C.C.C.
triple C
―――このままぬくぬくと暖かい場所に匿われていたら、何も出来ないし何も変わらないと思うんだ。
雨が、降っていた。
深夜だった。大きく手前に開かれた窓と向き合って、闇の中、立ち尽くしている。
その窓の向こうには、雨が激しく叩きつける、白いバルコニーが見えた。
開かれたカーテンはばたばたと風に揺れる。足元のやわらかい絨毯が、吹き込む雨にどんどん色を変えた。
両肩を、強い力で握られた。
―――分かってくれ、ジーク。
自分と窓との間に、一人の男が立っていた。見上げなければ顔が見えない。同じ色の瞳が、痛みや苦味を堪えたように歪んでいた。
肩を握る手に力がこもった。男の胸元で、鎖に下がった金の輪が揺れた。
天を裂くような雷光に、黒色の空が白く染まる。
知らぬ間に、呼んでいた。
兄さん。
1.
まだ、空がその端に名残惜しげに赤い色を残している頃合。
古ぼけた扉の前に一人の少年が立った。10代後半ほどに見える。細身の体躯に、黒い外套のフードを頭からすっぽりと被っていた。
その扉はあまり厚みのない、木製の扉だった。
丁度少年の顔あたりにはめ込まれた硝子は、吹き付ける砂の影響もあってか、汚れていた。そこからぼんやりと、橙の灯りが漏れてくる。
硝子の向こうに見えるのは、窮屈な情景だった。色々なものがひしめき合っている。テーブル、椅子、グラス、人。
それが、ごちゃっとまとめたように狭い場所に煩雑に置かれていた。
扉に張り付いているような、鈍い金色の取っ手を握って軽く押す。と、あまり抵抗もなくギィと軋んだ。
途端、あんな厚みのない扉で遮られていたとは思えないほどの喧騒の奔流が、一気に少年を飲み込んだ。
からん、と扉についた鐘が来客を告げる音も、いとも簡単に掻き消されてしまう。
少年が律儀に頭からすっぽりとフードを被っているのは、別に素性を隠そうとしてのことではなく。この界隈が荒野に近く、何も被らずに歩いているとすぐに砂まみれになる、という理由からだ。
屋内に踏み入れて、被っている必要もなくなったフードをばさりと肩に落とすと、艶のある白っぽい銀髪が現れた。
少し険のある青の瞳をぐるりと廻らせて、店内を見渡した。
暗い。ここへ来るといつも、そう思う。
空はまだ完全に闇に包まれてはいないのに、ここはいつも少しどんよりと暗い。
あまり明るくないランプのせいだろうか。くるくると天井に上る煙草の煙のせいだろうか。むせ返るようなアルコールの匂い?
その中で一際明るい場所がある。扉から丁度真正面にある、この酒場のカウンターだ。
引き寄せられるように一歩を踏み出すと、革のブーツで踏んだ床が軋んだ音を立てる。
ところどころ傾いたり欠けたりしている木の丸テーブルや、がたがたとうるさい椅子の間を縫うようにして、少年はカウンターに辿り着いた。
カウンターの中でグラス磨きに余念のない、ひょろ長でつぶらな瞳の、人の良さそうなマスターがふと少年に気付いて口の端だけで笑った。
「やぁジーク、早いね」
磨き終えたグラスを後ろにある棚に戻して、マスターは少年に声をかけた。
カウンターだけ、やけに光沢があってきれいな茶色をしていた。天井のランプの光を反射して、なめらかに光る。
軽く会釈だけ返して、少年はカウンターの一番端に座った。カウンターの上に両腕を乗せて、猫背になって俯く。
視線はカウンターに落としてはいるものの、焦点が定まらない。視界いっぱいに光沢のある茶色が広がっているだけだ。落ち着かない。
酒場の中は喧騒に満ちているはずなのに、やけに自分の呼吸が大きく聞こえる。左胸から腹部にかけて、空腹時にも似た気持ち悪さで重い。
いつやってくるのだろう。
頬杖の、組み合わせた指の上に口唇から下を乗せた。顔に触れた指先がとても冷たくて、自分でびっくりした。
緊張の発端は、昨日に遡る。
少年―――ジークは、数ヶ月前からこの酒場に出入りするようになった。
酒を煽る目的ではない。この店で仕事を探していたのだ。
仕事と言っても酒場の店員や雑用係などではない。ここは賞金稼ぎの仕事斡旋所なのである。
たかだか十七、見た目も軟弱そうなジークはあまり大きな仕事を任されたことがない。腕に覚えがないことはないのだが、如何せん見栄えがしない。
ただでさえ賞金稼ぎの溜まり場になっているこの店では、いい仕事を期待する方が土台無理な話だ。
それでも彼には、賞金稼ぎでいる理由があるのだ。
昨晩、いつものように酒場に現れたジークを、カウンターの内側からマスターが手招きした。
一瞬目の錯覚かもしれないと疑ってしまったのは、手招きなどされたことがなかったからだ。いつもは優しい言葉で諭されて追い返されてしまうのに。
椅子の背と背の間を縫うようにしてカウンターに近づいて、訊いた。
一体どういう風の吹き回しなんですか。
いつものようにグラスを磨きながら、こんな寂れた酒場には似合わないほど上品なバーテンダーの正装をしたマスターは、やわらかく笑った。
『君に仕事を頼もうと思ってね』
何の冗談だろう、それとも夢でも見ているのか。
願ってもない幸運であるはずなのに、ジークは素直にそれを信じることが出来なかった。訝しげに眉間に皺が寄ったのが、自分で分かった。
今までの扱いを考えればそれも当然といえば当然の結果ではあるのだが。
渋い顔をしているジークに、マスターは上品に苦笑した。
『C.C.C.と組んでもらいたいんだが』
その一言で、脳の活動が数秒ほど停止した。
マスターの言葉が、天井で回るファンの音と一緒に、何度も何度も耳元で繰り返す。
口から零れ落ちた『え?』という自分の間の抜けた声で、我に返る。
『本当ですか!?』
気がついたら叫んでいた。
発端は、それだった。
気がついたらいつのまにか、高めの椅子の足掛けにかけた足が、苛々と動いていた。随分と行儀が悪くなっている。
柄にもなく緊張して焦っている自分に、また苛立たしさが募る。悪循環だ。
深々と溜息をついたジークの背に、どすどすと大きな足音が近づいてきた。
「よう、マスター。カイナが戻ってきてるらしいな」
ひとつ間を置いて左側、巨体がカウンターに着いた。人工芝のように天を突いた黒い短髪の、腕力の異常に強そうな男だ。こちらに向けている、白いタンクトップから剥き出しの右肩には、蠍の刺青が入っている。
蠍男(仮称)の台詞からぽろりとこぼれた名前に、ジークはちらりとそちらを盗み見た。
「ああ、昨日戻ったところだよ」
マスターは相変らず穏やかにグラスを磨きながら、あまり口を動かさずに答えた。天井の明かりがグラスの表面に反射して、光る。
「細い両腕に二丁拳銃、華奢な体で荒野を駆ける女賞金稼ぎ!」
蠍男は両の拳をぎゅっと握って力説した。二の腕の筋肉が別の生き物のように動いた。
「その名は広く大陸に轟くC.C.C.(トリプルC)、か」
ぐっと握った拳を開きながら、蠍男はとても楽しそうに笑った。
「そんな大層なコードネームで呼ばれてるようにゃ、とても見えないんだけどな」
「なにそれ。すっごく失礼じゃない?」
背後から、突然女の声が飛んできた。まるで服の隙間から氷を入れられたときのように、ジークの背筋がびん、と伸びた。
恐る恐る左の肩越しに振り返ると、まずは白い腕が見えた。人差し指で銃の形を作って、蠍男の肩甲骨の下あたりに押し付けている。
蠍男は堪えても堪え切れないような笑いで咽喉を鳴らしながら、両手を挙げた。
「いつから聞いてた? C.C.C.殿」
「"細い両腕に〜"のあたりから」
蠍男の背中から人差し指の指先を離し、少し気取ったような声で女が言う。
その白い腕を視線で辿って、ようやくジークは彼女の姿を視界におさめた。
「嘘だろ!?」
気づけば、ぴかぴか光るカウンターを叩いて、ジークは立ち上がっていた。その絶叫に酒場の喧騒が水を打ったように静まり返る。
マスターもグラスを磨く手を止めたまま、蠍男もホールドアップのまま、その蠍男の後ろに立っている"少女"も人差し指をピストルの形にしたまま、固まっている。
そう、少女だった。
白のタンクトップから白く細い腕は剥き出しで、黒のショートパンツから細い足も剥き出しで、肩の上あたりまでの濃紺の髪を生やした頭を僅かにかしげて、ジークの方を見ている。
黒い瞳は大きく、まるで小動物のようだ。
傾げたままの首をくるりと、まだ固まっているマスターの方へ向けて、少女は。
「マスター、なにこれ」
ピストルの形にしたままの指先を無遠慮にもジークに向けて、言い放った。
「人に指先を向けるな!」
かっとなってジークは怒鳴った。今まさに自分に指先を突きつけているのは、自分よりも頭ひとつ分ぐらい小さな、本当に小動物のような少女だったからだ。
2.
