アナザー・エデン
1.
煙が、蔓延していた。
煙草と、アルコールと、香水の匂い。
霞みがかっているようだ。酔っ払いそうになる。
享楽のきわみ。
暇と金を持て余した、貴族たちの遊び場だ。
カルチェ・ラタンの端に位置する歓楽街の一角に、その館はある。
巨大な宮殿を模したつくりのそれは、貴族たちの酒場であり色を買う店であり、交流の場だった。
ただっ広いホールは艶やかに飾り付けられ、まぶしいほどに輝いている。
ホールの奥、一段高くなったそこに、豪奢な椅子が一脚、置かれていた。金色に輝いていて、猫足。装飾品だった。日用品ではなく。
玉座に傅くようにして、派手に着飾った貴婦人が、頭を垂れていた。
普段は人に頭を下げる人種ではないだろうに、恭しく、主のいない椅子に向かって。
機械で大幅にゆがめられた声が、椅子から降り注ぐ。
機敏な動作で、貴婦人が顔を上げた。
「まぁ! どうしてお分かりになるの?」
―――わたくしには見えるのです。
聞きようによっては男にも女にも聞こえる声が、応えた。
「ナフシオン様、それでは、もうすぐ全てが上手く行くと仰るのね」
―――ええ、迷わずとも、信ずるままに居られれば良い。
「分かったわ、信じます」
陶酔したような潤んだ瞳で、貴婦人は無人の椅子を見上げた。
椅子の据えられた台座の奥。
幾重にもヴェールで覆い隠された空間に、この館の主はいた。
照明は、部屋の四隅に置かれた青いランプのみ。室内は暗い。
豪奢な長椅子に体を仰向けに投げ出し、館の主はまどろんでいた。
焚き込められた香の、どこか甘ったるいかおりで、室内の空気は澱んでようにも思える。
床を打つ靴音が、次第に長椅子に近づいてくるのに、館の主はうっすらと双眸を開く。
「飲みすぎではないのですか」
くぐもった声が聞こえる。
この社交場、『天国の淵』の主であるドイル・カートレットは、とろりとした瞳で、近づいてきた人影を見た。
いつのまにか長椅子の傍に立っていた人影は、すっぽりと黒いローブに身を包んでいた。顔には白いのっぺりとした仮面までつけていて、全く隙のないことだ。
「貴様に窘められるいわれはないな」
舌がもつれるのは、やはりアルコールが回っているせいか。
しかし、ここ数ヶ月、アルコールがこの体から抜けたことなど、果たしてあっただろうか。
そんなことも、どうでもいい、と思う。
「大した盛況ぶりだな、予言者殿」
仰向けにしていた体を横に倒し、立てた肘で頭を支えた。見るからに妖しげな人影を、見据える。
「教会側もどうやら動き出した様子ですね」
仮面の男は、抑揚の感じられない声で告げた。
「教会? へぇ?」
ドイルは咽喉の奥で笑う。
「何がおかしいのです」
「何もかもさ」
右手を伸ばし、長椅子の傍に据えられたテーブルの上から、グラスを掴みあげる。
琥珀色の液体が注ぎ込まれたグラスを、手の内で弄んだ。
「勘違いするなよ、予言者」
最早味も分からなくなった酒を煽るように咽喉に流し込んで、揺れる視界でドイルはナフシオンを見上げた。
「貴様が語ったこの世界の浄化だのなんだのに、俺は興味はない」
空になったグラスを、ドイルはそのまま床に放った。
涼しげな音を立てて、グラスは粉々にくだける。
「それならば何故、私を飼っておられるのか」
「どうでもいいからに決まってるだろう。貴様が掲げる理想がどうあれ、この腐った世界がなくなっちまうなら、それでいいのさ」
体を再び仰向けに倒して、ドイルは薄く開いた目で、煙の漂う天井を見る。
「教会も、軍も遺跡も何もかも、何もかもくだらない。だからお前は勝手に、世界の浄化でもなんでもすればいい。止めやしない」
重い目蓋を閉ざして、その上から腕を乗せた。目蓋の裏の闇で、残像が万華鏡のように踊った。
眠い。
「俺はもう、死んでいるようなものだ。ただの亡霊に過ぎない」
半年前から。
兄の遺体を見たときから、だ。
もう何もかもどうでもよくなってしまった。
ありありと、閉ざした目蓋の裏に蘇らせることができる。
肉塊が転がっていた。
温度が失われてから、どれほどが経っているのか分からないほどに、強張った塊が横たわっていた。
人の体ではなかった。半ば吹き飛ばされた頭蓋が、衝撃を物語っていた。
ミンスター大学教授の粛清に合わせて起こったテロ。それの鎮圧中に殉死したのだと伝えられた。
あきらかに、銃口を額に突きつけられて、殺された体だった。
転がる肉塊を目の当たりにした一瞬で、この世界と自分とを繋ぐ糸が、ぷつりと切れたことを感じた。
何もかも、リアリティを色を、失って褪せた。
何がどうなろうと、もう何も感じないだろう。
あれだけ誠実に生き、全てを教会に捧げた人間が、殉死だというのか。
人の命をないがしろに、享楽に浸かって生きてきた自分が、のうのうと生き延びているのに?
