カルチェ・ラタン
the New Testament
【後編】
すべては砂上の楼閣だったのだろうか。
序
正午を告げる、聖ガイア教会の鐘が響き渡ってから。
カルチェ・ラタン市街はにわかに騒がしくなった。
工場区に立ち並ぶプレハブのひとつ。その窓際に寄って、リョウコは外を眺めた。
視界にひろがるのは、崩れかけたブロック塀や、どれも同じような形をした工場の建物。その煙突からあがる黒い煙ばかりだ。
さすがにここまで暴動の波は押し寄せてこないようだが、普段とは全く違う喧騒が風に乗って伝わってくる。
怒号、悲鳴、剣戟、爆発音。
サイジョウが言ったとおり、騒ぎは徐々に大きくなっているようだ。
粛清の妨害と研究所の破壊。
サイジョウが組み立てたプランはそのふたつ。
このふたつのプランは、お互いがお互いを補完する。
騒ぎが大きくなればなるほど、お互いに動きやすくなるのだと、そう言っていた。
―――正規軍は、きっちりと訓練を積んだ、統率の取れた軍隊だ。それを切り崩すには、極度の混乱しかない。
普段は小さな利害の不一致でも結託などしないレジスタンスグループに、裏から手を回したのも彼だ。
用意周到というのか、なんというのか。
今頃、皆はどこにいるのだろう?
寂れた工場区の景色を眺めるでもなしに見つめながら、ふと思う。
カルチェ・ラタンに入ってから、なんだかファミリー内の空気が微妙におかしくなり始めている。
表立って、険悪というわけではない。
なんと言えばいいのか、そうたとえば、戸惑いのようなものが。
ぎくしゃくと、上手くかみ合わないような不穏な空気が。
ずっと漂っているのだった。
もしかしたらそれは、大司教ラジエルに出会ったことをいまだに告げることの出来ない、自分の負い目かもしれない。
(また、いつもみたいに皆で、つまらないことばっかり話して、笑えるのかな)
あたりまえのことだったのに。
今までは、明日のことなんてあまり考えずにいられたのに。
こんな心配をすることなど、思いもせずにいた。
どこから何が違ってきたのかも分からない。
(認めてしまったからかもしれない)
他の誰にも代用できない、自分だけの居場所。
そして、周囲の人々に必要とされる理由。
切実にそれを求めていることに、気づいてしまったから。
「私が……変わったの、かな」
誰もいないがらんとした部屋に、独白が響いた。
返る言葉は、何もない。
穏やかな日々を、手放したいと思ったわけではない。
だけれども。
リョウコはゆっくりと息を吸い込んで、一瞬だけ呼吸を止める。
双眸を閉ざして、息を吐き出しながら、目を開いた。
埃のたまったガラスに、自分の赤い瞳が映っている。
何も持たずに、プレハブの扉を開けた。
もう、決めていた。
1.
濃密な血の臭いに噎(む)せそうになる。
思わず左腕を押さえて、石畳に膝をついた。
くそ、と口をついて悪態が零れ落ちる。
「中途半端に避けようとするから」
うなだれて、石畳を見つめていた視界に、黒い靴の先が割り込んだ。
「そんな怪我をするんですよ」
目の前に立ちはだかったその姿を見上げると、およそ感情のない漆黒の瞳が冷たくこちらを見下ろしている。
「だからってな、はいそうですか、って殺されてやると思ってんのか?」
未だ周囲に立ち込める、爆発の名残。立ち上る煙に噎せながら、ハルトは黒ずくめの小柄な男を見据えた。
狭い路地裏から退路を求めて、いつのまにか再び広場に戻ってきていた。
爆発の影響で大きくえぐれた石畳と、連鎖して発生した火災と、傷を負って倒れている人々。
その広場の隅で、左腕を押さえながら、地面に膝をついている。
目の前には、上から下まで黒い装束に身を包んだ男が、血に濡れたカタナを片手に立っていた。
「ああ、レイさん、でしたっけ? そこから動かないでくださいね。動いたら―――彼を斬ります」
東軍少佐と名乗ったトクヤマ・シノブは、顔だけを肩越し、後方に向けて、冷たく忠告する。
こちらに駆け寄ろうとでもしたのだろう。レイがぐっと息を詰める気配を背中に感じる。ああ、後ろ側にいたのか。さっきから見えなかったから心配していたけれども。
「正直、ここまで粘る人は珍しいんですけどね。辛くありませんか? そんなに色んなところに切り傷を作って」
先のほうだけ赤く濡れた刃を、すらりとハルトの咽喉元に突きつけて、トクヤマが訊いた。
「本気じゃねぇだろう、お前」
咽喉のすぐ傍に切っ先を感じながらも、ハルトは臆することなくトクヤマをねめつける。
確かに先程からトクヤマの振るうカタナを避けきれずに、体中にこまかい傷は負っているけれども。
生きていた。
トクヤマは、わずかに眉を持ち上げることで応じる。
「トクヤマって言えば、ロウエン城主、ギルドの総元締め。暗殺秘術の大元。その直系の実力が、こんなぬるいもんか」
「あはは、随分と高く買ってくれてるんですね。困ったなぁ」
朗らかな声で、トクヤマが笑った。
「僕はおちこぼれだったから、ロウエンを出たんですよ」
「ばっさりやれただろうが、殺すつもりならよ」
肩で息を繰り返しながらも、その赤い瞳は野生の爛とした輝きを失ってはいなかった。
トクヤマは、知らず知らずのうちに口元をほころばせていた。
上官たちが彼らをどうしても気にかけてしまう理由が、わかったような気がする。
困ったことに、上官たちと"好みのタイプ"は結構似ているのだ。
面白いな。
「貴方がたを少し、甘く見ていたみたいだ」
確かに力の出し惜しみをしていた。
けれど普段なら、このぐらいの力配分で苦労はしないのだが。
相対したふたりは別に、戦闘に対してプロフェッショナルというわけではないようだ。
動きが雑で、無駄が多い。
それでも上手くしとめられないのは、おそらく執念のなせる技だ。
生に縋る執念は、時としてなによりも手ごわい。
戸惑っているのは、トクヤマ本人だったかもしれない。
人を殺すことに、良心の呵責は元より無い。
生業だ。
それでは一体何を惜しんだだろう。
彼らを瞬時に躯にしなかったのは。
トクヤマは、その濡れたような黒い瞳で目の前に膝をついた男を見下ろした。
あちこちに傷を負って尚、屈服しない強さ。
そうだ。その強さに、いつも弱い。
ふと気を緩めて、溜息をつくように苦笑した一瞬を逃さずに、ハルトは右手を横になぎ払った。
ふっ、とまるで幻のように、目の前からトクヤマの姿が掻き消える。
「元気だなぁ」
苦笑するような笑い声が聞こえたのは、すぐ後ろで。
ハルト、と切羽詰った声が背中に聞こえたような気がした。
背後の気配を振り返るよりも早く。苛烈な熱がハルトの左胸を突き抜けた。
どっ、と。
背後からぶち当たってきた、衝撃。
ぐらりと、体が前のめりに倒れる。爪を生やした右手を石畳についた。
空いた左手は、思わず口元を覆ってしまう。
下腹部からこみ上げたものを押さえきれずに、そのまま吐き出した。
構内に広がる錆びた生ぬるい味。咳き込むと、口元を覆った手の内側がぬるりとぬめった。
体の内部に、異物。
鋭利な刃物の切っ先。
刺されたと気がついたのは、そのあとだった。
トクヤマは、驚いていた。
狙いを違えてはいなかった。
背後から男の左胸―――つまり心臓を刺し貫いたつもりだった。
「びっくりした」
思わず、ひとりごちる。
今の自分の心情を一番素直に表している言葉だった。
カタナの先が、心臓まで届かなかった。
後ろから、強い力に腕が引っ張られて。勢いが削がれてしまったのだ。
まるで縋りつくかのようなその重みに、トクヤマは苦笑して、視線だけをそちらに流す。
「気がつかなかったですよ、レイさん。あなたが近づいてくるのが。不覚だな」
呟いて、トクヤマはずるりとハルトの体からカタナの先を抜いた。
銀色の刃の切っ先だけ、やけに赤黒く濡れている。
大きく咳き込んで、ハルトの体が前のめりに崩れ落ちた。
トクヤマの腕から手を離すと、レイは背後にハルトを庇うようにして二人の間に割って入った。
血液で濡れたカタナを持つ男に、金の銃口を向ける。
殺傷能力の高い獲物を突きつけられて尚、トクヤマは薄く笑った。
「本当に、残念です」
右手に握ったカタナの先を濡らす赤についと視線を流しながら、さびしそうに呟いた。
「貴方がたを殺さなければならないなんて、因果だ」
予測不可能で未知数の可能性。
そのようなものと相対するのは好きだ。
上限が見えない。
期待ができる。
先程のレイ・クレスタの咄嗟の行動も、感知できなかった自分が腹立たしい反面、ぞくりとこみ上げる愉楽のようなものも確かに存在した。
次はどうやって、楽しませてくれるのか。
人殺しは生業であり、愉しむものではないとはいえ。
