朧 夢



序 帝の病ひのこと

「銀(しろがね)の。急に呼びたててすまぬな」
「わたくしども、帝に仕えるものなれば、どうぞ己の手足のようにお使いを。頭中将殿」
 その間には、直衣姿の二人の男が向かい合って座っていた。
 上座に座った頭中将に深々と頭を下げたのは、線の細い男だった。凛と通る声は少し高い。
「そなた、噂は聞いておるか」
 うっすらと口髭を生やした頭中将がその手で檜扇を弄びながら口を開いた。
「……帝の病のことでございますか」
 面を伏せたまま、銀と呼ばれた男が返す。うむ、と頭中将は頷いて見せた。
「修験者や高僧に加持祈祷を続けさせておるのだが、一向に回復の兆しが見られぬ。薬師もまた然り。私はこれは並大抵の物怪の仕業ではなかろうと踏んでいる。そこでお前を呼んだのだ。銀御園」
 銀 御園(しろがねのみその)。それが深々と頭を垂れた男の名だった。一応。
 帝と宮に仕える「霊媒師」。近年力をつけてきた家で、御園で二代目になる。
「持てる力を尽くす所存でございます」
 力をつけてきたとはいえ、所詮はまだ二代目。銀という家の名を高めるも貶めるも、全ては御園の頼りない肩にかかっている。これを逃すわけにはいかなかった。
「頼む。帝はまだお若い」
「……御意に」
 しくじるわけにはゆかぬ。
 父から継いだ銀の家、つぶすわけにはいかないのだ。



一章 世の中に絶えて桜のなかりせば 春の心はのどけからまし

「御園様だわ」
 通り過ぎた御簾の向こうで女房の声がした。思わず耳がそちらに集中する。
「相も変わらずお美しいこと。まるで女性のようなお顔」
 ぎくりと御園は思わず足を止める。しかしまたすぐ歩き出した。
 ずり落ちかけた立烏帽子をなんとか元に戻し、ひとつ溜息を落とす。

 内裏を出、牛車に乗り込んで初めて、御園は深々と深呼吸した。
 直衣の内側に手を差し込み、内側に巻いたさらしを緩める。
「……まだ気を抜くのは早いかと。御園様」
 牛車に控えていた爺が不快そうに眉をひそめる。
「硬いことを言うな、爺。息苦しくてかなわんのだ」
「そのようなことでいかがなされます。これから仕事を請けるほど、外へ出る回数が増えることは必定」
「分かっている、分かっているとも」
 年寄りの戯言は頷いていたほうが早く済む。それが、御園が十八年生きてきて学んだひとつだった。
「すっかり春じゃないか」
 話を逸らすように、御園は牛車の物見から外を覗く。風に流され、舞い踊った桜の花びらが、牛車の中に吹き込んできた。
 掌を差し出すと、その手の中に薄紅の花びらが舞い込む。
「頭中将殿のお話は」
「ああ、帝の病のことだそうだ」
 桜が吹き込むに任せ、御園は牛車に背を預けた。定期的な揺れ。
「しかし、御園様がご自分でお調べになったときは……」
 物怪の気配など、無かったではないか。
 そこまで言わずに爺は黙る。御園が頷いたからだ。
「しかし帝は病んでおられる。それは事実だ。……しかし、物怪が絡んでいないとなると、出方は無いな……折角の好機なのだが……」
 今回のことで名をあげれば、銀も少しは箔がつくというものだ。
 しかし、物怪の気配が無いとなれば、霊媒師の出る幕は無い。
「……しかし桜が美しいな。停めてくれ」
 しばらく考え込んだあと、御園は突然そんなことを言い出した。
「御園様!?」
「少しひとりで考えたい。ここから歩いて帰る。桜も愛でたいしな」
 うろたえる爺を尻目に牛車が止まる。ばさりと御簾を跳ね上げ、御園は地に降り立った。
「案ずるな。すぐに戻る」
「……貴方のご心配はしておりませぬが、くれぐれも、ばれぬよう」
「ああ。心得ている」
 苦笑して、御園は桜のほうへと歩き出した。溜息混じりに爺が御簾を下ろす、ぱさりという音。すぐに牛車が動き出した。
 その音は次第に遠ざかり、やがて聞こえなくなった。

 牛車が角を曲がりきるのを見届けてから、御園はあたりを見渡した。
 目の前にはなだらかに下る土手。下ってゆくと、水に磨かれ丸くなった石がごろついている川原。その向こうに穏やかな川の流れ。
 川の傍に数えるほどの桜の樹が固まって、狂ったように咲いていた。そこまで歩いてゆくと、御園は桜を見上げた。
―――御園。
 銀の館の庭にも、桜が植えられていた。まだ御園が幼いある日のこと、父と同じように桜の下で……。
―――この家を繋いでゆくためには必要なこと。しかしそれでお前に辛い思いを……。
―――父様。御園は構いませぬ。私とて、軽んじられるのは嫌です。御園はちからを持って生まれました。父様と同じように霊媒として生きたいのです。
 そうか。父はさびしげな顔をして笑ったものだ。その父も、二年程前に病に倒れた。
 御園は跡取として銀の後を継いだ。

