母は、あどけないひとだった。
 いつも夢とうつつの境をいったりきたりしているような。
 無邪気で、朗らかで、寂しがり屋で、なによりも。
 人を愛することを知っていた。


1.

 空は薄曇で重い。
 とおりは活気で溢れているというのに、曇天のせいなのか心は晴れない。
 いや、違う。
 心が晴れたことなど、あっただろうか。
 半年前、訣別を決めたときから。もしかしたら、記憶を無くす前から、心が晴れたことなどなかったかもしれない。
 襟元を指先で辿った。近頃は詰襟の服ばかりを着ていたから、ただのシャツに着替えると首元がさみしい。
 どこにでもあるようなありふれたシャツに黒のパンツ姿で、完璧にどこにでもいるような人間になったつもりだ。あの、歩くだけでどこの所属か分かるような金十字は聖都に置いてきた。

「お兄さん」
 たくさんの人々が行き交う街のメインストリートは、道の両側をたくさんの露天が占領している。
 呼び止める声に、足を止めた。
「見かけない顔だね」
 果物の並んだ露天の奥から、体を小さく折りたたんだ老婆がこちらを見ていた。
「……分かるのか」
 どこにでもいるような人間になったつもりだったけれど。
「あたしゃ、ここに座りつづけてもう四十年になるのさ。馴染みや近くに住んでいる人間はみんな分かるし、何よりも、シャトーに馴染んでいるかがすぐわかる。おまえさんは、田舎のにおいがしないね」
 皺に埋もれたような唇を笑みの形にして、老婆は小さく肩をゆすった。
「観光かい」
「……そのようなものだ」
 的外れではない。
「昔の知り合いに、会いに来たんだ」
 奇麗に並べられた果物たちに、曇天の切れ間から差し込んだ光がきらきらと反射していた。
 ひかりを辿るように、アザゼルは空を見上げる。
 瞳を射るような眩しさに、うっすらと目を細めた。
 ちくりと刺さるようなものを感じて、アザゼルは空から地上へ視線を移した。
 見られている、ような気がした。
 ぐるりと周囲を見渡すが、人々は皆忙しなく動いていて、彼に注目しているような人物はどこにも見当たらない。
 過敏になっているのかもしれない。
 迷いを振り払うように、首を左右に振る。そして再び、歩き出した。


            *


 教皇ケルビーニ8世の葬儀は、それは盛大に執り行われた。
 歴代の教皇の中には恐怖政治を敷いたものもいれば、善政を敷いたものもいる。歴史書に名を残す彼らと比べて、ケルビーニ8世はあまりにも凡庸だった。
 名ばかりの王政の、玉座に就く王子は未だ幼く、実質の権限すべてを握っていたケルビーニ8世は、それこそ絵に描いたような権力主義者であり、己が肥えることに夢中な人間でもあった。
 ただ彼は、狡猾だった。
 強引に搾り取るのではなく、自分の権限を最大限に利用した。
 人々の安全を軍隊によって保障し、出来る限り真面目に、政務にとりくんだ。
 その結果得られるお布施という名の財産を、上手に貯め込んでゆくような人間だった。
 動機は不純であったとしても、彼は理想の教皇像を見事に演じきったのだ。
 故に、信心深い人々や、おこぼれに預かっていた貴族連中は彼の死を悼んだ。
 次に誰が教皇の座に就くにしても、今までどおりとは行かないだろう。
 ケルビーニ8世は実に優れた役者だったのだ。
 後任があそこまでうまく、理想の教皇像を演じきれるとは思えない。

 教皇庁の内部は今も嵐の渦中であり、幾人かの教皇候補が互いの動向を伺い、司教クラスの聖職者や教皇庁に出入りする貴族たちが、うろうろと数人の足元をいったりきたりしている。
 その日も、人々は疑心暗鬼を胸の内に飼いながら、先代の教皇に頭を垂れた。
 教皇庁から、歴代の王族教皇が葬られたドーム型の埋葬所までは白の花で彩られ、人々は皆色のついた服をしまいこんだ。
 しとしとと細かい雨が降る朝、カルチェ・ラタンは黒と白とに埋めつくされた。

 シンプルであるはずの黒の棺は、生前彼が好んだ金色で飾り立てられ、美しい白い花が飾られていた。
 教皇庁の広場から、たくさんの”兄弟”たちに傅かれ担がれて、漆黒の棺はなだらかな坂を墓地に向かって下る手筈になっていた。

 軋みを立てて、教皇庁の鉄柵が内側に開いた。
 カルチェ・ラタンを背骨のように通るその広い道は今や、喪服の人々で埋め尽くされている。
 無数の目が、教皇庁の内側へと向いた。

