箱庭




 緑深い森の中を成瀬と要は歩いていた。
 この間入った依頼のクライアントが、この先の別荘に滞在中だというから、わざわざ徒歩で山道を登ってきたのだ。
「最悪。もうちょっと歩きやすい道にして欲しいんだけど」
「最近全然運動してないじゃないか。もう少し運動して筋肉ぐらいつけなさい」
「こういうときだけ保護者面しないでよ。カズマこそ全然運動してないじゃないか。良くあれだけの砂糖を摂取して太らないね?
胃袋が四次元に繋がってるんじゃないの?」
「……機嫌悪いか? 要」
「そんなことないよ」
 そうは言ってみたものの、カズマはきっと気付いてるんだろうな。
 辺りの木々を見渡して、要は心の中で呟いた。
 カズマはああ見えて、勘が凄く鋭いから。
 自分が酷くナイーヴになっているのを、きっと見抜いているはずだ。
 そして、カズマはああ見えて優しいから。
 見えないフリをしてくれる。
 足元で枯葉がさくりと音を立てた。
 湿った土の匂いが、記憶の奥底から昔話を引きずりあげる。

 まだ僕が、世界を知らない頃の話。


            *


 見渡す限り、緑しかない。
 まだ日の高いうちから、その森はいつも薄暗かった。
 監視の大人の目をかいくぐって、逃げてくるのはいつもこの場所。

 広大な敷地の中にある小高い丘に、教会は立っている。
 その周囲を取り巻くのは、たくさんの緑だ。
 敷地の内と外を仕切る境界には高い塀が張り巡らされ、要は未だかつて、その外へ出たことがなかった。
 外。
 口の中で呟いてみるが、浮かんでくるものは何もない。
 外に出ることはもちろん、外についての情報も極端に制限されている。
 要が外について知っていることは、ほとんどなかった。
 生まれたときからこの場所で、限られた世界で生きてきたのだ。
 毎日のように繰り返される「おいのり」。
 要はただ、巨大な椅子に座っていればいいだけなのだが、嫌いだ。
(そとに、でたい)
 自分が知らないたくさんのことを、自分の目で見て、自分の肌で感じてみたい。
 いつまでもこんなところに閉じ込められているなんて……。
(そんなの、いやだ)
 細い道をどこまでも歩いてゆくと、ほどなく小さな泉に出た。
 ここまでくれば、誰も追ってこないだろう。
 要は、泉のほとりに腰を下ろして、青く澄んだ水面を見つめた。
 中央から湧き出す水が、弧を描き外側へと寄せてくる。
 いつ見つめても、不思議な光景だ。長い間見つめていても飽きない。
 そのうち、飲まれてしまいそうになる。
―――飲まれてしまえばいい。
 ときどき、そんなことを思ってしまう。
 このまま、こんな時間がずっと続いてゆくのなら、いっそのこと消えてしまった方がいい。
 波乱の波も生まれない。その代わり、幸せなこともない生活を、これからどれだけ続けてゆけばいいのか。

 どのぐらいの時間水面を見つめていたのだろうか。

 がさり。

 背後の草むらで、何かが動く音がして、要は反射的に振り返った。
 なにかがごそごそと動いている。
「……誰?」
 控えめに声を掛けると、茂みの中から14歳ぐらいの―――要と同じくらいの―――少女が顔を出した。
「ごめんなさい……迷い込んじゃって……」
 髪に緑の葉っぱをたくさんつけて、少女は茂みから這い出した。
―――あれ?
 黒髪に鳶色の瞳。白いが血色のいい肌。
 しかし要は、この境界の内側で、同じ年ぐらいの子供に会ったことがなかった。
 迷い込むといっても、簡単に塀を越えられるはずもない。
 いったいどこから……?
「うわ、すっごいキレイね、あなた」
 そのまま這い出してきた少女が、要の顔を覗き込んだ。
 少女の大きな瞳が真っ直ぐに自分の瞳を見つめてきて、要は固まってしまった。
 せっかく考えていたこともどこかへ行ってしまった。
「え…………?」
「凄くまつげが長いのね。髪も栗色で凄くきれい。あ、男の子はきれいって言われても、嬉しくないか……」
 一人で話して、一人で会話を終わらせてしまう。
「あの、君は……」
「え?」
 そう言われて初めて、少女は我に返ったようだった。
「あ、私? 私は春香(はるか)。えっと…………この近くに住んでるの」
「近くって……教会の敷地の中?」
「……え? あ、うん」
 どうも春香の歯切れが悪い。気になりながらも、要は聞けずにいた。
 踏み込んだことを聞いて、春香の機嫌を損ねたら。
 いなくなってしまうかもしれない。
 また一人にされるかもしれない。
 大人たちは、皆要に良くしてくれる。要を大切にして、要に従ってくれる。
 けれど要はいつも「ひとり」だった。
 心はいつも一人だった。
 初めて同じくらいの子供に出会えた。気兼ねすることなく話すことのできる相手にめぐり合えた。
 そんな春香の機嫌をみすみす悪くするぐらいなら、何も知らなくていいと思った。
 思えばそのときもう、惹かれていたのかもしれない。