「うつくしい桜ですね」
 突然後ろから声がかかり、御園は弾かれたように振り返った。ぼんやりしていたとはいえ、気配を感じなかった。
 振り返った先にはひとりの男が立っていた。着崩した着物姿に、結わえてもいない黒い髪をそのまま垂らした、やけにうつくしい顔をした男だった。
「そんなに怖い顔をしないでいただきたい」
 物凄い形相で振り返った御園に、男は読めない笑みを浮かべた。へらへら、と形容していいだろう類の。軽い笑い。
 ただの民草か、と思ったものの腑に落ちない。身のこなしが何処か、洗練されている。育ちがよさそうだ。
 じろりと御園がその男を見据えていると、男はふっと目を細めて笑って、
「きれいな顔が台無しですよ。銀御園 彰子(あきらこ)殿」
「貴様っ……!」
 思わず御園は声を張り上げた。何故この男が、自分の『本当の名』を知っている!?
 すると、男は人差し指を口唇に押し当てて、御園を黙らせた。
「大声をあげると人が来ましょう。彰子殿、声を抑えて」
「ならばその名を呼ぶな、馬鹿者っ!」
 とうとう御園は男を怒鳴りつけた。
 銀 御園 彰子(しろがねのみその あきらこ)。それが御園の正式な名だった。そう、女である。
 母は御園を生んですぐに他界した。父には他の家にも子があったが、父の力を受け継いだのは御園のみ。
 ただの家の後継ぎならば養子を貰えばよかったが、霊媒の家系で力の無いものを当主に据えるわけにも行かない。
 しかしこの時代、男に比べ女子は軽んじられる。ゆえに御園は男として生きることを選んだ。
 それを決意したときから男の衣を身に纏い、ひた隠しにしてきた。もはや捨てたと思っていた名を知っているのは一体何故……。
「貴様何者だ。壬生、それとも九重の間者か」
 急激に力をつけた銀という家をよく思わない同業者は多い。特に古いといわれる壬生と九重は、銀を軽んじてはばからない。
 自分が女であると知れたら厄介なことになる。
 御園は、直衣の内側に手を差し込んで探る。内側に隠してあった長い針を三本、指と指の間にはさめて握りこむ。もしも間者なら始末せねばなるまい。
 しかし目の前の男は先程と同じ軽い笑みを浮かべたまま、動じる様子も無い。
「名乗れ。貴様だけ名前を知っているというのは不公平だろう」
「榊(さかき)と。そうお呼びください、彰子殿」
「だからその名をっ……!」
 呼ぶなと言っているだろうに!
「帝の病のこと、お知りになりたいのでは?」
 余裕の笑みを崩さずに、榊と名乗った男は言った。
「なにものだ……!」
 名でも身分でもなく、男の正体が気になる。そこまで知っているのは一体……。
 すうっと細めた男の瞳に、御園ははっとする。深いが、蒼だ。蒼い双眸。
「妖(あやかし)か、貴様」
「……そう呼ばわるものも、中にはおりましょう。ただのひとでないことは確か。しかし妖ともまた少し違ういきものです」
「一体……」
「私は貴方の夢に興味がある」
「……ゆめ、だと?」
「私は人にあらず、妖にあらず。その狭間に生きるもの。その在り様はまさにゆめまぼろし」
 榊は歌うように言った。御園は瞬きを忘れ、目の前の男を見た。
 魅入られたように動けなくなる。魔性の術中にはまったかと、唇を噛んだ。
「私は人に憑いて生きるもの。帝の病についてお教えいたしますゆえ、貴女に取り憑かせてください」
「何をっ!」
 ふざけたことを! 霊媒師に憑きたいという物の怪は数多いる。力が強いほうがいいからだ。しかし面と向かってそれを言ってきたのは奴が初めてだ。
 思わず御園は直衣から腕を引き抜き、針を構えた。
「貴方の生活に支障はありませんよ。ただ少し、夢を喰らうだけのこと」
 臨戦態勢の御園に、榊は両手を上げて降参の意を表す。
「貴様、夢魔……」
「また、お会いできますよ」
 一陣、風が吹いた。狂い咲きの桜の花を舞い上がらせる。視界が一瞬死んだ。
 風がやみ、舞い上がった桜がはらりはらりと落ちてくる頃には、目の前に男の姿は無かった。



第二章 春の夜のやみはあやなし梅花 色こそ見えね香やはかくるる

 屋敷に入るなり、御園は立烏帽子を床に投げ捨てる。
「まぁ、御園様……」
 出てきた女房が、くらくらと腸煮えくり返っている主に目を丸くする。
「どうなされたのですか、内裏でなにかございました?」
「どうもこうもっ! 不愉快だっ!」
 全く答えにならない答えを返し、御園はどすどすと自らの母屋のほうへと歩いてゆく。立烏帽子を拾い上げ、女房は呆然と主の背を見送った。
 歩いている途中で髪を結わえた紐を解くと、ぱさりと肩の上ぐらいに黒髪が流れ落ちた。女としては短い髪だ。しかし髪を下ろすとすっかり女の顔になる。
「み、御園様っ! い、一体何事でございますか!」
 爺が御園の後ろについて歩く。髪を結わえた紐、直衣の紐、解いては捨てゆかれるそれらを律儀に拾い集めながら、母屋へついてゆく。
 小袖に下袴姿になった御園は、小袖の内のさらしすら抜き取り、そこへ捨て行く。
「何事か、だと!? 何事も何もっ……。何者だあの男っ!」
「男……?」
「ああ、思い出すだけでも腹が立つ! 妖だ、夢魔だ! 私を彰子と呼び、私に憑きたいとまで言いおった! 今度まみえたときこそ消してくれる!」
 母屋に入ると、御園はどかりとその場に座り込んだ。
 爺はあたりを見渡し、御簾を下ろし、母屋に入る。
「……彰子様。声が高うございます。いくら銀の館とはいえお控えください」
「結界を張っているだろう、取り乱すな」
 胡座をかいて座った御園は、溜息をつき髪を邪魔そうに後ろに掻きやる。
「夢魔と? 彰子様」
「ああ。深き蒼の双眸。あれは人ではない。……しかし、壬生や九重と無関係と決まったわけでもない。厄介だ」
「御園様。文が参りました」
 すのこをかすかに軋ませ、女房が御簾の前までやってくる。
「入れ」
 言うと、女房が御簾を捲り上げて入ってきた。
「爺、読め」
「は?」
「どうせ妖の話だろう。今はとても文など読む気になれん」
 女房から渡された文を、御園は爺に押し付ける。
 仕方なく、爺は文を開いた。は、と目を見開く。
「どうした、厄介な頼みか」
 閉じた瞳をわずかに開き、御園は怪訝そうに爺を見やる。
「い、いえ。頭中将様からでございます。帝が彰子様に……いえ、御園様にお会いになるそうで……。明日、共に白拍子の舞を見よとお誘いだと……」
「なんだって!?」
 がたり、思わず御園は立ち上がった。
「ああ、いかがいたしましょう、御園様……」
 おろおろと爺が取り乱す。御園も同じ思いだった。ここまで帝に期待をかけられ、答えられないとなると、銀はここまでだ。信頼は失墜する。
 しかし、妖の気配は無いのだ。
「……とりあえず、一度帝の傍へ行こう。それからだ。誘いを断るわけには行かないだろう」
 御園は大きく溜息をついた。銀の後を継ぎ二年。もはや試される局面がきたようだった。


