ノアの海原
選ばれたものだけが、生き残ることが出来る。
1.
死んだ大地が広がっていた。
見渡す限り、赤茶けた岩ばかりが連なっている。
「この街は相変わらずだなぁ」
高台から、延々とつづく不毛の大地を見下ろして、サイジョウはつぶやいた。
色彩に乏しい風景だった。
巨人のために用意された階段だ、とはよく言ったものだ。下方に向かって些か大きすぎる段差が下っている。
擂鉢状に下った最下層は、高台からは五十メートルもあるだろうか。動き回る人々が、玩具のようにも見えた。
すこし前まではあの最下層からこの高台まで長蛇の列が出来、傾きかけた鉄道の駅も人で溢れかえっていたというのに。随分とさびれたという印象だ。
何より、天を衝くかと思われるほどに超然と建っていた塔が、今はもうないのだ。
バベルは変わった、ように見えた。
「いや、これが本来のバベルの顔だよ」
元々この不毛の大地をねぐらにしていたテロリストは、口の端で笑って、そう言った。
「塔が建っていた頃が、異質だったのさ」
高台からなだらかに下層へ続く一本道へ踏み出しながら、サイジョウは同行者に説明する。
「元々ここは”何もない”街だからね。集まるのはならず者か変わり者か、はたまた世捨て人か、そんなものだよ」
「だけど、遺跡があるって聞きますよ」
いまや累々と瓦礫が積み重なるばかりの、塔の名残を見下ろして、レイは言った。
「あるよ」
呆気なくテロリストはうなずいた。
「失われたはずの技術があちこちに埋まってる」
ならば、人も勝手に集まりそうなものだが。
「そのあたりは君の相棒のほうが詳しいんじゃないのかな」
得心の行かない顔をしているレイに、サイジョウはもうひとりの同行者を顎で示した。
嘘をつけ、とハルトは内心で毒つく。ここを活動拠点にしていた男がまさか、知らぬはずがない。
説明するのが面倒なのか、はたまた試されているのか。
どちらにしろ、いい気はしない。かといって、黙っているのも癪な話だった。
「……前に言っただろ、バベルは由来が無い町なんだって」
逡巡して結局、ハルトは口を開いた。
「これだけ遺跡がゴロゴロしてるっていうのに、何も出てこない。機械がただ転がってるだけだ。データは徹底的に破壊されてる」
大袈裟にサイジョウが頷くから、さらにハルトは不機嫌になった。
見えない手で頭を撫でられたような感じで、不快だ。
「大規模な調査はあったみたいだけどな、結局何も出てこなかった。動きもしない機械(マシン)が転がってるだけさ」
そして結局のところ、バベルは見放されたのだ。
失われた技術(ロストテクノロジー)とはいえ、動かなければただのガラクタと変わらない。
「廃墟に集まるのは、夢を捨てきれずにガラクタひっくり返す一部の研究者と、真っ当な生活ができなくなった奴らだけ、ってことだ」
「まあ、由来は消されちゃっただけなんだけどね」
「え」
「知ってるならおまえが言え」
あっけらかんと口を挟んでくる男に、レイは目を瞠り、ハルトは憮然と眉間に皺を寄せた。
「知っているわけじゃないさ。どう足掻いたって仮説の域を出ない。見たわけじゃないからね」
全く揚げ足を取るのが好きな男だ。ハルトは口をへの字に曲げる。
「だってそうだろう。全く由来のないものなんて、どこを探したって無いさ」
「だったら、その仮説とやらを聞かせてもらいたいもんだな」
「君たちには何度も話しただろう。ここは―――戦場だったんだよ。遙か昔ね」
サイジョウは、擂鉢状に窪んだ底面を見下ろして、目を眇めた。
「僕の”仮説”では、僕らの祖先は一万年以上前に移民船団としてこの星にやってきた。そして、地上に降りると同時に、争いを始めたんだ」
「争いなんて、何のために」
「元々確執があったんじゃないのかな。宇宙にいる間は一蓮托生だからね、おそらく旗艦にメインのコントロールが集中していたんだろう」
制御を失えば、漆黒の海にただ彷徨うことになる。たとえ元々確執があったのだとしても、絶海で争うのは無謀以外のなにものでもない。
「折角星に辿り付いたっていうのに、争うんですね」
「我々はその血を脈々と継いでいる。業の深いことだ」
揶揄するようにサイジョウは呟いた。口元に皮肉った笑みを浮かべて、すぐに消す。
「ここはおそらく、連合軍の拠点だったはずだ」
「連合? 何と何だ?」
前触れもなく、サイジョウはくるりと振り返り、人差し指をハルトにつきつけた。
右目に。
「……なんだよ」
「移民団はふたつに分かたれた。それは確実だと思う。その他に第三の勢力があった筈だ。これだけ生命が繁殖するのに適した星に、それ以前何も住んでいなかったなんて、都合のいいことがあるわけないだろう」
「先住民、か」
ハルトは、右目を指すサイジョウの指を見た。
この星の先住民は総じて、黒髪に”赤い瞳”を持っていたのだと、オゼという街で聞いた。
「お上か何かが先住民を無理矢理従属させようとしたなら、つじつまは合う。そうなったら、推測はできるだろう。先住民と利害が一致していたということは、離反した人間たちは自らの扱いに我慢ならなかった、ということだ」
立場―――いや、地位や階級、か。
「そして、今のバベルを見ればわかる」
サイジョウは、赤茶けた大地を見下ろした。
そこまで破滅的に鈍感でもないから、ふたりにも分かる。
バベルは徹底的に、破壊されたのだ。
先住民がいたということなど後世には全く伝えられていない。それこそが、如実に結果を物語っている。
いつの時代も、歴史を遺すのは勝者なのだ。
語られなかったことは、”無かったこと”になる。
生き残るのはいつも、勝ち残り、選ばれたものだけだ。
「だからバベルは、由来の無い街なのさ」
由来の失われた街。
砂を孕んだ風が髪や服をなぶる。下層まではまだ随分と距離があった。
「その、由来の無い街に今更、何の用があるんだ」
