道の見る夢


1.

「ハイ、こちら成瀬探偵事務所です。浮気調査ですか? それともペットのお探しで? え? 別件? あ、ああ。―――"あれ"ですか……」
 コーヒーメーカーが漆黒の液体を生み出すこぽこぽという音に混じって、やけに愛想のいい成瀬一馬(ナルセ カズマ)の声が事務所に響く。
 後半の声のトーンが急降下したのは、絶対に僕の聞き間違いじゃないはずだ。と、狭い事務所に取ってつけたようなキッチンで、高校帰りの制服のまま、コーヒーメーカーの前に立つ英要(ハナブサ カナメ)は思った。
 電話を取った時の愛想の良さからは想像も出来ないほどにテンションの低い声。
 目の前の機械が作業を終えるのを待ちながら、要は、一馬の声に耳を傾けた。
 なにやら頷きながらメモを取っているらしい。愛想の「あ」の字も出てこない、ただの応答だけ。
 カズマ、分かり易すぎ。
 これでは、嫌いなものを指差して「嫌いだ」という幼い子供と変わらないじゃないか。
 自分よりもかなり年上であるはずの一馬の行動に呆れながら、要は作業を終えたコーヒーメーカーから、少し濃い目のその液体をカップに移した。
 二つ分のコーヒーを用意し終わったところで、時代遅れの黒電話がちん、と音を立てた。

「仕事?」
 湯気を上げるコーヒーカップをデスクの上に静かに置くと、一馬は事務用のくるくる回る椅子の背もたれに体重を預け、乱暴にネクタイを緩めた。
 小さく頷く。
「"あっち"?」
 わざと指示語で遠回しに言ってやると、さっきよりも更に小さくこくりと頷く。
 ふてくされているようだ。
 だったら請けなきゃいいのに。と、まるで子供のような一馬を見て要は思う。
 自分で履いた二足の草鞋だろうに、とは思ったが口には出さずにおく。
 しかし、「こんなの」が保護者でどうしよう、と要は時々不安になってしまう。

 一応、しがない私立探偵を営むこの成瀬一馬(24)は、一応英要(16)の保護者である。保護者というほど年が離れているわけでもないが。
 一応ばかりがつく肩書きに、もうひとつ一応をつけるとしたら、一応「夢喰い」なのだ。
 一見バクを連想させるその名前は、決して表舞台には登場しないが、ずっと昔から続いている立派な職業なのだそうだ。
 その能力は一子伝来。決して血縁関係の無いものには受け継がれない力を、一馬はその身に宿している。
 精神の一番柔らかい部分である「夢」に潜れる。それが夢喰いの特性だ。
 子供っぽくて、甘党で、我儘で、短所を挙げたらキリがない成瀬一馬は、「一応」その末裔らしい。
 しかし、夢喰いは、その名の通り夢を「喰う」。
 悪夢でも、それがたとえ、現実を忘れるぐらいに幸せな夢であっても。
 

 一馬の苦虫を噛み潰すような渋い顔からして、今回の仕事はどうやら夢喰いの依頼らしい。
 一馬は、そのニガニガしい顔とは裏腹に、コーヒーに角砂糖を三つも入れ、更にミルクを入れてから飲んだ。
(うわ……)
 いつものことながら、一馬は極度の甘党だ。どちらかといえば甘いものの苦手な要にとってその舌は、理解できないつくりをしているに違いない。
「う〜ん、どうしたもんか」
 走り書きをしたメモを持ち上げ、一馬が唸った。コーヒーを一口飲んでから、少し厄介だな、と呟く。
 短所を数え上げてゆくとキリのないのが成瀬一馬という人間だが、そのワースト3までには確実に「独り言が多い」という項目が入るだろう。
「何か問題でもあるの?」
 デスクと向かい合わせる形に置かれたソファーに腰掛けて、自分の分のコーヒーを両手で持ちながら、一応義理程度に訊いてやる。
 何せ、いつもスーツを着て決めてはいるものの胡散臭い人にしか見えないし、眉間に皺を寄せて深刻そうに腕を組んで見せても、ちっとも要には悲壮に見えないのだ。どこか滑稽ですらある。
「ちょっとな、相手がデカいんだ」
「でかい? お相撲さんとか?」
「要、俺はもうひとひねり欲しかったぞ」
「……ジョークじゃないよ」
 せっかく当社比で考えて、「いつもよりかは」深刻そうだったので訊いてやったのに。労力の無駄だった、と要は頬を膨らました。
「まぁ、それは置いておくとして、今回は少し……厄介なんだ」
 幾分か声のトーンを抑えてそう呟いたあと、一馬はデスクに頬杖をついたまま、ぼんやりとどこかを見ていた。



2.

