カルチェ・ラタン
the New Testament
【中編】








 霧が晴れてきた。
 朝もやに濡れた石畳が、徐々に目の前に広がってゆく。
 見慣れた街並みが徐々に輪郭を取り戻すのを、ジャンヌは目を細めて見やった。
 まだ、カルチェ・ラタンの街は眠っている。
 薄れ始めた朝もやの中から、黒い影がこちらに向かって駆け寄って来た。
 見慣れた軍服を纏った、部下のひとりだった。
 ジャンヌの前にまでたどり着いて、その右掌を左胸の金十字に当て、敬礼する。
「サン・ピエトロ広場周辺に、兵の配置が終了しました」
「ご苦労」
 銀糸の髪をいつものように綺麗にまとめ、隙なく軍服を着こなしたジャンヌが、軽くねぎらいの言葉をかける。
「それでは、粛清が始まる正午まで各々待機。何かあったら通信で連絡するから、そのつもりで」
「はっ!」
 美貌の東軍大佐を前に、伝令役はぴしりと再び敬礼をする。
 くるりと踵を返すと、また朝もやの中に消えていった。
「これから昼まで、随分あるな」
 右斜め後ろから声がして、ジャンヌは肩越しにわずかに振り返った。
 予想とたがわぬ相手を発見して、軽く頷く。もう、敬語がどうと言うのも疲れた。
「そちらの守備は? アフライド」
「大佐殿から言い渡されましたことはすべて終了させました。報告が遅れましたことをお詫び申し上げます」
 からかうように口元にわずかに笑みを浮かべ、わざと丁寧な言葉で言う。
 聞き慣れないその言葉遣いに、ジャンヌは柳眉をひそめる。なんだか気色悪い。
「お疲れ様です、中佐。それでは貴方も、昼まで待機」
「昼までか。暇だな」
「不謹慎なことは言わないで」
「しかし、俺らがやれることなんて、高が知れてるんだろう。結局全権を持っているのは西軍なんだし」
「それはそうでも、気を抜いているわけにはいかないでしょう。粛清反対派がどれだけ動いてくるかも分からないのに」
 右腕にはめた時計で、ジャンヌは時間を確認する。
 アフライドがわめくのも仕方がない。まだ6時間以上ある。
 正直、警備といったって、何ができるわけでもない。
 今回の全権は西軍が握っている。いくら警備を任されたとはいえ、口出しをできるわけではないのだ。
 ここでこうして、早朝から突っ立っているというのも、悔しい話ではある。
「トクヤマ」
「はい」
 呼びかければ、声はすぐに返る。が、その姿は見えない。
「ご安心を。見えずともお傍におりますよ、ジャンヌ様」
「どうだ、街は」
 ジャンヌは、目の前にまっすぐ伸びる大通りを見つめたままで、尋ねる。
「……ええ、静かですね。静かすぎるというべきかな」
 いつもどおりののほほんとした口調で、トクヤマの声が返る。
「妙ですよね。当初の予定では、夜明けあたりからもっと、何かあるかと踏んでたんですけど。早起きして損しました」
 本音なのかそれともつくりものの虚構なのか、分からない明るさでトクヤマが笑う。
 彼は早起きというレベルを超えて、深夜から色々な場所に偵察に赴いていたのだと、思い出す。
「そうだな、静かすぎる」
 今回の粛清に反対をしていたのは、何も学生たちだけではない。
 普段から反教会を掲げているレジスタンスグループのいくつかからも、今回の粛清に対してのテロの予告などは届いていた。
 夜明けと同時に、何かひとつはトラブルが起こるのではないかと踏んでいたのだが。
「何もないってことは、いいことさ。だろ、シノブ」
 ジャンヌの隣で、煙草を取り出したアフライドが軽く言う。
「あはは、そうですね。やりもしないテロの予告だけはやめてほしいですけど。おかげで僕、睡眠不足でふらふらですよ」
 相変わらず気の抜けた口調でトクヤマも応じる。
 ジャンヌは、軽いめまいを感じて額を指先で軽く押さえた。
「お前たちの楽観主義が、時々羨ましくなる……」
「まぁ、このぐらいがちょうどいいんだろうよ。お前も大将もなんだかんだで悩みすぎだからな」
 紫煙を細く空に吐き出しながら、アフライドが薄く笑う。
「俺らの気が抜けていたほうが、バランスとしては、うまくいくんじゃないのか」
「ただの屁理屈だ」
 嘆息してジャンヌが言うと、あはは、とどこかからトクヤマの笑い声が聞こえてきた。
 その能天気さに、ジャンヌは思わず頭を抱える。
「―――だが、確かに」
 その冷えた銀の双眸で、徐々に光に満たされてゆく広場を眺めて、呟いた。
「確かに、何もないということはいいことなのだろう」
 特に今日は。
 何も起こらずに済めばいい。

