枯れ往くもの
咲いて枯れる。
それこそが、正しい生き様なのだ。
人も、獣も、草木も。
何ひとつ例外はない。
1.
―――この日記を、教会よりも先に見つけた人がいたとしたならば、どうか捨てて貰いたい。
日記に括りつけられた小さな鍵を差し込んで、表紙を開く。
表紙の裏側、乱暴に走り書きにされた言葉がまず目に飛び込んできた。
「突然飛び込んできたと思ったら、なんだ」
人様のテーブルを乗っ取って、古ぼけた日記帳を囲むふたりに、発掘業兼鑑定業を営むジェイクは溜息混じりに煩雑に道具の散らばった自分の机に座った。
キトの教会から場所を移したふたりは、無言で開かれた日記の表紙を見下ろしている。
「ファストの字、だな」
体をこちら側に向け、机に頬杖をついた体のジェイクがぽつりと漏らす。
ふたりは、同時に褪せた裏表紙から顔を上げた。
「……なぁ。あんた、神父とどういう関係なんだよ」
「他人が誤解するような言い方はやめろよ」
ハルトの問いに、鑑定家は茶化すように薄く笑った。
「幼馴染みたいなもんだ。そうだな、俺はガキの頃、カルチェ・ラタンに住んでたんだ」
思い出話のように切り出しながら、ジェイクは眼鏡をはずして机に置いた。
「カルチェ・ラタンでも名の知れた豪商の、専属料理人の家に生まれたのさ。そこそこいい生まれだってわけだ」
「いい生まれ、ねぇ」
「そう突っかかるなよ。その豪商はゲールートという名前で、姉はその後継ぎの婚約者だった。で、もうひとり、今でこそ力はないが当時は地方では有数の力を誇っていた教会の、後継ぎがその家から大学に通っていた」
「ヴォルディモート教会、ですか」
「そう。ファストと豪商の後継ぎのカレス、俺の姉貴は兄弟のように育った。俺には姉のほかに兄貴がふたりいたようなもんだ」
ハルトは、色あせた頁をめくった。
なつかしい文字だった。
「名家の料理人の息子が、こんなところで法スレスレの鑑定屋なんてやってんのか?」
他愛のない揶揄のつもりだった。
「ゲールートの家はもう無い」
硬い声が跳ね返ってきて、ハルトは頁を繰る手をふと止める。
「姉貴もカレスも死んだ」
「……死んだ」
知らない言葉のようにレイがくりかえす。
顎を引く形で頷いて、ジェイクはどこか中空を見る目をした。とおくを。
「殺された」
唇の端を引きずり上げるように、ジェイクは小さく笑みを作った。渋い笑いだった。
「ファストにな」
ふたつの、息を飲む音がジェイクの仕事部屋に響いた。
「神父が、やったんですか」
ぱたぱたと子供たちの軽やかな足音とはしゃぎ声が店の前を通過する。
室内と外とのあきらかな”温度差”に戸惑いながら、ようやく、レイは訊いた。
半分だけ捻っていた体を、改めてジェイクのほうに向けなおした。
斜め上、ぼんやりと何も無い空間を眺めていたジェイクが、ゆっくりとレイに視線を向ける。
「そういう話になってる」
「なってる、って……」
「本人は、なんにも言わなかったんだ」
困った子どもの話をするような、哀れみと微笑の混じった、複雑な顔をジェイクが見せるので、レイはそれ以上強攻に問い詰めることが出来なくなってしまった。
「反政府組織のアジトから、姉貴とカレスの死体は見つかった。銃で撃たれたショックと出血が死因だった。その反政府組織に名を連ねていたファストは、拳銃を手にして姉貴たちの死体の傍に座り込んでいたところを捕まった。ファストが持っていた拳銃の線状痕と姉貴たちを撃った弾のそれも一致した。公式な発表では、姉貴も兄貴になるはずだった男もファストが殺したことになっている」
本人は何も言わなかったがな、ともう一度ジェイクがつけくわえた。
「……跡取を失ってゲールート家は失脚、唯一の肉親だった姉をなくして、俺も荒れた。カルチェ・ラタンを出て、色々やんちゃをやった。教会に捕まってから全く行方がわからなくなったファストを憎んだ。今は法スレスレの鑑定家だが、昔は法にさわりまくりのお前らみたいな無法者だったんだ。ヘマをやって教会にとっつかまった。で、―――免罪してやる代わりにキトという村で神父をしてるファストという男を殺して来い、と言われたんだ」
義兄弟のふたりは同時に瞠目した。
“ファストを殺して来い”と。
教会がそう命じたというのか。
ジェイクは仕事机の上から眼鏡をとりあげて、膝の上でもてあそぶ。
「目がさめた気分だった。教会から言われなくても、あの男の居場所を突き止めたらぶっ殺してやるつもりだった。俺は、いかにあの男が残虐非道な生きものであるかをこの街や、キトの村にふれて回った。のうのうとしあわせそうに暮らしているあいつが許せなかった。自分が何をしたかが回りに知れれば、あいつも絶望するんじゃないかってな。俺と同じような気持ちを味あわせてやりたかった」
独白のように、ジェイクは言葉を注ぐ。
ふたりは、口をはさむこともできずにただそれを見守った。
「あいつの顔を見るまでは、憎くて仕方がなかったんだ。だけどな、子どもの頃の俺は確かにあいつを―――実の兄貴のように慕ってたんだ。憎いよりも、裏切られてかなしかったんだな。あいつは姉貴たちのことに対しては弁解できることは何も無い、と言った。それ以上は何も言わなかった」
指先でもてあそぶ眼鏡の先に、かつての情景でも見えるものか、ジェイクはまぶしそうに目を細めた。
ハルトは、時には父親のように、時には兄のように盗掘のスキルを叩き込んでくれた鑑定屋から、手元の褪せた日記に視点を落とす。
なつかしい筆致が見渡す限りの紙面に細かくびっしりと書き込まれていた。
几帳面な文字が、ふと、焦点を失ってぼやける。
“あの頃”のことを思い出していた。
ファストは人殺しだという噂が、苛烈な勢いの炎のようにキトの村を飲み込んだ当時のことを。
平凡で単調なくりかえしだったそれまでの生活を、根底からひっくりかえす衝撃だった。
ファストは変わり者だが善い神父だと村の皆に受け入れられていたし、狭い村に起こる重大な事件といえば、村長さんの娘に三つ子が生まれたとかいう他愛もないものばかりだった。キトの時間はぴたりと止まっているかのように、日々はおだやかで、変わり映えもなかった。
しあわせだったのだ。
(神父が人を殺したっていう噂を持ち込んだ人間を、俺は憎んでたな)
貧しい子どもたちに読み書きを教えることもあった男の、よみやすい文字を見下ろしながら、ハルトは当時をふりかえる。
まさに晴天の霹靂だった。
そして、ファストは死んだ。
向けられた刃を受け入れて、そして死んだ。
「お前たちの名前の由来を聞いたことはあるか」
ジェイクは眼鏡を掛け直す。
ハルトは回想から現実に引き戻される。
由来?