 さわさわと渡る風に、ひとつに束ねた艶のある黒髪が揺れる。
 ただひたすらに真っ直ぐ続く道の、ほぼ中間地点に彼は立ち、体を優しく包み込む風に目を閉じた。
 ただ目蓋を下ろしただけの、その暗闇に。
 ありありと蘇る数多の思いで全てを、彼は懐かしく思う。愛しく思う。
 時は既に夕刻。空一面を朱に染めた、西へと向かう太陽が、彼の白い頬を赤く染めた。
―――変わるもの。
 うつろいゆくもの。そして。
―――変わらないもの。
 うつろわざるもの。
 頬を擽る程度に撫でてゆく少し冷たい風と、目蓋という薄い皮膚を通してもありありと分かる太陽の「紅さ」を感じながら、彼は思う。
 果たして自分は、どちらであろうか。

「こんにちは。あ、もうこんばんは……ですかね?」
 突如として入り込んできた「異物」の気配に、彼は閉ざした目蓋を持ち上げた。
 気がつくと、少し離れたところにスーツ姿の男が立っている。
 自分と同じ色の黒い髪を持ち、身長の高い……。
「綺麗な場所ですね」
 "侵入者"は周囲を見渡して言った。
 確かにここは綺麗だった。
 細長く続く一本道の、果ては遠く。目を細めてもなかなか終わりを見つけられない。
 その芸術的なまでの一本の線の縁を飾りつけるようにススキが生えている。
 西の空へと沈み行く夕日が、互いの白い頬を赤く彩った。
 いのちの色。
 自然の強さを否応なしに感じる風景だった。
「何者だ」
 吹きぬける風に白い着物の裾がたなびく。
 白磁の肌に、艶のある黒髪。人離れした「美しさ」を持って、彼は厳かに侵入者に問うた。
「成瀬といいます。成瀬一馬」
「……何用だ」
 にこりと一馬が愛想笑いを浮かべたところで、彼は全く"動かなかった"。
 その場に立ち、揺るがぬ視線を一馬に向けたまま。表情ひとつ変えず。
 そこには涼やかな美しさだけが在る。
 まるで凪。
(アイソは効かないか……)
 全く変化のない相手の表情を見つめて、一馬は小さく溜息をついた。
「あのですね……。今日はお願いがあって来たんですけど……」
 普段なら、決して自分のペースを乱さないことに美学すら持っている一馬だが。
 促しもせずにただこちらを見つめている涼やかな視線に、いつもの調子が出ない。
 一馬がどうやって切り出したものかと考えあぐねていると……。
「去ね」
 突然、静かな声と共に正面から冷たい風が吹き付けた。
 さっきまでの静かな風景とは全く違う、目を開けていられないほどの風圧。
 その風のあまりの強さに、潤いを失って渇きを訴える眼球がひりひりと痛んだ。
 両腕をかざして庇った顔の、僅かにさらされた頬の部分で、ちり、と鋭い痛みが走った。
 まるで、紙で指を切った時のような、小さくて、それでいて鮮烈な……。
 痛み。
(切れた……?)
 自分の頬で起こったその事実を認識した次の瞬間。

 一馬は、自分の車の後部座席で目を覚ました。


            *


「追い出されたぁ?」
 普段冷静な要にしては珍しい、素っ頓狂な声が事務所に響いた。
「面目ない」
 来客用のソファーに肩身狭そうに座り、一馬が小声で呟く。
 意外だな、とは思ったが、要は口には出さなかった。
 精神の深いところである「夢」。本当なら本人が主導権を握るべきその空間で、ある程度自由に動き回れる「夢喰い」の力。
 一馬のその力を―――口には出さないものの―――信頼している要であるから。
 今回の強制退場には少し驚いている。
 何か言ってやろうと口を開いたものの、あまりにも一馬が小さくなっているので、可哀相になってそれは断念する。
 冷蔵庫から取り出したばかりの梨を剥き始める。
「今回は"相手が相手だから"、ちょっとは気負って行ったつもりなんだけどな……。流石だよ」
 現実には切れていないが、未だ痛みの名残を引きずる頬を撫でて、一馬は深々と溜息をついた。
 精神世界で人に「痛み」を与えられる。それは強大な精神力を意味する。
「それで……どうするの?」
 綺麗に剥いた梨をテーブルの上の皿に置くと、落ち込んでいるはずの一馬の手がすぐに伸びた。
「再チャレンジ、かな」
「懲りないね」
「興味があるんだ」
「は?」
 要は大きく目を見開いた後に、大げさに溜息をついた。目の前の一馬の顔が、新しいおもちゃを手に入れた子供のように輝いていたからだ。
 全くもう、やってられない。
 呆れた顔で果物ナイフと、剥き終えた皮を入れていたボールを持ち上げる。
「勝手にすれば。僕は知らないからね」
 少しむくれた顔で要はその二つを持って狭い台所へと向かった。
 夢に潜ることは、精神力を消費する。要はきっと心配しているのだろうが。素直に表に出せない子だ。
 その華奢な背中が撒き散らす「呆れてるぞ」オーラに苦笑しながら、一馬は再び頬を撫でた。