 夜が明け始めた。



1.

「……似合わないね」
「煩い。別に俺だって好きでこんな格好してるわけじゃない」
 日も随分と高くなって来た。
 カルチェ・ラタン中央区にあるサン・ピエトロ広場には、時が経つにつれて徐々に人が集まり始めている。
 その人波の中に、どこか不恰好な姿があった。
 服装は模範的な修道士のそれだ。
 裾の長い黒のローブに、頭からすっぽりとフードをかぶってしまっている。
「ひやひやしたぜ。ここに来る前に何度軍服に呼び止められるかと……」
「カルチェ・ラタン以外だったら、呼び止められてたかもしれないけど。幸い、ここには修道院も多いし、こんなふうに普段からフードをかぶってる宗派もあるからね」
 二つのローブは並んでなだらかな坂を登る。
 整えられた石畳を上りきると、広場だ。
 すでに広場を囲むように楕円に人の壁が何層にも出来ている。
 その中には確かに、彼らと同じようにフードをかぶった修道士の姿もちらほらと見え隠れした。
 人と人の頭の隙間から、広場中央を覗き見る。
 噴水広場の前に立てられた、十字架は4本。
 その足元を、せわしなく黒い人影が行き来している。
 黒字に金の縁取りを施した、禁欲的(ストイック)なデザイン
 左胸に、誇示するような金の十字架の刺繍だ。
 正規軍―――。
「……多いな」
 広場をうろつく兵士を視線で追いながら、片方が言う。
「教会が動いてるんだから、仕方ないといえば仕方ないけど。……うまくいくのかな」
 線の細いもう片方が、声に不安を滲ませて独白した。
「まぁ、それはやってみないと分からないってこった」
 無責任に吐き出したように見えて、声は硬く張っていた。
 微妙に滲む緊張に、細身の男がフードの内側で緑色の瞳を細めた。
「お、いたいた」
 忙しなく場を彷徨っていた赤の瞳が、広場の端でとまる。
 見覚えのあるものを発見した。
 黒を貴重とした軍服に、膝裏あたりまである丈の白い上着を羽織っている女の姿。
 どことなく手持ち無沙汰という体で、忙しく動き回る兵士たちを見つめている、銀の瞳。
 その冷めた美貌の傍には、当然のように金の短髪が控えていた。
 東軍大佐ジャンヌ・ビレス、同中佐アフライド・ゼイン。
 見知った顔であり、あまり見たくない顔でもある。特に今日は。
「やっぱりいるか、面倒だな」
 不謹慎に嘆息して、片方が肩を落とす。
「昨日、警備の指揮はあの人たちだって聞いたばかりじゃないか。今更だよ」
 一応あっさりと返してはみたものの、美貌の女大佐がしっかりと帯剣しているのを見とめて、線の細いほうも少々げんなりした。
 厄介なことこの上ない。

