DEAREST SHADOW
1.
それは三日前の昼下がりのこと。
「絶対ヤだからね!!」
断固反対。ソファーで膨れる英 要(ハナブサ カナメ)の背中には、そんなプラカードが見える気がした。
「なんでこの寒い中、更に山に行かなきゃいけないのさ? 温泉? カズマ、年でも取ったんじゃないの?」
「怖いんだ?」
怯むことなく、一馬はにやりと口元を歪めて要を見た。
「こ、怖くなんてないよ!!」
「へぇ〜、要くん怖いんだ〜」
「バカカズマ! 人の話はちゃんと……」
「怖くないなら行くよね?」
一馬は机の上に無造作に置かれたFAX用紙を持ち上げた。
要の目の前に突きつける。
「行くよね」
そして現在に至る。
「要くん、機嫌が超絶に悪いけど、どうかしたのか?」
後部座席の隅っこで、"不機嫌"と顔中に書いて、窓の外を眺めている要をバックミラー越しに見て。
声のボリュームを最小限にまで押さえて、助手席の一馬に訊いたのは、銀 雅(シロガネ ミヤビ)。
一馬の古くからの知り合いである霊媒師だ。
「ああ。いつものことだから気にしないで」
まさか半ば無理矢理同行させたなどとは言えない。
事の始まりは、雅から送信されてきた一通のFAXだった。
『冬のペンション2泊3日はいかがでしょー。温泉つきでとっても快適らしいデス。
ただ、俺がそこに出かけるのはお仕事なのでェ、「出る」のは覚悟しといてちょうだいね〜。
みやびん。』
なにが"みやびん"だ。
ただのはた迷惑なFAXと、一時は破り捨てようとした一馬だが、続けて送信されてきたもう一枚のFAXで、考えが変わった。
『おっと、大事なこと忘れてた。どーやら、お前さんの力を借りなきゃいけないかもだから、予定が空いてたら、絶対来い。』
雪の山荘で殺人事件? 元々探偵事務所を開いている一馬は眉をひそめたが、すぐにそんなわけはないと思い返す。
「出る」かもしれない山荘で、必要とされるのがそんな力のはずがない。
"夢喰い"……か。
伝統的な裏稼業、"夢喰い"。人の心の闇を受け入れるために夢に潜る。代償として、相手の見ていた夢を喰う。
成瀬一馬は、一子一伝の、その能力の継承者だった。
(疲れるから嫌なんだよな)
面倒くさい。そうは思ったものの、話を持ちかけられると断れない性分の一馬だ。
泊りがけの仕事なので、被保護者である英 要(ハナブサ カナメ)を連れて行こうかと話を持ちかけたところ、異様な拒絶反応を見せたため、面白がって連れてきてしまったのだ。
意地っ張りの要で遊ぶと面白い。ついつい悪戯心を出してからかった結果が、後部座席に座っているというわけだ。
(怒ってる怒ってる)
背中にびしびしと突き刺さる、刺が思いっきり張り出した要の空気に、少々焦り気味の一馬だ。
意地っ張りの要を怒らせると、意地っ張りなだけあとが長引くことを忘れていた。
何せもう3日目である。
ご機嫌を取ろうと色々と話し掛けても、「へぇ」とか、「そう」とかしか返してくれないのでたまったものではない。
「そう言えば要くん、高校は冬休みいつまで?」
「………………8日までです」
いつもはもう少し声のキーが高いはずなのだが。
訊いた雅の方が落ち込んで、黙り込んでしまった。
「そういえば、今回のことについて何も聞いてないんだけど」
車がトンネルに入った辺りで、一馬が口を開いた。
薄く窓を開き、煙草に火をつけながら、雅が目線だけを一馬によこした。
車の横を、オレンジの光が尾を引いて流れてゆく。まるで流れ星のように。
「依頼主は岡安弘美(オカヤス ヒロミ)さん。ペンションのオーナーで、男性。そのペンションになにやら"出る"らしい」
「なにやら、ってなんだよ?」
「雪女」
「はァ?」
「ッて言うのは冗談。美人の人妻風の女が出るらしい。今まで色々なところに頼んだらしいんだが、解決に至ったものはナシ。というわけで、俺に話が回ってきたってわけだ」
「そんなに厄介なのか?」
「いンや? こっちの業界もなかなか広くてね。霊媒師って言っても、ピンからキリから、ニセモノまでいるわけだし。そこんとこはあんまり心配してないけど。知り合いを通じて聞いた話だと、嫌な感じはするけど、それは"死人じゃない"って言ってた奴がいるって。だからこうしてお前に同行してもらったんじゃん」
まだあまり短くなっていない煙草を、雅が車備え付けの灰皿に押し付けたときだった。
「わぁ……」
後部座席で、小さな悲鳴が上がった。
ざぁっと視界が開け、暗闇に慣れ始めて肥大した瞳孔がきゅっと締まるぐらい。眩しかった。
トンネルを抜けた。
一面に広がる田畑。その奥にそびえる山までもが全て。
真っ白。
悲鳴の主はたった一人。一馬は肩越しに振り返り、雅はバックミラーで。それぞれ不機嫌な猫のような少年を見る。
先程の額の青筋も何処へやら、要は窓に張り付くようにして外を見ている。
「雪、珍しい?」
口元にわずかな笑みを浮かべ、雅が訊く。
「だって、こんなに積もるの見たことない…………」
瞳をきらきらさせて窓から前へと視線を移動させた要は、助手席の一馬と目が合って。
しばらく固まったあと、ふん、と目を逸らした。
(いくつだお前は)
実際年齢16歳の少年に心の中で問い掛けて、一馬は小さく苦笑を漏らした。
目の前にはただひたすら、銀世界が広がっていた。
2.
