TWO MEANS



1.

 一睡も出来なかった。
 世界に靄がかかったようだ。
 重い体を引きずって、あばら屋の扉を開く。
 貧相なテーブルに、女が座っていた。
 ドアが開閉する音に、緩慢に頭を持ち上げる。
「ひとりか?」
 掠れた声で、ハルトはモエに訊いた。
 モエは苦笑をして、下に、と言った。
 このあばら屋の地下に広大な空間があることは、もう分かっている。
「―――ファンは」
 逡巡したあとに、訊いた。
 おそらく、彼はここを訪れたのだろう。そののちに何があったのかは分からないが、聞くのは躊躇われた。
 嫌な予感が、なかったわけではないから。
「……わからない。生きてはいる、けど。目が覚めるかは」
 疲労をたたえた顔で、モエはゆるく首を横に振る。
 ハルトの後ろで、レイは幾分か胸を撫で下ろした。
 生きてはいる、のか。
 決して安心できる状況ではないにしろ、最悪の事態は回避されている。今は、それでいいような気がした。
「サイジョウは下か?」
 ハルトが問い掛けると、モエはゆっくりと首を縦に振った。
「遺跡の奥の、居住フロアにいます。ファンくんの様子を見てるって」
「わかった」
 狭い部屋を横切って、ハルトは左手側、開いたままの地下への入り口に脚を運んだ。
「大丈夫?」
 モエの傍らまで近づいて、レイはいたわるように訊いた。
 いつも気丈にふるまっている彼女に、覇気がない。
 頭を重そうに持ち上げて、モエは苦々しい笑みを浮かべた。
「体が疲れてるわけじゃないんですけど、いろんなことがいっぺんにあって。びっくりしちゃって。……ありがとう」
 疲労が滲んだ微笑に同じようなものを返して、レイは先に地下へ下りた相棒の背を追った。

 冷たい靴音ばかりが響いている。
 地下通路にははじめから照明がない。昔はあったのかもしれないが、現在は皆無である。
 ゆえに、日が高いうちから漆黒に塗りつぶされている。
 道は一本道だし、遥か果てにうすぼんやりとした光が見えるので、迷う可能性などないのだが、圧迫感がある。
 ふたりとも、無言だった。
 昨晩のことがずっと尾を引いている。ずるずると、長く重い鎖のように。
 闇に翻る、病的に白い包帯の色ばかりが、目蓋の裏に焼きついている。


            *


 男の顔には、見覚えがありすぎるほどだった。
 魔法のようにするすると解けた包帯が風にさらわれて離れた場所に落ちた。
 叱られたことや褒められたことなどが一瞬で脳裏に溢れかえって、混乱した。
 悪夢ならばすぐに覚めればいいのに。
「どうかしたかね」
 遠のきかけた意識を、かすかな笑いを含んだ声が引きずり戻した。
「それは、こっちの台詞だ」
 ハルトの声は普段とは比べものにならないほどに震えていた。
「これはどういうことだ!」
「どう?」
 怒声に、ランドウは僅かに眉をひそめただけだった。
「わたしの部下が、誰かに似ているかね」
 ふたりの動揺がどこから生まれてくるものか、はっきりと自覚している顔でランドウは言った。
 ぐぅと抑えようのない怒りが一気に噴きだした。
「てめぇっ―――!」
 激昂したハルトがランドウに掴みかかろうと伸ばした腕を。
 割って入ったジンがいとも容易くさばいた。
 咄嗟に距離をとったハルトは血が滲むほどに唇を噛む。
「神父は、あの日に死んだ」
 刻み付けるように、うめいた。
「俺たちの父親はあの日に! 死んだんだ!」
 まるで自分を叱咤するように叫ぶ。
 ぐっと息を飲んで、レイは右手を肩と水平になるように持ち上げる。
 右手首に手を添えて、銃口を軍服の男に定めた。
(そうだ。あの日、神父は死んだんだ)
 だから、別人だ。
 震える体に言い聞かせるように、何度も繰り返した。
 たとえ体が同じであったとしても、もう自分の知っている名付け親では決してありえない。
 彼が教会のもとに下るなんてありえない。
 否定の言葉をいくつも見つけては、体に染み込ませるようにくりかえす。
 けれども。
 引金にかけた指が、ぴくりとも動かない。
 どれほど理屈を並べようと、目がとらえているのは育て親の姿に違いないのだ。
 思い出が多すぎる。
 照準が揺らぐ。
「一体何の!」
 血を吐くように、ハルトが吐き出した。
「何の冗談なんだよ」
 もう戦えなかった。
 体の力を吸い取られたかのように、ハルトは肩を落とす。
 いつのまにか、レイの腕もだらりと下がってしまった。
 撃てるはずがないじゃないか。
 無抵抗になったふたりを青みがかった目で一瞥してから、ランドウは傍らの部下に目を遣った。
 感情の揺らぎが感じられない人影には、怒気も殺気もまったく感じられない。
 ハルトの腕をさばいたときもそうだ。
 すべてが事務的な作業だった。
 風のわたる音がやけに大きく聞こえた。
 もはや、どうすることも出来なかった。脆弱と言われても、とてもではないが名付け親と同じ顔に手をあげることは出来ない。
 手にした金色の銃身を鉛のように感じながら、レイは唇を噛んだ。