ごとごとと振動が体に伝わる。見上げた空が小刻みに震える。
晴れ渡った青空はところどころに白い絵の具を滲ませたような雲を浮かべている。南中した太陽は、ちょうどその雲に隠れていた。
ふと、地上に視線を落とすと、赤茶けた不毛の荒地が、ごつごつとした表面を曝してどこまでも続いているのだった。
空と大地。その二つに挟まれた地面を、一台の緑色のジープが疾駆している。地面の凹凸をタイヤが乗り越えるたびに、体に振動が伝わった。
ジークは後部座席に埋まり、ジープの縁に頬杖をついて、見渡す限り広がる荒野を眺めるともなしに眺めていた。
「カイナ・C・C。あんたは?」
運転席で、手に余るほどのハンドルを握っている少女が唐突に口を開いた。
街を出てから30分、今の今まで一切の会話がなかったのにも関わらず、何の前触れもなしに、突然に。
ジークは、瞳だけを運転席の方へ動かした。運転席の真後ろに陣取っているので、カイナと名乗った少女には見えないだろう。
ふてくされたように、ジークは飛び去ってゆく荒野に再び目を向けた。
それで名乗ったつもりなのか。肝心の部分は教えてくれる気がないらしい。『C.C.C.』と呼ばれる所以、その苗字は。
「な、ま、え、は?」
ぐっとカイナの声がトーンを下げた。脅す勢いだ。
相も変わらず荒野に視線を注いだままで、ジークはそっけなく「ジーク」とだけ言った。
「ふーん」
あっさりと会話を終了させて、カイナは黙った。また繰り返す振動と走行音だけが全てになる。
「……訊かないのか?」
5分ほど走った後で、今度はジークが口を開いた。
「何を〜?」
間延びした声がすぐに運転席から返ってくる。あまりにのほほんとした声に、ジークは頬杖を外して座りなおす。
「……その、もっと、色々だよ」
口を開いては見たものの上手い言葉が見つからずにしどろもどろのうちに尻つぼみに消える。
前方から吹き付けてくる風が、青と銀の髪をばさばさと揺らした。
「だって、それ以上訊いても仕方ないんじゃない? 特に名前なんてさ、相手を呼ぶときフルネーム全部呼ばないでしょ。それともフルネームで呼ばれる方が好きなひと? フェチ?」
運転中だというのにカイナは左の肩越しに後部座席を振り返る。おおきな黒い瞳がじっと穴が開くほどにジークの顔を見つめた。
「違う、けど」
なんとなく圧倒されてしまって、ジークはそれしか言えなかった。それならいいよね、とカイナは首を真っ直ぐ前に戻した。
またしばらく、無言の走行が続く。後ろに流れてゆく景色はどこまで行っても変わらない。左右の遠くに見えている山脈も、あまり形を変えているようには見えない。
ジークは再びジープの縁に頬杖をついて、ぼんやりと遠くを見た。雲に隠れていた太陽が顔を出し、焼け付くような日差しが燦々と降り注いできた。
ふと、昨晩のことを思い出した。
―――最近、この界隈を賑わせている窃盗団のことは、知っているね。
ジークとカイナが間に蠍男をはさみこむようにしてカウンターについたあと、マスターが切り出した。
窃盗団とは言うものの、盗品、薬物、人身、何でも売りさばいてしまうある意味『何でも屋』で、どうも最近アンダーグラウンドをぶいぶい言わせている団体様らしい。
―――アジトの目星はついたから、カイナ、そこのジークを連れて、とりあえず潰しておいで。
隣町までお遣いに行っておいで。そんな気安さで、マスターがにっこりと言ったのだ。
潰しておいで、だって?
空から降り注ぐ日差しがまぶしい。まばたきを何度も繰り返しながら、ジークはまたちらりと運転席の方を見た。
耳元を掠める風の音に混じって、かすかに鼻歌が聞こえてくる。間違いなくハンドルを握る少女のものだ。
明らかに自分よりもひ弱そうな少女だ。年はジークよりもひとつ上だとは聞いたが、とてもそうとは思えないほどあどけない。
それでも彼女は、マスターの持ち出した依頼を二つ返事で請けた。簡単に、本当にお遣いを了承するように軽く。
「あんた本当に、C.C.C.……、なのか?」
噂は往々にして一人歩きするものというが、それにしてもあまりに想像とのギャップがありすぎる。
とりあえずもっと、頑丈そうな体をしていて無口で一匹狼、……のような女かと思っていたのだ。
「信じられないなら、信じなくてもいいってば。もう何十回も聞いたよそれ」
髪の毛や服を容赦なくはためかせる向かい風にも、掻き消されないように大きくカイナは溜息をついた。ほとほと呆れた溜息だ。
「じゃああんた、持ってるのか? あの、二丁拳銃」
まるで幼い子どもが友達に、特別レアな玩具の有無を尋ねるような声になっていた。どきどきしている自分がいる。
「あれ、昨日見なかったっけ。腰のホルスターにちゃんとついてるよ」
昨日は動揺していて、ホルスターにまで目が行かなかったのだ。不覚だった。
今ここで立ち上がって、運転席の上から身を乗り出して、ホルスターとそこにおさまっている二丁拳銃を確認したい、という欲求に駆られたが、流石にそれはあまりにも子どもっぽい。
好奇心と意地とが戦って、結局意地が勝った。うずうずしながらも、なんとか衝動を押さえて後部座席に座ったままの体勢を維持する。
C.C.C.が持つ拳銃は、遺跡から発掘されたいわゆる古式銃というものらしい。金色と銀色とに輝く拳銃―――。
「奴らのねぐらまでもう少しだから。体力温存しときなよ」
明るくそう言ったきり、カイナは黙った。遠まわしに、もう話し掛けるんじゃないと言われた気がする。
ジークはぐっと黙ってシートにもたれかかった。
今日も着込んだ黒の外套の内側から、首にかけた細い鎖を手繰る。引きずり出した鎖の先には、金色に輝く指輪が下がっていた。
その指輪を右の掌に乗せて、見つめる。ある程度重い。緑色に輝く大きな石が嵌めこまれた、デザインリングだった。
空から降り注いでくる日差しを反射して、きらりきらりと輝いた。
眉間に皺を寄せてその指輪を凝視するジークを、カイナはバックミラー越しにちらりと盗み見た。
3.
巨人が暴れたあとのようだ。
大きな岩陰に停めたジープから、赤茶けた地面に片足を下ろしながら、ジークは目の前に横たわる教会の尖塔を見た。
高く聳えていたはずのそれが、ぽきりと。まるでマッチ棒を折ったように真ん中で折れて、荒野に三角形のアーチを作っていた。
その周囲を取り巻くように、教会だったはずの残骸がまるで左側から巨大な手でぐしゃりと押しつぶされたように斜めに崩れている。
ステンドグラスの赤や、緑。建物から突き出した、白の十字架。ジークは目を細めた。滅びた残骸だった。
その隙間を、荒野の砂を含んだ風が通り抜けてゆく。揺れる草もないくせに、さらさらと音がした。砂の音。
「こんなところにも、教会があるのか……」
驚いて、ジークは独白した。こんな不毛の大地に、信仰が。
「ここらへんは自然が過酷だからね。そういうところの方が、教会は多いんだって」
いつのまにかすぐ傍に立っていたカイナが、右の腰に手を当てて、ジークと同じように尖塔が作り出したいびつな三角アーチを見上げていた。
彼女の頭は、ジークのひとつ分下にある。濃紺の髪が風になぶられて肩の上あたりで揺れていた。
ふと、ジークは視線をカイナの腰に下ろす。腰に巻きついた黒いホルスターが見えた。右に金色の、左に銀色の。ピストルがおさめられている。
C.C.C.という賞金稼ぎが話題に上るとき、必ずと言っていいほどそのピストルの話を聞く。
若くして、女だてらに。大陸に名を轟かせる賞金稼ぎ。金と銀の二丁拳銃をまるで魔法のように扱う。
本当に彼女なのだろうか。
自分よりも一回り近く小柄な少女の旋毛のあたりを見下ろして、ジークは自問する。
「ロイロット・ヴェストニア」
こちらに背を向けたまま、カイナが突然言った。相変らず廃墟の方を見つめたまま。
ジークは思わず、はためく外套の上から胸の上を押さえた。服の下に、硬い感触がある。
「それが、この廃墟の地下をねぐらにしてる、窃盗団の頭の名前だよ。随分立派な名前だけど、どうやら貴族出身らしいね」
ジークは、服ごと、その胸の硬い感触を握り締める。
ざっ、と。カイナの右足が動いた。一歩前へ。赤茶けた土を踏んで、廃墟の方へ歩き出した。
「デッド・オア・アライブ。生死は問わず―――か」
颯爽と歩き出すカイナの声を、乾いた風がジークの元まで運んだ。
*
崩れた廃墟には、天井がない。
横倒しにされた祭壇に腰をかけ、男はぼんやりと煙草に火をつけた。正面に、扉の外れた教会の入り口が見える位置で。
ぎざぎざと崩れた壁の形に切り取られた、くすんだ水色の空。ゆるりと白い雲が流れてゆく。
雲と、自分の吐き出した紫煙が混ざり合って、そして消えた。
彼は、自分の背後にある階段の見張りだった。丁度祭壇が置かれていたであろう位置にぽっかりと、地下へ続く穴が開いている。
見張りなどしたところで、きっと何も起こらないのに。男はこまかく瞬きをした。睡眠不足の瞳には、煙がしみる。昨日も一昨日も、何も起こらなかったのだし。
右手首に嵌めた腕時計を見る。交代してからまだ1時間も経っていなかった。もう半日もここに座っている気がするのに。
時計が壊れているのではないかと、無駄に右の腕をぶらぶらと振ってみたりする。それで時計の針が動くわけでもない。
銜えたままの煙草の先から、灰がぽとりと落ちた。そのとき。
「すみませーん」
高い声がして、男は慌てて立ち上がった。勢い余って深く吸い込み、激しくむせる。
「誰だ!」
まだ長い煙草を爪先で揉み消し、男は叫んだ。
入り口の端から、上半身だけをひょこっと覗かせている。光の加減で顔は見えないが、どう見ても子どもだ。
なんだ、子どもかよ。男は、腰のナイフに伸ばした手を下ろして、体中に走った緊張を解いた。
「なんだ、ガキの来るとこじゃねぇんだぞ」
野良犬を追い払う手つきで、男は現れた子どもをあしらう。険のある目つきでにらみつけた。
けれどもそれをものともせず、小さな人影はすたすたと男の方へ近づいてくる。
「おい!」
「道に迷っちゃったんですけどぉ」
華奢な体つきをした少女だった。
黒いレザーのジャケットの内側は、白のタンクトップ。中央には真っ赤な薔薇がごてごてとプリントされている。下は黒のショートパンツにベージュのブーツだ。両腕を後ろに回して、首をかしげて男の方を見た。濃紺の髪がさらりと揺れた。
「ああ?」
チンピラらしく、男は聞き返した。
しかし、怯む様子もなく少女はすたすたとこちらまで近づいてくる。そしていつのまにか、目の前に立っていた。にっこりと満面の笑みで見上げてくる。
「ソドムの街ってー、どっちですか?」
えへ、という言葉を背負って、少女は首をかしげた。
「ソドム……? 全く別方向じゃねぇか」
毒気を抜かれて、男は素直に言った。この教会を背にして、真っ直ぐ―――。
正面の入り口の方を指差そうと、右腕を持ち上げ……。
一瞬のうちにぐるりと世界が一周した。何も分からないうちに、背中に激しい痛みが走って、咳き込んだ。
投げ飛ばされたと分かったのは、瓦礫だらけの床に投げ捨てられ、腹の上に何か重いものが乗ってきてからだった。受身も取れずしたたかに打ち付けた背中と頭がじんじんと痛む。意識が一瞬遠退いた。
意識が朦朧としているうちにぐっと口を開かされ、何か硬いものが押し込まれる。
「叫んじゃダメだからね」
この教会には天井がないはず。けれども男の上には影が出来ていた。目を開いても空は見えない。その代わり、夜の海のような濃紺の髪の毛が、視界いっぱいに広がっていた。
先程は愛らしいとすら思えた大きな瞳が、冷徹な色をたたえて見下ろしている。床に無様に倒れた男の腹を、少女が膝で押さえつけていた。
少女と成人男性では力の差は歴然で、少し無理をすれば払いのけられる。けれど、男はそうしなかった。
口の中に押し込まれたものの正体を、知ったからだ。
きらりきらりと、僅かな光も跳ね返す金色に輝く、ピストル。少女の白い指先はしっかりと引き金にかかっていた。
寄り目になるぐらいまで、自分の口腔内に押し込まれているそれを凝視する男に、少女は無邪気ににっこりと笑った。
「おやすみ」
びくん、と男の体が跳ねた。
ジークは、廃教会の入り口に呆然と立ち尽くしていた。
「何やってんのー。男の子でしょ!? 縛り上げるの手伝って!」
カイナは、だらしなく気を失った男の体をずるずると入り口近くまで引っ張ってきていた。
男は白目を剥き、口からは泡を吹いているが、生きている。少し離れた床にスタンガンが無造作に転がっていた。
「殺さ、ないのか?」
ジークが持ってきた縄で男を素早く後ろ手に縛りながら、カイナは年不相応にふくれっつらをする。
「あのねぇ、賞金稼ぎは別に、ひと殺しなわけじゃないんだから、そこんとこ誤解しないでよね」
かぱっとだらしなく開いたままの男の口に猿轡までご丁寧に嵌める。
「基本は生け捕り。分かった?」
両手両足を縛り上げ、その男をコロンと入り口近くの床に転がしてから、カイナは立ち上がった。服の埃を払う。
「さて、と」
ポケットから取り出した布で、金色の銃の銃口あたりを丁寧に拭いてから、眼前に構えた。
銃口を上に向け、金色に輝く銃身に、一度だけ接吻けた。
「はじめますか」
4.
