幕.家 路
とても、視野が狭かったんだな。
別れと聞いたら、すぐに「最期」という言葉を思い出していた。
もう二度と、会えないものだと思っていたんだ。
別れって、そういうものだと思っていた。
*
「失礼しました」
教室の扉を閉める一瞬前、真堂の「じゃあなぁ」という間延びした声が届いた。
リノリウムの床に、ずらりと並んだ窓から差し込む、やわらかい赤い光が模様を描いた。
ガラスを通して、校庭のほうから。放課後の喧騒が耳に届く。
人気のない廊下を、しばらくお互い何も言わずに歩いた。
教室の前を通り過ぎるたび、ちいさな話し声や笑い声や困った声が聞こえてきた。
国立とか、私立とか。大学、専門、文系、理系。そんな言葉が飛び交っている。
「社会学部」
並んで階段を降りていたとき、そんな言葉が聞こえてきた。何処かの教室からではなく、自分のすぐ隣からだった。
正面にある窓から、真っ直ぐに差し込む夕日に目を細めながら、要は隣を見る。
「意外?」
三者面談に同席した仮保護者は、要の視線を受け止めてから、いいや、と短く言った。左頬に湿布を当てたままの顔で、少し笑った。
スーツのポケットに突っ込んだままの右手には、まだ包帯が巻かれている。
言わなかったけど、凄く歴史とか、民俗学とかに興味があるんだ。ここの大学の社会学部に、偉い先生がいるらしくて。
思いつくままに並べる要の言葉を、一馬は軽く頷きながら嚥下する。
あれから、約一ヶ月。
本当にまるで、流れるように月日が過ぎた。
昇降口の隅に、ダンボールやベニヤ板などがたくさん積み上げられていた。
2週間ほど前にあまりにも呆気なく終わってしまった文化祭の名残だった。
何ヶ月も前から準備してきたものを、3日に詰め込んで消費する。とても忙しくて充実していて、非日常めいた空間だった。
終わってしまえばまるで夢だったように呆気なく、少し遠い。
その残骸が今も尚、片付けられずに置き去りにされていた。なんだか、かわいそうだ。
「ああ。そういえばこの間、勝利くんが事務所に来たんだ」
高等部の校舎から、学園の正門へと続く並木道を歩きながら、切り出したのは一馬だった。
はらりはらりと、黄葉した公孫樹の葉が落ちてくる。足元に積もっていた。
歩くたび、さくりと音を立てる。
「勝利が? 何しに?」
いつもよりも遅いペースで歩きながら、訊いた。
すると、一馬は少し含んだような笑い方をする。
「……なにさ」
「写真を貰った」
「写真!?」
要は声を荒げた。物凄く、嫌な予感がした。
このタイミングで、勝利と写真がセットになって想像できるのは、最悪の結末だけだ。
慌てる要に、一馬が物凄く意地悪な笑い方をする。
「文化祭の写真」
要の顔から、目に見えて血の気が引いた。
愕然と、足を止めて立ち尽くす要に、
「一言も言わないんだもんな。言ってくれたら見に行ったのに」
と、一馬はとても残念そうに溜息をひとつ。
「それが嫌だから言わなかったんじゃないか!」
泣きそうになりながら、要が叫んだ。
絶対に見られたくなかったのに。吾妻のマンションで振り切って飛び出していったのを、勝利はまだ根に持っているらしいのだ。
それにしたって、これはあんまりだ。明日会ったらどうしてくれよう。
「可愛かったからいいじゃないか」
がっくりと肩を落とす要に、更に一馬は追い討ちをかける。
「もうやめてよ!! その写真も! 捨てて!」
「そんな勿体無いことするわけないだろう。折角好意で勝利くんが持ってきてくれたわけだし」
「いい加減にしてよ〜っ!」
それは、文化祭の企画だった。
とりあえず喫茶店をやることになったのだが、それだけでは面白くないと言うことで、ギャルソンとメイドとを配置することになったのだ。性別を逆にして。
つまり、女子がギャルソンで男子がメイドなのだった。
