ゴモラの罪
1.
古めかしい鐘の音が、遠くに聞こえる。
街中に点在するちいさな教会の鳴らす鐘なのだろう。実際その教会がどこにあるのかなど、クレアは知らない。
この館の外のことなんて、知らない。
教会の大小も、距離も、どうでもいいのだ。ただその音が忌々しい。
やわらかなスプリングに右の頬を押し当てて、のどかな鐘の音に耳を澄ませる。
毎日、同じ時刻に鳴る。夕方の六時に。
四つ目まで鳴ったところで、クレアは閉ざしていた目蓋をゆっくりと開いた。
カーテンを開いたままの窓からは、夕陽が斜めに差し込んでいた。毛の長い絨毯をあたためるような、橙の光だ。今日もよく晴れていたに違いない。
また一日なにもせずに、ベッドの上で過ごした。
まわりには体調が悪いと告げてある。誰も疑ってはいないようだ。何しろニ日前の晩に、VIPルームに備え付けの、いわゆる支度部屋で倒れているところを発見されたのだから。
世話役の少女が時折気遣わしげに食事を運んできてくれる以外は、皆クレアを放っておいてくれている。食欲もなかったから、余計にうまく誤解してくれた。
体調が悪いわけではない。
おそろしかったのだ。
上等なベッドに体を横たえて、とろとろとまどろんではすぐに目が覚める。
寝台に乗ったままだというのに、ろくに睡眠もとれていなかった。
気を失う前に見た、冴え冴えとした青の双眸が、目蓋を閉じるとすぐさま蘇ってくる。
秘密を知ってしまった。
何よりもそのことがおそろしかった。
今日、カルチェ・ラタンを騒がせている異端者、ナフシオン。
顔や本名はおろか、年齢や性別の一切が謎に包まれている占い師だ。
滅多に人前には姿をあらわさず、姿を見せたと思えば、体のラインが分からぬゆったりとしたローブを身に纏い、顔を仮面で覆い隠しているという徹底ぶりだ。
顔を見られては困る理由があるのだろうと、人々はまことしやかに囁きあった。
ナフシオンの人気は、一介の占い師という枠を簡単に飛び越えて、最早信仰のように育っていたから、顔を曝すのは危険だったというのは、分かる。
教会の教義では、主以外の何者も仰いではならないからだ。
案の定、ナフシオンはすぐに異端者の烙印を押された。
異端者―――つまりはお尋ね者であるから、顔を明かすわけにはいかないのだ。占い師としての神秘性も高まる。
彼(または彼女)が顔を隠す理由を、世間一般ではそのように理解していた。
その程度の意味合いだろうと、クレアも思っていたのだ。
二日前までは。
見てはならぬものを見てしまった。
きっと、そうなのだろう。
厳重に隠されていた秘密が、あまりに呆気なく眼前で暴かれた。
目をそらすことはできなかった。
秘密は秘匿すべきものであると共に、甘美な誘惑でもあるのだ。隠されるほど暴きたくなる。
クレアは、あれほど完璧に匿われていた予言者の顔を、見てしまっていた。
そして知った。どうして厳重に覆い隠されていたのか。追っ手から姿を隠す以外の、もっとくっきりとした理由を。そして。
夜が来るのがおそろしくなった。
長いローブの裾を引きずって、やわらかい絨毯を踏みしめて、廊下を歩いてくる影におびやかされて、短い眠りから引きずり戻される。
暴いたものは例外なく口をふさがれるような、そんな類の秘密なのだ。
おそらく彼は―――クレアは予言者の性別を既に知ってしまっていた―――あの場にクレアがいたことに気づいているだろう。
消されるかもしれない。
否、おそらく消されるだろう。
野放しにしておくには、リスクが大きすぎる。
しかしクレアには、逃げ場が無い。
ここ以外の何処にも、行くところなど無いのだ。
予言者の影を恐れて館を飛び出したところで、一体何ができるだろう。
貴族として生まれ、鳥篭の内側に囲われてぬくぬくと育てられ、外界を知らぬままサロンに売られた。
クレアが知っている世界など、極々限られたものでしかない。
思い返してみれば、好き勝手に野外に出たこともなかった。
上等な家具に取り囲まれた部屋。長い廊下。それが、クレアが知っているすべてだった。
市井のルールも知らない。自ら金を稼ぐこともできない。
目の前に次々と積み上げられた貢物を持って逃げたなら、しばらくは凌げるだろう。けれども一生を養うにはすくない。いずれ尽きる。
勢いあまって魚が海から飛び出すようなものだ。呼吸の方法がわからなくなって、身動きもとれずに、すぐに死ぬ。
だからクレアは、仮面の男の幻影に脅かされても、ここにいる。
ひたひたと寄せてくる闇に怯えている。
どこか遠くの教会の鐘が、六つ打って、止んだ。
また、夜がやってくる。
2.