手ごたえがあると、やはり心地よい。
そのような獲物をしとめるときは、いつも切ないものだ。
「これ以上向き合っていると寂しくなるので、もう終わりにしましょうか」
向けられた銃口にひるみもせずに、トクヤマはレイの咽喉元に切っ先を向けた。
相手の隙を探る沈黙が続いた。
緑と漆黒の視線がしばらく絡み、そして。
―――市街展開中の正規軍兵に伝達。
トクヤマの耳元に装着された通信機のアラームで、沈黙は破られた。
―――研究所にて大規模な火災が発生。侵入者と思しき者により、セキュリティは破壊されている。可及的速やかに暴動を鎮圧後、研究所に向かわれたし。繰り返す―――。
「研究所……?」
トクヤマがらしくもなく、その単語に反応をした刹那。
まばゆい光が一瞬にして膨張し、爆発した。
あたり一体を包み込んだ閃光に、視界は白く灼きつくされる。咄嗟に顔を庇うことも出来ずに、視界が死んだ。
閃光弾、と思い当たる頃には。
目の前から人の気配が遠ざかるところだった。
残像ばかりがちらつく目を閉ざして、聴覚で遠ざかる足音を追うが、無数のそれが入り乱れて、特定することは出来なかった。
「シノブ!!」
耳に慣れた声に、振り返る。まだ回復しきっていない視界に、ぼんやりと上官の輪郭が浮かんだ。
「すみません、取り逃がしました。不甲斐ない」
もはや用済みのカタナを、腰の鞘にしまいこんで、トクヤマは頭を垂れる。
「それよりも、平気か」
「僕は平気です。ジャンヌ様の怪我は」
「ああ、大した事はないが、一応救護に任せた」
ようやく見えてきたアフライドの表情に、それほど切羽詰った色はない。おそらく大したことがないというのは本当なのだろう。
安堵の吐息を漏らして、トクヤマは、ほつれかけた前髪を後ろに掻きやる。
「それなら良かった。じゃあ、僕は行きます」
「……研究所か」
「はい。研究所ならおそらく、大将が動くでしょうから」
「先に行け。お前はひとりのほうが早い。俺は大佐殿のサポートをするさ」
「御意に。それでは、御免」
次の瞬間には、トクヤマの姿は掻き消えたようになくなっていた。
*
―――今日は外に出ては駄目よ。
幼い、そしてこれ以上発達することのないこの小さな体を、これほど恨めしいと思うことはない。
どれほど急いでいるつもりでも、前に進んでいる気がしない。
第一報が入ったと同時に執務室を飛び出した。正規軍本部の外に出ると、目指す方角の空が黒く煙っているのが見えた。
その黒く上る煙を見た瞬間に、どうしようもない焦燥感がこの胸を焼き尽くした。
気づけばがむしゃらに駆け出していた。
この焦燥感は、何かに似ている。
既視感。以前にも同じようなことが。同じようなものを。
どこかで。
―――駄目よ、エル。行っては駄目。
もはや顔なんてすっかり忘れてしまったのに、声ばかりが生々しい。
その涙声を、どれほど憎んだか知れなかった。
母という人の声だ。
自分の夫が理不尽に殺されようとしているときに、どうして家にこもっていられるのか。
息を殺して、蹲っていられるのか。
しかしそれは、幼いこの体を守るためだったのだ。気づいたのは今更。
この体を抱く腕は、こまかく震えていた。
感触だけを覚えている。
もう名前も思い出せないのに。
酸素が体中に行き渡らない息苦しさ。
何も考えられなくなる脳。この感覚は覚えている。
昔と同じだ。もう250年近くも前。
あの日もこうして、うまく動かない体を動かして走っていた。
あの頃は、今とは違い、不治と呼ばれた病も、体の内側に飼っていた。
激しい運動をすると発作が起きた。
それでも、走らずにはいられなかったのだ。
母の腕を逃れて、家を飛び出した。
家から広場まで、街中を流れる水路の水音を聞きながら、ひたすらに走った。
広場へ続く橋の半ばまで来ると、街中の人々が集まったとしか思えない人の群れに、足止めされた。
高らかに鳴り響く、教会の正午を告げる鐘の音。
人々の怒号。
大人たちの足と足の間をすり抜けるようにして、なおも広場に近づいた。
(おとうさん)
うわごとのように繰り返していた。
何度も、口唇からこぼれた。
体の内側で、心臓が破裂しそうなほどに脈打ち、強い眩暈に襲われる。
普段ならば、膝から地面に崩れ落ちているところだ。人に抱き上げてもらわなければ動けないぐらいの。
ようやく、人波を押しのけて、広場に出た。
黒い服を纏った男たちが、群がる人々を押し返している。
空が。
ようやく空が見えた。
その日は、雲ひとつないほどに晴れ渡った美しい青空だった。
その空に。
立ち上る黒い煙を見た。
それは、人を焼く煙。
父を。
異端の生き物として焼く、聖なる炎が上げる煙だった。
おとうさん、と。
金切り声のような悲鳴がこの口から零れ落ちる。
もう駆け寄っても無駄だということは、幼くても分かった。
それでもそのまま、そこには居られなかった。
大人たちの足元をすり抜けて、地面に突き立てられた十字架の傍まで転がるように飛び出した。
四方から掴まえようと伸びる黒服たちの腕を振り払い、どうにか燃え盛る十字架の傍まで。
おとうさん。
もはやそれしか、言葉を知らないように。
わめきつづけた。涙があふれた。
何故こうして焼かれなければならない。
聖なる炎なのか、これが本当に?
(ダンタリアンの息子か)
(掴まえろ)
(なんだか様子がおかしいぞ)
ぐらりと膝から崩れ落ちて、視界が白く染まり。やがて暗く落ちた。
最後に見た炎は、赤々と目蓋の裏に焼きついている。
その、橙。
重い体が、抱え上げられる感覚だけ。
覚えている。
次に目が覚めたのは、白い部屋だった。
固い寝台に横たえられた体は、うまく動かなかった。
だが、今までずっと体を支配していたはずのだるさは、幻のように消えていた。
右腕を、持ち上げる。顔と天井の間に割り込ませた。
幼くて、ちいさな指が5本。
握って、ひらく。
―――目が覚めたんだね。
耳障りの良い男の声が聞こえてきた。
なんとか、体をベッドの上で起こす。
ここは何処だろう、天国だろうか。
生まれ育ったソロモンではないような気がする。水の匂いがしない。
振り返れば、扉があった。扉まで真っ白に塗り尽くされていて、ノブだけが鈍い銀色に光っている。
その扉の傍に、白衣の男が立っていた。
白っぽい金髪の、細身の男だった。顔色は青白い。
ここはどこですか。
そう訊いた声は、ひどく掠れていた。
―――カルチェ・ラタンにある研究所だよ。
ぼくは、どうしたんですか。
―――発作を起こして倒れたんだ。
どうしてここにいるんですか。
―――正規軍の連中が連れてきた。
父は。
―――……亡くなられたよ。
そうですか。
気づいていたことだったのに、訊いてしまった。
意識が途切れる直前に見た焔を、忘れたわけではないのに。
一縷の望みを、奇跡を望んでいた。
―――体の具合はどうだろう?
ぐったりとうなだれると、その声が訊いた。
悪くないです。こんなに気分がいいのは久しぶりかもしれない。
幼い頃から煩っていた病のせいで、具合はいつも悪かった。
生きられたところで15までだろうと、囁かれている言葉も知っていた。
―――君の病は、完治した。
え?
発せられた言葉を飲み込めずに、訊き返した。
思わず男を振り返る。
白衣姿の男は相変わらず、少し疲れたような顔でそこに立っていた。
どういうことですか?
医者がそろって匙を投げたというのに。
完治した? まさか。
すると、白衣姿の男はこちらに近づいてきて、そのポケットから何かを取り出すと、この手を取って、何かを握らせた。
小さな飴色の瓶。
その中には、白い錠剤が詰まっていた。
―――これを、一日に1錠ぐらいずつ、飲むんだ。そうしなければ……。
正規軍本部の裏手。都会の端に取り残された、緑の林を抜けると、視界が一気に開けた。
思わず、その場に縫いとめられたように立ち止まる。
ひたすらに広がる平地の向こう側に、白く角張った長方形の建物が何棟か並んでいた。
いつもならば、周囲の景色に蹲るかのように沈黙しているその建物が今は、等間隔に並んだ窓という窓から黒い煙を上げている。
晴れていたはずの空が、うっすらと黒く染まっていた。
ここまで焦げるような匂いが漂ってきている。
空に立ち上る炎と、それの吹き上げる煙を見て、眩暈がした。
まるで、あの日のようだ。
激しく脈打つ心臓を抱えながら、竦んだような足を動かして、駆け出した。
あの研究所は、全ての始まりだ。
十五まですら生きられないと言われていたいきものが、こんな風に。
時の流れを全て無視してまで300年近くを生きることになった。
全ての。
2.