 夢に潜ったとき。決して他のなにものにも侵されない、揺らがない彼の"思念"が、ある特定の間でだけ揺れていた。
 変わりゆくものと、変わらないもの。
 うつろうものと、うつろわざるもの。
―――私は。
 静かに繰り返す波のように、寄せては返す声音は問う。自らに。そして何かに。
―――私はどちらだろうか。
 鋼鉄を思わせるほど頑なな揺れない態度。それとは正反対に、揺れ動く心。
 そのアンバランスが痛いほどに響いてきたのを憶えている。
「なぁ、要」
「何」
 台所で皮の処理をしながら、振り向きもせずに要が応じる。
「変わらないものって、なんだと思う?」



3.

 一体いつの頃からか。
 頬を容赦無く嬲る、夕方特有の冷たい風に吹かれるまま、彼は今日もそこに立っていた。
 一体いつの頃からだろう。
 ここに自分という存在が、在ったのは。
「こんばんは」
 空気が微妙に「歪んだ」のを感じ取って、彼はそちらの方向へと目を向けた。
 ここ数日の間、何度も繰り返した行動だった。
「懲りぬな、お前も」
 黒炭のような漆黒の瞳を向けた先に、いつものようにスーツ姿の男が立っている。
 毎日のようにやってきては、二言三言も言葉を交わさないうちに「追い出される」。
「だって、お願いもさせてもらってないですし」
 疲労がありありと滲んだ顔で、一馬は苦笑して見せた。
 こうも連日"潜って"いると、精神力が続かない。
―――これ以上続けたら体が持たないよ。
 と要に釘を刺されたが、目の前の着物姿の青年の見せる、心の揺らぎが気になって、もはや仕事ということを放り出して興味がある。

 ナルセカズマ、と言ったか。
 と彼は思い出す。
 余計なことなど何一つ覚えていないはずの彼の思考に、何故かこびりついて離れなくなった、その名前。
 面白いものだな。
 彼は、陶磁器のようなその口唇の端に、僅かに笑みを浮かべた。
 面白いと感じたのは、一体いつ以来だろうか。
「聞こう」
 今まで表情など欠片も表さなかったその顔に、その口元に浮かんだ笑みと僅かに細められた漆黒の瞳を見て、一馬は驚いた。
 今日もまたいつものように、さっさと追い出されるものかと思っていたのに。
「どうした、言わぬのか」
 未だ笑みを浮かべたまま、彼がやんわりと急かす。その声にはたと我に返った一馬は、相手の気が変わらぬうちにと口を開いた。
「この場所から離れていただくわけには……いきませんか」
 風が凪いだ。
 言ってしまってから、体の内側から冷や汗が吹き出してくるのを感じる。
 取り返しのつかないことをしてしまったような。
 越えてはいけない境界を越えてしまったような。
 どうしようもない不安と後悔とが、見えない手で首を締めてくるようだ。息苦しい。
 今や、闇よりも黒い双眸には、冷ややかな色が湛えられている。
 その視線が、この世界そのものの空気を圧縮しているみたいだ。体中が、重い。
 刹那。
 耳の近くで、ぴッと小さな音がした。
 少し遅れて頬と首筋に鋭い痛みが走り、何か生暖かいものが重力に導かれるままに下に流れる。
 それが何かなど、もはや確認するまでもない。
 一馬は真っ直ぐに、こちらを見据える黒い双眸を見つめ返した。
「……怖れぬのか」
 紅い流れを頬と首筋に流したまま、視線を返してくる一馬を見て、彼は問うた。
「いいえ、怖いですよ。でも、貴方はきっとやろうと思ったらすぐに、追い出す以上に痛い思いをさせて、僕を消せるでしょうから」
「……私がここにこうして在るのは、理だ」
「ええ。分かっています。我々のただの"我儘"だということも」
 貴方に、動いてくれと懇願することは。
 私たち"ひと"の、勝手な都合だ。