この世界の、なんと不公平に作られていることか。
「お前は精々、うつくしい幻を見せるがいいさ。希望をふりまけばいい」
咽喉の奥から笑いがこみ上げて、そのまま吐き出した。
「お前を飼うことが、教会へ爪を立てることなら、願ったりじゃないか」
燥のように、笑いが出た。
面白くも、楽しくもなかったけれど。
ひきつけのような笑いはしばらく続いて、唐突に止んだ。
しばらくして、かすかな寝息が聞こえ始めた。
仮面の奥で瞳をほそめ、予言者はローブを翻すように踵を返した。
享楽の夜は、静かに明けようとしていた。
*
休めていない目に、早朝の朝日は鋭い。
濃紺の空が東側から白み、より一層空気がしんと冷えた。
渡る風が、髪と服とをひるがえして通り過ぎる。
ふたりは、墓前に立っていた。
村の外れ、小高い丘にひっそりと建つ、教会の裏手だ。
「カラ、だって?」
乾いた笑いを含んだ声が、沈黙を破った。
飾り気のない墓標から、レイは視線だけを隣の男に向ける。
赤の瞳を、ハルトは色あせた木の標に向けていた。それ以上、何も言うそぶりはなかった。
レイもまた、視線を墓に戻す。
右手側から、強い朝日が注いでいた。夜が明けたのだろう。
―――キトの教会にあるファスト神父の墓は、空です。
数時間前に告げられた言葉を、もう何度反芻しただろうか。
―――ファスト神父が亡くなられた、その次の日の朝に墓は荒らされ、遺体は持ち去られました。
何故、と。問いただす言葉も出てこなかった。
絶句というのは、おそらくこのようなときに使う言葉なのだ。
誰が、何のために、は未だに分かっていないのだという。
墓へ行くか、と切り出したのはどちらだったか。気がつけば、見慣れた墓石の前に立っていた。
親だった。
血の繋がりよりも、よっぽど強いものがあったのだと、信じている。
真夜中の教会に置き去りにされた、身元も分からない赤子たちを拾い上げた男だった。
たくさんのものを与えられた。名前だけではなく。
「死体なんて掘り起こして、どうするんだかな」
嫌いなものを無理矢理に飲み込んだような顔をして、ハルトが呟いた。
「知らないよ、そんなの。僕が教えて欲しいぐらいだ」
この墓標に、たくさんの誓いをした。愚痴も零した。
全ては、あの人の体がこの下に眠っていると信じていたからだ。
「神父は、どうして殺されたんだろう」
疑問は、原点に立ち返る。
背の側から吹いた風が、伸びかけの金髪を揺らして過ぎた。
育て親の死について、ふたりはほとんど何も知らなかった。
十かそこらの子どもだった頃、まだ中年に差し掛かったばかりかという不良神父は、死んだ。
腹部をナイフで刺され、出血多量だったのだと教えられた。
勿論、幼い子どもが他殺体を拝ませてもらえるはずもなかった。レイは見せまいと立ちはだかる大人たちの体の隙間から道端に倒れている姿を。ハルトに至っては、綺麗に整えられた遺体の姿すら見ていない。
大人たちは、何かを包み隠すように、早急にその男の体を土の下へ葬ったのだ。
その遺体が、夜のうちには運び出された?