「猊下だ」
 門のすぐ傍に控えていた貴族のひとりが、うめくように呟いた。
「病気という噂は嘘だったのか」
 ひそひそと、貴族どもは頭を寄せ合って声を交わした。
 ごてごてと飾り立てられた棺の傍に、一際鮮やかな色がある。
 漆黒の聖服を着込もうが、彼の鮮やかさは誰も殺せないだろう。
 ゆるやかに肩から背へと滑り落ちる金の巻き毛を持つ、美貌の大司教。
 近頃ではほとんど姿を見かけないことから、病気ではないのかという噂が、貴族連中の間でまことしやかに流れていた。
 普段は流れ落ちるままにしている髪の毛を今日は後ろでひとつにまとめているが、完璧な黄金は煌びやかだ。
 伏目がちに石畳に落された瞳は、凍った湖面のような薄い青だ。
 きらきらと飾り立てられた棺が、開かれた黒い格子の門を通り過ぎ、なだらかな坂を下り始める。
 温度の感じられない瞳で、じっと、ラジエル・エレアザールは教皇の棺を見つめていた。
 彼の後方には、いつものように左胸に金十字を抱く軍人たちの姿がある。
 そして、ラジエルの傍には、見慣れぬ黒服の小柄な少女が控えていた。
 顔を覆うような黒いヴェールに隠されて、顔は見えない。
 無数の人に傅かれ、居城をあとにする棺に、ラジエルはゆっくりと、十字を切って見せた。



2.

「―――で、カルチェ・ラタンの大通りは、白い花で埋め尽くされました、とさ」
「へーェ、すごい」
 物語を締めくくるように気の抜けた男の声がそう言えば、まだ声変わりをしていない少年の声が無感動に答えた。
 このふたりといえば、木製のテーブルの上に持ち運び用の端末を向かいあわせに並べている。
「でも、盛り上がってるのは聖都ばっかりで、シャトーなんて静かなもんだね」
 キーボードの上に指を滑らせながら、ステフは言った。
「そうだねぇ」
 ほのぼのとサイジョウが返事をする。
 彼の手元には、忠実な世話係が淹れてくれたコーヒーが置かれているが、もう随分と冷めているようだ。
「あそこは箱庭だからねぇ。カルチェ・ラタンで生活しているだけで、気分が盛り上がるってものじゃないのかな」
「ふーん。聖都って行ったことないからわかんないな。そんなにすごいの」
「仮想現実みたいなものだよ。物語の世界に入り込んだような心地になるのさ」
「ものがたり?」
「聖書(バイブル)のね」
 まるで、聖書にあらわされた世界の住人のように。
「へー」
 実感湧かないや、とステフが呟いた。
 とたん、ぷつんと音を立てて、少年の眼前でモニターが消えた。
「あれ?」
「あら」
 向かい側からも同じような声が聞こえてくるところをみると。
「そっちも落ちた?」
「うん。停電……ってわけでもないみたいだなぁ」
 天井からふたりを照らす電灯を見上げて、サイジョウは首を傾げる。
 ぐるりと凝りをほぐすように首をめぐらせてから、再びサイジョウは自分の端末のモニターを見つめて、僅かに目を瞠った。
「ヒイラギ?」
 不思議に思って、ステフは椅子のうえに膝立ちになるように身を乗り出した。
 が、サイジョウはぱたん、と端末を折りたたんでしまった。
「急用を思い出した」
 突然、そんなことを宣言する。
「は?」
「ごめんね、ステフ、今日は帰ってくれないかな」
「え? ええっ!?」
 ごめん、と言う割には全く悪びれていない。むしろ上の空の状態で、サイジョウは席を立った。
「ちょっと、ヒイラギ。めちゃくちゃ暇だから、データの整理を手伝ってくれって言い出したのそっちじゃんか!」
「うん、ごめん。今度ちゃんと埋め合わせするから」
 もはや聞き入れる素振りもない。
 こうなってしまっては、何を言っても無駄だということを、ステフは身を持って知っていた。
「バーカ!」
 一声罵って、むくれて、ステフは彼の仮宿を後にした。


            *


 なだらかな坂道を登っていると、向こう側から肩で風を切るような小さな影が向かってきた。
「……ステフ?」
 灰色の短髪頭を持つ少年なんて、この近所には彼しかいない。
 レイは、憤然と坂を下ってくる少年に声をかけた。
 足元を睨みつけるようにしていた少年は、レイの声にぱっと顔を上げた。
 見知った姿を見とめた途端、猛ダッシュで坂道を下ってきた。
「バカー!」
 大声で叫んで、坂道を駆け下りる勢いのまま、ステフはレイの腰に体当たりを食らわせた。
 いきなり罵られたほうは、何がなにやら分からない。
「な、何かあったのか?」
 思わず後ろに倒れそうになるのを耐えて、レイはステフの体を抱きとめた。
「追い返されたんだよっ」
 むぅっと膨れて、ステフはレイを見上げた。
「追い返された?」
 レイは、少年から丘の上に建っている小さな掘っ立て小屋へと視線を移す。
「サイジョウさんに?」
 この付近に住んでいるステフの顔見知りといえば、その男しか思いつかない。
 むくれたまま、ステフはこっくりと首を前に倒した。
「ヒイラギの方から呼び出したくせにさー、なんかマシンのトラブルがあってから急に様子がおかしくなって。今日は帰ってくれないかな、だって」
 ようやくレイから離れたステフが、声真似などを織り交ぜつつことの次第を説明する。
「マシントラブル?」
「そ。いきなり電源が落ちてさ。それからあいつ、なんか様子が変だったんだよね、思い返してみれば」
 怒りは幾分かやわらいだのか、ステフは顎に手を当てて、考え込む素振りだ。
「レイもヒイラギに用事だったら、気をつけたほうがいいかも。追い返されるかもよ」
 切り替えが早いというのか、立ち直りが早いというのか。最早けろりとしたステフは、ひらひらとレイに手を振ると、シャトーの街のほうへ続く坂を下っていった。
 小さな背中が見えなくなるまで見送ってから、レイは掘っ立て小屋に向き直った。
 急に気が重くなってしまった。


