籠女の里
1.
かごめ かごめ。
*
逢魔が時。
黄金に溶けた太陽が西へと落ちかけ、闇と光とが同居する時間。
誰そ彼、と問い掛けなければ相手が分からない、黄昏時。
舗装がなされていない砂利道を、車がごとごとと進んでゆく。
車一台が通れればいいような道路。すぐ傍には田畑が広がり、蛙の鳴き声が聞こえ始めていた。
「……もっと、安全運転に、してよ」
砂利でがたがたと揺れる車の後部座席から、まるで蚊の鳴くような小さな声が聞こえてきた。
「うるさい。林間学校の最中に熱を出して強制送還されるような子は、おとなしく寝てなさい」
「しょうがないじゃんか。元から風邪気味だったんだし……」
「無理して出かけていくお前が悪い。大人しくしてなさい」
「バカズマ」
「馬鹿でもなんでもいい」
「……怒ってる?」
「もちろん。………………具合は?」
「……咽喉も鼻も平気。だけど……凄く頭痛がする」
「熱は?」
「7度8分」
はぁ。と大げさな溜息が呆れていることを雄弁に語る。
要はそれ以上何も言わずに黙った。これ以上何を言っても、相手を呆れさせるだけだ。
車の割には居心地のよいシートに沈み込み、自然の欲求に逆らわずに、要は目を閉じた。
とにかく頭が重くて、目蓋が重くて。堪えられなかった。
しばらくして、後部座席から規則正しい寝息が聞こえてきて、一馬は安堵の吐息を漏らした。
なんだかんだ悪態をつきつつ、やはりだるかったのだろう。
「にしても妙だな」
バックミラー越しに要の様子を確かめながら、一馬はひとりごと。
少々風邪気味だったとはいえ、一日ほどでここまで悪化するとは。しかも家を出て行くときにはもう治りかけだったはず。
これ以上酷くならなければいいが。
と、バックミラーから前へと視線を戻した、次の瞬間。
「わっ!」
すぐ傍の田んぼから、黒い影が飛び出してきて、一馬は慌ててブレーキを踏んだ。
弾みで大きく横にハンドルを切ってしまい、どん、という音と共に衝撃。車が傾いて止まった。
どうやら田に片方のタイヤが落ちたらしい。
「痛い……」
車の天井に強かに頭をぶつけたらしい要が、不機嫌をあらわにした声で抗議する。
しかし一馬の姿は既に車中にはなく。
がんがんとまるで頭を内側からかちわるような痛みを抱えたまま、要はこめかみを押さえて車のドアを開ける。
しかし目の前に広がったのは水に満たされた田んぼ。
しばらくその光景を見つめて考え込んだあと、要は扉を閉め、反対側の扉から降りた。
「……カズマ、どうしたの?」
こめかみを掌で押さえたまま、要は車の前のほうへ回りこんだ。
すると、砂利道の真ん中に立って、まるで狐につままれたような顔をしている一馬に近づく。
「いや、今、何かが飛び出してきたと、思ったんだけど……」
しかし残されているのは片足を田んぼに突っ込んだままの惨めな車の姿だけだった。
「……立ったまま寝惚けないでよ」
「確かに見たんだけどな、参ったな……」
前髪に右手の指を突っ込み、ぐしゃぐしゃとかき回す。そして一度辺りを見渡して、振り返り。
無残な愛車の姿を見てもう一度嘆息した。
「ねぇカズマ、近くに村があるみたいだけど……」
斜め上を見上げた要の目に映った標識には、『籠女』とだけ書かれていた。
*
「そうでしたか、それは災難でございましたね。今日はもう暗いですから、明日村の者に頼みましょう。車のキーは?」
「いや、キーは抜いてきましたけど……」
「それなら大丈夫です。一日ぐらい放置したところで、誰も邪魔にはしませんし、このような山奥ですから、盗難もありませんので。今日は我が家へお泊りください」
「え? あ、はぁ……」
一馬と要が村に辿り着いた頃には、とっぷりと日が暮れていた。
村はすっかりと静まり返っており、ようやく捕まえた若者に声をかけると、村の一番奥にある旧家へと案内されたのだった。
出てきたのは20代後半ぐらいの和服の女性だった。黒い髪を綺麗に結い上げ、流れるような物腰で二人を奥へと導きいれた。
「私は籠野 藤(カゴノ フジ)と申します。何分山奥でございますので何かと不便かと思いますが、どうぞごゆるりとお過ごしくださいませ」
「え、でもそんな、泊めてもらうなんて……」
「じゃあ、いきなりですけど」
戸惑いを隠しもせずに露にする要の言葉を途中で遮って、一馬が切り出した。
僕が話してるんじゃんか。という意味合いを含んだ要の、顔が整っている故に威圧感のあるその睨みつけをさらりと流して、一馬は続ける。
「どんな部屋でもいいんで、布団敷いて貰えますか」
「ええ。構いませんが」
「こいつ、寝かせてやらないと」
ぽん、と頭の上に手を乗せられ、要は思わず「え?」と間抜けな声を出してしまった。
子ども扱いしないでよ、と頭の乗せられた一馬の手を払い除けると、振り払ったはずの一馬の掌が額に触れてきた。
「無理するな」
一馬の掌と、自分の額との温度差を改めて知らしめられた要は、抵抗を諦めて黙った。
「具合でもお悪いのですか、それはいけません。すぐに。―――明石、東の間に床の用意を」
「はい、お嬢様。すぐに」
後ろに控えていた和服姿の初老の男が、直ぐ様障子を開けて外へ出てゆく。
「床の用意が出来ますまで、お茶でも如何ですか?」
鮮やかな紅を引いた口唇で、藤は凄艶に笑んでみせる。
蛍光灯だと言うのに、純和風の部屋を照らし出す電灯は、何故か暗く感じられた。
*
「サイアク」
特にすることもないので、早めに布団に入った要の口から、ぼそりと漏れた一言。
「何が?」
灯かりひとつない暗い座敷。慣れた目でぼんやりと浮かび上がる室内は、ところどころ闇が濃く、見上げた天井には染み出したような黒い染みがついていた。随分古い家のようだ。
「まさかカズマと枕並べて寝ることになるなんて……」
「いいじゃないか、修学旅行みたいで」
「今時修学旅行だって、皆で枕並べて寝たりしないんだよ」
遅れてるんだから。
いつものようにからかって見せても、返事がない。
不思議に思って一馬がいるほうに首を向けると。
「……3秒」
背中を向けて目を閉じる。保護者はもう夢の中だった。
がんがんと内側から頭を叩くような頭痛は今もまだ止まない。
目を閉じると、内側から灼くような熱がじわじわと上がってきて、その熱に逆らわず、要は落ちた。
眠りの中へ。
落ちてゆく意識の片隅に、絡みついたのは―――細い歌声。
2.