「やっぱりいない、か」
主の執務室にノックもなしにすべりこみ、正規軍東軍少佐、トクヤマ・シノブは深く嘆息した。
執務室は空っぽだった。予想していたとはいえ、落胆はしてしまう。
この部屋の主はもう数日、ここに顔を出してはいない。
「トクヤマか、どうした」
予想外の声が、右手側からかかった。
驚いて顔をそちらに向けると、見慣れたうるわしい姿を発見する。
「ジャンヌ様」
上官は、執務室内に設置された応接セットの、黒光りするソファーに座っていた。
普段は来客に紅茶を出すために使われている、ブランデー色のテーブルの上には、たくさんの書類が散らばっている。
「お仕事ですか」
「下には、上官の不在などかかわりがないようでな、閣下宛の書類がすべてここに置き去りにされてしまうのだ」
皮肉めいた笑みを口元にうかべ、ジャンヌはソファーを立った。
「すべて私のところに運べといっておいたはずだが、役所仕事とはこのことだよ」
「無用心だなぁ!」
テーブルの上に放置されている書類を見て、シノブは憤った。
ご近所の回覧板などではないのだ。神の兵たる正規軍の、軍大将宛の書類をぽいっと机の上に投げ出して行くとは。嘆かわしい。
「さすがに重要書類は事務局でとめられているようだが、簡単なサインですむものはこのとおりだ」
「大将は、休暇届を出してるんですか」
東軍大将ミカエル・シャイアティーンが姿を消してから、もう三日は経っている。
以前から休暇届を机の上に置き去りにしてふらっといなくなることが多々あったので、今回もそうかと―――そうであればいいと―――思っていた。
が、ジャンヌは小さく首を横に振る。
「出し忘れ、ならばいいんだがな」
それらしいものは何もないのだろう。シノブはしゅんと肩を落とした。
物憂げに視線を床に落とすシノブの傍らで、ジャンヌはテーブルに散らばった書類をまとめる。勤務時間は疾うに過ぎていた。昼間までは晴れ渡っていた空が、今は重くよどんでいる。
「……僕らにぐらい、話してくれればいいのに」
荘厳な鐘の音が、閉ざされた窓にもかまわずに、室内にとどく。
正規軍本部の背後に控える、教皇庁の鐘だ。六時に鳴る。
ぽつりとこぼして、シノブは、鐘の音がしみてくる窓を見た。
「僕はいつも、主君だなんだってうるさいですけど、誇張じゃないんですよ。家族のように―――まぁ、僕の本当の家族ってやつはちょっと特殊なんですけど、一般的なくくりでいう、家族みたいに思ってるんです。きれいなものばかりじゃないですよ、ひとなんて。だから僕は大将がなにものでもかまわないのに。信用されていないのかな」
シノブは饒舌だった。
普段からへらへらと締りがないように見えてはいるが、この男は隠密なのだ。あまり自分の本音をさらす男ではない。
ぽっかりと空いた空間に、じりじりと打ちのめされているのだ。
今まで、絶対に空くとは思わなかった穴なのだから。
「あの方はむずかしい方だ。おまえもよく知っているだろう」
まとめた書類の向きをととのえて、ジャンヌはシノブに向き直った。
シノブは、窓から上官へ、視線をうつす。忠犬を自称する彼の顔は、どこか捨て犬のようだった。
「すべてを自分で背負おうとなさる。大きな荷物であればあるほど、他人に預けようとはしない。それどころか、人の分まで勝手に持っていこうとする。そうは思わないか」
普段なら、黄昏時の陽光がななめに差し込んでくる執務室は、今はただ薄暗い。
窓に小石が当たるような音で、雨が降り出したのが分かった。
「我々はずいぶんとあの方に特別扱いをされているのだ。心配をかけたくないから、なにも言わない。逆に黙っていられたほうがこちらは気を揉むというのにな」
「……そう、ですね。大将は不器用さんでしたね」
上官とはいえ、実はジャンヌのほうが年下なのだ。すっかりと諭されている自分に気がついて、シノブは軽く頬を掻いた。
「我々は留守を守るだけだ」
きっぱりと、ジャンヌは言った。
大股に部屋を横切ると、水滴に濡れ始めた窓のカーテンを閉めた。
室内はさらに暗くなる。
「そういえば、とうとう警備省が動いたらしいですね」
束ねた書類を手に軍大将の執務室をあとにするジャンヌに続き、シノブが扉を閉めた。
「今晩だったか」
当然のごとくに半歩後ろを歩く部下を振り返りもせず、銀糸の聖女とあだ名される東軍大佐は応える。
「サロンの摘発か、前代未聞ですね。基本的に貴族のもちものは、お家が取り潰しにでもならない限り、不可侵みたいなものですけど」
「件のサロンの持ち主であるドイル・カートレットは、先のドラッグの一件で指名手配をされている。その点から考えれば、それほど強引な手段とも思えんが」
「大義名分はそれでとおりますけどね、今までから考えるとちょっと」
腑に落ちない。
名実共に貴族は特権階級なのだ。特にサロンは、貴族たちの大切な遊び場だ。
「……さまざまなものが、変わり始めているのかもしれんな」
足を止め、ジャンヌは廊下の窓から空を見上げた。
稲光と、間をおかずに雷鳴がとどろく。
一気に雨脚が強まった。
「荒れそうですね」
上官の肩越しに、一瞬ごとに暗くなってゆく空をみつめ、シノブがつぶやいた。
3.
夜半になるほど、雨脚は強くなった。
生半可な雨具などないほうがマシだ。バケツをひっくり返したような土砂降りになった。
貴族街はカルチェ・ラタンの西側にある。周囲に高い壁をめぐらせ、教皇庁が控える北側と、一般市民の生活する居住区に通じる南側にふたつ門を持つ以外は、”俗世”とはしっかりと隔絶されているのだ。
ふたつの門には見張りが立ち、内側に入ろうとする人間の身分照会を行うのが通例になっていた。
しかし今は、市街地に隣接する南門は開け放たれている。
マシンガンを手にした男たちがふたりずつ、門の脇に立ってはいるものの、見張りにはなっていないようだった。
なんにせよ暗く、雨のせいで視界が効かない。
公式の式典など以外では見かけない紺色の制服を纏った警備省の捜査官たちが、雨避けのためのフードを深くかぶって、門をくぐりぬけてゆく。
目指すのは貴族街の西側にあるとあるサロンだ。
いつもはこの時間にもっとも賑わいを見せる貴族街は、ひっそりと静まり返っていた。近々警備省によってサロンの検挙がおこなわれる、という噂がまことしやかに流れていて、みな夜遊びを自重していた。
「案外あっさりとしたもんだな」
目的地へ向かう人波の只中で、フードを目深にかぶった人物がつぶやいた。
「天候が味方してくれたね。いくら晩でも晴れていたらこうは行かない」
緊張感に欠ける声が答え、急ぎ足で豪勢な邸宅の間を通り抜けてゆく捜査官たちからふらりと離れた。
豪雨にまぎれ、手近な横道に折れる。
横道は、商店街になっていた。
商店街といっても、庶民のそれとはわけが違う。
立派な看板を掲げた、さまざまな専門店が、大きく立派な店を構えている通りなのだった。
「しかし、ひどい雨だ」
宝飾店の軒下に避難して、ひとりがフードを下ろした。