「こんにちは」
 鍵もかかっていない木の扉を押し開けると、すぐさま居間に繋がっているような狭い家だ。
 控えめに声をかけ、レイは部屋の中をうかがった。
 ありふれた農民の家にはそぐわない機械端末が、質素なテーブルの上に二台鎮座しているほかは、人の気配はない。
 いつもはひょっこりと顔を出す朗らかな女性の気配もない。がらんとしている。
「サイジョウさん?」
「おや」
 右手側の奥。入り口からは死角になっている台所から、ひょいと生首が覗いた。
「めずらしいね、ひとり?」
 いつもどおり、眠そうな顔が言う。
「……そこで、ステフに会いましたけど」
 普段と変わり映えのないサイジョウの様子に、レイは少年の怒りを思い出した。
「ああ、あの子には悪いことをしたな」
 苦笑して、サイジョウの本体が死角から現れた。
 いつもどおり草臥れたスーツ姿で、右手にマグカップを手にしている。
「僕に用事かな。申し訳ないけど、あまり長くは相手をしていられないかもしれない」
 素朴な木の椅子を引いて、サイジョウは腰掛ける。
「何か用事ですか?」
「ちょっと、ね」
 煮え切らない態度で、サイジョウは話を濁した。
「それで、レイくんはどうしたの」
 煙草の先に火をつけ、サイジョウは目の前にしたモニターを見つめている。
「神父の―――僕らの名付け親の日記について、すこし。でも立て込んでるんだったら、明日でも」
「うん」
 返事はそれだけだった。
 さすがにレイもいぶかしむ。
 普段ならば、ぽんぽんと軽口が飛んでくるはずなのだが。
「具合でも悪いんですか?」
 ステフがいうように、これは様子がおかしい。
「いや? 頗る健康体だよ」
 常に睡眠不足で不健康な生活をしている男にいわれても、説得力は皆無だ。
「ただちょっと、緊張してる、かな」
 更に意外なひとことが飛び出して、レイはぱちくりとまばたきをした。
「……サイジョウさん、緊張なんてするんですか」
「失礼な」
 ようやくサイジョウは訪問者を見た。そして凄んだ。
「ちょっと久しぶりに、人と会うんだよ」
 灰皿を引き寄せ、煙草の先から灰を落す。
「仲たがいをしてしまった人だからね。……緊張もするさ」
 唇の端に苦い笑みを浮かべて、サイジョウはつぶやいた。


            *


「おまえなぁ」
「あ、おばさん、そのオレンジをもうひとつ。―――はい、これも」
「これ以上持てるか! おまえがひとつぐらい持て!」
 両手に大荷物を抱えて、ハルトは怒鳴った。
 腰に両手を当てて、同い年ほどの女がふんぞり返る。
「荷物を持ってあげるぐらいの甲斐性はないの?」
「おまえには、俺が両手に抱えた荷物は見えてないのかよ」
 同じ釜の飯を食べて育ったユリは、実に不条理な注文を言うものである。
 孤児院の買出しに行くから付き合ってくれと言われ、特に今日はすることもないので二つ返事で了承したはいいものの。
 蓋を開けてみたら悲惨だ。
 次から次へと重ねられていく荷物で、もはや平衡感覚を保つことすら難しくなっているのだ。
 特にシャトーのメインストリートといえば、たくさんの露店が並ぶ界隈で、常に人でごった返している。
 左目の視力がほとんどないハルトにとっては、死角に人が現れたときが怖い。
「しょうがないなぁ」
 一応妥協をしてくれたらしく、ユリは先だって購入したオレンジは自分で持つことにしたらしい。
 なにが「しょうがないなぁ」だ、とハルトは胸中で毒ついた。
 口に出すと、数倍のお小言が帰ってくるのは既に学習済みなので、黙っておく。
 長年シャトーで暮らしたユリにとって、この雑踏は慣れたものらしく、片手にオレンジの袋を抱いたまま、するすると通り抜けてゆく。
 ただでさえ視野が狭いというのに、両手に大荷物という悪条件で、ハルトは辟易しながらその背を追った。
 ふと、左側の肩が擦れ違い様に他人に触れ、ああスイマセンと呟きながら肩越しに振り返る。
 わずかばかり振り返った相手は、そのまま何も言わずに通り過ぎた。
 普段ならば、相手の無礼な態度に憤るところだが、ハルトはそのまま雑踏の只中で足を止めた。
 不意に、懐かしさを感じたのだ。
 どこかで見たような。
 しかし、青年と思しき姿は、直ぐにシャトーの雑踏にまぎれて、見えなくなってしまった。
「ちょっと、ハルト何してるのよ!」
 遥か前方から、焦れたらしい女の声が飛んできた。
 体を捻るようにしてそちらに向き直ると、人波に逆らうように仁王立ちしているユリを発見する。
(勘違い、か)
 そう、納得することにした。
「早く!」
 頭に二本の角でも生やしそうな勢いの幼馴染に、ハルトはようやく未練を断ち切って、歩き出した。

 あいつが、まさかこんなところに、いるわけない。

 踏ん切りをつけて、ハルトは怒りのオーラを振りまく幼馴染に追いつこうと、足を速めた。



3.