            *


「そなたが銀御園か。噂は伝え聞いておるぞ」
「ありがたきことでございます」
 御簾の奥から声がかかる。御園は面を上げずに声を返した。許されるまで、面を上げることは出来ない。
「苦しうはない。面を上げよ。朕がそなたを招いたのだ。噂の霊媒師とやらを間近で見たいと思うてな。今から舞わせるのは朕の気に入りの白拍子。愉しんでゆくがよい」
 若き帝の声に張りは無い。意味不明の病に蝕まれているからだろう。
 賢帝と名高い今生帝。年の頃もまだ三十路に手が届いたあたり。
(妖でなければ呪……か。しかしその気配も……)
 斜めほどに顔を上げ、御園は御簾の奥を見る。帝の気配を弱めているのが一体何か、見定められず目を細める。
「榊」
 御簾の向こうから帝が呼ばわった。はっと御園は顔を上げた。"榊"!?
「お傍に、帝」
 中性的な声が返った。立烏帽子に単。その上に水干という白の衣を纏い、緋の袴。手には蝙蝠(かわはり)と呼ばれる扇。
 黒い髪を背に垂らしたうつくしい白拍子が、庇の下の砂の上に立った。
 化粧を施した顔は完璧な女性(にょしょう)。その白拍子はぐるりと一同を見渡し、ふと、御園に目を留めた。
 ふっと御園に分かるようににやりと笑って見せた。
(あ、あやつっ……!)
 思わず声を出しそうになって、御園は口元を抑えた。間違いない、狂い咲きの桜の下に現れた妖! まさか彼奴が帝を……。
 御園は、白拍子の舞に集中することが出来なかった。
 舞が終わると、白拍子はいずこかへと、姿を消した。

「頭中将殿」
 舞が終わり、帝の前を辞して後、御園は頭中将、高階惟善(たかしなのこれよし)を呼び止める。
「どうした、銀の」
 中将の後ろに控え歩きながら、
「あの白拍子の素性、知りたい」
 すると、頭中将は驚いたように半ば振り返り、
「……帝の病にあやつが絡んでおると?」
「いえ、確証はないのですが」
 すると、中将はうっすらとひげの生えた顎に指をやり、やれやれ、とこぼす。
「あの白拍子については私も深くは知らんのだ。二月ほど前にふらりと現れた。あの容姿にあの舞であろう。帝がいたくお気に召されてな……」
 二月、と御園は口の中で繰り返した。帝の病が起こり始めたのが、一月と半前のこと。かぶらないこともない。
 すると、頭中将も同じことを思ったらしく、眉間にしわを刻んだ。
「ふむ……それは気になるな……、と」
 頭中将が顔を上げ、向こうから歩いてくる人影に目を留めた。御園もその肩越し、向こうから歩いてくる男を目に留める。
「これはこれは、成瀬殿。久しゅうございますな」
 頭中将が声をかけた。すると、成瀬と呼ばわられた男が口元に少し笑みを浮かべる。
「これは高階惟善殿。久方ぶりにございます」
 その男は、肩越しに御園を見た。その瞳、冴え冴えとした蒼。
 貴様、と叫びそうになり御園はようやくそれを抑えた。中将も中将だ。何故分からない。
 "これが例の白拍子だ"!
「中将の後ろにお控えは、噂に伝え聞く霊媒師、銀御園殿では?」
 帝は堅苦しさを嫌い、直衣―――貴族の平常服―――での参内を許していた。瞳と寸分違わない濃紺の直衣を身に纏った成瀬某は、御園を真っ直ぐ見た。
「成瀬殿にも噂が届いているとは、随分と高名になったな、銀の」
「……もったいないお言葉でございます」
 ここは一介の霊媒師として控えたほうがよさそうだ。しかし、御園の胸のうちではふつふつと怒りの炎が再燃していた。
「成瀬殿は本日は?」
「帝の見舞いに」
「おお。帝も従兄弟殿の見舞いとあれば、さぞかし喜ばれましょう」
 従兄弟?
「それでは私はこれにて」
 丁寧に礼をして、成瀬某は二人の横を通り過ぎた。通り過ぎる刹那に御園のほうを見るのを忘れずに……。

「中将殿。今のは……」
 某が角を曲がってしまってから、御園は声を低めて問うた。
「ああ、前々帝の末娘が降嫁した成瀬の嫡男。成瀬雪匡(なるせのゆきまさ)殿だ。帝の血につらなるやんごとなき御方だが……」
「だが?」
 頭中将は扇を広げ、御園の耳元に囁く。
「母が―――前々帝の末娘笙子(しょうこ)が妖と通じたという噂があってな。笙子殿が降嫁したときは一流であった成瀬の家もすっかりと落ちぶれてしまっておる」
 成瀬雪匡。御園は、口の中でその名を繰り返した。
 見つけたぞ、"榊"。