 春香はとにかくよく喋った。そして、外のことを良く知っていた。
 要は時間を忘れてその話に聞き入る。見たことも触れたこともない、外側の世界の話。
 ささいなことに驚くたびに「そんなことも知らないの」と返される。
 しょうがないじゃないか。ここから出たことないんだから。
 二人ともしかめ面をして、その後笑い出す。
 木漏れ日のように、淡い時間だった。

 かあ、とだみ声のような鳴き声が空から降ってきて、二人は同時に空を見上げた。
 気がつくと空は、燃えるような赤に染まっていた。
「……もう、帰らなきゃ」
 それでなくても今日の「おいのり」から抜けてきているのだ。これで更に帰りが遅くなったら……。考えるだけでも恐ろしい。
 立ち上がった要を、座ったまま見上げた春香が、ちいさく「そっか」と呟いた。
「ねぇ要。また会おうよ。ここで」
 空から降りてくる赤い光に照らされた春香はとてもきれいだ。
 その微笑が、柔らかくてどこか切ないと感じたのは、何故だろうか。
 赤い光に消されそうだと思ったのは、それほど儚く感じたのは何故だろうか。
「うん」
 促されるまま頷いた要が、その意味を知るのはもう少しあとの話。


            *


「ねぇ要。天国ってあるのかな?」
 芝生に仰向けに転がり、片方の掌を太陽に向かって伸ばしながら、春香が言った。
「神様って、いるのかな?」
 指と指の隙間から漏れてくる光に目を細めながら、言葉を紡ぐ。
「いないよ、神様なんて」
 神様という言葉は嫌いだ。
 誰も心の底からその存在を信じていないくせに、自分が辛くて苦しくてどうしようもなくて、崖っぷちに立たされたときだけ名前を叫ぶ。
 そんな、都合のいい神様なんて要らない。
「つまんないの〜。信じたほうが素敵じゃない」
 春香は、口唇を尖らせて、不平を漏らして。
「……それじゃあ私はどうすればいいの」
 聞き取れないような声で呟いた。
 ぼうっと水面を見つめていた要は、やはりその言葉を聞き逃してしまった。
「なに?」
「なんでもない」
 春香のほうを見て訊きなおしても、春香は相変わらず空を見上げたままその話を打ち切った。
「僕は、春香みたいに強くない」
 水面を揺らす風と光をぼんやりと見つめながら、要は心の内側をかき回す。
「神様を信じられるほど、強くないんだ」
 心の中をかき回して、指と指の間に引っかかった言葉を並べるだけでは、意志の疎通にならないのに。
 それでも、それしか言葉が見つからなくて、羅列する。
―――自分を苦しめているものを信じるほど、強くないんだ。
 最後の部分は、言葉にならずに心の中に沈んだ。
 神様という単語が、この体を縛り付けている。
 自由と言う名の権利を奪う。
「要はぁ、強いよ」
 がばりと体を起こした春香が、初めて会ったあの日のように真っ直ぐに視線と視線を合わせてくる。
 彼女の目の中に、間抜けなほど目を見開いた自分の顔が見えた。
「要は、私をちゃんと見てくれる。私の話をちゃんと聞いてくれる。……だから」
「春香?」
「これからだよ。要はこれからだよ。外だっていけるよ」
 にっこりと微笑む春香に、いつもの儚さが漂う。その意味を、要はずっとつかめずにいた。
 初めてあったあの日から、毎日のようにここで会って、いろんな話をした。
 そのたびに感じてきた、言いようのない「違和感」の答えを、要は今、手に入れてしまった。
 すとんと、心の中に落ちてきた。綺麗に型にはまって、今度は外れなくなった。
 確信とは、そういうものなのかもしれない。
(そうか…だから…)
 要の顔に浮かんだ複雑な表情を見て、春香は苦笑した。
 ばれちゃったのかな。
 そう言いたそうに見えた。
 けれど要は、その答えを口には出さなかった。
 掴み取った答えが何であれ、この敷地の中で飼い殺しにされていたような要にとって、礼儀作法も機嫌も窺わずに話ができる相手を失いたくなかった。
 要がここに半ば閉じ込められるようにして生活している理由を恐る恐る告げたときも春香は笑っていた。
 怖くないの?
 そうやって聞いたら、
 私は要が好きだもん。だから大丈夫。要は要なんでしょ。だから大丈夫。
 あまり根拠のない、それでいて説得力のある台詞で応酬されて、簡単に白旗を揚げた。
 初めてだったんだ。
 思わず涙しそうになりながら、心の中で繰り返した。
 司祭の僕じゃなくて、僕を……英要を好きだといってくれたのは、君が初めてだったんだ。
 君が初めてだったんだよ。