 ふるさとは、名もない小さな町だった。
 おそらく、名前を聞いてもその町を知っているものはほとんどいないだろう。
 一応ひととおりの施設は整っていたものの、近代的とは程遠く、町全体がまるで家族のような、そんな場所だった。
 良く言えばアットホームで、悪く言うならば閉鎖的な。
 そんな町で育った。
 あの頃の暮らしを思い出そうとしても、断片的な写真のようにしか思い返せないのは、自分が遠く離れたところへ来たからか、それとも思い出したくないからなのか。
 なまなましさは、今はもう無い。
 すべて、夢で見たことのようで、痛みはもはや感じない、けれども。
 忘れることも出来ずにいる。


 母は、無垢な少女のようなひとで、朗らかに良く笑っていた。
 故に、年の割には老けない、魔法がかかっているようなひとだった。
 自分といえば、閉鎖的な町の中でではあるが、当時は天才だ神童だと騒がれていて、中央へ進学することを強く勧めるものもあった。
 もちろん昔から学問や知識には人一倍の興味もあったし、中央―――カルチェ・ラタンへの進学は、憧れでもあった。
 近くに住んでいた叔父も、勧めてくれていた。
 けれど時折、夢と現とを行き来するような危うさを持つ母をひとり置いて、遠くへ行く決断は、できなかった。
 学問に憧れが無かったわけでは決してない。強い誘惑を感じてもいた。
 けれども、あの当時は、閉鎖的な村で母を守っていることのほうが重要である気がしていた。自分以外に、母の支えはなかったのだから。
 豪商の息子の家庭教師として働きながら、空いた時間は本を読むことで気を紛らわそうとする、寡黙で陰気な青年だった、と思う。
 当時はそれでいいと、満たされていると信じていた。


 母がどういう経緯で父親と知り合ったのかは、知らない。
 物心ついたときから、父の姿はどこにもなく、ふたりきりで生きてきたのだから。
 叔父であるアズマからは、この町の外れにしばらく軍の研究施設があったらしいということを聞いたことがあるが、それも確証ではない。
 しかし、時期を照らし合わせると、それぐらいしか思いつかない、と叔父は言った。


 繰り返すようだが、母は、あどけないひとだった。
 いつも夢とうつつの境をいったりきたりしているような。
 無邪気で、朗らかで、寂しがり屋で、なによりも。
 人を愛することを知っていた。
 人一倍、慈しまれて育ったと断言できる。
 だから、どれほど切実に体が知識を求めても、強攻に勧めてくれる人間がいても、あのひとを捨ててゆくことは出来なかった。
 聖都に進学するということが母を捨てることになるなんて、大袈裟だと思われるかもしれないが、あの頃は、母子二人が離れて暮らすことだけで、彼女にとっては絶望だったのだ。
 愛した男は自分のもとを去り、ただ残されたのは子どもばかりだったのだから。
 彼女にとって、ふたつの血を引いた生き物は、かつて愛した男との、最後の絆だったのかもしれない。
 遠くへ憧れる気配を、敏感に察知していたのだろうか、ことあるごとに迷子の子どものように縋りついては、きつく抱いた。
 少しでも帰りが遅くなると、落ち着かない様子で家の前に座っていることもあった。

 母子であるのに、ままごとのような暮らし。
 薄氷のうえを歩いているような、美しいけれども危うい日々。
 自分から壊そうとさえしなければ、まぼろしのような日々は、永久に続くものだと、確証もないのに信じていた。
 子どもである時間が只管にもどかしかったのを今でも覚えている。
 早く。兎に角早く、ひとり立ちの出来る大人になりたかった。
 身も心も。
 知識だけでは足りなかった。自分が一刻も早く大人になるということが、唯一の解決策なのだと思っていた。
 母を守り、生きてゆくのに。
 上背が伸び、体が大人のそれへ変わるにつれて、何かが確実に変化していたことなど、気づく余裕もなかった。


            *


 毎日、同じ日々のくりかえしだ。
 朝早くに出た扉を、再び開く。もう既に日付が変わるような時間帯だが、質素な家にはまだ晧々と明かりが灯っている。
「ただいま」
 控えめに、声をかける。
 部屋の奥のほうで、小動物のような機敏さで帰宅を察知する気配があった。
 小走りな足音が奥の部屋からまろぶように飛び出してきた。
「おかえりなさい!」
 重み全てを預けるように、突進してくる体を抱きとめる。
 かよわい、華奢な体だった。
 艶のある髪の毛をそのまま背に流し、ふわふわとしたワンピース一枚の、あどけない少女のようだ。
 事実、十五六の子どもがいるようには全く見えない、若々しい姿だった。
 それは彼女が、現実とは少し乖離した世界に生きているせいかもしれない。
 折れそうに細い、白い腕がすぐに、顔に向かって伸びてきた。
 ひんやりとした掌に、頬を撫でられる。
 おおきな、無邪気な瞳が下からじっと見上げてくる。
 夢を見る、今にも蕩けそうな瞳で、頬を撫でさする。
「ずっと、待っていたの」
 あどけない瞳は、どこか遠くを見ているようにも思えた。
「……もう休まないと。遅いんだから」
 絡まりつく細腕をやんわりとほどき、促す。
「ねぇ、次はいつ」
 駄々をこねるように再び首に腕をからめて、母は子どものようにむくれた。
「次はいつ会いに来てくれるの」
 ヒイラギは、ついと母から視線を逸らした。