籠の中の鳥は いついつ出やる―――
*
浮上する意識。逆らわずに目蓋を開くと目の前に鳳凰が描かれた襖が見えた。
どうしてこんなところにいるんだろう? ぼんやりと考えているうちに、昨日の記憶が戻ってくる。
ああそうか、車の前輪が田んぼに落ちて……。
ゆっくりと布団の上で上半身だけを起こすと、まだくらくらした。
(風邪……?)
おかしい。そんなはずはない。林間学校に行く前に、風邪はほぼ完治していたはずだったのに。
どうもこの山に入ってから、具合が悪くなったような気がする。
第一、咽喉にも鼻にも異常がない風邪なんて、変だ。
けれど確かに、熱があるとき特有のだるさが体中を支配している。
(歌……)
何の前触れもなく、静かな水面にぽこりと泡が湧き上がるように、浮かんできた言葉。
要自身がびっくりした。けれど。
昨日の夜。波のように寄せては返した音を、耳はしっかりと覚えていた。
「起きたのか?」
障子が開き、普段は自分が起こさなければ起きてこない保護者が、やけにすっきりした顔で入ってくるので。
要は自分が相当寝坊したのだということに気付いた。
「……今何時?」
「まだギリギリ午前、ってところかな」
座敷に一組だけ敷かれている布団の傍に跪き、上半身だけを起こしている要の額に、一馬は掌を当てる。
「ねぇカズマ」
自分の額よりも幾分か冷たいその掌に、不本意ながら心地よくて目を閉じてしまう。
「なんだ?」
「昨日の夜、歌、聞こえなかった?」
「歌?」
「そう。女の人の、細い声で。―――『かごめ かごめ』」
「そこまでは分からないけど、歌なら聞こえたような気がするな」
「そっか、夢じゃないんだ」
なにやら思うところがあるように、要がふぅ、とひとつ大きな溜息をつく。
その様子を見ながら、一馬は昨晩起こったことを思い出していた。
*
昨夜。
ものの3秒で寝に入ってしまった一馬だが、深夜、鼓膜を震わす細い声で目を覚ました。
―――かぁごめ かごめ 籠の中の鳥は いついつ出やる
『かごめ かごめ』? あの子供の遊びの?
何度も何度も繰り返すその歌に興味をひかれてしまった一馬は、隣の要を起こさないように布団から這い出した。
さすがにスーツ姿のまま寝るわけにもいかず、貸してもらった浴衣の裾を掻き合わせ、そっと縁側へ出る。
都会にいては見られない満天の星が空に鏤められ、その中央に月が鎮座ましましている美しい夜に、その歌声は異質だった。
不気味ですらある。
古さゆえ、やたら軋む床を何とか音を立てないように歩きながら、一馬は声に導かれるように館の中を進んだ。
寝静まった純和風の屋敷は、どことなく陰気で絡み付いてくるような何かを感じてしまう。
(階段だ……)
奥の奥、廊下の突き当たりにあった扉を開くと、下のほうへとぽっかりと口をあけた階段が現れた。
―――夜明けの晩に 鶴と亀がすぅべった
歌はどうやらこの下から聞こえてきているようだ。
夕方突然押しかけて泊めてもらった上、その家を夜中ふらふら彷徨うなど、失礼千万は重々承知だが。
この屋敷、何か気になる。
元々好奇心旺盛な一馬が、我慢しきれるはずもなかった。
闇の中へ一歩踏み出す。ぎぃ。思った以上に一段目が軋んだ。
下へ下へと降りるうち、素足にひやりとした感覚を覚えた。どうやら最下層に辿り着いたようだ。
足にひんやりとなじむ感触。これは石畳だろうか?
