教皇暗殺



 マスター。いつもの。ああ、昨日シャトーに戻ったところさ。
 ……お? 珍しい顔だなァ。最近見なかったじゃねぇか。どこで何してたんだ? 俺はこないだまでカルチェ・ラタンさ。
 なんだ、お前。カルチェ・ラタンの様子が知りたいのかよ。高いぜ?
 ……そうあからさまに渋い顔するなよ。この一杯のおごりでどうだ? かまわねぇだろ? よし。交渉成立だ。
 そうだな。一言で言えば、物騒っていうかよ。緊迫してるって言うかな。
 どこから話したもんかな。お前だって、粛清妨害のレジスタンスのテロ事件は知ってるだろうよ。
 そうさ。
 半年前のな。


 まぁ、一番殺気立ってるのは正規軍さ。西と東が一層仲悪くなったらしいぜ。
 短い間に西軍の佐官クラスがふたりも死んだんだ。
 あのテロ事件の後に大幅に再編されてな。
 例の粛清事件のときに死んだルーインって少佐の後釜は、年端も行かない少女だとよ。なんでも、カタナを使わせたら凄いらしいぜ。本名かどうかは分からんが、"桔梗"って名前で通ってるな。ん? なんだって? 花の名前? そうなのか? 風流なこったな。
 中佐は変わらずだな。とはいえ、辺境配備で中央にはあんまり顔を出さねぇが。そう。その、ミイラ男のジン。なんでも体中包帯だらけで顔も見えねぇって話だ。軍って言うのはイロモノの集まりなのかねぇ。
 っと、ここからが重要だぜ、よく聞きな。
 今度の大佐ってやつは、これまた若者だぜ。お前と同じぐらいじゃないか?
 だが、スゲーよ。こいつは。まずバックが半端じゃねぇ。何せ教皇様だぜ。
 話もすげぇさ。5年間行方知れずで、皆が匙投げてた男だ。
 お前だって聞いたことあるんだろう。そう。教皇の息子さ。
 なんてったっけな……。
 ―――ん? あ、それそれ。それだよ。

 アザゼル・ケルビーニ。



1.

「サイジョウ・ヒイラギ」
 机の上に置かれた書類を軽く叩いて、金髪の男が口を開いた。
 各自に配布された資料には、白黒の写真が添付され、その横に軽く経歴が連ねられている。
「半年前のテロ、及びゴルゴダでの一件。ふたつともこの男が噛んでますね。レジスタンスの中ではとりわけ有名人ですよ。これ以上は放置しておけませんね」
「その男に関しては、これから対策を取るが……」
「元帥閣下」
 アフライドの言葉に応じかけたユダを、遮ったものがある。
 声のほうに首を向けると、控えめな挙手。
「なんだ、アザゼル」
 声をかけると、控えめに挙げた手を下ろして軍服姿の青年が席を立った。
「その"テロリスト"の"処理"、是非私が拝命したい」
 ユダは、その瞳を細めてアザゼルという青年を見た。
「すいません、いいですかね」
 しかし、口を開いたのは別の人物だった。
「下官の私が口を挟むのは、おかしな話かもしれないんですけどね」
 冴えた青の瞳を向かい合わせに座った西の面々に滑らせてから、アフライドはアザゼルという青年を見つめる。フレームのない眼鏡を装着したその面立ちは、整っているが温度を感じさせないほどに無表情だった。
「こちらとしては、お戻りになる前の貴方に随分と手痛い目に遭ってるんですが、ケルビーニ閣下。バベルも、ゴルゴダもそうだ。―――信用しても、構わないんですかね?」
 かなりあからさまに、相手に対する不審を口にする東軍中佐。その発言に会議室内の空気が一瞬、凍った。
 おまえは、元同胞だろう。
 記憶が戻ったからと言って、そんなに簡単に処理などできるのか?
「ご心配は分かります。東軍中佐」
 やわらかな物腰で、わずかに微笑みすら浮かべて、アザゼルは応じた。
「ご不審に思われるのも当然だ。でも、私にはその男に関するデータがある。行動パターンも、それなりに。神出鬼没な男です。尻尾を掴む自信ならば、あります」
 穏やかな笑顔でそう言われれば、それ以上言い募るのも言いがかりのようなものだ。
 アフライドはしぶしぶ、矛先をおさめた。
「その点は考慮しているよ、アフライド・ゼイン中佐。私の部下をつけるつもりだ」
 珍しく、西軍の御大が口を開いた。
「それはどうも、出すぎたことを申しました」
 心にもないことをとりあえず口にして、後は黙った。
 そのまま、向かい合わせた西の面子を、視線でなぞる。
 がらりとその様相を変えた。
 大将ランドウ・アンティクリストはそのままだが、殉死したマリア・イーヴァの代わりにその席についたのは、5年行方不明だった教皇の息子、アザゼル・ケルビーニ。
 しかし、少し前までは、例のサイジョウ・ヒイラギのファミリーにいた男なのだ。今日から身内、といわれても軽軽しく信じるわけにもいかない。
 中佐の席。アフライドの向かいは空席だ。辺境警備に当たっているジン・ルクレイヴと顔を合わせるのは、年に数回もあればいいほうだ。
 顔を合わせる、とはいっても、顔面から体の隅々まで包帯で覆われているから、その下の素顔はわからないのだが。
 そして。末席に控えるのは、軍服に"着られている"という印象しかもてない、物静かな少女だった。
 最近は、常にランドウの傍に控えているその娘は、桔梗、と言ったか。
 アフライドの部下であるトクヤマ・シノブと同じように、カタナを扱うとは聞いてはいるが。物静かなその少女が得物を抜くところなど、見たところもない。
 軍人の面子ではない、な。
 そうは思ったものの、自分の属する東側の面子を思い出して、人のことはいえないことに気がついた。
 そういうなら、うちも大概規格外だ。