必要なとき以外は絶対にその格好はしなかったのに、いつの間に写真を撮ったのだろう。
文化祭が終わった瞬間、地獄の責め苦から解放されたような気がしたのに。
責め苦がこんな形で続くなんて。
「絶対探し当てて、捨ててやる」
ぼそりと決意を表明する要に、一馬は更に勝ち誇ったように笑う。
「いくらでも焼き増ししてくれるって」
「勝利……!」
これほどの嫌がらせはない。
要は、中学3年来の親友にはじめて殺意に近い怒りを覚えた。
それなのに、仮保護者は尚も、「無理してでも行けばよかったな」などとぶつぶつ呟く始末。
「まだおとなしくしてろって、言われてるじゃないか」
「でも、もう体調も平気だし、こっちももう、塞がってはいるんだよ」
と、一馬は右手をポケットから引きずり出す。
奇跡的に、握力が落ちるぐらいで済んだ傷。日常生活に支障はないということだ。
傷痕は残るらしいけれども、そのぐらいで済むならいいだろう。
あの日、櫛引の敷地で意識を失ったあと、一馬は三日間眠ったままでいた。
右手の傷からの失血、と説明されたけれども、きっとそれだけではなかったはずだ。
それからあとも、一応一週間ほど安静を申し付けられていた。
今現在、一馬の顔に湿布が当てられているのは、数日前に訪ねてきた吾妻に一発殴られたからだ。
それ以外はもう、体調に支障はない。
「そうやってすぐ調子に乗る」
安静生活から解放されて、心なしか浮き足立っているような一馬に、要は嘆息した。
もう一週間ぐらいベッドに縛り付けられていれば、平穏だったのにな。
目が覚めたあと、本当に何もなかったかのように、一馬はけろりとしていた。
あの日の雨のことや、櫛引のことや、夢喰いのことは何も言わなかった。
だから逆に、要も何も訊けなかった。
本当は、訊きたかったのに。
ねぇ今も、死にたいって思ってる?
そんなことを考えていても、仕方がない。
気を取り直してふと顔を校門のあたりに向けたとき、要は見覚えのある人影を見つけた。
門に背中を預けてぼんやりしていた彼と、目が合う。
「よ。待ってたんだ」
呉仁はそう言って、門から体を起こした。
*
「俺さ、苗字変わるんだ」
唐突に仁がそう切り出した。
ズボンのポケットに両手を入れたまま、少し気だるそうに立ちながら。
とてもすっきりした顔をしていた。
「正式に、呉じゃなくなるんだ」
そりゃあ、生活はしていけないから、一応生活費はまだ呉から出してもらうことになるけど。
そういう状況も早く何とかしないとって思うし。
少し照れくさそうにそう言ったあと、仁は真っ直ぐに、要を見た。
「俺はもう、この力とは関係なく生きてこうって思ってる」
呉とも銀とも、櫛引とも、関係のない場所で。
―――賭けをしていたの。私たちはこうして、生きていたほうがいいのか、死んだほうがいいのか。
救急車に運び込まれる直前、要は女の声を聞いた。
体中のあちこちから血を流しながら、蒼白の顔で、仁に支えられていた女のひとの。
―――充は、生きていたいって言ったのよ。私と充はどこか似ていたから、どんなふうに生きるのか、みせてって。
『もしも君の望むようなものが見えなかったら、僕を殺せばいいよ』
そういう契約を、していたのだと言った。
どういう気持ちでそういう約束をしたのか、分からなかったけれど。
とても、痛々しい。
「お姉さん、は?」
それは、訊くのに少し勇気のいる質問だった。
明らかに隣の保護者よりも重症だったはずだから。
「お陰様で」
それでも仁は、大人のような返事をした。
「まだ、喋ってはくれないけど、体調のほうは快方に向かってるし、こっちの話は聞いてくれるし。まだ療養は必要みたいだけど。櫛引は―――」
その名前を口にした瞬間、周囲の空気が少し変わった。
とにかく、要は自分のすぐ隣の空気が張り詰めたのだけは感じた。
一度俯いた仁が、その空気を察知したように上げた顔を今度は一馬に向けた。
