も貰えて。
 楽なのに。
 傍に人がいて、だから。あたたかいはずなのに。
「……退屈になったり、不安になったりするんじゃない?」
「え?」
「何の変化もなくて、ずっと安全だったら。飛び出していきたくなるんじゃない?」
 生まれたときから。空なんて知らないくせにそれでも。
 羽ばたく夢を見てる。

 部屋中を、コーヒーの匂いが満たす。斜めに差し込む緩い光が眩しくて、目を閉じた。目蓋の裏に赤。
 生温くて。まるで37度。
 人間と同じ温度。一番心地いい温度。

「鳥は、どこにいたの?」
「いっぱい探し回って、結局家の庭。遠くには、行かなかったみたいだよ」
 行けなかったんじゃないのかな。ふとそう思った。
 欲張りな奴だ。
 空に焦がれるくせに。温もりを手放すのが惜しくて。どっちも。つかんだまま。しっかり。

「飛び出したく、なるのかな」
 閉じた目蓋でもしっかり分かる光。うっすらと目を開き鉄格子のようなブラインドを見つめた。

 いつか。
 この温かい場所から。あの鉄格子の向こう側。
 その日の保障もない。天敵ばかりが溢れている外側。
 いつか。

「いいよ」
 たった一言。一馬が言った。
 悔しいから何も言わなかった。
 どうして分かるんだろう。こっちは何も知らないし、何も分からないのに。
 いつもどうして、余計な言葉なんて何もないのに。
 欲しい単語ひとつだけ。くれるんだろう。

「まだ」
「うん」

 会話はそこで途切れた。
 沈黙。

 いつか。
 この優しい檻の外に。
 飛び出したくなるその日が。
 いつの日か。来るなら。
 その日まで。
 まだ少し。
 このままでいい。

 このままがいい。


 Fin


夢喰い

TOP

NOVEL