日記帳から顔を上げて、盗掘の師匠を見た。レイもそちらを見ていた。
「古代語が由来だってことは」
やがておずおずと、レイがそれだけを言った。
ファストから与えられたふたりの名前は、古代の言葉で翼と光を表すものらしい。
翼(ハルト)と光(レイ)。
「そのとおりだ」
ジェイクは二度ほど頷いた。
「そして俺の姉が殺された当時身篭っていた双子のガキにつけようとしていた名前だ。ファストに確かめたわけじゃないが、きっとそこが出所だろう」
とうとう、ふたりは言葉を失った。
*
―――シスターに聞いたのだろうか、今日はふたりが名前のことについて聞きにやってきた。
無邪気に喜んでいるふたりを前にして、俺はひとりで申し訳なく思っていた。
まだ赤ん坊のふたりに、シスターが何かの縁だろうと名付け親になるように勧めたあの晩、おそらく魔がさしたのだ。
ニナと共に殺してしまったふたりの子どもの名前をつけるということは、一体どういうことなのか?
ただの自己満足じゃないか。
死なせてしまった子どもの名前なんかを呪いのように押し付けたのだ。
それを、あの子たちは無邪気に喜んで礼を言う。
たまらなくなってしまった。
子どもなんて、好きではなかった。
うるさくて、手間が掛かる。大人の理屈を理解しない。こちらも彼らの理屈を理解できない。
好きではない、というよりもむしろ嫌いだったかもしれない。
だが、あのふたりに出会ってから俺は変わった。それだけは確かだ。
こんなにも、いとおしいものだったんだな。
別に血を分けたわけでもなんでもない。八年前の夜に教会の隅に捨てられてたのを見つけただけだ。
手元で育てたわけでもない。
こんな生きものに、無邪気にまとわりつく。
勝手に名前を押し付けてしまった後悔は、勿論今もある。
だけどあの夜、あのふたりとめぐり合えたことには、素直に感謝している。
無垢な表情に触れるたびに、今までの自分があまりに卑小に思えたり、恥ずかしく感じたりもする。同時に泣きたくもなる。
こんな気持ちになるだなんて、すこし前まで想像も出来なかった。
全く、ヤキが回ったものだ。
*
ニナ、というのがジェイクの姉だというのはあとから聞いた。
「らしくないな」
苦笑交じりに、ハルトはひとりごちる。
「こんな年寄りじみたこと、一言も言ってなかったくせに」
日に焼けて変色した日記の頁を、軽く叩く。埃が舞いあがった。
妙にくすぐったい気持ちになっていた。
「押し付けられたと、思うか?」
「何を?」
向かい側に座ったレイが、問い返す。
「名前」
レイは首を横に振って答えた。
「もう、僕らのものだよ」
毅然とした声に、ハルトは笑った。
「そうだな」
ふと、笑みを消す。
ハルトの視線が、日記に吸い寄せられた。
「どうかした?」
逆さから日記を覗き込むレイに、指先で指し示す。
夏の日だ。
*
教会の文献の中に、何度も登場する大司教の名前がある。
ラジエル・エレアザール。
その名前は、大司教が世襲してゆくものなのだろうか。
しかし、色々な文献に記されているその人物は、皆金の巻き毛に青い瞳の美貌の男だという。
大司教になるために、容姿が基準になるとは思えない。
それでは一体。
この男は何者なのだろうか。
その名前を世襲してゆくものではないのだとしたら。
この男はそれだけの長いときを。
生き続けているというのだろうか―――。
*
指先が、あわただしく頁を繰った。
*
―――ガイアズメールは、船だ。
しかもおそらく、一隻ではないだろう。
黒髪と赤い瞳が悪魔と忌避される理由を、先住民と侵略者の争いの結果だと耳に挟んだ。
それでは、黒髪と赤い瞳ではない人間は、一体どこから来たというのか。
ハルトとレイが潜り込んだ遺跡から、はるか昔のデータの断片を発見した。
また、ラジエルの名前だ。
あの男は一体何者で、実質世界を統べている教会の頂点から、一体何をしようとしているのか。
どこへ導こうとしているのか。
軍は最早あの男の私兵と言っても過言ではないだろう。
あの男には、経歴というものが存在しない。
まるで生れ落ちたときから大司教であったかのように、すべてはうしなわれている。
アンティクリストは、なにか知っているような口ぶりだった。
あの男が軍の佐官であったということと、何か関係はあるのだろうか。
信仰とは、本当に純粋なものなのか?
