1.
「お隣、かまいませんか?」
鈴を転がすような声がかかった。
アカデミーの中庭にある、噴水のそばだった。
中庭の至るところにベンチが置かれ、学生たちの憩いの場になっている。
ロキエルは本から顔を上げ、周囲を見渡した。
空いているベンチもあるのに、何故だろう?
そこでようやく相手を確かめ、絶句した。
吹く風に亜麻色の髪をなびかせて立っていたのは、美しい女だった。
唖然と言葉を失っているロキエルに微笑みかけ、女は隣に腰を下ろした。
「オーガスタ姫……」
アカデミーを抱く学園都市サージェントを治める侯爵のひとり娘、オーガスタだった。
供も連れず、何故このような庶民の隣などへ。
「シグルドがお世話になったと聞きました」
横からこちらを覗き込み、中央まで名の知れた美姫は言った。
ロキエルは、先日訓練所で剣を合わせた少年のことを思い出す。
未だ成長途上の細身の体躯ながら、見事に剣を使う。この一帯を治め、サージェントすら統治下に置くラッセル公爵のひとり息子、シグルド・クロリア・ラッセル公子。
そういえば、オーガスタと彼は従姉弟同士だったはずだ。
「シグルドは、これまでほとんどラッセル城から出たことがありませんでした。それゆえに、驚かせてしまうようなことも仕出かしたと思います。ご不快に思われてなければよいのですが」
姫は、秀麗な顔立ちを曇らせた。
ロキエルは危うく、本を取り落とすところだった。
「……公子との手合わせは、楽しかった」
身構えるのも忘れ、本音をこぼしてしまった。
「よかった」
ぱっとオーガスタが笑顔になる。あまりのまぶしさに、目が眩みそうだった。
「シグルドもとても喜んでいました。世間知らずな面もありますが、貴方さえよろしければ、仲良くしてあげてください」
「……それでいいのか?」
「え?」
問い返すと、オーガスタは不思議そうに首をかしげた。
ロキエルには信じられなかった。夢か何かかと思った。
今まで受けてきた様々な仕打ちを思い出していた。
そして、残虐な心地にもなった。綺麗事を振りかざすつもりなら、反吐が出る。
「公子はこれからラッセルを継ぐことになるんだろう? そんな高貴な坊ちゃんを、どこの馬の骨ともわからない男に近づけてもいいのか? 危ない遊びでも吹き込むかもしれないんだぜ」
「だからこそです」
きっぱりと、オーガスタが返した。
尚更わからなくなった。
だからこそ?
「シグルドはラッセルを継ぐことになるでしょう。だからこそ、周りの人々すべてにかしずかれて育つことがいいことだとは、わたしは思いません。ただでさえ、今まで真綿でくるまれ、庇護されて育ってきたのです。性根が曲がっているとは思いませんが、家の名前がいつでも自分を守ってくれると誤解させたくはないのです」
投げ返された言葉の奔流に、ロキエルは呑まれてしまった。言い返すこともできなかった。
本当にこれが、今まで遠目に見てきた姫君なのだろうか。
いつも供のものや取り巻きに囲まれ、苦痛やかなしみなどから完璧に遠ざけられて、この世の春ばかりを謳歌していると思っていたのに。
「なので、すこし安心したんです」
オーガスタが表情を和らげる。
心地よい風が、姫の亜麻色の髪を揺らして過ぎてゆく。
風に導かれるように、オーガスタはよく晴れた空を見上げた。
「アカデミーでは、ラッセルの名は殊更まぶしい光を放ちます。今まで触れ合ったこともないほどの貴族の子弟たちと共に生活をすることになる。シグルドは己に厳しい子ではありますが、何年も周りから持ち上げられ続ければ、いずれ自分の名の持つ力を知るでしょう。それを頼りにするかもしれない。貴族たちの考えが、この世の中の平均だとは、思って欲しくない。だから」
空から視線を引き戻して、オーガスタはまっすぐにロキエルを見つめた。
「貴方のように、彼を神の如くに崇めない友がいてくれればと、願います」
「友、なんて」
おこがましい。
まぶしい笑顔を直視できずに、ロキエルは目を伏せる。
オーガスタは目を細めて微笑んだ。
「そうなってもらえればと、思っているのです」
パタンと本を閉じ、とうとうロキエルは噴き出してしまった。
「あんたって、実はとんでもない姫様なんだな」
「メリアにもよく、そう言って叱られます」
「メリア?」
「わたしの乳母です」
オーガスタは小さく肩をすくめた。年相応の、少女の振る舞いだった。
ロキエルは、シグルドに引き起こされたときのことを思い出していた。
血筋だけで、相手を別の生きもののように思っていた。住む世界が違う、違う人種なのだと。
余分な力が抜ける感覚を、また味わった。
「なるほど。お付きの方々の胃が心配になるよ」
いつもの減らず口が出てしまう。
オーガスタは怒りもせずに、ちいさく笑った。
「それでも父は、おてんばなわたしのほうが好きだと言ってくださるので」
「……サージェント候がか?」
「わたしの考えは、すべて父の受け売りです。だから父も、シグルドに同じことを望んでいると思います。もちろん、伯父様――ラッセル公爵も」
「そんなもん、かな」
いささか出来すぎているような気がした。そんな綺麗な話が、まかり通るものだろうか?