黒縁眼鏡を装着した、貧弱そうな顔があらわになる。
「うまく行き過ぎた気もしますけど」
サイジョウに倣って、レイもフードを下ろした。
「連中とはぐれていいのか? 一緒に入らなかったら厄介なことになるだろ」
「なに、入り口はひとつじゃないさ」
無数の人間の気配が徐々に遠のいてゆくのを感じながら、サイジョウは目をほそめて笑った。
「要塞を攻略しようというわけじゃないんだ。件のサロンは貴族街の中でも随一の広さを誇っている。とりわけ中庭がうつくしいという噂だよ。礼節を無視すれば、どこからでも入れる」
「ノックしないで入るのは、もう慣れっこですからね」
小柄な人影が、からかうように言った。モエは、ふわふわとまとまりのない髪を高い位置で結わえていた。
いつもはのほほんとした温和な眼差しに、今は鋭い光がある。
臨戦態勢なのだった。
一行は、夕方にカルチェ・ラタンに着いた。
カプセル状の転移装置から這い出し、血管のように張り巡らされた地下通路から地上に出る頃には、空はしくしくと泣き出していた。
市街地からさらに南に下り、工場が建ち並ぶ界隈をぐるりと回ると、今にも倒れそうな掘っ立て小屋の周囲に数人の軍人が立っているのが目に入った。
「半年が経ってもこれとは、畏れ入るね」
離れた場所からその様子を眺めて、サイジョウがちいさく肩をすくめた。
半年前に放棄した彼のアジトは、未だに軍の監視下にあるらしかった。
かつての住処に背を向けたテロリストは、露店が並ぶ界隈を一本折れて、薄暗い通りに一同をいざなった。
細い路地から、飾り気のない階段をくだり、地下へ。看板も出していない扉を押し開けると、奇妙な香りがした。
刺激の強い、香の香りだ。
天井は低く、照明は薄暗い。決して狭い空間ではないが、圧迫感を感じるほどに、さまざまなものが煩雑に置かれている。
低い天井近くでわだかまる煙のせいで、この空間自体がぼんやりとくすんでいるように見えた。
「珍しい客だね」
掠れた女の声が、所狭しと並べられたがらくたの奥から聞こえた。
「いつカルチェ・ラタンに戻ったの」
「たったさっきだよ」
「真っ先にあたしに逢いに来てくれたってわけ?」
女の声に、からかう調子が混じる。迅速な訪問を手放しに喜んでいるわけではないらしい。
曲者の気配がした。
「きみが一番、僕にふさわしい助言をくれると思った」
狭い通路をするすると抜けて、サイジョウは奥へすすむ。
「じゃあ、この時期を狙ってきたわけじゃないってこと」
一番奥にすえられたカウンターの内側で、不健康そうな女が目を眇めて値踏みするようにサイジョウを見、それからテロリストの肩越しに、青年ふたりを見た。
女はカウンターに頬杖をつき、右の指先に煙草を挟み、眠そうなまばたきをする。
白いタンクトップからむき出しの右肩には、蠍の刺青があった。
サイジョウが相変わらずへらへらと締りのない笑みを浮かべているのに、女はあきらめたように小さく笑った。
「まったく、あんたは強運なのね、狙い済まさずにこのタイミングで戻ってくるなんて」
「どうやら面白い話があるみたいだね」
「安くないわよ」
女の眠そうな目が、一瞬鋭い光を発した。
カウンターごしにサイジョウを見上げ、まばたきをせずに見つめる。
だが、相変わらずサイジョウがゆるく微笑しているのを見て、白旗を揚げた。
「ま、いいわ。上得意のよしみで教えてあげる。色々おいしい思いもさせてもらってるしね」
ほそく紫煙を吐いて、女は短くなった煙草をもみ消し、ぐっと声を潜めた。
―――今晩、予言者狩りがあるわ。
予言者がいるなら一度見てもらおうか、などと、サイジョウはいかにも野次馬のようなことを言い出した。
「まさか本当に占ってもらおうと思ってるわけじゃねぇよな」
この狸のことだ、たったそれだけの理由では動くまい。
「さあねぇ」
狸といえば、顎をさすりながら、大粒の雨を眺めている。
「ドイル・カートレットをどうにかするつもりですか」
決然とした眼差しでサイジョウを見据え、レイが言った。見つめられた主はゆっくりと、遠くから傍らへ視線をもどす。
「どうしてそう思う」
声が張りを帯びた。眼鏡の奥の双眼が、蛇のような鋭さでレイを射る。刺し貫くように見据えられても、レイはひるまなかった。
「彼は、ヘヴンズゲートをばらまいていた。貴方はあのドラッグを憎んでいるじゃないですか。だけど彼は貴族街に引っ込んでしまって。ここに侵入するのは難しいんだ。それこそ、今日みたいな日でもなければ―――」
「あれに残りがあるなら、件のサロンだろうな」
サイジョウは、顎でサロンの方角を示した。
「だが、持ち主についてはそれほど憤っているわけじゃない。むしろ憐れんですらいる」
レイはしぶい顔をして黙り込む。
「彼はもうおそらく、死んでいる」
「どういう意味ですか」
「会えば分かる」
ふくむような笑いを浮かべて、サイジョウはフードをかぶりなおした。
4.
むき出しの女の腕はあまりに細い。握ればくるりと指が回ってしまいそうだ。
透けるほどに白い肌にはしみひとつない。あるとすれば肩に刻まれた、紫の薔薇の刺青だ。
このサロンのしるし。娼婦として身を売るものの、形のない枷だ。
「これで全部?」
肩に咲く大輪の薔薇から目をそむけ、クリスティン・サウザンドは相棒に訊いた。
「とりあえずすべての部屋は見回ったはずだ」
抑揚のない、低い男の声が答えた。
「あなた、ドイル・カートレットの居場所を知っている?」
仕事部屋から引きずり出されてきた娼婦のひとりに、クリスは声をかけた。
華奢な娼婦はうつむいたまま、首を横に振った。
「オーナーは、半年前から表には出ていらっしゃらないわ。だけど、ここにはいるみたいで、支配人が会って話をしていたみたいだけど……」
「わかったわ、ありがとう。―――だ、そうだけど?」
エーク・Hに引きずられるようにホールに連行される娼婦の、あまりにも白い背中を見つめながら、クリスは後方に向かって声を投げた。
「あなた、本当にご主人様の居場所を知らないって言い張るの?」
肩越しに後方を振り返ると、後ろ手に縛られた初老の紳士が整えられた口髭の下で唇をかみ締めるのが見えた。
「言っておくけど、これは正式に令状が下りた捜査なの。余計な罪はつくりたくないから、できるだけ自主的に協力してもらいたいんだけど」
「わたしは」
しわがれた、小さな声が落ちた。
「カートレット家に仕えるものだ」
「……残念だわ」
快楽殺人者として有名なダメ息子であっても、危険なドラッグをばらまいた犯罪者であっても、主君として仰ぐ価値はあるのだろうか。庶民として生まれ育ったクリスには、理解できかねる。
もはや貝のように口を閉ざしてしまった支配人から視線をはずす。
『天国の淵』は、次第に静けさを取り戻しはじめていた。
警備省が踏み込んでから、一時間と経ってはいない。
どこからか、今晩の摘発の話が漏れていたに違いない。客はほとんど皆無だった。給仕たちも娼婦たちも、見習いのむすめたちも、抗わなかった。速やかに中央のホールに集められた。
