Epirogue
バンッ、と激しく扉を開ける音がした。
一馬はそれを微睡みの中で聞いた。まだぼんやりと遠い。
どすどすと足音が近づいてきた。ベッドのすぐ脇を通り抜け、窓際まで近づいてゆくらしい。
とろとろと微睡みながらそれをどこか遠くのものとして感じているうちに……。
シャッと音がしてカーテンが開け放たれた。刺すような強い日差しが容赦無く入り込んでくる。
季節は秋とはいえ、今年は酷暑を引きずっていて、まだかなり暑い。
顔に思いっきり直射日光を浴びて、一馬は慌てて布団を被―――ろうとして、自分の上に既に掛け布団代わりに使っていたブランケットがないことに気づく。
あれ、とぼんやりしているうちに。
「いい加減にしてよッ!!」
耳元で怒鳴り声がした。
声変わりはしたものの、まだ幾分か高い声だ。
「今何時だと思ってんのさ!?」
「…………何時なんだ?」
「――――――」
半分寝惚けたまま、ベッドの上で上体を起こす。目蓋が半分しか開かない。
しかし、一馬の返答は、至極同居人を怒らせたらしかった。
ぴきぴきと額に青筋が増殖した。
「12時だよッ!! 何考えてんの!? ダメ人間ッ!!」
立て続けに罵声を浴びせられて、流石の一馬も目を覚ました。ようやく覚醒したらしく、ベッドの脇に立つ要を見上げた。
「あれ……俺、曜日までボケてんのかな……今日って日曜じゃなかったっけ?」
「…………そうだけど」
"不機嫌"というオーラを全身にまとって、要が本当に小さな声で返した。刺が生えている。
「それ、制服だよな? 俺、目までおかしくなったのかな……」
すると、要はつかつかと寝室の隅まで歩いていくと、そこにかかっているカレンダーをむんずと捕まえて、一馬の目の前に突きつけた。
「今日が、何番目の何曜日か、どんなに寝惚けてても分かるよね!?」
「第二日曜日、です」
勢いに圧されて一馬は蚊の鳴くような声で言って、自分の声で気がついた。
「ああ! そっか」
ようやく納得が言ったらしい一馬にカレンダーを押し付けて、要は踵を返した。
「そういうことだから。行ってくるね。帰りに文化祭の準備、手伝いに行ってくるから。帰りは遅くなるかも」
「おー。まぁ、その」
一馬が言いよどんだので、要が肩越しに振り向いた。
「宜しく、な」
言葉を捜しあぐねた挙句にようやくそうとだけ言った。
なんだかおかしくなってしまって、要は小さく吹きだした。
「行って来ます」
改めてそう言って、要は部屋から出て行った。階段を降りる足音が次第に遠ざかる。
やがて玄関の扉が開く音がして、すぐに閉まる音がした。
あれから、3年―――か。
もそもそとベッドから降りて、大きな欠伸をしながら思った。
毎月第二日曜日になると、いつも考えてしまうことだった。
要は2年ぐらい前から、毎月第二日曜日に、いまだ治療中の父を見舞うことにしている。
最近は色々話も出来るようになったのだと、嬉しそうに言っていたのを思い出した。
ぎこちないんだけどね、と付け加えたがそれは仕方ないだろう。あの父子の父子らしいやり取りは2年前からはじまったと言っていい。
少しずつ周りの状況は変わっている。いつまでも3年前の、お互いしか寄る辺がないような関係ではなくなってきた。
色々あったものの要は学校にもなじみ、友達も出来た。13年、囲いの中に隔離されてきたと思えば、とても優等生だろう。
(俺は何か、変わったかな)
などと、少し自嘲気味に思ってしまう。自分だけがあの頃のまま取り残されてるような気もする。
実は一馬は、あれからあと何度かヒカリに会っている。
要を引き取ってこの家で暮らすようになってからも不安定な状態は結構長く続いた。
今でこそヒカリは全く出てくることがなくなったが、引き取った直後は頻繁に現れて、徐々にその間隔が広まっていっただけなのだった。
一ヶ月、三ヶ月、半年と間隔が開き、最後に話をしたのは恐らく1年ぐらい前。それから後は、今のところ沙汰がない。
物も壊されたし怪我も負った。しかしそれは、要が"要"であるときも変わらなかったので別に気にならなかった。……被害はヒカリの方が少し大きかったが。
要は自分でもどうしようもなく感情を持て余しては暴れ、噛み付かれたことも一度や二度ではなかった。
安穏と過ぎた3年でも、なかった。
―――あの時おれ、要の声を聞いたんだ。たすけて、たすけてっていう声。だから、消せなかった。要のこと……。
(うん)
―――あのさ、一馬。まだ要には、あの話しないんだ?