「それでは今回の連絡事項は以上だ。それぞれの持ち場に戻るように」
 女元帥の一言が解散の合図だった。
 銘銘に、席を立つ。
 正規軍本部は中央棟を中心として左右に分けられている。二軍が東と西という名で分けられている通り、彼らは元々東棟と西棟でその職務についている。
 中央棟の会議室の扉を出れば、二軍の将はそれぞれ左右の道へと分かれる。
「こんにちは」
 会議室を出たところで、何を思ったのかシノブが立ち去り際の少女に声をかけた。なごやかに。
「桔梗って、花の名前か。綺麗な名前だね」
 ふと、少女の前で足を止めて、シノブはその顔を覗き込んだ。
 一瞬にして身をこわばらせ、ぎりっと桔梗はシノブを睨み据えた。
「おい、何してんだシノブ、行くぞ」
 背中に、アフライドの声がかかる。
 手負いの獣のように視線で威嚇する桔梗に苦笑して、シノブは踵を返した。
 先に、東館の方に歩き出していた上官たちに、小走りに追いつく。
「ふらふらするな」
 綺麗な銀髪をしっかりと纏め上げた上官にとがめられて、シノブは肩を竦める。
「ふられてしまいましたよ」
「あーあ、それは残念だったねぇ」
 先頭を行く小柄な大将に、からかい半分で同情されて、シノブは深々と嘆息。本当ですよ。
 しかし、ああ、と何か思い出したように後方を振り返って。
「ひとつ、言い忘れた」
 歩き去ろうとしている桔梗の背中に、声を投げた。
「もう少し、殺気は殺したほうがいいよ。垂れ流しじゃ、恰好つかないからね」
 他愛もないことのように。
 明るい声でシノブが。
 脚を止め、半ば振り返っていた桔梗の顔に、さっと朱がさした。
 きっとシノブを睨み据えてから、何も言わずに踵を返した。
「シノブ。からかうのも大概にしとけよ」
「牽制ですよ」
 こつり、と横からアフライドに頭を小突かれて、シノブは苦笑した。
「僕のご主人様方に手を出されちゃ、かないませんから」


            *


「あてはあるのか」
 本部から教皇庁へと続く連絡通路を渡りながら、ユダが口を開いた。
 焦げ茶の髪を大人しく整えた青年が、その隣でかすかに頷いた。
「行動パターンは大体頭に入っている。伊達に5年、傍にいたわけじゃない」
 アザゼルは、顔から華奢な眼鏡を剥ぎ取ると、胸のポケットに押し込んだ。
「射撃の腕も、そこで学んだか?」
 含んだようなユダの言葉に、アザゼルはそちらに視線を少し流しただけで、何も言わなかった。
「カルチェ・ラタンのアジトを洗ったところで、何もでてこないだろう。後は濁さない鳥だ」
「そのとおりだ。マシン関係は悉く破壊されていた。全く、わずかな痕跡も残さないのは敵ながら天晴れとしか言いようがない」
「思い当たるだけのアジトを挙げておく。間を開けずに、一斉に叩く。もぐら叩きでは意味がない。テロリストの検挙には、大将閣下から権限を得ている」
 5年、傍にいた男の名前を、アザゼルは口にしなかった。ただ、テロリストと。
「これで良かったのか」
 ユダの問に、一瞬、沈黙がおりた。
「……全てが元に戻っただけの話だろう。良いも悪いもない」
 首を傾けるようにして、ユダはその顔を覗き込んだ。
 真っ直ぐ前だけを見据える青年の顔に、表情はなかった。つとめて色を消しているようにも見えた。
「お父上は今回のことで何か言っていたのか?」
 話題を変えることにした。
 緩慢に、アザゼルは首を横に振る。
「何も。不思議なことじゃない。5年前、俺が佐官が嫌だと駄々をこねたら、簡単に別の部署を作り上げた男だ。それに比べれば、佐官になりたいなんてことはどうでもいい我儘なんだろうさ」
 つまりは、そのような些事には興味が無いということだ。
 つまらなそうに、そう付け加えたところでふと、わずかに目を見張ってアザゼルが足を止めた。
「?」
 急に強張ったその顔つきに、促されるようにして、ユダも前方を見た。
「―――むしろ意外だったのは、"あの男"が何も言ってこなかったことだ」
 前方を睨み据えて、アザゼルが苦々しげに吐き出した。
 ユダは何も言えずに、こちらに近づいてくる金をみつめた。


            *


 心臓が締め付けられるように、一瞬動きを止めた。
 すぐに、堤防が決壊したかのように激しい流れになる。心臓が爆発しそうだ。
 思わず服の上から左胸を押さえた。呼吸が苦しい。
 胸元で、金のロザリオがわずかに揺れた。
 軍本部に行くという男についてきただけだ。教皇庁も、軍本部も広い。それなのに、こんな偶然なんて。
 教皇庁から続く渡り廊下に差し掛かったところだった。
 いつか会うだろうとは思っていた。本当は会いたくなかった。
 リョウコは、前方に発見した軍服の男を赤い双眸で見つめた。
 前を歩く金髪の男が躊躇うことなく歩を進めるので、慌ててリョウコはその背を追う。
 正規軍の元帥と、新任の西軍大佐は、廊下の只中で立ち止まっている。
 徐々に、距離は狭まる。
 お互いの表情が読み取れるほど近づくと、アザゼルという名の男がリョウコを見た。
 黒目がちの、表情の読めない瞳だった。大人しそうに見えるのは、いつも立てていた髪が大人しく下りているせいか。
 互いに、言葉は交わせなかった。
 何か、大きな壁が隔たっているような気がして、腰が引けてしまった。
 ラジエルは、前だけを見ていた。歩調は緩めないままに、擦れ違う。
「時がきた」
 元帥と擦れ違うその刹那に、脈絡も無く呟いた。
「約束を果たそう。―――赦す」
 謎かけのような言葉に、アイアンメイデンと呼ばれる女元帥だけがただ、凍りついたように息を飲んだ。



2.