話と娘のまぶしさに耐えかねて、ロキエルはふいっと顔を背ける。
「シグルドのこと、よろしくお願いします」
視界の端に、真摯なオーガスタの瞳が映った。
*
「そんなことがあったんですね……」
隣を歩く娘が、大げさに相槌をうった。
「つまらない話だったんじゃないかな?」
南町へ続く石畳を踏みながら、ロキエルは苦笑する。
「いいえ! とっても楽しかったです! シグルドって昔からナマイキだったんですね!」
シグルドと旅を共にしているという少女は、両の拳を握ってロキエルを見上げた。
必死に会話を続けようとする意気込みが、その様子から伝わってきた。
「あんまり大きな声でその名前を出さないほうがいい」
「あっ」
ロキエルが冗談めかして人差し指を立てると、ルクスが慌てて自分の口を押さえた。
息を殺し、すばやく周囲を見渡すも、足を止めたものはいなかった。昼間の人通りの多さが幸いしたようだ。
「ご、ごめんなさい……」
ルクスが両手で口を覆ったまま、もごもごと詫びた。
「気をつけてくれれば大丈夫だよ。特に今は、皆がその名前に敏感になっているからね」
「はい……」
少女が大きく肩を落とす。可哀相なぐらいしょげ返っている様子を見て、ロキエルは身を屈め、その顔を覗き込んだ。
「あいつは生意気かな?」
「えっ!?」
間近から顔を覗き込まれ、ルクスが赤面する。持ってきた地図を胸に引き寄せ、一歩後ずさりをした。
「えっと、ナマイキっていうか、その……」
「気を遣わなくてもいいさ。私も姫も、彼には好き勝手なことを話しているんだ」
優しい声で促すと、ルクスがようやく警戒を解いた。抱きつぶした地図を広げ直し、小さくうなずいた。
「ナマイキとは、少し違うかもしれません。でも気難しくて、頑固で、ぜんっぜん空気が読めないし……」
「はは、相変わらずみたいだな……」
「……でも、すごくまぶしいんです」
石畳を踏む足元を見下ろして、ルクスがつぶやいた。
「いつだって前だけを見ていて、たくさん痛い思いをしてるはずなのに、一歩も足を退かないの。あたし……」
ぴたりと、ルクスの足が止まった。
「時々、わからなくなるんです。一緒に旅を続けていいのか。彼には目的があって、ヴァンにもゲルダにも、一緒に行く理由があるんです。でも、あたしには……」
「……目的がない?」
「はじめは、あったんです。村を焼いた仇だと思ったから……。確かめたかった。復讐だって、したかった。だけど今は、もう」
ルクスの手が、不意に腰の後ろに回った。そこには、華奢な少女には不似合いな短剣が下がっている。ロキエルは豪奢な装飾の中に、ラッセル家の家紋を見つけた。
「あたしには、使い方だってわからないのに。自分の身を守る力もなくて、足手まといになるかもしれない。つりあわないんじゃないか、って……」
「ルクス……」
「……何話してるんだろ、ごめんなさい」
短剣から手を離し、ルクスがぱっと笑った。
「南町ってこのあたりですよね? あとは大丈夫です! ……たぶん」
「本当に、大丈夫?」
「はい! あたしも少しぐらい、自分で頑張らないと!」
ルクスは不安げな表情をぱっと消し、両の拳を握り、意気込んで見せた。そのまま、深々と頭を下げる。
「忙しいのに、ありがとうございました!」
呼び止める間もなかった。少女はくるりと身を翻し、路地の奥へと消えて行った。
小動物めいた機敏さだった。ルクスの消えた路地を見つめ、ロキエルは小さく苦笑した。
素直でいい娘だ。だからこそ、戦いの只中にいるのが正しいことなのか、ロキエルにもすぐには答えが出せなかった。
ドラゴンに生まれた村を焼かれた少女。たったひとりで彷徨っていたところを、シグルドが拾い上げたのだと聞いた。まったく、シグルドらしい。きっと彼は、拾い上げて”やった”などとは、欠片も思っていないに違いない。
上から手を差し伸べたわけではなく、同等の立場として、同行を許した。きっと、そう言う。シグルドは公爵の血筋に生まれ、アカデミー入学の為に城を出るまで、父と母以外の人間すべてに傅かれて育ったとは思えぬほど、階級意識が希薄だ。
それは、従姉であるオーガスタにも通じるが、彼女より無自覚な分、時としてたちが悪いものでもある。
貴族としての義務や自覚はきちんと備わっている。むしろ実直すぎて、見ているほうが息苦しくなるほどだ。貴賤を問わず、相手を個人として接する態度は、決して誰でもできることではなく、それ故にロキエルは今、彼と気の置けない付き合いをしていれられるのだが……。
うまく言葉にできない。しかし、時折シグルドは眩しすぎる。
(しかし、辺境の村を焼いて、カリストフは一体何をするつもりなんだ……?)