教会とは、一体なんだ。
2.
「お届けものだぜ」
ノックもおざなりに、白衣の男が重厚な扉を押し開いた。
扉の先にいた人物は、突然の予期せぬ来訪者に驚いたように金の瞳を瞠る。
「どういう風の吹き回しなのかな」
愛らしい子どもの声音で、ミカエルは来訪者に微笑みかける。
いわゆる犬猿の仲という奴だったはずだが。
アースは答えなかった。
大股で東軍大将の執務室を横切り、小さな体には大きすぎる机まで来て、右腕に下げていたアタッシュケースをどかりと乗せた。わざと大きな音を立てて。
「せっかくお前の延命に来てやってんだぜ。もっとよろこべよ」
エメラルドの瞳を冷酷に細めて、唇の端を引き揚げて、アースは笑った。
無言で、ミカエルは銀色のアタッシュケースを見下ろした。
「そろそろヒヤヒヤしてる頃かと思ってな」
「それはどうも」
礼をのべながらも、ミカエルの表情はこわばっていた。
「まさか君が持ってきてくれるとは思わなかったな。僕に早く死んでほしいんじゃないの?」
魅入られたかのようにケースを見つめたまま、皮肉のようにミカエルは言った。
「野垂れ死になんて、面白くないだろう」
ちっともな、とつけくわえてアースはケースの取っ手から手を離す。ミカエルの方へ押しやった。
「俺がお前をぶっ殺してやるまで、弱ってもらっちゃ困るんだよ」
押し出されたケースに、ごくりとミカエルは息を飲んだ。
「肝に銘じておけよ」
釘をさすように、アースが。
「それで全部だからな」
宣告をした。
ミカエルの体がこわばった。
「もう、どこでも製造なんてできねぇんだ。覚悟は決めておけよ」
「分かっている」
大きな瞳を閉ざし、深い吐息と共にミカエルが吐き出した。
「まわりにも、覚悟はさせとけよ。放り捨てていったらかわいそうだろう」
ぐるりと室内を見回して、アースがつぶやく。
「どうせどっかで、ロウエンの息子が聞き耳立ててるんだろうが」
ちりちりと、どこからか感じる殺気に、アースは楽しそうに笑う。
ミカエルが抱える、忠実な暗殺者は、おそらく突然の天敵の訪問を歓迎してはいないだろう。
「カタナでやられるまえに引き揚げるさ」
ぽんぽんと、アタッシュケースを意味ありげに叩いてから、アースは踵を返した。
「どうせ死ぬなら」
扉を半ばほど開いて、アースは振り返る。
「華々しく逝けよ。無様に腐るんじゃねぇぞ」
挑発するように笑って見せて、白衣の男は扉の向こうに消えた。
*
「喧嘩でも売るつもりか?」
執務室の扉を閉ざして、アースは問うた。
待ちかねていたように、人影が壁から体を起こすところだった。
剣呑な気配に、研究所主任が薄く笑う。
相手は、苦い顔をした。
元からそりの合うもの同士ではないのだ。
「……あんたに、聞きたいことがある」
しばらく逡巡してから、軍服の男が口を開いた。
「どういう心境の変化だ? 珍しいな。あんたにとって俺は忌避すべき人間であって、仲良く話をしようって言うお仲間じゃないだろう」
金髪碧眼の東軍中佐は更に渋い顔をした。
こうやって声をかけたことが心底不本意だ、と顔に書いてあった。
「それならあんた以外の誰が知っている?」
視線を、合わせないように逃がして、アフライドがつぶやいた。
「はっきり言えよ。遠まわしは嫌いだ。答えられるもんも、答えたくなくなるぜ」
このやりとりを、アース自体は楽しんでいた。普段ならば出くわせば迂回でもしようとするほどの、いわゆる犬猿の仲が、このような場所で言葉を交わしているという現状が、面白かったのだ。
「どの道、おまえが声をかけてくる理由なんぞ、一つしかないんだろう」
アースは、親指で、たった今辞した部屋の扉を指した。
しばらく、アフライドはアースの肩越しに重厚な扉を見据えて黙った。やがて、犬猿の仲に、向き直る。
「何者なんだ」
冷えた青の瞳を、アースは翡翠色の双眸で見つめ返す。
「ミカエル・シャイアティーンという人間は、一体何者なんだ」
「それを知ってどうする」
素早く、アースは切り返した。
「知ったところで、一体何になる。何をする気なんだ?」
きつく、こちらを睨み据える軍人は、おそらく反論の言葉を見つけられないのだ。
「あの男が生き長らえてきた、三百近くの年月を、知っただけで背負えるとでも?」
僅かに、アフライドは顔を強張らせるが、聞き返しはしなかった。
三百、という年数に驚いたのだということに、アースは気付いている。
しかしおそらく、天敵の前で驚いたそぶりを見せるのが嫌なのか、何も言わなかった。
「白い粉のメカニズムを、おまえも少なからず知ってるんだろ?」
半年前、ちまたを騒がせたドラッグの話を、アースは切り出した。
「あの薬には、不老―――というよりか、成長を止める作用もある。それで、大体は推測がつくだろう」
相手も馬鹿ではない。
言葉はそれで足りる。
「あれは、製造できる場所は限られてた。―――今はもうない」
今度は明らかに、アフライドは息を飲む。
摂取している"何か"がもう製造できないということは、一体どういうことを指すのか?