「落ち着いた街ですね。先輩の故郷なんですよね?」
 心持ち押さえた声で、キリヤは隣に立つ男に話し掛けた。
 天井に届くほどの高さの本棚が幾列も並び、入りきらない書物は床に無造作に積み重ねられている。
 圧迫感と紙のにおい、陰気な雰囲気が漂っている。暗い。
「正確に言うと、故郷から一番近い街なんだけど」
 少し背伸びをして、金髪の男が棚から一冊の本を引き出す。
「子どもの頃はそれなりに大きな街だと思ってたけど、カルチェ・ラタンに比べたらやっぱり田舎には変わりないよね」
「そんなの、どこでも同じですよ。聖都が異質なだけです。僕は好きですよ、この街。シャトー、でしたっけ」
 古書店の奥、神学書の棚のあたり。並んで立ったふたりは、各々書物を手に取っている。
「ここに来る途中、教授たちにも会ってきました」
 ページを繰りながら、キリヤが切り出した。
 窓から差し込む光に、埃が光の粒子のように輝いた。
「元気そうでした。相変わらずです。先輩たちのお陰です」
 カルチェ・ラタンでの粛清の一件から、半年が経過していた。
 サン・エノク大学の神学教授であったサウル・クリストフ以下研究生はサイジョウの手引きでカルチェ・ラタンから遠方の地区へと逃がされた。
 過去の名、経歴、その他は全て捨てなくてはならなかった。それでも彼らは生き残るほうを選んだようだ。
「……僕は何もしてないよ。サイジョウさんが取り計らっただけだから」
「そんなことないですよ。ありがとうございました」
 レイ・クレスタは少しだけ口元を緩めて笑った。
「先輩は、半年の間どうしてました?」
「孤児院の手伝い」
 苦笑と共にレイが告白した。視界の端で、キリヤが怪訝そうな顔をする。
 カルチェ・ラタンを離れたレイが腰を落ち着けたのは、故郷のキトの村だった。
 今までのアジトを一切破棄したサイジョウも、シャトーに身を据えた。
 突然転がり込んできたレイとハルトを、育ての母とも言える院長は何も聞かずに受け容れた。
 おそらく二人が異端者として認定されたことは通告されているはずなのに、相変わらずお人よしだ。
 けれども、迷惑を顧みずに出戻ってきたふたりの胸の内にもやはり、甘えはあったのだろう。
 拒まれるとは思っていなかった。
「それと、考古学の真似事、かな」
 ぱたりと本を閉じて、レイはそれを元の位置に戻した。
「考古学、ですか」
 一向に話が見えずに、キリヤは繰り返した。
「僕は素人だから、ほとんど雑用だけどね。この近くの遺跡を探してる」
「遺跡、ですか」
「気になることがあってね」
 それ以上は語らずにおいた。片脚を突っ込みかけたとはいえ、キリヤはまだこちら側には踏み込んできていない人間だった。
 不用意に語りすぎると、巻き込む恐れがある。
 そこのあたりは弁えているのか、キリヤもそれ以上の追求は避けた。湧き上がる好奇心を上から無理矢理に押さえつけたような、苦い顔はしていたけれども。

「そう言えば、知ってます? 予言者の話」
 待ち合わせ場所だった古書店の扉を開き、キリヤが先に道へ出る。後方のレイを振り返りながら、話題を変えた。
「少し聞いたような気はするけど、詳しくは分からないな。あんまり情報が入ってこないから」
 薄暗い古書店から外へ出ると、もうすっかり日は暮れかかっていた。
「ナフシオンっていうんですけどね。今、カルチェ・ラタンではかなり渦中の人ですよ」
「ナフシオン?」
 訊きかえした。どこかで聞いたような響きだった。そう、大学の講義か何かで。
「そう。"占い師"って名前の予言者です」
 神学を学ぶ上で欠かせないのは神聖文字の習得。その辞書の中で見た単語だった。思い出した。
 ナフシオン。意味は占い師。
「まぁ、予言者と言っても占い師と大して変わりはしないんですけど、良く当たるんだそうです。最近は、あまりに人々が騒ぎ立てて、信者のような人間まで出てくる始末だから、教会が目をつけ始めたみたいですけど……」
 "私以外の何者も崇めていけない"。
 それが主の教えだ。
 神は唯一絶対である。それ以外のものを崇め奉ることは赦されない。
 そして、その旗印になるようなものは、民を扇動し悪へと導く悪魔(デーモン)の化身であると、異端者の烙印を押されることになる。
「まだ捕まっていないのか?」
 "目をつけた"あとの教会の行動はかなり素早い。
 前例に照らし合わせて考えるならば、目をつけたらすぐに捕縛。異端者の烙印を押して、牢獄送りだ。
「そうなんですよ。ここからが変なところなんですけど、"ナフシオンの顔が誰も分からない"んです」
「分からない、って、どういうことなんだよ?」
「予言を伝えるときは、一対一なんだそうです。しかもそのときは依頼人の前には人形が置かれるんだとか」
「人形?」
 レイは、怪訝そうに眉を顰めた。
 うまく想像出来なかった。
 キリヤも表情に困惑の色を浮かべて頷いた。
 カルチェ・ラタンでも上流階級であるレスター家。その子息であるキリヤには、そちらの付き合いも少なくはないらしい。
 貴族たちの中にも隠れてそのナフシオンの下へ通っているものもいるのだという。
 伝え聞いた話では、その"予言者"は直接クライアントの前に姿を現すことはないのだという。
 個室にクライアントを一人一人呼び、向かい合わせた椅子に人形を置く。声はどこからともなく聞こえてくるのだというが、機械的な効果が加えられていて、男か女かも分からないのだとか。
「しかも毎回置かれている人形も違うんだそうですよ。少女だったり乞食のような老人だったり、極端なときは猫だったり」
 徹底してますよね。キリヤはどこか呆れたように付け加えた。
「男か女かもわからない、か」
 それでは確かに捕らえようもないだろう。
「テロの一件から教会の威厳は下降気味ですから、なんとしてでも捕らえたいみたいですけど」
 半年前の粛清失敗から、教会の威厳は徐々に下降線を辿っている。その威厳を回復するためにも、迅速にその予言者を捕らえて"示し"をつけたいのが本音だろう。