「櫛引は、まだ目ぇ、覚まさないよ。それが不幸なことなのか、そうじゃないのか、俺には分かんないけど」
その言葉を受け止めて、飲み下すように一馬は一度頷いた。そうか、ありがとう、とだけ言った。
「ああ。それから、水ノ瀬葵」
ぱっと顔から暗い表情を消して、仁が次の名前を口にする。
水ノ瀬葵。それは、櫛引の新しいクランケの名前だった。あの日、あの場にうずくまって眠っていた少女の名前だった。
「なんも、覚えてないってさ。でも、気が狂ってるわけじゃない。しっかりしてるよ。櫛引は結局、喰わなかったのかな。今は別の医者にかかって、いい方向に向かってるって、聞いた」
良かったよな。人懐こい犬のように、仁が笑った。
「そんだけ、知らせたくて。そろそろ行くよ。木葉が怒るから」
そういうと、呆気なく仁は踵を返した。それじゃあ、もさようなら、も。
口からは出てこなかった。どちらの口からも。
もっと、色々なことを話せればよかったのにな、もう会うことはないのかもしれないけど。
要は不意に、そんなことを思った。
「そうだ」
数歩あるいて、仁が振り返る。まだ、しっかりと声が届く距離にいるのに、なぜか声を張り上げる。
「銀都佳沙にさぁ、言っといてよ。俺本当は、あんたのこと嫌いじゃなかったんだって!」
そういえば分かるからさ。
「仁くん」
再び歩き出そうとする仁を呼び止めたのは、一馬だった。
要は少し驚いて、隣を見る。驚いたのは仁も同じようで、きょとんとした顔で一馬を見ていた。
「新しい苗字は、なんていうの」
一馬は、たったそれだけを訊いたのだ。
仁は一瞬、言葉の意味が分からないようにぽかんとして、それから笑った。
「山内。すっげーフツーだろ!」
なぜか、誇らしげにそう言って、また歩き出した。
*
雅や都佳沙は、銀の内部のことは殆ど教えてくれなかった。
自慢げに教えてあげられるほど、格好のいいことじゃないよ。都佳沙はそう言って苦笑していた。
ただ、当主が斎から正式に始に代替わりしたことだけは、教えてくれた。
一馬はそれを聞いて、「斎おじさんに謝りにいかないとな」とだけ言った。
通学路には、緩やかな坂がある。
登校時には下り、帰宅時には上らなければならない傾斜だ。
その坂に差し掛かったあたりで、急に要の足取りが重くなった。
「……あのさ」
「ん?」
後ろから聞こえてきた言葉に、振り返らずに相槌を打つ。
「都佳沙とも、話したんだけど。銀の家で、この力の使い方、教えてもらうことにしたんだ」
背後から、夕日がまぶしく差して、足元に影が長く伸びた。
「何が出来るのかは、分からないけど。この力と付き合っていこうって、思えるようになったから」
人気のない道路に、足音だけが重なって響いていた。
空気がどこか、緊張して、張り詰めていた。後ろを歩く、要の空気。
やがて、片方の足音が、止まった。
しばらく先に進んでから、一馬もまた立ち止まり、振り返る。
要が真っ直ぐに、こちらを見ていた。
「ねぇ、カズマ」
硬い表情と硬い声で、要が呼んだ。返事が出来ず、ただ見つめ返す。
さぞかし滑稽な光景だったろう。
上り坂で立ち止まって、一定の距離をおいて対峙している光景なんて。
けれどそのとき、はかったようにその場所には、誰もやってこなかったのだ。
名前を呼んでから、しばらく要は切り出さずに黙っていた。
急かさずに待っている間にも、自然と緊張が伝染してくる。知らぬうちに、脈が速くなっているのが分かった。
やがて、要は決意したように一度瞼を閉ざして、もう一度真っ直ぐこちらを見た。
「僕、家を出ようと思ってるんだ」
緊張と、怯えと、決意とが混ざったような芯のある声だった。
もう、決めてしまっていることだと思った。
「そうか、英さんもそろそろ、完治しそうだしね」
普通はそうだ。血縁が一緒に暮らすほうが、普通なんだろう。