ひたりひたりと、どこかで水の落ちる音がする。
先程の閃光弾の名残もあって、やけにここは暗い。
たつ、たつと。
遠くで落ちる水の音のほかに、すぐ傍で滴る雫の音がする。
「痛……ぇっ……。容赦なくぶっ刺しやがって……」
「喋るなよ」
その雫の発生源。背中からおびただしい血を流している男がうめく。
横からそれを支えている別の男が、鋭く制した。
「でも……トクヤマの直系からこれだけで逃げられたんだ。運が良かったよな」
「だから喋るなって言ってるだろ!」
「……あんま黙ってると、意識なくなりそうで辛いんだ」
浅い呼吸を繰り返しながら、ハルトが顔を歪める。
いくら心臓まで刃が届かなかったとはいえ、鋭利な刃物で刺された傷口からは、赤黒い液体が流れ落ちている。
「……ここからアジトは、遠いね」
まっすぐに続く地下通路の先は、闇に飲まれて果てが見えない。
サン・ピエトロ広場の傍から地下に下りたから、アジトのある工場地区までは随分とかかる。
だが、そこまで戻らないと傷の手当てが出来ないのもまた現状だ。
「研究所に行く手筈だろうが……」
「何言ってるんだよ、その怪我で。正気なのか!?」
「サイジョウと合流しないと、カルチェ・ラタンを離れられないだろ。研究所を爆破してから、とりあえずはここを離れることになってるだろうが」
「それにしてもまずは、とりあえず血だけでも、止めないと……」
レイは、少々不自然に口を噤んだ。
硬いコンクリートを打つ踵の音が、周囲の壁に反響してここまで届く。
人の気配がした。
軍人だろうか。
その音は徐々に、ふたりの方へ近づいてくる。
足を止め、息を殺して、まっすぐに伸びる闇の向こうを見据えた。
ちらり。
小さなライトのようなものが闇の向こうで瞬いた。
ペンライトのようなものだろうか。ちいさな豆のような光が、ゆらゆらと彷徨う。
その光が、レイの肩のあたりをかすめ、驚いたように二人の間を彷徨った。
(見つかった)
レイが身を硬くしたそのとき。
「レイさん、ハルトさん……!?」
少女の声が周囲に反響した。
ぱたぱたと駆け寄ってくる靴音がすぐ傍にきて、レイはようやくその人影を見とめる。
「リョウコちゃん? どうして」
「説明はあとです! 傷、見せてください」
周囲に立ち込める濃密な血液の匂いに、リョウコは表情をこわばらせる。
レイは、ぐったりと力の抜けたハルトの体を固いコンクリートにおろした。
「……お前、ここで何してんだ」
すぐさま背中の傷に回りこむリョウコを、霞む視界の中にとらえて、ハルトは唸るように問う。
「……」
リョウコは、何も言わぬままに傷口の上に手をかざした。
すぐに、やわらかな光が手の内側から広がった。
「やろうと決めたことが、あるんです。だから、出てきました」
「やろうと決めたこと?」
暖かい力が、徐々に傷口を癒してゆくのを感じながら、ハルトは繰り返す。
「凄く身勝手な事だってわかってるんです。でも、決めたんです」
リョウコの声に、一本の揺らがない芯がある。
今までとは確かに何かが違っているような気がした。
「何処に、行くつもりなんだ」
ハルトは体を捻って、後方にいる少女を振り返る。自分と同じ真紅の瞳を見据えて訊いた。
射るようなその視線に、リョウコは一度体をこわばらせた。
それでも瞳は逸らさずに、まっすぐに見つめ返す。
「研究所」
しっかりと、言った。
揺らがぬ一本の芯に、正直、ハルトは驚いていた。
こんな強い目を、するような少女だったか。
数日前までの迷いや戸惑いのようなものは、もはやなかった。
「だけどさ、リョウコちゃん……」
心配性の相棒が、横から口をはさもうとする。
「よし」
金髪が制止の言葉をさしはさむ前に、言った。
「ついてこいよ」
「ハルト、お前何言ってるんだよ……」
「生半可じゃねぇんだろ」
レイの抗議には耳を貸さずに、ハルトはリョウコの顔を覗き込んだ。
自分と同色の、紅蓮の瞳をしっかりと見つめ返して、リョウコは首をしっかりと前に倒す。
「なら、自己責任だぜ」
突き放すように言ってから、ハルトは重い体を引きずるように立ち上がった。
まだ足元は覚束ないが、ひとりで立っていられるだけ、随分とましだ。
「レイ、あの端末、ちゃんと持ってるか」
アジトから出る際、サイジョウから手渡された機械端末。
成人男性の掌に乗るほどの大きさで、縦に長い長方形の代物だ。地下に張り巡らされ、蜘蛛の巣のように入り組んだ、通路のマップが収められている。
自分が持っているよりも無くしにくいだろうと、ハルトがレイに押し付けたものだ。
はたと思い出したように、レイは体のあちこちを両手で探る。
トクヤマ・シノブの乱入によって、予定外なほどに動き回ったが、果たして落としていないだろうか。
しばらくあたふたと自らを身体検査した挙句、手がぴたりと腰のあたりで止まる。
ホルスターに付属した、ジッパーつきのポケットの中に、目当ての硬さを発見した。
引きずり出して、機体の横にある電源ボタンを押す。
ほの白い光が周囲の闇をわずかに遠ざけた。
機体表面の大部分を占める液晶画面に、迷路のような道が白い線として表示される。
赤い小さな点が、その一部で緩やかに点滅している。
現在地。
「ここから研究所だと……」
上部からその端末を覗き込んで、ハルトは白い線で形成された通路を目で追う。
ふと、ある一点まで辿って、あるものに目を留めた。
現在位置から北へ。研究所の方向を見れば。
「……これ、なんだ?」
不自然な広さが、そこに広がっていた。
空洞だろうか。
この場所から北へ向かう最短距離の通路は全て、その不自然な長方形の空洞に繋がっている。
まるで、現在地と研究所の直線距離を妨げるように、その空洞は横たわっていた。
迂回をすれば、その空洞を避けて研究所の地下へ辿り付く道ならある。
が。
「横切れるな」
マップを吟味していたハルトが、上からその空洞を指差す。
「ここを通ったほうが早い」
「ちょっと待てよ、ここが何だかわからないんだぞ」
「迂回してたら日が暮れるぞ。この空洞、随分と広い」
確かに、マップの比率を見れば、その空洞はかなりの空間を占めているらしい。
迂回をすれば必要以上に時間を食うだろう。
「分かった」
レイが折れる。
よし、と頷いて、ハルトがレイの手から端末をひったくる。
先程よりは随分としっかりした足取りで、歩き出した。
*
絶えず、小規模な爆発に建物が揺れる。
地下のラボラトリから階段を上って、研究所の西棟に出ると、慌しい人の流れと騒がしい靴音。
煙が充満している。
「アース!」
怒鳴りつけるような声が右手側から聞こえた。
駆け寄ってくる足音に、首をそちらに向ける。
「今まで何処にいた!」
教師が生徒を怒鳴りつけるようなその声に、いつもの冷静さは無い。
「状況は」
質問には答えずに、アースは問う。
オルウェンは渋面のままゆるく首を振る。
「東のRエリアはほぼ壊滅だ。火の勢いは薬品のおかげでかなり強い。火の手は西にも燃え移り始めてる。消化云々、と言っていられる状況じゃない。残念ながら、特殊な精密機械や薬品のおかげで、ただ水をかければいいってもんじゃないからな」
「…………」
「それに、セキュリティが破壊されてる。誰だか分からんが、たいした奴がいたものだ。鉄壁のセキュリティと、少し天狗になっていたのかも知れん」
「いや、セキュリティは完璧だったさ」
酔いはすっかり抜けている。ただ、だるさだけが残っている。
水を払う犬のように頭を振って、アースが忌々しげに吐き捨てた。
「相手が悪かったんだ」
正直、ここまで本気に仕掛けてくるとは思っていなかった。
HGとはそれほどまでに、あの男の汚点だったということか。
―――ただ、認めてもらいたかったんだろう。
似合いもしないはかない笑みで、そんなことを言った男がいる。
そんなもん、知るか。
そんな欲求でかき回されて、挙句の果てに研究所を爆破されたらたまったものではない。
「……てめぇが一番、父親に固執してるんじゃねぇのか、ヒイラギ」
どっ、と激しい縦揺れが起きたのは、次の瞬間。
激しい爆風が、背にした階段から吹き上がってきて、アースは思わずその場にがくりと膝をついた。
爆発、だと。
「まさか、地下の……」
ラボ。
―――地下ラボはつぶさせてもらうよ。
「ヒイラギ、てめぇっ……!」
いもしない男への悪態が口をついて零れ落ちた。
何処までやりたい放題にやったら気が済むというのだ。
自分からここを飛び出していったくせに。
「……アース、どうする」
「どうするも何も、退避するしか道はねぇだろ。とりあえず人死にだけは最小限に抑えろ。おそらくこれからも断続的に、爆発は起こる」
あの男のことだ。これで終わりには絶対にしない。
潰すといったら、徹底的に潰すだろう。
「もうこの建物の中と研究所の周囲はどこも、安全なんかじゃないだろうよ」
重い体を引きずり上げて、アースは立ち上がった。
忙しない足音が、左手側から近づいてきた。
音に促されるようにそちらを見れば、白衣姿の男がこちらに駆け寄ってくるところだった。
「主任!」
「どうした」
「正規軍が……」
「ちっ、でしゃばりやがる……」
「そういうことは、自分の研究所の管理ぐらい自分でできるようになってから言うべきだ」