残酷に、アースは言葉にする。
「栄養が得られなくなればあとは、枯れてゆくだけさ。御大を甘やかしてるおまえらも、覚悟はしておいたほうがいい」
まるで友人を励ますかのように、アースはアフライドの肩を軽く叩いて擦れ違った。
アフライドは最早、止めなかった。
ひらりひらりと裾を翻し、白衣の背が遠ざかってゆくのを、呆然と目で追う。
とさりと微かな音をたて、すぐ傍らに人の気配が現れた。
「アフライドさん」
軍服の人影が、まるでこちらを気遣うような声で名を呼んだ。
「知ってたのか」
突き当りを折れて見えなくなる白い背中を見届けて、アフライドは部下に問うた。
顔を覆い隠す厚ぼったい前髪と、分厚い眼鏡で武装した暗殺の達人は、上官の足元にひざまずいている。
「直接、大将から聞いたわけじゃありません」
面を上げずに、シノブは幾分か張った声で告げた。
「予想はしていました。……外れていればいいと思っていたけど」
―――ついてくるだろう?
確信犯の笑顔で述べられた手があった。
その手を取るということに、迷いはなかったはずだ。
不安も。
彼はある種の超越者であって、絶対的な”なにか”だった。
得体は知れずとも、庇う背のうしろがわに不変に在るものだと。
はじめに滅ぶのは己のほうだと、信じて疑わなかった。
強張った顔の筋肉が引き攣れるように、笑みがこぼれた。
「嘘、だろう」
気休めに呟いてみても、むなしい。
本当は、気がついていたのだ、おそらく。具体的な事実ではなくとも。
予兆に。
胸騒ぎがしていたはずだ。思い返せば、いつも。
肌で感じていた。
そう遠くない未来に訪れる、ほろびの予感を。
3.
―――摂理を捻じ曲げて生きているということに、つい最近まで気がつかなかったんだ。分かっているつもりだったんだけれどね。
蘇る男の声はいつもやわらかい。声を荒げたところなど、ついぞ見たことがなかった。
正規軍本部から足音を飲むような毛の長い絨毯を踏んで辿り付くのが教皇庁の建物。ほぼ全壊した研究所を立て直すまでの仮宿だ。
半年前の残骸は既にきれいに片付けられ、あらたな研究施設の建設が着工している。
正規軍本部と教皇庁。ふたつの間に渡された渡り廊下から、アースは目下建設中の建物がある方向を眺めた。ふたつの建物の、丁度五階付近から渡された廊下はかなりの高さにあり、鬱蒼と繁る林の向こう側にあるはずの建設現場も見渡すことが出来た。
すべては過去になってしまった。
あの建物に怨念のようにまとわりついていた過去の残滓は、もはや、無い。
亡霊は去ったのだ。
両手を白衣のポケットに突っ込んで、アースはくみ上げられてゆく骨組を見る。
全く別の建物が建つのだろう。形は似通っていても。最早あの建物の地下に広大なドラッグの精製施設は作られない。
人を殺すためだけに、人工的に体のつくりや能力を強化させられる子どもたちも、もう現れないだろう。
すべては進んでいる。
呪いのように人びとを縛り付けてきた過去という名の糸は、確実にほころび始めている。
メビウスは壊れた。
あの、時が止まったような空間は二度と、戻らない。
*
フィラメントという姓は、生まれ持ったものではなかった。
七つまでは親から継がれた姓を名乗っていたが、金によって彼らとの絆がぷつりと切れたのと同時にその名は捨てた。以降二度と使ったことはない。
両親との契約は、すでに切れているのだ。故に、彼らと同じ名を名乗るのはおかしい。
幼い頃はそう納得していた。しかし根っこでは、金で息子を売り飛ばさなければ生計すら立てられぬ愚鈍で平凡な人間と、同じ血が流れているということが耐えられなかったかもしれないし、はたまた、ただ単に恨んでいたのかもしれなかった。
今となっては、どちらだったのかも分からない。どうでもよい事柄になってしまっている。
兎に角、生まれてしばらく暮らした寒村のことなど、記憶の端に食べカスのように残っているばかりだった。
生活は激変した。
目の前に差し出された知識という名の餌に飛びついて、すぐに昔の生活は忘れた。ひたすらに知識を飲み込んだ。噛み砕くという時間すら惜しかった。
あの頃の生活を振り返ると、およそ時間という感覚が失われていたと思う。
見渡す限り、病的なまでに白い空間で寝起きをし、勉強と研究とを繰り返す日々に揺らぎはなかった。
おそらく時が止まっていたのだ。
身近にいた男が、時が止まった男だったというのもおそらく関係しているのだろう。
劇的な変化とは無縁のまま、日々は刻一刻と流れていった。
あの青白い空間は不変であるのだとどこかで信じていたのかもしれない。
その安定が、危うい均衡のうえに成り立っていることなど、砂上の楼閣の内側にいては輪からないものだ。
親に売り飛ばされた子どもがまず引き合わされたのは、いかにも身体能力が低そうな、研究者然とした白衣の男だった。
白っぽい金髪は適当に伸ばされているようで、一部が肩にかかるかと思えば極端に短い部分もあった。柔らかそうな黒革の椅子に沈み込んで足を組み、翡翠色の瞳を持つ少年を眺めた。
強かな子どもは、一瞬で相手を侮った。
これが、主任研究員だって? ガイア一の研究施設のトップ?