「遠いところをご苦労様です」
玄関に入った途端、吹き抜けの天井が。続いて奥から出てきた30代前半ぐらいの女性が出迎えてくれた。
目の前には奥へ続く廊下と、二階へ続く階段が仲良く空間を分けあっている。
上へと目を向けると、まるで動物園の柵のようなものがぐるりとめぐらされているのが見えた。
あそこから下を覗き込めるようになっているのだろう。その更に上にはシャンデリア。
要はなんだかんだ膨れてはいても、真っ白な雪が珍しいのか、まだ玄関に入ってこようとしない。
「お電話頂いた銀ですが。奥さんですか?」
サングラスを外し、すっかりと営業用の顔になっている雅に、隣に立つ一馬は溜息をつく。
「え、いや、あの……私は手伝いです。鳥羽美音子(トバ ミネコ)と言います」
「そうですか、失礼しました。では岡安さんは……」
「はい弘美さんなら……」
(あれ?)
淡々と続いてゆく雅と美音子の会話に、一馬は違和感を覚えた。
雅が先程「奥さんですか?」と聞いたとき。やけに美音子は動揺しなかったか?
一体何故……。
「寒〜い!」
考え込もうとした一馬の思考に割って入ってきたのは、声にまで震えが浸透した要の声だった。
ばたんと扉が閉まる音を背中で聞いてから、一馬は振り返った。
なにやら掴めそうな気がしていたのが、要の声に乱入されたために、すっかりと尻尾を捕まえ損ねてしまった。
「コートも着ないで、寒いのは当たり前だろう? 風邪引く……」
「引かない」
にべもない。言葉が終わらないうちに切って捨てられるのはなんと虚しいことか。
(まだ怒ってるのか)
やれやれこれは後を引きそうだ。一馬はがっくりと肩を落とし、溜息をついた。
「あ、皆さんどうぞ」
玄関から入ってすぐ傍の部屋―――恐らく応接室―――に雅を通した美音子が、玄関に立ち尽くしている二人に声をかけた。
「お邪魔します」
それでも、基本的にいい子の要は、丁寧に挨拶をすると、家の中に入った。
きちんと靴を揃えて応接室の方へ向かう要の背中に、続こうと靴を脱ぎかけた一馬の視界に。
目の前にある階段の上。そこから。視線。
他に客でもいるのだろうか? 何気なしに足元に落とした視線を持ち上げて、階段の上を見た。
すると、真っ赤なセーターにデニムのスカートの、要と同じぐらいの少女と目が合った。
一馬と目が合うと、少女は慌てて目を逸らし、奥へ引っ込んでしまった。
なんだ?
その露骨な態度に首を傾げた一馬だが、自分が靴を脱ぎかけという無様な格好であるということに気付いて、室内へ上がりこんだ。
*
テーブルの上で、美音子が運んできてくれたコーヒーが湯気を立てている。ゆらゆら、立ち上る。
さすがに外は寒かったのか、ブラックのままマグカップを両手で抱えて、要が口をつけた。
「要くんはブラックで平気なのに、お前はなんだそのザマは」
「煩いな、放っておいてくれ」
コーヒーの中に角砂糖を3つも落とし込む一馬を横目で眺め、雅は心底呆れたように溜息をつく。
「駄目だよ雅さん、そんなこと言っても。カズマは舌がオカシイんだから」
三日前から常に攻撃態勢の要は、今回も常に攻めてくる。
既に何を言っても切り返されるのが目に見えているので、一馬は抵抗を諦めている。いわゆる不戦敗。
「すみません、ちょっと屋根裏の整理をしていたもので……」
その言葉と共に扉が開き、あまり背の高くない、あごひげをたくわえた丸眼鏡の、40代ぐらいの男が現れた。
「岡安さんですか?」
コーヒーカップをソーサーに戻し、雅が立ち上がった。
倣うように二人も立ち上がった。
「お電話を頂いた銀の者です。家の中では厄介者扱いですが」
よく言うよ。有名霊媒一族銀一門のボンボンが。
いつも自分に対する態度とは180度正反対の丁寧な雅に、一馬は心の中で悪態をついた。
「どうぞおかけになってください」
岡安氏に促され、三人は再び席についた。
「岡安さん、こういう職業をしている私がここまで来て聞くのは変なんですが、本当に"出る"んでしょうか?」
「そう言われるのもしょうがないです。今まで色々な方に頼んでみましたが、気配は感じるけど出てこないと言われるの関の山で。酷いときなんて、全く出てこなかったこともあります。しかし、いるらしいんですよ」
「らしい?」
「私には見えないんです。見えるのは美音子で……」
「鳥羽さんですか」
(あれ?)
再び一馬の感覚にとあるものが引っかかった。
"美音子"? 幾ら親しくても、お手伝いの女性を呼び捨てにするものだろうか?