 上背が伸び、体が大人のそれへ変わるにつれて、何かが確実に変化していたことなど、気づく余裕もなかった。
 近頃母は、自分と見たこともない父とを見紛うことが多くなった。
 己の姿が母の症状を悪化させることになるなんて、考えてもみなかった。
 近頃では正気に戻ることも稀になってきた。

―――少し、離れて暮らしたほうがいいんじゃないのか。
 近頃叔父は、ことあるごとにそう勧める。
―――お前には学も才能もあるだろ。こんな片田舎で意固地になってる必要はない。マコトのためにも、しばらくここを離れたらどうだ。
 正しい。アズマの言い分は尤もだし、一番の打開策に思えた。
―――外を見たら、気持ちも変わる。
 本当にそうだろうか。
 この人を置いて、ゆけるだろうか。
 縋るようにこちらの手を握って、安らかな寝息を立てている母を見下ろして、自問する。
 果たして、自分は。
 置いてゆけるのだろうか。
 煩悶はしかし、長い間は続かなかった。
 薄氷のうえを歩くような生活は、ある日、とても呆気なく終わりを告げた。


 いつものように家庭教師のアルバイトを追えて、帰途につく。
 その日は何故か、酷く疲れていた。
 疲労が重い石のように両肩を占拠していた。自然、俯きがちになる。
 ろくに舗装もされていない道を踏んで、集落からは少し外れたところにある一軒家へと向かう。
 また同じ日々の繰り返しだろう。
 母は今日は正気だろうか、それともまた、初恋の少女のようにこの腕にじゃれ付くのだろうか。
 それほど父に似ているのだろうか。
 気がつくと、顎のあたりを撫でていた。
 父の記憶はない。自分が生まれる前に、ふらりと姿を消したのだという。
 眼前に掌をかざしてみた。
 この皮膚の内側、体中に張り巡らされた血管を奔る血に、見ず知らずの遺伝子情報が組み込まれていることが、不思議でならなかった。
 いずれ父と、合間見えることはあるのだろうか。あの当時は、そんなことをよく考えていた。そのたびに、ありえないことだと否定する。
 狭い町を出てゆくつもりもなかったし、安っぽい感動話でもあるまいし、奇跡的なめぐり合わせを信じてもいなければ、父が自ら出向いてくるとも思えなかった。
 だったら、おそらく生涯顔を合わせることはないだろう。
 そんな平和なことを考えていた、ような気がする。

 ぱちり、と小枝を踏んだような乾いた音がどこかで聞こえた。足元ではなかった。
 導かれるように、頤を持ち上げて、なだらかな坂の果てにある小高い丘を見上げた。
 ほんのりと明るくかがやいているのは、やわらかな電燈の光ではない。
 ゆるやかな坂を下って、生ぬるい風が滑り落ちてきていた。
 空を覆う闇が、揺らめいている。
 小枝を踏むような音は徐々に勢いを増し、丘に建つ質素な一軒家が、より一層橙の輝きを増した。
 まるで、空を焦がすような。
 理解は、遅れてついてきた。途端、胸に巨大な鉛が落ちてきたかのように、呼吸が止まった。
「母さん!」
 咽喉が裂けるほどの勢いで絶叫していた。
 土を蹴る勢いで駆け出す。
 坂を駆け上るうち、吹き付ける風はぬるいものから熱風へと確実に変わった。
 小石を投げつけるような小さな音は、周囲の風を巻き込んで、いまや轟轟と音を立てている。
 小高い丘を登りきった先で、ヒイラギは立ち尽くした。
 小ぢんまりした、小屋と呼んでも遜色のない建物から、炎が吹き上がっていた。
 吹き上がる炎は苛烈で、とても少量の水をかけたぐらいでは収まらないのは、それこそ火を見るよりも明らかだった。
 今にも倒壊しそうな小屋の前に、ぽつりと立つ人影を、ヒイラギは見た。
 小屋からかなり離れているヒイラギでさえ、照りつける熱波に怯みそうになる。
 けれど、あまりにも細いその人影は、まるで温度など感じていないかのように、燃え盛る建物を真下から見上げている。
「母さん……!」
 白いワンピースを翻すその背中に大声で呼びかける。
 すると、人影はあまりにゆるやかな動作でヒイラギを振り返った。
 めらめらと燃え盛る炎の照り返しを受けながら、可憐に微笑んだように見えた。
「やっぱり、あなたの言う通りだった」
 嬉しそうに口元をほころばせる。
 愕然と、ヒイラギは声をなくした。自分は夢を見ているのだろうか。
 眼前の光景は、あまりにも現実感を欠いていた。
 何故あんなにも、母はうつくしく微笑んでいるのか。
「あなたが教えてくれたのよね。道に迷ったときの方法を」
 熱風が、マコトの黒髪をなぶる。
 白い頬に赤い光を受けて微笑む姿は、いっそ神聖なほどだった。
「”火を焚けばいい。そうすれば、誰かがその明かりを見つけて、助けに来てくれる”、って」
 いとおしむように、マコトは瞳を細めた。まるで夢を見ているかのように、その瞳は潤んできらきらと輝いていた。
 場違いなほど、うつくしかった。
「こっちに、来るんだ」
 彼岸をただようような様子の母親に、ヒイラギは呼びかけた。出来る限り、刺激をしないように。
「そこは危ないから。こっちに―――」
「いやよ」
 駄々をこねる子どものように、マコトはゆるく首を横に振った。
「約束したもの。ここを動かないって」
 息子を見つめる瞳には、毅然と揺るがない強い色が見える。
「あなたが、わたしを迎えに来てくれるまで、ここを動かないって」
「ヒイラギ!!」
 後方から、怒号が背に刺さった。
 聞き覚えのある声に、ヒイラギは振り向かなかった。
「お前の家が燃えていると知らされて……、すぐに町の人が」
 後ろ側から、叔父が強く肩を掴んだ。
 けれども、ヒイラギは母から目を逸らすことが出来なかった。