 そのとき、場がざわりと揺れた。
「……始まるぞ」
 声を低く落として、片側が囁いた。
 正午を報せる聖ガイア教会の鐘が、広場に響き渡った。


 広場の中央に、黒い影がひとつ、進み出た。
 顔色の悪い、神経質そうな男だった。軍服を纏ってはいるが、とても似合っているとはいえない。
 右手の中指で、繊細なつくりの眼鏡を押し上げて、どよめく人の壁に向き直る。
「神の御力を、疑うことなかれ」
 顔色の悪い男の叫びが、人の波に響き渡る。
 応じる人々の声があった。粛清を拒み、厭うものがいるように、粛清を求めるものも、確かにこの街にはいるのだ。
 神の代弁者、教皇の膝元。
 作り上げられた信仰の都、カルチェ・ラタン。
 信心深く、禁欲的に生きる人々も多くいる。ここ数日、粛清容認派と反対派の対立は、粛清の期日が迫るにつれて悪化していた。
 広場の雰囲気も、どことなく殺気立っている。
「神の舟。それは父が我々をこの地に運んだ奇跡。根拠を求めてはならない。根拠を求めることは、疑うことだ」
 熱に浮かされたように、演説は続く。
 賛同と怒号も、徐々に熱を帯びてきた。
「神の愛を疑う哀れな迷い子たちに、聖なる火を。救済を」
 広場の傍らに止められていた軍用搬送車の後ろ側の扉が開き、黒いローブ、頭からすっぽりと白い頭巾をかぶらされた人影が4つ、引きずり出されてくる。
 その姿に、広場に集まった人間たちの興奮は、一気に膨れ上がった。
 囚人はずるずると中央に立てられた柱の元まで引きずられ、それぞれ一本一本にくくりつけられてゆく。
 気が付けば、柱の周囲を取り巻く兵士たちは、皆手に松明を持っていた。
「……よし、そろそろか」
 修道服の片方が、フードの奥で赤い瞳を細めた。
「どうせやるなら派手にやろうぜ」
 ばしりと、強めに隣の修道服の背を叩いて、器用に人波を縫って広場に近づき始めた。
「後でな」
 そういい残して、やがて片方は人波に消える。
 じりじりと、手の形に痛む背中を抱えながら、もう片方は深々と溜息をつく。
 そして、緑の瞳で一度、広場に並ぶ4つの十字架を眺めてから、身を翻して、広場を後にした。


            *


 高みから見下ろす人波に、男は強い眩暈を覚えた。
 一体何がどうなってこうなってしまったのだろうか。
 視界の端では、黒い服の男たちが持つ松明がゆらゆらと炎を揺らしている。
 火炙りなど、疾うの昔についえた風習だと。研究する書籍にのみ現れるものだと、そんなふうに思っていた。
「お前たち……」
 かすれた声を絞り出した。
 自分の周りに同じようにくくりつけられている学生たちを、顔が動く範囲で眺めた。
「すまない」
「いいんです」
 すぐ隣から声が返った。
 その声の主は、しっかりと閉じていた双眸をうっすらと開いて、未だ爛と光る瞳で眼下の人々を見下ろす。
「僕たちは、自分で選んで、教授の研究のお手伝いをしていた。強制されてたわけじゃない。……悔やんではいません」
「……ああ、そうか」
 サウルは、きつく双眸を閉ざした。
「でも、キリヤは平気かな。無理に追いかけてこないといいけど……」
「大丈夫だろう。あいつの父上が今日は家から出さないだろうさ」
「分からないぞ、鉄砲玉だからな」
「違いない」
 場違いな教え子たちの談笑も、今は切なく耳に届くのみだ。強がりだと、知れている。
 どんなに学の高い人間も、死は怖い。
 キリヤ・レスター。
 大貴族の子息だが、嫌味なところがなく、少々世間知らずで一本気なところを先輩たちから可愛がられていた。
 彼だけは、無事であるといいが。


「聖なる火を」
 高らかに叫ばれた文句に、サウルは再び目蓋を持ち上げた。
 熱に浮かされ、興奮した民衆。
 民衆を先導する軍服。
 これは何だ。
 狂気だ。

 ゆらりと揺らめく炎が徐々に近づいてきた。
 足元に置かれた薪や固形燃料に、その松明から火を移すつもりなのだろう。
 もはや、これまでか。
(神よ、貴方は少しの探求すら、赦してはくれないのか―――)
 左右を見れば、談笑はすっかり止んでしまっていた。
 今にもわめき出さないように必死に唇を噛んで黙っている。必死に耐える学生たちのその表情に、サウルはやりきれずに目を逸らした。