ただひとり、本命の人物のみが、みつからない。
このサロンの持ち主である、ドイル・カートレット。
半年前、ヘヴンズゲートというドラッグを流通させた罪で、指名手配されている。
探せる場所はすべて探した。貴族街以外は。
隠れ家ならば、おそらくこのサロンに違いない。
隠し部屋でもあるのか。
大股の足音が近づいてきて、クリスの真正面で扉がひらいた。
「その大時計の裏だ」
目をすっぽりと覆う、ゴーグルのような義眼をつけた相棒が、淡々と言った。
あまりにも波のない口調に、瞬時に意味を飲み込めなかった。
一拍を置いて、クリスは勢いよく振り返る。
毒薬を飲み込んだような顔色の支配人の後方に、大きな時計が据えられていた。
静寂の只中にあっても、規則的な刻をきざむ、存在感のある古時計。
「左の穴の螺子を反対側へ巻け」
エークの指示通り、クリスは振り子の蓋を手前に開いた。規則的にゆれる振り子の下に、金色に光る、まるで蝶のようなかたちをした螺子が無造作に転がっていた。
ひやりとするそれを掴み、文字盤の中央よりすこし下に空いているふたつの穴の、左側に差し込んだ。
大時計の螺子は、内側に巻かなければならない。逆、ということは。
息を呑み、クリスは差し込んだ螺子を外側に回した。
「あの方は」
かちり、という確かな手ごたえに、支配人の声が重なった。
古時計が左手側にすべるように動いた。
「愛されたことが、おありではないのだ」
クリスの目の前には明かりのない、暗く狭い一本の道が広がっていた。
濃く深い、闇に続いている。
「クリス、待て」
相棒の声は、制止には穏やか過ぎた。
小柄で童顔な警備省捜査官は既に、ホルスターからピストルを抜き出して、闇へと飛び込んでいる。
足元は硬いコンクリートだった。駆けると踵が硬い音を鳴らす。
頬を撫でて過ぎてゆく闇の気配の果てに、帯のようにあふれだす光が見えた。
扉はわずかに向こう側に開いている。隙間から、奇妙な台形のかたちに、闇は払われていた。
疾走する勢いを殺さずに、クリスは肩から扉にぶつかった。
「警備省よ! 動かないで!」
闇から光のある世界への接続に、クリスは一瞬だけとまどった。
我先にと飛び込んでくる光を処理するために、瞳孔が調整を試みるのがわかる。
しかし、隠し通路の先に開かれた空間は、それほどまぶしいわけではなかった。
一瞬だけ白く焼けた視界が通常の明度をとりもどすと、青いほのかな光が部屋の四方で灯っているだけだということが分かった。
銃口が、標的を探してさまよった。
部屋にはすでに、いくつかの人影がある。ドイルだけではなく。
だらしなくスーツを着崩した男がひとり、右奥の壁際に置かれたソファに体を投げ出している。銃口を向けられ、ひるむことなく手にしたグラスを掲げて見せた。
その足が投げ出された側に、漆黒のローブに仮面をつけた影が立っている。
頭からすっぽりとかぶったローブの隙間から、無機質な白のマスクが覗いていた。
ナフシオン。これが―――。吸い込まれそうだ。視線がはずせない。
「あとにしてくれ、先客だ」
呂律の回らぬ声が、クリスの呪縛を解いた。
ソファに横たわっていた人物が、緩慢に体を起こすところだった。
四方からぼんやりと室内を照らす青い光に照らし出され、まるで幽鬼の如くやつれた男が、手にしたグラスをつまらなそうにそのあたりに放った。
ガラスの、砕ける音。
クリスは慌てて、ピストルの照準をソファーの男に合わせた。
髪は肩を滑り落ちるほどに伸びていたが、面はつるりとしていた。髭が伸びている様子もない。潔癖な男らしい、という噂を今になって思い出した。
ただ、目が。
間に長いテーブルを隔てているというのに、その瞳がたたえる濁った色は、はっきりと分かった。
澱んでいる。
「ドイル・カートレット?」
「いかにも。そこで待っていたまえ。もはや逃げるつもりもない。先に話をする相手が―――」
ドイルは顎で、ナフシオンが立っているのとは逆側の、ソファの端をしゃくっる。
「順番は守ってもらわないと困る」
そこで初めてクリスは、部屋の隅へ目を遣った。そこへ人影があることには気づいていたが、なぜか直視できなかった。直感的に、異質なものを見たような気がしたのだ。
小柄、という言葉では足りないぐらいのちいさな影が、右隅の照明のそばに立っていた。
金の目が、クリスを見ていた。
「冗談、なによそれ」
思わずあえいだ。
少年がいた。
黒衣だった。何の装飾もない、闇に溶けてしまうような。
やわらかそうな栗色の髪に、黄金色の大きな目を持つ、天使のように愛らしい容貌の。
市場の近くで出会った少年が。
「エ、エルくん……」
呼びかけると、少年は首をかしげるように笑った。
「あなたには、ちゃんとした自己紹介をしていませんでしたね」
猫科の猛獣のように、金の目がひかった。
まばたきを忘れ、クリスはその大きな双眸を凝視する。
言葉をうしなう捜査官を、黒衣の少年は何故か寂しそうに眺めた。
「―――僕は、ミカエル。ミカエル・シャイアティーン。神の兵として、教皇猊下より正規軍の東軍大将の任を拝命しているもの」
―――殺された。
「双頭の……」
―――少年を迎えにきた男、東軍の佐官だぞ。
「双頭の、悪魔―――」
何故かミカエルは、ほんわりとやわらかく微笑した。
「そう呼ぶひともいる」
「嘘!」
クリスは思わず銃口を少年に向けていた。
「だって、あんたみたいな子どもが」
「僕は四捨五入するともう、三百歳のおじいちゃんだよ、ドラッグのおかげで。君も見ただろう、禁断の秘薬を」
その薬物の効果を、クリスは嫌というほど見知っていた。
少年の言葉が急に、ずっしりとした重みを帯びる。
「あんたが」
照準が定まらない。手が細かく震えていた。
何か得体の知れない熱いものが腹の辺りからこみ上げ、あふれ出しそうになる。
咽喉元までこみ上げたそれを、何とか理性で押しとどめる。
クリスは境界線にいた。一言を発すれば、確かめてしまえばもう後戻りはできない。
しかし、やさしかった父の手が、クリスの金髪をゆっくりと梳くように撫でる感覚を、思い出してしまった。
「あんたが、父さんを殺したの?」
境界を、越えた。
「いかにも」
ミカエルはまるでいとおしむかのように口元をほころばせて。
「僕が殺した」
甘さすら感じさせる声音で、言った。
*
雷鳴に合わせ、中庭に面した窓を割る。
砕けた硝子が散らばる音も、毛の長い絨毯が吸ってくれた。高級サロン様々と言ったところか。
窓枠を乗り越えると、廊下はまっすぐ前方に伸びている。滝の裏側に入り込んだ錯覚を起こしたのは、豪雨が激しく屋根を打ち続ける音が、それを思わせたからだろう。
体がひどく重い。防水加工されているはずのフードも、殴りつけるような雨には勝てなかったらしい。
「静かだな」
重くて冷たいだけならば意味もない。雨具を脱ぎ捨てて、ハルトは呟いた。
雨音がこんなにも大きく聞こえるのは館全体が静まり返っているからに他ならない。強制捜査の最中ではないのか?