目的が見えない。イル・ラッセルを制圧下に置いたまま、公には事を起こしていない。このまま、アスガルド全土に宣戦布告でもするのかとも思ったが、その後ドラゴンは気まぐれに現れては、自然災害の如く、無差別な破壊をもたらしては消える。
まるで、破壊そのものが目的であるかのように――
城へ戻ろうと踵を返し、ロキエルは息を飲んだ。
背後に、いつの間にか人影がある。
「奇遇ですね、聖騎士殿」
人影は、和やかに言って、口元に笑みを浮かべて見せた。
頭のからつま先まで、黒に覆われている。そのなかで、血色の悪い肌と、爬虫類めいた金色の瞳ばかりが、ぼんやりと浮き上がっている。
顔立ちは整ってはいるのだろうが、長く伸ばされた髪に左半分を覆われた、青白く生気のない顔は、見るものに陰鬱な印象を与えてくる。
まるで、大蛇のようだ。
カリストフ伯爵直属の黒旗騎士団、その参謀を務める男、アルヴィース。
素性を調べさせたが、何もわからなかった。そう、何ひとつ。
経歴がない人間など、存在するはずがない。意図的に消さぬ限りは。
(やはりこの男……)
裏がある、おそらくは。
奇遇だと言うが、そんなはずがあるものか。陰鬱な顔にもっともらしく浮かべた笑顔が余計に怪しい。彼らはおそらく、サージェントにシグルドがいることを確信している。
監視されているのか。
「アルヴィース殿こそ、おひとりですか?」
気づけば、己の口元にも社交用の笑みが浮かんでいる。いつの間にか、こころとは裏腹の表情で駆け引きができるようになってしまった。昔は嘘が下手だと散々言われたものだが、。
「いえ、サージェントは初めてなものですから。観光させていただいていました。ここは素晴らしい街ですね。開放的で、誇りに満ち満ちている」
アルヴィースは眩しげに、建ち並ぶ建物を見上げた。ロキエルは、黒衣の男が頑なに隠す左目が見えぬものかと目を凝らした。
醜く爛れているというが、何かを隠しているのではないのか?