            *


「要様がどこへ行っていらっしゃるか、分かる者はいるか」
 要の世話役である柴浦は、ぐるりと整列させた使用人たちを見渡して問うた。
 使用人たちは顔を見合わせては首を傾げてみせる。
 ここ数日、要の外出回数が増えた。しかも急激に。
 要は教会の外には出られないから、いける場所など限られているはずなのに。
 たった一人で、それほど多くの時間を消費できるとも思えない。
 何かがおかしい。

「あ、あのぉ……」
 おずおずと奥から進み出たのは、まだ年若い女の使用人だった。
 自分に自信が持てずに、いつも自分の足元を見ている類の、気の弱い少女だ。
「私、み、見たんです。要様が、森の中心にある泉のほとりで遊んでいらっしゃったのを」
「泉……? 誰かと共にか」
 柴浦の目が急に鋭い光が宿り、少女がびくりと後ずさった。
「い、いえそれが……」
 少女は上目遣いに柴浦を見つめて、小さな声で呟いた。

「おひとりだったんです」



            *


 幼い頃からこの狭い場所に囚われている。
 不思議な力があるから。
 この年で司祭なんかに祭り上げられるのもそのせいだ。
 自然の動きを、オーラを、魂の震えを。
 誰よりも敏感に感じ取るこの体。

―――外へ出てはいけないよ。

 そう言われ続け、それが当たり前だと思っていた。
 息苦しさを感じ始めたのはいつ頃からか。
 自由が欲しい。

 そんな自分にとって、春香は光だった。
 外の話、要の知らない話。それだけで。
 満たされる魂を感じた。
 たとえそれが―――。



 ざわり。
 吹き付けた生温い風に、木々の枝が揺れた。
 泉から視線を空に移して、要は僅かに目を細めた。
 空気がおかしい。
 吹き付ける風が肌に刺さるような気がする。ぴりぴりと。

 生まれついた能力のせいなのか、不穏な空気を敏感に感じ取るこの体。
 何かがおかしい。
 ざわざわと揺れる木々が、バケモノの形に見え、青い空が僅かに灰色にくすんだ。
「どうしたの? 要」
 泉で遊んでいた春香が要の異変に気付いて声を掛けてくる。
 要は答えないまま、森の入り口の方を見つめた。

 複数の足音がこちらの方へ近づいてくる。
 少しずつ、確かに。
「………………かなめ……」
 背中に刺さるのは、不安に震える春香の声だった。
 要は何もいえなかった。ただ真っ直ぐに近づいてくる人影を見据えた。
「要様、それから、離れてください」
 聖服を身に纏った男たちが群を作って現れ、先頭に立っていた柴浦が口を開いた。
「なんで離れなきゃならないんだ」
 背中に春香を庇うようにして、要は立ち上がった。
「……貴方は取りつかれているんですよ? お気づきにならないのですか。貴方ほどの方が? それは……」
「知ってるよ!!」
 柴浦の言葉を遮り、要は叫んだ。
 知ってる。
 そんなのとっくの昔に。