―――大丈夫だよ。
穏やかに微笑んで、研究所に根が生えているような典型的な研究員が、まるでなだめるように呟いた。
拍子抜けをして、アースはぱちくりと瞬きをした。
―――怯えなくても、ここでは誰も君を取って食べたりしないから。
驚いたあとに、アースはあきれた。
誰が怯えてるっていうんだよ。
憮然と言い返すと、男は唐突にさも楽しそうに笑った。
アースは更に口をヘの字に曲げる。
―――君は気づいていないのかもしれないけど。
こみ上げる笑いを噛み殺しながら、男は椅子を立った。
―――今の君は随分と、手負いの小動物のような目をしている。
目の前に立ちはだかった男はやはり、少年よりは随分と上背があった。見上げる翡翠色と、見下ろす青がぶつかった。
微笑んでいるのに、底の見えない青に、アースは目を瞠った。
空だ、と咄嗟に思った。
なかみが無い。
教会お抱えの研究所の。世の研究者ならば垂涎の場所の更に頂点に立っていながらも、器ばかりだ。
満たすものがない。
―――君を呼び寄せたのはわたしだ。これからよろしく頼むよ。
男は、穏やかでなごやかで決して荒れぬ海だった。
しかし既にその海は、死んでいたのだ。
差し出された手を、はたき返す。ひんやりと冷たかった。
彼は、亡霊だったのだ。
虚として在り続けた、誰にでも見える亡霊。
亡霊なのだから、人間のように死ぬとは思わなかった。
ある種の安定がそこにはあった。
年季の入った建物は、多くの亡霊を呼び寄せる媒体だったのかもしれない。
亡霊のような男の傍に、中身を持たない生き物がじわじわと集まったのだ。
研究員募集試験をトップで通過してきたという男と出会ったのもまた、あの建物の中だった。
ひとことで言えば、陰気な男だった。
黒髪で、眼鏡の奥に隠された瞳はよくよく見れば深い青。肌は白い。全体的に、暗い色合いで形づくられていた。
何よりもその目が、暗い炎を抱いていた。怨念のような。
おそらく、今の彼を知るものからは想像も出来ないだろうが、その男は絶対に他者を受け容れようとはしない生き物だった。
サイジョウ・ヒイラギという男だ。
真っ直ぐ、ひたすらにある一点だけを見据えていた。
他者とのかかわりや馴れ合いは一切の無駄だと考えているような男で、寝食も忘れたように研究室に篭っていることが多かった。
どれほど協調性が欠如しているとはいえ、サイジョウ・ヒイラギができる男であることに変わりはなく、定期的に提出される研究レポートには目を瞠るものが多かった。当時の主任研究員フィーメル・オズメントも彼に目をかけ、当時研究所の統括を担当していたとある男と接触する機会もおそらく多かったことだろう。
サイジョウと同じように、黒髪と濃紺の瞳を持つ、当時の正規軍兵器部門の総括。
―――おまえ、あの男と何かあんのか。
モニターに向かい、指先と視線ばかりを動かす男に、アースは訊いたことがある。
サイジョウに宛がわれた研究室の、入り口傍にあるテーブルに行儀悪く腰掛けていた。
―――あの男?
他者とかかわらないサイジョウにしては珍しく、返事をした。
―――分かってるんだろ、兵器開発の総括。アンティクリストだよ。
なめらかだったキータイプの音が、一瞬だけ、止んだ。
あまりにも雄弁な答えだった。
音は、すぐに再び流れ出したが、周囲の空気は明らかに変わった。
サイジョウの、アンティクリストに接する態度は瞭かに普通ではなかった。
激しく憎悪しているような、それと同時に激しく焦がれているような。感情の起伏が全くといっていいほど見られない人間の、それは特殊な姿だった。
―――おまえが研究してる遺跡のコンピュータ解析技術も、あいつが欲しがってるもののひとつだろ。おまえは研究がしたいのかよ、それとも、あいつに近づきたいのか?
答えは無かった。
アースは、嗜虐心を掻き立てられたような心持ちになった。
サイジョウという生き物が分からなかった。無気力の塊のようでいて、瞳にだけ苛烈な熱を宿している。割り切れなくて、気持ちが悪いのだ。
分からないことがあるのは、嫌いだ。
―――おまえまるで、あの男に惚れてるみたいだぜ。
―――……俺に。
終いまで言葉にする前に、サイジョウの声が遮った。
暗い炎をたたえる瞳をこちらに注いでくる。
深淵が瞳の奥に広がっていた。
柄にもなく、アースは息を飲んだ。
広大な空間をその向こうに見たからだ。
この男もまた、空なのだ。
―――俺にかまうな。俺は、目的のためには全てを道具にする。誰に何と思われようが、批難されようが、誰が死のうが、泣き叫ぼうが、知ったことじゃない。おまえもだ。
死体を魔術で操っているような、そんな気持ち悪さだった。
この男は、何かを呪うことだけで生きている。それ以外の部分は死んでいる。アンデッドのようなものだ。
―――殺すつもりか。
重ねて問い掛ければ、亡霊は暗い炎の宿る瞳を飽いたかのようにアースから逸らす。
晧々と光を放つモニターに再び向き合った。
―――そのときになってみなければ、分からない。
ごまかしではなかった。声には戸惑いの響きがある。
そうか、とだけアースは声を返す。
―――おまえの指摘は、おそらく正しい。
部屋を出ようと、アースがテーブルから体を起こすと、唐突にサイジョウが言った。
―――俺は誰より父親を憎んでいるし、誰より、求めてもいる。
それ以上、サイジョウは何も言わなかった。
得体の知れない男は、もうひとりいた。
二メートルにも届こうかという巨漢でありながら、涙もろく、驚くときには口元に手を当てるような挙動の男だった。
医療関係を専門にするその男は、サイジョウとは正反対の明るく人当たりのいい生きもので、天才とは言えど未だ少年の粋を脱していないアースをやたらと可愛がりたがった。
―――ちょっと、アース。
アースに宛がわれた研究室の扉をノックして、巨体がドアの隙間から顔を覗かせた。
―――なんだよ。
不機嫌そうに振り返るアースに、彼は小さく手招きをする。
怪訝に思いながら、スキンヘッドが覗くあたりまで近寄ると、ジャガー・コルテックは茶色の紙包みをアースに差し出した。
―――なんだこれ。
―――お弁当よ。
さも当然のことのようにジャガーが言うのに、アースはあきれた。
―――なんの真似だ。
憮然と言えば、ジャガーはショックを受けたように口元を覆った。
―――だって、最近研究室に篭りっきりだって聞いたから。アースは育ち盛りだから、ちゃんと栄養取っておかないとって思って。
まるで悲劇のヒロインのようにジャガーは瞳をうるませる。
―――アースが心配なだけなのよ。とりあえず受け取って。わたしの真心だから!