「先程のお嬢さんは、お知り合いですか?」
不意に、建物を仰いでいたアルヴィースの隻眼が、まっすぐにロキエルを捉えた。
即座に反応ができなかった。漆黒の男が、口元の笑みをより一層深くする。
「……彼女が何か?」
慌てて笑顔を作り直したものの、失態を演じたのは明らかだった。ロキエルの動揺を、伯爵の参謀は決して見逃さないだろう。
「いえ、随分と年も離れているようだったので、妹さんかと」
「知人の妹です。サージェントの知り合いを訪ねて来ていたので、道案内を」
深い呼吸を心掛ける。跳ね上がった鼓動をなだめすかす。
落ち着け。飲まれてはならない。隙を、与えてはならない。
敵は何らかの意図があって、こちらを尾けていたに違いない。ルクスが何者であるのか、既に知っている可能性もある。対応を誤れば、シグルドたちのみならず、サージェント全体を危険にさらすことになる。
大蛇の隻眼を、まっすぐに見つめ返した。
「おや、獅子軍の軍団長ともあろうお方が。お忙しいでしょうに」
「四六時中、城に詰めているわけではありません。それに、人々の役に立つことこそ、騎士の本分ですから」
男は、柔和な笑みを浮かべた。無垢で愚かな幼子に向けるような、微笑ましさと呆れがない交ぜになった顔に見えた。
「さすが、騎士の鑑ですね」
「勿体ないお言葉です」
「ご謙遜を。身分を問わず、貴方に期待を寄せ、憧れる人々は多いと聞きますよ。姫が頼りにされるだけのことはある、と。巷では、貴方と姫の仲を勘繰る者たちもいるとか」
「……笑えない冗談ですね。姫は私の主君です。そのようなことは――」
「そうでしょう。身分が違いますからね」
ぴしゃりと、アルヴィースが言い捨てた。立ち話の姿を借りた腹の探り合いにしては、語調が強い。
そしてそれは、ロキエルの感情のおもてを、ゆるやかに逆撫でした。
「姫は元来、わけ隔てのない方でいらっしゃるのでしょう。傍から見ていると、少々度が過ぎて見えるほどです」
「……アルヴィース殿」
己の喉から絞り出された低く剣呑な声音に、ロキエル自身が困惑した。
自分のことならば、何を言われても構わない。蔑まれることも、妬みややっかみの的にされることも、慣れたものだ。ただの雑音として処理ができる。
しかしそれが、オーガスタのこととなると、話は別だ。
(彼女は私とは違う。力任せに謀反を起こした一味に、思想や生きざまをとやかく言われる謂れなどない)
あからさまな挑発だとしても、オーガスタを貶めるのならば、容赦はできない。知らず、剣の柄に手がかかった。
「ああ、気分を害されたでしょう、申し訳ありません。他意はないのですよ。私も貴族の生まれではありませんので、姫の理想が眩しく、この街が少しばかり妬ましくも思えるのです」
「……妬ましい?」
「未だ些少な問題はあるにしろ、ここでは能力さえあれば要職に就くこともできる。貴方のようにね」
「それは、貴方も同じなのではないのですか? 貴族の生まれではないというのならば」
「ええ、そうですね。有難いことに」
あっさりと認め、アルヴィースは両手を広げ、肩を竦めてみせた。言葉とは裏腹に、あまり感じ入っている様子ではなかった。
「私は伯爵に拾っていただいたおかげで、こうしていられます。それゆえの忠誠心も確かにある。ただし私は、貴方ほどできた人間ではないので、きちんと”報われたい”のです」
「報い……」
「ええ。体面や常識、ましてや身分などのしがらみにとらわれない、素直な欲求です。自分で努力をしたぶんは、相応の報いが欲しい。私は俗っぽい人間です。忠誠心だけでは腹は膨れないものですから」
「……ならば、貴方には貴方の目的があると?」
「さあ? どうでしょうね? ただ、もし私に目的があるとしたら、伯爵のご意向と相反するものではないということです。今のところは」
「伯爵は、何をなさろうとしておいでなのか?」
一歩向こうまで踏み込んでしまった。これでは、サージェント側の人間が、カリストフの行いを感知しているのだと告げたのも同然だ。
しかし、退けなかった。明らかにアルヴィースは、餌をちらつかせてこちらを招きよせている。彼らの目的の、一端でも知ることができれば……。
「あるがままの姿に、戻そうとしておられるんですよ」
「……あるがままの、姿?」
「そう、この世界をね」
「……」
「お引き留めしてしまいましたね。私はこれで失礼します」
芝居がかった所作で一礼をし、アルヴィースは歩を進めた。まっすぐにロキエルの隣をすり抜け、路地へと足を向けた。――南町のほうへ。
「ああそう、アレス軍団長」
すれ違いざま、囁きが残された。密やかで、どこか甘みすら感じさせる声音が。
「”草”には、どうぞお気をつけを――」
2.
「草?」
サージェント城の居住区奥、ひとの出入りを厳しく制限した区域の一室で、シグルドはその名を聞いた。
「はい。どうやら、サージェントを中心に出回っている、麻薬……のようなのですが……」
主の座る椅子の傍らに立ったフェスタ―は、形のいい顎に右の指先をあてて、苦い顔をした。
「麻薬?」
「恍惚感、多幸感、それに伴う酩酊。鎮痛作用などもあるようですが、依存性が強く、幻覚作用もあると聞きます」
「その草の、正式な名称はわかっていないのか?」
「詳しいことはわかっていないのだそうです。既存の麻薬のどれにも似ていない草のようで、新種もしくは掛け合わせで作りだされたものなのではないかと……」
「人為的な可能性もあるということか」
シグルドも目を伏せた。
偶然、そのような効果を生み出す草が発見されて、水面下で取引されているのかと思ったのだが、掛け合わせで生み出されたとなると、話は違ってくる。
誰かが、明確な意図を持って、流通させているということだ。
しかし何のために?