 いつのまにか日は暮れ、四方から秋の虫の鳴き声が聞こえ始めた。
 天上には欠けることのない完璧な月が顔を覗かせる。
 沈黙が、しばらく続いた。

「遥かな……」
 空を仰ぎ、満月を見つめ。
 彼が口を開いた。
「遥かな、時の流れの中に在って。私が出来ることは。ここでこうして、うつろうひとの営みを、見ること。見守ることのみだ」
 直接、ひとの行いに干渉は出来ない。
 例えこの道で誰が車にひき殺されようとも。手を下すことは許されていない。
 ここに立ち、ただ、ひたすらに。見守るだけだ。
「それが定めだ」
―――うつろうもの。うつろわざるもの。
 いつの頃からだろう。そんなことを思うようになったのは。
 目の前を掠めては、変わってゆく風景に。手を出すことさえ許されずに変わらずに在ることを。
 定められ。縛られながら。
 ただ、見守ることのみを。
 見つめ続けることのみを。

 変わってゆくもの。それを見つめ、変わらない己。
 未来永劫、ただ「在る」ことの空しさ。


「変わらないものは、何もない」
 静かな一馬の声に、彼は視線を空から目の前の男に戻した。
「って、言ってました。僕の相棒は」

―――変わらないもの? そんなものあるの?
 振り返り、きょとんとした顔で。要はそう返した。
―――変わらないものなんて、何もないと思うんだ。
 ひとは、生まれて生きて死ぬ。
 スフィンクスもピラミッドも、風に削られてやがてはなくなる。
 氷河だって、溶けてなくなる。
 太陽も、いつかは破裂する。

 諸行無常と。
 遥か昔、沙羅双樹の根元で永久の眠りについた"ひと"が説いた。

「僕も、そう思います」
 ひとの思いも。時を重ねるごと。少しずつ。
 強く弱く。うつろってゆくものだから。

 ふと。彼が体の横にただだらりと下げていた腕を持ち上げた。
 しなやかな指先を一馬に向ける。
 その指先から。真っ白な閃光が、矢のように一馬の左胸を―――射抜いた。
 体中に走る"熱さ"に、一馬はがくりと地面に膝をついた。
 何か別の生きもの。虫のようなものが体中を這い回るような、違和感。
(癒されている……?)
 しかしやがて。その疼きが収まると。体中の疲労感が全て消えていることに気付いた。
 驚いて俯かせた顔を上げると、目の前に彼が立っていた。

「ひとというものは、つくづく面白いものだな」
 口元に浮かぶのは柔らかい笑み。
「だから、見限ることが出来ない」
 いつも思う。ひとというものは、面白いものだ。
「ひとつだけ、変わらぬものを教えてやろう」
 ゆっくりと立ち上がる一馬を見上げて、彼が言った。静かな声だった。
「ひとの強かさだ」
どれほど、言葉や風習や、その他の全てが変わりゆこうとも。
 この過酷な忍土に在りて。それでも滅ばずに、前へと歩み続けるひとの。
 強さよりも生々しい、したたかさ。
「私もどうやら"うつろうもの"のようだ」
「え?」
「姿在り方はうつろわずとも、この心は、そなたの言うようにうつろう」
 そう。そのことに気付かずにいただけだ。それとも、見ないふりをしていただけか。
 自分が、うつろわないと決め付けていたから。
 この定めに「空しさ」を感じたことが。そもそもの変化だったのに。
「今回は、そなたに免じて要求を飲もう。―――名をもう一度聞こうか」
「成瀬一馬です」
「良い名だな。私の言葉はそのまま言霊となる。そなたに加護があるよう」
「……貴方の名前を、訊いてもいいですか」
 控えめに一馬が問うと、彼は少し困ったような顔をして。


「個々の名は持たぬ。―――総じて道祖神と呼ばれている」



4.