 ゴシップはそこで途切れてしまった。
「キリヤは最近どうしてるんだ?」
 古書店がたち並ぶ界隈から、徐々に目覚め始めた盛り場のほうへと足を向ける。
 まだ宿を決めていないというキリヤと共に、どこかで食事を済ませるつもりだった。
「大学は休学しました。研究室もなくなっちゃったし、色々と考えたかったから」
 どこかすっきりとした顔でキリヤは紫から紺に変わり始めた空を見上げた。
「だってそうじゃないと今の時期、旅行なんて出来ないですよ。ちょうど試験期間じゃないですか」
 先輩、すっかり忘れちゃってますね。からかわれた。
 レイは反論できずに黙り込む。大学に通わなくなって、そろそろ一年になるだろうか。
「今は父の仕事を手伝ってます。というか、半分監視されてるみたいなものなんですけど。色々問題に首を突っ込みましたからね。それでも僕はまだ恵まれてる。皆に比べたら」
 異端者として処刑台に括りつけられた同胞を思い出してか、キリヤは沈痛な面持ちで目を伏せた。
「でも、今は随分と自由になりました。こうして旅行も許可してもらえるようになったし」
 重苦しい雰囲気を振り払うように、わざと明るい声でキリヤは言う。
 ようやく許可された旅行で、早速異端者として手配されているかつての師とかつての先輩を訪ねるあたり、彼は全く反省していないらしい。
「先輩、これからどうするつもりなんですか?」
 優等生然とした不良は、かつての先輩に問い掛ける。
「もう少しシャトーにいるつもりだよ。今カルチェ・ラタンに戻るのは危ないだろうし、調べたいこともある」
「さっきの遺跡、ですか」
「うん」
「レイー」
 ぱたぱたと軽い足音が折り重なって迫ってきた。
 声に振り返るよりも早く、ちいさな体がレイの背に体当たりを食らわせてくる。
 キリヤは、急襲をかけてきた小さな敵たちをかえりみた。子どもが三人。いずれも手に荷物を下げた形で立っていた。男の子がふたり、女の子がひとり。
 年はいずれも十ばかり。
「なにしてんのさ、レイ」
 後方からタックルを食らわせてきた、快活そうな少年が、レイの足元にまとわり付くようにして下から見上げてくる。
「友達と会ってたんだよ。お前たちこそ何してるんだよ? もう日が暮れるじゃないか」
 子どもたちを見下ろして、レイは小学校の先生のようなことを言う。
「そんな野暮なことは聞かねぇでくれ、きみ」
「まちはずれの空き地にね、猫さんがいるのよ」
 芝居がかったように誤魔化そうとする少年の台詞を、おっとりとした少女が台無しにした。
「リナ、それはヒミツだろ!?」
 台詞を台無しにされた少年は、むぅ、と少しむくれる。
「お兄ちゃんは誰にも言わないもの!」
 少女も精一杯反論を試みる。
「まだ子猫なんです。親猫がいなくなっちゃったみたいで、リナが見つけたんです」
 眼鏡をかけた大人しそうな少年が、説明を付け加えた。
 少しずつ自分たちの食事を残しては、子猫にあげているらしい。
「ヒミツ、だからな!」
 人差し指をレイに突きつけて、快活少年が念を押した。
「分かったよ」
 苦笑して、レイは約束する。
「用事が済んだら、早く帰るんだぞ。院長もシスターも心配するんだから」
「レイもだぞ! レイもハルトも最近ずっと帰りが遅いから、ヨアソビだって、ユリ姉ちゃんも言ってたぞ!」
 幼い頃共に育ち、今はシスターとして孤児院を手伝うユリには、どうにも頭が上がらない節がある。
「なるべく早く帰るようにするよ」
 絶対だぞ! と念を押して、少年少女は踵を返した。
 途中で振り返り、こちらに手を振る少女に、レイも手を振り返す。

 ちいさな影が見えなくなると、思わずキリヤは吹き出した。
「孤児院の子どもたちですか?」
 嵐が過ぎ去ったかのような静けさだけが残っている。子どもが3人いただけで、別に騒いでいたわけでもないのに、物凄くにぎやかだったような気がした。
「子どもって、なんかすごいな」
 自分も子どもだったことなど全く忘れ去ったかのように、キリヤが感嘆した。
「怪獣がいっぱいいるみたいだよ」
「楽しそうじゃないですか」
「……そうだね」
 まんざらでもないように、レイは頷いて見せた。
「あ、そういえばハルトさんって、今どうしてるんですか?」
 子どもたちの口から名前が聞こえてきたことで思い出した。
 そういえば、先輩の相棒の現状は、何一つ聞いていない。
 ああ、と思い出したようにレイが。
「相変わらずだよ。あいつが一番、遺跡調査に燃えてる」