「ずっと、待っているって、約束したもの」
 奇麗に微笑する母の頬に、一筋、涙が線を描いた。
「母さん、頼むから」
 一歩前に踏み出して、ヒイラギは懇願するように言った。声が震えるのを、止められなかった。
「頼むからこっちに……」
「ヒイラギに会わせないとね」
 マコトはくすぐったそうな顔をした。
 一歩踏み出したまま、ヒイラギは凍りつく。
「あなたに似て、とっても頭のいい子なの」
 母さん、と呼んだつもりだった。声にはならなかった。
 虚な瞳はこの身をしっかりと見据えているようで、世界がずれている。
(一体、どこを)
 あなたは一体、どこを見ているのだろう。
 同じ世界に生きているのだろうか。
「母さん、頼むから……」
 喘ぐように呟いて、更に一歩前へ踏み出した。
 嗜めるように、叔父が肩を掴む。
「あなたなら来てくれるって、わたし―――」
「頼むから俺を見てくれよ!」
 咽喉が焼けるほどに声を張り上げた。絶叫は、轟轟と燃え上がる炎にもかき消されずに、あの人の耳に届いただろうか。
 それとも、最早言葉など、通じない場所にいたのだろうか。
 鏡のように涙で輝く瞳で、マコトは息子をじっと、見た。
「愛してるわ」
 やわらかく、口元をゆるめて、凛と告げた。
 果たして、その言葉はどちらのための―――。
 問い質す、いとまも与えずに。
 強風にあおられた粗末な小屋が、積み木のように傾いで、あまりに呆気なく崩れた。
「母さん!!」
「ヒイラギ、やめろ!!」
 建物が倒壊するあおりを受けて、肌を焦がすような熱波がおしよせる。
 咄嗟に駆け寄ろうとするヒイラギを、アズマが羽交い絞めにしてとどめた。
「離してくれ!!」
 がむしゃらにヒイラギは身を捩る。
 もう遅かった。それは分かっていた。建物だったものは、いまやただの瓦礫と化して、今も尚苛烈な炎をあげている。
「母さん―――」
 祈るように、叫んだ。
 炎は無慈悲に、夜空を明々と焼いた。
 懸命な消火もむなしく、ようやく炎がおさまったのは、白々と夜が明けてからだった。


            *


 明けない夜が、訪れた。
 まるで、永久につづく蝕。
 きらきらしい、ままごとのような揺らぎのない生活の換わりに、常闇が世界を飲み込んだ。

 通っていた学校を辞め、食いつなぐために続けていた仕事もすべて辞めた。
 町からすこし離れた場所に住まう叔父の下に身を寄せ、与えられた一室に篭る日々が続いた頃、とある一通の書類が届けられた。
 荒々しく扉をひらいて、叔父が駆け込んできた。
「ヒイラギ、これはどういうことだ!」
 ヒイラギは、向かっていた機械端末から首だけをそちらに向ける。
 息を切らした叔父は、右手に一通の封筒を握り締めている。
「俺のものだろう」
 キーボードに置いた左手を、叔父の方へ差し出した。
 既に封は開かれ、中身も引きずり出されたあとだが、それを咎める色はヒイラギの顔にはなかった。
「どういうことだと、俺は聞いてるんだ!」
 アズマが声を荒げた。
 そして、ベッドの上にまとめられている少ない荷物を見つけて、息を飲む。
 ヒイラギは、端末の電源を落として、椅子を立った。
 ベッドのすみに放り出してあった最後の荷物を、鞄に詰め込む。
「お前、いつのまにこんな……」
 身軽な荷物を手に、ヒイラギは立ち上がった。
 元々ものの少ない部屋ではあったが、今日は特に片付いている。
 叔父の追及など聞こえていないそぶりで、ヒイラギは戸口に向かって歩き出す。
 入り口を塞ぐ形で立っている肉親のそばを身を捩ってすり抜けようとする。
「お前、母親を殺した男のところに行こうっていうのか!」
 横から伸びてきた叔父の逞しい手が、ヒイラギの肩を鷲掴みにした。
 煙たそうにその腕を払って、ヒイラギは叔父を濃紺の瞳で睨みつけた。
「あんたがそれを俺に、教えたんだろう」
 愕然と声をなくすアズマを取り残して、ヒイラギは部屋を出た。
 そしてこの部屋には、二度と戻らなかった。