一体何のためだというのだ。
「ハルト、それにレイも……。ふたりとも朝からこんなところで何をしているんだい?」
僅かに驚きと戸惑いをふくんだ声に、ふたりはほぼ同時に肩越しに振り返った。
墓地の入り口に、聖服を着込んだ男が一人立っている。背に、眩しい朝日が注いで、まるで後光のようだ。冷たい風に、背の半ばほどまで伸ばした薄茶の髪が揺れていた。
「ストーンさん」
レイが、その男の名を呼んだ。
今現在の、この教会の主だった。
「あんたは”ここ”に、中身がないってないってこと、知ってたのか?」
ゆったりとした足取りで歩み寄ってくる男に、ハルトは問い掛ける。
三十がらみの神父は、ハルトの赤い瞳に視線を合わせ、僅かに目を瞠った。
「院長が、君たちに話をした?」
ふたりの顔を見比べるようにして、静かに、淡い茶の瞳を持つ青年神父は問い掛ける。
どちらともなしに、ふたりは頷いた。
「そうですか」
応じるように、神父も一度首を前に倒す。
「なにが起こったのか、ご存知ですか」
深い緑の瞳に意志を込めて、レイはストーンを見据えた。ごまかしを受け容れない色だった。
ストーンは、射竦めるような視線を受け止め、暫く黙っていた。
「…なにが起こったのかは、私は知らない。あの頃、私は冷静に物事を判断できる状況になかったからね」
裾の長い聖服をはためかせるようにして、ストーンは踵を返した。
「その頃の話でいいなら、話しましょうか」
ハルトとレイは顔を見合わせて、聖服の背を追った。
簡素な、体裁だけを整えたような礼拝堂の奥、神父の居住空間にあるテーブルに向かい合わせて座る。
ストーンは、ふたりの前に自らの左腕をあお向けて差し出した。
「あの頃私は、こうすることで生きていることを確かめていた」
白い左手首には、強く爪で引っ掻いたようなあとが幾つも折り重なるように残っている。
それが一朝一夕に出来たものではないことなどは、すぐに知れた。
「自殺する度胸があったわけじゃない。ただ自分を傷つけているという感覚に酔っていただけなんだろうな」
最早終わったことなのだろう、ストーンの言葉は澱みなかった。
「神父によく呆れられたものだよ。いや、呆れられたかったのかもしれないな」
何を馬鹿なことをしているのかと、呆れた溜息で迎えられることに、安堵すらしていたのかもしれない。
病なのだと特別対応をし、奇異の目で見る周囲とは違い、まだ人間を見ている眼差しだったからだ。
「あの人は、私の中で絶対的な存在だった。汚点が、私には許せなかったんだ」
当時、小さな村を震撼させた噂を、ストーンは繰り返した。
ハルトもレイも覚えている噂だった。
―――ファスト神父は人を殺して、この教会へやってきたのだ。
田舎では、噂は音速で広まる。
時間を経れば経るほど、話の内容は長くなっていった。
その噂のどこまでが真実だったのだろう。幼い子どもだったふたりには、真実を大人に問うことすら出来なかった。
「私はその話を、ジェイクと名乗る男から聞いた。姉と義兄の仇を追っているのだと言っていた」
レイはふと、横目でハルトの表情を伺った。
ジェイクとは、ハルトが孤児院を出たあと暫く厄介になった発掘や考古学を生業とする男だったはずだ。
ジェイクとファストが顔見知りだったということも、つい最近まで知らなかった。まして、十年以上前ならば尚更だろう。
ハルトは、無表情を保っていた。
「あの人が、幼馴染であったジェイク氏の姉と義兄を撃ち殺し、教会に捕らえられたと言った。彼自身、そこまで詳しい内容は知らされていなかったようだけれど、仇を討ちに来たのだと私に言ったよ」
“しこり”は、なくなったのではないだろうか、とハルトは思う。
半年ほど前に顔を合わせたジェイクは、幼い頃の写真を見てまぶしそうな顔をしていた。
とても、恨みを抱きつづけている顔には見えなかったけれど。
「呆然と町を歩いているところで、もう一人、フードの男に声をかけられた」
晒しつづけていた左手首を仕舞いこむように、ストーンは机に肘を突いて指先を絡め合わせた。
「死神のような男だった」
ストーンは双眸を閉ざした。目蓋の裏側に、死神の容貌を蘇らせようとしているのかもしれなかった。
頭から黒いフードを被った男。
低く重い声を、すぐに思い出すことが出来る。
深く被ったフードでは、横から風が吹いたところで相手の顔を垣間見ることも出来ない。
不吉にはためく黒い旗を、そのときストーンは想像した、と言った。
「昔、神父はカルチェ・ラタンで反教会の組織に参加していたらしい。死神のような男は、その頃のことを克明に教えてくれたよ。教皇の暗殺未遂までしでかした、と。まるで間近で見てきたことのようにね。私はとても―――」
言葉を切り、ストーンが瞳をゆるりと開いた。