―――後ろの正面だぁれ。
闇に慣れた瞳で辺りを見渡すと、どうやら地下牢のようだった。
旧家には珍しくないものだが、未だに使っているとは。
歌は、木で組まれた格子の向こう側から、細く聞こえてくる。
地上に半分だけ顔を出した窓から、差し込む月明かりに照らし出され、女の白い肌がぼんやりと浮かび上がった。
歌いながら、その腕に何かを抱いている。
……こけし。
何故かは分からないが、冷たい石畳に触れる足の裏から、髪の毛の先まで。
急に冷たいものが駆け抜けていった。
踵を返し、上へと一段踏み出す。ぎぃ。思った以上に音が響き、息を呑んだ。
「大丈夫だよ。紫(ユカリ)には聞こえないから」
囁きのように小さいのに、凛とした強さを持った声が上から降り注いできて、一馬はもうすぐ大声を上げてしまうところだった。
今にも口から飛び出しそうな心臓を押さえるように左胸に手を当てて、足元に落とした視線を持ち上げ、階段の上の方を見る。
和服姿の、5歳ぐらいの愛らしい子供が、一馬よりも数段上のところに立っていた。
「……君は?」
「燕(ツバメ)」
「―――ここの中にいる人は、紫さんって言うの?」
その容姿の割には落ち着いている燕の様子に、一馬は思い切って問い返した。
すると、燕はその頭を小さくこくりと動かした。
「もう戻ったほうがいいよ。そろそろきっと藤が、紫を慰めに来るから。紫は"かごめ"だよ」
「カゴメ?」
「"かごめ"には色々な意味があるよ。貴方なら、捕まえられるかもしれないけど……」
意味深な言葉を残し、燕はぱたぱたと階段を駆け上がってしまった。
そんな大きな音を出したら、と制止する暇もなく、燕の足音はやがて聞こえなくなった。
―――もうすぐ藤が紫を慰めに来るから。
しばしぼんやりと、一段目に片足を乗せたままという無様な体勢でいた一馬だが。
燕の言葉を思い出して、極力足音を立てないように、そして極力早く、階段を上って部屋に戻った。
相変わらず、細く脆い歌声は、綺麗に整えられた庭に、宝石を鏤めたような空に、響いていた。
*
それからあと、どうやってこの部屋まで戻ってきたのか、一馬はよく覚えていなかった。
そして、勝手に人様の家をうろついた挙句、そのようなものを発見したことを要に言うこともはばかられた。
どうせまた、「どうしてそんなことするの」と叱られるのは目に見えていたから。
「……車は?」
いつまで掌を当ててるつもり、と手を振り払われて、一馬は我に返った。
「ああ、今家の人が引き上げてくれるって言うから、キーを預けたんだけど……」
「成瀬様、よろしいでしょうか?」
手持ち無沙汰になった右手を訳もなく握ったり開いたりして見せる一馬を、障子の外から呼ぶ声。
振り返ると、白すぎる障子に人影がぼんやりと浮かび上がっていた。
「あ、はい」
返すと、始めは細く、それから丁寧に障子を開き、相も変わらず和服姿の藤が顔を出した。
「すみません手数をかけて。車……」
「それが……」
一馬の言葉を途中で遮り、藤がなにやら憂えた顔をする。
「動かないんです。何度もやってみたのですが。車自体が」
「え……?」
「今ちょうど、車に詳しいものが出払っておりまして。戻り次第見させますが……」
「そこまでご迷惑かけられないですよ、自分で何とかしますから……」
お前は寝てていいから、と要を布団に押し戻し、一馬が立ち上がった。
ぱたり。障子が閉まったあと、しばらく続いていた話し声が、遠ざかりやがて聞こえなくなった。
あとは静寂だけが残る。
思った以上に強い力で布団に押し付けられ、(肩痛い……)軟弱なことを思ってしまう。
一体このだるさはなんなのだろう。
高熱一歩手前の熱を孕んだ体。一番だるい温度を保って。
頭の内側から響き渡る頭痛。
気管があまり強くない要にとって、風邪とはすなわち咳との戦いであるはずなのに。
……おかしいな。
体調も、何もかも。この村も。
何かおかしい。
鈍い痛みを与え続ける目蓋を閉じて、その上に手の甲を乗せる。
そのまま、襲い来る睡魔の手に身を委ねようと―――……。
「ねぇ」
枕元で急に聞こえた高い声に、要は反射的に体を起こした。
途端にがん、と頭を横から殴られたような、鈍痛。
「ッ……」
痛むこめかみを押さえて、一拍置いてから声のした方を見た。
膝の辺りまでしか丈のない着物姿の、一見男か女かも分からない子供が立っていた。
「あそぼう」
小さな手を伸ばし要の、貸してもらった浴衣の端を捕まえ、引っ張る。
「君、ここの家の子?」
「燕」
少しずれた答えが返ってきた。しかし要の頭の動きは鈍く、燕の答えを肯定と受け取った。
「つばめ、って。あの、鳥の?」
質問を返すと、その頭をこくりと前に倒す。
「そとにいこう」
くいっと浴衣の裾を引っ張られ、断りきれずに布団から這い出す。
着替えようかと近くにたたんであった服に手を伸ばすと、反対の手を強く引っ張られ、強引に外へと引きずり出された。
「ちょっ、待ってよ、このままじゃっ……」
「だいじょうぶだよ」
何が大丈夫なんだ、とも言えずに、要は引きずられるままに縁側に降りた。
―――かぁごめ かごめ
裸足のまま地面に足をついてしまい、その意外な冷たさに気をとられていると。
まるで耳の奥にこびりつくような、そんな声で。歌が。
いくつもの声が重なって、絡まりあって。絡まりついてくる、そんな。
いつのまにか、少し離れたところで、燕と同じような和服姿の子供たちが、『かごめ かごめ』で遊んでいた。
真ん中に一人がしゃがみこみ、その周りをぐるぐると数人の子供が輪になって回っている。
―――後ろの正面……
「こらっ」
歌が終わりに近づいた頃、どこからともなく大人が駆けてきた。
頑固そうな、親父。
「それで遊んじゃいかん」
親父が怒鳴り散らすと、子供たちは蜂の子を散らしたかのようにどこかに姿を消してしまった。
「どうして……」
有名な子供の遊び。わらべ歌。どうしてそれで遊んではいけないのだろう?