渇いた風に、潤いを根こそぎ奪われるような気がした。肌や口や、瞳のおもてから、水分という水分を。生きている人間が内包する、生きものたるやわらかさを。
死者の風。
完膚なきまでに破壊され、この街はもう既に死んでいるのだ。
歴史すら持たない。
そんな死者の都に行こうと、テロリストは言い出したのだった。
今向かうべきなのは、カルチェ・ラタンではないのだろうか。
すべての中心、何もかもの発端。今抱えている物事に絡んでくる人間たちだって、皆そこにいる。
ランドウ・アンティクリストや、あの―――ジンという男も。
しかし、面と向かって問い質せなかったのは、なにも弱味を握られているからではない。
この正規軍から血眼で追われている凶悪テロリストは、しばらくこの土地を拠点にしていた。
元々食えない奴なのだ、何か目的があるのだろうとどこかで納得していた部分があるのだ。考えなしに動く男ではない。
「僕は、自分の体のしくみがどうなっているのか、実のところ全く知らないんだけれども」
テロリストは再び歩き出した。日が徐々に傾いて、灰色の空がわずかに赤みを帯びてくる。
「弄繰り回されていたときは意識がなかったんだからね、覚えていろというほうが無理な話だろう」
ふたりは、口を挟まずについてゆく。靴の裏とごつごつとした地表が擦れる音だけが聞こえる。
回りくどくはあっても、意味のないことを言う男でもない。結果的に、分かりやすいときもある。認めたくはないが、サイジョウ・ヒイラギという男はやはり桁違いに―――頭の良い男なのだ。
おそらくふたりとも、”底”を見たことはないだろう。
その底知れなさこそが、サイジョウに感じる薄気味悪さなのだ。
「だが、僕の手で動くマシンがあるというのは事実だ。そして、僕の手でしか動かないものも、ある」
マシンに対する強制介入及び従属化。からくりは分からないながら、この男はそれができる。
ならば、このガラクタだらけの街にも意味はあるということなのか。
「ここからカルチェ・ラタンまではどんなに頑張ったって十日はかかる。シャトーからなら尚更だ。だけど、ズルをする方法を僕は知っているんだよ。一度使ったんだけどね」
後続のふたりを肩越しに振り返って、サイジョウは悪戯好きの子どものように笑った。
「大規模な、空間転移装置がある」
ようやく目的にたどり着いた。
「ここから、カルチェ・ラタンの地下まで飛べる」
「空間転移装置、ね」
馴染みのない単語をハルトは舌に乗せた。
それもまた、失われた技術だ。
離れた場所を一瞬でつなぐ、まるで魔法のような。
まことしやかに存在が囁かれているだけの、伝説の代物だったのだ。"神の船"に関わるまでは、自らが伝説の恩恵にあやかろうとは、夢想だにしなかった。
「バベルは、件の反乱軍の拠点だったと僕は睨んでいる。そして聖都は、もう片方の勢力の拠点、だったんだろう」
勝者の街は栄え、繁栄はそこから円周状に伝播してゆく。
徹底的に叩き潰されたバベルとは、正反対の道を辿った―――のだろうか。
考えてみれば、バベルの周囲には大きな街はない。このあたりはいわゆる辺境と呼ばれる地域なのだ。
すこし離れた場所に位置するソドムも、ならず者が集まって発展したような街である。巨大なカジノが街の大部分を占めている。
「最終手段だったんだろうね、ここから敵陣に飛び込んでいくような転送装置だ。何度も使えない。もしかしたら敵方に協力者がいたのかもしれないな。そうでなければ転送先の設定は難しいからね。ただ、使われた形跡はないんだな。使う前に、何かあったということか」
なだらかに下った道がやがて、底辺へたどりつく。
人々の話し声がそこここから聞こえるけれども、決して活気に溢れているという感じではない。
どこか気だるいような、無気力な街だ。
「どこにあるんだ? その、装置は」
あちこちに設営されたテントをぐるりと見回して、ハルトはテロリストに問うた。
多くの人々ががらくたと見捨てた街に、未だ夢を見るドン・キホーテにまぎれて、サイジョウのような不穏分子も息を潜めていることだろう。
いつ訪れても、ここの空気は乾いている。
「いくつも掘られた地下道のひとつでね。奥へ奥へ入っていくと、今の技術ではとても作ることができない金属の壁に出会うんだ。その更に奥さ。厳重にしまいこまれている」
「だから、あんたにしか使えない、か」
ようやく、特殊な能力の出番というわけだ。
技術の失われた現代で、誰一人として決して開くことのできなかった魔法の扉を、この男は開くことができる。
「カルチェ・ラタンに行って、それからサイジョウさんはどうするんです」
「質問を返して悪いけど、君たちはどうするの。僕の付き添いじゃないだろう」
サイジョウはさっさとテントが群れているほうへ歩き出した。
ひとつひとつのテントから、くすんだ空に向かって、幾筋も煙が上がっている。人の、息づいている証だ。不毛の大地でも。
「僕たちは……」
レイは言葉を探しあぐねた。
急激に両足が重くなったような気がした。自然、視線が足元に落ちる。
既にふたりは、特Aクラスの異端者として教会から追われる身となっている。
本当ならば、キトを出るべきではないのだ。ましてや中央へ近づくことなど、自殺行為以外のなにものでもない。
出るつもりなどなかった。
半年前、ヘヴンズゲートがらみの一件で聖都カルチェ・ラタンを離れ、生まれた村に戻った当初は、ひっそりと隠れているつもりだった。
幸いキトは中央から離れている。情報が届くのも遅ければ、人々の感覚も大雑把だ。何より”地元”だから、知り合いも多い。土地鑑もある。
神の船については引っかかることも多々あるが、わざわざ命を張って中央に出てゆくほど無謀ではなかった。何しろ、ふたりが指定されている特Aクラスの異端者というのは、発見次第粛清―――早い話が殺害が許されているほどの大罪人なのである。