第三章 春の夜の夢の浮橋とだえして 嶺にわかるるよこ雲の空

 荒廃を隠し切れぬ屋敷の前に、御園は立っていた。これが一時期隆盛を極めたという成瀬の家か。
 牛車ではなく、今日は歩きだ。供も連れずにきた。
 ぎい、と扉を押し開くと、手入れされていればさぞや美しいだろう庭が現れた。今や荒れている。
「おや」
 不意に右手から声がかかり、身構える。
「まさか、貴女から尋ねてきてくださるとは思いもしませんでした。彰子殿」
「だからその名で呼ぶなとっ……」
「ご心配召されるな。この屋敷には今、私しかおらぬ」
 庭の端に植えられた、一本の枝垂桜の下に、榊は立っていた。あの日、御園と会った時のような軽装で。
「お前だけ?」
「今私が住処にしているのは別宅だ。ここは荒廃がひどい。それなのに貴女が申し合わせたようにここに尋ねてきてくださるのは定めかな」
「お前こそ、ならば何故今日に限ってここにいる」
「偶然、本宅の枝垂桜が見たくなったんですよ」
「そんな偶然があるか」
 威嚇する猫のような御園の姿に、榊はふっと笑った。蒼の瞳を細める。
「貴女が来ると思った」
 そんな言葉を吐いてみせる。
「貴様が帝の病の根源か」
 ざっと砂を踏み、御園は枝垂桜に近づいた。
 奥に踏み入れれば踏み入れるほど、荒廃が激しいことが知れる。それと共に妖の気配もする。
「滅相もない。今は至高の座におられる帝だが、幼き頃はよく遊んだ仲。何ゆえ苦しめる必要がある」
 差し伸べられた手の様な枝垂桜の枝の一本を掴みながら、榊は言った。
「この屋敷は妖気が濃いですか」
 その枝から御園に目を移し、不意に榊はそんなことを言った。
「先程から、眉間に皺を寄せて」
 そのとおりだった。この屋敷に渦巻く妖気が先程から不快だ。
「この館は、母が恋しい男と逢った館。妖気も仕方ありますまい」
 母笙子が妖と通じた。頭中将の言葉を思い出した。それでは、真実だというのか。
「成瀬雪匡、お前は……」
「私は人に在らず。あやかしに在らず。その狭間を生きるもの。申し上げたはずです」
「ではお前……」
「人と妖の交わりは、禁忌。その証である子には呪いがかけられるといいます。殺さずともいずれ絶えるようにと。その存在は朧夢。夢まぼろし。妖よりも人よりも、弱いいきものです。人の夢を喰らわねば、いずれ飢えて死ぬ身。そしてこの呪いは、成瀬の血絶えるまで、我が子に繰り返し伝えられます。子々孫々までも……」
「夢を……」
「喰われる側に実害はありません。ただ、見ていた夢を忘るるのみ。……私は貴女に興味がある。彰子殿」
 枝垂桜の枝を離し、榊はその手で御園の頬に触れた。
「私を飼う気はないか」
「……飼う?」
 その手を振り払えずに、御園は榊を見上げた。整った美しい容貌も、やはり男の顔だった。
「契約だ。私は人の夢に潜る力がある。そして、今回の帝の病、私の力を持ってすれば解決できよう。銀の名、高めたいだろう」
「それで、お前は私の夢を喰らうと……?」
「いや、貴女の夢にも興味はあるが、貴女の傍におれれば、夢を喰らうのに苦労はすまい。何も病や奇怪を起こしうるのは妖のみにあらず。ひとのこころ」
「……お前の食事の膳立てをしろと?」
「貴女が処理できる幅が増え、名は上がると思うが」
 含み笑い。癇に触る。御園は頬に触れたままの榊の手を払いのけた。
「それで私に、何の得があるというのだ。名をあげるだけか。帝の病を治すだけか」
「……それ以上望むとは、なかなか強欲だな、彰子殿」
「呼ぶなといっているだろう!」
 ふふ、と榊はさも面白そうに笑って見せた。挑発に乗ってしまった自分が恥ずかしくて、御園はぐっと唇を噛む。
「貴女にもひとつ得がある」
 風に揺れる枝垂桜を見上げ、半妖は言った。
「得?」
「我ら、夢を喰らうものには、いかなる呪いも効かぬ。そしてそれは、私の近くにいるものも例外ではない」
「呪いが、利かぬ?」
「これから敵が増えれば、なかなか厄介な問題では? 壬生に九重、銀を煙いと思っている輩は掃いて捨てるほどいる。私と契約を交わすのならば、私はいかなる呪いも通さぬ、貴女の盾となれる」
 訝しげに御園は眉根を寄せた。その話が本当ならば、無駄に気を張って呪いに備える必要もなくなる。
 がしかし、この男の言葉が真だと誰が証明できるだろうか。嘘偽りで取り入ろうとしているだけかもしれない。
 そもそも、半妖にそのような呪いがかけられることなど、御園は知らなかった。
「信じる信じないは貴女に任せよう。とりあえず今は帝の病を治すとしませんか」
 お試し期間ということで、と成瀬雪匡―――榊―――はへら、と初めて逢ったときのような軽い笑みを浮かべて見せた。
 決めるのはそれからで構いませんよ、と。
「しかし、お前が帝の病を治せるというのなら、何故今まで治さなかった。帝はお前の従兄弟なのだろう」
「私ひとりでも治すことは出来ない。貴女ひとりでも治すことは出来ない。……つまりはそういうことですよ」
「…………ひとつだけ訊く」
「なんなりと」
「……貴様、女装の気があるのか」
 返事は返ってこなかった。



第四章 花さそふあらしの庭の雪ならで ふりゆくものはわが身なりけり

 銀色の直衣を身に纏い、御園はあの桜の下に立っていた。
 強い風になぶられ、枝を離れた花びらが、夜半過ぎの黒い川面に舞い落ちて、流れ行く。

―――それでは明晩。あの桜の下でお会いいたしましょう。

 なにやら、言いくるめられたような気もする。あの男―――成瀬雪匡―――を全面的に信用していいという確証は何もない。
 へらへらと顔には締まりもなく―――しかも男とは思えない艶めいた顔で―――何を考えているのか全く読めない。
 あの男、嫌いだ。

 なのに何故私はこうしてここで待ってるんだっ!!
 風に吹かれては水面に落ちてゆく桜の花びらを見ながら、御園は自分で自分を叱った。
 そうだ、嫌ならば来なければ良かったではないか。
 いや、これも家のため。何しろ奴は私が女だと知っている。断ったら何をしでかすか分かったものではない。
 と、自分自身に言い聞かせ、御園はなんとか心を落ち着けた。
 直衣の懐に手を差し込み、札を確かめる。後は針も……。銀色の直衣は、御園が妖退治に出るときに纏う"戦闘服"だった。
 直衣に身を包んだのは13の頃だった。男として、生きてゆくことを決めて。
―――父様。私は必ず銀の家をお守りいたします。
 直衣の裏に縫い付けた、父の護符に触れ、御園はゆっくりと目を閉じた。
 頬に桜の花びらがあたる。

 不意に首にぱさりと何か、布のようなものが落ちた。さらさらと揺れる感触は、髪の毛……?
「ほう。やはり私の目利きに間違いはなかった。そうなされたほうが何倍も見目麗しい」
 突然背後に気配が現れた。ばっと振り返ると、視界の端に黒い髪の毛が揺れた。……私の髪?
 慌てて頭に手をやると、立烏帽子がない。結わえ上げた髪の毛がいつのまにか、解かれている。
「きっ……貴様ぁッ……! 何をするっ!!」
 振り返った先でにこにこと笑う男の手に、自分の立烏帽子。いつのまに取られたのか分からない。
 仮にも霊媒一門の当主が、気配に気づけないとは。
 肩の下あたりに落ちた髪。榊の視線が値踏みするように御園を上から下へとたどった。
「月と桜、よく映える。お美しいですよ、彰子殿」
「戯言を言うなっ!!」
 榊―――成瀬雪匡―――は、はじめて会ったときと大差ないくだけた服装だった。……白拍子姿で来なかっただけ善しとしてやろう。
「烏帽子を返せっ!」
「いやです」
「何だと〜〜!?」
「あまり大声を出されますな。人が来ますよ、彰子殿」
 片手で烏帽子を持ったまま、榊は右手の人差し指を自らの口唇に当てた。
 誰のせいだ誰の!
「……その名で呼ぶなと、何度言えば分かる……」
「貴女に似合いの名なのに」
 ふつふつとこみ上げる怒りを押さえて、なんとか声を抑えた。握り締めた拳はわなわなと震えていたが。
 すると榊は、拗ねたような顔で溜息をついて見せた。
「似合いも何も。迷惑だっ!」
「つれない方だ。傷つきました」
 無視することにした。
「案内しろ榊。どこへ行けばいい」
 すると榊は苦笑混じりに御園のほうを見ると、
「内裏です。ここから少々歩きますが、平気ですね」
「誰にものを言っている。御簾の内で可愛がられ育てられた姫とは、わけが違うぞ」
「失礼をいたしました。それでは参りましょうか、銀御園殿」
 差し出された烏帽子を引っ手繰るようにすると、榊は先に立って歩き出した。
 見上げた空にかかる月は霞がかかっている。雨が降るかもしれない。