素朴な疑問が、そのままぽろりと零れ落ちた。
「この村は」
ずっと手を握ったままの燕が、わずかにその小さな掌に力を込めて、口を開いた。
「昔はとっても貧しくて、何度も飢饉がきた」
「飢饉?」
「大人たちだけで食べていくのも、精一杯で、かごめかごめで、後ろの正面になった子供が、口減らしのために間引きされた」
繋いだ手が、幼い子供なのにやけに冷たくて、けれど振り払うことも出来ずに。
要は何故か息を殺した。
「……殺された子供たちを鎮めるために、大人たちはこけしを作った。子供の"子"に"消"すって書いて、こけしって読むんだよ。この村は、ずっとこうして続いてきたんだ。閉鎖的で、暗くて。醜いものは全部内側に囲って、見せないようにして。そうやって。―――ねぇ」
くいっと繋いだ手を軽く引いて、燕は要を見上げた。
「紫をたすけて」
視線を合わせると、燕が泣きそうに顔を歪めた。
「勝手なお願いでごめん。勝手に引き止めてごめん。だけど……。このままじゃ紫が、"お母さん"が、かわいそうだから」
「ユカリって……」
誰?
「要、お前何してるんだ?」
聞きなれた声が乱入してきて、要は顔をあげた。その瞬間、片手に感じていた微かな温もりがふっと消える。
「え?」
思わず間抜けな声を出してしまった。辺りを見渡しても、燕の姿はどこにもなかった。
「お前大丈夫か?」
辺りをきょろきょろと見回している要に、一馬は怪訝そうに眉をひそめた。
「カズマ、今ここに小さな子供、いなかった?」
真面目な顔で要が訊くと、一馬も負けずに真面目な顔で要を手招きした。
導かれるまま縁側まで歩いてゆくと、前触れもなく一馬は、要の額に手を当てた。
「なっ、何するんだよ!?」
ばしっと大げさにその手を振り払い、要は叫んだ。
「……熱に浮かされてるんじゃないかと思って。俺が来た時はお前一人だったから」
「ひとり……?」
「そう。一人でぼんやりと、しかも裸足で庭にいるから。お前らしくないなと思って。とりあえずそこに座れよ、何か足拭くもの借りてくるから」
「うん」
促されるまま縁側に腰掛け、斜め後ろに腕を付き、空を見上げた。
いつも見ているはずの空が、やけに明るく見えた。
(和式の古い家は苦手だ……)
周りが暗くて。気分が塞いでしまう。
生まれてこの方、和風の家で長く過ごした経験のない要にとって、慣れていないということも手伝って、なんだか窮屈だった。
(それだけじゃなくこの家、なんか……)
暗い。
―――紫をたすけて。
今にも泣きそうな一歩手前。燕の表情を思い出す。
それ以外はずっと涼しげな表情だった燕が見せた、唯一の表情と言ってもいい。
ゆかりってだれ。
先程一馬に遮られた質問を、カタコトのように口唇に乗せてみる。
何も分からないのに、助けてなんていわれても。
どうすればいいのか分からないよ。
3.
夜明けの晩に 鶴と亀がすぅべった
*
ぼんやりと、蝋燭の火が揺れる。
仏壇の前に座った藤の瞳に、そのちろちろと燃える光が鮮やかに焼きついた。
「燕、貴方なの? もういいかげんにしてと、言ったじゃない」
「藤はあのままでいいの? こんなのおかしいよ」
ふと後ろから聞こえてきた声に、振り向かないまま藤は続ける。
「だからって、部外者を巻き込んでいいと思っているの。あちら様にもいい迷惑だわ」
「内だけじゃ、絶対に何も変わらないよ。この家も、この村も」
「燕。悲しいのは貴方でしょう。今まで何度も同じようなことを繰り返して、結局変わらなかった」
「……今度はきっと大丈夫な気がするんだ」
「もうその言葉は聞き飽きたわ」
「だって、あの人たち、"僕が見える"んだよ、藤みたいに。僕の声、聞こえるんだよ、藤みたいに」
「私だって……、姉さんを……」
とうとう藤は声を詰まらせた。
助けたくないわけではない。
このままでいいとも思っていない。けれど……。
「藤! いるのか!?」
がらりと荒々しく障子を開け放って、低い怒鳴り声が割り込んできた。
「は、はい。お父様、ここに」
溢れ出した涙を、着物の裾で慌てて拭うと、藤は立ち上がった。
「仏間で一人、何をしておる」
白い髭を蓄えた、眼光の鋭い男が、まるで睨みつけるように藤を見た。
機嫌の悪い時の癖だ。
「あ、水を替えようと思いまして……」
「まあよい。それは別としてあの客人、いつまでとどめおくつもりだ。長く滞在されると紫のことが知れる。明日にでも出て行って貰え。よいな」
ぴしゃり。
反論のひとつすら許さない厳格さで、父は障子を閉ざし、出て行ってしまった。
女子は男に尽くし、従うもの。男女平等がこんなにも叫ばれていながら、この村ではそれが未だ色濃く残っている。
旧家だから。仕来りに絡め取られる。
すとんと膝から畳に崩れ落ちて、藤は口唇を噛んだ。
このような場所で、一体何が変わるというのだろう。
「紫姉さん……」
嗚咽の漏れそうな口元に袖を押し当て、藤は声を殺して泣いた。
*
《お前最近、人使い荒いぞ》