でも苗字は岡安と鳥羽だしな……。
「……そうですか。それならこちらはこちらで色々と調べて見ます。それにしても」
説明を受けて何度か頷いて見せたあと、雅は、応接室の端にかけられている引き伸ばされた樹氷の写真に視線を写す。
「いい写真ですね。岡安さんが?」
「お恥ずかしい。ただの趣味です」
岡安氏はわずかに頬を赤らめてそう言ってみせる。なんだか山男のような外見にしては可愛い人だな、と一馬は変なことを思ってしまった。
「いえ、いいですよ。私は本業はカメラマンなんですけど、光の具合と角度が絶妙ですね。私は普段人を撮ってるんで、風景の写真というのは勉強になります」
ソファーから立ち上がり、雅が写真へ近づいてゆく。追うように岡崎氏も席を立った。
写真を前に二人はなにやら意気投合した様子で、しばらくすると専門用語が飛び出し始めた。
「あの、お部屋にご案内します。あのひと、写真の話になってしまうと数時間は我に返りませんから」
いつのまにか傍まで来ていた美音子が、ぽかんとしている一馬と要に向かって声を掛けた。
すみません、と言って立ち上がりながら、一馬は再び思う。(まただ)。
違和感。建前と現実が、一致していない感じ。
応接室を出たところで、一馬は先程のことを思い出した。
「すみません」
先に立って階段を上る美音子に声をかける。はい? と少し足を止めて美音子が振り返った。
「あの、こちらに15・6歳ぐらいの女の子、いますか?」
「……ああ、ななかちゃんですね」
「ナナカ?」
「ええ。弘美さんの娘さんです。今年で16になります」
ぱたり。階段を上りきったところで小さく扉が開閉する音が聞こえ、要は辺りに視線をめぐらした。
すると右の方の奥の扉がうっすらと開いている。小さく顔を覗かせているのは、肩に届くか届かないかの綺麗な黒髪の少女だった。
要と目が合うと、慌ててぱたりと扉を閉めてしまう。
(なんだ、あれ)
それでなくてもここ数日不機嫌が続いている要だ。目が合っただけでいきなり扉を閉められては、ささくれ立った心が再び反抗期モードに戻る。
「どうぞこちらです」
美音子に招きいれられた部屋は、華美さはないものの、落ち着いた部屋だった。
「地下の方に温泉がありますので。いつでもどうぞ」
そう言い残して美音子は部屋を出て行った。
*
「ここにもない……」
部屋中をひっくり返して、たんすの中まで荒らして。
探してるのに。ずっと探してるのに、見つからない。
どうして? どうしてなの。どこにいったの。どこへやったの。
「かえして」
頬を伝う涙を必死に拭って、誰かに願うように呟いた。
祈るように。
「…………かえしてよ」
膝を抱えて蹲る。押し当てた膝が涙で濡れた。
3.
「はぁ……いい湯だった」
「……ジジイ」
大げさに満足げな溜息をついてみせる一馬に、その少しあとを歩く要がぽつりと呟いた。
普段のときは全然感じなくとも、髪や肌がまだ水気を含んでいると、廊下ですら寒い。
「大体僕はひとりで入るって言ったじゃん」
途中で乱入していったのがよっぽど気に入らないのか、要は後ろでぶつぶつと文句を零している。
「温泉はぁ、ひとりで入っても面白くないんですヨ」
まだ湿り気を帯びた漆黒の髪をかき上げて、一馬は意味ありげに要を振り返った。
「なに? 要くんはまだ怒ってるんだ?」
「………………」
ぷいっ。そう表現するのが最も適切な顔の逸らし方で、要は一馬を追い越して階段を上ろうとする。
しかしその足が。唐突に割り込んできた声で。
「関係ないでしょ、放っといてよ!」
―――止まった。
丁度通りかかった調理場の、わずかに開いた扉から。漏れてくる光と、切り捨てるように残虐な、攻撃的な声が。
「ななかちゃん、そんなこと言って昨日も何も食べてな」
がっしゃん。
何かをひっくり返す音に、女性の―――多分美音子の―――声が途切れた。
「自分で作るからいいって言ってるじゃん! 別にあんたに頼んでないから!」
「でも、ななかちゃん……」
「もぉいいよ!」
絡み付いてくる全てを強引にむしりとって投げ捨てるような。
そんな声を残して、少女が扉から飛び出してきた。
真っ赤なセーターに、デニムのスカートの。
少女は、扉を開けた先にいた二人の客を目に止めて、一瞬立ち止まると、物凄い形相でにらみつけた。
「立ち聞きなんて、サイテー」
―――何故か。
少女は階段の手前で立ち止まっている要を押しのけて、二階に上がってしまった。
荒々しい足音が後を引く。
岡安ななか。
その背中を見送った一馬の心に、本人も意識しない深層から、浮き上がった感想がひとつ。
―――泣きそうだ。
*
割り当てられた部屋に戻ると、真っ暗だった。
ちりちりと、真っ赤な小さな光が、窓際でぽぅ、と灯ってはすぐに弱くなる。
ゆるやかな点滅。
「電気もつけずに、何してるんですか? 銀サン」
窓際の椅子に腰掛けて、眼下に広がる銀世界を見ていた雅は、扉の開く音と少し遅れて掛けられたその声に、顔をあげる。
「愛とは何かについて考えていたところさ」
ちりちりと燃焼する合法ドラッグの、先っぽの灰を、サスペンスドラマでよく凶器にされるようなガラスの灰皿に落として、雅は立ち上がった。
「で、なんか分かったの?」
訊きながらズカズカと真っ暗な部屋の中入ってしまう一馬に、要はしょうがなく自分で電気をつける。
急についた蛍光灯の光に、三人三様に目をしかめながら。
まだ寝るには早い時間だし、テレビをつける気にもなれないし。
面倒くさい会話は大人たちに任せて、要は、荷物の中から読みかけの文庫本を取り出すと、壁際のベッドに上がった。