             *


 完全に日が落ちる前から、酒を飲み始める輩というのはいるものだ。
 金持ちは絶対に立ち入らないような、安さと騒がしさが売りの酒場。木の扉を押し開けると、どっと喧騒が寄せてくる。
「お? 珍しい顔だなァ。最近見なかったじゃねぇか」
 今しがたカウンターについたばかり、という体の、一癖のありそうな目つきのよろしくない男が、こちらを見て口唇を引き上げるように笑った。
 見知った顔ではあった。こちらもひとりだったので、男の隣に腰を落ち着ける。
「どこで何してたんだ?」
「モグラみたいな生活してたんだよ。あんたこそ、しばらくどっか行ってたんだろ?」
 ポケットから引きずりだした煙草のボックスの底を、カウンターで叩くようにして一本引きずりだした。男の視線がこちらの手元を見ているのに気がついて、煙草の箱の口をそちらに向けた。
 悪いなちょうど切らしててな、断りを入れて、男の指先が一本、箱から煙草を引きずり出してゆく。
「どこ行ってたんだよ?」
 ライターも押しやってやれば、しばらくして隣から紫煙が吐き出された。
「ん? 俺はこないだまでカルチェ・ラタンさ」
「カルチェ・ラタン?」
 反応が素早すぎたのかもしれない。職業柄なのか、男はその反応に目ざとく食らいついてきた。
「なんだ、お前。カルチェ・ラタンの様子が知りたいのかよ。高いぜ?」
 人の足元を見ようとする情報屋を、無言のまま、赤い双眸で睨む。
 様子を教えるぐらいで金を取ろうってのか。
 両手を上げて降参のポーズをしたあと、情報屋は半分ほど減ったグラスを持ち上げた。
「そうあからさまに渋い顔するなよ。この一杯のおごりでどうだ? かまわねぇだろ?」
 しょうがない。妥協してやろう。
「よし。交渉成立だ。……そうだな。一言で言えば、物騒っていうかよ。緊迫してるって言うかな。どこから話したもんかな。お前だって、粛清妨害のレジスタンスのテロ事件は知ってるだろうよ」
 良く知っている。頷いた。半年前のだろ?
「そうさ。半年前のな。まぁ、一番殺気立ってるのは正規軍さ。西と東が一層仲悪くなったらしいぜ。短い間に西軍の佐官クラスがふたりも死んだんだ。それであのテロ事件の後に大幅に再編されてな」
「再編? 西が、か?」
 ぐっとグラスを煽って空にしてから、これ見よがしにグラスを揺らしてみせる。
 ここから先は追加料金らしい。全く、商売上手だ。
「マスター、もう一杯やってくれ」
 こちらが折れた。情報は欲しい。
 目の前に酒が置かれてから、情報屋は饒舌に喋り出した。
「大将は変わりナシさ。ランドウ・アンティクリスト。例の粛清事件のときに死んだルーインって少佐の後釜は、年端も行かない少女だとよ。なんでも、カタナを使わせたら凄いらしいぜ。本名かどうかは分からんが、"桔梗"って名前で通ってるな」
 花の名前だよ、それ。と教えてやると、男は大して感慨を受けた様子もなく、風流なこったな、と付け加えた。
「中佐は変わらずだな。とはいえ、辺境配備で中央にはあんまり顔を出さねぇが」
「ジン・ルクレイヴ?」
「そう。その、ミイラ男のジン。なんでも体中包帯だらけで顔も見えねぇって話だ」
 軍って言うのはイロモノの集まりなのかねぇ。と暢気な感想を述べてから、情報屋はずいっと身を乗り出してきた。
「ここからが重要だぜ、よく聞きな」
 やけにもったいぶる。ハルトは胡散臭げに相手を見遣ってから、煙草をもみ消した。
 何故か声を潜めて、男が軽く手招きをする。男同士が肩寄せあって話をするのは気色悪いと思うのだが。
「今度の大佐ってやつは、これまた若者だぜ。お前と同じぐらいじゃないか? だが、スゲーよ。こいつは。まずバックが半端じゃねぇ。何せ教皇様だぜ」
 まだ公式発表はされてないみたいだがな。男の声はどことなく得意げだった。それが今回の彼の一番の収穫だったのだろう。
 グラスを持ち上げかけたまま、ぴたりと固まったハルトに、男はにんまりと笑う。
 どうやら自分の情報が相手を驚かせたらしい。情報屋冥利に尽きるというものだ。
 が、ハルトが驚いたのは、そのビッグな後ろ盾ではない。嫌な予感がしたからだった。
「話もすげぇさ。5年間行方知れずで、皆が匙投げてた男だ」
 グラスに口をつけて、アルコールを軽く流し込む。つめたさが咽喉を伝って落ちるのが、やけになまなましく分かった。
 嫌な予感はどうやら当たったようだ。
「お前だって聞いたことあるんだろう。教皇の息子さ。なんてったっけな……」
「アザゼル」
「―――ん? あ、それそれ。それだよ。アザゼル・ケルビーニ。やっぱりなんだかんだでお前も情報は仕入れてるみたいだな」
 感心したように、情報屋が笑った。何も答えずに、ハルトはグラスを少し向こう側へ押しやった。急に飲む気が失せた。
「西軍大佐、ね」
 ひとりごちる。
 思い浮かんだ面影と、その役職とはあまりにそぐわなかった。
 軍なんて、権力争いと腹の探り合いばかりがある場所だろう。
 そんな伏魔殿で、あの青年がうまくやっていけるのだろうか?
(って、それどころじゃないだろ)
 相手の心配をしてしまっている自分に気がついて、ハルトは小さく苦笑する。
 軍に籍を置いたということは、身を翻したということ。
 これから先は、得物をぶつけあう相手になるということだ。
 敵になるということ。
「ん、どうしたんだお前?」
 突然苦笑したハルトの様子に、情報屋が怪訝そうに眉間に皺を刻む。
 なんでもない、と軽く首を横に振るのと、入り口が音を立てて開くのは同時だった。
「遅ぇぞ! 待ったじゃねぇか」
「別に遅れてはいないはずだけど」
 現れた金髪に向かって怒鳴りつける、と。現れた女顔は表情に不快をあらわにする。
「キリヤをホテルまで送ってきたんだ」
「元気だったのか、あいつ?」
 大分残ったグラスの中身を半分ほど煽ってから、ハルトは椅子を引いて立つ。
「相変わらず、全然懲りてないっぽいよ」
 肩を竦めるレイに、そうだろうな、と苦笑を返した。
「なぁ、ハルト」
 立ち去ろうとする背に、呼び声がかかる。振り返ると、先程の情報屋が軽くグラスを持ち上げる動作をする。
「酔いが足りないんだよなー」
 既に頬を赤く染めているくせに、そんな白々しいことを言う。
「何言ってんだよ。強欲も程ほどにして……」
「もう一杯ぐらい飲んだらよ、多分記憶が綺麗に飛ぶんだがなぁ」
 中空をぼんやりと眺めるようにして、わざとらしく独白をこぼす。
「はぁ?」
「こんな田舎の酒場で、S級異端者ふたりがつるんでるの見たことも、綺麗さっぱり忘れちまうんだがなぁ」
 ハルトは、表情を怪訝から憮然にゆっくりと切り替えた。
 口止め料、ということか。
「足元見やがって」
 カウンターに向かって、硬貨を一枚放り出しながら、毒ついた。
「安いもんだろ、昔のよしみだ」
 放り出された硬貨を人差し指で弄ぶようにして、男は笑った。
「頑張って生き延びな」
 ほぼ空っぽになったグラスを掲げて見せる動作に、思わずハルトは笑ってしまった。