耳に当てた携帯電話から、流れ出してくるのは不機嫌絶頂の声。
何しろ今朝早く、仕事が休みらしい"彼"を電話でたたき起こしたのだから、しょうがないといえばしょうがないのだが。
「悪い。でも、すぐ動いてくれそうな奴がお前しか思いつかなかったんだよ」
《…………まぁいい。この俺様が、色々な文献と睨めっこして、色々な本をひっくり返して、珍しく本の虫になったのも、まぁ許す》
許す、と言っている割には随分押し付けがましい物言いだ。
朝たたき起こされたことを、未だに根に持っているのだろう。
「悪かったよ雅。それで、何か分かったのか?」
《まぁな。何か、って言うより色々、って感じだな。『かごめ』って奴は》
そう。今朝早く、旧知の霊媒師である雅に電話をしたのは他でもない、『かごめ』という言葉について調べてもらいたかったからだ。
昨夜、地下牢で出会った燕という子供が言っていた言葉。
―――"かごめ"には色々な意味があるよ。
調べようにも、ここではどうしようもない。そこで雅を狩り出したというわけだった。
《どれもこれも、正式な伝承というわけじゃァないが、なかなか怖い歌だぜ、『かごめかごめ』って奴ぁ》
「怖い?」
《そ。とりあえずまず一つの説。流産の話》
するすると、雅は説明を始めた。
『籠の中の鳥』は子供のこと。
『夜明けの晩』夜が明けないこと。不吉。
『鶴と亀』という吉兆が滑って転ぶということも転じて凶。また、滑ったという点から『流れる』という解釈も出来る。
《後ろの正面に、水子が取り憑いてるって言う話》
「……怖……」
《だろォ? ところがまだこれだけじゃないんだな。二つ目。間引きの話》
飢饉に見舞われた村で、口減らしのために『かごめかごめ』をして、後ろの正面に来た子供を間引きした話。
淡々と告げられるその話に、一馬はだんだん背筋が寒くなってきた。
《あとはぁ、『閉じ込められた女』の話―――》
「なんだって?」
《"籠"に"女"と書いて、カゴメ》
*
布団に横になり、とろとろと微睡む。
肌の内側からじりじりと灼くような熱が、まるで脳味噌を溶かしてしまいそうだ。
熱い。
結局車は動かず、もう一晩この家に厄介になることになってしまった。
要としては早くこの家を出たいのだが、こんな山奥で足を失っては、どうしようもなかった。
第一、体調が最悪だ。
どうしてこんなにだるいのか、その原因も分からない。
あのあと縁側から家の中に入ってからは、ずっと布団で横になっている。
一度藤が夕食を運んできてくれたらしいが、眠っていて気付かなかったし、気付いていたとしてもとてもだるくて何も口にする気にはなれなかっただろう。
微睡んでは目を覚まし、微睡んでは目を覚まし。その繰り返し。
今が何時なのか、要には分からなかった。
この屋敷に来てからずっと寝ているというのに。病状はよくなるどころか悪化するばかりだ。
襖の方をむいていた体をごろりと反対に向ける。
(あれ……?)
隣の布団が、もぬけのから、だった。
「……カズマ?」
ずっと眠っていたせいか、やけに掠れた声が静まり返った部屋に響いた。
返事はない。
(どこ行ったんだろう)
ぼんやりとそんなことを考える。考えようとしても内側から思考回路を侵す熱のせいでうまくまとまらない。
「バカズマ……」
もうどうでもいいや。考えるだけ無駄っぽい。
もう一度襖のほうへ寝返りを打って、もう一度微睡みに沈もうとすると、また。
「ねぇ」
重くて重くて仕方のない目蓋を何とか持ち上げ、視線で声を追う。
「つばめ?」
「きこえる?」
小首を傾げて問うてくる。主語がなくても、何を聞いているのかすぐに知れた。
耳をくすぐるような、細い歌声。
「……紫が、お母さんが歌ってるんだ」
僕のために。と燕は続けた。
何かに導かれるようにゆっくりと、要は布団の上で体を起こした。
「君は……?」
一体誰なんだろう。名前以外、何も知らない。
「僕が見えるんだよね? 僕の声が聞こえるんだよね?」
怯えるように何度も確かめる。燕の声に頷いた。
「それなら」
小さな白い手。ゆっくりと伸ばされて、首に絡みついた。
締めるわけでもなく、ただ絡みつくだけの。
冷たい手。
「貸して」
呟き。そのあとに何か熱いものが冷たい手から流れ込んできた。咽喉から食道を通り体の下へ落ちる。
胃の辺りからじりじりと、まるで弧を描くように体中に広がりやがて……。
脳に達し、侵す。
「ッ……」
首を締められているわけでもないのに、呼吸が上手く出来ない。
何か言おうと口を開いても、必死に酸素を求めるだけで声にならない。
体の中、何か別な生き物が暴れ回っているような感覚に、要の目元に自然と涙が浮かんだ。
震える手を持ち上げ、首に当てられた燕の、小さな手に重ねた。
冷たい。
「たすけて」
どくん。
腹の内側で、自分の心臓とは別の鼓動が激しく脈打った。
燕の言葉を、どこか遠くで聞いた。
小さな腕に添えた要の手が、重力に導かれるようにぱたりと布団の上に、落ちた。
4.
