カルチェ・ラタン
the New Testament
【完結編】





「どういうつもりだ」
 異端者たちの姿が丘の上から消えると、ラジエルは銃口を下ろした。
 目の前の少女を撃つ気には、どうしてもなれなかった。
 少女はこわばった顔で、ラジエルを見つめ返す。
「私、あなたについて、色々と聞いたんです。ある人から」
 リョウコも広げていた腕を下げる。
 四方から、軍人たちの視線を感じる。
 串刺しにされているような気がした。
「でも、教皇庁と、あの深夜の教会であなたに会って、何もかも分からなくなってしまったんです」
 喧騒はどこか遠い。
 ここだけ、様々なものから隔絶されて、取り残されたような気がした。
「どれが、本当のあなたなんですか」
 まるで見定めようとするかのように、リョウコはわずかにその赤い瞳を細めた。
「あなたは一体誰なんですか?」
 伝え聞いた話と、出会った姿とはあまりに違いが多く。
 出会うたびにその差に戸惑う。
 先程無慈悲に部下を撃ち殺したときもそうだ。
 毎度違う表情に出会う。

 答えずに、ラジエルは少女の顔を見つめ返した。
 その青く澄んだ瞳には、憂いのようなものが浮かんでいる。
 どこか、痛みをこらえるような色にも見えた。
「知りたいんです、私。あなたのことが」
 不意に、涙腺が緩んだ。
 悲しいわけでもなんでもなかった。
 ただ、あまりに高揚していたのかもしれない。

「あなたのことが知りたい。―――傍に置いてください」

 その高揚はあまりに、愛を告げるのに似ている。
 歯の根が鳴るのを、ぐっと奥歯を噛み締めて耐える。
 ただ、間を風が流れた。
 沈黙に、必死に耐える。力を抜いたらそのままそこにへたりこんでしまうかもしれなかった。
 ラジエルは、しばらくじっと、少女の顔を見つめていたが、やがてばさりとその聖服の裾を翻して、背を向けた。


「ついておいで」
 背にした少女にただ、それとだけ告げた。


            *


 カルチェ・ラタンのはずれにある森林の奥に、少しだけ開けた場所があった。
 駆け通しでそこにたどり着いた頃には、さすがに息が上がっている。運動不足は否めない。
 共に走り、時には立ちふさがった兵士をその腕一本で叩き伏せた少女は息ひとつ乱していないというのに。
「……サイジョウさん」
 わずかに浮いた鼻のあたりの汗を拭いながら、力ない声でモエが呼んだ。
「どうしてですか……?」
 声は小刻みに震えていた。
 背後を振り返ると、今にも泣きそうに、目を潤ませている。
「……彼女との、約束だったんだ」
 とがめるようなモエの視線に苦笑しつつ、サイジョウは告げた。

 もしも、別の生き方を決めたら。
 ここを振り返らずに行けと。
 約束していたこと。

「でも、あそこに置き去りにしたら、危ないじゃないですかっ……!」
 言葉の隙間から、嗚咽がこぼれて、とうとう片方の瞳から涙が溢れた。
 それを強引に拭って、モエは俯く。
 それ以上は何も言わずに、手の甲で目のあたりを抑えた。


「君も、選んでいいんだよ」
 やさしい声を、サイジョウはかけた。
 モエにではなかった。
 ぱきりと枝を踏む音が背後から聞こえて、モエは顔を上げて振り返る。
 見慣れた姿が、そこにあった。
「ファンく……」
 無事に再び会えたことを喜んで、モエが名を呼びかけたが、その明らかな気配の違いに口を噤む。
「さっきは助かったよ。相変わらずナイスフォローだったね」
 石つぶてのような爆弾を投げ込んだのは、サイジョウの指示だった。
 労う声に答えもせずに、ファンは無言でモエの横を横切り、サイジョウに近づいた。
 目の前に立つと、右手を持ち上げ、言葉もなしにサイジョウの胸倉を掴んだ。
「ファンくん!?」
「どういうつもりだったんだ」
 モエが知っている、おっとりとした口調ではなかった。どこか高圧的な、上から押しつぶすような声音。
「どういうつもりで俺を、傍に置いたんだ」
 サイジョウの服の襟を掴む指先は、小刻みに震えている。
 その震えは、怒り故なのだろうか?
 サイジョウは黙って、ファンを見た。
 その瞳には、何か滾るようなものがあった。烈しい、怒りかもしれない。
「あんたのデータを利用してHGを作らせたのは俺だ。それを利用して、人々を汚染してコントロールしようとすらした。あんなにあんたが自分の作り出した物を憎んでいたのなら何で―――!」
 答えないサイジョウに焦れて、ファンはその掴んだ胸倉を強く揺すった。
「何で傍に置いておけたんだ!!」
 悲痛な叫びが、静まり返った森に響き渡る。
 絶叫に息を乱して、ファンは、サイジョウの襟元を掴んだままでうなだれた。
「……殺す、つもりだったのか?」
 囁きのように小さな声が、俯いた口からこぼれた。
「記憶を無くした俺を手元において、殺す、つもりだったのか?」
 未だ落ち着かない荒い息で、ファンは問い詰める。
 その浅い呼吸は、こみ上げる嗚咽を押し流そうとしているようにも思えた。
「……はじめは、そのつもりだった」
 穏やかに、サイジョウは告げた。
 弾かれたようにファンが顔を上げる。
「はじめは君を、殺したかった。でも、出来はしなかったんだ」
 憂うような、かなしみを織り交ぜた視線に見つめ返されて、ファンは息を飲んだ。
 掴んだ胸倉を、突き飛ばすように離す。
「……もう、貴方の傍には、いられない」
 刻み付けるように短く言葉を区切って、ファンは宣告した。
「そうか」
 たやすく、サイジョウは頷いた。
 ファンは痛みをこらえるように顔をゆがめた。口を開いて、躊躇って、また閉じた。
 迷いを断ち切るように、勢いをつけて踵を返す。
 そしてその先で。
 愕然と目を見開いて、自分を見つめる女の顔と出会った。