「パスワードロック」
目の前に現れた鋼鉄の扉の前で、カイナが立ち止まる。
祭壇の裏にぽっかりと口を開いていた入り口から階段を降りて、細い道を延々と歩いた突き当たりにその扉はあった。
原始的にくりぬいたような洞窟の突き当たりにいきなり現れた人工物は、あまりにも浮いている。
「遺跡、だったのか」
違和感の塊であるその扉を見つめて、ジークが呟いた。
太古に存在したという超古代文明の科学力は、現在を遥かに凌ぐといわれている。
時折発掘される遺跡は、機械仕掛けのダンジョンなのだ。
「考えたもんだね。仕組みさえ理解すれば、セキュリティは並の最新機器より上等だからね」
周囲に明かりはなく、闇に慣れた目で、ぼんやりと鈍く銀色に浮かび上がる扉をじっと見る。ドアの右横に、1から9まで計算機のように並んだパネルとカードスキャンがある。
「パスワード、か。さっきの男から聞き出した方が良くないか?」
見た目にも頑丈そうだし、無理矢理開ければきっと良くないことが起こる気がする。
「んー? いいよー。面倒くさいしさー」
カイナは、ブーツの右の踵に手を伸ばすと、どこからか一枚のカードを取り出した。
そのカードを、さっと上から下に向けてスキャナに通す。呆然とするジークの目の前で、ピピピピピ、と勝手にパスワードが読み込まれ、パシュッと音を立てて扉が横滑りに開いた。
「一丁上がり〜」
人差し指と中指に挟んだカードを高々と掲げて、カイナは微笑んだ。
「何だそれ……」
「ん、これ? ハッキングカードでございますけど何か?」
肩越しに、そのカードをひらひらさせて、カイナは悪戯っぽく笑った。
その笑顔に、ジークの背中に冷たいものが伝って落ちた。侮れない。
「さてと。さくさく行こうね〜」
カードをブーツにしまいなおして、カイナは開いた扉に躊躇いなく歩き出す。右手で、ホルスターから一丁、ピストルを抜き出す。金色が闇の中で光った。
「遅れんじゃないわよ」
銃を手に握った途端、カイナの声は張りを持つ。背筋が伸びるような気がして、ジークも自分の銃を抜いた。まだ、ずしりと重い気がした。
開かれた扉の向こうには一本の、銀色の道が伸びている。その先は闇に飲まれ、見えない。
ジークは左手で服の上から胸元を弄る。指輪の、硬い感触が掌に返った。
(俺は、殺すためにここに―――)
硬い感触をぐっと握り締める。そして、靴音高く駆け出すカイナの背中に続いた。
*
ここ最近、世界情勢は悪化の一途を辿っていて。治安もそれに比例している。
議会、貴族、宗教、王制。その全ての権力はそれにしたがって弱まり、原始的なシステムに戻りつつある。つまり、力が全て。
特にその矛先は貴族に向いた。爵位の剥奪や、領地の没収がいたるところで行われているのだ。
街にはならず者が溢れる。それに比例して賞金稼ぎが増える。
どちらも結局は力を盾に、血を浴びながら生きてゆく人種だ。
何故彼女は―――。
ジークは、前を走る小さな背中に思う。
何故彼女は、賞金稼ぎをしているのだろう。しかも、ここ2年でトップクラスにまで上り詰めた、『C.C.C.』。
名前が売れればそれだけ、生命の危険も増えるのに。まるで彼女は、名前を売りたがっているようにさえ思えるのだ。
(俺には、武器を持つ理由がある)
右手のピストルの重みが現実にまた呼び戻す。そう、ジークには理由があるのだ。
―――絶対に、家を建て直す方法を見つけてくるから。
あの雨の晩、この両肩を掴んだ強い力。それが、嘘だなんて思いたくないけれど。もしも目の前にあの男が現れたらきっとその時は……。
カイナの剥き出しの足が、目前の、とってつけたような木の扉を蹴破った。
そこは広い部屋だった。中央に安っぽい木のテーブルが置かれ、それを取り囲むように男たちが金勘定をしていた。全部で、5人。
天井から下がるぼんやりとしたランプだけが、唯一の照明で。部屋の中央あたりだけぼんやりと明るい。
一瞬遅れて、男たちは殺気だった。爆発したような緊張感と殺気が波になって襲い掛かってくる。ちりちりと肌が灼けるような気がした。
「遅い!」
カイナの足が目の前の椅子を払いのけ、まずは一発。目の前にいた男の腕を撃ち抜いた。急に血の匂いが薫る。
絶叫が上がり、男は床に崩れ落ちた。
「てめぇらっ……!」
派手なシャツを着た男が叫びながらピストルを抜き出そうとする。それを目ざとく見とめて、もう一発撃った。
利き腕だろう右手の手首から血を流して男はその場に尻餅をついた。
中央に鎮座するテーブルをカイナの左手がひっくり返す。小柄な体がそこにおさまるのと、少女に向けてナイフが飛んでくるのは同時だった。
「どうしたの!?」
どこか活き活きとしてカイナが叫んだ。どうやらそれが自分に向けられたものだということに、ジークは一瞬気がつかなかった。
「怖い?」
テーブルの影にジークを引っ張り込みながら、カイナはその耳元でそれだけ囁いた。
その言葉にジークがぴしりと固まると、カイナは口元だけで笑ったような気がした。
一発、発砲音。それと同時に灯りが消えた。すぐ近くで音がしたから、きっと撃ったのはカイナなのだろう。
それも、よく分からない。
いつの間にカイナが傍から飛び出したのかも。どこか遠くで男たちのうめき声が聞こえたと思ったら、すぐに静かになった。
硝煙の、そして血の匂いだけが残る。
きっと時間は5分と経っていない。
カラカラ、と鋼鉄の床に跳ね返るのは、きっと使用済みの弾。5人とランプで6発だ。一発のミスもない。
ジークがおぼつかない足取りで立ち上がると、シリンダーに弾を再充填しながら、カイナは一人の男の上に右足を乗せていた。
よろよろと近づくと、男は左肩からおびただしく出血しながら荒い息を繰り返している。
「あんたらの、ボスはどこ」
がちゃりとシリンダーを元に戻しながら、普段からは考えられない冷徹な声音でカイナは言った。
顎を少し持ち上げ、見下す目線だ。
カイナは、もう片方でもう一丁を抜き出すと、上から2丁、男に向けて構えて見せた。
「教えて、オニーサン」
両の親指で同時に金銀両の安全装置をはずす。斜め後ろからそれを見やるジークにも分かるほど、彼女の顔は酷薄な笑みを浮かべていた。
お、お、と言ううめきが男の口から零れ落ちる。無事な右手を持ち上げて、カイナたちが入ってきた扉と向かい合わせる、もうひとつの入り口を指差した。
奥。どうやら男はそう言いたいらしい。
「ありがと、ねっ!」
可愛らしくお礼を言って、カイナはブーツの踵で男の鳩尾を蹴った。ごふっと嫌な咳き込み方をして、男は白目を剥いて意識を手放す。
「ジーク」
呆然とその背中を見ているジークを、カイナは呼んだ。
返事も出来ずにジークはそこに固まる。気絶した男に落としていた視線をゆるりと、肩越しにジークに向ける。
「伏せて!」
かッと咽喉を開くようなカイナの叫びに、反射的にジークは腰を落とした。一瞬遅れて、銃声。
自分の頭があったあたりを、銃弾が通り過ぎていった。地面にへばりついたまま、ジークは首だけを後ろに向ける。
自分たちが蹴破って入ってきた入り口に、いつのまにか男がひとり立ちふさがっていたらしい。その男も今はずるずると床に座り込んでいる。その男の右手には、黒光りする銃が握られていた。きっとあの銃口は、自分を狙っていたのだろう。
首を元に戻してカイナを見上げると、彼女の右手は今もなお構えられたまま、その銃口からは細い煙が上がっている。
ふう、と深い呼吸が聞こえてジークは我に返った。少しの間ほうけていたことに気付く。
体の感覚がまだ、戻ってこない。
「本当にこいつら、巷で噂の窃盗団〜?」
一度ピストルをホルスターに戻して、ぐるぐるとカイナは両肩を回した。かすり傷ひとつ、負っていないように見えた。
「全っ然手ごたえないじゃん、おかしいなー……」
ピストルを持っているときといないときとではまるで人格が違うようにすら思える。
先ほどまでの冷徹な眼差しが嘘だったかのような、小動物を思わせる大きな瞳でこちらを見る。
「いつまで寝てるの?」
苦笑しつつ近づいてきて、手を伸ばされた。
ジークは、自分のそれよりも一回りほど小さなその手に縋って、ようやく立ち上がった。
「会いに行こう。窃盗団のボスにね」
もうひとつの扉を顎でしゃくって、カイナは軽快に歩き出す。
周囲から、男たちのうめき声が聞こえてきた。
ジークは、小さな背中を見つめる。何かがずっと引っかかっていた。さっきから。
違和感があるのだ。決定的な。
「怖いなら帰ってもいいよ」
扉を開けながら半ば振り返って、小馬鹿にしたような笑いでカイナが言った。
「だ、誰が!」
叫び返したところで、掴みかけていた答えはするりと消えてしまった。
5.