「春香がもう死んでるって、知ってるよ……」

 だっておかしいと思っていた。
 この境界の中に子供は極端に少ない。
 あまり外出を許されない要ですら、全員を知っているほどに。
 それなのに突然現れた春香。外に詳しい春香。
 そして春香の纏う空気が……。生きている人のそれと違ったから。
「それならばなおさらです。貴方にいい影響を与えるはずがない。離れてください。浄化します」
「嫌だ……」
「要様!」
「嫌だ!! 春香は僕の初めての友達なんだ!! だから……」
 気兼ねをしない会話。分かり合える笑い合える空気。
 ハナブサカナメを見つめてくれる瞳。
 譲れない。譲りたくない。
 なくしたくない。
「生きる世界が違うんですよ」
 冷徹さすら帯びた柴浦の声。聖服の内側から、聖水の小ビンを取り出した。
「……要。このまま聞いてね」
 春香が後ろから抱き付いてきた。触れる感覚もあるのに、透ける腕。
 いつも感じていた消えそうな儚さの、理由。
 『透けるような白さ』ではなく、透けていた体。
「……私、死にたくなかった。病気だったの。どこにも行けなくて、お母さんもお父さんも見てくれなくて、悲しかった。
ずっとずっと、死にたくないって願っていたら、ここにたどり着いたの。要は、私を見つけてくれたから……、嬉しかった」
 嬉しかったよ。
 繰り返した言葉が耳元で溶けた。
「だからもう、いいの」
「良くない!!」
 自分で張り上げた声の激しさに驚いた。
 叫びより、悲鳴に近い絶叫。
「一緒がいいんだ……」
 体の前に回された春香の、うっすらと透ける腕に自分のそれを重ねて、言った。
 もう一人は嫌だ。もう一人は嫌だ。
 君と一緒がいい。

「要様。浄化します」
 聖水の小ビンを持って、柴浦が近づいてきた。
 春香を背中に庇って、身構える。
「…………来るな」
 睨み付け、声を低くして警告しても、効くはずもない。何せ14の子供のすることだ。
 柴浦は、口元にうっすらと笑みさえ浮かべ、やけにゆっくりと近づいてきた。
「くるなっ!!」

―――来るな!!

 感情が沸点を越え、何かが飽和して体の奥底で熱が爆発した。
 駄目だ。
 頭の中で叫んでも、体はどうしても言うことを聞かない。
 目覚めた熱が真っ白な光となって周囲を埋め尽くす。
 白く霞んでゆく視界の中で、柴浦がわずかに笑ったような気がした。

 力が暴発した。
 周囲を取り巻くのは、どこまでも白いオーラ。
 浄化の光。
 要の周りにある全ての邪を跡形もなく無に帰す力。

 そしてそれは、春香をも蝕んだ。

 体に触れていた腕の力が徐々に抜けて、透けていた腕が見えなくなった。
―――じゃあね、要。
 わずかに届いた言葉を最後に、春香は消えた。
 体中の力が抜けて、要は、そこにすとんと座りこんだ。
 白に埋め尽くされた視界に、やがて現実の情景が戻ってくると、目の前で満足そうにしている柴浦が見えた。
「……ちからを……暴発、させたかったんだな?」
 だから、あんなふうに。
 ゆっくりと近づいてきたんだな。
 扱いきれない大きな力が、感情の高ぶりで破裂するのを知っていて。

「そんなことはないです。さぁ、帰りましょう要様」
 差し出された手が、あまりにも白くて。
 どうして僕の力は、こいつらの邪な心は消せないのだろうと思った。
 どうして、生命を失ったものにしか効かないのだろうかと思った。

―――誰か助けて。

 感情が麻痺した心の表面に、ぽこりと湧いた言葉。
 誰か。ここから助けて。
 このままだと生きていけない。凍えてしまうから。

―――要はこれからだよ。外だっていけるよ。

 春香の声が、耳元を擽って消えていく。
 こらえ消えれなかった涙が、一筋だけ頬を伝って落ちた。

 春香。
 君と一緒が良かった。


 誰か外へ連れ出して。
 外へ連れ出して。
 助けて。


 それからはまた再び、何もなかったかのように日々は過ぎ。
 苦痛極まりない「おいのり」をくり返し。
 死んだように生きた。



 僕がカズマに出会うのは、これから一年後の話。



            *


「ほら、要。見えてきたぞ」
 森が突然開けて、大きなつり橋が見えた。そのつり橋の向こうに、中世の城を模した趣味の悪い別荘が立っている。
「……趣味ワル……」
「そう思っても口に出すもんじゃないぞ、要」
「はいはい」

 肩を竦めて大きく溜息をついた。
 実際僕は、カズマの保護者面があんまり嫌いじゃない。
 文句ばかり言うけれど、それはカズマを信頼してるからだ。
 口に出すと調子に乗るから、言ってやらないけど。

―――要はぁ、強いよ。

 春香。
 そんなことないよ。まだ僕は弱いけど。
 外に出ることが出来たから。
 これから強くなる。
 強くなるから。

「要、どうした? 行くぞ」
「分かってるよ……」
 少し離れたところで肩越しに振り返っているカズマを追って、要は駆け出した。
 濡れた土が靴の裏にくっつく。あの日のように。
 けれどもう涙は出ない。
 見据える先を、知っているから。


 広がる世界の向こう側を。



<FIN>




夢喰い

TOP

NOVEL