フェスタ―もまた、同様の疑問を抱いているようで、眉間に寄せた皺を更に深くした。
「サージェントは治安の良い街です。警備に当たっている聖騎士団も、決して無能でも怠惰でもないはずですが――」
「それでも、我々が原因をつきとめられずにいるのは事実。無能のそしりを受けても仕方がないわ」
扉が開き、服の裾を翻して踏み込んできた華奢な影がある。
シグルドと揃いの亜麻色の髪を背に流し、知性の宿る緑の瞳で、ふたりを見遣った。
「ジル」
「オーガスタ様……。口が過ぎました。どうぞお許しを」
「いいえフェスタ―、こちらこそ立ち聞きなんて行儀の悪いことをしてごめんなさい。それに、貴方の言う通りよ。草と呼ばれる謎の麻薬と、魔物の出現。これによって、今のサージェントは決して安全とは言い難いわ」
「……魔物が、城壁の中に潜り込むのか?」
サージェントは、街の四方を高い城壁に囲まれた城塞都市だ。昼間は聖騎士が警備に当たり、夜間は門を閉ざし、出入りを制限もしている。それゆえに、非常に治安のいい街として有名だったはずなのだが……。
「ええ。今までは決して街の中では見られなかったような魔物が、近頃は出没して、人を襲うこともあるの。侵入経路もわかっていないし、この近くでは現れたこともないような姿をしたものがほとんどよ。街の人々は、ドラゴンのせいではないかと噂して、怯えているわ」
「ドラゴンの?」
「――この二年の間に、ラッセルを中心としたあちこちで、魔物はやけに活発になっているんですよ」
シグルドに応えたのは別の声だった。低く、よく通る男の声。その主は、オーガスタの背後に姿を現した。
「お前は……」
「貴様、どうしてここに!」
シグルドとフェスタ―は、同時に気色ばみ、腰を浮かせた。
男はへらりと笑って、道化師じみた一礼をして見せる。
「若様も、騎士殿も、ご無事で何よりです」
くたびれた旅人の格好をした、得体の知れない行商。飄々としている割に隙のない、気味の悪い男。確か名はカイル。カイル・モーガンだ。
一礼の後、カイルはその冴え冴えとした青い双眸で、シグルドを見据えた。
「彼は私の協力者よ、シグルド」
「協力者……? ジル、この男を知っているのか?」
「シグルド様、ああ、ご無礼をお許しください!」
突然、目の前まで歩み寄ったカイルが、シグルドの前に膝をついた。
「今まで素性を明かすこともできず、さぞや怪しくお思いだったでしょう! ご紹介の通り、私は姫の命で動いていたのです。どれほど、どれほど! 心が痛んだか……。しかし、仕方がなかったのです。サージェントが表だって若様に力を貸すわけにはいかない……苦渋の選択でございました」
言葉の奔流に飲み込まれ、シグルドは面食らった。フェスタ―も同様で、いつでも剣を抜けるよう身構えていた体の緊張を、いつの間にか解いている。
しかし言葉は、並べれば並べるほど薄っぺらくもなる。特にこの男の、今までの行動を思えば、はいそうですかと丸のみできるものでもない。
「……ジル」
救いを求め、シグルドは従姉にまなざしを向ける。オーガスタは、小さく、けれどもしっかりと頷いた。
「本当のことよ、シグルド。彼に、貴方を助けてくれるよう、私が頼んだの。そして、これからの道案内もね」
「道案内?」
「ええ。先程も言った通り、今のサージェントは決して安全ではないわ。旅の疲れもあるでしょうし、もっとゆっくりしてもらいたかったけれど、そうも言っていられなくなったの」
「……黒旗騎士団がサージェントにいると聞いた」
「貴方を探しているわ。いつまで匿えるかわからない」
「わかっている。サージェントに迷惑をかけるわけにはいかない」
「……サージェントの為にあなたを追い出したいわけではないわ」
オーガスタは、悲しげにその大きな瞳を伏せた。従弟よりも、領地の人々の安全を取ったと思われるのは心外なのだろう。
「それでも、僕の存在が向こうに知れたら、二年間ここが黒旗騎士団の介入を防いできた意味がなくなってしまう」