壁に背中を向けてぱらぱらと捲り始める。
「なんだかなぁ。全然"そういう"感じじゃないんだよなぁ」
座り直した雅の、向かいの椅子に座った一馬は、間にはさんだテーブルに無造作に投げ出されている雅の煙草に手を伸ばした。
「そういう感じ?」
「オバケの感じ」
およそ霊媒師らしくないその発言に、一馬が銜えかけた煙草をカーペットに落とした。
「12.5円」
その落下の軌跡をしっかりと目で追った雅が、押し付けがましく言う。
「けち」
かがみこんで煙草を拾いなおし、再び口唇に挟む。
「けどなぁ、何だか"思念"みたなもの? はぐるぐるなんだよな。これじゃぁ気分も悪くなるわ」
「へぇ」
「まぁ、こういう問題は往往にして、人のプライベートに踏み込んじゃうことなんだけど。ちょっとこの家も、複雑みたいネ」
短くなった煙草を灰皿に押し付け、雅は部屋の隅にかけられている雪山の写真に目を移す。
「お前も気付いたと思うけど、オーナーの岡安さんとお手伝いの鳥羽さんはイイカンジなんだよね。再婚って言う話も出てるぐらい。あ、前の奥さんは病気で去年死んじゃったみたい」
「でも、鳥羽さんと岡安さんの娘さんが仲良くない、ってことか」
「あれ? なんで知ってんの?」
「さっき現場を……」
押さえてしまいまして。と一馬は丁寧に言ってみる。
「ま、いいや。それで、その岡安さんには見えないけど他の人には見えるって言う"女の人"ね。岡安さんは言葉を濁してたけどどうやら、前妻さん……らしいんだよね」
「……ドロドロだね」
「そうさ、ドロドロなのさ」
お手上げと言った体で、雅は両手を広げて見せた。
「だから霊媒って言うのはあんまり気持ちのいいモンじゃないんだ。自然の摂理に逆らって"残ってる"って言う事は、絶対にプラスの感情じゃありえない」
渋い顔をしながら雅は、机の上のパッケージに手を伸ばし、中が空であることを確認すると、更に不快そうに眉をしかめて一馬を見た。
「最後の一本なら、遠慮ぐらいしろよ」
「もう遅い」
一馬が銜えている煙草はもう、半分ほどまで燃え尽きていた。
「ああもう、寝る。不貞寝だ!」
何もかもが気に入らない。そう言いたそうに立ち上がった雅が、ベッドの方へずかずかと歩いてゆく。
「とりあえず明日、ここの周りは調べてみるけどな」
ベッドに潜り込んだ雅から、そんな言葉が放り出されたのは、一馬が煙草を吸い終わるぐらいの短くも長くもない、沈黙のあと。
4.
目撃例がどうのこうの。そんな会話を交わしたのち、一馬と雅は近くの森へ出かけていった。
ロッジの、木で作られた階段に腰をおろし、要は一面に広がる銀世界を見るともなしに見つめていた。
今日はしっかりコートも着用して、手袋まではめて完全防備だ。
けれどやはり吐き出す息はとても白く、寒いものは寒い。
だけど。
雪がこんなに積もるのを、見たことはない。
降るのは幾らなんでも何度かは見たことがあるが。こう、絨毯のように敷き詰められるのを、見たことなどない。
生まれたときから限られた狭い空間で生きることを余儀なくされてきた要にとって、世界はまだまだ果てなく広い。
雪を眺めたままぼんやりとしていると。
「雪がそんなに珍しい?」
「うわっ……!」
突然背中に刺さった声に、要は慌てて立ち上がった。
振り返ると、薄手のジャケットを上に羽織っただけの、岡安ななかが立っていた。
「そうだよね、珍しくなきゃ、こんな山奥に来ないよね」
勝手に話を自己完結させて、口元に自嘲気味の笑みさえ浮かべて。ななかが言う。
「……昨日は、ごめん。立ち聞きしちゃったみたいで……」
彼女に、他人を拒絶するある種のオーラを感じたが、悪いと思ったことは謝らずにいられない要だ。
「あ、それは私こそごめん。お客さんだったんだもんね。温泉から出てきたところだったら、聞こえちゃっても仕方ないし。苛々してたから、八つ当たりみたいに"サイテー"って。お兄さんにも謝っといてね」
「"お兄さん"!?」
「あれ? 違うの? とっても仲良さそうだし……」
「違うよ! 誰があんな……!」
「そうなんだ〜。誤解だねごめんね」
必死に否定する要に、ななかは苦笑しながらそう言った。
(なんだか……)
昨日までのマイナスのイメージがからからと崩れて落ちた。
(普通じゃんか)
「……雪って駄目だよ」
ななかへのイメージを改めようとした要に向かって、ななかがぽつりと呟いた。
「綺麗だけど、冷たいし。積もれば重いし。もともとの地面、全部隠しちゃうし。それなのに、汚れやすいし。駄目なトコばっかだよ。すごい優柔不断」
ユウジュウフダン?
雪にそんな形容詞を使う人間を、初めて見た。
「綺麗なのか、綺麗じゃないのか。ふわふわしてるのか重いのか。訳わかんないよ。嫌い」
階段を降りて、さくさくと雪の上を歩き、少し離れた場所にある小屋に向かってななかは歩き出した。
(やっぱり訂正)
訳分からない。
遠ざかるななかの背中を見送って、溜息をついた。
(……あれ…?)
再び階段に座りなおし、ぼんやりとななかを含めた景色を見つめていた要の感覚に、何かが引っかかった。
おかしいな。
そうは思ったものの、"何が"おかしいのか、良くわからない。
けれど、何かがおかしい。それは絶対的な確信だった。
空から容赦無く降り注ぐ太陽の光。元々は水だった雪の表面にきらきらと反射して眩しい。
時折吹き抜ける風が、少しはなれた場所の木々を揺らした。地面にゆさゆさと、葉が揺れる影が落ちる。
影。
かげ……?