 アズマは、玄関の扉が閉まる音を聞きながら、右手に掴んだ書類を握りつぶした。
「馬鹿野郎……!」
 教会研究所研究員募集試験の、一次試験通過―――しかも首席での―――。
 聖都カルチェ・ラタンで開かれる説明会への参加を求める通知書を握り締め、アズマは唇を噛み締めた。


 当時、研究所と教会とのパイプ役を果たしていたのは、兵器総括部門を担当する、ランドウ・アンティクリスト西軍大佐だった。
 十数年前は、ヒイラギが生まれた町の傍で行われていた軍の極秘計画の、長をしていたこともある。
 黒髪に深い青の瞳を持つ男だという。
 その名前をヒイラギに告げたのは、他でもなく叔父のアズマだった。
 母がいとおしむように覗き込んだ己の瞳と、同じ色を持つ男がいるのだ。
 確証はなかった。
 だが、確率は恐ろしく高い。
 その男が極秘任務として田舎町のすぐ傍に滞在していた時期も、合う。
 会わねばならないと、まるでそれが重大な責務であるかのように思った。
 探し当て、めぐりあい、それが本当に血を分けた相手だとして。
 一体何をどうするつもりなのか。どうしたいのか。
 ヒイラギ自身、分からなかった。
 めぐりあったそのとき、眼前を塞ぐ夜は明け、展望が開けるような気が、していた。
 その男を目の前にするまでは。


             *


 すべてはあまりにも、簡単に運びすぎた。
 薄ら寒い心地で、ヒイラギはひとり、人を待っていた。
 まるで牢獄のような、家具といえばパイプで出来た色気のない椅子と机ばかり、壁は剥き出しのコンクリートで、高い場所にある窓には鉄格子まで嵌まっている待合室で。
 何もかもがあまりにも容易かった。
 迷いを生む分かれ道も、道を塞ぐ岩もなかった。
 すべての足掻きは報われ、まっすぐこの部屋へ続いていた。
 うまく行き過ぎている、と近頃ヒイラギは獏とした不安に駆られる。
 母を喪ったあの夜の炎は、今も胸のうちで燻りつづけている。じりじりと、体を内から焼いている。
 世界は闇に閉ざされ、しっかりと目を開けていても、何も見えなくなった。
 深く、濃度のある黒い霧のなかを、もがくように手さぐりで進んでいるようにしか思えない。
 硬質のノックが、物思いからヒイラギを現実の時間軸に引きずり戻した。
 思わず席を立った。
 なめらかに扉が押し開かれる。
 黒衣が、まるで死神のように滑り込んできた。
 黒髪をととのえて後ろに流し、銀縁の眼鏡をかけた、壮年の男。
 レンズの向こう側の瞳は、たしかに青みがかった色をしていた。
 後ろ手に扉を閉ざし、金十字を左胸に抱いた軍人は、粗末な机の方へ歩み寄ってきた。
 軍服の、似合わない男だ。
 冷静に、ヒイラギは相手を観賞した。
 似ているかどうかは、自分では分からない。
「首席合格だったそうだね」
 低く、落ち着いた声で軍人が沈黙を破った。
「今は、機械を―――とりわけ遺跡に残されたロストテクノロジーを中心に研究をしているとか」
「サイジョウ・ヒイラギです」
 刻み込むように名乗ったのは、相手の反応を見たかったからだ。
 あなたの名前はお父さんが付けてくれたの。ことあるごと、子守唄のかわりに母から聞かされた文句だ。
 けれど、およそ軍人らしくない男は、顔色ひとつ変えずに自らの名と役職を名乗った。
「君も知っているとおり、教会は遺跡に遺された古代の記録(データ)の収集も仕事のうちだ。そのために、君の研究は必要になるだろう」
「そう言っていただけると、心強いです」
 違和感を覚えながら、ヒイラギは微笑した。
 うまく笑えていたかどうかは、自信がない。
 何かが、ちがう。
 こんな和やかな、形式だけの対面でよいのか。
 確固とした対面のヴィジョンがあったわけではない。だが、こんなに無風のはずではなかった。
 あまりに、簡単すぎる。
「君の研究には、軍から費用を出そう。我々の力にもなるだろう。君にはとても期待しているんだ」
 上品な紳士の貌(かお)で、男は微笑して見せた。
 こちらはといえば、力のない声で礼を言うだけで精一杯だった。
 兵器部門を総括するという男は、いくつかヒイラギの研究分野について質問を差し挟んだ。
 以前、大学で神学の教鞭を執っていたという話だが、それにしてもヒイラギの専門分野にまで詳しかった。
 底の知れぬ男だ。
 出来るだけ丁寧に質問に応じながら、ヒイラギは、ぴりぴりと高まってゆく緊張感を押さえられずにいた。
 いくつかの問いに答えたあと、黒衣の男は満足そうに頷いて、そののちに音も立てずに椅子を引いた。
「こちらから呼び立てておいて、すまないね。このあとに用事があってね」
 申し訳なさそうな苦笑いを口元に浮かべて、男は辞意を表明する。
 思わずヒイラギは腰を浮かした。
「今後とも、宜しく頼むよ」
 椅子を蹴る勢いで立ち上がったヒイラギの異変など、全く気がつかない様子で、男は踵を返した。
 硬質の足音がリノリウムを踏んで、入り口の方へ遠ざかる。
「アンティクリスト閣下!」
 追い縋るように呼び止めていた。
 西軍大佐であるランドウ・アンティクリストは、肩越しに研究員を振り返った。
「サイジョウ・マコトという名前に、聞き覚えは」
 自分でもだらしがないと思うぐらいに、声が震えていた。指先も。
 たしなめるように、拳を握る。
 肩越しに振り返ったまま、ランドウはしばらく、ヒイラギの顔を値踏みするように見つめていた。
「サイジョウ―――マコト、か」
 やがて、吟味するように、名前を舌に乗せる。
 男の口元に、かすかな笑みが浮かんだように見えた。
「なつかしい名前だな、とてもよく、知っているよ」
 ヒイラギは、息を詰めた。
 愕然と立ちすくむ研究員に構わず、ランドウは質素な扉を押し開けた。
「閣―――」
「知りたいことがあるのならば、這い上がってくればいい」
 身を乗り出し、机に体をぶつけるほど慌てたヒイラギに、ランドウは背を向けたままで言った。
「おまえの力で、わたしの下まで。―――ヒイラギ」
 扉は静かに閉ざされた。