大まかな調査ぐらいならば、キトでもできるだろう。わざわざ狩られに行く必要もない。
しかし―――。
見てしまったのだ。
まばたきをするだけで、脳裏に蘇る包帯の青みがかった白。
あまりにも見覚えのある、そしてもう二度と見るはずのなかった顔の持ち主を。
捨て子であったふたりを拾って、名づけてくれた男は死んだ。死んでしまったはずなのだ。その事実を一瞬たりとも疑ったことはない。
しかし、キトに戻って告げられたのは、葬儀の直後に死体が掘り返されたという事実であり、死んだはずの男が肉体を持って動いていた、という現実だった。
あの男が名付け親であるという確証はない。それでも。
流石に黙ってはいられなかった。
すべての答えを持っている男はおそらくひとりだ。
問い質すには、辺境に隠れているわけにはいかなかった。
「目的や経緯は別として、目標はひとりなんじゃないの」
視線を感じて顔をあげると、肩越しに半ば振り返ったサイジョウと目が合った。
普段は緊張感なく細められている瞳が、今は鋭く冷たい色を含んでいる。
「だったら、途中までの利害は一致しているわけだから、いいじゃない」
「父親なんだろ」
肩をすくめて再び背を向けるサイジョウに、ハルトが容赦なく言葉を投げた。
踏み出しかけた足が止まる。
「おまえこそ、あの男に会ってどうするつもりだよ。俺はあの男を殺すかもしれない。それでもおまえは黙って見てるっていうのか」
「困るな」
背を向けたまま、サイジョウは笑ったようだった。
「だったら!」
利害など重ならないではないか。
食いつこうとするハルトを、しかしサイジョウは視線ひとつで押さえ込んだ。
“あの男”と同じ、深い青の瞳で。
「僕が仕留めると、決めている」
テロリストの口の端にうっすらと浮かんだ笑みを見て、ハルトは口を噤んだ。
「確かに生物学上の血のつながりはあるかもしれないが、あのひとが僕の父親だったことなんて一度もないんだよ」
ポケットに両手を突っ込んで、サイジョウは再び歩きだした。どことなくふわふわとした、地に足がついていないような歩き方だ。
少しばかり距離が開いて、ふたりは慌ててその背を追った。
「だから、君たちが名付け親に感じているような情みたいなものは無いよ。断言してもいい」
「執着してるように見えるんだけどな、俺には」
「執着は―――しているかもしれないが」
「どっちなんだよ」
げっそりと嘆息して、ハルトは煮え切らない男の背を見た。
「執着が愛情だけで出来ているなんて、そんな御伽噺を今更君も、信じてはいないだろう」
固執することを執着と呼ぶのならば、妬み嫉みや憎しみもまた、執着だろう。
「僕の場合は、そうだなぁ」
サイジョウは、黒縁の眼鏡を顔から引き剥がした。
「呪いだよ」
目を眇めて、遙か前方に積み重なる、塔の瓦礫を見詰めた。
天に届く程高く、鋭く伸びていた、バベルの塔。
「あのひとが存在するということによって、僕は独立した個体であることができないのさ」
「独立した、個体……」
それは一体なんだろう。
斜め後方から、レイはよく狸に例えられる男の、濃紺の目を見た。
始終細められているせいで気づかないけれども、存外切れ長の整った顔立ちをしていることに、こういうときに改めて気がつく。
その目は、塔の残骸よりも遠くを見詰めているように思えた。
「僕の心的外傷(トラウマ)なんだろうけれどね。いつまでも影で在り続けるのはしんどいものなのさ。いいかげん親離れして然るべき年だしね」
僕は繊細だからね、と最後に余分につけくわえた。
おまえが繊細なら人間ほとんどが神経衰弱で死ぬぜ、とハルトがぼやく。
幾分か空気が和んだことに、レイが知らず詰めていた息を吐いた、瞬間。
どっと後方から何かが追突してきた。
「ごめん!」
愛らしい子どもの声が謝って、傍をすり抜けて前方へ駆け抜けていこうとする。
「待て、クソガキ!」
悪態を吐き出して、機敏に子どもの襟首を掴んだのはハルトだった。
「いてぇ! 放せよ、何するんだよ!」
後ろから襟首を捕まれて、十程の子どもが手足をばたつかせている。
「そんな下手くそな手際じゃ、頭でっかちで世間知らずな文科系は騙せても、俺の目はごまかせねぇんだぞ。盗ったものを出せ!」
どさくさに紛れて随分と引っかかる物言いをされたような気がするのだが、追及している余裕はない。
ハルトの口調から判断するに、スリ―――なのだろうか。
「うるせぇな、放せ! 放せったら!」
擦り切れた大き目のツナギに、つばのある帽子を深々と被った子どもは、しゃにむにに暴れる。勢いで、これもまた大きめな帽子がぽろりと落ちた。
ざあっと、黒い滝が流れ落ちたように見えた。
背中の中ほどまでの艶やかな黒髪が露になる。
予想外だった。
無意識のうちに手の力が緩んでいたのか、猫のようにするりと”少女”は束縛から逃れた。
逃げても無駄と判断したのか、振り返り様に手にしていたものを勢い良く地面に叩きつける。
硬い、硬貨の音がした。
「……おまえな」
ほとほと呆れ返ったようなハルトの視線から、レイはついと目を逸らした。
自分でも随分と不注意だったと思っていたところなのだ。
「なんだよ! 捕まえるなら捕まえたらいいだろ!」
小さな拳を握り締め、少女は叫んだ。うつむいて震えている様子を見れば、ただの虚勢だと知れるのだが。
「別に、それを返してもらえたらいいさ。俺らもあんまり大手を振って警備省だの軍の詰め所だの、尋ねていけない人種なんだ」
「ドージョーするつもりかよ!」
見えない手を撥ね退けでもするかのように、少女が顔を上げ、そして。
硬直した。
初めて見る少女の顔を見詰め返して、ハルトもまた僅かに目を瞠った。
急激に少女の体から力が抜けてゆくのが分かった。
気まずそうに、視線を泳がせて逃がす。
ルビーのような瞳を。
2.