「寒くない?」
眉をひそめてななかの背中を目で追う要に、再び後ろから声がかかった。
*
「でも結局は、何も起こらないし何も見つからないんだよね」
やさぐれたように雅が吐き出す。
森の中にざくざくと入り込んできたはいいものの、何も見つからない。
「そもそもここら辺でゆらゆら揺れる影を見たっていう情報だけだろう。幽霊を見たって言ってたわけじゃないし」
すっかりと晴れ渡った空。さんさんと降り注ぐ太陽の光に、木々の葉に降り積もった雪がとさりとさりと落ちてくる。
先程背中に直撃を食らった一馬としては、早くこの場から立ち去りたいことこの上ない。
「……だって、それ以外に何か情報あったか? 岡安さんは見えないって言うし、美音子さんは買いものに出かけたって言うし」
「とりあえず俺はもう戻る」
「一馬ちゃん付き合い悪いよ」
「寒いんだっ!」
コートと素肌の隙間に上手くクリーンヒットして背中に落ちていった雪の名残。風が吹くたびに、まだ濡れた肌がひやひやと冷たい。
「お前、こういうときだけ運がいいんだもんな。くじ運とかは悪いくせに」
「……壮絶に嬉しくないぞ、その分析」
ざくざくと雪を踏み分けて、もと来た道を戻り始める一馬に、雅は仕方ないと溜息をつき、続く。
「あれ?」
森の入り口まで戻ってきたところで、一馬が立ち止まる。
なになに、と一馬の肩越しに前方を見た雅も、足を止める。
ペンションから少し離れているところに立っている丸太作りの小屋―――岡安氏によると、薪などをしまっておいてあるらしい―――に、入ってゆく人影が見えた。
「ユーレイかな?」
「バカ、幽霊が律儀にドア開けて入るかよ」
ハタチを越えた男同士の会話とは思えない間抜けな会話を交わしつつ、一馬と雅は建物に近づいた。丁度こちら側に面して窓がひとつある。
近づいて覗き込むと、見覚えのある人影ががたがたと中に置かれているものをひっくり返しているのが見えた。
「……ななか、ちゃん?」
雅の口からその人物の名前が零れ落ちた。
岡安ななか。依頼主岡安弘美の一人娘。
―――関係ないでしょ、放っといてよ!
昨日の夜の、その絶叫を思い出す。
全ての優しさを引き千切るような、無理矢理目を逸らすような。
泣きそうな。
叫び声。
がたがたと、物をひっくり返しているななかの顔が、苦しそうに歪んでいる。
(泣きそうだ)
また、一馬はそう思った。
そして。
(あ……)
別の方向に開けられた窓から、斜めに降り注ぐ太陽の光が、小屋の中の色々なものの影を映し出す。
それの描く模様に目線を落とした一馬が、息を飲んで口元を覆った。大声を出さないために。
……もしかしたら。
「雅」
小声で隣の霊媒師に呼びかけ、ぐっと引っ張ってきた道を戻った。
「お、おい一馬……」
「……もしかしたらこれは、お前の領分じゃないかもしれない」
ペンションの方へ戻りながら、一馬が言う。既に深く考え込んでいるらしく、「なんのことだ」と雅が聞き返しても、返事はなかった。
*
寒くない?
唐突に掛けられた声に、要はびくりと大げさに震えてしまった。
だって先程まで、気配がなかった。
恐る恐る振り返ると、30がらみの優しそうな女性がそこに立っていた。
綺麗な黒髪が肩の後ろあたりまで伸びている。
「え……。あ、我慢できないほどじゃない、です」
「そう」
女性は、微笑みながら頷いて、要の隣に腰をかけた。
「ここはね、冬もいいけど夏が一番なの。ここらへん一面が、果てない草原になってね。自然を写真に収めるんだったら一番。小動物もいっぱい出てくるし。何よりあんまり暑くならないから」
「はぁ」
要は何故自分がこの女性と話をはじめたのかがよく分からないまま、とりあえず相槌を打つ。
「苦しいわよね」
少し黙り込んだあと、唐突に女性が言った。
「え……?」
「人を好きになるのも、人を好きでい続けるのも。すごく辛くて、孤独なことよね。返るものがなければ尚更。だからいいのよ。忘れたっていいのよ」
「あの……」
「だけど"あの子"は、辛いのよね。私は平気なのに。ななかは、まだ辛いのよね。思い出にするのが」
雪道に着いた小さな足跡を目で追い、女性は少し寂しそうに微笑んだ。
女性の言っていることは良く分からなかったが、なんだか、温かい感じがした。
そして唐突に、この人の正体に気付いた気がした。
不意に泣きたくなった。
怖いとか、そういうことではなくて。優しさが温かくて。
「……私がここにいたことは、秘密にしておいてね」
しー。
口元に人差し指を押し当てて、女性はにっこりと微笑んだ。
はい。頷こうと瞬きをした次の瞬間に。その人はいなかった。
まるで幻のように、消えた。
*
「―――要?」
ヒラヒラと目の前で揺れる掌に、要はふと我に返る。
「どうしたんだ? ぼぉっとして。凍りついたのかと思ったぞ」
「え? 固まってた?」
「3分ぐらいね」
どうやらそのようだ。一馬と雅が帰ってきたことにも気付かなかったぐらいだ。
「とりあえず中に入らないと。本当に凍える」
「何か分かったの?」
自分の腕のあたりをさすっている一馬に向かって、さして期待もせずに要が問い掛ける。
「まぁ、とりあえずは」
すると、不意打ちの返事が返ってきた。
「え!? 分かったの!?」
「おい、どういうことだそれは!? 俺は知らねぇぞ!?」
座っていた場所から飛び上がるように立ち上がって、要が大げさに驚く。
本来この仕事を依頼されているはずの雅の方が、驚いたような声をあげる。
「さっき気付かなかったんだな、銀のおぼっちゃまは」
嫌味を含めて一馬が言うと、「いいから話せ」と雅が真面目な顔で急かす。
「…………どうやら、オバケとは少し話が違うみたい、だと思う。まだ推測の域は出ないけど」
先程覚えた違和感を頭の中で繰り返しながら、一馬は慎重に言葉を選んだ。
「影……」
「……かげ?」
一馬の口から零れ落ちた言葉を、要が繰り返す。
既視感(デジャ・ヴュ)。先程も感じた何かの違和感。
影という言葉を引き金に、溢れ出す。さっきもそうだ。小屋に向かったななかの姿を追って……それで。
息を呑んで、要は一馬の言葉を待った。
大きく息を吸い込み、一度吐き出し。それから一馬は口を開いた。
「ななかちゃんに影が、無かったんだよ」
5.