「あの人は?」
 酒場を出たところで、レイが声を潜める。
「ここらへんを中心に活動してる情報屋だ。ったく、手前自身も大概後ろ暗いくせに」
 ぶつぶつと文句をもらしながら、ハルトは大して不機嫌ではなさそうだった。
 盗掘稼業を繰り返していたときに世話になったこともある、と付け加えた。
「軍上層部の再編は……」
「キリヤから、それらしいことは聞いたけど」
「ファンが、西の大佐だそうだぜ」
 さすがにそこまでは聞いていなかったらしい。レイは目を瞠ってハルトの方へ顔を向けた。
「本当にあいつ、教皇の息子だったんだな」
 追求するようなレイの視線には目を合わせずに、煙草を引っ張り出す。
「サイジョウのとこに寄ってく」
 十字路に差し掛かったところで、ハルトが宣言する。
「僕も行く。聞きたいことがあるし」
「へぇ?」
「ナフシオン、って、聞いた?」
 口の中でその単語を繰り返してから、わずかにハルトは首を傾げる。
「カルチェ・ラタンの有名人らしいよ」
「へー。なにもん?」
「占い師だって」
 聞かねぇな、とハルトはもう一度首をかしげた。
「サイジョウさんなら知ってるかと思って」
「あいつはいつも、どこから情報を仕入れてくるんだかな」
 ふたりは揃って、路地を同じ方向に折れた。



3.

 部屋の隅に灯された燭台のほかに、光を放つものはない。
 寝台の傍に置かれた豪奢な椅子に、人の気配があった。
 人影が手にしているグラスの中の真紅の液体が、僅かな光を跳ね返してぬらりと揺れた。
「こんな夜更けに珍しいな。おまえから訪ねてくるとは」
 しわがれた男の声が、ソファーから零れて落ちる。
 声は、部屋の隅の闇へ向けられたようだったが、返事はなかった。
「もう半年になるが、アザゼルの様子はどうだ」
 ぬめりのような光沢を帯びて光るワインの表面を覗き込んで、教皇ケルビーニ8世は闇へ問うた。
「……近頃の猊下の働き振りには、目を瞠るものがございます」
 低く、落ち着いた女の声が闇の向こうから返った。
「それならばよいのだ」
 満足げな言葉の後に、ワインを口に運ぶ間の沈黙があった。
「ご子息が、やはり気にかかりますか」
 のっぺりとした闇の向こう側から、女が歩み出た。
 橙の灯かりの元に、背の高い女の姿がおぼろげに浮かび上がった。
 女の問い掛けに、教皇は咽喉の奥だけで笑ってみせる。
「それはそうだ。大事な世継ぎだ。あれは、男だからな」
 グラスを煽って中身を空けると、教皇はグラスをベッドの傍らのテーブルに置いた。
「だが、私は本来は、おまえのほうに目をかけているのだよ、ユダ」
 つぶやいて、教皇は闇とほのかな明かりの狭間に佇む女を見る。
 正規軍の元帥は、無表情で声に応えた。
「おまえには申し訳ないと思っておるのだ。私の立場上、公にすることが出来ずにな。だが、おまえはよく耐えてくれている。私にしてやれるのは、おまえに地位をやることぐらいだが……」
「”父上”」
 語気を僅かに荒げ、ユダは教皇の言葉を遮った。人前では呼ぶことの許されぬ呼び名で。
 滅多に呼ばれぬ名に、男もさすがに驚いた様子で黙り込む。
「父上には、感謝しております。強盗に母を殺され、家を焼かれ、路頭に迷った私を拾い上げてくださったことには」
 ユダは、右の手で左の腕を撫でた。漆黒の軍服の内にあるその腕は、鋼鉄で出来ている。幼い頃、母と二人で暮らしていた家に強盗が押し入り、母を殺し家に火を放った。そのときに負った火傷だ。
 苛烈な熱を。皮膚の焼ける匂いを。
 片時も、忘れたことはない。
 母の亡骸がどのように倒れていたのかも、目蓋を閉ざせば鮮明に思い出すことができる。
 教皇は、僅かに口元を緩めて笑う。
「分かってくれるか、ユダ―――」
「ただひとつ、今日はお聞きしたくて参ったのです、父上」
 いつになく頑なな態度を取る”娘”に、教皇は、顔に笑みを貼り付けたままでかたまった。
 風もないのに、燭台の炎が揺らいだ。じじ、と、芯の焦げる音。
「なぜ」
 静かに、ユダが口を切った。
「私に目をかけて下さっていたのなら、いえ、母を少しでも愛してくださっていたのなら、なぜ、夜盗に家を襲わせたのです」
「な」
 驚きに口を開いたまま、教皇は豪奢な椅子から腰を浮かす。
「何を言っているんだ、ユダ」
 声を震わせて、教皇は何とか笑おうとする。
 鋭い女の眼光が、浮かびかけた薄い笑みを押し込んだ。
「私が生き残ったことは、誤算だったのでしょう」
 凪のような、揺らがぬ瞳で、ユダは教皇の座にある男を見据えた。
「私が何も知らずに、貴方の傍にいたとお思いだったのですか」
 いっそ穏やかな顔で、ユダは微笑した。
 闇の中でもくっきりと見えるぐらいに、男の顔から血の気が引いた。
「ま、待ってくれユダ、仕方なかったんだ!」
 男は、椅子を蹴るようにして権力に肥えた体を持ち上げる。
「仮にも私は聖職者だ。事情も分かるだろう。当時は私もただの司教に過ぎなかったのだ。周りの圧力に負け―――」
 ふふ、とユダが小さく笑った。
 呆気に取られ、教皇は言葉を切った。
「一度も否定なさらないんですね」
 見苦しくあがいて、すぐにばれる嘘でもつくのかと思っていたのに。
 せめて一度ぐらい、そうして欲しかったと、女は自嘲する。
 目を皿のように見開くと、教皇は立ち上がったばかりの椅子にどさりと沈み込んだ。
「地位や金を与えれば満足すると思っていたのですか。甘んじて傍に控えているのが、二心あるからとはお思いにならなかったのですか。幸せな方ですね」
 憐れむように目を細めて、ユダは父親を見下ろす。
「私が貴方の傍に控えていたのは、今日この時のため。それ以外、何の理由もありません」
 静かに、ユダは間合いを詰めた。上質な絨毯が足音を吸う。
「待て、ユダ! 黙っていたことは謝る、だが血を分けた父娘ではないか!」
 逃場のない椅子の上にあって、更にさがろうと、無様に男は体を縮めた。
 ユダが、足を止める。
 感情のない顔で、血の繋がった父を、見つめた。
「そうでしたね。私と貴方は、父娘だったのですね」
 たった今思い出したかのように呟いて、口の端を緩めるように僅かに笑った。
「そ、そうだとも。私とて、ヘレンを愛して―――」
 言葉が不自然に途切れた。
 どっという鈍い音と共に、うるさく椅子が揺れた。
「お静かに、猊下」
 冷酷な笑みを浮かべ、ユダは教皇の口を鉄の手で押さえこんだ。
 押さえ込んだ唇から、赤黒い水が零れ落ちてくるのに、目を細める。
 ユダ、と相手は名前を呼んだようだった。けれども、かすれた吐息にしかならない。
 右手に握った短刀を、ユダは深々と、教皇の左胸に突き立てていた。
「私は貴方に一度も、家族らしい情を持ったことはありません。ただこの一瞬、貴方に刃を突き立てる瞬間だけを支えに、今まで生きてきたのです」
 膝で乗り上げた体が、小刻みに痙攣をはじめる。
「権力にしがみつくことしかできぬ輩が、軽軽しく、母の名を、呼ぶな―――!」
 一気に、ユダは根元まで収めた刃を男の身から抜いた。
 一際大きく痙攣して、椅子の上で、権力に肥えた体は動きをとめる。
 刃の先端から赤黒い滴りを落としながら、ユダはあとずさる。
 気がついたら、息が乱れていた。
 じじ、燭台の芯が、くすぶる音。
 あとはただ闇だけがあった。