少女はアキと名乗った。
アキは―――とても良く食べた。
「はい、どうぞ」
目の前にやわらかな湯気をあげるマグカップが差し出されて、アキは一瞬身をすくめた。
おそるおそるカップを両手でつつみながら、差し出してくれている人影を上目遣いにうかがう。
焦げ茶の髪がふわふわと肩のあたりまで落ちている、随分とやさしそうな女の人だった。
「変なものは入っていないからね」
物陰に隠れる小動物のようなアキの動作に、カスガ・モエは苦笑して言った。
「俺らの備蓄を全部食う気じゃねぇだろうな」
「僕の大事な備蓄がだれのものだって?」
目的の地下道傍に、指名手配犯はちゃっかりとアジトをつくっていたらしい。
元々打ち捨てられていた作業員の休憩所を改造しただけだよ、と悪びれもせずに言ってみせた。
四方を打ちっぱなしのコンクリートで囲まれていると、ここがバベルであることを忘れそうになる。全く以って、いつも通りの風景であるからだ。
天井の裸電球がちらちらと細かく揺れている。
「文句言うんなら、食わせなきゃいいだろ」
ぷいっと顔を逸らして、アキが小声で毒ついた。
「可愛くねぇガキだな」
「女の子がそんな言葉遣いをしちゃ駄目だよ」
粗末なテーブルに、アキと向かい合わせに座ったレイが、真顔で注意する。
大きな瞳を見開いて、スプーンをくわえたまま、アキが固まった。一瞬を置いて、みるみると赤面する。
「う、うるさいなっ! オトコとかオンナとか、関係ないだろっ!」
つんと顔を逸らすアキと真面目な顔を崩さないレイをすこし遠くから眺めて、ハルトは、あれで天然だからおそろしいんだよ、と言った。ああ天然はこわいねぇ、とサイジョウがどうでもよさそうに相槌をうつ。
「それにしたって、何でスリなんかやろうとしたんだよ。はじめてだろ」
手際からして、とても慣れているとは思えない。
「親が―――死んだ」
マグカップの中身を一気に煽ってから、アキが口を開いた。
「あたしは子どもだし”鬼ッ子”だから、ここじゃ誰も雇ってくれないんだ。近所のオバさんが時々世話してくれるけど、それだって勝手に隣で死なれちゃ困るからだし。ソドムに行ったっておなじだし。作業場の廃品とか集めてたけどさ、最近はバベルもすっかり人がいなくなっちまって……」
アキは窺うようにハルトを見た。同色の瞳を隻眼で見詰め返す。
しばらく視線が絡んだあと。
「ごちそうさま!」
アキはマグカップを置いて勢いよく立ちあがった。
大股に部屋を横切り、ドアの方へ歩いてゆく。
呆気にとられている一同を尻目に、扉を半ばほど開いて。
「変なことして、悪かったな」
どこか挑むように言ってから、するりと部屋を出て行った。
ドアが荒々しくはないけれどもきっぱりと、閉ざされる。
しっかりと閉ざされた扉は、これ以上の介入を無言で拒んでいる。誰も追いかけはしなかった。
「……鬼ッ子、ね」
部屋の隅に無造作に積み上げられたコンテナに腰掛けたまま、ハルトがつぶやく。
元来、黒髪に赤い瞳という容姿は、人にあまり良い印象を与えるものではない。特にバベルを中心としたこの地域では、悪魔の象徴として忌避されることが多い。
「君には全くコンプレックスが感じられないな」
ハルトの隣で、粗末な木の椅子に足を組んで座っている男が、指先で眼鏡の蔓を撫でながら他愛もないことのように言った。
「もう慣れた―――っていうか、元々そんなもの、持ってなかったしな」
左目に宛がった眼帯をはずす。視力が弱っているだけで決して光を失ったわけではない。
左の目蓋の奥にも、血のように赤い瞳がある。
「中央に出るまで、差別の対象になるってことも知らなかったぐらいだし」
両目を開くと、遠近が狂う。
「君たちは、自分の出生について考えたことはないのか」
赤子の頃に揃って教会へ置き去りにされていたという。
普通ならば、本当の親を探すか恨むかしそうなものだが。
共に捨てられていた二人は、思わず顔を見合わせた。
「全くなかったと言えば、嘘になりますけど」
そこまで引きずったわけではなかった、と金髪の方が言った。
「親を恨んだり探そうとする余裕がなかったのさ。貧しくって、その日一日が大変だったんだ。でも、そうだな、寂しくなかったのは、院長や神父がいたからだろうな」
左目に眼帯を当てなおして、ハルトは咽喉を反らして天井を仰いだ。誰かに説明をしているというよりも、自分を納得させているような口ぶりだった。
「俺とレイは一緒に捨てられてた。けど、ぱっと見ただけで血が繋がってないだろうってことぐらい分かるだろ。同じ日同じ時間に何の因果もない他人同士が同じ場所に子ども捨ててく偶然なんてあるか? 裏なり事情なり、やっぱりあるんだろうさ。だけど、少なくとも俺は、親を探しに行こうとは思わなかった。物心つく頃にはやりたいことが見つかってたし、必死だったからな」
レイにも親を探したいという欲求はない。幼い頃はあったのかもしれないが、もう覚えていない。
ハルトと同じように、物心がつく頃には既に夢があって、どうやって中央に出てゆくのかを考えることに必死だった。
ふたりともその夢を―――ファストから教わったようなものだ。
血が繋がっているわけでも、直接彼に育てられたわけでもない。
けれども、辺境の村の不良神父は、名前以上のなにかを確かに置いていったのだ。
「だから―――聖都に行くんだよ」
幼い頃からいつも、目を閉じればよみがえる面影があった。
近頃はそれにノイズが混じる。月の光に照らされた、無表情な男の顔に取って代わられる。
金十字を左胸に抱く、軍人の顔に。
「神父はもう死んでる。そんなことは分かってる。でもな、同じ顔の人間をあんたの父親が傍に置いてる。葬儀のすぐあとに死体は掘り返されてる。一体何がどうなってるのか確かめるまで、落ち着かない」
異端者として、軍人に見つかれば即座に処刑されるかもしれないというリスクを抱えても、だ。
十中八九、ファストの墓を掘り返したのは西軍のアンティクリストだろう。何故そんなことをする必要があったのか。