アースの手に紙包みを押し付けて、巨体はするりといなくなった。
手なずけようとしても懐かないアースにすらその態度のジャガーは、様々なものに対して世話を焼きたがった。
何故他人にそこまで手間をかけてやれるのだろうかと、随分アースはいぶかしんだものだった。
彼はとある生物実験の生き残りであったのだと、後に知った。
同時に、彼の専攻する生命工学の技術が、D計画と呼ばれる強化人間を育成するプロジェクトに流用されていたことも。
様々なものをいとおしむ彼の慈愛は、一種の罪滅ぼしのようなものであったのかもしれない。
まやかしの和やかさがあり、死んだような凪がある。
フィーメルの周囲には、死海が広がっていた。
それは一種の安らかさでもあり、静謐さでもあった。
時が止まった男と、憎悪に身を焼くアンデットと、生きとし生けるものをいとおしみながら生物兵器の創造に荷担する男。
金で名を失った天才少年。
尋常ではありえない人間の集まりは、およそ生気というものを失っていた。
空虚な亡霊ばかりだった。
いずれもが一角を担うように、その陰鬱な楼閣は形づくられていたのに。
均衡を破ったのは、頂点に君臨する男がはじめだった。
フィーメルが倒れたのだった。
―――憎むものが欲しいのなら、わたしを憎んだらいい。わたしは死なない。そういうことになっているんだ。
自らが生み出した不老不死の妙薬のお陰で、死なないことになっている、と言っていた男が。
アースの眼前で糸が切れた人形のように、くずれおちた。
咄嗟に掴んだ腕がぬるりと滑った、ような気がした。
―――ようやく、終わりか。
額をアースの肩に押し付けるようにして体を支え、フィーメルが面白そうに呟いた。
冷たい腕を握った掌がうっすらと濡れている。それがどういうことなのか、残念ながらアースには分かってしまっていた。
禁断症状だ。
―――薬は、どうした。どこに……。
―――もういい。
アースは何故か慌てて、男が開発した妙薬の在り処を思い出そうとした。
芯のある声で、フィーメルはそれを制す。
―――もういいんだよ、アース。
額を肩に押し付けたまま、フィーメルはアースの両腕を握った。
つめたさに、肌が一瞬で粟立った。
具体的な事実を突きつけられた気がした。
―――いいわけねぇだろ、いつから飲んでなかったんだ! 分かってんのか、死ぬんだぞ!
死ぬはずのない亡霊が、死ぬ?
何かが崩れる音を、確かに聞いた。
―――生きているほうがおかしいんだよ、わたしは。
荒い呼吸が耳のすぐ傍に聞こえている。
―――摂理を捻じ曲げて生きているということに、つい最近まで気がつかなかったんだ。分かっているつもりだったんだけれどね。
強く、腕を握られる。頭に鉛でも詰め込まれたかのように、重そうにフィーメルは頭を持ち上げる。
―――おまえが。
男が起こした顔を、瞳を目の当たりにして、アースは呼吸を忘れた。
常に氷河のように涼しげだった瞳が、今は違っていた。
必死な、なにかがあった。
彼の虚空を、何かが満たしていた。
最早ただの器ではなくなっていたのだ。
―――おまえが、わたしよりも先に、死ぬんだと気がついたときに、たまらなくなった。ようやく、目がさめた気分だ。これでいい。
ぞくぞくと、訳の分からない悪寒が足元から這い上がってくる。
亡霊が突然、実体を持って生身のいきものになった。
―――捩れがただ元に戻るだけだ。
やめろ、と気づけばうめいていた。
聞きたくはない。
言葉には出来ない焦燥や不満、鬱屈をすべて、すべて気づけばこの男に背負わせていた。
たくさんのものを。
絶対に崩れない棚だと信じていたからだ。
それが崩れたら、今まで預けたものをひとりで背負える自信がない。
おまえが、崩れないと言ったのじゃないか。置いてはゆかないと。
変わりはしないと言ったくせに、この有様は一体なんなのだ。
―――わたしの我儘だ。
―――黙れ、逃げるのか!?
―――逃げさせて、くれ。
きつく、二の腕のあたりを握り締められ、アースは断罪を飲み込んだ。
まるで搾り出すかのような告白だった。
―――もう終わりだ。わたしは知ってしまった。
何を?