あどけない声が割って入った。
やけに明瞭で、聡い子どもの声。
漆黒の詰襟に身を包んだ十程の少年が、駆けつけた白衣の陰から顔を覗かせた。
やわらかそうな茶の髪と、黄金の瞳は、愛らしいという他ない。
だが、その瞳にあどけなさは欠片もなく、ただしっかりとアースを見据えているだけだ。
「ミカエル……」
現れた小柄な影を見て、アースは嫌悪感に顔をゆがめた。
「何しに来やがった! ……そうか、ここが破壊されればお前も」
躊躇いのない足取りでアースの目の前まで歩み出た東軍大将は、その小さな右の拳をどすりとアースの腹部に叩きつけた。
「そんなことを言っている場合なのか」
およそ子どもの声音とは思えぬ冷たさが、その呟きにはある。
「君はここの主任で、責任者だろう」
突き刺すようなその視線と声音に、アースははたと口を噤む。
アースはぐるりと周囲を見回す。
割れた蛍光灯やガラスの破片が散らばる廊下。こげた匂いと、何処からか立ち上る煙。
白衣姿の、不安そうにおろおろと歩き回る研究員たちだ。
「オルウェン」
アースは、先程自分の上ってきた、地下へと続く階段を見下ろしながら副主任を呼ぶ。
その、下へ下る通路からは爆薬の匂いと煙が立ち昇ってくる。おそらく地下は全壊だろう。
「とにかく研究所からひとり残らず退避させる。それから医学部門の、動ける奴らを集めろ。怪我人の手当てを最優先にする。無理して資料その他を運び出そうとはするな。研究は後でもどうとでもなる、死んだら仕舞いだ」
「分かった」
相変わらずスーツ姿の副主任は、軽く首肯して踵を返す。
西棟ほどではないものの、東にも火は燃え広がりつつある。薬品が多いことも手伝って、勢いは増すばかりだろう。
アースは、乱れた白衣を正して、足元の軍人を見下ろした。
「……塞がりきってない傷を狙うたぁ、上等な真似するじゃねぇか。効いたぜ、今のは」
ソロモンで。
その地下で相対したときに、目の前の小さな悪魔がつけた腹部の傷は、まだ完治したわけではなかった。
苦笑するように、少年は口の端を引きずり上げて笑う。
「おかげで、目が覚めた」
普段どれだけ不義理を働いていようとも、名目上と言われようとも。
ここの責任者に名がある限りは、背負わねばならぬときがある。
その責任だけは、決して放棄できるものではない。地位を受け入れたときから、その重みは背負わねばならぬものなのだ。
たとえそれが、憎んでも憎みきれぬ男から受け継いだものであっても、だ。
「俺も行く。じっとしてるわけにはいかねぇしな。正規軍の仕事は作ってやらん。無駄足にしてやるぜ」
「それは頼もしいな」
ミカエルが微笑した。
ふん、と鼻を鳴らすと、アースは白衣の裾を翻して、いまだ小刻みに振動を繰り返す研究所の廊下を悠然と歩き出した。
颯爽とした後姿を眺めやってから、ミカエルは、地下へ続く階段へ向き直った。
この下に、あの地下ラボがある。
咽喉を鳴らして、息を飲んだ。
この下に。
またたきもせずに、その黄金の瞳を見開いて、深い階段を見下ろした。
火薬の匂いが立ち上ってくるその段差は、深さゆえに少し下からはのっぺりと闇に飲まれている。
魅入られたように、闇を見つめた。
「やっと見つけた」
踏み出そうとした足をとどまらせたのは、背後から聞こえてきた能天気な声だった。
耳に慣れたその声に振り返るよりも先に。ひょい、と小さな体は簡単に宙に浮いた。
抱き上げられたのだと気付くまで、時間は要らなかった。
「もう、一体何してるんです、おひとりで。武器も持たずに。慌てるにも程があります」
だめですよ、と幼子を叱るように、男にしては高めの声が言った。
「……降ろしてくれないか。さすがに恥ずかしいんだけど、シノブ」
背後から腕の下に相手の腕を差し込まれ、地面から3,40センチ浮き上がっているこの体勢は、辛いし恥ずかしい。
「だめです」
きっぱりとトクヤマは拒んだ。
「目を離すと何処へいかれるかわからないので」
まるで犬猫に対するようなその物言いに、腕に抱かれたまま、ミカエルはげんなりと振り返ってトクヤマを見上げた。
「シノブ……」
恨みがましく呼びかければ、黒装束の小柄な男は、肩を竦めて腕の中の小さな体を床に下ろす。
「勝手におひとりで本部からいなくなられるからです。心配したじゃないですか。それに今、そこの階段に転がり落ちてしまいそうだったんですよ」
トクヤマは、その漆黒の瞳を、黒煙を吐き出す階段へと向けた。
ミカエルは黙り込んで、わずかに俯く。
「それに、ここはすぐに慌しくなります。先程連絡が入りました。元帥閣下と」
「ユダが?」
「ええ。それと―――猊下が」
「何だって?」
「猊下が、こちらに向かわれているということです」
トクヤマの言う猊下という名称で、思い浮かぶのはひとりよりいない。
「ラジエル……」
小さく名を呼んで、ミカエルは沈黙した。
どっ、とどこかで再び爆音が響き、建物がわずかに揺れた。
*
目の前に一枚の扉がある。
闇にもだいぶ慣れた目に、鈍い銀色に輝くこじんまりとした扉が、一枚。
ノブや取っ手があるわけではないそれを、扉と判別できるのは、以前にも見たことがあるからだ。
横滑りに開くはずのそれは、過去に失われたはずの技術。遺跡などでよく見かけるものだ。
巨大な空洞を目指して足を進めてきてみれば、この扉に突き当たった。
ちらちらと、小さな光がホタルのようにその鉛色の表面を滑った。
リョウコの持ち出したペンライトの光をその遺物に滑らせて、ハルトは目を凝らす。
「遺跡?」
先程から黙り込んでいるハルトを横目で見遣り、レイが訊いた。
「カルチェ・ラタンの地下に遺跡なんて……」
記憶の底を探るように、ハルトは言葉を途中で切る。
そんなもの、あっただろうか。
聖都に一番近い遺跡はアイレ。それは、遺跡発掘やそれに絡む研究をするものであれば誰でも知っていることだ。
教皇の膝元にこのような場所があるとは知らなかった。
しかし、このような扉は、現在の技術では作り出せないだろう。
技術の最先端を誇る研究所でも作れるかどうか。
ペンライトをリョウコの手に押し付けて、ハルトは扉に近づいた。
目の前に立ってみたところで、もちろん開くはずはない。
ジャケットの内側を探って、一枚のカードを引きずり出す。
サイジョウから預けられたそれを、扉の右手側についている差込口に挿入した。
挿入口の上部で、豆のようなランプが赤と黄緑にこまかく点滅し、気が抜けるような音と共に、それは横滑りに開いた。
あまりにも、あっけなく。
用済みのカードを抜き出して、改めてまじまじと見た。
こんな薄っぺらいただの板が、よくもこれほどの働きをするものだ。
おそらく他の方法で開けようと思えば、こう簡単には行かないだろう。
カードから眼前に視点を戻せば、その扉の向こうには闇が広がっている。
ただっ広い空間がその先に広がっていることは、気配で分かった。
レイは、手元の端末画面を見降ろした。確かに、あの空洞はここだ。
そして、この空洞を横切った向こう側に、研究所の方向へ続いている通路がある。
無言のまま、ハルトが足を進めた。ぽっかりと空いた穴へと、躊躇いなく踏み入ってゆく。
レイとリョウコは一度顔を見合わせてから、その背に続いた。
踏み込んだ足元で、かつりと金属製の音が響いた。
他の遺跡同様、床は鋼鉄で出来ているに違いない。
事実、足元の床はほの白く輝いていた。
床を打つ踵の音は、遠くに跳ね返ってはまた戻ってくる。その響きが、見渡せない空間の広さを感じさせた。
レイは、硬い床を踏みながら、頤を持ち上げて上方を仰いだ。
天井は高く、闇がうっすらと天頂を覆い尽くしている。
以前にもこのような感覚を味わったことがある。
闇に覆われた広い空間に、金属質の床。
どこか遠くに取り残されたような、放り出されたような不安にとりつかれる。
人間は闇を厭ういきもの。そんな言葉を何故か思い出した。
―――帰ろうよ、ねぇ。
幼い子どもの声が不意に、耳元に蘇った。思わずレイはその場に足を止める。
―――バカ。ここまできて帰れるかよ。
威勢の良い、別の少年の声が切り返す。
一体この声は、いつ何処で聞いたのだったか?
「おい、ここ―――」
ハルトが足を止めて、レイを振り返った。
まだ全貌の見えない空間を眺めるように首を回らして、どことなく高揚した声で、言った。
「"ガイアズメールじゃないか"?」
呟きは、空間にひときわ大きく反響した。
レイは思わず瞠目する。改めて、周囲を見回した。
そうだ。
どこかから取り残されたようなこの不安は、数ヶ月前にも体験したことがある。
ファレスタ山脈の深部に眠っていた、"神の船"。
その内部だ。
その船の内部に抱かれていた、ホールのような場所に酷似している。
「コントロールルームがあれば、分かるな」
足早にハルトは左手側に歩き出した。
ぱたぱたとリョウコは、ハルトの背を追う。
記憶の中の"神の船"内部には、無数の小さなコンピュータルームとが存在した。それと同じものが見つかれば、ほぼ確定だろう。
規模は、ガイアズメールの方が大きい。あそこはドームのような広さだった。
ここは、それをそのまま縮小したような感じがした。
―――近くにこんな面白いトコがあるんだぜ? 探検しない手はないじゃんか!