「このあたりは客室のようですけど、人気はありませんね」
モエが数歩前に出た。
「お客様方はどこからか捜査を嗅ぎつけて自粛なさっているんだろう。従業員達は―――どこかに集められているのかも―――」
テロリストの声は尻つぼみに消えた。一同は無言で視線を交わす。
足音だ。毛の長い絨毯でも吸いきれない力強い音。前方でL字に折れた廊下の先から駆けてくる。
動いたのはモエだ。猫のような俊敏さで音もなく角まで走る。
足音の主が角を折れて現れるのと、モエが跳躍するのは同時だった。人影を飛び越え、中でくるりと体をひねると、影を後ろから羽交い絞めにした。
「静かに」
すばやく口元を覆い、声を潜めてモエは言う。一気に気絶させてしまわなかったのは、相手があまりにも華奢で無防備だったからだ。
全身をこわばらせ、”女”はぎこちなく頷いた。
「モエ、離してもかまわないよ。こんなときに気配も消さずに走ってくるんだ、プロじゃない。騒がないで居てくれるなら危害は加えませんよ」
眼鏡を押し上げながら、サイジョウは緊張感もなく女に近づいた。この場のリーダーである彼は、完全な戦力外(あしでまとい)であるのに、暢気なものである。
口元からそっと手をはずし、モエは女の後方に一歩下がった。
「このサロンのひと、だね」
サイジョウは女を上から下まで眺めた。体の線がしっかりと分かる薄手のワンピースは、女の職業を雄弁に語っていた。
「……あなたたち、警備省じゃないの?」
震える声で女は言った。上目遣いにサイジョウを見上げる。
「いいえ」
大袈裟に首を横に振って、テロリストは応えた。
「教会の人間?」
「それもハズレ」
言葉が終わるよりも早く、女はサイジョウに飛びついた。反射的に身構えるモエを片手で制し、サイジョウは女を抱きとめる。彼女は―――ひどく震えていた。
「―――して、ください」
「何?」
小刻みに震える体をやんわりと引き剥がし、うつむく顔を下から覗き込む。
「わたしを、ここから逃がしてください」
まっすぐにサイジョウを見つめ返し、女は言った。
女を刺激しないようにと忍び足で回り込んだモエは、リーダーと顔を見合わせる。
「わたし、このままだと―――殺される!」
居並ぶ面々をすばやく見回して、女は必死に訴えた。
「警備省はオーナーに用があるんだろう。従業員に手出しはしな―――」
「見たのよ!」
激しく首を横に振って、女はサイジョウの言葉をさえぎった。
「”ナフシオンの顔を見たの”!」
時が、止まった。
サイジョウの顔から表情が消えた。女の方を掴む両手に力が篭る。
「本当か」
声のトーンがぐっと落ちた。詰問するかのような響きだった。
両肩にかかる圧力に戸惑いながら、女はぎくしゃくと頷いた。
こみ上げる何かを押さえ込むかのように、サイジョウは双眸を閉ざして深く呼吸する。
「君がそれだけ怯えているということは、見てはならないものだと、すぐに分かったからか。つまり―――」
覚悟を決めるかのように一拍を置いて。
「”誰もが知っている顔”だったのか」
言葉をゆっくりと飲み込んでから、女はしっかりと首を縦に振った。
「……引き揚げる」
女の肩から手をはずし、サイジョウは完全に取り残されている異端者ふたりを振り返った。
「彼女を連れてここを出る」
「なんだって?」
聞こえなかったのではない。理解できなかったのだ。
せっかく苦労して進入したというのに、一歩踏み込んだだけでハイさようならはないだろう。
「目的は達成だ。僕たちは異端者なんだ、天敵がうろついている屋敷に無意味に長居をする必要もない」
「目的、ですか」
レイは眉をひそめる。目的など何も聞いていないのに突然そんなことを言われても、納得がいかない。
「予言者の顔だよ」
あっさりと首謀者は告げた。
「ナフシオンの顔が知りたかったんだ。彼女が知っているならそれでいい。実物を拝むのはリスクが高すぎる」
「顔がなんだっていうんだ」
分からない。予言者の顔を知ったところで、何になる。
「聞こえなかったのか? 誰もが知っている顔なんだよ。しかも、異端者であってはならない人物なのさ。僕の予想通りなら、ね」
「教会の」
人間か。
しかも誰もが知っているというのならば、公に顔をさらす教皇や司教クラス。
「まさか大司―――」
レイは途中で口をつぐんだ。素早くサイジョウが女を背後に庇う。
雷光。すぐさまガラガラと空が鳴った。
いつのまにか、曲がり角に人影がある。警備省の制服を着た中年の男だ。中肉中背で特に目立つところもない。
が、何かがおかしい。
男は白目を剥いていた。口の端には泡がこびりついている。尋常ではない。
鋭い雷光が再び男の体を照らし出す。それはぐらりと傾いで、積み木のように呆気なく崩れた。
その背後に。
影が立っていた。
男の体を隠れ蓑にした、細身の影が。
女であるということは、体にぴったりと張り付くボディスーツが示している。
余分な贅肉のない完璧な体だった。骨に十分な筋肉がついてしなやかなバネを感じる。野生動物のようだ。
異様なのはその、首から上部。
仮面をつけていた。三日月型の切れ込みが両目と口のあたりに開いているだけの簡素なものだが、笑っているように見える。
「とんだネズミがもぐりこんでいたものね」
仮面越しにくぐもった声が聞こえた。耳慣れた響きに、一同は困惑する。
「処刑人、か」
苦々しげにサイジョウがつぶやいた。その姿を見て生きて帰ったものはいないという、伝説の存在。教会に背くものを文字通り処刑する暗殺者の総称だ。
女は答えずに、喉の奥でちいさく笑い、
「久しぶりね」
と、言った。