「通信が―――」
 しじまを切るように、抑揚に欠けた声が響いた。
 耳慣れた声に、ふたりは身を竦ませる。
 記憶と、少しも違わぬ声音だった。
「途切れました」
 臨戦体勢を解いて、ジンは端的に告げた。
「そうか、残念だな」
 さして落胆しているようには思えぬ口調でつぶやくと、ランドウは既に身を翻している。
「アザゼルはこれまでか。予測の範疇とはいえ、あっけないものだ」
「―――ウルムスの遺体は」
 何事もなかったかのように背を向けて歩き出すランドウに、ジンは従った。
「構わん。これで腰の重い貴族院も、テロリストへの報復に動かねばならんだろうよ」
 次第に遠ざかる背に、ようやく金縛りがほどけた。
「待ってください!」
 震える体を叱咤して、レイはもう一度ティフェレトを構えた。
 西軍を統べる男は、いっそ優雅な素振りで振り返った。
 かすかに震える銃口に、脅しの効力がないのは分かっている。が、このまま行かせることは出来なかった。
 彼が、一体何者なのか。
「我々は、過去の残骸だ、光くん」
 何故か声に憂いをふくませて、ランドウが言った。
「分かりません」
 謎かけでは、分からない。
「知らぬほうが幸せだ」
 背後にふたつの月を背負い、突き放すようにランドウは続ける。
「パンドラの匣を、開けようとは思わぬほうがいい。寓話のように、希望が残っているとは限らない」
 まるで賢者の物言いだった。
「昔話なんてどうでもいいんだよ」
 苦々しく、ハルトが吐き捨てる。
「俺は、地の果てでも追っていって、おまえをぶっ殺す」
 ランドウは愛でるように笑う。

「"アーク"を探しにおいで」


             *


 HGではないのか。
 うまく回らない頭で、ふたりはそう推論を立てた。
 もし、ファストの遺体を持ち去ったのがランドウだとしたら。あの禍々しい粉ならば、何らかの形で動かすことも可能かもしれない。
 しかし、HGは魔法の粉ではない。死んだ人間を元に戻すわけではない。
 別の生きものだ。
 さも、生きているかのように体を動かすだけだ。
 そんなことはふたりも重々身にしみてわかっている。
 問題はそんなところには無い。
 彼が―――今まで全く何者か分からなかった西軍中佐が、ファストと同じ姿をしているということが、最大の問題なのだ。
 もしもまた彼が立ちはだかったとしたら。
 別物と割り切って、引金を引くことができるだろうか。
 答えは、火を見るよりも明らかに思えた。
 昨晩の出来事がすべてを物語っている。
 傷つけることなど―――。