―――だってハルト……。
「キトの……」
思わず、レイはうめいた。
突如として内側から湧き出した記憶の波に、気付けば体が震えていた。
幼少をすごした村。
やわらかい思い出と、痛切な永別の記憶に、その頃の記憶は薄い。
だが、そうだ。以前にも、このような空間を見たことがある。
どうして以前このような空間を目にしたときに―――初めてガイアズメールに踏み込んだそのときに―――思い出さなかったのだろうか。
―――今日ここに来たことは忘れなさい、いいか。他の人にも言っては駄目だ。
強い力で両肩をつかまれたことを思い出した。
今まで一度も見たことがないほど真剣な顔で、叱られたのだ。
―――もう二度と、ここに立ち入らないと約束しなさい。
父と仰ぐその人に、あれほど怒られたことは後にも先にも一度もない。
どうして忘れたいたのだろう。
レイは、ハルトが歩き出したのとは逆方向に歩き出した。
歩を進めると、硬い靴音が響き、反響がついてくる。
ホールの端あたりまで辿り付き、レイは目的のものを発見した。
祭壇としか呼べぬ、台座の姿。
呆けたようにその下に立ち、台座を見上げる。
がつん、と硬い音が響いたのはそのときだった。
足元あたりを、急に緑色の光が照らし出した。
四方の壁に等間隔で設置された非常灯らしい。
その奇妙な光を見れば、ますますガイアズメールと見まがう。
「ビンゴだったな」
背後から声がかかって振り返る。ハルトがどこか複雑そうな面持ちでそこに立っていた。
「ハルト」
呼びかけた。
不健康な非常灯に照らし出された顔は、眉だけを持ち上げて応じる。
「昔、キトのはずれにある洞窟の奥に、入ったことを覚えてないか?」
「キトのはずれ?」
怪訝そうな面持ちで、しばらくハルトは考え込むように目を伏せた。が、その赤い瞳が徐々に驚きに見開かれるまで、時間は要らなかった。
「……その奥に、ここと同じような広さの空間があって、ここみたいに祭壇があって」
「追いかけてきた神父にめちゃくちゃに怒られたときか」
レイが説明を加えてゆくと、ハルトが同意する。
「ここと、そっくりだったよね?」
「……今の今まで忘れてた。なんでだ? ガイアズメールに入ったときに思い出してもいいはずだろ。確かにガイアズメールはこことは比較にならないぐらい広いさ。だけど、二人そろって忘れてたなんて、間抜けな話だろ」
「……それは、僕もそう思うけど」
―――忘れなさい。
「神父に何度も、諭されたことも思い出したよ。"忘れなさい"って」
怒られたことがなかったとは言わない。だが、思い返してみればその怒りは度を越すほどだった。
「……神の船は、いくつもあるってことのなのか?」
ハルトの問いに、応えるものは何もなかった。
3.
光を。
もっと、光を。
与えたまえ、慈しみたまえ。
どうか、愚かな子らを哀れみたまえ。
その声をもっと。
鼻腔と咽喉の粘膜を刺激する煙に、激しく咳き込んだ。
神の都は今や、蹂躙されつつあった。
薬が切れたのかもしれない。
体がやけに重く、汗が噴出しては止まらなかった。
咳き込みすぎて、嘔吐感がこみ上げる。思わず口元を覆った。
主よ。
彼は呼びかける。煙に覆われて、青さのない重い空を仰いだ。
亡者のようにただ、丘の上に建つ白い建物を目指している。
応えてください、いつものように。
どうか、答えをください。
私は一体なにものなのでしょう。
それすらもう、私にはわからないのです。
貴方の声が導いてくれなければもう何ひとつとして、理解することが出来ないのです。
いつから?
*
煙が徐々に強くなってきた。
地下のラボから階段を使って地上一階に出た。追いついてこないところを見ると、アースは追いかけてくるつもりはないらしい。
もっとも、責任者としてやるべきことがあるだろう、侵入者を気にしている場合では、もうないのかもしれない。
事実、先程から擦れ違う、慌てふためく白衣姿の研究員たちは、もう既にこのふたりの侵入者をとがめはしなかった。
ふたりの侵入者は、東棟一階の廊下を、正面玄関に向かって堂々と歩いているのである。
「ファンくんとは、何処で落ち合うんですか?」
モエは、斜め肩越しにサイジョウを振り返って訊いた。
セキュリティの破壊、というファンの役目はもう既に終わっている。
何処で合流してここから離れるのだろう?
「研究所を出てから会う手筈になってる」
スーツのポケットに両手を突っ込んだまま、サイジョウは応じた。
暢気だった。
小規模な爆発は未だに断続的に起こっているというのに。
その足取りと声は、暢気で緩やかだった。
「なんで研究所を出てからなんですか」
別に、ここで合流してもいいじゃないか。
落ち着かずに、モエは更に問う。そんな他人行儀にする訳を。
訳のわからない焦燥が、じりじりと体を焼いているのが分かる。
はやく、会いたかった。
奇妙な食い違い、ここ数日で突然できたみぞは、この作戦への緊張だったのだと。
会って安心したかった。
みぞや違和感を、早く埋めたかった。
その、色濃く不安を滲ませた女の表情に、サイジョウは苦笑で応じた。
何も言わなかった。
その貌(かお)。自嘲めいた笑みが含む翳りに、モエは思わず息を飲んで足を止めた。
"あやうさ"を。
もろさをそこに見て。
背筋が急に冷えた。
そのもろさの奥に、狂人(きちがい)じみた異様な色を見たような気がした。
「……早く戻って、カルチェ・ラタンを出ないとね」
およそ、モエの問いとは見当違いの答えを返して、サイジョウは颯爽とモエを追い越した。
「早くおちつきたいねぇ」
渇いた笑いを含ませたその言葉に、モエは同意して笑うことは出来なかった。
落ち着きたい。
"元に戻りたい"。
それはただの本音でしかなく、あまりに切実な。
祈りでしかなかった。
縫いとめられたように、体は動かない。
モエはただ、迷いのない足取りで距離を広げてゆく男の背を、凝視した。
躊躇いなく、容赦なく。
迷いを振り払って、"置いていかれる"ような気がする。
貴方はもしかして、本当は誰も。
必要としていないのだろうか。
淡々とリノリウムを踏む足が、突き当りを右手に折れた。
よれたスーツ姿が見えなくなって初めて、モエは慌てた。
「サイジョウさんっ……」
呼んで、見えなくなった背を追う。
まるで、親の姿を見失った幼い子どものようだ。
もつれそうになる足を動かして、角を折れると。
すぐ目の前で立ち止まった男の背に、もう少しでぶつかりそうになった。
「やっぱり、君だったのか」
目の前に立ちはだかった男を挟んで向こう側から。
声だけ聞こえてきた。
場違いなほどに高く、幼い声だった。
モエは、サイジョウの体の横から顔を出して、前方を見た。
遠くで絶え間なく足音が乱れ、断続的に響く爆発音と、足元の揺らぎ。
その全てをまるで膜一枚外に隔てたように超然と、幼子が立っていた。
廊下の片側はそのまま外界に接するらしく、等間隔に配置された窓から、この騒ぎが嘘のような燦々とした光が注いでいて。
その光に照らし出されたその小さな姿は、宗教画の天使のようにととのっている。
背後に黒ずくめの男を従えた幼子は、神の使いを名乗る軍隊の衣を着ていた。
傍に立つスーツ姿の男を、モエは見上げた。
相変わらず読めない薄い笑みを浮かべて、距離を置いて立つ愛らしい顔立ちの少年を見つめていた。
「そうですよね、ここは」
スーツのポケットから右手だけを引きずり出して、ずり落ちかけた眼鏡を中指で押し上げて、サイジョウが口を開いた。
妙に納得したように。
「ここはあなたの、命綱でしたっけか」
眼鏡というフィルターを隔てても、その濃紺が湛える冷気は、おそらく伝わる。
愛らしく大きな黄金(きん)の瞳は、たやすくその視線を受け止めて、跳ね返す。
「大変申し上げにくいですけど大将閣下、あなたも」
頤をわずかに持ち上げて、見下げる目線で、サイジョウはミカエルを見下ろした。
「死んでください」
きっぱりと。明瞭に言った。
「ことわる」
刻み付けるようにつよく、ミカエルも切り返した。
「他人の思惑の為に、死んでやる義理はない」
ちいさな左腕を持ち上げて、すぐ傍に控える黒装束に差し出した。
無言で、黒装束はそのちいさな手に濃い茶の革で出来た、ホルスターのようなものを手渡した。
それに取り付けられた二つのポケットから、束ねた鞭のようなものを引きずり出す。
ざらりと、蛇のように床に流したその鞭状のものは、自在に折れ曲がる鋭い刃。
身長より長い刃の、左手片方だけに獲物を構えると、もう一方とホルスターは床に放った。
天井で揺れる蛍光灯の、あまりに白い光をちらりちらりと鱗が輝くように跳ね返す刃。
それが床に描く軌跡をゆるやかに視線で追って、サイジョウはへぇ、と感心したように目を開いた。
「まさかこんなところで、伝説の双剣を拝めるとは思っていませんでしたけど。たとえ片方とはいえ」
「結構使ってるつもりだけどね、これも」
手首をしならせて、床に這う輝きを蠢かせながら、ミカエルは皮肉めいた言葉に応じる。
「それは多分、閣下がその剣で殺すからでしょう、その剣を見たものをね」
その剣を目の当たりにして生き残ったものが少ないからだと、揶揄する。
次の瞬間、爆発的に高まった殺気が、周囲の温度を格段に下げた。
大将のすぐ傍に控える黒装束から、御しきれぬ殺気が立ち上ったのだった。
「シノブ」
背に挿したカタナの柄に手をかけた部下を、ミカエルは声だけで制す。