 この時のためだけに、生きてきたのだ。

「ユダ!」
 鋭い声と共に、寝室の扉が開かれた。
 耳慣れた声に、ユダは短刀を手にしたまま肩越しに扉を振り返った。
「ユダ、おまえ」
 ひそめてはいても、声に動揺が滲んでいる。
「アザゼルか」
 自分でも意外なほど落ち着いて、ユダは応えた。
 己の目で惨状を確かめてから、アザゼルは腹の違う姉に向き直った。
「おまえがやったのか」
「人を呼ぶなり、おまえ自ら仇を討つなり、好きにするがいい。私は目的を達した」
 人を呼ばれようと、逆上した”弟”が掴みかかってこようと、甘んじて受けるつもりだった。
 ただ、あの男の命を奪えれば、それでよかったのだ。
「これが、おまえとラジエルとの契約だったのか」
 赦す、と。
 擦れ違い様に大司教が告げた言葉。
 時は、来たと。
 そのときの、強張ったユダの顔を、アザゼルは思い出した。
「その通りだ」
 穏やかに、ユダは応じた。
「私がラジエルに協力していたのは、ただこの男を殺すためだけだ」
 ユダの表情は凪いでいた。静謐な、夜の海。
 波立たず、ただ、静かだった。

 小さく舌打ちをして、アザゼルはユダの右手から、未だ赤黒く濡れている短刀を奪い取った。
 ユダの手がいつものように白い手袋をはめていることを確かめてから、寝室の窓際へ歩み寄る。
 天井のすぐ下から足元あたりまである巨大な窓を、右足で勢いよく、蹴り破った。
 あまりのことに、ユダは瞠目する。彼は何をするつもりなのだ?
 けたたましい音を立てて、硝子がこなごなに砕け散った。
 窓の外に広がる闇へ向かって、アザゼルは、ユダからもぎ取ったナイフを力任せに放った。
 刀身が僅かな光を跳ね返してきらめいたが、すぐに姿は見えなくなった。
 窓際から身を翻したアザゼルは、呆然と立ち尽くすユダの傍も通り抜け、寝室の扉を廊下に向かって開け放った。
「アザゼル様、これは一体何事ですか……!」
 扉を開け放つなり、警備兵が数名なだれ込んできた。
 アザゼルとユダの顔を交互に見た。瞳は説明を求めている。
「暗殺だ」
 重々しく、アザゼルが告げた。
「猊下が、賊に殺された」
「なっ……!」
「俺とユダが物音に気付いて駆けつけたときにはもう」
「そんな」
「人を集めろ。まだ、そう遠くにはいっていないはずだ」
 鋭く指示を出すと、警備兵ふたりは頷き合って、俊敏に踵を返した。疑いもせずに。
「アザゼル」
 足音が遠のいたあたりで、ユダが口を開いた。どういうつもりだ、と。
 沈黙で問うた。
「ユダ、あんたはこれで、良かったのか」
 鉄分を多く含んだ、生ぬるい風が押し寄せた。アザゼルは、姉の顔も見ずに、にわかに騒がしくなる廊下を見つめていた。
「今は、分からない」
 何も。
 全身がかじかんでいるように、感覚は遠い。
 嬉しいのか、かなしいのか。それすらも判断がつかずにいる。
 全てが止まっている。
「ただ、この一瞬に焦がれて生きてきたのは、事実だ」
 左の手を見下ろした。生身ではない。作られた腕を。
 火傷は致死の一歩手前だった。
 死の淵まで行って戻ってきたときには、半身を失っていた。

 死人のように生きていた所に、父は手を伸べたのだ。
 何も知らぬ、絶望の子は伸べられた手に縋りつく。
 そのとき、共に近づいてきた生き彫刻のような男が、耳元で囁いたのだ。
 母を殺した男を知りたくはないか。
 あれは、不慮の事故などではなく、夜盗に運悪く狙われたわけではなく。
 仕組まれていたことなのか?
 絶望の子は、生きる目標を切り替える。
 復讐。