 ふと、前を歩いていた足音が途切れて、レイは我に帰った。
 非常灯がほの白く灯った広大な空間は、いまや目の前にある。
 先程と比べてもう随分と明るかった。
 鉄錆のような臭いがする。立ち止まったハルトの肩越しに前方を見て、レイは息を飲んだ。
 白銀の床に、赤黒い色がべったりと張り付いていたからだ。
 濃いペンキをぶちまけたようにも見える。
 小さな舌打ちを落として、ハルトはおびただしい血痕を跨ぎ超えた。
 足音の響きが変わった。
 反響の大きさは、そのまま天井の高さを表している。
 遥か昔の、反乱拠点。サイジョウはそう説明したけれど、いまいち実感が湧かない。
 ただ、太古の遺物である機械端末が部屋を埋め尽くしている。
 いくつものモニターと、コンソール。配線がまるで血管のように部屋を埋め尽くしていた。
 足音も高らかに鋼鉄を踏んで部屋を横切るうちに、対面の壁にある扉が横滑りに開いた。
「おや?」
 小さな声も、よく響いた。
 くたびれたシャツに緩んだネクタイを結んでいる男は、姿に負けないぐらい酷い顔をしていた。
 いつも引っ掛けている眼鏡もなく、普段から不健康そうな顔は疲労が滲んでいっそ憐れなほどだ。
 それでも、二人の姿を見とがめて、いつものように含むような笑みを口元に浮かべて見せた。
「疲れているみたいだね」
「そっちこそ」
「色々あってね」
 小さく、サイジョウは肩をすくめた。
「ファンくんは」
 いても立ってもいられずに、レイは訊いた。
 サイジョウは口元から笑みを消して、少し乱暴に頭を掻いた。
「生きてる。―――生きてはいる、と言ったほうがいいか」
「ヤバいのか」
「いや、落ち着いたよ。これでもう、命に別状は無いと言ってもいいだろうが」
 大股に、一際巨大なコンソールまで歩み寄ると、その椅子にどかりと座る。
「いつ目が覚めるかは分からないな。随分失血していたし、目が覚めたとして、脳に障害が残らないかどうかも疑問だ。あとは、僕らが出来ることはないね」
 ふたたびサイジョウは笑った。自嘲めいた笑みだった。
 生きていてくれただけでいい、と言えないときもある。
 言葉を捜しあぐねて、ふたりは一様に黙り込んだ。
「……ときに、レイくん」
 背もたれに体重をあずけ、うな垂れるように座ったままで、サイジョウが沈黙を破った。
「君に聞きたいことがあるんだ」
「僕に?」
 いつもは眼鏡に覆い隠されているからわからない、眼光の鋭い瞳を、サイジョウはレイに向けた。
「君が専門として学んだ学問において、"アーク"というのは、一体なにを意味する言葉なんだろう」
「神学で、ですか」
 ゆっくりとサイジョウは首肯した。
 場違いな質問にも思えたが、同時に既視感のようなものも覚えた。

―――アークとは、何か。

 睡眠が足りていないせいで上手く回らない頭で、考える。
 辞書のページを思い出そうとする。
「そのままの意味で、箱舟、ですよ」
「他には」
 まるで詰問のような鋭さで、サイジョウは促した。
「他、って……」
 そんなことを急に言われても。
 が、何かが泡のように表層に浮かんできた。天啓にも思えた。
 愕然と、レイは目を瞠った。
 確かに、彼が専門として学んだ分野以外には、あまり使わない意味合いがある。
「―――聖櫃(せいひつ)」
 独白のように、レイは口走った。



2.

「問題は、ですぞ」
 口元に蓄えた髭を神経質そうに弄いながら、貴族院の束ねであるカーチェス公は息巻いた。
 対面に座す女を、老獪な眼差しで射るように見据える。
「未だ、ペテン師を捕まえられていない、ということにある」
 決して広くは無いその部屋は、会議室と称するよりも面接室と名づけたほうがしっくりくるような場所だった。
 カーチェス公の座す側に数人、貴族院を代表する名家の人間が居並び、真向かいには女がひとり。
 あと入り口のあたりに軍服に身を包んだ長身の女がひとり、控えているきりだ。
「我らが仰ぐのは偉大な"父"のみ。それより他を崇拝してはならない。けれども、ここ最近の騒動はなんだ。まるで救世主(メシア)が現れたが如き騒ぎではないか」
 面接官のように居並んだ貴族たちは、それぞれ冷ややかな目で対面の女を射る。
「明らかなペテン。明らかな異端行為。何故未だそのような異端者をのさばらせておくのかね」
「お言葉ですが、カーチェス公」
 会議用の、飾り気の無い机の上で組み合わせた両手を見下ろしていた女が、初めて口を開いた。
 黄緑色の瞳を、ついと、指先から対面に持ち上げる。
「わたくしどもは全力を挙げて捜査をする所存です。しかしそのためには様々な協力が必要になるのです」
 警備省のトップであるラハティエ・バレンシアは、爬虫類をも連想させるその眼差しで、居並ぶ貴族たちをゆっくりと見回した。
 貴族たちはあからさまに眉間に皺を刻み、汚らしいものを見る顔になる。
「何を要求しようと言うのかね、金か? 我々は随分と警備省に寄付を寄せているつもりだがね」
 害虫を見る目つきで、カーチェス公は警備省初の女性本部長を見据え返した。
「ええ。多大なる寄付を頂いております」
 口元に僅かな笑みを浮かべ、ラハティエは頷く。
「それならば一体―――」
「件の予言者はおそらく、カートレット家が経営していたサロンにおります」
 ラハティエは毅然と、貴族の反論を封じ込めた。
「我々はいつでも、踏み込む準備は出来ている。しかし、あのサロンを今も愛する方々が多くいらっしゃるものですから、なかなか許可が下りませんで、困っております」
 一瞬の、空白があった。
 居並ぶ貴族たちが皆一様に、目を瞠るのが見えた。
「先のドラッグの一件で、カートレット家の嫡男であるドイル・カートレットは、爵位と特権の剥奪が決定しており、指名手配中です。しかし彼は何故か捕まらない。どうしてでしょう? それこそ我々は虱つぶしに、この聖都を探しているのに、です。不思議だとはお思いになりませんか」
 端に座す伯爵夫人が、扇でそっと口元を隠した。先程と比べて、顔色がよくないように見える。
「我々が唯一許可無く踏み込めない場所が、貴族街です。そしてあなた方は頑なに、『天国の淵』への出入りを嫌がられる。何も後ろ暗いところがおありでないのならば、捜査の許可をいただきたい」
 朗と響く女の声に、答える声はなかった。