―――その日の夕食、何を食べたのかさえ、要は覚えていない。
ベッドの上で仰向けに寝転んで、天井を見上げる。
白い天井。
一馬と雅はどうやら階下で酒を酌み交わしているらしく、戻ってくる気配もない。
色々なことが起こりすぎてグチャグチャの心を持て余して。今日は早く眠ってしまおうと布団に入ったものの。
頭の芯が冴えていて、睡魔は簡単に退散してしまって久しい。
影がないって、どういうこと。
ごろりと横を向き、壁と向かい合った。
かたかたと、わずかな風に窓が揺れる音。そんな小さな音が耳に届くほど、静寂が重い。
分からない。幾ら推論を立てても、波打ち際の砂の城のようだ。すぐ崩される。
ざらざらに分解されて、また0に戻る。
―――がしゃん。
何かが割れる音と共に、引き裂くような女の悲鳴が響き渡った。
一瞬遅れてベッドから跳ね起きる。
あの悲鳴は……。
(美音子さん―――!?)
床についた足がわずかにふらついた。縋りつくものが欲しくて慌ててドアノブを掴む。
そのまま外へ飛び出した。悲鳴のした、階下へと。
*
一馬がその悲鳴を聞いたのは、応接室でだった。
雅と岡安氏との間で展開される写真トークを聞くでもなしに聞きながら、あまり消費量が多くない煙草に口をつける。
神経が冴えている時の癖。
―――がしゃん。
陶器かガラスのようなものが、砕ける音。
そのあとに続く、金切り声のような悲鳴。
今まで熱のこもった討論を繰り返していた写真家達の口が、開け放したままになった。
「美音子!?」
「調理場だ!」
いち早く飛び出した雅に続いて応接室から出ると、丁度要が階段から降りてくるところだった。
鉢合わせる。
「何の悲鳴!?」
「分からない。とりあえず行ってみないと……」
短い会話を交わして、雅に続く。
扉を開け放って入った先。調理場の端で蹲っている美音子の姿が目に飛び込んできた。
足元にはばらばらに砕けた大皿が散らばっている。それでわずかに皮膚を切ったらしく、所々に血痕が散っていた。
頭を抱え、必死にいやいやをするように首を振る。振り乱した髪が顔を覆い尽くしていた。
美音子を上から見下ろすような体勢で。ふわふわと浮いている透けた人影。
長い黒髪がふわふわと風もないのに揺れている。
(あ……)
一馬と雅の隙間から調理場を覗き込んだ要が、息を飲んだ。
昼間見た人だ。
「一体何が……、美音子……」
あとからやってきた岡安氏が、雅と一馬の間からその情景を見た。
「やっぱり、岡安さんには見えないですか」
美音子の傍から離れないその人影を見つめたまま、雅が問うと、岡安氏は不安げな顔でこくりと頷いて見せた。
「雅、あれは……」
「ああ。少なくとも"ユーレイ"じゃねぇな」
漂う空気が、違う。幽霊ほど希薄じゃない。
言ってしまえば、"濃かった"。死人ほど薄くなく、生きている人間ほど濃くなく。
酷く曖昧な。
「……ななかちゃん」
「あ? オイ、一馬!」
「カズマ、待ってよ!」
突然身を翻して階段へ向かって走り出した一馬に、雅と要が続く。
何が起こっているのか分からない岡安氏は、蹲る美音子に駆け寄った。
「なんなんだよ一体!? 説明ぐらいしろ!!」
「そうだよ、これじゃ訳わかんないよ!!」
階段を駆け上がり、ななかの部屋を乱暴にノックした一馬に、後ろから二人の抗議が刺さる。
「影だ」
中からの返事はない。
「カゲ?」
「あれは、ななかちゃんの影だ」
ドアノブを握ってまわしてみる。開く。
「あんなに綺麗に実体化してるなんて。離れてからかなり時間が経ってる」
ごめん、と謝りながら、一馬はドアを開く。女の子の部屋に無断で入るのは最低の人間がすることだと自負しているので。
開かれた先は薄暗い部屋だった。あまり明るすぎない、オレンジ色でまとめられた感じのよい部屋。
部屋の端に置かれている勉強机の、スタンドだけがついていた。
綺麗に整頓されている。ただ、床中に散らばっている四角形の小さな紙たちを覗けば。
ななかはその真ん中にうつぶせに倒れていた。
一馬は、その小さな紙片を踏まないようにななかに近づくと、抱き起こす。
遅れて部屋に踏み入った要が、床に散らばった紙を拾い上げてひっくり返した。
(写真……)
そこには、動物園の檻の前でにっこりと笑ってピースしている5歳ぐらいの少女の姿。ななかだろう。
「雅、岡安さんにとりあえず、簡単に説明しておいてくれないか」
ななかの額に掌を押し付けて、一馬が言う。
「……何の説明をだよ」
「"夢喰い"だ。これから"潜る"。影が完全に本体から分離したら、人は死ぬ」
結構今でもきわどい。最後に一馬はそう付け加えた。
そう言っている間にも、ななかの額に当てた一馬の掌から、淡い光が零れ始めていた。
*
(かえして)
小さな。小さなささやき。
尾を引き、螺旋を描き。繰り返し重なって。
(かえして)
泣きそうだ。
不意にそう思った。
潜る感触をどう表せばいいのか、一馬はよく分からない。
ただ、眠っている相手の体の一部に触れて"潜れ"と念ずる。
そうすると、次第に相手の肌と自分の掌との境界が、少しずつ曖昧になって。
辺りの景色が溶けて。
一瞬意識が遠退いて。がくんと、下へ引きずり込まれるようになって。
がん、と横殴りに去れるような衝撃がキて。
目蓋を開くとそこはもう。
"夢の中"。
潜っている間のことも、しっかり覚えていられたらいい。
そうしたらもっと生々しく、自分のしていることを自分に知らしめられるのに。
間を覚えていないだけ現実味が薄れて。それなのに潜っている間も感触は全て自分にあるから。
現実なのか虚像なのか。わからなくなる。
(かえしてよ)