そして、ファストと瓜二つのあのミイラ男は何なのか。
「なるほど。君たちはしっかりあたためられて育ったわけだ」
いかにも感心したテロリストの口ぶりに、ハルトは思いっきり顔をしかめた。
「厭味か?」
黒縁の眼鏡を掛けなおして、サイジョウはさも心外そうにとんでもない、と言った。
「生物学上のつながりなんて、実は大したことはないということさ。実の親子でも殺しあうし、赤の他人でも絆をつくれる。僕は父親をおそらく―――憎んでいるだろうからね」
「おそらく、ですか」
「まるで他人事なんだな」
まったく嫌になるよ、とサイジョウは肩をすくめた。
「僕は昔から、自分の感 情に自信が持てない生きものなんだ。おそらく”こう”だろうと予測することはできる。だけど、最後の一歩の確証が持てないんだよ。だから、いつも詰めが甘い。ファンくんのときも、それで失敗しているようなものだよ」
空いた皿を片付けていたモエがそっと目を伏せた。
「難しい男だな」
狸が気弱な顔を見せると、調子が狂う。ハルトはわざと乱暴に話を切った。
「自分が傷ついていることを認めるのは、しんどいじゃないか」
サイジョウは口の端を歪めるようにして、不恰好に笑った。
3.
空気が湿っている。雨が降るかもしれない。
湿気をふくんだ風が、後ろ側から乱暴に髪をなぶって過ぎた。
敷地を取り囲む緑がざわざわと揺れている。
「召集だ」
近づいてきた足音の主が、短く告げた。
「捜査会議だ。一時間後に本部の大会議室だそうだ」
「よくここだって分かったわね」
石を十字に組み合わせただけの簡素な墓石を見詰めたまま、クリスティン・サウザンドは背後の気配に向けて言った。
「俺も来ようと思っていたところだった。今日は親父さんの」
寡黙な同僚は、そこで言葉を切った。
すべて言わなくても、互いに分かっている。
今日はクリスの父の命日だ。
あの日のように、雨が降るかもしれない。
白い花が手向けられた墓石に背を向け、クリスは出口の方へと歩き出した。迎えに来た同僚の顔も見ない。
一層空が暗くなってきたような気がする。
「私たち、そんなに仲良しだったわけじゃないのよ。知ってると思うけど」
湿っぽい風に掻き回された金髪を指先で整えながら、無言でついてくる大柄な影に口を開く。
「勿論仲が悪かったわけじゃない。普通よ、普通。七つの頃に母さんが死んで、父ひとり子ひとりだったけど、あの頃はまわりの子たちと同じで、父親を鬱陶しく思ってたかもしれないわ」
父親の相棒だった男は、黙って聞いている。
クリスも別に、相槌や慰めが欲しいわけではないのだ。
「あの頃、何の事件に関わってたのかは知らないけど、あのひととっても忙しそうだった。生活パターンがずれてたから、何日も顔を合わせないなんてザラだったのよ。だけど、あの朝―――」
朝から小雨が降っていた。夢にまで割り込んでくる、さわさわとした雨音。
「わざわざ私の寝室に入ってきて、しばらくじっとしてた。雨が気になって目が覚めてたんだけど、なんだか起きだすのも気恥ずかしくって、狸寝入りしてたのよ。一体なんだろうって、気味悪がってたかもしれないわ。だけど」
それが、生きている父親の最後の記憶なのだ。
姿を見たわけでもない。背に気配を感じていただけだ。
生まれたときからすぐ傍にあって、けれども他人である気配。
気を張らずに添える、それが初めからゆるされている、不可思議な。
首筋あたりに、じっと注がれる視線を感じていた。
“見納め”だったのかと。
今になってから思う。
あのとき、もう既に彼は何かを、飲み込んで腹に据えてしっかりと、覚悟していたのかもしれないと。
穴が空くほど注視しながら、それでも、彼は何も言わずにしずかに扉を閉めた。
クリスは今もその音をくっきりと覚えている。
父は二度と、自らの手でその扉を開くことはなかった。
一日中雨は降り続き、夜半を過ぎた頃から風を伴い空は荒れた。
決して頑丈ではない扉を乱暴に叩く音で、クリスは現実に引き戻された。
虫の知らせなど信じないが、その晩は寝付くことができず、居間のテーブルでぼんやりしていたのだ。
木の椅子を引いて立ち上がる音が、やけに大きく部屋に響く。
この家に今は、誰もいないのだ。自分以外には。
決して上等な家ではないし、手狭なほどだ。けれども、ひとりでいるには広すぎる。
自分のたてた物音に驚いているうちに、また激しく扉が叩かれた。
灯りを一切つけないうちに、夜が更けた。だから家中が暗い。
時計も見えない。
父娘ふたりの家があるあたりは、カルチェ・ラタンの南―――下町に位置するが、決して治安が悪いわけではない。
が、確実に深夜だ。こんな時間に訪れる客が、朗報をもたらすとはとても思えなかった。
小娘は、ためらうべきだった。
未だ親の保護を必要とする、脆弱な子どもは、無防備に扉を開け放つべきではないのだ。
狼に食われないとも限らない。通り魔でないと、何故知れる。
けれどもそのとき、何かが確実に麻痺していた。
クリスはかすかな明かりを頼りに開きなれた戸口に近づいた。
鈍い打撃音が再び、扉を震わせた。数度、苛立つように戸をたたく。
寒いわけでもないのにかじかむ指先で、閂に触れる。
原始的な鍵をはずし、怯えを払うように一気に内側に引いた。
雷光が、戸口に立つ男の影を鮮烈に照らし出した。
見覚えのある、大きな男だった。
見知った人物であるということが、より一層、ある種の不安を掻き立てた。
気配を思い出していた。
朝、出かけてゆく父が、自分の寝室に立ち寄ったときの気配を。
幾度かまばたきをして初めて、クリスは既知の惨状に気がついた。
顔が真っ赤に濡れていた。
両目からおびただしく出血している。
エーク、とようやく名を呼んだ。びっくりするぐらい、か細い声だった。
すまない。
と、男は言った。若い、父の相棒は言った。
俺が止めていれば、とつづけた。
それは懺悔だ。悔恨の言葉だ。―――何に?