            *


「相も変わらず、怖いもの知らずだな」
 後の通達を待て、と言い残して貴族たちは引き上げた。
 扉の傍らに控えていた軍人が、犬猿の仲であるはずの警備省トップに声をかける。
 傾きかけた日差しが差し込む室内には、今やふたり以外の人影はない。
「貴族院に噛み付くとは」
「法とは常に平等であるべきものなのさ」
 ラハティエは肉食獣めいた双眸を、扉の脇にもたれかかる軍人に向けた。
「階級も特権も関係ない。我らはただ法を元に動くだけだ。貴族たちはあからさまにあのサロンを庇っている。お気に入りの遊び場がなくなることがそんなに怖いものかね。どう思う、あなたも貴族の出だろう、"元帥閣下"」
 明らかな揶揄に、正規軍元帥であるユダ・ゴートは柳眉をひそめる。
 無言の応えに、ラハティエは軽く肩をすくめて席を立った。
「我らは必ず、ドイル・カートレットを捕らえてみせる。すべてのものが平等に、犯した罪の重さを背負わねばならない。権力などに邪魔はさせないさ」
 颯爽とした足取りで扉へと歩を運び、頑丈な扉を内側に開く。
 未だ壁に背を預けたまま動かないユダへ、ラハティエは黄緑色の双眸を向けて。
「教皇猊下の暗殺の一件だがね」
 幾分か声を潜めて、切り出した。
 ユダは僅かも動きを見せない。
 視線は、傾きかけた陽光が差し込む窓を見ている。
「捜査は完璧に軍が仕切っているから、我々は首を突っ込もうとは思わないが」
 すう、と。ラハティエは双眸を眇める。
 何かを見定める顔をした。
「目撃者が全くいない殺人犯など、本当に居るのか?」
 僅かな沈黙のあと、ユダが緩慢に顔を動かし、ラハティエと視線を合わせた。
 しばしの間無言の睨みあいが続いたあとで。
「早期解決を祈っているよ」
 見透かすように微笑して、ラハティエは廊下に消えた。
 颯爽とした足運びの、その踵が床を打ち鳴らす。足音が聞こえなくなってから、ユダはつまらなそうにひとつ吐息を落とす。嘆息だった。
 救われた、ことになるのだろうか。
 ユダはなにも、監視や警備などに借り出されたわけではない。
 ラハティエと同様に、尋問を受ける側として、貴族院に召喚されたのである。
 未だ証拠すら掴めぬ教皇暗殺の犯人。そして、謎の予言者ナフシオン追跡。ふたつの捜査がどれほどの進捗状態なのか。それを問い質すために呼び出された、のだろう。
 しかし貴族院のお偉方は、ラハティエの啖呵に顔色を無くし、早々に引きあげてしまった。
 あの女、何に気づいている?
 臓腑までも見透かすような爬虫類じみた双眼。国中のならず者を震え上がらせる、"鬼の本部長"だけある。法の番犬である奴の、するどい嗅覚に何かが引っかかったのか―――。
「ああ、いたいた。もう終わったんじゃないの?」
 ノックもなしに扉が開かれたかと思うと、足元のあたりから愛らしい声が言った。
「ミカエルか」
 名前に負けずに天使のように愛らしい部下の登場に、ユダは壁に預けていた体を起こした。
「例の本部長殿がいつもどおり凛々しい顔つきで出て行ったから、終わったんじゃないかと思ってね」
 ミカエルは私服である。
 彼は軍本部以外では軍服を着ない。
 東軍大将は、謎の人なのである。
 このような愛らしい容姿の、どこからどうみても少年にしか見えぬ人間が出張っていって「大将だ」と声高に叫んだところで、誰も信じたりはしないだろう。
 軍本部に出入りができる人間は限られている。中でも佐官クラスの執務室へは、正式な許可と、厳重で入念な身元証明を行ってからでなければ立ち入ることも許されない。
 ゆえに、彼が軍大将であるということを知るものは少ない。
 聖都に配備されている軍人ならば、目にすることもあるだろうが、少し離れた町にもなると、おそらく大将の容貌すら知らぬものが大半だろう。
 表舞台へは、彼の部下であるジャンヌ・ビレスが率先して立ち、東軍のものたちは彼女こそ自軍のシンボルと考えているだろう。
 身内である軍内部でもそうなのであるから、殊、一般人は彼の姿を知らない。
 外見がすべて、という閉鎖的な世界ではない。が、しかしミカエルの姿は幼すぎる。
 それゆえ、彼は素性を曝しては歩かない。
 カルチェ・ラタンの名物である、この教皇庁と中央議会のツインタワーへも、持ち前の愛らしさと卓越した演技力でするすると入り込んできたのだろう。
 別にユダが連れてきたわけではない。
「警備省が、『天国の淵』へ踏み込みたがっているぞ」
 今や無人となった会議室をあとにして、ユダは先立って歩き出した。
 半歩ほど後ろを付き従いながら、ミカエルは「やっぱりね」と笑う。
「芋蔓式にナフシオンも引っ張り出すつもりだろう」
「それは困るなぁ。早く手を打たなきゃ」
 緊迫感など全く無縁の調子で、ミカエルは言う。
「異端者はこちらで捕獲しないとね。教会の面子がたたないし。何より、彼が何をしたいのか、聞くことがたくさんある」
 そして、幾分か声のトーンを落とし。
「HGの因縁もあるし、ドイル・カートレットとナフシオンは、僕が手を打とう」
 金の双眸に剣呑な色すら含ませて、低く、つぶやいた。