後ろの正面、だぁれ
*
細い歌は今日も続いている。
隣で熟睡している要を起こさないように、一馬は布団から這い出した。
―――昔、精神病とかの認識があんまりなかった時代に。
昼間の雅の言葉を咀嚼するように思い出してみる。
―――何らかの心の病を患った人間を、何かに取り憑かれたとして閉じ込めておく習慣があったらしい。
体裁に関わるとか、そんな話で。旧家になればなるほど色々なものを内に隠したりしていたみたいだ。
すっかり夜も更けた頃、昨日辿り着いた階段まで来た。
電気を落とすと、少し先すら見えなくなってしまう和風の家で、しかし迷わず辿り着いたのは、細い歌声が導いたからだ。
一体何のために彼女は、毎晩歌うのだろうか。
階段の一番上に立って下を覗き込む。
数段下すら、漆黒の闇に塗りつぶされ、何も見えない。その下から、何度も何度も繰り返す歌。
ここだけまるで、時間が止まってしまっているような錯覚すら覚える。
一段。踏み出すと、ぎしりと軋んだ。
踏み込みすぎ、かも知れない。他人の家に。
しかし、この村に入ってからの車の不調。何より、要の状態の悪化が気になる。
足止めされている? そんな気がする。
ぎしりぎしりと階段を踏みしめ、辿り着く。最下層。
細い歌が石畳や石の壁に反響して、やけに大きく聞こえた。
木で組まれた格子の内側で、地上に少し出た窓から差し込む月明かりのもとで。
女が一人。その胸にこけしを抱いて。
何もかもがちぐはぐで、間違っている世界が目の前にあった。
ひたりと、冷たい石畳に裸足の足を進める。
二つある地下牢の、奥のほう。
一歩二歩。足を進めるうちにぼんやりと女の輪郭が現れた。
黒い髪をそのまま背に流し、黒い瞳は小さな窓から差し込む月を仰ぐ。
濁りのない、濁りのなさ過ぎてどこか空ろな。瞳。
牢の前まで辿り着いても、こちらを気にすることは全くない。
「紫、さん?」
声を掛ける。
冷たい石畳に座り込んだまま、紫は肩越しに振り返った。
にこりと綺麗な笑みを浮かべる。
この世のものではないような、綺麗な笑みを。
「つばめ」
日に当たらない故の、透けるように白い腕をこちらに伸ばす。
ぼんやりとした月明かりに照らし出されたその手首には、明らかに人為的な傷が何本か残っていた。
(つばめ……?)
昨日ここでであった少年が、確かその名前だった。
「つばめ」
繰り返す紫の頬で、何かが光ったような気がして、一馬は目を凝らした。
涙。
木で組まれた格子の隙間から、こちらに向かって手を伸ばしながら、一筋二筋。
紫の頬を涙が伝っては落ちる。
一馬は、反射的にその手を取っていた。途端。
(かえして)
やばい。反射的に手を引こうとしたときには、もう既に遅かった。
引きずりこまれる。
夢喰いという一馬の力は、"夢"という一番防御が成されていない精神に潜ることだ。
普通の人は、無意識のうちに自分と外との間に意識のバリアを張っているから。
しかし。今の紫には何ひとつ。防御壁がなかった。精神の全てが剥き出し。
あっという間に足元の床が抜けて、大空に投げ出される錯覚。そのあと。
(かえして。燕をかえしてお願いだから)
落ちた場所は、狭いアパートだった。
6畳ほどの畳の真ん中で、紫が蹲っている。
腕に小さなこけしを抱き、上擦る嗚咽で。「燕」と繰り返す。
「紫、さん?」
「誰も入ってこないで」
震える肩に伸ばした腕が、見えない何かに思いっきり弾かれた。
強い静電気のような、びりっとした痛みが、指先から腕へと伝う。
「燕をかえしてくれないなら、もう誰も入ってこないで。邪魔しないで」
がしゃん。
まるでガラス細工が壊れるように。目の前の映像がばらばらと崩れ落ちた。
拒絶反応。追い出される。
突風が吹いて、体ごと後ろに投げ出されるような衝撃のあと。
一馬は石畳に座り込んでいる自分に気づいた。手は既に離れていた。
「燕をかえして、かえしてよぉ……」
尾を引く鳴き声が辺りに反響する。
一馬は、一瞬垣間見えた情景を思い出してみる。
薄暗い電球に照らし出された、6畳ほどの狭い部屋。
決して裕福という言葉を使うことは出来ないような、そんな部屋。しかしこの家ではなかった。
一体どこだろう?