モエは無言で一同と闖入者の合間に割って入った。まっすぐに影を捉え、重心を低く身構える。
危機感と同時に激しい動揺を感じていた。三日月型の切れ込みから覗く相手の双眸を見据える。
間違いないと確信する自分と、そんなはずはないと否定してしまいたい自分が激しくせめぎあっている。
「とっても会いたかったのよ、貴方に」
混乱するモエを尻目に、女は仮面に手をかけてゆっくりとずらした。
「セリ―――」
絶望にも似た喘ぎが、確かにモエからこぼれる。震える唇は、自らと瓜二つの顔を持つ女の名を呼んだ。
「そこの金髪のお兄さんとはソロモンぶりかしらね」
セリと呼ばれた女は、後方に控えるレイに視線を流した。レイは思わず身構える。確かにソロモンで会った女だった。髪が短い部分をのぞけば、見分けがつかぬほどモエと似ている。
「生きていたの……?」
どこか祈るようなモエの問いかけに、処刑人は口元をほころばせた。
「わたしはもう―――死人よ!」
一転、瞳に滾るほどの殺意を宿し、女は仮面をモエに投げつけた。
モエがそれを片手で払うあいだに、処刑人は一気に間合いを詰めていた。床を蹴って跳躍し、宙で回転すると、伸ばした片脚をモエの頭上に落とす。
モエは腕を交差させてそれを受けた。
女はもう片方の足でモエの腕を蹴り、後転して着地した。
着地の反動を逃さず、よろめくモエの懐まで飛び込むと、顎を狙って蹴り上げる。
背を反らし、モエは相手のサマーソルトを避けた。
反らした無防備な咽喉を狙い、小刀が真横に一閃される。白い咽喉元に定規で引いたような傷が生まれた。すぐに赤い色が滲む。
「腕が落ちたんじゃない?」
飛びのくように間合いを取って、セリはせせら笑う。
「ああでも、あの頃からわたしに勝てたことなんてなかったっけ?」
片手を腰にあて、挑発的に顎を反らす。緩んだ口元とは対照的に、瞳は憎悪で燃え滾っていた。
いつの間に取り出したものか、セリの両手には一本ずつ小刀が握られている。
防戦一方のモエの両肩は、大きく上下していた。
「モエ、退くんだ!」
窓際まで退避したサイジョウが、モエの背に叫んだ。
「でも―――!」
「誰一人逃がすものか!」
同じ声が同時に怒鳴り返した。
「処刑人(きみ)が出てきたってことは、ナフシオンの正体はやはり、外に知られてはまずいということか」
怯える娼婦を背に庇い、サイジョウは処刑人に問う。
「わたしはただの剣だ。武器に考える頭など要らぬ!」
セリは床を蹴って跳躍した。モエの頭上を飛び越え、窓際に迫る。
サイジョウに掴みかかろうとして、しかし、次の瞬間セリは素早く身を沈めていた。
最前まで頭のあったあたりをモエの脚が横薙ぎにする。
「逃げてください!」
身を沈めたセリの脚払いを避け、モエが促す。
「お前も退くんだ!」
先程破ったばかりの窓枠を乗り越えながら、サイジョウは怒鳴り返す。
「後から追います!」
顔面を狙う小刀をさばいて、モエは涙声で絶叫した。
「ここで逃げたらわたし―――」
「今更どの口がそれを言うんだ!!」
悲壮なまでのモエの言葉を、煮え滾るような怨嗟が阻んだ。
「あの地獄を知らないお前が、傷ついたような顔をするな!」
強烈な回し蹴りで、モエの体は真横に吹っ飛んだ。左側から壁に叩きつけられる。
慌てて起き上がろうとするモエの腹部を、セリは強かに踏みつけた。
思わず漏らした悲痛な呻きに、満足そうに微笑し、セリは身を屈めた。
「計画が中止されたのは何故なのか教えてやろう」
力を込めて腹を踏みにじり、セリは姉の顔を覗き込む。感電したように、モエの体が震え、こわばった。
「大人の事情でも資金難でもない。貴様が逃げ出してからしばらくして、薬の副作用で子供たちが暴走した。”自分たちで殺し合った”んだ!」
モエは瞠目し、絶句した。
セリは、小刀を握る自らの右手を眺める。
「わたしも殺した。生き残るために。いつか、生き別れた姉が迎えにきてくれるんだと信じて、殺し続けたんだ!」
腹の底から吐き出し、セリは握り締めた小刀をモエの頭上の壁に突き立てた。
「わずかな生き残りは、閣下に拾われた。処刑人としてまた殺し続ける日々が続いた。生き残った同胞たちもみんな死んだ。わたしも―――カスガ・セリという女も既に、死んだ」
深々と壁に突き刺さった小刀の柄を離し、高い位置に結い上げられたモエの髪を鷲づかみにする。強く引き、瓜二つの顔を近づけた。
「ここにいるのは、ただの死人だ」
さらに強く髪を引っ張り、反らせたモエの首筋に、処刑人は小刀を当てた。
「おまえが見殺しにした女の顔を、しっかりと見ろ。そしてその亡霊が今、おまえを殺すんだ―――!」
「モエ!!」
サイジョウが叫ぶのとほぼ同時に、屋敷全体が振動した。
地震―――ではない。
これは爆発の余波ではないのか。
本能的にセリが顔を上げた。その一瞬を見逃さずに、モエは妹の腹を蹴り上げる。
勢いを受け止めきれずに、セリは背中から後方の壁にぶつかった。
「貴様―――!」
再び足元が揺らぐ。振動は先程よりも大きい。”震源”が近づいているのか。
巨人が足音高く近づいてくるかのように、爆音と振動は連鎖し、セリが体勢を立て直す間もなく、すぐ傍の扉が火を噴いた。
「閣下……」
館の中枢、広間のある方向へ顔を向け、セリがつぶやく。
小さく舌打ちをし、セリは来た道を駆け戻り始めた。
爆発で吹っ飛んだ扉からは、赤々とした炎が蛇の舌の如くに揺れているのが見える。
「次に会ったときこそ」
曲がり角まで駆け戻ったセリは既に、炎の対岸にいる。
床や天井を容赦なく舐めてゆく火炎の向こう側から、モエを睨みすえた。
「―――殺す」
呪詛のように吐き出し、セリは、角の向こうへ消えた。
5.