            *


 自分がつぶやいた言葉に、半ばレイは呆然としているようだった。
 その意味合いを思い出したことが、自分自身信じられない。
 唐突にぼろっと、高い棚から落ちてきたようなものだった。
「聖櫃、ときたか」
 なるほどね、とひとり合点がいった顔をして、サイジョウはどこからともなく引きずりだした煙草の先に火をつける。
「なんだ? その……セイヒツってのは」
 ハルトはたどたどしく、耳慣れない単語を舌先に乗せた。
 ふたりばかり分かっているのは納得がいかない。
 サイジョウは視線だけをレイに流す。説明は任せる、とでもいうつもりだろうか。
「聖櫃というのは、箱のことだよ」
「箱?」
「神と交わした契約が刻まれた、契約の石版をおさめる箱」
「契約の石版、ねぇ」
 それならば、知らぬわけでもない。


 わたしのほかに何ものをも、神としてはならない。
 自分のために刻んだ像をつくってはならない。
 主の名をみだりに唱えてはならない。
 安息日を覚え、これを聖とせよ。
 父と母とをうやまえ。
 人を殺めてはいけない。
 姦淫をしてはならない。
 盗んではならない。
 隣人に偽証をしてはならない。
 隣人を貪ってはならない。


 神とひととが交わしたという十の契約。それが刻まれているという契約の石版のことならば、幼子でも知っている。
 しかしそれを収める箱があるなどとは知らなかった。
「それがアークと呼ばれている?」
 紫煙に目を細め、サイジョウが問う。
「僕たちも滅多に使わない言葉ですけど」
 レイは頷いたあとで、首をかしげる。
「だけど、一体いきなりどうしたんですか、アークの意味なんて」
「ファンくんがね、見たと言うんだ」
 痛みを堪えるような顔で笑って、サイジョウは言った。
「教皇庁の最下層で、"アークを見た"、とね」
 アークを、見た?
 なにやら意味深な謎かけのようにも思える。
 だが、答え合わせをしようにも、当の本人は昏睡状態なのだ。
「最下層に船でも埋まっているのかと思ったが、どうもそれじゃあ辻褄が合わないと思ってね」
 箱舟は、ファレスタ山脈の聖域にうち捨てられているのだ。
 ふと、レイは引っかかるものを感じた。
 聖櫃。それは確かに頻繁に使う言葉ではない。日常生活にはまずあらわれない。
 学問として神学を専攻していた自分ですら、馴染み深いとはいえない。
 だが―――。
(どこかで、見たような気がする)
 そう遠くない。いつだ? どこで―――。
「そのことでひとつ聞こうと思ってたんだけどよ」
 レイの思考を妨げるかのように、ハルトが口を開いた。
 サイジョウはシートの肘掛に体の重みを預けるようにして、ハルトを見上げる。
「箱舟ってやつは、ひとつだけなのか?」
「どういうことだ?」
 ポーカーフェイスのテロリストにしては珍しく、サイジョウはあからさまに眉根を寄せた。
「半年前、あのゴタゴタの最中にカルチェ・ラタンの地下をうろうろしてたんだよ。そんで、公式には発表されてない遺跡みたいなものに紛れ込んだんだ」
 研究所へ向かうさなかだった。
「その構造は、俺たちが紛れ込んだファレスタのガイアズメールと、全く同じだった」
 すべての始まりである、禁断の神の船。
 それと同じ構造の遺跡が、カルチェ・ラタンの地下に眠っていた。
「あんたがくれたカードがなけりゃ、多分入り込めなかった」
 厳重なセキュリティロックは、おいそれと誰もがはずせるものではない。
「あれは一体なんなんだ? 神の船ってやつは、ひとつじゃないのか」
 短くなった煙草を無造作に床に落とし、サイジョウは爪先で踏みにじった。
「ひとつではない可能性なら、ある。だが、聖都の地下にあるとは、聞いたことがないな」
「ひとつじゃないって、どういうことなんだ?」
「聖書を思い出してみたまえよ、神は箱舟によってひとびとをこの星に遣わしたんだろう」