            *


 すっかりと静まり返った朱雀大路を真っ直ぐに突っ切り、大内裏の朱雀門までたどり着く。
 見張りにはもう既に今日のことが伝えられているらしく、あまりにもあっさりと大内裏の中に通された。
「お前か、榊」
「私が役に立てるのはこのようなところだけでしょう。腐っても皇族の血。表向きは蔑ろにはされませんよ」
 陰では何を言われるかは分かりませんがね、と榊は珍しく自嘲を口元に刻んだ。
「榊……」
「とりあえずは内裏に参りましょう。建礼門の見張りにも、話は通してあります」
 前に立って榊は歩き出した。ところどころに灯されたかがり火がゆらゆらと揺れる。
 湿った風が吹き始めた。

 真っ直ぐに榊がめざしたのは内裏の中の飛香(ひぎょう)舎。帝の住まい、清涼殿のすぐ傍にある、後宮。
 身分の高い女性ほど、清涼殿に近い住まいが与えられるのが決まり。現在の飛香舎の主は中宮洸子(こうし)。
 飛香舎の中庭(壺と呼ばれる)場所には藤が植えられ、ゆえに飛香舎を『藤壺』と呼ばわる。

「おい榊、藤壺の方に何か用か。いくらお前が皇族の血を引いていようとも、中宮は……」
「用があるのは飛香舎の奥。藤壺の庭。中宮の館を騒がせるつもりは毛頭ございませんよ」
 藤壺の庭といえば、飛香舎の奥の奥。なにが騒がせるつもりはない、だ。
 一介の霊媒師でしかありえない自分が、内裏に立ち入ることも畏れ多いというのに。
 貴様はいいかもしれんが、元々皇族の血を引くものならば。
 ……言いかけたが口を噤んだ。この男はどうやら、自らの血を好いているわけではなさそうだ。
 榊の足取りは迷いない。緩まないその歩調に、御園は置いてゆかれぬように背を追いかけるしかなかった。

「いずれの世も人のこころとは不思議なものですね、彰子殿」
 またその名を、と思ったが、榊の口調がいつもと違うので、御園は黙った。
「ひとがひとを想うこころとは、まこと不思議なものです」
 ざりざりと土を踏みしめ、ためらうことなく飛香舎の門をくぐる榊の背をじっと見る。
「彰子殿。両親の顔はよく覚えておられますか」
「……母様は、私を産んですぐに身まかられた。父様の顔は、よく覚えているぞ」
「私は一度だけ、父の顔を見たことがあります。母の顔に至っては、泣き顔ばかりを」
 一度だけ、と口の中で繰り返したところで、御園は息を飲んだ。
 こいつの、成瀬雪匡の父親は―――。
「とても力の強い鴉天狗と、それだけしか知りませんがね。最後に見たのは死ぬそのとき」
 夜の闇にも侵されぬ、光沢を持った黒い翼が背から千切れて落ちる。白銀の髪と血のような赤い瞳。
「山の主と言われるほどの鴉天狗が、無抵抗です。成瀬の館のもの全てを殺め、喰らって逃げることも、出来たはずなのに。母が人質に取られていた、ただそれだけの理由で」
 聞いたことがある。山の主と呼ばれるほどの強い法力を持った鴉天狗。御園がまだ生まれて間もない頃に、人の手にかかって命を落としたといわれる妖。
 名を、―――榊、と。

(お前は、どういう思いで、その名を名乗っているのだ、成瀬雪匡)
 一族に殺められた父の名を名乗り、白拍子として帝の前で舞い、落ちぶれた貴族の家の当主としてうつけのように振る舞い。
 お前は一体、どういう男なのだ。何がしたいのか、御園にはわからない。
「まこと、不思議なものです。自らの命より、他の何かを慈しむ想いとは」
 ふふ、と笑い声が前からやってきた。榊がどのような顔で笑っているのか、御園には想像も出来なかった。


「さあ、つきましたよ」
 藤壺の庭に立ち、榊は真っ直ぐに、植えられた藤を指さした。
「見えるでしょう」
 言われなくとも、御園には見えていた。枝と花とを垂らす藤の棚の下に、ぼんやりと立つ人影。女だった。
 体から灰白い光を放っているようにも見える。が、霊魂や妖の気配は全く感じられない。
「……何者だ?」
 相手に呼ばわるのではなく、傍に立つ榊を見上げて問うた。
「人ですよ。普通の。中宮付の女房です」
「人!? 人があのように頼りなく立ったりするものか、しかもこんな夜半過ぎに」
「だから、申し上げたでしょう。人のこころとは、実に奇なるものと」
 榊は先に立ちその人影に近づいた。気配に気づいたのか、女房が振り返る。感情のない顔だった。
「夢と現の区別がつかぬようだね」
 すっと右手をその女房の顔にかざし、榊は言った。すると、途端に女房が放っていたわずかな灰白い光が掻き消え、その体はどさりと崩れ落ちた。
 榊の手がそれを支える。
 暫く額に右手を当てたまま、じっと榊は目を閉じていたが、やがてその伏せた目蓋を上げ、御園に振り返った。
「必死の想いとは、実に強いものです。夜な夜なこうして、彷徨いだすようになるほどまでに」
 榊は、抱き上げた女房を近くのすのこの上に寝かせると、御園の傍まで戻ってきた。
「どういうことだ?」
「全く、帝も罪なお人だ。最近は雷鳴壺(かみなりのつぼ)の女御ところへ入りびたりのご様子だ」
 雷鳴壺と呼ばれるのは、襲芳舎(しほうしゃ)の事をさす。近頃の帝の寵愛を一身に受けている女御がそこにいた。
「中宮洸子殿は心のおやさしき方。帝を責めることはなさらないが、深く深く傷ついておられるご様子で」
「では、帝の病は中宮が……?」
「いえ、あの女房ですよ」
 榊は目線で、すのこに寝かせた女房を示した。
 要領を得ない御園の手を引き、藤棚の下へと連れてゆく。
 竹を組んで作られた藤棚の中央まで来たところで、榊は上を指差した。一本の竹に、何か白いものが貼り付けてある。
「先程も申し上げましたように、中宮はおやさしき方。そのおやさしき方があまりに嘆かれるので、あの女房は大事な主を苦しめる帝がにくくて仕様がなくなったのでしょう」
 貼り付けてあったのは呪符だった。
「……しかし、私が調べたときには呪いの気配は……」
「この呪符が気になって気になって仕方のないあの女房が、夜毎この藤棚に立っていたからです。眠りながらも夜な夜な彷徨いだしてまで。女房の強い念が
呪いの気配をかき消していたのでしょう」
 説明して、榊はにっこりと笑って見せた。
「……夢を、喰ったのか?」
「ええ。夢を喰らうことで、女房の強い念も共に」
 笑顔を崩さずに答える。あんな、短い時間。額に触れただけでか。
「これで、その呪いを解くことが出来るはずです」