細い一本道を突っ込んでくる男に、とうっ、とヒーローのような掛け声と共に、カイナが蹴りを食らわせた。
もんどりうって、男は仰向けに倒れる。その鳩尾にブーツの踵を沈ませて意識を奪ってから、カイナは前方に2発、発砲した。
鼓膜に刺さるような銃の咆哮と、宙を舞って転がるナイフやピストル。
細い一本道は、少人数で攻略するにはやりやすい。飛び掛ってくる人数が限定されているからだ。
とは言え、先ほどからジークはほとんど、おこぼれ程度にしか体を動かしていない。
その小さな体のどこにそれだけの力を持っているのか。不思議に思うぐらいくるくるとカイナは良く動く。
ダンジョンを進んでゆくように、新しい扉を開ければ無数の殺気が襲い掛かってきて。
5分もすればすぐに静かになってしまう。
狭い廊下に転がる足や腕や胴を器用に避け、時々踏みつけながら、カイナは新しい扉の前に立つ。
足の踏み場を探しながら、ジークは仰向けに、うつぶせに、倒れる男たちを眺めた。
そしてようやく、先程感じた違和感の答えに気付く。
(……死んでない)
誰も。
そこに死骸は無かった。
それに気付いた瞬間、わけの分からない苛立ちが足元から立ち上った。
こんなものか、と思ったのだ。
2年で賞金稼ぎのトップにまで駆け上った女も。
(俺は―――)
右手の先にぶら下げたピストルを、強く握る。
(俺は殺せる)
あいつを。
もう何度使用したのか分からないハッキングカードで扉を開くと、暗い。
非常灯、だろうか。ぼんやりとした緑の光が明滅している以外に、灯りは無い。
今まで通り抜けてきた細長い廊下に比べればそこは格段に広い空間のように思えた。
長方形を横にしたような、何もないがらんとした空間。真正面に扉と、コンピュータの端末のようなものが見えた。ディスプレイと、キィボード。
自然に部屋の中に踏み出そうとしたジークを、細い腕が遮った。
「なんだよ……」
不服そうなジークを尻目に、カイナは腰からサングラスを取り出して装着する。
そうして、しばらく周囲を見渡してから「やっぱり」とひとりごちた。
何がやっぱりなんだよ、食い下がるジークに、サングラスを押し付ける。渡されるままに受け取って、それを装着すると。
目の前の空間に、無数の赤い光線が走っているのが見えた。
参ったなぁ、と首の後ろを掻いてから、カイナはそのあたりに落ちていた鉄屑をひとつ拾うと、室内に放った。
閃光。一瞬だった。
灼きつくような白い光が天井から落ちてきて、その鉄屑を跡形もなく溶かした。
瞬きも出来ないうちに。
何が起こったのか咄嗟に分からず、ジークは瞬きを繰り返す。その右腕を、何かが掴んだ。
驚いてそちらを見ると、カイナがにかっと笑ってジークの腕を掴んでいる。
「な、なんだよ!?」
「立ち止まったら撃たれるからね。一気に向こうの、コンピュータの端末付近まで走る!」
「ええっ!?」
「あの端末でいじれるはずだから。それともここでひとりでお留守番してる?」
お、る、す、ば、ん。とカイナが繰り返した。
むっとした。ばっとカイナから自分の腕を取り戻して、「行くよ!」と怒鳴った。
するとカイナが勝ち誇ったように笑う。バツが悪い。
何かを言い返す前に、カイナは駆け出した。反射的にジークも、その背中を追っていた。
おそらく50メートルも無いのに、その機械端末は恐ろしく遠くに思えた。
ビー、とついてくる音はレーザーだろうか、振り返る勇気は無い。機械端末に辿り着いた頃には、汗だくになっていた。
しまったままの扉の前に、膝をついてがっくりとうな垂れた。
荒くなった呼吸を整えている耳に、かちかちと忙しない音が聞こえてきた。
扉の右側に備え付けられている端末に向かったカイナが、キィボードに指を滑らせていたのだ。
「……どうなの?」
すぐ傍の扉には、今までのようにカードスキャンがない。どうやったら開くのだろう?
「んー……」
慣れた手つきでキィボードを叩きながら、カイナは生返事だ。
「多分ね、このレーザーのセキュリティを解除すれば開くと思う。ちょっと時間かかるかも。少し、暇してて」
言ったきり、カイナはキィ入力に没頭してしまった。後ろから、ぼんやりと光るティスプレイを覗き込むのだが、意味不明の文字列が高速に流れてゆくだけなので、何がどうなっているのか分からなかった。
「なぁ」
聞いていなければ聞いていないでいい。
ジークは、開かない扉に背を預けて座り込むと、口を開いた。
「あんたどうして、殺さないんだ?」
左側の膝だけ立てて、その上に左腕を乗せてから、訊いた。
相変らず、キィを叩く音だけがあたりに響く。
カイナはきっと、答えないだろうと思った。没頭しているふりをして、流してしまうつもりなんだと。
自分だったらそうする。
けれどジークは聞いてみたかった。あれだけ自在に体術とその2丁のピストルを操り、2年でトップに上り詰めた人間が。
どうして獲物に止めを刺さない。
答えないなら、別にそれはそれでいい。
「約束、したから」
キィを叩きながら、カイナが口を開いた。
「人を殺すことが"普通"になったら駄目だよ、って。言われたから」
「誰と?」
訊かなくてもいいことまで、気付けば訊いていた。
するとカイナは、ぼんやりとした液晶の明かりの中で、子どもがはにかむように笑った。
「あたしを、育ててくれた人」
とても嬉しそうな顔を。そのとき、彼女はしたのだ。
子どもが自慢をするときのような顔だった。
つきん、と。小さな痛みが胸を刺した、ような気がした。何故か。
「育てて、くれた人」
鸚鵡返しに繰り返した。
「そう。あたし、拾われっ子だから」
へへへ、と笑いながら言う。それは決して無理に笑った顔ではなかった。
慰めや同情など、全く必要としていないものの、顔。
過去が。少し、他の人間と違った環境で育ったことが、傷にも、トラウマにもなっていない。
それはやはり、今まで生きてきた時間がきっと、幸せとぬくもりに満たされていたからだ。
憎悪とは別の場所で生きてきた笑顔に見えて、急に苛立たしくなった。きっと、妬ましくなったのだ。
気付けばジークはカイナから視線をずらし、胸元に触れていた。縋るように指輪の感触を確かめる。
「……なんで、賞金稼ぎになったんだ?」
恵まれて育った人間が。そんなふうに優しい顔で笑う人間が、両腕に銃を携えて、血なまぐさい立ち回りをするのは。
一体どうしてだ。
それまで絶え間なく続いていたキィを叩く音が、一瞬だけ途切れた。
そしてまたすぐに続く。
「……人探し」
今度は少し寂しそうな顔で笑う。
「情報の流通が早い業界でしょ、ここは。それに、ここでこうして名前を売れば、気付いてもらえるかもしれないし」
賞金稼ぎという業界は、探すことと見つけてもらうことが同時に出来る場所だ。
「誰を?」
カイナは、キィを打つ手を止めた。ゆっくりと、顔をジークの方へ向ける。
口元に少しだけ笑みを浮かべた、やけに大人びた顔をする。
「名付け親」
その愁いを帯びた笑みをすぐに消して、カイナはすぐにディスプレイに向き直ってしまう。
「あたしが父親って呼んでる人はふたりいてね、その片方なんだ。道端であたしを見つけて、拾って、名前を付けてくれた人と。16になるまで本当の子どもみたいに手元で育ててくれた人。その、名付け親の方が2年前ぐらいからぱったり連絡寄越さないの。元々一箇所に落ち着いてることが少なかった人だし、連絡がないのも別に珍しくないんだけど……」
やっぱりね、少し心配になってさ。
あははは、と何かをごまかすようにカイナは大げさに笑う。
"少し"心配なだけで、暖かな家を飛び出して、二丁拳銃を携えて、賞金稼ぎのトップになどなるものか。
彼女はきっと、必死なのだ。
だからここにいる。
「不安になったことは、ないのか?」
右手で指輪を握り締めたまま、ジークは縋るように訊いていた。
不安? 画面の文字を目で追いながら、カイナが訊き返す。
右手を強く握り締めると、首から下がった鎖が音を立てた。しゃり。
「俺も、人を探してる」
ストッパーが壊れてしまったらしい。とうとうと水が流れるように、言葉が垂れ流しになった。
「相手を捜し当てたとき、もしも、その相手が変わっていたら……。自分の知っているそいつじゃ無くなっていたら、お前はどうする」
左胸がうるさく鳴った。どんどん、言葉を重ねるごと加速してゆく。
今まで、思ってはいても口には出したことのない不安を形にすると、途端に怖くなる。
意識して忘れたふりをしてきた声や情景や感情がめまぐるしく、脳裏でまたたいて消えた。
信じてくれ、と託された言葉がある。
けれどその言葉を信じるだけの勇気がもう、なくなってしまったら。
一体どうやって信じればいい。一体何を信じればいい。
この指輪が精一杯だ。この手に握れるほどの、小さな小さすぎる希望。
「……酒場で、マスターが言ってた。あんたがやけにこの窃盗団のことを訊きに来るって」
いつのまにか、流れるようなキィの入力は終わっていた。右手だけをおざなりにキィボードの上に乗せ、左腕はだらりと垂らしている。
心臓を鷲掴みにされたような気がして、一瞬呼吸が止まった。
一瞬にして体を硬直させたことを、きっと彼女は気付いただろう。人の視野は結構広い。画面を見ているように見えても、きっとこちらの様子はわかるのだ。
「"あいつ"が―――たとえ、犯罪者や人殺しになっていても」
けれど、深くジークに追求はせず、カイナは。
「魂が腐ってないなら、あたしは構わない。人は変わるし、共有していなかった時間の分、見てきたものも違うから。でも」
ピストルを握るときの顔で鋭く、じっと画面を見つめた。射抜くように。
「救えないぐらい腐った奴になっていたら、あたしは認めないし、赦さない。本当に救えないぐらいだったら、これで、撃つかもしれない」
だらりと下がったカイナの左手が、ホルスターにおさまった銀の銃に触れた。
「でもね、一緒にいた時間がすごく優しいから、不安になるけど、そのたびに昔のことを思い出す。そうしたら、信じてられる。この名前をあたしに付けてくれた人は、簡単に腐ったりしない」
カイナ、と。
呼んでくれた人は。
その意味を教えてくれた人は、とても優しい人だったから。
「だからあたしは、自分のことを省みる。もう一度あいつに会ったとき、あたしはあいつをがっかりさせないでいられるかな、って考える」
カイナの瞳は、ディスプレイを通してどこか遠くを見るようだった。
その瞳は真っ直ぐで、とても強い。
太陽の光を直接目に浴びたような気がして、ジークは軽く眩暈を覚えた。
「優しい思い出があったら、大丈夫だよね?」
ふと、カイナがジークを見て、微笑んだ。
瞬きを忘れて、ジークはその笑顔をしばらく見つめた。
耳元で、遠く近く、聞こえるはずのない声がくるくると回った。
―――弟を、いじめるな!