「とても動揺していて、事実なのか虚実なのかもどうでもよくなってしまっていた」
絡めた指先に視線を落とし、まるで懺悔をする人のように。
「気がつけば、ナイフを持ち出していた。あとは全て、君たちも知っている通りだ」
私が、あの人を、刺した。
刻み込むように、ストーンが言った。
「当時の私には、どういう事情があったのかは、どうでもよかった。ただ、聖人のように慕っていた人の手が血で汚れているのだという事実だけで、許せなかったんだ。神父に言ったよ。嘘でもいいから、否定してくれないか、と。彼は苦笑して、ごめん、と謝っただけだったよ」
重い沈黙が下りた。
目の当たりにしたわけでもないのに、ふたりにはファストの苦笑までもはっきりと分かるような気がした。
きっとあの人なら、あんなふうに笑うんじゃないかと、思った。
「その、フードの男が何者かは分からないのか?」
左手の中指に嵌め込んだ銀のリングを捻るような動作をしながら、ハルトが訊いた。
ゆるりと、首を横に振ることでストーンが応えた。
「声の感じからして、若者ではないだろうということだけ」
小さく、そう付け加えた。
指輪を弄るのを止め、ハルトはその指先を口元に当てた。
ひとりの男の顔を、思い浮かべていた。
―――私は"神殺し"をしたいのだよ。
不健康そうな男だ。ただ瞳だけが獰猛な獣のように鋭い。
教会正規軍の、中枢に位置する男だった。何故なのか、ふたりの名付け親をよく知っているふうな口ぶりで話す。
(多分あいつで、間違ってない)
何故あれほどまであの男がファストに執着するのか、ふたりにはまだ分からないが。
絡んでいないというのは嘘だろう。
「そう言えば君たちは、神父の日記は?」
ふと、思い出したようにストーンが顔を上げた。
あ、とレイが口を開く。
ストーンから渡された日記は、ゴルゴダでの一件のあと、レイの手元を離れていた。
「俺が持ってる」
隣から、名乗り出があった。
「いつのまに」
「お前がフラフラしてるうちにだよ」
「目は通していない?」
ふたりは首肯する。
ストーンも頷き返した。
「確かに、人の日記を読むということは良心が咎める行為かもしれない。だけれど、あの人が何を考えていたのかを知りたいのなら、開いてみるのも手段のひとつではあるでしょう。あの頃、神父は何かにひどく固執しているようだった。それが何かまでは、私にはわからない。私が話すことができるのは、あの人の最期だけだ」
「最期?」
レイが思わず訊き返した。
そうだ。この人は、あの人の最期の瞬間に、傍らにいたのだった。
ストーンが視線を二人に流して、その後に目を伏せた。
「あの人は、体を突き刺したナイフごと、私を強く、抱き締めた。そして、震えて掠れる声で言ったんだ」
―――愛している、と。
2.
「休暇を?」
西軍大将を背負うランドウ・アンティクリストは、執務机についたまま訊きかえした。
「……勿論、父の葬儀が執り行われたあとの話ですが」
能面のように無表情で、部下であるアザゼルは上官に告げる。
動揺や焦りを、僅かでも外に出すものか、と思っていた。
この蛇のような男に、付け入る隙を与えてはならない、と。どこか本能的に感知していた。
何のための休暇か、と聞かれたときのための答えならば用意してある。澱みなく、答えられる自信ならあった。
決して、悟られはしないように受け答えができる。
大丈夫だ、と何度も自分をなだめすかした。
「……よかろう」
あまりにあっけなく、許可は下りた。
声に、僅かな笑いすら含まれているように聞こえる。
あまりのあっけなさに、思わずアザゼルは瞠目する。
「今回のことで、君も疲れているだろう。暫くゆっくりと休みたまえ」
物分りのよい上司の顔で、ランドウは目元を細めるようにして微笑した。
「……は、い」
何とか返事だけは返した。
「お心遣い、感謝します……。具体的な日程については、あとで資料で提出を……」
つらつらと事務的な台詞を並べる自分とは別に、激しく動揺している部分がアザゼルにはあった。
儀礼的な挨拶を述べて、踵を返す。
普通の顔をしていられただろうか。
艶めく木の扉を閉ざしたところで、一気に脱力した。詰めていた息を盛大に吐き出す。
あまりに、容易すぎではないだろうか。
あの西軍大将のことだ、もっと細部まで突っ込まれるものかと思っていた。
安堵よりも、不安が湧きあがってくる。
何か思惑があるのかもしれない。
「アザゼル様?」
声に、アザゼルは顔を上げた。
目の前に、やわらかな微笑がある。
目線は自分よりも少し下だった。
「ウルムス……」
慌てて、アザゼルは扉に預けた体重を取り戻した。
「こんなところにいらしたんですか」
首を僅かに傾げるようにして、ウルムスが微笑した。
「お姿が見えないので、少し探してしまいました。……どうかしましたか? 顔色が悪いようですが」