「姉さん、大丈夫……」
ギシギシと階段が軋む音が聞こえ、それに声がついてきた。
そのあとに、ハッと息を呑む音も……。
階段の方を見なくても、一馬には今何が起こっているのか、大体の予想はついた。
「成瀬様、ここで一体何を……」
「すいません、勝手に入って」
立ち上がり、服の埃を払う。紫の方を見たまま、一馬は謝罪を口にした。
「だけど、車のこととか、要のこととか、気になったんで。―――藤さん」
顔を上げて、そこにいる藤を見ると、まるで森の中で肉食獣に出会った時のような、怯えた眼をしていた。
「紫さんには正しい治療が必要です。こんなところに閉じ込めてちゃいけない。それから」
一呼吸。置いて。まるでとどめを刺すようにつなげた。
「燕って、誰なんですか?」
*
「燕は、紫……姉の子供です。尤も、生まれてくることは出来ませんでしたが……」
燕、燕。地下牢の中で紫は繰り返していた。
ねぇ藤。燕をかえしてちょうだい。お願いだから。
格子の隙間から藤が伸ばした手に縋りつき、子供のように泣きじゃくった。
「姉は、恋人との結婚を反対され、この家を飛び出しました。ここからは随分遠くの街でその恋人と結婚したんです。時々私には、連絡をくれました」
始めはそう。幸せそうだった。
今はまだ貧しいけれど、私、幸せになるからね。
何度も繰り返し、そう言っていた。希望や光。そんなものに満ちた声で。
「けれど、結婚してから男が変わったと言います。おそらく二人の生活は思った以上に厳しく、苦しむことも多かったのでしょう。姉に当たるようになりました」
子供にしてやるように紫の頭を撫でてやりながら、藤は続ける。
「ある日、姉から電話がかかってきました。なんだか様子がおかしくて。何度聞いても『燕が、燕が』としか言わなくて。何だか怖くなったんです。前から姉が妊娠した話や、子供に"燕"とつけようと思っているというのは聞いていましたから……」
慌てて、以前聞いていた住所に駆けつけると、狭い部屋の真ん中で一人、泣きじゃくる姉を見つけた。
「夫の暴力が原因で、流れてしまったんだそうです。そのあと子供を産めぬ体に……。辛い生活の中で子供を唯一の支えにしていた姉にとって、それは何よりも辛かったことなのでしょう、私が駆けつけたときにはもう、正気を失っていました。それから姉の夫は姿を消し、私一人ではどうすることも出来ず、家に相談したところ……この有様です。病院へ、と私が幾ら言っても、出戻りの上に狂人など世間様に出せるものかと、父は取り合ってくれません……」
「でも、このままじゃ……」
「分かっています。このままでは報われません……姉も、燕も」
「……藤さんには、燕くんが見えるんですか」
「ええ、元からそういう勘があったもので。燕は随分、もどかしい気持ちでいるみたいです……」
「藤!」
ぎしぎしと階段が軋む音に、怒声が混じる。藤の顔にさっと、怯えのようなものが走ったのを、一馬は見逃さなかった。
「早く泣き止ませんか! 声が煩くて仕方がない!」
まるで地響きのような低い男の声。闇に慣れた瞳が、乱入してきた男を捕らえた。
白い顎髭、鋭い視線。見据えられたら、一瞬で怯んでしまうような威厳。
視界に予想外のものを見つけて、男の顔が不快そうに歪んだ。
「……お客人。何故ここに」
「お父様、成瀬様は何も……」
「お前の言い訳は聞かん!」
一言で藤は黙った。確かに人を黙らせる低い声だが、恐らく藤が怯えたのはそれだけではないだろう。
付き従う「女」という生き方を、刷り込まれてきた故の反応。
「お客人。咎めは致しませぬゆえ、どうかこのことは他言無用に願います。それと、明日にでもご出発願いたい」
「お父様!」
「黙れ! 元はといえばお前が悪いのではないか。階段の入り口に鍵をかけることも窓を塞ぐこともお前は反対したがな、今度こそはそうはいかん……」
「……鍵とか、窓塞ぐとか」
父親の言葉を遮るように、一馬がぽつりと呟いた。その言葉でその場の空気が一瞬凍る。
ただ、紫のすすり泣きだけが響いた。
その一瞬の間の後。
「一体何の話をしてるんですか」
声が微妙に震えるのを、一馬はどうすることも出来なかった。
ふつふつと体の内側からこみ上げてくる怒りをどうすることも出来ず、ひたすら拳を強く握る。
「ここにいるのは、貴方の血の繋がった娘さんじゃないんですか。彼女は精神を病んでいます。物の怪に憑かれているわけではないことも、分かるでしょう。昔とは違うんだから。然るべき治療が必要なんです。どうしてここに閉じ込めておくんですか」
「部外者に口を挟まれる筋合いはない!」
「その部外者が口を挟まないでも済むように、なんでしないんですか、家族なら!?」
押さえが効かず、声を荒げていた。石に響き、やけに大きく自分の耳に返る。
「世間体とか、そんなものが大事ですか。自分の娘がそんなに恥ずかしいですか。苦しんでいるのを見て、救おうとか、少しも考えないんですか」
踏み込みすぎだ。自分の中で、冷静な自分が何とか、暴走する部分を諭そうとする。
けれど。
その制止すら振り切って、本音が突っ走った。
「貴方にとって、何が一番大事なんですか?」
「煩い黙れ!!」
ぶつりと目の前の男の中で何かが切れたのを一馬は確かに感じ取った。
ぐっと、年の割には太い腕が伸びてきて、反射的に身構える。
殴られる。そう思った。
瞬間。
「おかあさん」
声が。
切り込んできた。
ここにある空気全てを、切り裂くような。真っ直ぐなちからで。
格子の中の。紫まで。
*
「要……」
気がついたら、一馬は現れた人物の名前を呼んでいた。
しかし、要は一馬を見ることなく、迷いのない足取りで牢の方へ近づいた。
しゃがみこみ、紫に手を伸ばす。
「おかあさんごめんね、耐えられなくて、ごめんね」
耐え切れずに、流れちゃって。
「ずっと傍にいたんだけど、僕は藤にしか見えなかったから……。ずっとこうして、お話したかったんだけど。触れなかったから」
「……燕?」
差し伸べられた手に、紫は恐る恐る手を伸ばした。
うん。要の姿をしたその少年は、紫の言葉に頷いて見せた。
憑依。
その様子に、一馬と藤は同時に同じ言葉を思いついた。
波動が似ていなければ、乗り移ることは出来ない。同調が強くなければ。
だから燕は今まで、藤には憑依できなかったのだ。
「つばめ、ごめんねぇ……」
差し出された腕に縋りついて、紫は泣き崩れた。
嗚咽を繰り返す声で、無理矢理でも喋ろうとする。途切れ途切れの言葉を繋いで。
「守っ、てあげられな、くて、生んであげっ……られなくて、ごめんねぇ……」
大好きで、貴方が大好きで。だけど。
守ってあげられなくて。ごめんね。
「私もう、貴方を生んであげられないのよ……」
もう二度と、この体では。
だから余計苦しくて、悲しくて。
「……痛かった?」
自分の腕にすがり付いてくる、紫の左手首の内側。覗き込んで。
要の姿の燕が訊いた。
青白い紫の手首には、幾筋も切ったあと。
「いつかきっと、お母さんの子供に生まれてくるから。だからおねがいだよ。自分で死なないでね。そうしたら、輪廻できなくなっちゃうよ」
会えなくなっちゃうよ。
だから泣かずに。前を見て。
今生ではなくても。いつか。いつか巡り会えるように今は。
ただ幸せに。
「燕と一緒に……幸せになりたかった……」
「うん……いつか」
いつか。
終章.