「……うそ。何言ってるの、ファンくん」
 口の端だけを笑うように吊り上げて、モエがうめいた。
「ねぇ、ふたりして、どうしたの? 冗談……」
 モエの声は、途中でこみ上げた嗚咽にかき消された。
 彼女だって気付いている。これが芝居などではないことなど。
 必死にごまかそうと、あがいているだけだ。
 ファンは目を伏せて、歩を運んだ。モエのすぐ傍を、何も言わずに通り過ぎようとする。
「うそでしょ……ねぇ!」
 その腕を、モエのそれが掴んだ。縋りつくように。
「もう一緒にいられないなんて、そんなのっ……」
 その大きな瞳から、はらはらと涙が落ちる。
「ねぇ、ファンくん、どうして?」
「モエ……」
「どうして、一緒にいられないの……?」

 今まであんなに、傍に、いたのに。

「ごめん」
 何一つ説明せずに、ファンは静かに、しかししっかりとモエの腕を振り払った。
「今まで、ありがとう。―――さよなら」
 振り払われた手を下ろすことも出来ないままに、モエは愕然と、遠のく背を見つめた。

「サイジョウさんっ……!」
 涙に濡れた声で、名を叫びながら振り返る。
 相変わらずそこに、その男の姿はあった。立ち尽くしたまま。
「どうして引き止めないの、なんでなにも言ってくれないのよぉっ……!」
 口元を覆って、モエはその場にずるりと座り込んだ。
 サイジョウはただ、見慣れた背が消えていった先を見ていた。


            *


 落ち合う予定の森林の傍に来るまで、ふたりは無言だった。
「なんで……」
 足元の土と葉とを踏みながら、ようやくレイが口を開いた。
「言うな」
 レイが言わんとしていることを察して、少し先を歩くハルトが言葉を挟み込む。
「……だって!」
「じゃあ俺が!」
 振り返りざま、ハルトは右手でレイの胸倉を掴んだ。
「俺が……納得してるとでも思ってんのかよ……」
 ハルトのその赤い瞳には憤りが滲んでいる。
 しかしその憤りは、他者に向けられたものではないような気がした。
 己にか、それともどうしようもない事象に対してか。
「でもあれじゃ、リョウコちゃんを盾にして逃げたみたいじゃないか」
 いくら彼女がそれを望んでいたとしても。
 見捨てたのとなにが違う。
「そんなこと俺だって……」
 分かってんだよ、と吐き捨てて、ハルトはレイの胸倉から右腕を離した。
 お互いに気まずくなって、口を噤む。
 やりきれなさだけが、ただ残っている。

「あれ」
 しばらくその場に立ち尽くしたところで、レイが声を漏らした。
 何かを見つけたようなその響きに、ハルトもレイの目線を追ってそちらを見た。
「ファン……」
 その人影に目を留めて、ハルトが呼んだ。
 何かに急き立てられるかのように大股でこちらに歩いてくるのは、ファンに違いない。
 呼び声が聞こえたらしく、ファンはぴたりと足を止めて、俯かせていた顔を上げた。
 その瞳が驚きのようなものに見開かれるのに、違和感を覚える。
 しばらくまるで睨み据えるように二人を見たあと、ファンは再び足を運んだ。
 大股に歩を進めて、二人の傍を通り抜けようとする。
「お、おい、ファン!」
 違和感に突き動かされるままに、その腕をハルトが掴んだ。
「どうかした? なんだか……」
 雰囲気が荒れている、とも言えずにレイはそこで言葉を切った。
 視線を合わせようとはせずに、ファンは自分の腕を掴むハルトのそれを見つめた。
「もう、いいんです」
 ぼそりと呟いて、ファンはハルトの腕を振り払った。
「は?」
「もう、構わないでください」
 今度はその焦げ茶の瞳を、ハルトに合わせてきた。
 その瞳の生気のなさに、思わずハルトは息を飲んだ。
 黒目がちのその瞳が、こんなにも虚ろだったことがあっただろうか。
 声を無くすハルトには構わずに、ファンはその横を通り抜ける。
「ファンくん!」
 レイが声をかけても、もうその背中は振り返らなかった。
 ざっと深い緑を揺らして風が吹き抜ける頃には、その背中はもう見えなかった。