―――私ひとりでも治すことは出来ない。貴女ひとりでも治すことは出来ない。
 榊の言ったことは、そういうことだったのか。
 ひとり納得し、御園は再び呪符を見上げた。ここから先は御園の専門だ。が。
 御園は端正なその眉をひそめる。これは少々厄介だ。
「どうなされました、銀御園殿」
 このようなときだけ、ご丁寧に霊媒師の名で呼んでくれる。嫌味か貴様。
「……これは降魔の符だ。妖を呼び寄せ、呪いたい相手に取り憑かせる。この符を焼いたところで、帝に憑いた妖を始末せねば呪いは解けんな」
「ならばそうしましょう」
「……さらりと言うな。この符を見れば、少々手ごわい」
「ご高名な銀のご当主とは思えないお言葉ですが」
「やればいいんだろう!」
 溜息混じりに言い捨て、御園は額に人差し指と中指とを当てた。
「邪気よ、去ぬれ。聖なる焔に屈せよ」
 呟き、その指先を降魔の符に押し当てた。すると、符は端のほうからちりちりと燃え始め、青白い炎をあげて一瞬にして燃えてしまった。
 ぱらぱらと燃えかすだけが落ちてくる。
「―――!」
 符が燃え尽きた刹那、大きな気が動いた。はっと、御園はその気配が動いたほうを見る。
 榊も顔を引き締めた。
 妖気。しかもかなり大きな。
「彰子殿……」
「見つけたぞ」
 銀の直衣の内側に手を差し込み、札と針とを確かめ、御園は少し残虐に笑った。

「清涼殿だ」



終章 色見えでうつろふものは世の中の 人のこころの花にぞありける

 初めて父を見たのは雪匡が三つになる頃だった。物心ついて間もない頃だが、未だに忘れることも出来ずにいる。
 夜半すぎ、なにやら館が騒がしく、眠れずに中庭に出た。満月の夜だった。
 月を見上げ、ぼんやりと高欄にもたれていると、上から黒い羽根が降ってきた。
 はっと顔を上げると、屋根の端に座り込んでいる人影を見つけた。しかし、人でないことがすぐに知れる。
 その背に、一対の黒い翼。格好は山伏のようなものだったが、月の光を跳ね返す銀の髪に赤の瞳は人間ではありえなかった。
 雪匡は呆然とそれを見上げた。不思議と怖くはなかった。妖の整ったその姿を、うつくしいとすら思った。何よりもその背に背負う、黒檀のような美しい翼。
―――雪匡、か。
 恐ろしくないと感じたのはきっと、相手の"気"が柔らかかったからに違いない。
 はい。貴方は誰ですか。
 頷き、問い返すと、屋根の上の妖は、目を細めた。
―――俺は榊だ。お前の姿を見に来たが、まさか言葉を交わすことが出来ようとは。
 さかき。
 ばさり、と黒の羽根が動いた。気がついたら、妖は屋根の上にはいなかった。慌てて探すと、すぐそばの高欄の上に腰を下ろしている。
 そっと伸ばされた、透けるほどに白い腕が、伸びかけた雪匡の髪を何度か梳くように撫ぜてから頭にのった。伸びた鋭い爪も、雪匡を傷つけなかった。
―――お前は、俺に構わずにかかわらずに、生きてゆけ。俺はお前に、呪いより他に遺してやれるものはない。
 そのとき。
 雪匡は知った。この人が、父に違いないのだ。
 己が深い蒼の瞳を持って生まれることになった、館の中で恐れられる元凶となった。
 母の愛した人。
 ばさっと、何か音がした。気づくと、その妖の背から黒の羽根が片方、千切れて落ちた。
―――ゆるせ、雪匡。
 黒く見えた衣は、元は白かったことを知る。妖の体から溢れ出した血で赤黒く濡れていただけだった。
 もう一度、妖は目を細めた。何か、大切なものを見るような目をした。
 そのままゆらりと、前のめりに倒れ、すのこに落ちる。
 はじめて見たその背には、何本も魔封じの矢が突き立っていた。

 あなたの名前はね、雪匡。この、「雪」という字はね。
 母が何度も、耳にたこが出来るほど言い聞かせた言葉。
 父様の髪の色から貰ったのよ。
 見下ろす、既に動かない妖の髪は、空の月の輝きすら拒むような、白銀。

 母は、それから数日後、自ら命を絶った。
 ひとり残された自分は、一体どうやって生きてゆけばいい。
 没落してゆく家。半妖と指される指。
 この人の世に、縋るほど執着できるものがなく、流れる水のようにのらりくらりと生きてきたが。

 ある晩のことだ。ふらふらと鴨川のあたりを歩いていると、清浄な気を感じた。
 眩しい、光。
 そちらのほうを見ると、ひとりの霊媒師が今まさに、霊魂を祓おうとしているときだった。
 体からほとばしるうつくしい白の光。そして、翻る、白銀の直衣。清水のような冷たいほどの霊気。
 あれは、一体、何者だ。
 何故か必死に調べてようやく知った名。
 銀御園彰子。一族をその頼りない背に背負い立つ、ひとりの女だった。