「本当にありがとうございました。父も、何とか納得してくれたようです。明日にでも病院へ連れてゆきます」
玄関の前に立つ二人の前で、藤は深々と頭を下げた。
「俺は何もしてませんから」
逆に首を突っ込みすぎただけで。と、丁寧な藤に一馬は恐縮するが。
その隣で要はきょとんとした顔をしている。
朝、目が覚めると、体のだるさは全て引いていて。
心なしか家の中の雰囲気も少し、明るくなっているような気がした。
門の前まで出てきて見送る藤の姿が、少し遠ざかった頃。
怪訝そうな顔のまま、要が隣の一馬を見上げる。
「……何があったのさ」
「帰りの車の中で、ゆっくり教えてあげるよ」
なんだよそれ。
要の不満などどこ吹く風、一馬は自分の車へ向かって真っ直ぐ歩く。
―――車、止めてごめんなさい。そのお兄ちゃんが具合悪かったのも、僕のせいです。
あのあと、泣きつかれて紫が眠ると。要の体がぐらりと後ろに倒れた。
慌てて一馬が抱き起こすと、穏やかな音息を立てている。
ごめんなさい。
小さな子供の声が聞こえてきて、ふと傍に目をやると、昨日の晩見たままの燕の姿がそこにあった。
勝手に体、借りちゃってごめんなさい。だけど、どうしても、話がしたかったんだ。
これで、もういいの?
問い掛けると、にっこりと笑ってこくりとひとつ。頷く。
これで、もうだいじょうぶ。
今まで決して見せなかった満面の笑み。顔中に湛えて、燕が言う。
やがて燕の姿はゆっくりと薄れ、そして、消えた。
ありがとう。
微かな声が耳を。くすぐるように聞こえた。
車の傍まで辿り着くと、田んぼに落ちたはずの前輪もしっかりと地面に戻されており、エンジンもすぐにかかった。
残留思念。人の想いとはこれほどまでに強いものかと。
シートベルトをしっかりつけながら改めて驚く。
想いだけでこの世界の、生き死にの理を捻じ曲げて、この世界に留まれるだけの強さ。
車を止めてしまうほどの。
(うまくいけばいいな)
あの親子も、あの家族も、あの村も全部。
時間はかかっても。
いつか。
全部うまくいけばいいな。
「……カズマ、一体何があったのさ? 僕には全然分からないんだけど?」
すっかり全快した要が指定席の助手席に乗り込み、なにやら感慨深そうにしている一馬を、不審人物を見るような目で見た。
「うーん、何から話せばいいやら……」
アクセルを踏み込む。タイヤの下で砂利が鳴った。
思い返してみれば、説明が必要なことがたくさんあるような気がする。
要の体調悪化から、車の不調から、地下牢。燕のこと、紫のこと。
色々な「かごめ」のこと。それから……。
ゆるゆると動き出す車。
前方を見つめたままなにやら考え込んでしまった保護者に、要の機嫌は急降下を始めた。
「なんだよ、感じ悪い。いつもだけどさ」
端正な眉を不快極まりないといった風にしかめて、要はぷいっと顔を背けた。
「ちょっと待て要。俺はだな、話す順番を色々考えてるところなんだ」
「思いついた端から話せばいいじゃない。分からないことあったら僕だって質問するし。その質問に答えていけばいいだけの話じゃないの? 変なところ、几帳面なんだから」
「……要」
「何?」
一馬がやけに真面目な声で自分を呼ぶので、要は思わず、窓の外に向けていた視線を保護者に向けた。
ようやく話を始めてくれるのかと、淡い期待を抱いた……。が。
「お前、頭いいな」
「……カズマがバカなんだよ」
不機嫌絶頂と顔中に書いた要に容赦はなかった。「バカ」をやけに強調して、再び窓の外へと視線を向ける。
もう話なんてどうでもいいから、放っておいて。言葉には出さなくても、オーラが明確にそう物語っていた。
やれやれ。事情を説明する前に、まずはご機嫌取りが必要なようだ。
とりあえず、猫なで声で名前を呼ぶことから始めようか。
風景を見るともなしに外を見つめる要から、ふと前方に視線を戻し、一馬は、吐き出しかけた溜め息を飲み込んでしまった。
少し先で砂利が途切れ、公道のアスファルトと繋がっている。
あそこがこの村の出口になるのだろう。
その手前に、一人の女が立っていた。
長い黒髪を吹きつける風に遊ばせたまま、真っ直ぐこちらを見ている。
どこかまだ虚ろで、焦点は合っていないけれど、泣いてはいなかった。
目が合った、と思ったそのとき。彼女がゆっくりと頭を下げた。
深々と。
長い黒髪がぱさりと顔に覆い被さった。
車のスピードを落とさず、擦れ違う。
頑張って。きっと、何もかも全部これから、だから。
「……何が『頑張って』なの?」
どうやら無意識のうちに口に出してしまっていたらしい。
女性の姿を目で追うように後ろへ視線を流しながら、要が訊いた。
「うん。実はね……」
一馬はようやく、話を切り出した。
<了>
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