断章

 宵の口だった。
「ふむ。それで、研究所は」
「ほぼ全壊ということになります」
「……テロリストどもを捕まえられぬとは、正規軍も随分と腑抜けたのではないか」
 教皇庁の中でも最も奥まったその場所に、教皇ケルビーニ8世の執務室はある。
 富に肥えた体を椅子に静め、胸元に下がったロザリオの、金の鎖に指を絡めて、教皇は相対した女に冷酷な視線を送る。
「それに関しましては、弁解の仕様も……」
 背の高い女は、目を伏せてその咎めを受け止める。
「時にユダ、ラジエルが部下を撃ち殺したという噂は、誠か」
 わずかに卓上から身を乗り出して、教皇は下から女元帥の顔を覗き込んだ。
「……それは」
 もはやここまでその噂が行き届いているとは。
 研究所の始末を他のものに託し、すばやく報告に上がったというのに、さすがというべきか。どこか個別に情報網を持っているに違いなかった。
「申せ」
「は……」
 問い詰められ、ユダが重い口を開きかけたそのとき。
 俄かに部屋の外が騒がしくなった。
 怒声と、入り乱れる人の足音。
 大股に室内を横切って、ユダは執務室の扉を開け放った。
「何事だ!」
 鋭く、外の廊下に問う。
 一本にまっすぐ伸びたその廊下を、こちらに向かってくる影があった。
 制止する教皇庁の職員や正規軍の一般兵を押しのけて、まっすぐこの扉を目指しているらしい。
 いくら元帥とはいえ、教皇庁に上がるときは、一切の武装を解除している。したがって、帯剣はしていなかった。
 なにものかが乗り込んできたということは、素手で相手をせねばなるまい。
 目を凝らし、徐々に近づいてくる人影を見据えたユダは、その人影を確かめた瞬間、瞠目して体中に張り詰めた緊張を解いた。
「か、閣下! この者が勝手に……」
 突き進んでくる若者を押しとどめようとしているらしい兵士が、泣きそうな声で元帥に訴えた。
 が、ユダの視線はその哀れな兵ではなく、侵入者の若者に注がれている。
「お前……」
 戦闘服と呼んで差し支えのない、動きやすさに特化した服。首にはゴーグルを下げている。
 立てていたはずの焦げ茶の髪は乱れ、はらりと前髪が顔にこぼれていた。
 扉の目の前まできて、若者はユダを見た。
「思い出した」
 ただ、それだけを告げる。
「お、お前何処から入ってきた、この教皇庁はだなぁっ……」
 任務に忠実な一般兵が、金切り声を上げる。それを制したのは、あろうことか元帥の手だった。
「その手を離せ」
 大柄な女が、低い声音で忠告する。
「……は?」
 一体なにを言われたのか分からない。呆けた顔で、兵士は上官を見上げた。
「その手を離せと言った。"猊下"に触れるな」
 鋭く言えば、おずおずと兵士は手を離す。
「もう下がれ」
「し、しかし……」
「下がれ」
 語気を荒げてユダが言うと、ひっとわずかに咽喉を鳴らして、兵士は慌ててあとずさった。
 形ばかりの敬礼を残して、一目散に駆けてゆく。

「ユ、ユダ! 何事だ!」
 室内から、上ずった教皇の声が背中にかかる。
 その声を聞きながら、ユダは眼前に立つ若者の顔を覗き込んだ。
 すると、若者は無言のままユダを押しのけて、執務室の中に足を踏み入れる。
「お、お前……」
 室内から、あえぎのような教皇の声がこぼれてきた。


「お許しください」
 若者は、およそ教皇庁に似合わぬ姿のまま、教皇に詫びた。
「何も告げずに姿を消し、五年も沙汰のなかったことを、どうか」
「お、おお。お前……」
 教皇は、まろぶように椅子から下りると、その若者に近づいた。
「アザゼル、お前、今まで何処にいた……」
 おずおずと、教皇はその手で若者の腕に触れた。労わるように、撫で擦る。
「詳しくは、これからお話します。五年ものこと、長い話になります」
「そうだろう、とりあえずどこかに掛けるか」

「はい。遅くなりましたが、ただいま戻りました。―――父上」
 ファン―――アザゼル・ケルビーニはそう言って、わずかに父に微笑みかけて見せた。






ark 第二部 完




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