自分よりも"もやし"だったくせに、いじめっ子には果敢にも立ち向かい、二人で返り討ちに遭ったり。
大きな犬を前にして、平気だといいながら足が震えていたり。
両親に大反対された、全寮制の学校への進学。知らないところで両親と大喧嘩まがいの説得などしてくれたり。
大丈夫だ、と。言い聞かせるように繰り返してくれた。
ジークは俯いた。視界が僅かにぼやけた。
今まで忘れていたことが、無理に忘れようとしていたことが、こんなにある。
咽喉元まで、何かが込み上げてきて、必死に押しとどめた。泣くのだけはやめようと思った。
かちゃ、とキィを入力する音と共に、プシュ、とすぐ後ろで音がした。
途端、背を預けていたものが急になくなり、ジークはそのまま後ろにころんと転がった。
ごつん、と後頭部を床にしたたかに打ちつけて、ジークは、咄嗟に何が起こったのか分からなかった。
爆笑が起こった。慌てて上半身を起こすと、機械端末の前で腹を抱えるようにしてカイナが笑っている。
どうやら、扉のロックが外れたらしく、扉にもたれかかっていたジークはそのまま後ろに無様に転がったわけだ。
そしてどうやらそれは、カイナの"故意"というものらしい。
じんじんと痛みを訴える後頭部、眩暈を訴える視覚、カイナの爆笑。
状況を把握すると共に、かぁーっと血が顔に上ってきた。
「何するんだよっ!!」
ジークは真っ赤になって叫んだ。恥ずかしい。
「ごめんごめん」
謝りながらも笑っているので、全く誠意が感じられない。笑いすぎたせいか、目が潤んでいるのも苛立たしい。
「可愛い悪戯じゃないのさー」
「何が可愛いだっ!」
「やだなー。ムキになるのは子どもの証拠だよ?」
「うるさいっ!」
情けなく、鋼鉄の床に座り込んだまま、ジークは噛み付く勢いで叫んだ。
すると、カイナの表情からすぅっと笑みが消える。右手が腰に回り、金色のピストルを抜いた。
「ちょ、待てよ、冗談だろ?」
カイナの表情は硬いまま動かない。ピストルを真っ直ぐに、ジークの方へ向けた。
人差し指はしっかりと引き金にかかっている。親指がゆっくりと安全装置を外した。
先ほど弾を再充填したことを、ジークは良く覚えている。つまり、準備は万全。
黒い穴がしっかりとこちらを向いている。背筋を、得体の知れない冷たいものが一気に駆け抜けた。
「おい、やめ―――!」
細い指先が力いっぱい、トリガーを引いた。
6.
乾いた銃声がきれいに響いた。
「隠れても無駄だ! もう逃げ場は無いんだからね! 出て来い!」
情けなくぱったりと、床に仰向けに転がって、ジークはカイナの叫びを聞いていた。
カイナの右腕は高く掲げられ、その銃口は天井に向けられていた。
情けなくも、どうやら腰が抜けてしまったらしく、ジークはしばらく仰向けに、天井を見つめる。
今までは天井など見る暇も無かったが、遺跡というものは天井まで鋼鉄で構成されていることが分かった。
随分と天井が高い。
一瞬の空隙。その後に。乾いた音が聞こえてきた。
一定のリズムで手を叩く音。拍手だった。
「まさか、あのセキュリティを解除するとは思わなかった。お見事」
少し離れた位置から、演説するように声を張り上げる男がある。
ジークは天井を見つめたまま、大きく目を見張った。
(この声―――)
「ひとりだけ頑丈なセキュリティの奥に避難? 頭領のすることじゃないね」
呆れた体で溜息をつき、カイナは左手を腰に当てる。
「彼らとは、金で契約しただけだからね」
背にした床が酷く冷たい。気力を全て吸い取られていってしまう気がして、ジークはまだ起き上がれずにいる。
かつん、かつん、と足音が近づいてくる。音の反響の仕方からして、ホールほど広い部屋のようだ。
「そのポーズは何」
軽蔑の色を濃く滲ませた瞳で、カイナは右腕を男に向ける。
右腕の先に握られている銃口が、きっと男を狙い済ましているのだろう。
「大人しく、投降でもするつもりなの?」
投降。その言葉でジークはホールドアップを連想する。そしてきっと、予想は外れていないはずだ。
そんなことよりも。
「抵抗すれば、殺されても文句は言えないからね。死ぬのはごめんだ。―――君が噂のC.C.C.? 随分と若いね」
両腕に力を入れて、ジークはまず、上半身だけを起こした。すぐ傍らに、カイナの剥き出しの両足がある。
男の声と気配が、背中に刺さってきた。
「そりゃどーも。あんたこそ、若いのに落ち着き払ってるもんだね。部下たちがあたしにボコボコにやられたってのに、少しも動じないなんて、立派だよ」
ジークはやけにゆっくりと、右膝から立てた。立ち上がろうとする、体が重い。目の前に広がる、先程までいた部屋。レーザーで武装された部屋の非常灯が、緑色に明滅しているのが見えた。
「さっきも言っただろう。金で契約しただけだからね、よく知らない人間のために怒ることは出来ないよ」
緑色の明滅が、ぼんやりと歪んでいる。ただ、会話だけがクリアに耳に届く。
声だけが。
「下衆」
カイナが吐き捨てた。
頤を持ち上げると、苦虫を一気に100匹ほど噛み潰したように、盛大に苦い顔をしているカイナの顔が見えた。
左膝を立てて、腰を浮かして立ち上がる。後頭部は、まだ痛む。
それは、打ち付けた痛みなのか、精神的な頭痛なのか。そのどちらもなのか。右手が指輪を弄る。
「まぁいいわ。ロイロット・ヴェストニア。連日の貴族を狙った窃盗と殺人、放火、ならびに人身売買で賞金がかかってる。あんたの賞金、あたしが貰う。こっちに来な」
「死ぬよりはマシだね」
「どうだかね。自分のしたこと、よぉく考えてみな。決断を下すのは裁判所だけどね」
「死なないさ」
周囲の空気を切り裂くような、鋭いカイナの声と、それをのらりくらりと交わす男の声。
振り向いたジークが見たのは、窃盗団のボスを名乗るには細身過ぎる男だった。僅かな光も跳ね返す銀髪の、上等なスーツに身を包んだ男だ。
その男が、挙げていた両手を下ろして、右手をシャツの内側に差し込んだ。
首にかけてある鎖を引きずり出し、カイナにも見えるように曝す。
細い鎖の先には、金色の指輪が―――。
「貴族は、死刑にはならないんだよ」
勝ち誇ったように、ロイロットは微笑んで見せたのだ。
こんなに憤ったのは久しぶりだ。
カイナはぎりっと、正面に立つ男を見据える。
男が曝して見せたのは、首都カルチェ・ラタンに住む貴族、ヴェストニア伯の家紋が入ったリングだ。
そのリングは、ヴェストニア家に連なるものの証明であり、爵位の継承権を示す。
現在の法律では、貴族は死刑に処すことが出来ない。
それを知っていて彼は抵抗をしない。飛び出した家を、隠れ蓑にして。
神経を逆撫でするような余裕の笑みに、カイナの怒りが沸点を越えた。
「あんたねぇっ……!」
「ふざけんじゃねぇっ!!」
沸点を越えたカイナの勢いをも削ぐような絶叫は、すぐ隣から迸った。
少し遅れるようにして、銃声。弾丸は、ロイロットの左頬を掠って飛んでゆく。
カイナは、呆然と右手側を見た。さっきまで床に転がっていた少年が、両手で拳銃を構え、鬼のような形相で窃盗団の頭領を睨みつけていた。
「ジーク……」
頬から血を流しながら、ロイロットはその少年の名を呼んだ。右手でまだ、あの指輪を握ったまま。
「お前のせいで……!」
相変らず銃口をロイロットに向けたまま、ジークは上擦る声を咽喉の奥から絞り出す。
「お前のせいで家がどういうことになったのか……! どんな……!」
それ以上の言葉が出てこなかった。奥歯を強く噛み締める。次に口を開いたら泣き喚きそうだった。
荒い呼吸がやけに、耳につくのだ。うるさいぐらい。まるで飢えた獣のよう。
すると、目の前のロイロットは口元をふっと歪めて笑った。
震えてるぞ。
カッと頭に血が駆け上った。視界が白く灼けるほど。怒りが。
引き金にかけた人差し指に力を込める前に、別の手が上からジークの手を押さえた。一回り小さな白い掌だった。
ジークの手を上から押さえたカイナは、不敵な笑いを浮かべるロイロットに向き直る。
ただ上から軽く押さえられただけだというのに、ジークは動けなくなってしまった。今更になって、自分の手や腕や、引き金にかけた指先が酷く震えていることに気付いた。
(俺は、あいつを殺すために)
ただそれだけのためにこの手に、銃を握ったのに。
「もうこれ以上喋るんじゃないよ。腐った言葉なんざ、聞きたくもないね」
がたがたと震える手を、上から握る小さな手はひどく暖かくて。自分の指先がどれだけ冷たかったのか、ジークは今更気付いた。
はらりと。頬を熱いものが伝って落ちて、涙に気付く。
「アンダーグラウンドで名の聞こえた窃盗団、ね。なんてことはない、雑魚と下衆の集まりか。今まで捕まらなかったのは奇跡だね。こんなに手ごたえのない連中がさ」
「それなら、見せてあげようか。奇跡と言うものを」
ロイロットが舞台役者のように両腕を大きく広げて見せた。
「な―――」
その瞬間だった。天井から、何か巨大なものが降ってきたのだった。
7.