―――偽りなどでは満たされないということを、だ。奇麗事ばかりでは納得できない。本当に欲しいものを知ったら、間に合わせでは足りない。
冷えた青の双眸が、熱を宿していた。
―――おまえにも、いつか見えるよ。この世界の終わりが。
この世界の終わり。鸚鵡返しにくりかえす。壮大すぎて、実感はなかった。
―――自分で必死に守ってきた、安寧の最期だ。そのとき、新たな世界の扉が開く。
それは破滅と再生だ。
一切のものが崩れ去り、荒れ果てた大地に一葉の葉がひらくような。
―――早くおまえにも、見えて欲しい。
ふっと、顔の強張りをゆるめて、痛みを堪えるような顔でフィーメルが笑った。
―――どれほどこの世界が捩れているのか、わたしが何故、命の綱を自分で切ったのか、そのときおまえにも分かるだろう。
置いて、いくのか。
迷い子のように、呟いていた。
帰り道が分からなくなった幼子のように、頼りない声で。
強く腕を引き、この舞台まで引きずり出したおまえが。
簡単に手を離し、届かない場所へ逃げるのか。
―――そうだよ。
いとおしむように、フィーメルが目を細めた。
―――わたしはおまえを置いてゆく。それは当たり前のことだ。咲いて、枯れる。人も、獣も、草木も。何ひとつ例外はない。これが正しい順序なんだ。
完璧な解法をしめすように、きっぱりと、男が告げる。
どれほど奇麗な方程式なのかも知れない。ただ、アースにはそれがうまく飲み込めなかった。
血を分けた両親からも気味悪がられ、無邪気な子どもの群れからはつまはじきにされた。
子どもであることが許される場所はどこにもなかったのだ。
ここ以外に。
払い退けても何度でも頭を撫でてくる掌や、子どもらしく怯えを許してくれる寛容さも、他にはどこにもない。
絶対的な安定と安堵とを失ったら。
世界のすべては敵に変わる。
背を預けていた壁が失われたら、背後は絶壁に変わるのだ。
―――おまえが死んだら……。
どうしたらいい。
胸のうちに渦巻く、名前がつけられない憎しみや痛みを、どんな棚に上乗せして見えないフリをしてゆけばいいのか。
ようやっとバランスを取って歩んでいる綱渡りなのに。とん、と背中を押されるだけでまっ逆さまに転がり落ちてしまう。
―――おまえならば、平気だ。
何の確信があって、そんなことを言える。
批難の声を、アースは飲んだ。
男の両腕が、少年の肩を抱きこんだ。ただそれだけのことで。
―――さよならだ、アース。
掠れた声を、耳のすぐ傍で聞き届けると。
重力が一片に重くなったような気がした。
よろめく体を支えようと、反射で片脚が下がった。
何の遠慮もなく、両肩に絡まった腕は、すべての重みを預けてきた。
受け止め、咄嗟に抱き返した体が、思ったよりもあたたかかったことに驚き、そしてようやく、分かった。
この男は亡霊などではなく、やはり生きていたのだ。
そして今。
たった今、死んだ。
あのとき腕に感じた痺れを、今も発作のように思い出す。
*
完璧で不変に思われた世界に入った小さな亀裂は、みるみるうちに広がった。
一息に全てが砕け散るのではなく、すこしずつ、少しずつ崩れてゆく。
フィーメルの死から、何かの歯車が噛み合わなくなった。
前主任研究員の遺言によってその任を引き継いだアースは、急激に変化する周囲と戦うことで視野が狭くなっていた。
いつのまにかサイジョウ・ヒイラギの姿を見かけなくなっていたことにもしばらく気がつかなかった。
一般の職場とは違い、特別決まった時間で就労しているわけではないし、大体が研究室に篭っているので、数日顔を合わせなくても不思議なことは何もない。
だから、サイジョウを見かけなくなったときも、特に疑問を抱いたわけではなかった。
何か根を詰めてやるようなものを見つけたのだろうと、簡単に考えていた。
今思い返せば、自分なりに切羽詰っていたのだろうと思う。サイジョウの姿を見なくなってから数ヶ月も、不思議だとは思わなかったのだから。
その沈黙は、ある日唐突に破られることになる。
深夜、静まり返った研究所に突然響き渡った警報で、しじまは裂かれた。
ガイア随一の研究所であるこの場所は、同時に万全のセキュリティも期している。
この警報が鳴るときは、実験用の動物などが逃げ出したときが専らで、それもすぐに落ち着くのが常だった。
実験用の動物とはいえ、人の形をしているものも数多くいたわけだが。
ともかく、その日に限って、しばらく警報は鳴り止まなかった。
大事になっていれば誰かが報告に来るはずだが。
さすがに警報が耳障りになって、席を立った。廊下に出ると、暗闇に赤い非常灯が明滅している。
火事場にいる心地だった。風にあおられる炎が、頬に照り返すのに似ていた。
闇の奥で、気配がゆらりと動いた。
リノリウムの床を蹴る音がして、次の一瞬で間合いを詰められる。
眼前に、人間が現れていた。
小さな人影が、機敏な動きで蹴りを繰り出してくる。右腕でそれを受けた。
じん、と体中に痺れが走る。重い一撃だった。小柄な影が、すぐさま次の一撃に構える。
「やめろ」
低い声が、殺意の塊を制した。
目の前に現れた”少女”のむこうから、血の匂いがただよってくる。
殺意に瞳をぎらつかせる少女を背に庇うように、男が現れた。
「退け、アース」
「ヒイラギ」
幾分か髪の伸びた、青白い顔の男が立っている。
ゆったりとした黒の衣服は、入院患者を思わせる出で立ちだった。
だらりと下げた左の指先から、たつたつと黒の液体が滴り落ちている。
「退いてくれ」
「……そいつはD計画の被検体だろう」
サイジョウが背に庇った少女を見て、アースは言った。
少女はぎらつく瞳できつく、アースをねめつけている。
実験施設で何度か顔を合わせたことがあった。確か、「妹」が飛びぬけた数値をたたき出していたはずだ。
「少女趣味とは知らなかったな。そいつと逃避行でもするつもりか」