「魅入られたのかもしれませんね」
 清涼殿に向かって駆ける御園の背を追いながら、榊はぽつりと呟いた。
「何か言ったか!?」
 肩越しに振り返り御園が言ったが、榊はゆるりと首を振って答えなかった。
 怪訝そうな顔をしたものの、御園はそれ以上深く追求はしなかった。


            *


 清涼殿の前庭にたどり着き、御園は一度だけ大きく深呼吸した。
 このぐらい走っただけでは、吐息も乱れない。
 直衣の内から札を引きずり出し、人差し指と中指にはさんだ。
 清涼殿の屋根の上、朧月を背負い、うつくしい十二単を纏った女がひとり、立っていた。
 背負った月の光で顔などは見えない。
「朧の姫……」
 呪符を燃やした時点で予想はついていたものの、気がつけば御園は口の中でその名を呼んでいた。
 何代か前の左大臣の娘。慕った男を殺され、帝のもとに嫁がされた。悲しみのあまり、自らも川に身を投げたという話がある。
 それからというもの、帝に絡んだ色恋沙汰には、彼女の呪いがかけられるという噂も立った。

『憎らしや』
 長く艶やかな黒髪を吹く風にたなびかせ、朧の姫の口唇が動いた。
『あの方はいずかたにおられるのやら……。父上に討たれたあの方は……』
 札を口元に寄せ、目で朧の姫を見据えたまま、御園は呪を唱えた。
 すると、屋根の上から御園を見下ろした朧の姫の姿が、急に煙のように掻き消えた。
 は、と瞬いた刹那、目の前に青白い顔が現れた。
『そなた、何者ぞ』
 御園は慌てて後ろへ飛んだ。ぽっかりと空いた穴が瞼の裏に焼きつく。髑髏の、目の穴。
 水になぶられ、魚に食まれたという姫の顔半分は、すっかりと肉が落ち、髑髏が剥き出しになっていた。
「朧の姫、どうか大人しく成仏を」
『妾が一体何をした』
 生前の美しさが分かるような半分残された顔。しかし残り半分は醜く腐り、崩れ落ち、剥き出しの骨。
『教えてけじゃれ、あの方が一体何をした。切り捨てられ、川に投げられねばならぬようなことをしたと?』
 ぐっしょりと濡れた単から、砂に水が滴り落ちる。
 ざり、と砂を踏んで、朧の姫が御園との間合いを詰める。
『憎らしき都よ、京という場所は。数多の怨念と謀りに支えられ、見目きらびやかに在る、魔性の都ぞ』
 朧の姫は、自らの髪に骨ばかりの手を差し込むと、ずるりと引き抜いた。黒い闇を湛える眼孔と、整然のままの美しい瞳で、その濡れた髪を見た。
『滅んでしまえばよいのだ』
 骨の指先で握り締めたその髪が、ぼっと青白い炎をあげて燃え上がる。
「今生帝が死のうが、都が京以外のどこへ移ろうが」
 横から割って入った声に、御園は顔を上げてそちらを見た。
「下らん世の理は、何一つ変わりはせんよ」
 朧月の下にぼんやりと浮かび上がるその中世的な美貌に冷たいものすら含ませ、榊が真っ直ぐに朧の姫を見た。
 腕を組み、細めた瞳に嘲りの色すら滲ませ。
「どれほど時が流れようとも、人の世というものは総じて怨嗟と裏切りに満ちている。人が人で在り続ける限りは」
 まこと、奇なるものよ。人のこころとは。
 小さく呟き、榊は笑んだ。壮絶な、凄艶な、とも表現できる氷を孕んだ微笑。その身に宿る妖の血脈を否応なしに見せ付ける。思わず御園は息を飲んだ。
 朧の姫の目は真っ直ぐに榊を見据えていた。その突き刺すような視線を、たやすく受け止め、榊は視線を御園のほうへ流しす。なにやら含むように、小さく頷いて見せる。
 そういう、ことか、榊。
 頷き返し、御園は改めて札を口唇に押し当てる。
 口の中で小さく呪を唱えると、札が灰白い光を発し始める。
 口唇に当てた"ただの紙"が少しずつ、熱を帯びる。その熱を肌で感じ、御園は目を閉じた。

『それならば人など、永らえねばよいのだ』
「それを貴女が言うか。面白い、たいした矛盾だ。その言葉、そなたにそのまま返そう。下らん人の世など儚んで、早々に去ね」
 未練がましく、現世(うつしよ)になどにしがみつかずに。さっさと。
「他を呪い己の過去を嘆くことしか出来ぬものに、この世は生き抜けまいよ。京は、人の姿をした鬼の棲む都」
 つよく在ろうとするもののみが、道を見つける場所。
 いずれの世も、都というのはそういう場所だ。

「破魔―――!!」
 口唇から引き剥がした札を、御園は地の砂に押し付けた。
 榊と向かい合っていた朧の姫が、は、とそちらを見るよりも早く。
 姫の足元から天に向かい、一本の光の帯が迸った。
 黒く長い髪が、下から吹き上げる光の奔流に弄ばれ、四方八方になびいた。
『熱い……。口惜しや……! 妾の恨み、思い報せで滅びるなぞ……』
 白い腕で半ば溶けかけた咽喉をかきむしる。天へと突き上げた光に、姫の体が地から浮いた。
『ああ、隆綱様……、妾はさみしうございます。いずこへ行けば貴方様にお会いできるのか―――』
 肉の削げ落ちた両手で顔を覆い、朧の姫が嘆いた。
 光の帯から吹き付ける強い風に烏帽子が飛んだが、御園は構わずに姫を見つめる。
『どれほど彷徨うても、貴方の影すら見つかりませぬ、隆綱様……』
 残った片方の瞳から、はらりはらりと涙がこぼれては、頬を伝い落ちる。
 白銀のひかりの中にあって、その涙は一際美しく輝いた。
 ばさばさと風になぶられる髪で視界が効かず、御園は目を凝らして朧の姫を見た。はらはらと零す涙が痛々しい。

 女子(おなご)はこの世にあって、力なく、翻弄されて生きるもの。時に不浄と蔑まれ、時に道具と利用される。
 さらしできつく巻いた胸の奥が、きしりと痛んだような気がした。
―――他を呪い己の過去を嘆くことしか出来ぬものに、この世は生き抜けまい。
 そういうな、榊。女には、選べる道が限られているのだ。
 泣くより他に、出来ぬときもある。
 風になびき、視界を邪魔する御園の髪は、女としては短すぎる。伸びすぎぬよう、肩を少し越えるたび、女房に切らせていた。
 女房は御園の髪を切るたびに嘆く。おうつくしい御髪を。単を纏われればどこの姫にも負けぬほど麗しくいらっしゃるのに。
 嘆くな。女でいては、生き残れない。髪など、名など、捨てても惜しくはない。
 私はこの道を選んだのだ。