不服そうな顔をしながら、それでも、トクヤマはカタナの柄から手を離した。
「君たち父子は、離れて暮らしていたはずなのに、そっくりだね」
人々を魅了するような愛らしい微笑みを、ミカエルはその顔に湛えた。
「僕は嫌いだな、そのまだるっこしい言い方は。―――癇に障るよ」
ざっと空気を切る音と共に、ミカエルの左腕が空を薙いだ。
がっ、と蛇のようにうねる刃の切っ先が、サイジョウの顔のすぐ傍を滑った。
反射的に庇うように、サイジョウが顔を伏せる。少し遅れて、からん、とリノリウムに乾いた音が響いた。
「愛らしい顔に似合わずに、乱暴なんですね」
頬を鋭く滑っていった切っ先、それが残した傷痕から、生ぬるい感触が顎へ向かって伝い落ちる。
左手の甲でそのなまぬるさを拭いながら、サイジョウは俯かせた顔を持ち上げた。
顔を伏せた勢いで、眼鏡の剥がれ落ちた顔。濃紺の裸眼をさらして、幼い年長者を見た。
「サイジョウさ……!」
矢面に立つ男は、戦闘能力に長けているとはとてもいえない。
庇わなくてはと踏み出しかけたモエの懐に、黒い影が瞬時に飛び込んできた。
思わず後方に飛びのいたモエの咽喉元に、鋭い刃の切っ先が、今まさに突き立てられる寸前だった。
顎を持ち上げて、咽喉をのけぞらせる。息を飲むと、鋭い痛みがちくりと皮膚を刺した。
「邪魔立ては申し訳ないが、させるわけにはいかない」
おそらく、不用意に動けば容赦なくその切っ先は咽喉を突き刺すだろう。
瞬きも出来ずに、モエは突きつけられたカタナと、すぐ傍にある殺気の元凶を見た。
「……ロウエンの」
あえぐようにそれだけを呟くのが精一杯だった。
「君の身のこなしのほうが洗練されていそうだ。大将に危害を加えられては困る」
きつく、モエは眼前の男をねめ据えた。
ふっと体を沈めて、モエは後方に飛び退いた。
追い討ちをかけるトクヤマの足元に、すばやく足払いを仕掛ける。
上方に跳躍して、女の上を飛び越えると、前方に飛び込むようにトクヤマはすぐさま体勢を立て直す。
間隙を置かずにモエに突き出したカタナは、モエが抜き出した小刀にがつりと弾かれた。
「モエ……!」
暗殺者の奇襲を受けるモエを振り返ろうとする、その鼻先を。
鋭利な刃が食らいつくような勢いで掠めた。
「ヒイラギくん。味方を気にする余裕なんてあるのかな」
「……だって貴方は別に僕を、殺すつもりはないでしょう、シャイアティーン閣下」
「どうしてそんなことが分かる?」
「貴方が本気ならもう既に、僕もモエも生きていないからですよ」
足元に転がった、レンズの割れた眼鏡を、サイジョウは拾い上げる。
その隙だらけの動作にも、ミカエルはその刃を動かさなかった。
「あまり体調が良くなくてね。消耗は避けたいんだ。薬が切れかけてるから」
自嘲気味に笑って、ミカエルはそう呟いた。
「……びっくりしたな」
カタナを弾かれた拍子に生じた右腕の痺れに、トクヤマは自嘲を漏らした。
「ここまでとはね」
「……甘く見ないでください。これでも、D計画のなれの果てですから。たとえ貴方が、トクヤマ家の直系だとしても」
「D計画。Doll計画ですか。戦闘兵器を作るための実験の、実験体」
もう既に、凍結された実験ではある。それでも、凍結されるまでにはたくさんの身寄りのない子どもを実験に使ったと聞く。
目の前の、少女を脱したばかりほどの女が、被検体。
「生き残りが、いたなんて」
意外だとばかりにトクヤマがこぼした。
「……いきのこり」
まるで知らない言葉を聞いたように、モエが口の中で繰り返した。
「検体は全て、処分された」
おのずと、零れ落ちるぐらいに瞳が見開かれるのを、どこか他人事のようにモエは感じた。
―――"セリ"を。おいていかないで。いっしょにいて。
子どもの声。
握り合わせた、ふたつの手。
同じ色の髪、同じ色の瞳。
―――ずっといっしょにいるよね。ずっといっしょだったもん。
(置いて、逃げたのは)
「……セリ」
置いて逃げたのは、私だ。
「い……やだ」
―――ひとをころすれんしゅうをするの。わたしたち、ひとをころしていきてゆくのよ。
薬の投与。暗い部屋。冷たい床。鉄格子。
悲鳴。引きつったような笑い声。
血。
屠り合い、殺し合い。
生きるために。
別の検体と。
血を流し合う、そんな生き方を。
望んで生まれたわけではないのに。
「いやあぁあぁぁッ―――!!」
床を蹴って、トクヤマとの間合いを詰めた。逆上の勢いのままに小刀を突き出した。
カタナを床に放って、トクヤマはその腕を掴む。手首を掴んで、そのまま膝に叩きつける。
鈍い音がして、その手が小刀を取り落とした。
うめきをあげる少女の体を、傍の壁に押し付けた。
勢いよく壁に叩きつけられた背中の痛みと、打撃を加えられた手の痛みに、女の顔は苦悶に歪んでいる。
モエ、となれた声が呼んだような気がしたが、こたえられなかった。
「逆上は、隙を作る」
「殺されたの……?」
じわりと、瞳に涙を浮かべて、モエが漏らした。
獲物を見据える、冷酷な暗殺者の瞳の漆黒を、見つめ返した。
「僕が殺した」
他の声が割って入った。
静かな、高い声だった。
モエは、涙を伝わせるままに声のほうへ首を向けた。
サイジョウと対峙していたはずの少年が、だらりと下げた左腕に剣を下げて、そこにいた。
「D計画の被検体は全部、僕が、"これ"で、殺した」
左腕を軽く持ち上げると、ぬるりと光が、剣の表面、曲線を伝って落ちた。
「斬りかかるなら、お門違いだろう?」
まるで何かを尋ねる幼子のように首を傾げて見せて、ミカエルは言った。
かっと、苛烈な熱が体の内側で爆発して、一瞬で脳天まで駆け上るのを、モエは感じた。
自分を押さえつける小柄な男の腹部に、思いっきり膝を突き上げる。
避けられるのは、計算のうちだ。自分を押さえつけている腕が離れれば、それでいい。
「モエ、やめろ!!」
トクヤマの戒めから逃れて、モエはミカエルとの間合いを詰めた。
柄にもなく慌てたサイジョウの制止が、耳元を掠めたが効果はなかった。
自分自身でも押さえつけられない激情に突き動かされて、双頭の悪魔に腕を伸ばす。
「大将っ!!」
モエの手がミカエルに触れるすんでで、モエの横に滑り込んだトクヤマが、側面からモエに全力で体をぶつけた。
勢いのままに、モエの体は壁側面に埋め込まれたガラスをけたたましい音を立てて割って、研究所の外に転がった。
「モエ!!」
割れたガラス窓から、躊躇いなくサイジョウは野外へ飛び出した。
4.
無言だった。
奇妙な空洞を抜けてからはずっと、足音しか聞こえない。
いつまでもあの空洞にとどまるわけにも行かずに、研究所方面へ続く通路へ出たのはいいのだが。
そのあとは誰一人として口を開かなかった。
時折分かれ道に出会うと、地図を持つレイがこまかく指示をするだけで。
ぼんやりと、闇の中に浮かび上がる液晶のあかりを見つめながら、レイは思う。
きっと、ハルトも同じことを考えているはずだ。
名付け親が。
ファスト神父が教会に消されたのはもしかしたら。
キトの村の傍にあった遺跡を発見したからではないのだろうか。
あんなに物凄い剣幕で幼かった自分たちを叱ったのも、それならば説明もつく。
だがしかし何故、あの遺跡のことを覚えていなかったのだろう?
疑問がまた、疑問を呼ぶ。
殺されたと、聞いた。
名をつけて慈しんでくれたその人は、教会に殺されたのだと―――。
ディスプレイに導かれるままに突き当りを折れたところで、前を歩く足音が唐突に止まった。
反射的にレイは端末から顔を上げる。前を歩く二人の背中の、更に前方にはのっぺりとした壁。
行き止まりだった。
「おい、ナビ」
ポケットに両手を突っ込んだまま、肩越しに赤い瞳が振り返る。
「何処で間違えた?」
ナビゲーターの不手際を遠まわしに責めるような口ぶりだ。
ぼんやりと考え事をしていた手前、自分の正当性を主張することもできずに、レイは端末の液晶画面をあらためた。
しかし、現在位置を示す赤い点滅は、当初目的としていた出口の目の前にあった。
すぐ傍に、出口があるはずなのだが。
「合ってるよ」
身の潔白を示すために、レイは端末をハルトに突き出した。
ずいっと差し出されたそれを、4つの赤い瞳が覗き込む。
焦点を合わせるように、ハルトは両目を細めてその点滅を見据えた。
「地図の間違いか?」
目には辛い液晶画面から顔を上げてぐるりと周囲を見回したところで、地上に出るはしごなどは見当たらず、のっぺりとした壁ばかり。
端末を囲んで黙り込む男ふたり。その代わりに動いたのは、少女だった。
何かを決意したような顔で、突き当りまで歩を進めて、黙する壁と向かい合った。
右腕を持ち上げて、少し間隙を置いて。
その壁の表面に触れた。
途端。
ふっと。まるで幻のようにリョウコの姿が掻き消えた。
「な……」
少女の行動を見守っていた二人は、こぼれんばかりに目を見開いて、その場に硬直した。
壁に、飲み込まれた?
一見、そう見えた。
「もしかして、転送、装置?」
まるで何事もなかったかのように沈黙を守っているその壁を見つめて、喘ぐようにレイがこぼした。
「転送装置?」
聞き慣れないその響きに、ハルトはレイに顔を向ける。
「太古の技術らしいよ。なんだったかな、空間転移装置……」
「遺跡なんかによく見つかるやつか。でも、稼動してるものがあるなんて……」
残骸なら、いくらでも見てきた。
その装置の大半が、大仰な姿をしていたのに。この壁が?