「退いてくれ」
サイジョウは、戯言には取り合わずに繰り返した。
サイレンはまだ鳴り響いている。おそらく彼らを探しているのだろう。
「ここは施錠されているフロアだ。俺の研究室だぜ。許しがあるものじゃなければ入れないはずだが」
「機械施錠はもう、俺には鍵じゃない」
「今までどこにいた」
数ヶ月、見かけなかった間に。一体どこにいたのだ。
出で立ちを見る限り、どこかに篭って研究していたというわけでもないようだし、研究所の外部にいたわけでもなさそうだ。
「悪魔に、魂を売ったのさ」
血の気の失せた顔で、うっすらとサイジョウは笑った。
「もうここにはいられない」
自嘲じみた笑みをすぐにしまいこんで、毅然とサイジョウはアースを見据えて、言った。
背筋に得体の知れない悪寒が這い上がるのを、アースは感じた。
この違和感は一体なんだ。
目の前に立っているのは、本当にサイジョウ・ヒイラギなのだろうか。
数ヶ月前と、何かが決定的に違っていた。
「立ちふさがるなら、おまえも……!」
凄む濃紺の目を見て、気づいた。
その男は、生きていた。
憎悪ばかりをたたえたアンデットなどではなく。
生命力を持ち、毅然と前を見据えている。
この男もまた、ひとつの世界を終らせ、そしてまた何か新しいものを見たのか。
空の器を満たす何かを手に入れた。
それならばもう、別の生き物だ。
「行けよ」
僅かに道を譲って、アースは投げやりに呟いた。
逃亡者ふたりが拍子抜けしたのが、気配で知れた。
「おまえはおまえの、生きたいように生きればいいさ」
亡霊が宿る場所にいる資格を、おまえが放棄したというのなら。
ここにとどまる理由はない。
未だかつて見たこともないようなためらいと戸惑いを顔に浮かべて、サイジョウはしばらく黙った。
そして、何も言わずに擦れ違った。
「ヒイラギ」
遠ざかる背に、アースは声をかけた。
振り返らずに、サイジョウは足を止める。
「おまえは、見たのか。―――世界の終わりを」
「あれが世界の終わりだというのなら―――」
闇の中で、黒い影が赤い光に定期的に照らし出される。
「確かに、見たよ」
サイレンは鳴りつづけ、足音は遠ざかっていった。
時を前後するように、ジャガーも姿を消した。
D計画が頓挫し、子供たちがみにくく殺し合いを繰り広げ、生き残った一部も”始末”されたのだと耳にした、直後だった。
メモが残されていた。
―――あの子たちの苦しみを、誰よりもあたしが分かっていたはずなのに。
あたしは、あの子たちに……。
置手紙というには不十分な内容は、几帳面な性格からは考えられないほどに煩悶と乱れていた。
数年を経て、カインという町に落ち着いたという連絡だけが届いた。
*
作業員の掛け声と、金属を打ち鳴らすような音がここまで聞こえてくる。
目を細め、新たに組み上げられる研究所を眺めた。
「俺だけ、か」
残った亡霊は。
苦笑して、アースは仮宿に向かって歩き始めた。
4.
「なんなのだ、おまえたちは」
東軍大将執務室の扉を開け放つと同時に、ジャンヌが苛々と言った。
「明日には教皇猊下の葬儀だぞ。何をそんなに府抜けているのだ」
大佐が怒髪天をついているのは、先程の会議での部下の態度だった。
揃いも揃って上の空というのだから、性質が悪い。
「……すみません」
ひとりは憮然と黙り込み、もうひとりはしょんぼりと詫びた。
「大体おまえたちは昔から佐官の自覚が―――」
「いいよ、ジャンヌ」
お説教を、のほほんとした高い声が遮った。
「閣下が甘やかすから!」
苛烈な勢いで、ジャンヌはデスクにおさまった子どもに詰め寄った。
「いいんだよ。今日は仕方ないんだ」
「……大将」
アフライドが口を開き、言葉を捜しあぐねて黙る。
「大丈夫だよ。―――今日にも明日にもっていう、話じゃない」
アフライドが唇を噛み、シノブは視線を床に落とした。
ジャンヌばかりが怪訝に眉をひそめている。
寂しげに、ミカエルは微笑む。
「ありがとう、ごめんね」
*
「車の手配をしておいてくれないか」
自室に戻るなり、アザゼルは世話役に言った。
「車、ですか」
空白の五年よりも以前からアザゼルの世話をしていた男は、不思議そうに首を傾げた。
「明日はお父上の葬儀ですが。どこかに遠出でも」
アザゼルは軍服の上着を肩から落とし、眼鏡をはずす。
「明日だ。葬儀が終ったあとから、少しカルチェ・ラタンをはなれる」
「休暇ですか」
「アンティクリスト閣下には許可は得てある。頼めるか」
「分かりました。どちらまで行かれますか」
「鉄道がとおっている場所まででいい。そこからはひとりで行く。―――旧い友人に会いに行くんだ」
「かしこまりました」
彼は長年教皇などの中枢に雇われている人間だから、賢い。
無意味な詮索はしない。
「手間をかける」
「……変わられましたね」
振り向けば、世話役が微笑していた。
「色々なところでそう言われる。そんなに変わったかな」
自分では自覚がないのだけれど。
初老の紳士は相変わらず口元をほころばせている。
「随分と。とてもよい変化だと思います」
「ありがとう」
つられて、アザゼルも笑った。
「だけれども、お寂しそうだ」
椅子の背にかけたアザゼルの、金十字が刺繍された軍服を持ち上げて、ふと、男は呟いた。
失礼します、と私室を辞す世話役の丁寧な礼を見送って、アザゼルはしばらく立ち尽くしていた。
「寂しい、か」
部屋を横切り、デスクの抽斗を手前にひく。最下段にたくさん詰まれた書類を掻き分け、黒光りする重みを取り出した。
いつのまにか手に馴染んだその感触を確かめるように、引金に人差し指をかけた。
―――君が僕との決着をつけたいと言うのなら、おいで。
耳元に、とある男の声がわだかまっている。もうずっと。
そうだ。決着を。
決着を、つけよう。
TO BE CONTENUED