カリストフがドラゴンを喚んでから二年。黒旗騎士団は、警備を名目に、周辺の都市に次々と兵士を送り込んだ。ドラゴンという恐怖を建前に、周辺都市への支配力と発言権を徐々に増していったのだ。
サージェントは、カリストフが本拠地を置くイル・ラッセルからは、それこそ魔物の力でも借りぬかぎり、裕に十日はかかる。その距離と、堅固な城塞・優秀な騎士団を有するという理由から、今まで黒旗騎士団の介入を退けてきた。
しかし、彼らの言う“大罪人”であるシグルドがこの街にいると判明すれば、黒旗騎士団には大義名分が生まれる。
――ドラゴンの脅威から、人々を守るという大義名分が。
「この街を、奴らの良いようにされたくはない。その気持ちは僕も同じだ。二年の間、サージェントを頼らなかったのも、伯父上やジルに迷惑をかけたくなかったからだ」
「シグルド……」
「サージェントを頼れば、たとえ危険があろうと受け入れてくれるのはわかっていた。だが、カリストフも真っ先にここを警戒するだろう。だからこそ二年、ここに近づくことができなかった。今回身を寄せたのは……」
シグルドはうつむき、己の右手を見下ろした。炎にも似た紋様が絡まりつく手の甲を。
「気が緩んだのかもしれない」
お伽噺だとばかり思っていた力を手に入れ、更に仲間を得た。それは、劇的な変化だった。生まれ故郷を追われ、親殺しの汚名を着せられ、姉代わりとたったふたりでさすらった日々は、シグルドの心を凍てつかせた。
見るものすべてを敵と思え、誰も巻き込んではならない、復讐を宿願とせよ。
挫けそうな心を叱咤するたび、シグルドは笑えなくなっていった。
人々の目や言葉に過敏になり、疑心暗鬼に取り憑かれ、襲撃を恐れるばかりの日々。憎悪にしがみつかなければ、立って歩くこともできなかった。
「サージェントを頼るのは甘えだと思っていた。だが、今は立ち寄れてよかったと思っている。ジルやロキが僕の味方でいてくれることだけでも、心強いぐらいだ。逃げ回っているだけでは、何も変えられない」
右の掌に力を込めて、拳を握る。一見空っぽの、何の変哲もない掌だ。今でもなお、この手に魔物を屠る力が宿っているなど、信じ切ることができない。思い通りには発現させられない力だ。それでも、ドラゴンイーターと仲間に、幾度も救われてきた。
今は進むことしかできない。
「おそらく僕たちの動きは敵方に筒抜けだ。ブリガンディアで、奴の手のものの襲撃を受けた。それから数日と経たぬうちに、この街に黒旗騎士団が現れるのは、タイミングが良すぎる。奴らはおそらく、仕掛けてくる契機を待っているに過ぎない」
「この件をきっかけに、サージェントの内側まで踏み込むつもりかもしれません。彼らは人心を煽る戦術を得意とする。もしもこの街にドラゴンが現れでもしたら、”竜殺し”の力を持つといわれるカリストフの介入を、民は拒みますまい」
「……そうね」
「しかし、城を抜けたとして、街の外へどうやって向かうのです? 夜間は城門を閉ざしていますし、黒旗騎士団も目を光らせているでしょう」
「ご心配なく、騎士殿」
気障ったらしい仕草で艶やかな金糸の髪を払い、カイルが得意げな顔をした。フェスターは胡散臭げに、オーガスタの協力者を名乗る男を見遣る。
手甲を当てた右手を左胸の上へ置き、カイルは不敵に微笑んだ。
「私は、そのための案内人なのですよ」
*
「こ、こんにちはー?」
ノックをしても、返事がない。
ルクスは意を決して、重厚な木の扉に手を掛けた。
鍵はかかっていなかった。耳に残る軋みをあげて、ゆっくりと扉が開く。
まだ昼間なのに、窓が閉め切られた室内はひどく暗い。開け放たれた扉の周辺だけ、ぼんやりと明るかった。
「えっと……フォルグ? ラルグ兄さん……?」
呼びかけるだけで、足が前に進まない。何故だろう? ルクスの足を縛るのは、畏れだった。
この闇の中に、息を潜めている何かが、いる。
服の内側で、胸元に下げた夜光石が、チカリと光った。
【つづく】