がさがさと、何か軽いものを掻き混ぜるような音が聞こえてくる。
辺りを見渡すと森の中だった。辺り一面真っ白で、木々も雪化粧。
葉と葉の間から零れ落ちてくる光が、地面に降り積もった結晶をきらきらと輝かせた。
声のするほうへと足を向けると、可哀相になるぐらい薄着のななかが、地面にぴたりと座り込み、ざくざくと雪を掻き分けていた。
靴も履かない素足が、雪の上で真っ赤になっている。
「何してるの?」
あまり刺激しないように、柔らかい言葉で。呟きながら一馬は、ななかの横にしゃがみこんだ。
「写真」
ざくざくと雪を掻き分けながら、ななかが言う。
白い指先が真っ赤になり、今にも血を流しそうだ。
「写真?」
「お母さんの写真、探してるの」
「こんなところで?」
「だって、他は何処にもないんだもん」
掘れども掘れども。雪しか出てこないこんな場所で。
「お父さん、写真取るのが好きだから。家族の写真とかいっぱい撮ってたんだよ。あたしが小さな頃からずっと。それを全部ちゃんとアルバムに入れたりしてたの。だけどね、この前お父さんの部屋に行ったら、飾ってあった家族の写真がなくて。しまってあったお母さんの写真が一枚もないの。本当に一枚もないのよ。ずっと、ずっとあたし探してるのに、一枚も見つからないの。一枚もよ? どうして?」
ななかの口唇からは、タガが外れたかのように言葉がボロボロ零れ落ちた。
まるで涙の代わりに。
「美音子さんのこと、嫌いじゃない。だけど、まだ一年だよ。……もう一年だってみんな言うけど、あたしにはまだ一年なんだよ。まだ思い出じゃないんだよ。まだ悲しいんだよ」
ざくざくと雪を掻き分ける真っ白な掌の上に、ぱたりぱたりと小さな水滴が落ちた。
「まだ忘れたくないんだよ……」
手が止まった。
真っ赤になった両手を自分で抱えて、必死に嗚咽を噛み殺す。
「全部、全部なくしちゃうほど、要らなかったのかな……?」
真っ赤になった手で、必死に目から溢れ出る涙を拭う。冷えた手に涙が熱い。
「見ていたくないほど、忘れちゃいたいのかな?」
視界に入っていることすら堪えられないほど? 思い出にすら出来ないほど?
過去にしがみついているあたしは愚か?
でも離せない。まだ手が離せない。
バカみたいにしっかり掴んでる。思い出の端っこ。
「忘れたくないよ…………」
まだ憶えてる。たくさんのコードとチューブにつながれて、真っ青な顔で必死に生きていたお母さんの顔。
呼びかけても答えなくても。心電図が刻む小さな山で、生命を感じた。
必死に生きてたのに。
「だから、影が離れちゃったのかな」
ひとが過去を思い出に出来るまでには、人それぞれの時間差があって。
それを誰も責められない。
かがみこんで、ななかの顔を覗き込んで、一馬が言った。まるで独り言のように。
「忘れたくなくて、影がお母さんの形になっちゃったんだよね、きっと。でもね、人間は影がないと、生きていけないんだ。この体から、離しちゃ、ダメなんだよ」
「でも、影が動いてれば、お母さんのこと忘れないで済むの」
「姿が見えてないと、忘れる?」
「……忘れない。けど薄れる」
どんなに忘れたくないと願ってもいつか。あまり上手く顔が思い出せないようになる。
そんな自分が酷く憎い。
だから、姿が欲しい。写真が欲しい。でも写真がないの。
「褪せるのは、かなしいよ……」
「影がないと、自分が褪せちゃうよ」
自分の後ろに出来る濃い影を。しっかりとこの足につけていなければ。
自分の中のそういう、黒い部分をしっかりこの目で見ておかないと。
生きてる自分が、褪せてしまうよ。
「……分かってるの。あたしが弱いの。いつまでもしがみついてる、あたしが弱いんだよ」
真っ直ぐ前を見て。その先にある光を求めて。歩いていけたらいいのに。
だけどいつも、いつも後ろにある温かい何かを振り返ってしまう。弱い手が縋れる何かを。
「頭の中とか、心の中とか」
ななかの傍で、一馬も雪に指を差し入れた。すぐに鋭い痛みが指先をちくちく刺した。
「思ってるほど、広くないんじゃないのかな」
ざくざくとザラメ状になった雪を掻き分ける。上から降り注いでくる黄金の光が、結晶に反射して目に痛い。
「許容量が決まってるから、少しずつ、忘れていくんじゃないのかな。余裕がないから。……みんなそんな強くないんだよ」
「……うん」
一馬の傍で、ななかも止めていた手を再び動かした。
しばらくの間、さくさくという音だけが響く。
「ひどいことした」
沈黙を破ったのはななかだった。雪を掻き分けていた手を止めて。じっとそこを見つめる。
「お父さんに、ひどいこと言った。美音子さんに、すごく、悪いことした。お母さんに……」
きらいって。そんな冷たい言葉ばっかり吐き出して。寂しさを昇華させようとしてた。だけど。
雪を掻き分けた先。指先に当たる別の感触。小さな紙切れ。
「……ばかだ」
拾い上げて、零した。
「おおばかだ、あたし」
大事に両手で抱え上げたその掌の中。ずっと昔の、家族の写真。
みんな笑ってる。世界のしあわせ全部、奪い取ってきたみたいに笑ってる。
"おかあさんが"。笑ってる。
あんな、無表情に見つめることなんてしなくて。あんな怖い顔してなくて。
「あたしが欲しかったのは……」
その小さな写真を、胸に抱いて。
突然、体の奥底からぐっと湧いてきた沸騰した熱いものが。食道を一気に駆け上がり、脳天まで。
沸点を振り切って。
溢れ出した。
(あんな顔じゃない)
「あたしが欲しかったのは、ずっとここにあったんだ」
楽しかった、笑っていた、その瞬間の肖像を抱いて、ななかは一粒涙を零した。
6.