叱られた犬のように、ウルムスはうかがう顔でアザゼルを見上げた。
「何でもない、少し立ちくらみがしただけだ」
大股に、アザゼルは歩き出した。部下の横を通り過ぎて、私室のほうへと足を向けた。
「皆、心配しています。教皇猊下が亡くなられて、アザゼル様はどれほど心を痛めておられることか……」
小走りに、部下がついてきた。本当に犬のような挙動をする。
「僕にどれほどのことができるかは分かりません。それでも、お力になりたいんです。アザゼル様の、お力に」
傍らに追いついた、まだどことなく幼いところを残す軍人と視線を合わせて、アザゼルはふと、足を止めた。
まるで挑むような、真摯な目を、部下はしていた。
ぐらりと心が揺らぎかける。
胸の内に抱えている葛藤を、他の誰かに少しでも預けることが出来たなら、少しは楽になるのだろうか、などと。
―――自分から尻尾を振って近づいてくるものを、簡単に信じないほうがいい。
不意に耳元に蘇った声に、アザゼルは慄然として息を飲んだ。
「アザゼル様?」
あきらかな変化に、ウルムスは更にかわいそうなほど顔をしかめる。
「……何でもない。少し、考え事がしたいんだ、ひとりにしてくれないか」
慌しく、アザゼルはその場から立ち去った。
ウルムスの足音は、今度はついては来なかった。
くそ、と口をついて悪態が落ちた。
胃のあたりからこみ上げてくる怒りを、どこにぶつけていいのか分からない。
他の何に怒っているわけではない。自分が腹立たしいのだ。
(こんなときに、あの人の言葉を思い出すなんて)
足取りは、荒々しく、速くなる。
同じ階にある己の執務室の扉を勢いで開け放って、勢いのままに閉ざす。
扉に背を預け、右手の拳をそれに叩きつけた。
「どうして……」
咽喉の奥からせりあがってくるものの正体を、気づかないふりをした。
もう半年だ。
人間の適応能力はずば抜けている。すぐに新しい環境に適応する、はずだ。
そうじゃないのか?
―――なんでですかぁ?
間延びした女の声。
―――そんなの下心があるに決まってる。
―――それはサイジョウさんじゃないんですかぁ?
―――この清らかな人間を掴まえて何を言ってるのかな。
キヨラカァ?
素っ頓狂な声で、モエが切り返す。
ぐらりと、揺らぎそうになる。
やわらかで暖かな気配に飲み込まれそうになる。
何もかも許してしまいそうになる。
(思い出せ)
やさしい記憶ではなく。
―――殺すつもりだった。
冷徹なテロリストの告白を、呪文のように脳内で繰り返す。
この半年で、どれだけ繰り返したか分からない。
「あの男を……」
爪が食い込むほどに、拳を握り締めた。
自分に暗示をかけるように、何度も呪いのように。
「殺すんだ」
思い出せ。
自分の立場、生まれ、理想。
やらなければならないこと。
妾腹に生まれ、男というだけで嫡子に迎えられた。
金の色で腐りきった教会の体制、ひいてはこの世界を包み込む体制までも、どんな手を使ってもかまわない。作り変えるつもりではなかったのか。
母と引き離され、大きな屋敷に閉じ込められた。
人前では愛情深い父親を演じるあの男も、プライベートでは一切接してくることはなかった。
5年、あの男が自分を探しつづけたのは、己の汚点を暴露されたくないからだ。
死んでいるのならばそれでもよし、と思っただろう。
死体が見つからないうちは安心できない。
そんな臆病な男だったのだ。
毒を注いでも、無理矢理変えなければならないと、思ったはずなのに。
(何で迷うんだ)
唇を噛む。生ぬるい、鉄の味が口の中に広がった。
―――君を、殺すつもりだった。
握り締めた拳の震えが、徐々におさまる。
くすぶる怒りや悔しさは、少しずつ冷えて、やがて落ち着いた。
甘味を帯びた鉄の味で舌先を湿らせて、唇を舐めた。
そうだ。
誰も、信じるものか。
「俺は、あの男を」
テロリストを。
敵を。
「殺すんだ」
大丈夫。
「……やれる」
*
「あーあ。成果なしですかぁ、疲れたなぁ」
ん、と緊張感なく、軍服の男は伸びをした。
「だらしがないぞ、トクヤマ」
「あ、すみませんジャンヌ様、つい」
前を歩く上官に窘められ、トクヤマ・シノブは背筋を伸ばした。
後ろを振り返った素振りもないのに、まるで頭の後ろ側に目がついているかのようだ。
そういう潔癖なところも、彼女の魅力でもある、とシノブは好ましく思う。
軍本部の4階層。掌紋照合を終え、警備兵の守る分厚い扉を抜けた先が、普段の彼らの”職場”である。
扉を抜け、右手側に折れると、東軍佐官クラスの執務室が並ぶ通称東館に出るのだ。
「それにしても、ここまでやっても何も出てこないなんて」
やわらかい真紅の絨毯を踏みしめ、トクヤマは上官に並んだ。
ジャンヌは、冷たさすら感じさせる銀の双眸を、部下に向ける。先を促す様子だった。