―――猊下は貴方に地位を与えるおつもりのようだ。

 生き彫刻が告げた。
 復讐を望むのならば、貴方の手でのし上がってくるといい。
 貴方が私の片腕として手を汚す覚悟あるのなら、復讐の機会をやろう。

 一度死んだ子どもに、復讐という目標は甘美だった。
 そのために生きて死ぬ。それもいい。


「ユダ、俺が、憎いか?」
 沈殿してゆく意識を、腹違いの弟が引きとめた。
 にわかに騒がしくなる館の中の雑音を、他人事のように受け止めながら、弟は姉を見る。
「俺も、裏を返せば妾腹だ。世継ぎのためと、父が拾ってきたに過ぎない。俺は正式な子と受け容れられ、ユダ、おまえはその事実を隠された。俺も、憎いのか」
 アザゼルにとって、ユダは紛れもなく姉だった。
 母と引き離され、聖都に引きずられるように連れてこられ、見知らぬ人を母と呼べと言われ、知らぬ男が父だという。
 汚れたしがらみばかりが絡まりあう中にあって、ユダだけは同志だったのだ。
 教皇の館に住むことも許されず、娘とも声高に言って歩くことも出来ない。そんなユダは、アザゼルの世話役として傍に置かれた。
 互いに、同じ苦しみを分けあっているのだと、幼い頃は思っていたのだ。
 互いに信じていた。
 しかしそれが、年を経るごとに、軋みを帯びてきたのは、いつの頃からだろうか。

 選ばれ、与えられたものと。
 弾かれ、捨て置かれたものと。

 優越と劣等が常に背中合わせにあった。
 傍らに在りながら、同志でありながら、満たされているものと飢えてゆくものの、壁と溝は徐々に高く深くなり。
「白状する。俺はおまえに、優越を感じていた」
 弟が、先に境界を越えた。
 今まで、危うい均衡を保ってきた、綱渡りの縄を、断つ。
「同じ境遇で、俺の方が年下で、それでもただ男というだけで、父に選ばれたことを無意識のうちに悦んでいた。それは事実だ。軽蔑されてもいい」
「……おまえを、憎んだこともある。傍らにありながら、半ばほど後ろを歩きながら、その首に刃を突き立てたいと思ったことも、一度や二度ではない。蔑みと妬みは相殺していたのだ」
 “あいこ”だ、と。
 姉は呟いた。
「おまえは変わったな、アザゼル」
 猊下、ケルビーニ様、と悲鳴が室内になだれ込んできた。
 硝子のように、何も受け容れぬ目をして、その光景を眺めながら、ユダは言った。
 大袈裟な悲鳴が、泣き声が、全て芝居のようだ。
 泣き叫びながら、裏では算段をしている。どこについたら一番”得”か。
 人の皮を被ったハイエナどもを一瞥したまま、アザゼルは声を返す。
「変わった?」
「五年は、決して短くはないということか」
 一体それはどういうことかと。
 問おうとしたところで、教皇付の司教がアザゼルに縋った。
 なんということ。
 心中お察しいたします。
 コバンザメが、新しい宿主を探している、あさましい様。
 軍服を翻し、姉は惨劇の現場をあとにする。
 駆け寄ってきた警備の兵士たちと二言三言言葉を交わして、廊下へと出て行った。
 歩みは迷いなかった。
 おそらくこれから状況の説明などを行うのだろう。

 変わったとは、どういうことだ。
 そしておまえは、これからどうするつもりなのだ。

 問い掛けようにも、欲の波にはばまれた。
 暗殺者の姿は、すぐに見えなくなった。



4.

「ちィす」
 色々なことを大幅に簡略した挨拶だけを放り込んで、ハルトはシャトーの街から少し外れたあたりにある、典型的な農家の家屋の扉を開けた。
「こんばんは」
 レイがしっかりと、挨拶をつけくわえた。
「なんだいこんな時間に、全く礼儀作法を知らない子どもたちは困るったら」
 狭い室内の中央に、テーブルが据えてある。
 扉から真正面。向かい合わせの位置に座っていた男が、眠そうな目を擦りながらぼやいた。
「なんだよ、どうせこれからが活動時間だろ」
 この家屋の主が眠そうなのは、夜中だからではない。
 今まで眠っていたからに違いないのだ。
「あれー、来てたんですか。いつの間に?」
 続きになっている台所の方から、ひょっこりと顔を覗かせたのはふわふわと柔らかそうな孤を描く髪を、項あたりでひとつに括った女だった。
「おー、モエ」
「こんばんは」
「今お茶を淹れてますが? お酒は、サイジョウさんが禁酒中なのでありません」
「ハァ? 何禁酒なんてしちゃってるわけ? いっそのことカフェインも断てば? 圧倒的にアルコールよりそっちの摂取量の方が多いだろ」
「カフェインは、動力源だから断つわけにはいかないんだ。なんだ、君たちは夜更けに人の家に来て、母親のように文句ばかり言いにきたのか」
「……言ってるそばから煙草に火をつけてるし」
「なんだね君たちは本当に。僕に教えてもらいたいことがあってきたんだろう」
 いいから座りたまえ、と。
 いまや全国指名手配となっているテロリストのリーダーは、質素な木のテーブルの表面を叩いて促した。
 その態度がむかつくんだとは思いながらも口には出さず、来訪者たちは、質素なテーブルを囲むように配置された椅子を引く。
「たった今、たたき起こされたところでね」
 サイジョウ・ヒイラギは、まだ眠そうに目を擦りながら、手元の資料に視線を滑らせている。
「今まで寝てたんですか」
「僕は忙しいから睡眠が不規則なんだ」
 すっとぼけた声を出しながらも、眠そうなことを除けば視線は真剣だった。
 珍しい。
「何かあったのか」
 空気が不穏だった。
 それを察知して、ハルトが声を落とした。
「ん。臨時速報がね。ビッグニュースだ」
 ようやく、紙面から顔を上げて、サイジョウはハルトとレイを交互に見た。
 細く紫煙を吐いて、それから。

「教皇が暗殺された」
 一言、告げた。



TO BE CONTENUED






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