 聖書に曰く。
 神は巨大な箱舟で聖なる御使いをこの地へ遣わした。
 巨大なる邪悪から逃れ、清き魂を存続させるために。
 しかし御使いの中には神への反逆を企てた者たちがいた。
 神は怒り、そして嘆き。
 大地へ箱舟を叩きつけた。
 神に従順なる者は生かされ、大地に深く根付いた―――という。
 御伽噺のことか。

「ファレスタの神の船がどれだけ巨大か、僕は目の当たりにしたことはないが、幾ら遥か昔の話とはいえ、たった一隻の船如きの収容人数が、これほどまでに増えるものかね」
 神の船というものが、複数隻の"移民船団"だったとしたら。
 納得はいく。
「だったら、シャトーの遺跡も……」
 規模は違えど、同じような構造をしている。
「その可能性は十二分にある。なんにせよ、そのカルチェ・ラタンの遺跡がファレスタのものと同じ規模だったって言うんなら、―――調べてみる価値はありそうだ」



3.

 乱れた髪を乱暴に掻きあげる。
 肌がべたついて気持ち悪かった。
 廊下はひっそりと静まり返り、深い深い夜の闇に沈んでいる。
 先程夕暮れだと思っていたのに、もうこんな時間なのか。
 クレアはちいさく溜息を落とした。
 寝室の中は、時がとまっている。
 いつでも同じだ。見慣れたベッドに、甘ったるい香のかおり。互いの顔も良く見えないほどに絞られた照明。
 どうせすることはひとつだもの、顔なんて見えなくったって構いやしない。
 クレアは、この甘ったるい香のかおりが嫌いだった。
 時折嗅ぐ程度ならばまだ許せる。しかし、彼女にとっては"仕事部屋"なのだ。
 クレアは、「天国の淵」で働く、言わば高級娼婦である。
 ただ金持ちが遊びに来るというだけで、することは結局同じだ。自分を格上だとは思わない。所詮はなぐさみものだ。
 生まれた家は、地方では名の知れた貴族だったのだが、父親が気の弱い男で、占い師と名乗る胡散臭い女に入れ込み、財産を搾り取られ、呆気なく家は没落した。
 そして、クレアはここに"売られた"。
 美しく飾られ、たくさんの世話役に傅かれ、数多の男どもから甘い睦言を囁かれ、それが何だというのだろう。
 溺れるほどに宝石やら服やらを贈られたところで、囚人と同じではないか。
 太陽を拝まない生活、サロンの外に出られることがあっても、世話役という名の監視がつき、何よりも―――。
 スリップドレスの胸元をひらいて、クレアは左胸を見下ろした。
 照明がない廊下に、うすぼんやりと浮かぶ己の白い肌。そこに、鮮やかに咲く紫の薔薇。
 この街では、娼婦たちの体の一部に店の象徴を彫りこむのが通例になっているのだ。
 たとえ運良く逃げ出せたとしても、己の皮を剥いで生きてゆくことは出来ない。
 逃れられはしない。
 別に、逃れようと思ったことはないけれど。
 貴族の令嬢であったころから、いわば囚人のようなものだったのだ。
 美しく飾られ、屋敷の奥に厳重に匿われ、良家との縁組を待つばかり。
 何も変わってなどいない。
 陽のひかりをあまり拝まなくなった。ただそれだけのことだ。
 つまらない、繰り返しの日々。反復運動だ。
 朝も、昼も、夜も。
 逃れたところで、別の生き方をクレアは知らなかった。
 すくなくともここにいれば、生きることには困らない。
 とにかく今は、宛がわれた自室に戻って、熱いシャワーを浴びたかった。
 ずり落ちそうになる肩紐を引きずりあげて、やわらかい絨毯を一歩踏み出し―――クレアは息を止めた。
 真正面。廊下は丁度Tの字に接している。
 そこへ。
 ゆらり、と。白い影が、あらわれた。
 背筋を逆さに撫でられた心地になって、知らず、咽喉が鳴った。
 クレアは慌てて近くの扉を開き、猫のようにするりと滑り込んだ。
 仕事部屋と隣り合わせのその部屋は、支度やら後始末やらができるようになっているもので、今は無人だった。
 後ろ手に扉を閉ざし、早鐘のようになった鼓動を宥めようと、胸を押さえる。
 すべるように現れた白い影。
 亡霊などではない。そんなことは十分過ぎるほど良く分かっている。
 "正体など知っている"。
(こんな場所にいるなんて)
 こんななまぐさい場所に、あらわれるなんて。