(……ああ)
―――要が信じられない?
(違うんだ。まだ、自分自身の中でケリがついてない。ケリがついたら……)
―――おれさ、もう大分穏やかなんだ。別に無理して出てこないわけじゃないんだ。眠って起きる間隔がだんだん広くなってる。もう、要に必要なくなってるんだって、思うよ。だけど、万が一って思うから、消えちゃったり出来ないんだけど……。もしかしたら会うのはこれが最後かもね。
お互い、もう弱くはないんだと思う、と付け加えてヒカリは消えた。
そうかな、と一馬は思った。
俺は多分、弱いままだ。
*
この人なら大丈夫だと手をとったはずだったのに、それでも不安は完全には消えていなくて。
どうしようもなく不安になって、ものに八つ当たりしたこともカズマ自身に八つ当たりしたこともあった。
特に1年目は酷かった、と振り返って要は思う。
それに比べて今は随分落ち着いていて、周りの環境もだんだんいいほうに転がり始めているような気がする。
淀んでいた空気が再び流れ始めたような。
3年で身長も20センチ以上伸びたし、とも思う。身体的な成長が全てではないけれど、昔とは違うと胸を張って言えた。
ぼんやりとそんなことを考えながら要は白い廊下を歩いていた。
この病棟の、一番奥の扉の向こう。それが要の目指す場所だった。
初めてここを訪れたときは、足がすくんで扉を開けることも出来なかった。
扉を開けて入ったものの、会話をするまで3か月かかった。
他愛のない日常会話や学校のことが話せるようになるまでにはまた3か月かかった。
最近は、少しは家族らしい会話が出来ている……と思う。何しろ家族というものをテレビなどのメディアでしか知らないので「標準的家族」とは比べられないのだが……。
「あ、要くんこんにちは。そろそろ来ると思ってたわ」
検温を終えたらしい看護婦が、目的の扉から出てきた。
こんにちは、と丁寧に頭を下げた。
看護婦が向かいの病室に入ってゆくのを見届けてから、要は一度深呼吸した。
まだこの扉を開けるのに、少し勇気がいる。
右手の指の骨で、扉をかつんかつんと叩いてみた。少しして「はい」と声が返った。
(せーのっ!)
と自分に掛け声をかけて、要は横滑りの扉を開いた。
がらがら、と扉が開く音に、ひとつしかないベッドの主がこちらを見ているのが分かった。
「お父さん、入るよ」
声をかけると秀一郎が頷いた。そのたびに、要はいつもわけもなく泣きたくなった。それを押し殺して、何とか笑う。
後ろ手で扉を閉めた。ふたりきりになるのは、もう殆ど怖くなかった。
「変わりないか」
傍にきた要を見上げて、少し緊張した声で秀一郎が聞いてきた。
ベッドから出した右手で、要の右腕をそっと、掴んだ。
その温もりに泣き出しそうになりながら、要は「うん」と頷いた。
あのね、高校の、文化祭が近いんだ―――。
*
状況はいいほうにいいほうに転がっている。
最近まではそう思っていた。
しかし、この間要は知ってしまった。夢喰いが夢を食むわけを。
そこから、何か少しずつ食い違っているような気がする。違ったのが周りなのか、それとも自分なのか……。
全てが違ってきたと自覚したのは、半月前。櫛引充という男と出会ってからだ。
ここのところ平穏無事だが、ここから先はまだ分からなかった。
そして要はここのところ良く思い出すのだ。何かの予兆のように。
3年前のあの日、一馬に連れられて海へ行く途中の車内。
一馬が言った言葉。あれはどういう意味だったのだろう?
『要にだけ教えるから、秘密にして』
そう前置きして、一馬が小さな小さな声で呟いたあの……。
―――俺はね、人を殺したんだ。
<了>