冗談のように震えだした指先で、クリスはエークの腕を掴んだ。
おとうさんは、と唇が動いた。
相対する人間の惨状を、この目でくっきりと見ておきながら。心配することも、同情することもせずに、利己的に、自分の欲求を口に出した。
様々な感覚が閉じていた。雨音もよく聞こえなかった。風に煽られて叩きつけてくるはずの雫も、冷たいとは思わなかった。
既に体が勝手に防御線を引いていたのかもしれなかった。
もう、予感はあって。
だから、訪れるはずの衝撃に備えた。
すまない、とエークはもう一度詫びた。
“わけのわからない怒り”が突然、腹の奥で噴火を起こした。
気がついたら、満身創痍の男の胸を、力一杯殴りつけていた。
お父さんはどうしたのよ! 一緒じゃなかったの!
―――死んだ。
あまりに呆気なく零れた解答を、クリスは受け止めそこねた。
しっとりと雨を吸った髪からこめかみに落ちた雫が、ぬくまって顎まで伝う。
殺された。
もう一度くっきりと答えを与えられて、クリスはようやく思い知った。
エークの胸に打ちつけた拳を支えに、ぐらりと項垂れた。
雨よりもよっぽど熱い雫で、頬が濡れる。酸素を求めて開いた唇から口の粘膜に滑り込んで、その塩気でクリスは、自分が泣いていることに気がついた。
どうして。
濡れた服越しに触れる、エークの肌が熱を持っている。
傷ついているのだ。けれど、クリスには気遣えなかった。
―――双頭の悪魔、だ。
呪いのようだと思った。
あの日クリスは、その名に呪われたのだ。
墓地の敷地を出ると、なだらかな坂に出た。
聖都カルチェ・ラタンは、街の北側に象徴たるツインタワーをいただき、そこから南へなだらかに下っている。
ツインタワーは、教皇庁と中央議会だ。
人々は常に、剣と権力に上から見張られている。
クリスは咽喉を反らして、ツインタワーを見上げた。
権力の象徴たるあの塔の足元に、教会が抱える正規軍の本部がある。
そこに、呪いの根源は”いる”のだ。
「もしも出会ったら、どうする」
父の相棒であった男は、普段どおりの、あまり抑揚のない声で訊いてくる。
「……わからない」
目を伏せるようにして、クリスはツインタワーから視線を引き剥がす。
正直な気持ちだった。
どうしたいのか、自分でもよく分からない。
双頭の悪魔―――教会正規軍東軍大将、ミカエル・シャイアティーン。
嵐の夜、クリスから父を奪った男の名だ。
一切がヴェールに包まれている。表舞台には出てこない。
実在するのかも疑わしい、とすら言われている。
およそ、神の兵には似つかわしくない”渾名”がどこからついたものかも、定かではないのだ。
だが、まぼろしは、人を殺せない。
双頭の悪魔はいるのだ。
今も、この街のどこかに。
「捜査会議ってことは、例のサロンへの立ち入り許可が下りたってこと?」
クリスは、権力の象徴に背を向けて歩き出した。
意識を今に切り替える。
ああ、と相棒は淡白に答えた。
「さすが法の番人、ラハティエ・バレンシアね。元老院に呼び出されて返り討ちにして、まだ三日でしょ」
元老院のお歴々は、あれほどかたくなに貴族街への立ち入りを拒んでいたというのに。
法の番人、天秤を持つ女豹と尊敬と畏怖と揶揄とで呼ばれる、警備省初の女本部長。
ナフシオンと名乗る異端者について元老院に召喚され、”やりかえして”帰ってきた。
具体的にどのようなやりとりが行われたのかは、クリスは知らない。が、よほど強烈な一撃を食らわせて帰って来たに違いない。
日和見の元老院にしては、対応が素早すぎる。
「ようやくお偉方も、玩具を諦める気になったようだ」
おそらく彼らは、集団で結託をして、件のサロンに何かを隠匿していたわけではない。
都合やセンスの良い遊び場を、手放す踏ん切りがつかなかっただけなのだ。
隠すならば、もっと賢くやる。貴族は狡猾だ。
「今晩、一斉検挙だ。警備省単独の任務になる。軍は一切タッチしない」
「ありがたくって、涙が出るわ!」
鼻息も荒く、クリスは吐き捨てた。
早々とナフシオンを異端者と呼んだくせに、教会はノータッチと来た。
高みの見物というわけか。気に入らない。
だがエークは、賢明な判断だと思う。
クリスの教会嫌いも相当だが、元々ふたつの組織はそりが合わない。下手に共同戦線など張ろうものなら、あちらこちらで諍いが起きることは想像に難くないのだ。
中途半端に立ち入られるぐらいならば、手を出されないほうがましだ。
お互い犬猿の仲であることは重々承知している。
相互不干渉は賢い。
喰い合い、潰しあわぬために、必要なのだ。
勿論クリスも、その道理はわかっている。ひとつひとつに文句をつけないことには気が済まないだけなのだ。
「少し前に」
背後から小柄な同僚を追いながら、エークが口を開いた。
「街で出会った少年を、覚えているか」
「少年?」
クリスは肩越しにエークを振り返る。
怪訝そうに眉をひそめた。
「金の目をした、賢そうな子どもだ」
エークの両目はゴーグル型の義眼で覆われていて、表情を読み取ることはできない。声は元々抑揚に欠けているから、尚更だ。