「異常ですよ」
冗談を仕舞いこみ、声をひそめ、シノブは短く言った。
ジャンヌはその白銀の瞳を僅かに細めた。
ふたりは、先頃起こった教皇暗殺事件の調査に出向いていた。
凶器も庭から見つかっている。犯人を挙げるまでに、それほど時間は掛からないだろうと、誰もが思っていた。
「本当に、外部犯なんでしょうかね」
シノブは黒縁の眼鏡を顔から引き剥がし、顔半ばほどまで覆い被さる黒髪を後ろ側に掻きやる。
普段の野暮ったい印象からは想像もつかない、切れ長の瞳がのぞいて、再びはらりと落ちてきた前髪に隠された。
「お前はどう思っている」
「僕ですか? そうだなぁ」
お調子者の顔で、シノブは人差し指を顎に当てたりなどしている。
はじめはジャンヌもこのお調子者の挙動にいちいち腹を立てていたものだが、最近は気にならなくなった。慣れとは恐ろしいものだ。
「犯人なんて、いない、かな」
「何?」
「ああ、目撃者が説明している外部犯、っていうことですよ。そんな人間はいないと思います」
突き当たりの角を、更にふたりは右に折れた。その突き当りが、大将の執務室だ。本日の調査の報告をしに行かなければならなかった。
「どれほど調べても、尻尾の先も捕まらないなんておかしいですよ。それほどまでに上手く暗殺を成功して雲隠れができるのなら、その方法を伝授して欲しいぐらいです」
ロウエンの人間としてはね、とシノブは付け加えた。
独特の暗殺秘術を守り続けるロウエンの、束ねの家の生まれであるトクヤマ・シノブの腕は確かだ。
普段ふざけてはいても、東軍の佐官は皆、その能力と観察眼を高く買っている。
「ジャンヌ様も、同じことを考えてるくせに。僕ばっかりに言わせるなんて卑怯ですよ」
難点を言えば、真面目な部分が長続きしないところだろうか。
すっかり”通常営業”の看板に戻ってしまったシノブはのんびりと肩を竦める。
もっと集中力があれば、とジャンヌは小さく嘆息した。
内部犯かもしれない。その懸念は、確かにジャンヌにもある。
目撃証言などを手がかりに外部を探していても、手ごたえがなさ過ぎる。
(しかし、内部だというのなら、誰だ)
身内を疑いたくない、というわけではない。
今現在起こっている、教会内部の権力争いを思えば、絞り込みが出来ないのだ。
教皇が死んで、得をする人間が多すぎる。
「全く、醜いものだな」
トップを張れるだけの人間は、他者を蹴落とすことに必死になり、おこぼれに預かろうとするものたちは誰につくべきかと右往左往する。
正規軍は事実上、大司教ラジエル・エレアザールの直轄化にあるため揺らぎはしないが、隣り合わせの教皇庁は、まさに上を下への大騒ぎと言えるだろう。
「聖職者の集まりですかね、これが。清らかと正反対ですけど」
皮肉に口元をゆがめて、シノブが相槌を打った。
「そうだな」
その強欲の塊たちに使われる駒なのだ。
ジャンヌは少しばかり自嘲気味に笑って、目の前に迫った扉をノックした。
「閣下、失礼します」
扉を押し開くと、正面に大きなデスクが窓を背負って控えている。
「―――お前がここで何をしている?」
一歩ばかり踏み込んで、ジャンヌは部屋の主ではない男を見つけた。
「おう、お疲れさん」
デスクに背を預け、書類を捲っていた長身の男が、軽く片手を挙げた。
「大将ならいないぜ、俺は代わりに今日提出用の書類に目を通しているところだ」
「あ、アフライドさん!」
ジャンヌの背後から、シノブがまるで飼い主を見つけた犬のように顔を輝かせた。
「閣下はどうかしたのか」
扉を更に大きく開いて、ジャンヌは室内に踏み込んだ。シノブが続いて、後ろ手に扉を閉ざす。
「体調不良、だとさ。オヤスミだ」
「え! 大丈夫なんですか? それともまたどこかにお出かけですか?」
「いや、趣味の発掘作業じゃぁないらしい。自宅にいるのかも分からない。ズル休みじゃないらしいぜ」
「……心配だな」
シノブは、口元に指を当てて深刻そうに眉をひそめた。
書類の末尾にサインを入れて、上官の机の上にそれを投げ出してから、アフライドは上官と部下に向き直った。
「それで? 成果はあったのか?」
シノブは肩を竦め、ジャンヌはゆるりと首を横に振った。
アフライドは二三度頷いて応じた。
「ま、そんなとこだろうと思ってたがな。ここで待ってれば律儀な大佐殿のことだから報告に来るだろうと思ってたさ」
「何のことだ?」
部下の軽い揶揄に、あからさまにジャンヌは気分を害す。
「ちょうど、この面子で話をしたかったところだ。”頭”を抜きにして、な」
デスクに預けた体を起こして、アフライドは同僚の顔を見比べた。
「最近、おかしくないか」
「おかしい、ですか?」
「―――うちの大将だよ」
主不在の執務室に、静かな緊張が走った。
3.