突き飛ばしたのは、きっと反射だ。
右手で強く、ジークの体を突き飛ばして、左側に飛んだ。
たった今まで二人が立っていた場所を赤い光線が突き抜ける。
ロイロットの狂ったような哄笑が、遠くで聞こえた。
がしゃん、と大きな音を立てて目の前に降り立った"それ"を、カイナは体勢を低くして見据えた。
(機械兵、タイプ318―――。まさか、動くものがあるなんて―――)
それははるか太古の遺産のひとつ。正式稼動するものはほとんどないと言われているのに。
全長縦2メートル、横4メートルほどの、機械兵器だ。鋼鉄の骨組みだけで構成された足が8本。蜘蛛のような動きをする。
骨組みの頂点にある、つるりと丸い頭の中央に、大きなすり鉢状の部分がある。レーザーはそこから発射されるらしい。すり鉢の底辺が、ちろちろと赤い点滅を繰り返していた。
ぐるりと、人間よりも遥かに自由に動く首を廻らせ、中央の赤いセンサーを明滅させながら、機械蜘蛛は獲物を見定めているようだった。
少し離れたところで首の回転が止まった。そこには、銀髪の少年が転がっている。
「くっそっ!」
カイナは、口汚く悪態をついて、引き金を引く。弾丸はその頭には当たらず、センサーの目の前を通り過ぎていった。それでいい。
首が、ぐるりとこちらを向いた。
「こっちだよ!」
首がしっかりとこちらを向き、何度かセンサーが明滅する。相手は自分を認識した。餌として。
「あんたの相手はあたしがしてやる。有難く思いなよ!」
「カイナ!」
視界の端で、ジークが叫んだ。こちらに駆け寄ろうとする。
「来るな!」
その足を絶叫で制止する。
「庇ってやれないから、来ないで」
一瞬たりとも、視線は相手から逸らさない。はっきり言って、勝算は全くなかった。
遥か太古、人を殺すためだけに作られた兵器だ。大きさも力も、相手が上。そして、こちらが体力を消耗しても、相手はエネルギーがある限り、稼動し続けるだろう。
痛覚や疲労感を持たないだけ、相手が有利だ。
でも。
「あの馬鹿親父も多分、見たことないんだろうなァ」
正式稼動する機械兵器など、滅多に拝めるものではない。考古学者として各地を点々としていた名付け親の、羨む顔が目に浮かぶ。
「くっそー、絶対生き残って、自慢してやるッ!!」
自分を鼓舞するために叫んで、カイナは床を蹴った。足と足の隙間から、相手の下に転がり込む。
真上にあの頭がある位置に滑り込んで、右手の銃の弾丸が切れるまで、真下から撃ち込んだ。
長い年月を経て脆くなっているのか、弾丸を受けた部分の装甲がぱらぱらと崩れた。
途端。首がぐるりと下を向いた。骨組みだけの足と足の間から、赤いセンサーが瞬きをするように明滅して、カイナを見下ろした。
体を捩って、相手の体の下から転がりだす。先程までいた場所に、レーザーの洗礼が落ちたのと、それはほぼ同時だった。
弾切れの銃身をホルスターに埋めた。どうすればいい。
とにかく間合いを、と思った瞬間だった。目にも留まらぬ速さで銀色が迫り、腹部に硬いものが叩きつけられた。受け止めきれず、そのまま後方の壁に叩きつけられた。
8本もある足のひとつが、腹部に蹴りを入れてくれたらしい。
「ゲホッ……!」
咳き込むと、胃液に血が混ざる。背中を強く叩きつけたせいで、体が麻痺したように動かない。意識がふらりふらりと体から離れようとする。
ガシャ、ガシャと耳障りな音を立てて、機械蜘蛛がこちらに近づいてくる。
身を起こそうと動くと、腹部に激痛が走った。
(肋……)
咄嗟に押さえたあたりは肋骨だった。押さえただけで痛い。
肋骨が折れたときは、むやみに動くと内臓に刺さる。愕然とするカイナの上に、影がかかった。
見上げると、90度に曲がった長い鋼鉄の足が真上。
「ちょっと、冗談じゃないわよ―――!」
人間心底追い詰められたときは、何故か笑ってしまうもんだ。
(くっそー、どうにでもなれっ……!)
ガシャン、と落ちてくる足を、体を右に転がして回避した。突き刺すような痛みが左胸を圧迫する。
先程までいた場所には、蜘蛛の足がめり込んでいた。壁と床がたわんでいる。
左腕で胸を庇いながら、よろめくように立ち上がった。ぐらりと強い眩暈。
一瞬、意識が遠退いた次の瞬間。今度は背中から。
「うわぁぁッ―――!」
あの蹴りが入った。
吹っ飛ばされ、少し離れた床にべちゃりと崩れ落ちる。すぐに体勢を立て直そうと上半身を起こそうとして、挫折した。
床に突っ張った右腕は、力が入らず小刻みにふるふると震えた。
何とか上半身だけを床から引き剥がして、左手でアバラのあたりを押さえ、うな垂れる。
頭をかち割るような頭痛と、体全体を包んでいる熱。気持ち悪い汗が体中から噴き出して、意識が何度も遠退いた。
頭が重い。今すぐにも額が床と触れ合いそうになっている。
音が遠退くのは、あまりいいことじゃない。それでも、近づいてくるはずのあいつの足音が、よく聞こえない。
(死ぬ、かな)
そんなことを思ったのは、生まれて初めてだ。
死ぬかもしれない。
そう思った瞬間、体から少しだけ痛みが消えた。すっと、遠退きかけていた意識が冴える。
生きたいと思うから、こんなにも痛い。生への執着を捨てたら、きっと一瞬で。
楽になる。
ぼんやりと、鉛色の床を見下ろして、思ったのだ。
そう。諦めればすぐに、楽になるのかもしれない。
*
―――お前、名前をいう気がないんなら、勝手につけるぞ、いいか。
厳密に言えば、捨て子ではなかった。
アル中で、酒を飲んで乱暴を振るうばかりの父親から、母とふたりで逃げて。
途中で母が、倒れたのだ。
地面にうつぶせた背中には、ナイフが刺さっていたと思う。
そのまま母は動かなくなった。
あとで聞いた話だけれど、倒れたままで動かない母親の横で、ずっとその体をゆすっていたらしい。
その場を通りかかった男が、ひょいっと小さな体を抱え上げて、すぐ傍の建物に入っていった。
母が、教会のすぐ傍で倒れた意味など、そのときは知らなかったけれど。
運び込まれたその教会で、16まで育てられた。
恐怖でしばらく口が聞けなくなっていた4つの少女に、その男は「カイナ」という名前を付けた。
それまでの名前は、覚えているけど、その日以来一度も使っていない。怒鳴られた覚えしかない名前だったからだ。その名前で呼ばれると、体が竦むのだ。反射的に。
それにしても。あんまり響き、良くない名前だなと思った。
しばらくして失語症も治って、その男に憤然と抗議したことを覚えている。
もっと、可愛い名前にしてくれればよかったのに。思えばそれは、ただの我儘で、ただの甘えだったかもしれない。
その男は少し、困ったように笑ったあと、分厚い本を手渡した。古代語の辞典だった。
引いてみな、とその男は言う。
お前の名前は、ちゃんと意味を持ってる。嫌なら、自分の好きに名乗ればいいさ。
両手にずっしりとくる、辞書の重み。辞書を引いたその日から、文句を言うのはやめた。
立ち回りや、遺跡の知識。ハッキングの仕方。全てを教えてくれたのはその男だ。
自由気ままに大陸を渡り歩いていたから、滅多に会うことはなかったけど。
いつだってまた会えると思っていた。
咳き込むと、口の中に鉄の味が広がった。体中が、今にもばらばらになりそうなぐらい痛い。
ぎしぎしと軋む。
―――死んでは駄目だよカイナ。
16年間暮らしてきた教会を出たのは、深夜だった。
別れを言う気にはなれなくて、皆が寝静まった時間を見計らったつもりなのに。
16年間、血の繋がらない少女を本当の娘のように育ててくれたその教会の神父は、図ったように現れて。
若い頃に扱っていたという古式銃を二丁、手渡して言うのだ。
―――ここは君の家だ。帰っておいで。必ず、これを僕に、返しに来るんだよ。
ねぇ神父。
あたし、あいつを一発殴ってやりたいんだ。
絶対どこかで、連絡入れるの面倒くさいとか言って、遺跡発掘してるに違いないんだもん。
こっちの心配なんて、全然気付いてないに決まってるんだ。
だから一発、殴りに行くんだ。それだけだよ。
すぐに帰ってくるよ。神父も、クレアママも、ロビンも、あたしの。
大好きな家族だから。
必ず帰る。
だから、神父の苗字をちょうだい。あたしに名乗らせて。
あいつの苗字も、名乗ってやるの。
あたしはふたりの、娘だから。
「馬ッ鹿みたい……」
急に痛みが戻ってきた。周囲の音がクリアになる。
すぐ背後まで、機械の足音は迫っていた。
腹も背中も頭も痛い。体は重くてどうしようもない。
「死んだら楽に……なんて。らしくない。怒られる、よね」
"もう一度顔を合わせたときに、自分が恥ずかしくないか。いつだって省みる"。
そう、ジークに言ったばかりだ。
このままじゃ、笑われる。
「痛み上等!!」
ぐっと力を入れて、床から跳ね起きた。途端に走る激痛を歯を食いしばって我慢して、振り返る。
背後に赤い機械の瞳が迫っていた。
ざっとその全長を見回す。
8本の足は、骨組みだけで、その動きを統制している部分は、おそらくあの頭だけだ。
機械は、エネルギーがある限り動き続ける。が、統制する部分が壊れたらただの巨大な鉄屑だ。
人間と同じ。急所さえ見定めれば後は―――。
「随分好き放題やってくれたじゃないの、うら若き乙女にさぁ」
金色の銃をホルスターから抜き出し、シリンダーを開ける。中に入っているものを全て、ばらばらと床に撒いた。
カンカン、と金属同士がぶつかり合って跳ね返る音。
ジャケットの内側から、煙草の箱のようなプラスチックのケースを取り出した。その中に収まっている弾丸を、素早く充填する。
赤いセンサーがこちらを睨みつけて、何度も細かく明滅する。
「この弾、特注で高価いんだよ、ばァか」
何故だかおかしくて、笑ってしまった。ランナーズハイと同じような症状に陥っているのかもしれない。
ハイになっている。
空になったプラスチックのケースを放る。それを合図にするように、カイナは地面を蹴った。
狙いを定めて、踏みつけようと落ちてくる足をかわし、逆にそれに飛びついた。よじ登って、頭のある位置まで辿り着く。
すり鉢状の機関の目の前に立って、細かく明滅する赤いセンサーの表面に、銃口を押し当てた。
「おやすみ、バケモノ」
8.