「あ、ああ。正面衝突した子だ。確か―――エル? とか、そんな名前だったかしら。どうしたの、突然」
「……あの、少年を迎えにきた男、東軍の佐官だぞ」
「え? あの若いお父さん?」
クリスは今度は、あからさまにしぶい顔をした。軍の名が話題にのぼったからだ。
「ゼイン中佐だ」
エークは賢い男だから、教会がらみの話題がどれほどクリスの機嫌を損ねるのか、経験則で知っている。普段は自分から、その話は振らない。
だが、今日は引きずった。
「へぇ、軍服じゃないと分からないものね」
あくまで素っ気無く、クリスは返した。
が、声のトーンが幾分か下がっているので、気分を害したことは明確だった。
ぷいっと、拗ねた子どものようにエークから視線をはずす。
「あの少年」
「エーク?」
様子がおかしかった。
彼には誇張も嘘もない。ばっさりと明快で、分かりやすい男なのだ。
歯に衣着せぬ、ともいえるが、クリスにはありがたい。身内とまで腹の内を探り合って会話をするのは疲れる。
だから、エークの正直さをクリスは高く買っている。それなのに。
煮え切らないなど、おかしい。
「いや、なんでもない」
義眼の大男は自分から会話を切った。
同僚に負けず劣らず、クリスもまた潔癖で裏表がない性格だ。割り切れないことは気持ちが悪い。
エークの態度に違和感を覚え、食い下がろうとした。
が、短く切った髪に守られぬ項に、ぽつんと冷たい雫がひとつ落ちてきて、追及を断念した。
雨が降り出した。
4.
“それ”は、陰口を叩かれるのに似ている。
どこか遠くでひそひそと交わされる声だ。
一体それを誰がどうして、”神の声”などと呼んだのだろう。
雄雄しくも神々しくも凛々しくもない、ノイズを。
何故幻聴と片付けなかったのだろう。
常に陰口が付きまとっている、だなんて。なんと被害妄想に似ていることか。
呼べと、命じた人間がいたのかもしれない。
遺伝子に組み込まれたただのプログラムを、信仰の対象にしろと。
“選ばれた証”と尊べと。
上から命じた誰かが、いたのか。
唐突に、そんなことに気がついた。気がついたら、絡まりあった糸が突然、すっきりと解けた、ような気がした。
錯覚かもしれない。間違っているかもしれない。
それでも一番、分かりやすい。
不安定で不可思議な事象に名を与え、形をととのえた何者かが、いる。おそらく。
いなければ、おかしいのだ。
本当に”神の声”が、選ばれたものにしか聞こえないというのならば。
聞こえるはずがない。ハルトはそう思う。
神に仕える資格、篤い信仰を持っているものにのみ与えられるものだというのなら、自分にお鉢が回ってくるはずがない。もっと適任がゴロゴロいる。すぐ傍にだっている。
神の船―――聖域ファレスタ山脈に放置されている宇宙船ガイアズメールで神の声のからくりを知ったとき、実は心の底から安堵した。
ただのプログラムじゃないか。
特定の遺伝子に反応して通信を可能にする、遺伝子通信の名残。
必要なのは盲目な信仰などではなく、遺伝子なのだ。
太古の名残が、この体を構成するどこかに残っている。ノイズがそこに届く。
明快だ。分かりやすい。
“今この瞬間、誰かの音が聞こえていても”、神の所為ではない。
何かを受信している。それだけの話だ。
耳鳴りは、深く地に潜るほどに強くなった。
件の空間転移装置があるという地下道に辿り付いたときはまだ、ただの雑音だった。
砂嵐の只中か、上手くチューニングされていない通信端末。雑音が多くて、ざらざらと神経に障る。
偏頭痛のようなものだ。そのうち落ち着くだろう。
地下道自体は粗末なものだった。
体裁など顧みずに、深く深く掘り進んだだけ。洞窟と呼んでもいい。
ごつごつとした岩肌が露出していて、道幅も均等ではない。
もちろん、明かりなどどこにもない。
先頭を歩くモエがかざす、ランプが唯一の光源だ。
その明かりすらゆらゆらと不安定で、足元も決してなだらかではないから、いたるところで躓きそうになる。
自然、歩くことに集中するから、誰も無言になる。
ゆえに余計にノイズが気に障る、という悪循環を先程から繰り返していた。
地下に潜るほど、何故か声は明瞭になった。
サイジョウが先程話題に乗せた巨大な金属の壁にぶち当たる頃には、どうやら複数人の会話らしいことが分かるほどになっていた。
「大きいですね」
眼前に立ちはだかる白銀の壁を見上げて、レイがつぶやいた。
全く当たり前すぎる感想だった。それほどまでに圧倒されていたということだろう。
確かにその壁は、圧力を持っていた。
細く低い穴を奥へ奥へと進んだ先で、唐突に開けたドーム状の空間に、それは控えていた。
咽喉を精一杯反らして見上げねばならぬほど、天井は高い。
光源はちいさなランプひとつだというのに、暗闇は払われていた。相対した白銀の壁が、自ずからほのかな光を発しているのだ。
「開けゴマー、なんてね」
暢気な声をあげて、サイジョウは右手の掌をぺったりと冷ややかな壁にくっつけた。
少しの間を置いて、かすかに地面が揺れた。ずん、と体に響く揺れを伴って、白銀の壁が、真ん中から上下に”割れた”。