*
―――。
見上げれば、無音の漆黒の海が眼前に広がっている。
星は、大地から見上げると、輝いているものだという。
どんなものなのか、想像もつかない。
生まれたときから、鉄の船の内側で育ち、生きてきたのだ。
船、とはいえ規模は計り知れない。幾つもの居住ブロックに別れ、ひとつのコロニーのようになっているのだ。
政府もあれば、派閥もあり、対立もある。
社会があり、貧富の差もある。
星の海の只中であるということを除けば、数世紀前と何も変わらない。
謎のウイルスから逃れるために、星を捨てたのは最早遥か昔のこと。生の大地を覚えている人間は、もう既にこの舟にはいない。
けれども、この海へ踏み出した当時から脈々と続いてきた争いは、世代が変わっても根深く残っている。
船の中央に位置する自然公園をはさみ、船尾側には一般的な庶民と呼ばれる人々の居住空間や、スラムなどが広がっている。反対に船首側には貴族たちの空間だ。その住み分けは、船が作られた当初からあったものだと言われている。
船尾から船首へ移動するには、許可証が要る。
くだらない仕来りだ。身分制度は完全な世襲制で、当人の能力は関係がない。
これでは、何世紀も前の社会に逆戻りしているのではないだろうか?
自然公園を横切るたびに、そんなことを考える。
靴の裏には人工芝のやわらかい感触があり、時折爽やかな風が髪を撫でるように通り過ぎた。
全てが作り物で、完璧なコントロールシステムによって管理されているものだ。
並木道を通り抜けると、中央区と呼ばれる貴族街に通じる門がある。
白衣の内側からIDカードを引きずり出した。
これがなければ、門の先には入れない。一歩たりとも、だ。
両親共に平民で、船尾側で育った。
心理学者を目指して研究に励んでいたつもりが、いつのまにか船首側の研究チームから声がかかった。
門の向こう側にある、一流大学の研究施設に所属することを条件に与えられたのが、この薄いプラスチックのカードだ。
あまりにあっけなかった。
船尾で生活する人間たちが、咽喉の奥から手を何本も生やして欲しがるものが、こんなにもあっけなく―――。
「ちょっと、声かけてるんだから返事ぐらいしてくれてもいいんじゃない?」
拗ねたような女の声に、立ち止まる。
小走りに、近づいてくる足音があった。
肩越しに振り返る。
やわらかい波形を描く髪を首の後ろ側でまとめた女がそこに立っていた。こちらと同じように白衣を纏っている。
「また考え事?」
栗色の瞳に悪戯っぽい色を湛えて、首を傾げてみせる。
門の向こう側の大学に同期で在籍している女だった。
「本当に、熱中しちゃうと周りが見えなくなるのよね。集中するのは悪いことじゃないけど、没頭しすぎは体にも良くないんじゃない?」
右手にファイルを抱え、彼女は微笑した。
美しい人だった。
才女であるにも関わらず、堅苦しいところがあまりない。かといって、媚びるところがあるわけでもなく、周りからも評価は高い。
名は、マリア・ミクシアンという。
「今日は休みだって言うのに、研究室? 熱心ね」
並んで歩き出した。
君もだろう。
「私は残っていた資料のまとめ。ちゃんとやっておかないと叱られるもの。最近はあんまり研究室に残らないようにしてるの。帰りが物騒だから」
迷惑な話よね、とマリアは小さく嘆息した。
船首と船尾―――つまり、貴族と平民との対立は、日増しに勢いを増してきていた。
夜―――とはいっても人工的に照明を落として作り出される時間だが―――女子どもが出歩くのは確かに物騒になっていた。
「だけど、分からなくもないのよ」
マリアが、憂えたように声のトーンを落とした。
「今の情勢は不平等すぎる。確かに、私たちみたいに能力を認められて”向こう側”に入れる人間はいないわけじゃないけど、本当に一握りだもの。世襲されていく階級なんて、大昔のことみたい」
反論は、何もなかった。
けれども、それを言葉に出す気にもなれなかった。
自分たちは、選ばれた側なのだ。虐げられる側に生まれながら、特権を享受できる。
今の情勢が不平等だ、などというのは、選ばれたものの優越から生まれる同情になってしまう。
一枚のプラスチックで出来たカード。
持っているかいないか、たったそれだけのことが、天と地ほどの差になるのだ。
確かに、何かが狂っているのかもしれない。
「定住できる星を見つければ、何か変わるのかしら」
無理だとわかっている顔で、マリアは呟いた。
住む場所を変えたぐらいではきっと、何も変わりはしない。
分かっている。
そう、分かっていたのだ。
*
―――水が、粘り気を持っている。
体中を重みのある液体に浸されながら、意識が浮上するのを感じていた。
目蓋の薄い皮膚に、確かに光を感じる。
耳が、低い機械の唸りをとらえはじめた。
目覚めが、やってくる。
4.
