追 想
太古の、記憶。
1.
「起きて」
やさしい女の声が、心地よく耳に注ぎ込まれた。
浅い眠りから呼び戻されて、瞳を開く。
随分と混沌とした夢を見ていたような気もするが、もうどんな内容だったかなんて忘れてしまった。
視界に広がる灰色の壁。四方を覆う鋼鉄。
その中に割って入った、やわらかい栗色に目を細める。
「……もう、起床時間だったか?」
眠気を引きずったままの、少しかすれた声で訊く。簡素なベッドの上で上体を起こした。
「いいえ、ごめんね急に。元老院の方々がお呼びなの」
うつくしい顔立ちに申し訳なさを滲ませながら、栗色の髪を長く伸ばした女が言った。
「そうか。わざわざ起こしに来てくれたんだな」
「もう、上層部の方々は私を貴方の連絡係だと思ってるみたいよ」
ふふ、とかすかに笑いながら、女が手を差し伸べる。
その、細い白い手に自分の掌を重ね合わせた。
別に引きずり上げてもらわなくても、ベッドから出ることなど簡単なことだ。
けれど、触れるぬくもりが大切なときもある。
重ね合わせた掌から伝わるぬくもりとやわらかさに、安堵する。
「少しは眠った?」
主のいなくなったベッドの横に腰掛けて、女は身支度をする男を見つめた。
「今は何時だ?」
彼女に背中を向けたまま、夜着をばさりと脱ぎ捨てる。
「そうね、六時過ぎってところかしら」
無防備に晒された背の肌をぼんやりと眺めながら、彼女が告げる。
「三時間ぐらいか」
「……相変らずね。また少し、痩せたんじゃない?」
少々呆れたように、彼女はつぶやく。
「食事は摂ってる」
「それは知ってるわよ。ちゃんと私が食べさせてますからね。食事は摂ってても、疲労は眠らないと取れないわよ。いくら休息ポッドに入ったところで、完全に体力が回復するわけじゃないんだから」
「母親みたいだな」
諭すような口ぶりに、苦笑が漏れた。羽織ったシャツのボタンを、しっかりと留める。
「口うるさくしないと、無理するんだもの」
「ああ、感謝してる」
「そうそう。感謝して、時々はゆっくりと時間を取って下さいね。このままだと私、ただの貴方の目覚ましと伝言板になっちゃうわ」
滅多に口にしない不平不満は、きっと本音だろう。
申し訳なさと同時に、小さなわがままに愛おしさが湧いた。
「マリア」
名を呼んだ。
服を着替え終えて振り返ると、ベッドに腰掛けた彼女は、こちらを見ていた。
うつくしい顔は、やわらかい笑みを浮かべている。慈愛の顔だと、そう思う。
「ごめん」
短く謝ると、マリアは少し困ったように笑う。
いいのよ。気にしないで。
いつものように、そう言うのだ。
*
漆黒の海原。
窓の外に見える宙(そら)。
180度。楕円に張り出した窓の外は、無音の海。
宇宙とは、こんなにも静かで孤独だ。
「お呼びですか」
声をかけると、よく響いた。
学校の教室ほどある広さの部屋の、奥の奥に机がひとつ。置かれているきりだ。
入り口からは、酷く遠い。
足元から天井まで金属で囲われているせいで、小さな音もよく響く。
「ああ、早くから済まない」
その机の方から、男の声が聞こえた。
「そんなところにいないで、こちらへ来たまえ」
男は、椅子に座っているわけではなかった。椅子の背に在る、巨大な硝子の傍に立って、無言の宙を眺めていた。
黒の海の中に浮かぶ、青い、巨大な星を。
歴史で習っただけの生まれ故郷に、よく似ているなと思った。
地球という星。
先祖がその星を捨てたですら、もはや遥か昔。
もう、この船で生まれ育った者しか残されていない。
土を踏んだことはない。
「探査は順調に進んでいるよ。この星なら、大丈夫そうだ」
口髭を蓄えた、上等な身なりの男の傍に並ぶ。
「そのようですね。ようやく、放浪が終わるというわけですか」
「私たちは、生まれ付いてからこの船だけが社会だった。正直、星に下りてからどういうふうになるのか、予想もつかんがね」
青く輝く星を眼下に見下ろしながら、男は自嘲するように笑った。
「……何か緊急の用事でも、ありましたか」
早朝に呼び出されるのは珍しい。
「ああ、そのことなんだが。……どうやら、密通者がいるようだ」
「は……?」
「北ブロックのレジスタンスに、こちらの情報が逐一漏れているらしい。北ブロックには貧民街が多く、我々のやり方に不満を持って、ゲリラに及ぶものが少なくない事も、君は知っているだろう」
「……私を、お疑いなのですか」
「いや、君は我々の統治方針にも賛同してくれているし、何よりこのプロジェクトの重要な研究員だ。君のことは信頼しているよ。ただ、気をつけてほしい。これからあの星に下り、巨大とは言え、限られた宇宙船から出る。我々は今、同じ船に乗っているから大きな確執にはならないのだ。運命共同体だからな。だが、ひとたび放たれれば……どうなるか分からん。周囲には気をつけてくれたまえ」
*
「愛してる。でも、ごめんなさい」
凛と。毅然として。彼女が詫びた。
しっかりと、自分を信じている声だった。
訣別の声。
「貴方を愛してる。それでも違うの。これ以上もう、私は耐えられない」
優しく微笑みかけてくれた瞳は、決意の色を湛えて、こちらを睨み据えていた。
こちらに向けられた銃口を、その暗闇を、見つめた。
マリア。
名前を呼ぶ。
「こんな戦い、無意味だわ」
ねぇ、君が? 君がやったのか。
問い掛けると、頼りない肩がわずかに震えた。
「……そうよ。許して貰おうなんて思ってないわ。私と貴方じゃ、立場が違いすぎる」
分かり合えないわ。
突き放す言葉が、決して越えようのない溝を作る。
いつのまにか、こんなにも分厚い見えない壁が、互いの間に横たわっていたのか。知らぬ間に。
「ラジエル、私たち、どこで間違えたのかしら」
うつくしい顔に彼女は寂しげに笑みを浮かべる。
ああ、そうだ。
本当に一体どこから、道を踏み誤ったのだろう。
こんな風に君と、銃を突きつけあうことになるなんて考えたこともなかった。
*
弾かれたように、寝台の上で体を起こすと、視界の端で何かがびくりと動いた。
「……大丈夫、ですか?」
少女だった。年は16と言っていたか。
肩の後ろあたりまで伸びた漆黒の髪と、目が覚めるような赤い瞳の小柄な少女だ。
「うなされていました」
目にかかる金の巻き毛を乱暴に後ろに掻きやって、「ああ」と応じる。それ以外何も言えなかった。
これは一体、いつの記憶だろう。
遥か遥か、遠い記憶だ。
よく残っていた。
既にもう、葬り去ったはずの、それは太古の記憶。
「君に、告げておきたいことがある」