絶望に見開かれた瞳から、ミカエルは決して顔を背けなかった。
憎悪も殺意も受け止める義務がある。ひとを殺すというのは、そういうことだ。
「やはり貴様だったのか」
銃口をこちらに向けたまま固まっている女捜査官の背後から、大柄な男が現れた。両目をゴーグルのようなもので覆っている。義眼の一種だ。
「悪魔め」
抑えた中にもあきらかな憎しみを込めて、男は吐き捨てる。
「あの時と何一つ変わっちゃいない」
「……そうか、きみはあのときの」
ミカエルは目を眇めて男を見た。彼には見覚えがある。
もっとも、記憶の中の彼は未だあどけなさをどこかに残している新米捜査官で、意志の強い琥珀色の瞳が貫くようにこちらを見据えていたものだ。
光を奪ったのは他の誰でもない。
ミカエル自身だ。
「軍の狗がここで何を―――」
「騙したの?」
クリスの力ない呟きが、同僚の詰問をさえぎった。
感情の消えたこわばった顔でクリスはミカエルを見つめている。銃口はしっかりとこちらの額を狙っているが、得物を握る彼女の指先はこまかく震えている。
「きみに会うつもりはなかった。市場でも、ここでも」
出会わずに済んでいたのならば、お互いもっと、幸福だったはずだ。少なくとも彼女はそうだろう。
父の仇になど。
市場で出会った彼女は明るく朗らかな娘だった。おそらくあれが本来の彼女なのだろう。
しかし、いまやクリスの表情は歪み、瞳は滾るような憎しみで満ちている。
「どうして父を殺したの?」
絞り出すように、クリスは言った。
「理由を告げても、きみとは分かり合えないだろう」
ミカエルは小さく首を横に振った。
おそらく彼女にとっては理不尽以外のなにものでもない理由だ。
「分かり合おうなんて思ってないわよ! 教会のすることなんて、みんな腐ってるじゃないの! わたしは……」
唇を噛んでうつむいたあと、クリスは毅然と顔を上げた。
「わたしは真実が知りたいのよ」
引き金にかけた指に力を込める。
「とある軍事施設を調べていたからなんでしょう? そこに―――」
ぴしゃりと、何かしなやかなものが床を打った。思わずクリスは口をつぐむ。
「それ以上は言わないでくれないか」
薄闇の中、青白い証明を反射するものがある。ミカエルの片手から床に向かって垂れる、白銀の糸。
蛇のように床を這うそれは、ミカエルの得物だ。ムチのようにしなる、鎖状につながれた剣。
悪魔の象徴とも呼ばれる剣で床を打ち、ミカエルは猛獣のように輝く金の双眸をクリスに向けた。
「それ以上口にすれば、きみが真実を知ろうが知るまいが僕はきみを―――殺さなくてはならなくなる」
一瞬の間をおいて、クリスの顔が紅潮した。
「やってみなさいよ!!」
「クリス、やめろ」
絶叫して身を乗り出すクリスを、義眼の男が押しとどめる。もがく同僚を押さえ込み、かつて自分から光を奪った男を見た。
「軍は今回の件にはノータッチじゃないのか。軍大将殿が直々に出向いてくる必要があるとは思えん」
「……そうか。ただのガキではないと思っていたが、双頭の悪魔殿だったのか。なるほど」
ひきつった笑いが割って入った。
「ご高名はかねがね。まさかこんなところでお会いできるとは」
おぼつかない足取りながら、館の主であるドイル・カートレットは丁寧に一礼をした。
「軍服も着ずに、お忍びで”上司のお迎え”かな?」
身をかがめたまま顔だけを上げ、ドイルは薄く笑って見せた。
ミカエルは答えず、苦味をこらえる顔をする。
「上司、ですって……?」
思わず銃口をおろし、クリスは居並ぶ面々を見回す。
この部屋にいるのは自分とエーク、ドイルとミカエル。それ以外といえば。
仮面の予言者のみ。
「人々はこの館をまるでソドムかゴモラのように言うが」
身を起こしたドイルは、よろめくように後ずさりをする。楽しそうに咽喉で笑った。
「ここなどまだ可愛いほうじゃないか。ここがゴモラならば、教会は何なんだ。宗教とは? この世界は何だ!」
語調は徐々に荒くなり、やがて怒号になった。
声を荒げたあとで、ドイルは激しく咳き込んだ。ソファーの背もたれを鷲づかみにして、体をくの字に折る。
口元を覆った病的に白い指先が、どす黒い色に濡れた。
「多くの血と肉とを積み重ね……」
うなだれたまま、ドイルは乱暴に口元をぬぐう。呼吸がととのわず、肩が大きく上下している。
「累々と……横たわる犠牲の上に、貴様らが築いたものが、この、下らん世界、か」
澱んだ双眼になみなみと憎悪をたたえ、ドイルは鉛のように重い頭を持ち上げる。
「高尚で有難い説法を隠れ蓑に、貴様らがしていることは何だ? 宗教さえなければただの理不尽な独裁じゃないか」
口の端に赤い色を残したまま、ドイルは卑屈に笑う。
「逆らうものを殺し、神の名の下に真実を覆い隠し、そうまでして貴様らは何を守っているんだ!」
文字通り血を吐くように絶叫し、サロンの主は、彫刻のように立ち尽くしている予言者に歩み寄った。
「これが、貴様が手を汚してでも守りたいものなのか」
微動だにしない予言者の仮面に、ドイルは手を掛けた。
「やめろ!」
ミカエルの腕がひるがえり、鞭のようにしなった剣がドイルの肩口をばっさりと切り裂いた。しかし、仮面は既に予言者の顔をはなれ、軽やかな音を立てて床に落下していた。
凄絶なまでの美貌が現れた。
予言者は透き通るような青い瞳を翳らせて、床にくずれおちるドイルを見下ろした。
「エレアザール、大司教……?」
まばたきを忘れ、クリスは予言者を凝視した。ありえない顔がそこにある。
ラジエル・エレアザール。教皇に次ぐ教会での権力者ではないのか。
「……これが、貴方の望みなのですか」
足元に横たわる男に、ナフシオンは静かな声を掛ける。
体の下に血の池をつくりながら、何故かドイルは心地よさそうに笑った。
「もう、こんな下らない世界には、我慢がならないのさ」
黄金の巻き毛を持つ予言者は、血の海に跪いた。
「おまえが言う、世界の再生なんかに、興味はない。もう俺には、何もかもが、どうでもいいんだ」
何かを探すように、ドイルの視線が宙を彷徨った。
「教えのとおりの神が、もしも本当にいたのなら、あのひとの献身を、裏切ることなんて出来なかったはずなのに……」
ひどく億劫そうに、ドイルはまばたきをする。足元を浸す血の海も厭わずに、ナフシオンは彼の目にかぶさる髪をそっと掻きあげてやった。
「俺は一度だって、神に救われたことなんて、ない。俺を救ってくれたのは、いつも、あのひとだけだったのに」
焦点を失ったドイルの目が、ぼんやりとナフシオンを見上げる。
「それなのに、あのひとは神のために死んだんだ。一度だって手を伸べてくれたことのないもののために。俺にはもう、何もわからない。何を信じるのが、正しいのか」
ずん、と鈍い振動が地面を揺らした。
人々の悲鳴と爆発音が、連鎖して、享楽の館を揺るがした。
ちいさく、ドイルが笑う。
「……ゴモラの館には、似合いの終わりだ」
振動で照明が倒れ、かすかな光さえ失った部屋は闇に満たされた。
「来い、クリス!」
「いやだ、離してよ!」
光が失われたタイミングを逃さずに、義眼の捜査官は同僚を隠し部屋から引きずり出したようだった。暴れる女の声が徐々に遠ざかる。
「ラジエル!」
のっぺりとした闇の向こうで、幼い子どもの声が叫んだ。
「連鎖して爆発が起きてる! あちこちで火の手も上がってるんだ! 早く逃げないと館が崩れる!」
「あなたは逃げてください、ミカエル。わたしならば大丈夫です」
「閣下、ここは危険です!」
若い娘の声がミカエルのすぐ傍で上がった。
「だけど!」
「いけません、無理にでも連れていきます!」
「……っ、ラジエル!」
もみ合うような気配の中で、ミカエルは声を張り上げる。
「きみが”誰でも構わない”! きみも逃げてくれ、頼むから!」
もはや懇願だった。
その言葉を最後に、周囲から気配が消えた。
ぼんやりと周囲が明るく感じられるようになったのは、炎が近くまで迫っているからだろうか。
血の海に跪き、ナフシオンは次第に弱まる呼吸を聞いていた。
*
ただ確かめたかっただけだ。
何を?