「リョウコちゃん、分かってたみたいだったね」
差し出した手に、怯えはあっても躊躇いはなかった。
「分かってたなら、説明してくれって言うんだよ」
取り残されたこちらは、一体どうすればいいというのだ。
「とりあえず、触ってみるか?」
「何処に飛ぶか分からないけどね」
「こうして立ち往生してるよりか、いいんじゃねぇの」
「まぁね」
嘆息しつつ、レイは端末の電源を落とす。もう用済みだ。
不可思議な壁に触れたのは、ハルトが先。
例えるならば、足元の床が急に抜けたような感覚に似ている。
一瞬にして周囲の景色が消し飛んで、まぶしい世界に投げ出された。
闇に慣れた瞳に、外界の光はあまりに強すぎた。
瞳孔が光を許容できずに、急激に収縮する痛みに、思わず目を閉じた。
何かが激しく爆ぜるような音。足元に急に、土の感触。
風が吹いた。
焦げるような匂いが風に運ばれて漂ってきた。
「ハルトさん……」
呼びかける少女の声に目蓋を開く。目の前に、黒髪を風にあそばせて、少女が立っていた。
「ったく、説明ぐらいしろ」
恨みがましくハルトが言えば、リョウコは小声で「ごめんなさい」と詫びた。
遠巻きに、人々の悲鳴とものが割れ、砕ける音。それに小刻みな振動。
乱れる足音が、すぐ傍にある白い建物から聞こえてくる。
背後に突然、新たな気配が現れたが、驚かない。
「ここは、どこなのかな?」
前触れもなく現れた金髪の男の問いかけに、ハルトは周囲を見回す。
足元には草の生えた土。
少し離れた場所には白くのっぺりとした巨大な建物が横たわっている。
こちらに長方形の側面を向けて、等間隔に窓を並べている。
「研究所の庭、みたいだな」
見渡せる場所に、正面玄関らしき入り口が見えている。
紆余曲折はあったものの、なんとか目的地まで到達したようだ。
「ここまで来たのはいいんだがよ、サイジョウはどこだ?」
研究所の敷地に辿り付いたはいいものの、噂に聞くばかりで内部には詳しくない。
研究棟には大きく分けて東と西があるというが、そのどちらかの判別もつかない。
こまかく地面は震えつづけている。今これから研究所内に踏み込むのは、さすがに危険以外のなにものでもない。
「あ……」
周囲を眺めていた少女の口から、喘ぎ声のようなものが漏れた。
少女を見れば、正面玄関のあるほうをじっと凝視している。
促されるように、二人もそちらに顔を向け。
目を見張った。
黄金。
時折吹き抜ける爆風に、やわらかい金の巻き毛が翻る。
周囲の混乱など、まるで一枚の壁を隔てた向こうであるような涼しげな顔をして。
ストイックな黒衣に身を包んだ男が、正面玄関の傍に立ち、こちらを見ていた。
傍らには、見慣れた軍服の、背の高い女が控えている。
「エレアザール、大司教」
レイの口から、その名が落ちた。
「どこかで見覚えのある顔だ」
低い女の声が、言った。
ラジエルをその背に庇うように、長身の女が割って入る。
正規軍軍服を纏い、その上から白いコートを着込んだ姿は、佐官以上であることを示している。
「俺には、見覚えはないけどな」
呆然と大司教とその連れを見つめているリョウコの腕を引いて、背後に庇った。
得意の煽り文句を口にしながら、ハルトはその女をつぶさに観察する。
どこでか、は分からない。直に会ったのではないだろう。おそらく何かの資料などで、だ。
見覚えは、皆無ではなかった。
首の後ろあたりで一つにまとめられた、焦げ茶の髪。
彫りの深い、威圧感すら感じるその表情。
「件のふたり組か」
純白の上着の裾を翻して、女はわずかに頤を持ち上げ、見下すように二人を見比べた。
「部下が散々と世話になっている話は聞いている。出来ることならば会わずに済ませたかったものだ」
「部下……だって?」
「挨拶が遅れたようだ」
怪訝に聞き返すレイに、女はどこから取り出したものか、黒光りする銃器を向けた。
手にする獲物に似合わないほどに穏やかに、微笑して見せた。
「軍では元帥を拝命している。ユダ・ゴートだ。本来ならば見知らぬほうがよかったのだろうな。異端者ども」
どこか、つめたい笑いを含んだようなその声音に、どこかの爆発音がかぶさった。
「鉄の乙女(アイアン・メイデン)……」
「乙女と呼ばれるのは、もはや白々しい話だよ」
その二つ名を、苦々しげにハルトが吐き出すと、ユダは微苦笑を漏らす。
「投降するがいい。今回のテロについても聞こうか。全く、私の配下は皆、人間臭くて甘いから困ったものだよ」
「嫌だと、言ったら」
「撃ち殺すだけだ」
間隙もなく、無慈悲な宣告が降ってきた。
「……逃がしてくれるつもりは、ないって訳か」
「軍人だからな」
穏やかな笑みを絶やさぬままに、ユダは告げる。
レイに向けたそのピストルの安全装置を、親指でゆっくりと外す。
両手は白い手袋で覆われていた。
「どうするよ」
「どうするって言っても、このまま大人しく、的になる気はないよ」
「ま、そりゃそうだな」
殺傷力の高い武器を向けられておきながら、なんとも暢気な会話だ。
修羅場に慣れてしまったということだろうか。あまりありがたくはないな、とレイは内心で思った。
そのようなことを考えながらも、手は腰のホルスターに伸びるのだ。立派な犯罪者になったものだ。
掌に、確かな獲物の感触。
多勢に無勢ではない。勝機はある。
「どっかに、隠れてろよ」
背後に庇ったリョウコに告げて、ハルトは右腕をかすかに撫でる。その内側に仕込んだ爪の感触を確かめた。
抜き去った銀のマルクトの引き金を、躊躇いなくレイが引く。
乾いた銃声と共に弾丸が、女元帥の頭上を掠めた。
外したのではなく、わざと。
銃声と共に、ハルトが女元帥の懐に飛び込む。剥き出しにした鉄爪を振り下ろした。
がちん、と金属同士がぶつかり合う音に、ハルトは目を見張った。
女は、顔を庇うように掲げた左腕で、鉄爪を受け止めていた。
爪の先が腕にめり込んでいるというのに、血液が溢れる気配もない。
それどころか、感触が違うのだ。皮膚や肉という、やわらかいものに刺さっている気がしない。
どちらかといえば、そう。金属に刃をぶち当てたときの感触に似ている。
「教えてやろうか、異端者」
間近に、女の薄い茶の瞳がある。薄く笑っていた。
「私が何故、鉄の乙女(アイアン・メイデン)と呼ばれているのか」
「くそっ……」
思わず後ろに飛びずさって、距離をおいたハルトの目の前で、女は左手を口に近づけた。
白い手袋の、中指あたりを銜えて、ずるりと引き抜く。
さらされたその左手は、鈍い輝きを発していた。
鉄の骨組みで構成された指先が、ゆるりと動いた。
女の左手は、鋼鉄で出来ていた。おそらくは、その感触からして左腕全体、いや、左半身か?
「左側は痛みは感じないのだよ。残念だったな」
歯で引き抜いたその白手袋は無造作に地面に投げ出して、ユダは口唇の端を引き上げる。
再び、銃口を異端者どもに突きつけた。
「今まで散々と正規軍の名に泥を塗ってくれたものだ」
前触れもなく、ユダは引き金にかけた人差し指に力を入れる。
破裂音と共に、弾丸がハルトの左耳元を掠めた。
「次は当てる」
淡々と、女元帥は宣告する。
「……曲者揃いだぜ、正規軍ってところはよ」
喰えないタヌキに、どう見ても10歳ほどにしか見えない子ども。
やたらと腕の立つ直情型の美人に、飄々とした職業軍人、その上トクヤマの直系とまでくれば。
よくもまぁ取り揃えたものだと半ば感心して半ば呆れる。
「曲者揃いの異端者と相対するには、丁度いいさ」
ユダの表情からは余裕が消えることはない。
ハルトはふと、ユダの後方に視線を移した。
ゴルゴダの丘で出会った彫刻のような男の様子がふと、気になったのだ。
元帥に庇われた聖職者は、こちら側を見ていた。
正確に言えば、ハルトの、更に後方を。
(リョウコ……?)