「来るな!」
叫ばれて、ジークは立ち竦む。
「庇ってやれないから、来ないで」
カイナは、化け物のような巨大な機械と向き合ったまま、言った。
自分が駆け寄ったところで、確実に足手まといになるのは目に見えていた。
どんなに意地を張ってみても、自分では戦力にはならない。突っ込んでいくのは、馬鹿のすることだ。
ジークは口唇を噛んで、拳を強く握った。
「いいのか?」
高みから見下ろした声だ。ジークはハッと、そちらを見た。
余裕たっぷりに腕組みなどかまして、そこに奴がいる。
「貴様……!」
「まさかお前にここで会うとは思わなかったよ」
全身の血が、一気に体に駆け上ったように思えた。
気付けば一気に間合いをつめ、その男の胸倉を掴み上げていた。
上等なシャツを握り締める指先が、小刻みに震えている。それに、指輪の下がった鎖が触れた。
「こんなものを、盾にして……!」
指先が震えるのは、恐れでも悲しみでもない。
どうしようもない怒りだ。
「馬鹿みたいだ……」
腹の底から笑いが込み上げてきた。何故か可笑しくなったのだ。滑稽で。
どうしようもない。咽喉が渇いた笑いに鳴った。口元はきっと、卑しく歪んでいるんだろう。
目の前で、金のリングが揺れている。
「俺は、あんたの名前を噂で聞いたときも、情報を集めているときも、酒場で賞金首のリストを見せられたときも、ここに来るまでもずっと……」
激しい雨音が聞こえてくる。ここは地下で、そんなものが聞こえるはずもないし。
実際雨など降っていないのだ。幻聴。あの晩の。
空を白く灼く雷光。
「ずっと、馬鹿みたいに、信じていたんだ」
噂を耳にしたその日に、屋敷の武器庫から銃を盗み、家を飛び出した。
体を支配していたのは憎しみだ。裏切られた悲しみだ。
殺してやると、呪いのように繰り返していた。
それでも。
「あんたじゃないかもしれないって。そんな馬鹿みたいなこと、ずっと思ってたのに―――」
甘えたことを、思っていた。それこそ、出来すぎた物語を期待していた。
"全ては間違い。人違い"。
そんな安っぽいシナリオを、期待していたんだ。
「どうしてだよ……。兄さん……!」
頤を持ち上げて、その顔を見上げた。
見紛うことのない、血を分けた兄の顔を。
権力の失墜と共に、貴族の領地なども没収され始めた。
ヴェストニア家も例外ではなく、大きく傾き始める。
日毎に減ってゆく使用人の数。退廃してゆく庭。
必死に立て直そうと奔走する父に、貴族育ちでおろおろする母。
そんな最中、嫡男である兄は、残された僅かな財産を持って、屋敷から消えた。
家を立て直す方法を探してくる。そんな安っぽい言い訳を信じてしまうほど、兄を信頼していた。
それなのに、聞こえてきたのは窃盗団の噂だ。
貴族ばかりを狙った略奪と、殺人と、放火。その首領の名が、ロイロット・ヴェストニアというのだと。
貴族出の男だと。
激しい憎悪を抱いた。それと同時に、悲しかった。
信じていたからだ。カイナの言うように。幼い記憶を何度もひっくり返しては、それに浸って。
信じていたかったからだ。
「屋敷の外へ出てから気がついた」
間近で見ると、兄の顔は少しやつれたような気がする。
その口唇が、動いた。
「理想論や、正論だけでは、どうにもならないってことに」
はじめはそう、手段だった。力を、資金を、得なければならなかった。
正当な手段では、たかが知れている。
しかしここに来て、あの古代の機械を見つけ、起動させたときから変わったのだ。
力を得れば、行使したくなる。
「囲われた庭や世界で、人付き合いばかりに頭を悩ませているのは、下らないと思わないか。これからもっとこの世界は崩れてゆく。どのみち、家は潰れるのさ。―――どうだジーク、俺の元で働かないか」
「ふざけるなよ……!」
涙声になった。兄が何を言っているのか分からなくなったのだ。
彼は嫡男で、家の再興には一番熱心だったはずなのに。
「家が潰れるなら仕方ない、でもそれで俺たちが死ぬわけじゃないんだ! 父上や母上はどうすればいい、あの人たちは、生まれたときから貴族の世界で生きてきた。誰かが養ってやらなきゃいけないんだ。それをこんな、汚い金で養うのかよ!」
両手で掴んだ胸倉を、力なく前後にゆすった。駄々をこねるように。そのたびに鎖が鳴り、指輪が揺れる。
「お前ならそう言うと思ったよ、ジーク」
ロイロットはうっすらと苦笑した。何かまぶしいものを見るように、その目を細めた。
その笑顔が昔の兄のように思えて、ジークは不意に、胸倉を掴む指の力を抜いた。
また、甘い幻想に縋りそうになる。そう、安っぽいドラマを。戻ってきてくれ、頼むから。今ならまだ……。
その幻想を無残に打ち破って、何か硬いものが額に押し付けられた。
黒光りする、人を殺す道具。
銃口が額に押し付けられていた。
「兄さん……ッ!」
「もう、俺はあの頃とは違う。世界は力を持つか持たないか、二つに一つだ。他はない」
―――相手を捜し当てたとき、もしも、その相手が変わっていたら……。自分の知っているそいつじゃ無くなっていたら、お前はどうする。
―――本当に救えないぐらいだったら、これで、撃つかもしれない。
幻想は所詮、幻想でしかないのか。
あまい夢を抱いている方が、傷つくのか。
どちらにしろ、もう全てが遅かったのかもしれない。
ジークの右手が、ロイロットの胸倉から離れた。
やけにゆっくりと自分のホルスターを探る。硬い感触を抜き取った。
屋敷から持ち出してきたピストルを、兄の左胸に押し当てた。
「俺は……、あんたを許さない」
襟首から左手も離し、構えるピストルに添える。
「震えてるぞ」
左胸に押し当てられた銃口が小刻みに震えるのを直に感じて、ロイロットは咽喉の奥で笑う。
ぎっと兄を睨む視界が歪んだ。畜生、畜生―――。
「馬鹿じゃない? 当たり前でしょ……」
かすれた声が、文字通り割って入った。二人の間に別な何かが体を滑り込ませ、引き離す。
ジークは、腹部に硬い感触を感じた。見下ろすと、金色のピストルの銃口が、腹部に埋まっている。
そのピストルを握る、白い指。黒のジャケット、濃紺の髪。
その少女は、二人の間に割って入り、兄弟双方の腹に自分の二丁拳銃を押し当てていた。
「カイナ……」
思わずジークは少女の名前を呼んでいた。
「大事なもんに銃を向けるんだ……。怖いに決まってんでしょ」
がらがらにかすれた声に、荒い呼吸が混ざる。カイナの声は、そんな声だった。
よく見ると、銃を握る指先が、ところどころ赤く汚れている。服も裂けたり千切れたりしている部分があり、ショートパンツから剥き出しの足も、何箇所か切っているようだった。白い肌に赤い色が滲んでいる。
満身創痍だ。
「まさか、あれを―――」
ロイロットは呆然と、ジークよりも向こうを見る。そこには、ぐしゃりと崩れた機械がもうもうと煙を上げていた。
「機械なんてね、急所を叩けば一発なのよ。残念だったね、あんたが手に入れた力ってのは、もうとっくにスクラップだよ」
下から上目遣いにロイロットを睨みつけながら、カイナは口元だけで笑った。
「それに、困るんだよねぇ、ターゲットが"お互い"で潰しあってもらっちゃ。あたしの食い扶持が消えるでしょ」
「お互い……」
カイナの言葉が飲み込めず、思わずジークは鸚鵡返しに呟いた。
「ジークフェルド・ヴェストニア」
すると、カイナは、ジークが一度も口にしたことのないフルネームを、呆気なくつぶやいて見せたのだ。
「お父上から、捜索願が出てる。だから、あんたに死んでもらっちゃ困るわけよ。……とりあえず、銃下ろしてくれる?」
言われて初めて、ジークはまだ拳銃を構えたままであることに気付いた。銃口が、カイナの右のこめかみ当たりに押し付けられ、細かく震えていた。
安全装置も外したままで、一歩間違えば誤射するところだったそれを、ゆっくりと下ろす。こめかみから硬い感触が離れたのを感じて、カイナは小さく「ありがと」と言った。
カイナも、ジークの腹部に押し当てていたピストルを下ろし、ホルスターにしまう。左腕をロイロットに突きつけたまま、下から睨み上げた。
「ゲームは終わりだ。覚悟決めな」
するとロイロットは、ふっと口元を緩めた。
「分かったよ、C.C.C.。さすがにその名前は伊達じゃない。ここは抵抗せずに大人しく……」
ロイロットは右手からするりとピストルを落とす。かちゃんと音を立てて、からからと少し離れたところに転がった。
そして、その空いた手の指先に、首から下がった鎖を絡めて見せたのだ。
がつッ、と。
鈍い音が鳴ったのはその瞬間だった。
少女が右の拳で、上等なスーツを着込んだ男の頬を殴り倒すその情景を、ジークはまるでスローモーションのように見た。
「言ったよね」
ジークには、カイナの背中と、どさりとそのまま仰向けに倒れたロイロットの驚愕の表情しか見えない。
しかし少女の背中は明らかに、殺気のようなものを漂わせていた。憤りはもう、越えていた。
「腐った言葉なんて、聞きたくないって」
重そうに体を引きずって、カイナはロイロットとの間合いを詰めた。
情けなく転がっている男の腹に、右膝を乗せてのしかかった。
人を殴ったあと特有の痺れを残す右手を、数回振ってから、男の胸倉を掴んで上半身を引き起こす。
「あの頃と違うなんて豪語してんなら、家紋を盾になんか使うんじゃないよ。覚悟が中途半端なんじゃないの?」
息が触れ合うぐらい近くまで貴族育ちの男の顔を引き上げて、口唇を酷薄に歪めて笑う。
「―――どんな思いか」
漆黒の瞳が、まばたきもせずロイロットを見据える。
「想像できる? あったかい家から、人を殺す銃ひとつ持って飛び出して、やったこともない賞金稼ぎなんかになって、ひとりでさ。ここまで来た奴の気持ちが。どんな思いで、あんたを探しに来たのか―――」