『かくなる上は霊媒師、貴様だけでもっ―――……』
 朧の姫の言葉に我に返ったときには、もう既に形を保てずに人魂のようになった姫が、御園へ向かって突っ込んでくるところだった。
 咄嗟のことに、足が動かなかった。このままでは、姫に取り憑かれる―――。
 そのとき、横から衝撃が来た。何かにぶつかられ、そのまま地面に転がる。
 背や手に砂の感触がした。
 気が付けば御園は、清涼殿の庭に転がっていた。
「全く、お優しいのも困りものですね、彰子殿」
 自分の上に影が出来ていることに気づき、御園は目を開けた。すると自分の上に覆い被さるようにして榊がいる。
 どうやら、自分を突き飛ばして助けてくれたのは榊のようなのだ、が。
「きっ―――……!」
 何か言おうとして言葉にならない。御園の上に馬乗りのようになりながら、榊は余裕で笑みなど浮かべている。
「お、朧の姫は……?」
「消えました。先程のが最後の力だったようで」
 神経を研ぎ澄ましあたりを探る。が、姫の気配は既に消えていた。あたりは静寂に包まれている。
「じっと姫のほうなどを見て。同情でもなさいましたか」
「う、煩い。貴様には関係ない」
「貴女には自ら選んだ道がある。貴女には、この華やかな京が似合う」
 自ら選んだ道を貫くその強さあらば、鬼の棲む都も必ずや生き抜けよう。

 榊には珍しい真摯な瞳で見下ろされ、御園は思わず声を失う。が、次の瞬間我に返った。
「いつまで乗っている、のけっ!!」
 足で思いっきり榊の腹を蹴った。
 う、と大袈裟に腹を押さえてみせて、榊は御園の上から退いた。
 ぱんぱん、と直衣についた埃やら砂やらを払い、少し離れたところに転がった烏帽子を拾い上げる。
 しかし、髪を結わえていた紐が見つからず、仕方なく烏帽子をかぶりなおすのはあきらめた。

「榊」
 朧に霞む月を見上げている半妖を呼ばわった。榊はゆっくりと朧月から御園のほうへ視線を向ける。
 月の光の中にあって、その蒼い瞳は冴え冴えと清かだった。
「助かった。礼を言う。今回の一件、そなたの助力なければ、解決出来なかったろう」
 それなりの力はあると自負してきたが、今回は本当に目の前の男に助けられっぱなしだ。
「いいえ。私はひどくこの現世に退屈しておりましたゆえ、久々に楽しい思いをしました」
「それから……」
 くるりと榊に背を向け、御園は歩き出した。
 事は終わった。これ以上内裏に留まる理由もない。
 数歩歩いてから、振り返らずに御園は言った。
「気が変わった。……憑かれてやってもよいぞ」
 少しだけ照れを含んだ御園の台詞に、榊は真顔になる。

―――貴女に取り憑かせてください。
 初めてまみえた時に言った己の台詞を思い出し、ふっと口元を緩める。
「……全くあなたは、見ていて退屈することがない」
「なっ!? どういうことだそれはっ!!」
 榊の言葉尻を捕らえた御園が、がばりと振り返る。
「言葉のとおりです」
 しれっと答えて、榊は歩き出した。立ち止まる御園を追い越して内裏の入り口へと向かう。
 その飄々とした背を見ながら、御園は、たったさっき言った自分の言葉を後悔していた。

 色々な姿をした鬼の棲まう都、京。
 右を向こうが左を向こうが同じような人種しかいないこの場所で、一族の全てを背負い、女でいることを捨てまでして、全てのものと戦おうとする人を見て。
 どうして退屈などと言えよう。
 前を向く瞳も、纏う銀の衣すらも、まぶしいもの。
(そんな己の強さに自覚症状がないところが可愛らしいんですよ、貴女は)
 そうして時折見せる年相応の女の顔も。

「気分が悪い。帰る」
 ばさりと下ろしたままの髪を翻し、御園が早足で榊を追い越した。
 月の光を浴び、直衣の銀がまぶしく耀いた。



 帝の病が快癒したと知らされたのは、それから二日後のこと。
 帝直々に礼を述べられた御園が、"例の白拍子"の舞を見せられたのは、更に数日後のことであった。


 朧月はかなく散るは桜花 全て一夜の夢かまぼろし―――


<了>







頭中将(とうのちゅうじょう)
 蔵人所(天皇の側近で宮中儀式全体を掌握するところ)の次官である蔵人頭のうちのひとり。
 頭中将は近衛中将(近衛府の次官)と兼任で、上級官への登竜門とされた。位は従四位の上。

白拍子(しらびょうし)
 平安朝末に始まった遊女の歌舞。また、その歌舞をする遊女。

直衣(のうし)
 平安朝以降の男性貴族の普段着。
 烏帽子(えぼし)は黒い帽子の意で、元服後の男子の被り物とされた。


第一章
世の中に絶えて桜のなかりせば 春の心はのどけからまし/在原業平(古今和歌集 巻一・春上・五三)
訳:世の中に全く桜がなかったなら、春の人の心はのどかなものであろうに。

第二章
春の夜のやみはあやなし梅花 色こそ見えね香やはかくるる/凡河内躬恒(古今和歌集 巻一・春上・四一)
訳:春の世の闇はわけがわからない。(闇の中に隠して)梅の花の色は見えないけれど、香りが隠れているだろうか(いや隠れはしない)。

第三章
春の夜の夢の浮橋とだえして 嶺にわかるるよこ雲の空/藤原定家(新古今和歌集 巻一・春上・三八)
訳:春の夜の夢がふととぎれてめざめると、そらには横にたなびいた雲が嶺から離れてゆく。

第四章
花さそふあらしの庭の雪ならで ふりゆくものはわが身なりけり/入道前太政大臣(新勅撰集 雑・一〇五四)
訳:桜の花を誘うように散らす風が吹く庭で、雪のように散る花びらではなく、年を取って古くなってゆくのは私自身であることだ。

終章
色見えでうつろふものは世の中の 人のこころの花にぞありける/小野小町(古今和歌集 巻十五・恋五・七九七)
訳:あせてゆく色が見えないで変わってゆくものは、世の中の人の心という花であるよ。



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