―――殺したらいいわ。
女の声だ。笑いをふくんている。
無機質な壁が上下に開いてゆくのを眺めながら何故かハルトは、風を感じていた。
勿論、開かれつつある道の先から吹き付けてくるものではない。
風の音が聞こえているのだ。
―――それで、貴方の気が済むのなら、殺したらいい。
遠くで風が低く唸っている。獣のように。
後頭部のあたりにこびりついている。女の声が風の音に紛れる。
剣呑な言葉を”受信”しながら、ハルトは眼前に開かれた道を見据えていた。
鋼鉄の扉で守られた奥は、遺跡のつくりと良く似ていた。
四方を金属の壁で覆われ、現在の技術ではとてもではないが組み上げられないような機械(マシン)がゴロゴロと並んでいる。
ここもまた、遺跡のひとつか。
サイジョウは躊躇いもなく先へ進んだ。ごつごつとした地面から金属の床に踏み入れると、明らかに靴音が変わる。
踵と金属が打ち合う音は、良く響いた。
―――けれど覚えておきなさい。私を殺しても、貴方の罪がひとつ増えるだけ。
女の声は凛々しい。清水のように、澄んでいる。
ハルトはサイジョウに倣って、殿(しんがり)で遺跡に踏み入れた。
かつん、と靴音が変わる―――筈だった。
びょう、と。風の音が聞こえた。
突然周囲が明るくなって、思わず足を止める。
足元に落としていた視線を持ち上げると、前を歩いていたはずのみっつの背中が見つからなかった。
確か、地下深くに潜ったのではなかったか。光源はランプひとつ。あとは完璧な闇だった。先程までは。
しかし今は、見渡す限り、死んだ大地が広がっていた。
赤茶けた岩ばかりが連なっている。
渇いた風が渡る、不毛の大地。
“バベルじゃないか”。
まばたくのも忘れて首をめぐらした。
「貴方の背負う荷は増えつづけている。それでも、続けるというの」
涼やかな女の声が、背後から聞こえた。
振り返り、たたらを踏んだ。
足元に、無造作に放り出された人の体が転がっていた。
開かれたままの双眼は、最早なにものも映し出さない。
赤茶けた地面に、闇を塗りこめたような漆黒の髪が広がっている。
濁った瞳は、血液の色だった。
「今更、と言いたいのでしょう」
死体を挟んだ、もっと奥から女の声が聞こえている。
すっかり強張ってしまった肉体から無理矢理に視線を剥がして、ハルトは声の主を探した。
真っ先に目に飛び込んできたのは、緋色だった。
ハルトははじめ、リョウコかと思った。
奇妙な服装の、未だ少女と呼んで構わない女が、左右から両腕を捕まれる形で押さえ込まれ、地面に跪いていた。
キモノ。今となっては、ごく一部の地域―――聖都から遙か離れたロウエンという街―――以外では見かけなくなってしまった、伝統衣装だ。初めてリョウコを見たとき、彼女はそのキモノを纏っていた。
がっくりと首を項垂れた少女の髪は艶やかな濡れ羽色で、滝のように地面に流れ落ちている。
少女を両脇から押さえ込んでいるのは男だ。若い。奇妙な光沢を放つ服を着ている。
そして、膝をつく少女の正面に、もうひとつ人影があった。
少女の言葉はおそらく、相対するその男に向けられている。
「かわいそうに」
声音が笑みを含む。明らかに、侮蔑の響きだった。
「私を殺して、貴方に抗う私の同胞たちを潰して、癒されると思っているの。残念だけれど、貴方の業はもっと深い。貴方の罪は消えないわ。決して、癒されない」
少女は毅然と顔をあげて、相対する男を見据えた。濡れた、血の色の双眼で。
「お前は触れてはならぬものに触れたのだ。一介の人間如き、弄んで良いものではない。ひとの―――心は」
人が変わったかのように、現在では「鬼」とすら呼ばれる容貌の娘は、自分を見下ろす男に向かって言い放った。
「我々は、長い間暗い海原を彷徨ってきた」
しずかな男の声が答えた。少女を見下ろす男が、右手を腰のあたりに彷徨わせながら、口を開く。
「生き残るために、様々なものを棄てた。淘汰されてきた。選ばれたものだけが、生き残ることがゆるされていたのだ」
耳に触る男の声には、聞き覚えがあった。
まさか。
うつくしい顔立ちの少女から、ハルトは相対する男の方へ焦点をうつす。
“現れすぎ”だ。
あちこちに、足跡が多すぎる。
人はそれほど長く生き延びてはいられないはずだ。
高々百年のスパンで咲いて枯れる。そうでなければ、おかしい。
“神でもないのに”。
金の髪を持つ男は、腰に巻きつけたホルスターから、一丁の得物を抜き出した。
いとも簡単に命を奪うことの出来る銃器を、未だあどけなさすら残す少女に真っ直ぐに向けた。
「お前はいつか、孤独のうちに、滅ぶ」
銃口を向けられて尚、少女は毅然としていた。
「巫女(シャーマン)最後の予言か」
「予言などではない。言霊を畏れよ、これは呪いだ。お前は苦しみ悶えながら生きながらえて、いつか、ひとりで滅びる」
冴え冴えとしたアイスブルーの瞳と、紅の視線がしばし、絡んだ。
「―――覚悟の上だ」
まるで血を吐くように苦々しく、男は。
今現在は大司教と呼ばれる容貌を持つ男は、呟いて、引金を引いた。
TO BE CONTENUED