 見渡す限りに田畑の広がる細い道に車を停めて、その後部座席で一馬は「潜って」いた。
 その助手席で、要は退屈を紛らわすために文庫本を読んでいる。
 もう何日こうしているだろう。
 日を重ねるごと、疲労の濃くなってゆく一馬の顔を見るのは、はっきり言って苦痛だ。
 仕事は出来る出来ないをはっきりすっぱりと割り切る一馬だが。
 自分が一度興味を持ってしまうと、歯止めを知らない。
(しょうがないんだから)
 要は、大きく溜息をついて、文庫本に栞をはさみ込んだ。
 動いていないとはいえ、車の中で本を読むのはやはり息苦しい。
 集中力が切れ切れになって、外に出てみようかと思ったとき、もぞもぞと背中に人の動く気配を感じ取った。
「……終わったの?」
 後部座席を振り返り訊くと、ここ数日は見られなかったような、すっきりとした顔の一馬がいた。
「ああ。無事に快諾してくれたよ。要、携帯」
 言われるままに、ハンドルの横に立てかけてある携帯電話を渡してやる。
 一馬は小さくありがとう、と要をねぎらうと、どこかに電話をかけ始めた。
「……あ、仲南建設さんですか? 先日依頼を受けた成瀬ですけれども。ええ。もう動かしても大丈夫です。快諾してくれましたから」


          *


 電話をかけ終わると、一馬は車から降りた。
 突然の行動に、一瞬呆気に取られたものの、要も直ぐ様にその後を追って助手席から降りる。
 車を停めてある場所から少し歩くと、道の端に巨大な丸い石があった。
 一馬はその前に立ち、何も言わずにそれを見つめた。

―――あの大通りの先にある細い一本道をですね、大通りにしようと思っているんですが。
     その道の途中に大きな石が置いてあるんですよ。

 数日前に受けた電話の声を思い出す。

―――どけようとすると必ず何か事故が起きるんで、困っているんですよね。

「我儘だなぁ……」
 石を見つめたまま、ぽつりと一馬がこぼした。
 要はその隣に立ち、主語のないその呟きに少し頼りない保護者を見上げた。が、一馬は相変わらず石を見つめている。
 神と崇め、守ってくれと願いながら。
 人の都合で、どけろと言うなんて。
「要。このあいだ、『変わらないものは何もない』って、お前は言ってたけど、たった一つだけ、変わらないものがあるんだって」
「何?」
「―――人の……狡さだって」
 強かさ。きっとそんな綺麗なものではなくて。
 人が人として、生きてゆくための。浅ましいほどの適応能力。
 その狡さ。それだけは。
「…………ふぅん」
 曖昧に頷いたあと、要は再びその大きな石を見た。

 一体どれだけの人の強さと弱さを。そして強かさを。
 見つめ続けてきたのだろうか。
 そしてこれからも、変わらずに見つめ続けてゆくのだろうか。
 願わくば、と一馬は思う。
 あの漆黒の瞳に映る人の営みが、少しでも幸せであればいい。
 変わりゆく、うつろう心が少しでも、彼の瞳に「面白く」映ればいい。
 だから一瞬一瞬先、この心が少しずつ、強くなればいい。
 少しずつでいいから。

「あ」
 要が、空を仰いで少し間抜けな声をあげた。
 つられて見上げると、そこには夢の中で見たものと同じ、望月。
「そう言えば今日は十五夜だって、テレビで言ってた」
 白く透き通る満月を見上げて、独り言のように要が言う。
「帰って月見でもするか?」
「うわ、どうしたのいきなり。なんだかコワイよ」
 突然風流めいたことを口にする一馬に、要は大げさに驚き、心底怪訝そうな目を一馬に向けた。
 心外だ、と眉間に僅かに皺を寄せ、一馬は車へと歩き出した。
「満月だって、またすぐ変わるんだ」
 満ちてはまた欠けてゆく。
 明日も明後日も。来月も来年もまた、月は巡るけれど。見上げる心がきっと違っているから。それはきっと同じモノじゃない。
「同じものは二度と見られないんだろ」
 変わってゆくから。
「うん」
 その背中を追いながら、要は少しその石を振り返った。
 笑った……気がした。
「要。置いてくぞ」
「待ってよ、せっかちだな……」
 既に運転席に乗り込んでいる一馬に、呆れた視線を送ったあと。
 要は天球を仰いだ。
 渡る風。
 少しずつ少しずつ。変わりゆく環境と共にこの心も。強くなれればいい。

「要。早くしないと店が閉まるだろ」 
「……店?」
「月見だんご」
「…………食欲魔人」
「食欲の秋と言ってくれ」

 車へと向かいながら、聞こえるように大げさに溜息をつき、要は言った。

「馬鹿とコトバは使いようだね」


<了>



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