うっすらと瞳を持ち上げると、見慣れた部屋にいた。
応接室の、少し高めのソファー。普段なら、寝転ぶことなんて出来ない場所に。いた。
「ななか……」
震えた声が呼びかけてくる。首だけをそちらに倒すと、今にも泣きそうな、情けない顔をした父親の顔が目に入った。
「ぶさいくなかお」
ついつい口をついて出てしまった。なんて情けない顔。
だけど、口調には嫌悪はなくて。優しさや愛しさのほうが強いような気がした。自分で。
あたしこんなに、優しい声出せたんだね。
「これ」
そんなななかに、岡安氏は分厚い一冊の本を差し出した。
ゆっくりとソファーの上で体を起こして、ななかはそれを受け取る。
表紙も裏表紙も真っ白で、タイトルとかは何も書かれていなかった。
ぱらり。一枚目を捲る。
「え……」
手が止まった。
(笑顔)
「写真のままだと色褪せるから、頼んで写真集にしてもらってたんだ」
あの笑顔だ。
世界のしあわせ全て、強奪してきたみたいな。最強の笑顔。
ぱらぱら。捲っても捲っても。そこには幸せしかなくて。優しくて強くて、何にも負けない笑顔が溢れていて。
「忘れるわけ、ないじゃないか。驚かせようと思って秘密にしておいたんだけど、逆に、傷つけてしまったね」
「……ばか」
「ごめんね、ななか」
一番最後のページ。
夢の中で見つけたあの写真があった。
まだ3歳ぐらいのあたしが、右手をお父さんに、左手をお母さんに。預けてぶら下がってる写真。
あの時の手の温もり。全部憶えてる。まだこの掌の中。
「……ばか」
あたしのばか。
自分だけでくるくる空回って。どうしようもない気持ちを相手にぶつけて。
ふつふつ。胸の奥で、また熱が生まれた。じりじりと胸を焦がして這い上がり、涙腺から溢れた。
一粒二粒。雫がやがて流れになる。
少し大きめの本を胸に抱いて、ソファーの上で膝を抱えた。
まるで胎児のように。
「ななか……」
胸に肖像を抱いて、膝に額を押し付けた。溢れて溢れて止まらない涙。膝を伝って肌に染みる。
枯れた大地に、水がしみこむように。
「……ごめん」
ひどいこと言って。きらいって言って。
「ごめんなさい」
あれ、あたし一体何の夢を見ていたんだろう?
―――もう思い出せないや。
だけど、あったかかった。それだけが全部。
*
「これにて一件落着、ってか」
「なに時代劇みたいなこと言ってるんだ」
車がゆるゆると山道を下る。運転席の雅が茶化すように口を開くと、助手席に沈み込んだ一馬が溜息を漏らす。
疲れた。
「いつでも泊まりに来いってさ」
新しく買ったばかりの煙草の箱から一本を銜え、サングラスを装着した雅は、半端じゃなくヤクザみたいに見える。
そんな奴の口から優しい言葉が出たから。思わず一馬は素直に頷いてしまった。
「……影だったのかぁ」
後部座席から、溜息交じりの声が聞こえてきて、一馬は振り返る。
「どうかしたのか? 要」
「昨日見たんだ。ロッジのところでひとりで座ってたら、ななかちゃんのお母さんがいて」
―――忘れたっていいのよ。
「すっごく優しいこと言ってたから。……でも、影だったんだね」
窓の外。雪化粧された山道を見つめながら、要が感慨深そうに呟いた。
「……あのさ、要。感慨に耽ってるところ悪いんだけど」
「何?」
感慨深さに、機嫌が悪かったことを忘れているらしい要は、一馬の呼びかけに素直に顔を向けてきた。
かくいう一馬は、先ほどから何故か冷や汗が止まらずにいる。
「その"影"って、本当に喋ってた?」
「え? うん」
「本当に?」
「だから何さ……」
先程までよかった、要のご機嫌の雲行きが、少しずつ悪くなってきたようだ。
整った眉をしかめて、一馬を睨みつける。
一馬はその視線から逃れるように、運転席の雅へと目線を送ると、雅も困ったように笑って見せた。
「カズマ、なんなのさ!?」
「……あのさ、影って、基本的に人の付属物だから。まぁ、完璧に離れちゃえば自我を持つこともあるんだけど。今回は違ったし」
「え?」
「……だから、その。影は普通自我を持たないから、喋ったり、しないんだ、よね?」
「え……? じゃあ、あれって……」
「うん。多分」
ホンモノ。
「…………」
「…………」
見つめあう一馬と要の間に流れる静かな沈黙が、雅の煙草一本分ほど。
みるみるうちに真っ青になった要の顔。とりあえず、慰めにもならないのに、へら、と一馬は笑ってやる。
その情けない笑顔が凍りついた要を解凍した。
「え〜〜〜〜〜〜ッ!?」
要の絶叫が、山道に響き渡った。
<fin>