少女の口元は笑っているのに、襟首を掴む指先は細かく震えていた。握りつぶすような強さ。
「あんたの手下になるため? 殺すため? そんなわけないだろ」
「カイナ……」
思わずその背中に声をかけた。けれど、それ以上言葉が見つからずに、開いた口を閉じてしまった。
視界が曇る。
「あんたを、信じて探しに来たんだろ。そんな弟に、よくそんなこと言えたもんだね。『貴族は死刑に出来ない』? 上等だね。"DEAD or ALIVE"の意味を教えてやるよ。"生死は問わない"。裁判に引きずり出す前なら、どうとでも出来るってことさ。―――ジーク」
肩越しに振り返って、カイナはジークを呼んだ。
その声音が冷たくて、ジークは思わず返事も出来ず、肩を震わせてしまう。
こちらを振り向いたカイナの顔は青白く、ひどく疲れ切っていた。口の端を切ったらしく、顎に向かって血が伝ったあとがある。
瞳だけだ。爛と、生気を漂わせて輝いているのは。
野生のけだもののような瞳でジークを見据え、カイナは残虐に笑った。ロイロットの腹に埋めた右膝を退けて、立ち上がる。
「あたしが狙った首だけど、あんたにやる。好きにしな」
全身が冷水を浴びせ掛けられたようにすうっと冷えていった。
おいでよ。遊びに招かれるような声で呼ばれて、よろけるように一歩を踏み出した。
前のめりになるから、また一歩。また一歩。踏み出す。
気付けばすぐ傍で兄を見下ろしていた。
ほら、とカイナがロイロットの上から退く。
ジークは、固まったような右手に握ったままの銃口を、兄に向けた。
腕が、重い。
「ジーク……」
情けない声で、兄が下から呼んだ。
遠乗りに出かけたことを思い出した。
もうどのぐらい前のことなのかなんて、覚えてもいない。ただ幼かった。
ふたりで一頭の馬に乗っていた。共も連れずに、お忍びだった。
森の中を馬に揺られていたとき、突然馬が暴れだした。放り出され、馬は走り去り、ここがどこかも分からないまま、夜が来た。
泣くなよ。そういう兄の方が、涙声で、震えていた。
守ってやるから、大丈夫だから。ジーク。
自分に言い聞かせるような声。夜が明けて、屋敷の人間が探しに来るまで、繋いだ手と手。
こんなときに。こんなときに思い出すなんて。
目のあたりが急に熱くなった。
先程カイナがしたように、兄にのしかかった。銃口を額に押し付ける。あと少しだ。引き金を引けば終わりだ。
何もかも。
「ジーク、撃たないよな……」
裏返り、ところどころかすれた兄の声が、すぐ傍で言った。懇願する響きで。
「お前は撃たないよな」
込み上げたものを押さえきれずに、唐突に涙が溢れた。何もかもが悔しくて仕方がない。
あんたはそういうことをいう人間じゃなかった。
ジークは、ピストルを床に転がした。空いた手で、兄の胸元を弄り、掴んだ鎖を強く引いた。
ぷちりと音を立てて、鎖が千切れる。掌の中に、堅い指輪の感触があった。
「いいの?」
指輪をむしりとっただけで立ち上がったジークに、すぐ傍らで、カイナが訊いた。
「……これを持ってないあいつなんか、俺は知らない」
ジークは、掌におさめた指輪を見た。自分のものと同じつくりのリングだ。重みを感じるのは、それが純金で出来ているからだろうか、それとも……。
そう、と頷いて、カイナは少し笑った。
9.
ぎざぎざと切り取られた青空が、まぶしくて仕方がない。
あとは、専用の運び屋が片付けてくれるからと、カイナはあの蠍男の話をした。
適当に聞き流しながら、まぶしさに負けているふりをして細かくまばたきを繰り返す。
きつく握った掌の中の、指輪がやけに重くてたまらないのだ。
入り口近くでは、いつのまにか意識を取り戻していたらしい、あの見張りの男が猿轡を嵌められながらも喚いていた。が、カイナは笑いながら「じゃぁね〜」と、すたすたと廃墟を後にしてしまう。
廃教会を出たところで、足が止まった。吹き付ける風が少しだけ冷たい。もうすぐ日が暮れるのだろう。
今までいた場所と、この吹きさらしの大地とがあまりにかけ離れすぎていて、本当に自分は先程まで地下の遺跡で兄と相対していたのだろうかと思う。
夢にしてしまいたい気持ちもあるのに、掌の中にある指輪が、そうさせてくれないのだ。
きつく握った掌を開いた瞬間、視界がぼやけた。
そこには確かに指輪が。
くっと一度、咽喉が嗚咽で鳴ったら、もう仕方がなかった。
どこか、体の一部が壊れたんじゃないだろうか。たとえば、目が。
今までこんなに自然に、ばたばたと、涙が落ちたことなんてなかった。
見下ろす掌に、その中にある指輪に、容赦なく落ちてゆく雫が熱い。
噛み殺しきれない嗚咽が、咽喉を中心に体中にその震えを伝えた。
ふと、すぐ傍に人の気配を感じた。顔を上げるよりも先に、ぎゅうっときつく、抱きすくめられた自分に気付く。
身長の差の問題で、抱きつかれた、といった方がいいのかもしれないが。
「疲れたね。……お疲れ様」
疲れと、眠気すら絡ませた女の声が、たったそれだけを。
慰めではないのに。ひどく沁みた。
ジークは、少女の肩に頭を預けて、しばらく声を殺して泣いた。
*
―――引いてみな。お前の名前には、ちゃんと意味があるんだ。
そう言われて、手渡された古代語の辞典。
「カイナ」という言葉を引き当てたその瞬間を、きっとあたしは一生忘れないだろう。
カイナは「腕」。
両の腕は、受け止めるためにある。掌は、何を傷つけても。この腕は。
悲しみや苦しみだけではなく、幸せや愛しさを。
そうだよね。貴方があたしにつけてくれた名前は、そういう意味だよね。
抱き締めるためにある。
こんなふうに。
この腕は、そのために。
「家に、戻るよ。大変だろうから……」
しばらくして、ジークはその体勢のままで口を開いた。
くぐもった声が耳に。口唇の振動が肩に届く。
「なんだ。もうやめちゃうんだ、賞金稼ぎ。新米を鍛えるのも楽しみのひとつなのにな」
笑うと、口の端が痛んだ。今更ながら、鉄の味がする。そういえば、肋骨も痛い。
「もう懲りた」
肩に額を押し付けたまま、ジークが笑った。
「軟弱モノ」
馬鹿にして、カイナも笑った。
「あんたに、頼みがあるんだ……」
ようやっとカイナの肩から頭を持ち上げて、ジークが少し赤い瞳で言った。
「もうフラフラなんだ。あんたが手を貸してくれたら、聞いてあげてもいいよ」
ははは、と笑うと足がふらついた。肋骨ね、多分折れてるんだ。
笑いながら言うと、ジークは信じられない、と顔に書いて呆然とカイナを見た。
「捕まれよ」
呆れたふうに溜息を吐き出して、ジークは左腕を差し出した。
ありがとう、伯爵令息。
10.
「じゃあ、ここにサインをして」
ぼんやりとした灯りはいつものこと。からからと回る、ファンの音も。もう既に聞き慣れたものだ。
綺麗に磨き上げられたカウンターの上に、一枚の紙が乗っている。賞金を受け取るために必要な書類のひとつだ。
その、つらつらと長い文章の一番下。サインの欄を指差して、マスターは、顔中にバンソウコウやら湿布やらをありったけ貼り、体のあちこちに包帯を絡ませた少女に言った。
「はーい」
とても素直に返事をして、カイナはその欄にきれいに自分の名前を綴った。
字は綺麗に書きなさい。育ててくれた神父の教育の賜物だろう。
「お疲れ賞金稼ぎ」
自分の名前の綴りの出来栄えに満足しているカイナの隣に、蠍の刺青を入れた男が座った。
「お疲れ運び屋」
両手で持ったその紙を顔の目の前に持ち上げて、まじまじと見つめながらカイナは返した。相手のことなど、足音ですぐ分かっていた。
「お、こりゃなんだ?」
蠍男は座るなり、カウンターに置かれている鎖と指輪を見た。
「預かりもの」
カイナは、その指輪に伸ばした男の手をパシリと叩いて、自分の手にそれを乗せた。
「預かりものって、鎖切れてんじゃねぇか」
「いいの。鎖が切れてるから、意味があるんだよ」
相変らず分からねぇこと言うぜ。嘆息して、男はマスターに酒を頼んだ。
にしても満身創痍だな、カイナ。
でしょ!? アバラ一本折っちゃったよ〜。
マジかよ? 口の端も切ったのか? 可哀相に。
まぁねぇ、こういう稼業してれば仕方ないよねー。
まぁなぁ。傷が絶えない稼業ではあるがなぁ。
天井の光を反射して、手の中のリングが光った。
―――これ、兄さんに返しておいてくれないか。
馬鹿な奴。とことん優しくて、嫌いになれないなぁ。苦笑すると、切った口唇の端がぴりりと痛んだ。
この十分な重みは純金で、真ん中にはまっている石はエメラルドだろう。貴族って奴はすごい人種だな。
カイナは指輪をカウンターの上に乗せた。
もう一度まじまじと、サインをした自分の名前を見る。
Caina.Ciragi.Cresta。
実に素敵な名前だ、と心の中で褒め称えた。
カウンターに両腕を敷いて、その上に頬を押し付ける。ぼんやりとした灯りと周囲の喧騒が心地いい。
気がつけば体がずっしりと重くなっていた。目蓋も、重い。
「おいマスター、こいつ寝てるぞ」
嫌に静かだと思って蠍男が隣を見ると、カイナは自分の腕を枕に静かな寝息を立てていた。
「仕方ないんじゃないのかな。今まで起きていたほうが不思議だよ。肋骨だけでなく、色々なところに打撲擦り傷切り傷があるんだし」
「おーおー、害のない面しやがって」
蠍男がカイナの頬を上からつつくものの、一向に目が覚める気配がない。
こうして眠っていると、18とは思えないほどにあどけなく、愛らしい顔だ。
「奥の部屋に運んであげるといい。しっかりしたベッドで眠ったほうがいいからね」
しょうがねぇなぁ、と苦笑して、蠍男はカイナを抱き上げた。
<了>