喧騒と、アルコール、香の匂い。
今はいつなのか、朝なのか昼なのか。
騒ぎ立てる人々の声や嬌声が、本物なのかそれとも幻覚なのか。
何も分からない。
気だるい余韻を引きずったまま、いつものようにソファで目を覚ます。
凸レンズを覗き込んだように、歪んだ天井が開けた。
目蓋が重い。何度も瞬くと、視界がぐらぐらと揺れた。
ソファーから床へ垂らした右腕を持ち上げ、額に当てた。ひやりと冷たかった。心地よい。
HGの一件があってから、ドイルは生家であるカートレット家を捨て、祖父の代から経営しているこのサロンに移っていた。
世間を騒がせたドラッグ、それを売り歩いていたという名目で、警備省が血眼で彼を追っているはずだった。
しかし、ここならば安全だった。
経営者であるドイルが捕まれば、おそらくこのサロンは閉鎖される。
貴族たちは、遊び場を失うのを恐れ、厳重に主を匿っていた。
また、この館で色を売る女たちも、ここを閉ざされれば二度と同じような恵まれた待遇を得られないことを知っている。
驚くほど、貴族や従業員たちは従順で協力的だった。
何より、ここを失えばおそらく、ナフシオンに会えなくなると思っているのかもしれないが。
ナフシオン。
その名を舌に乗せ、何度か繰り返してみる。
予言者、という名の奇妙な人間だ。
―――この楽園は、捨てなければなりません。始まりと同じように。
始まりとは、いつだ?
―――我々は一度、楽園を捨てているのです。
謎かけのような答えが返ってくる。
緩慢に瞬きをする。
とろりと意識は蕩け、まばたきの間に、時は随分と流れているようだった。
いくつもの情景が、目蓋の裏に蘇った。
―――このドラッグは、強力に細胞を再生させる力があります。しかし、一度摂取したら最後、服用しつづけなければいずれ、体の組織から崩壊する。
目を閉じると、白衣の男がいた。
オウラン、と言っただろうか。研究所の研究員だった。
義兄の異変に気がついたとき、この男が接触を試みてきた。
―――貴方に、お分けしてもいい。ただし、条件がある。
金か、と切り替えした。
貴族にたかる生きものは、ほとんどが財を求めている。
―――ある一部では、それは正しい。
もって回るような言い回しは好まない。露骨に不快を表情に浮かべると、オウランが芝居がかった動作で肩を竦める。
―――我々の理想のためには、資金が必要だ。そして、社交場も。
社交場?
―――このドラッグを、広く広めるために。財力と好奇心溢れる場所が必要なのです。
緩慢に、瞬きをする。
また場面が切り替わった。
その晩、ドイルは『天国の淵』の内庭にいた。
中央に噴水と東屋が作られた、小庭園のような庭。
人の気配に振り返る。そして、目を瞠った。
お前が、何故ここにいる?
見覚えのある面立ちに、反射的にドイルは後ろへ下がった。
怯えかもしれない。
風に、黒衣の裾をたなびかせて、その人影はそこに、当たり前のように佇んでいた。
―――私は、貴方が知っている生きものとは違う。
身構える。謎かけのような言葉に、警戒心を更に強めた。
―――貴方に、協力していただきたい。
―――私はこの世界を、作り変えようと思っている。
“お前”が、教会に盾つくのか。
その姿形をもつ、お前が。
口元が緩んで、人影が寂しげに微笑した。
庭園の情景が、どろりと崩れる。
ぼたぼたと、重みのある液体が、ドイルに降り注いだ。
それは赤黒く、ひどくぬめっていた。
血液。
―――お前はいつまでこんなことを続けるつもりなんだ。
叱る、義兄の声や。
―――どうして、見殺しにした? あの薬を摂取した時点で殺してやることが……。
蛇のように狡猾な目をした男の声。
―――信仰とは、強力な鎖なのです。
予言者の声が、響く。
―――我々は、二たび、楽園を棄てている。一度目は、神の御元から追い出され、二度目は、生まれた星より追い出された。
予言者は、青の目をしている。
―――我々が両足で踏みしめている”ここ”こそが、もうひとつの楽園なのですよ。
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