それだったら、こっちの出る幕はないよ。
納得しようとしたところで、要は首を横に振った。違うよ。
「もちろん、今すぐじゃなくて、大学に入ってからだけど。どのぐらいできるか自分でもまだ分からないし。だけど」
だけど。
「ひとりで。ひとり暮らし、したいと思ってるんだ」
そうか。
あまりに呆気なく返事をしている自分自身に、一馬は戸惑った。
麻痺しているんじゃないかと思うぐらい、あまり何も感じなかったのだ。
こんな日が来ることを、想定していなかったわけではない。
いつまでも一緒にいるなんてことはありえないのだから。
考えなかったわけではなかったけれど。道が分かれてゆく日を。
それでも。想像していたものとは、何かが瞭かに違っていた。
もっと。
もっと辛いのかと思っていた。
いつか訪れるであろう別離は。
こんなにも自分は、この少年に依存してきたから。
もっと、痛いのかと思っていた。
悲しいものかと。
こんなふうに、訪れるなんて。
(ああ、そうか。勘違いしていたんだ)
不意にぽたりと、雫のように答えが落ちてきて、納得して、まるで目から鱗が落ちる気分を味わった。
そうか。
とても、視野が狭かったんだな。
別れと聞いたら、すぐに「最期」という言葉を思い出していた。
もう二度と、会えないものだと思っていたんだ。
別れって、そういうものだと思っていた。
その先に続く道や、いつか交わる場所があるなんて、考えることも出来ずに。
悲しみしか残らないもんだって。
でも別にもう、会えなくなるわけじゃない。
ただ少し、生活する場所や時間が変わるだけで。
だから、寂しくても、悲しくはない。
終わりではないんだ。
「その前に、受からないと話にならないぞ」
また、そんなことを言っていつもと同じようにからかう。
すると途端に不機嫌な顔になるのだ。むきになるから。
「分かってるよ!」
あたりを包んでいた緊張が解けた。
だから頑張るって、言ってるじゃないか。
折角真面目に言ったのに、と要は勢いよく歩き出した。まるで、足かせが外れたように自由だった。
簡単に追いついて、簡単に追い越す。
不意に自分の傍を通り過ぎた少年の背が、随分と高くなったように感じてしまった。
それはそうだ。
不変でなんか、いられないよ。
正直、何が変わったのかと聞かれたら困ってしまうけれど。
相変らずこの力は疎ましくて、認めるなんてとんでもないことだけど。
現金なことに、今すぐ死んでしまいたいとは思わなくなった。
生き残るのは辛い。でも。今は生き残りたい。
苦しまずになんて、生きていけないよ。
それは誰も同じ。
「明日は姫架さんに付き合って出かけるんだよね」
坂を上りきって、少し大きな道路に出たところで信号に引っかかった。
追いつくと、要がそんなことを言う。
「姫架さん怒ってたから。頑張って」
先程の仕返しのつもりなのだろうか、要が少し悪戯っぽく笑った。お得意の小悪魔の笑顔だ。
頑張るよ。苦笑して、言った。
姫架にも、ちゃんと謝らないといけないな。
「あ」
信号が青に変わったところで、突然要が声をあげた。
「塾の資料、貰いに行かないと」
「塾?」
「前に言っただろ。塾に通いたいって。もう忘れたの?」
「ああ、そういえばそんなこと言ってた」
ような、気がする。あまり覚えていなかったが、そこまで言えばまた「耄碌」といわれるので黙る。
「じゃあ、僕こっちだから」
と、要は家とは反対側の道を指差した。
言うなり、さっさと歩き出してしまう。別の方向へ。
少し歩いて振り返ると、大人びた顔で言った。
「それじゃあ、またあとで」
たとえ、別の道を行くときでも、べつに挨拶は「さようなら」だけじゃないんだ。
そんな当たり前のことも、今まで気付かなかったのかな。
べつに、これが最期じゃないよ。
ああ、と応じた。
またあとで。
<了>