 今、この屋敷で、この街でその名を知らぬものはいない。
 神の兵どもからは血眼で追われ、それと同時に狂信者たちから崇め奉られる。
 予言者。
 ナフシオン。

 やわらかい絨毯が足音を吸ってしまう。
 だから、近づく音など聞こえぬはずなのに。
 ひたひたと間合いを詰められる気配に、息を殺す。
 錯覚だ。どうかしている。別に魔物ではないのだ。鉢合わせたからといって、殺されるわけでもあるまい。
 それなのに、この恐怖はなんだ?
 あの仮面―――だろうか。
 多少形は違えど、予言者は常にゆったりとした服に身をつつみ、仮面で顔を覆い隠している。
 得体が知れない。だから恐ろしいのか。

―――待て、と。
 くぐもったような声が聞こえた。
 背にした扉一枚を隔てた、廊下から。
 女のもののような気がした。
(振り向けば)
 見える。
 甘美な誘惑に、クレアはふるえた。
 なぜなら、扉の一部は廊下の様子が見えるように、"マジックミラーになっている"。

―――異端の魔術師よ。
 今度ははっきりと、女の声が聞こえた。
 押さえた声はしかし、くっきりと発音されている。
 気づくものがいないのは、このあたりには他に仕事部屋がないからだ。
 隣の部屋にいるはずのクレアの客は、今はぐっすりと眠っている。
 館の外れの、いわゆるVIPルームなのだ。
 だからクレアは訝ったのだ。何故件の予言者がこのような外れに現れたのか。
 理由はわからない。けれど、仮面の予言者はそこにいる。そしてもうひとり、何ものかは分からないが、女がいるのだ。
 ナフシオンを、異端と呼ぶ女。
 何者だろう。
 教会の人間か? いや、このサロンを失うのを厭う貴族たちが、教会や警備省の立ち入りをかたくなに拒んでいる筈だ。
 常連の紹介がない人間は立ち入ることすら許されぬ場所に、教会の人間など。

 振り返って、確かめれば。
 分かる。
 そこになにものが居るのか。
 抗いがたい誘惑と共に、恐怖がある。
 振り向いてはいけない気もした。
 それは、見てはならぬもの。
 決して振り向いてはいけないと、戒められて、それでも振り返ってしまう女の話がある。
 あとに待っていたのは破滅だ。
 身を滅ぼす。

―――あなたは、処刑人か。
 別の声が、答えた。
 体中の血が氷結するような心地に、クレアは息を飲む。
 予言者、ナフシオン。
 体の線が分からないゆるやかな衣服を纏い、顔は常に仮面で覆い隠し、宣託の際には声にゆがみをくわえ、頑なにその正体を覆い隠してきた。
 聞こえたのは"男の声"、だった。