生きものが、”生きているということ”を。
俺には、そこにそれがいるだけではわからない。
腹をひらき、臓物をひきずり出し、脈動に掌をひたすことで。
体面を取り繕うことも忘れ、声を振り絞って垂れ流される断末魔を聞くことで。
そうすることでしか。
体温がうしなわれ、死に向かうその瞬間しか、俺にはそれが生きているのか。
生きていたのかがわからなかった。
母は、ひとり息子をそれはそれは可愛がった。しかし、撫でさするような慈しみかたは、少女が人形にするそれに似ていて、子どもがはしゃぎまわって騒ぐのをいたく嫌った。
ひとり息子はいつも、じっと黙って座っていなければならなかった。
母の目が届かないところでも、使用人の監視があった。主に従順な女中たちは、息子が暴れまわればすぐに告げ口に走ったから、一瞬も気が抜けなかった。
父は社交場に入り浸るのに忙しく、屋敷はいつもひっそりと静まり返っていた。
母はうつくしかった。身の回りもうつくしいもので固めたがった。女中たちも例外なく、うつくしく若いむすめたちが選ばれた。
生きものの、生々しい気配など、屋敷の中にはどこにもなかった。
自分が生きているのか、そもそも生きているとはどういう状態のことなのか、息子にはさっぱりわからなくなった。
はじめは動物だった。
所有する別荘の庭に棲みついていた犬だっただろうか。
自分で手をくだしたわけではなく、発見したときにはもうすでに腹をひらかれ、瀕死の状態だった。
自らの血液の海の、ただなかで。
甘えるように鳴いていた。
歩み寄って、無残にさらされた臓物に触れた。
鉄錆のような異臭と指先に触れるぬめり。
あたたかさ。
甘えるような鳴き声が途絶え、触れた粘膜から徐々に体温が失われ、やわらかかった体が次第に硬くなってゆくまで、そこにいた。
今はもうこわばってしまった”これ”は、さっきまで生きていた。確かに、生きていたのだ。
先程まではあたたかかった。今はもうつめたい。
それからだ。いろいろなものをひらいて中身を見るようになったのは。
母をひらいてみたとき、一番に惨劇の現場にたどりついたのは、兄だった。
兄とはいっても、公にはカートレットの名を名乗ることをゆるされない、庶子だ。
父が屋敷のそとで勝手にこしらえた息子。
几帳面で神経質。敬虔な信徒でもあった。
この男が、はじめは誰よりも嫌いだった。
口をひらけば、完璧でうつくしい、清廉な理想ばかりがあふれてくる。
小動物を戯れに惨殺する歪んだ義弟を、真っ向から叱りつけた。殴りつけもした。
彼は、自分が出来たことは他の人間も出来ることだと信じていた。
揺るがぬ信仰を持つことも、苦境から這い上がってすっくと二本の足で立つことも、常にちからづよく、潔く在ることも。
誰もが狂気の沙汰だと匙を投げ、あの子どもはもうどうしようもないと顔を背けた異端児のことも、決してあきらめたりはしなかった。
対等のひととして、指をつきつけて間違っていると声高に叫んだ。
狂っているといわれたほうが、まだましだったのに。
狂っていると信じていたほうが、楽だったのに。
彼は決して、狂人の烙印を押し付けたりはしなかった。
どこまでも一個人として扱われた。
いのちを知るためにたくさんの肉を切り裂くたびに、たくさんの人間が背を向けて遠ざかったのに、彼だけは真正面からこちらを見据えて動かなかった。
彼だけが。
いつもそこにいた。
おまえの癒されぬこころも、主はすべてご覧になっている。
おまえのことも確かに、愛しているのだと。
あなただ。
神などではなく。
姿の見えぬ超越者などではなく。
いつも傍で、すべてを余さずに見つめて受け止めたのは。
あきらめずに叱りつづけたのはただひとり。この飢えを知っていたのは、あなただけだ。
いつのまにか、清廉で力づよい、敬虔な理想の騎士を仰ぐようになっていた。
おまえがすっくと立つならば、陰に日向にカートレット家を支えるだろうという、義兄の誓いを信じた。
ひとを”ひらいて”中身を確かめたいという衝動もやがて薄らいで、すべてが光の射すほうへ向かうのだと、柄にもなく信じていた。
あの白い粉があのひとの理性を、奪うまでは。
麻薬によって不死者におとしめられた義兄が、理性を手放して盲目な信徒に堕ちてから、なにもかもわからなくなった。
生と死だけではなく。
この世界のあらゆることが、もうわからなくなってしまった。
神というものがもし、本当にいるのだとしたら。
誰よりもあなたを愛したあわれな使徒が、地獄へ転がり落ちるのを何故、黙って見過ごしたのか。
そんなことが許されるはずなんてない。
だから超越者などやはりどこにもいないのだ。
自分にも神はいた。信じ、縋り、祈りたいものがいた。
もういない。
神は死んだ。
そのとき、この世界は。
自分の世界はきっと、終わってしまったのだ。
ふるえる唇を開いて、ドイルはまるで祈るようにつぶやいた。
「兄さん―――」
TO BE CONTENUED