ラジエルの視線が注がれているのは、後方の少女にだった。
わずかに見開かれたその、冷えた青い瞳には驚きの色がある。
(なんで……)
滅多に表情の浮かぶことのない大司教の、整った顔立ちに滲む困惑。
戦場と呼んでも差し支えない場所に、似合わぬ少女がいるから、という理由では説明がつかない。
まるで、似合わない場所に似合わない知人を見つけたようなその困惑……。
(顔見知り……まさか……)
がしゃん、と。
けたたましい音を立てて、建物の側面に等間隔に並んだガラスのひとつが砕け散った。
ガラスを勢いよく破って飛び出してきた何か質量を持ったものが、勢いよく地面に転がった。
「モエ!!」
聞きなれた声の、聞きなれない絶叫に、一同は地面に叩きつけられたそれの正体を知る。
割れた窓から、捜し求めていたスーツ姿が飛び出してくる。
「モエさん!!」
リョウコが、建物から少し離れたところに投げ出されて蹲る人影に駆け寄った。
モエは腹を抱えるような体勢で身を縮め、その場に転がっている。
ちらりと垣間見えた顔は、苦悶に歪んでいる。
「サイジョウさん!?」
「君たち……」
もはやほとんどガラスを失った窓枠を乗り越えて地面に降り立った男に、レイが驚きの声を上げる。
まさかこんなに傍にいようとは。
さすがのサイジョウも、瞠目して一同を見回す。そして、視界の隅に聖職者と軍人とを発見して、表情を引き締めた。
「貴様らっ……!」
砕け散った窓枠を乗り越えて、黒装束が地に降りたった。
「猊下……」
少し離れた場所に主である聖職者を見つけて、トクヤマもぴたりと動きを止める。
「来たんだね」
トクヤマの後ろから、ひょっこりと小さな体が窓枠を乗り越えた。
泰然とその場に立つ聖職者を見て、何故か悲しそうな顔をした。
「手間をかけすぎだ、ミカエル」
ようやく、生き彫刻が口を開いた。
居並ぶ異端者どもをその冷めた瞳で一瞥して、手駒を弾劾する。
「いい加減、遊びは止めにして、殺してしまえ」
抑揚を感じさせない落ち着いた声で、冷酷にラジエルは告げる。
ミカエルは、その金の双眸を閉ざした。
「御意に、猊下」
どこか諦めにも似た吐息を漏らして、ミカエルは腰の後方に腕を回す。
一度は仕舞い込んだ、蛇のような獲物を今度は二つとも、その手に取った。
「……最悪だ」
臨戦体勢の軍人3人、しかもそのどれもが手練。
ミカエルがその鞭のような獲物を、トクヤマが腰からカタナを抜くのを確認しながら、ハルトはぼやく。
元々それほど戦闘能力が高いわけではない上、今は片側の目がほとんど役に立たない状況では、間合いが図れない。
ちらりと横目で、後方のモエを振り返る。
リョウコに支えられてようやく体を起こしたところだった。
目立った外傷は見られないが、それでもダメージは残っているだろう。
期待してはならない。
面と向かって勝とうとするのは愚かだ。
どうにかすり抜けて、逃れる術を探らなくては。
しかしどうやって? 今までとは明らかに状況が違う。
旗色は悪い。
「さて、どうやって逃げたもんかね」
ネクタイの襟元に指先を突っ込んで、緩んだそれを更に緩めつつ、サイジョウが呟いた。いつのまにかすぐ傍にいる。
「それはお前が考えるんじゃないのか? 頭脳労働はそっちだろ」
「さすがにここまでは予定外だ。悪いね」
飄々とした口調は相変わらず。しかし、眼鏡を外したその顔には明らかな緊張があった。
さすがにここまできて緊張の欠片すら見られなかったら、軽蔑するだろうが。
こちらを屠るために晒されたいくつもの刃に、光がざらりと反射した。
十ほどにしか見えない幼子の姿をした男は、顔から表情を消している。
子どもらしい大きな瞳に見据えられて、レイは息を飲んだ。
静かな殺気が満ちている。その場に満ちているのは、憎悪や憤りではない。ただの、理由のない殺気だった。
聖職者と異端者。
それ以外に、殺しあう理由など何一つない。
緊張が、糸のように張り詰めてゆく。
何か、少しでも外界からの抗力でそれがぷつりと切れたりしたならば、神の兵士と呼ばれる黒服たちは一斉に切りかかるに違いない。
果たしてそのとき、生き延びられるのか。
今までいくつもの修羅場をくぐっては来たが、今回は分が悪すぎた。
「猊下―――」
どこかから、掠れた声。
「猊下、こちらに、いらしたのですか」
覚束ない、まるで引きずるような足音が、正面玄関がある方向から聞こえてきた。
背中にかかった呼び声に、ラジエルは異端者どもから視線を引き剥がし、半ば振り返った。
「ベリヤール……」
同じく、後方を振り返ったらしいユダの口から、その男の名前が落ちた。
泥酔者のように覚束ぬ足取りで、几帳面に軍服を着込んだ男が、近づいてくる。
いつもはしっかりと整え、後ろに流しているはずの髪はいまや乱れて顔にかかっている。
体中のあちこちが煤や土で汚れていた。
視線が何度も宙を彷徨い、ようやく焦点を保っているように思える。
ベリヤールは、ラジエルのすぐ傍までたどり着くと、がくりと膝から崩れ落ちた。
「聞こえないのです」
膝立ちになるようにして、ベリヤールはラジエルに縋った。
聖服にしがみつくように、爪を立てる。
「猊下、声が、聞こえないのです……」
愕然と、ラジエルは自らに縋りつく男を見下ろす。
見下ろす青白い顔は、何故か濡れていた。汗などではないように見えた。
顎を伝い、地に落ちるその液体は、粘着質に糸を引く。まるで、融けているようだ。
緩慢にまばたきを繰り返すその瞳には既に、生気がない。
この症状は、伝え聞くあの、白い粉の―――。
「確かに、聞こえていた、はずなのですが……。ああ、もっと、粉がなければ……」
聖服を掴むベリヤールの指は、小刻みに震えている。
禁断症状、だった。
「お前は、HGを……」
うめくようにラジエルは言った。
「声が、聞こえました、猊下」
焦点の定まらないその瞳は、どこまでも澄んでいた。
どこを見ているのか。
何を見ているのか。
他人には分からない色をしていた。
荒い呼吸に、目に見えて胸が上下する。
「神は、いたのですね」
徐々に機能を停止してゆくその肉体に、苦痛はあるだろうに。
男の顔は、いっそ安らかだった。
おそらくもはや、彼は何も見ていないのだ。
その、無垢な子どものように澄んだ瞳には、この世のものなど何も、映ってはいないのだ。
光が、見えているかもしれない。
麗しい国が。妙なる歌声さえ、聞こえているかもしれない。
彼の内にある、神と。その信仰と。
見えているのは、聞こえているのは、おそらくは。
「この建物が崩れたら……もう……」
もう。
見開かれたままの瞳から、水滴が静かに流れ落ちた。
「私は、愛していました。私を取り巻く、全てのものを」
縋った服の裾に口唇を寄せて、まるで懺悔をするように。
聖職者の足元にひざまずいた男は、掠れた声を紡ぐ。
本当は、何もかも分かっていたのかもしれない。
この体に何が起こっているのか。
聞こえる声が本当は、どんな作用なのかなど。
それでも。
美しい奇跡なのだと。
信じていたかった。
神はいた。
「猊下。どうか、御慈悲を、私に、ください」
黒い衣に幼子のように顔をうずめた。
*
どっと。
宙に血しぶきが散るのを。
そこにいた誰もが見た。
赤い飛沫(ひまつ)を霧のように散らして、軍服の体がどさりと力なく倒れた。
またたきひとつ出来ずに、人々は立ち尽くす。
ただ、懐から取り出した銃をその手に握った、彫刻のようなうつくしい男ひとりが、緩慢にまばたきをした。
ざっと間を通り抜けた風に、それぞれの衣服と髪が弄ばれて舞った。
大司教は、己の部下の命を一瞬で奪ったその凶器を、今度は躊躇いなく異端者たちに向けた。
「例え胸に金十字を抱いたものであろうと、秩序を乱すのならば容赦はない。動けば撃つ」
「ラジエル……」
「殺せ」
幼子のような部下の縋るような声にも動じずに、ラジエルは命じる。
黒衣の足元に、赤い流れが水溜りを作った。
「……どうする」
傍らのサイジョウに向かって、ハルトは聞いた。
自分の声が何故かとても震えていて、改めて動揺していることに気がついた。
サイジョウはただ、何も言わずにこちらに向けられた銃口と、それを向ける聖職者を見据えるのみだ。
それは、何かを待っているようにも思えた。
一体何を―――。
ひゅ、と風を切るような音と共に、石つぶてのようなものが投げ込まれたのは、次の刹那。
ばらばらと人々がそのつぶてを視線で追った直後。
地面に落ちた無数のつぶてが突然、けたたましい音を立てて爆発した。
「走れ!」
似合わぬ叫び声で、サイジョウが促す。
反射的に一同は、その場から身を翻していた。
「おのれ……!」
生き彫刻のような聖職者が、構えた銃の銃口を引き絞ろうとしたその目の前に。
両腕を広げて立ちふさがるものがあった。
「リョウコ!!」
思わず足を止めて、ハルトが振り返った。
ひとり、聖職者の前に立ち、一同を庇うように両手を広げているのは、少女だった。
その、決して屈強とはいえない背中に、力強さはなかったが、同時に迷いもなかった。
「行ってください」
はっきりと、リョウコが言った。
振り向きもせずに。
「何言ってるんだよ、リョウコちゃ―――」
「決めたんです! 私、自分で、選んだことだから。変えられません」
レイの制止も途中で切り捨てて、きっぱりと告げる。
「サイジョウさん!!」
いつまでも遠ざからないその気配に焦れて、リョウコが声を荒げた。
「私もう、決めたんです―――!」
「行こう」
まるで魔法でもかけられたかのように立ちすくむ人々の中で、一番に時間を取り戻したのはサイジョウだった。
低い声で促し、身を翻す。
「は!? 何言ってんだよ、お前……」
「そうですよ、サイジョウさん!」
食って掛かったふたりは、同時に押し黙る。
見つめ返す濃紺の瞳には、殺気すら滲んでいるような気がした。
「彼女の選択を、踏みにじる権利は何処にもないんだ。早くしろ、死にたいのか」
言い捨てて、サイジョウは再び駆け出した。名残惜しげにリョウコの背を眺めてから、モエもそれに続く。
決心をつけかねて、ふたりがその場に立ち止まっていると。
リョウコが肩越しに少しだけ、振り向いた。
「行ってください」
かすかに微笑んで、リョウコは言った。
「……くそっ」
何処に向けたか分からない悪態をこぼして、ハルトはレイの腕を引いた。
大司教は動こうとしなかった。
軍服も黒装束何故か、動かなかった。
「ハルト!」
「うるせぇ、俺だってな……!」
半ば無理やり引きずられて、レイが抗議の声をあげた。
やろうと決めたことが、あるんです。
揺らがぬ真紅の瞳がよぎった。
それは、こういう意味だったのか?
一体、それは何故だ。
「くそっ……」
もう一度悪態が落ちた。