            *


 仮面を通したせいで、声はくぐもっている。けれども確かに男のものだった。
 内心、女は驚いた。
 あれほど頑なにすべての素性を隠してきた予言者の、らしくない行動だった。
 その"男"は、今も頭のすべてをすっぽりと、派手な仮面で覆っている。
 頭部に豪奢な羽根のかざりがついた、祭りの仮装で見かけるようなものだ。
 当然のように、なんの表情も窺い知ることは出来ない。
「わたしを知っているのなら、話は早い」
 黒の装束を纏った女は、半歩足を後ろに引いて、身構えた。
「敬虔な使徒を惑わす悪魔の化身よ、貴様は一体なにものだ」
 腰にさした短刀を抜き、身を低く構える。
「なにゆえ、秩序を乱そうとする」
「ならば、秩序とは?」
 厳かな問いがあった。
 ゆらぎのない、朗とした声。
「今、この世界は秩序に依ってまもられているのか。宗教とは、神とは、信仰というシステムとは? 秩序であるのか。呪縛ではなく?」
「貴様の演説を聞きに来たわけではない」
「わたしを殺すのか」
 淡白な問い掛けだった。あまりにも。
 一瞬、質問の意図が飲み込めないほどに。内容とはそぐわない。
「意に添わぬものに強引に烙印を押し、殺すのか。―――あなたは、何故影に生き、凶器に徹しようとする」
 仮面の、切れ長な目の奥に、確かにひかるものがある。
 暗闇の中にひそむ僅かな光量を反射する、水分のかがやきだ。
 瞳がある。
 空洞ではない。
 いきものがそこに居る。
「"あなたは殺すことを厭うているはずだ"」
 黒装束の女は、今度こそ漆黒の瞳を瞠った。
 いきなり何を言い出すのか。
「体をいいように弄りまわされ、薄汚れた大人たちの欲望のためだけに凶器に仕立て上げられたのだろう。何故今も、剣としてしか生きられない? 望めば逃れられるはずだ。あなたの、双子の姉のように」
 言葉が終わるよりも先に、体が動いていた。
 腕の延長と思えるほどに馴染んだ短刀を、容赦なく横に薙ぐ。
 首を狙った。
 明確な殺意があった。
 殺すな、と。上からは命じられていたけれども、普段ならば上からの命令は絶対であるはずなのだけれども。
 我を忘れた。
 しかし、予言者はまるで亡霊のように、ゆらりと後ろに下がって、処刑人の刃を避ける。
 その弾みに。
 バランスをくずした、重量感のある仮面が、ぐらりと傾いだ。
 爆発的に燃え上がった殺意が、ふっと、蝋燭を吹き消すように消えてしまった。
 姉を持ち出されたことに、あれほど憤ったというのに。
 ひたすらに正体を隠してきた、異端の予言者。その秘密が、こんなにも身近で暴かれようとしている。
 イヴと、通称で呼ばれる処刑人は、ナフシオンから数歩、間合いを取った。
 いつでも跳びかかれるように、とりあえず身構える。
 が、集中は出来なかった。すっかり、瞳を奪われていた。
 秘密の暴露に。

 音も立てずに、仮面が落ちた。
 やわらかい絨毯が、衝撃をすべて吸ってしまった。
 あまりのことに、四肢から急激に力が抜けるのを、イヴ―――カスガ・セリは感じた。
 得物を取り落としそうになって、慌てて握りなおす。
 けれどもう、殺意はどこにもなかった。
 じっと、青の双眸が、動じることもなく、生物実験の被害者を見つめていた。
 どこか、憐れむように。
「どうして―――」
 喘いだ。それ以上は言葉にならなかった。
 巨大な砲弾が胸をつらぬき、埋めようのない穴を穿っていったかのようだ。
 何も感じない。麻痺している。
 何も考えられない。
 これは夢か、と思う。夢であれば、と思う。
 "夢でなければおかしい"。
 こんな―――。
「イヴ」
 やさしい声が背後から、処刑人の名を呼んだ。
 さび付いたロボットのようにぎこちなく、セリは肩越しに振り返る。
 黒衣の少年が立っていた。
 やわらかそうな栗色の髪に、猛獣を思わせる金の瞳が爛とかがやいている。
「閣、下……」
 救いを求めるように、呼んだ。
「今日は退こう。さすがに想定外だ」
 天使のように愛らしい処刑人の束ねは、セリの向こうを見ていた。
 普段は穏やかに笑んでいるその瞳は今、動揺している部下を映そうとはしない。
 ただ、暴かれた真実を見据えている。
 そして。
「お前は、誰だ」
 低く、誰何した。
 ナフシオンは一度双眸を閉ざし、殊更ゆっくりと開いた。
 鮮やかな海を思わせる瞳が湛えているのは、かなしみ、だろうか。
「あなたが知っているものではない」
 謎かけのように、ナフシオンは答えた。
 ミカエルはしばらく、暴かれた予言者の素顔を見つめたのちに、かがやく瞳を異端者から逃がして。
「ならば、俺が信じた"もの"は、どこへ消えたんだ」
 独白のようにつぶやいて、踵を返した。


            *


 悲鳴が飛び出しそうになった。
 クレアは慌てて両手で口を覆う。
 愕然とした女の声を聞いた。
 どうして、と。
 途端、恐怖に好奇心が勝った。

 決して振り返ってはいけない、と己を戒めても。
 誘惑に勝てなかった。
 そしてその先に待っていたのは、やはり見てはならぬものだったのかもしれない。

 ひとりの男が立っている。
 その顔を、クレアは知っていた。
 まさか、どうして、なぜ。
 疑問符ばかりが溢れかえり、考えがまとまらない。
 今にも叫びだしそうな口を押さえる指先が、小刻みに震えている。
 どれほどの間そうしていたのか。
 予言者はふと、青の双眸に憂いを滲ませて、小さな吐息をひとつ、落とした。
 そして、ゆっくりと。

 扉越しにクレアを見た。

 そこで、クレアの記憶は途切れている。





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