4.

 反射的に持ち上げたマグカップの、内容物の不味さで我に帰った。
 冷え切ったコーヒーは、ただ苦味だけを舌先に与えてくる。
「ああ、もうこんな時間か」
 あたりがすっかりと暗くなっていることに、今更のように気がついた。
 日暮れ時に、照明をともすのを忘れたままだ。すっかりと漆黒に塗りこめられた室内に、ぼんやりと液晶画面が灯っている。
「―――きみは」
 ほの白く輝くモニターを指先でなぞるようにして、ちいさく笑った。
「僕を殺しにくるのかな」
「あれ、いた」
 真正面の扉がひらき、月明かりが扉の形に差し込んだ。
「どこかに出かけてるのかと思いましたけど。どうしたんですか? 明かりもつけないで」
「ああ、おかえり」
 少女は腕に荷物を抱えている。買い出しの帰りだ。
「あたらしい遊びですか?」
 モエが壁のスイッチを手さぐりで押すと、天井で蛍光灯が瞬く。
 すぐさま、室内は赤裸々に照らし出された。
 普段と様子が違うサイジョウに、モエは首を傾げる。紙袋を貧相な机の上に乗せた。
「コーヒー、淹れなおしましょうか?」
「モエ」
 サイジョウの傍らからマグカップを持ち上げたところで声がかかった。
 男はモニターを凝視したままだ。
「僕は後悔してるよ」
 モエが目を瞠る。
「研究所に乗り込んだとき、君に叱られたっけ。言いたいことは本人に言わないと駄目なんだって。本当だね」
 眼鏡のつるに指をかけ、サイジョウは黒縁のそれを抜き取った。
「愛情っていうものが僕にはずっと分からなかった」
 口元に、鈍い痛みを堪えているようなかすかな笑みを見出して、モエはじっとそれを見守る。
「経験したことのないものを理解しようとするのは、とても難しいことだ。僕は親に無条件に愛された覚えがないから、余計にそう感じるのかもしれないね。時々、僕は慎重だと言われることがあるけど、それは違う。得体が知れなくて怖いんだよ、誰かを信じるということが」
 モエは、手にしていたカップをテーブルに置きなおした。
 一言も、こぼさぬように耳をそばだてる。
 しんと、夜はどこまでも静かだった。
「誰もが自分の、自由意志を尊重されるべきだと思って生きてきた。他人の選んだ人生に干渉しないようにしてきた。そこまで深入りする義理もなかったしね。だけど僕はあのとき」
 右腕を持ち上げ、じっと、掌を見る。
「引き止めなかったのを、ずっと後悔してるよ」
「サイジョウさん、わたし」
 熱のようなものが、腹のあたりから一気に上ってきた。
 唇と瞳から、こぼれそうになる。
 涙ぐむ瞳のまま、モエは静かに、保護者に歩み寄った。
 モニターをみつめたままの男の頭を、包み込むようにして抱きついた。
「ずっと、いるよ。ここに」
 物心がついたときから、地下研究施設が世界のすべてだった。
 観客のいない闘技場(コロッセウム)。
 同じ境遇の子どもたちと殺し合いをする日々から、たとえどんな理由だったとしても救い出してくれた手だ。
 滅多に感情を表に出さないこの男が実際はとても臆病なのだと、行動を共にするようになってから知った。

 それは、愛ではないのだろうか。
 幼い子どものようにしがみついて、モエは思う。
 あなたが、失ったはずの”彼”に抱く思いは。
 他人には晒さない過去の痛みを教えてくれる、それは。
 愛情では、ないのだろうか。

「あの子が、来るんだ」
 頭の重みをモエに預けて、サイジョウはつぶやいた。
「え?」
「僕は彼と、ちゃんと向き合わなきゃならない」
 サイジョウの視線に促されるように、モエは端末のモニターに顔を向ける。
 まばたきを、忘れた。

―――今晩、訪ねていきます。ご覚悟を。A/C

 そして、シャトーの街からすべての明かりが、消えた。
 月が太陽を呑みこむように。




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