 間隙。

「その粛清、待った―――!」
 高らかな叫び声と共に、広場の中央に黒いローブがひとつ、進み出た。
 次の瞬間、背後にした噴水が、ざあああっとけたたましい音を立てて吹き上がった。
 まるで雨のように降り注ぐその雫に、松明の炎が消える。
「お、おい貴様一体……」
 火の消えた松明を石畳に放り出し、一般兵がその黒いローブに近づいた。
 そのローブの肩に手を置いた刹那、ぐっとうめき声を上げてずるりと地面に崩れ落ちた。

 何が。
 起こったのか。
 広場は一瞬にして水を打ったように静まり返る。
「何をしている!」
 白い上着を乱暴に脱ぎ捨てて、銀髪の軍人が叫んだところで、止まった時間は急激に動き始めた。
「呆けている場合か! 粛清の妨害をするものを、排除しろ!」
 女大佐が声を張り上げると、硬直していた軍人たちがいっせいに動きを取り戻した。

「裁きとは、人の手によるものか?」
 降り注ぐ雫の中で、黒いローブが声を張り上げる。
 芝居がかったように、腕を広げる。
「裁きとは、神が人に与えるもの。この粛清、異議あり!!」
 掴みかかってきた兵からするりと身をかわし至極楽しそうに言い放つ。
 その声に応じるように、群衆の中からどん、という鈍い爆発音が立て続けに起こった。
「何事だ!」
「ぼ、暴動です!」
 人波をふり仰いだジャンヌの耳に、息を切らして駆けつけた部下の、情けなく裏返った声が飛び込んできた。
「広場だけではありません、連鎖するようにカルチェ・ラタンのあちこちで……!」
「……レジスタンスの奴ら、結託してやがったか」
 忌々しげにアフライドが吐き捨てる。
 個々の力は微々たるものであるとしても、同じ志を持つものが束になられたら、結束力は計り知れない。
 元々レジスタンス自体、小さな利害の不一致で仲がいいとはいえないものの、今回は大きな志のために目をつぶったのだろうか。
 予想外だった。
 彼らは自由であるがゆえに、ささやかな損にも納得しないと思っていたのだが。
 誰か、裏で指揮を取ったものがいる。
「ど、どうしましょう、大佐……」
 部下が情けない顔で、上官の端正な顔を見上げる。
 ジャンヌは一瞬だけ、その流麗な顔立ちを歪ませて思案する。
「……警備に出ている東軍兵全員に伝達」
 迷いをすぐさま振り払って、命令を待つ犬のような部下に声を投げた。
「可及的速やかにカルチェ・ラタン市街の暴動を鎮圧せよ」
「……は? でも、広場、は……」
 部下は上官から、広場の中央で立ち回る黒い修道服に視線を流した。
「言われたことをやれ。広場は―――」
 ジャンヌは、左の腰に下げた剣の柄に手をかける。
「あいつの相手は私がする」
 するりと、銀(しろがね)色に輝く剣を鞘から抜き、動きを妨げる鞘を地面に放った。
「早く行け!」
 硬直している部下に鋭く声を投げると、兵士は雷に打たれたようにびくりと震えたあと、「は、ハイっ!」と情けない返事をして駆け出していった。
「さて、大佐殿。俺はどうすればいいでしょうかね」
「お前も私と一緒に広場だ。サポートしろ、アフライド」
 右手の獲物の確かな重みを確かめながら、ジャンヌはゆらりゆらりと陽炎のように立ち回る黒い影を見据えた。
「了解」
 口の端で笑みを作って、アフライドは腰のホルスターに手を伸ばした。


            *


 がくり、と膝が砕けて、ベリヤールはそこにへたり込んだ。
 すぐ鼻先に、黒く輝く鉤爪のようなものが突きつけられる。
「動くなよ」

 すぐ傍に立った黒いローブから、言葉が降ってきた。
 頭からすっぽりとかぶったローブの隙間から、黒い髪が覗いている。
 赤が。
 見えた。
 赤い瞳。
 愕然と瞠目して、息を呑む。
 その動作に、修道服の男は薄く笑った。
「そのぐらいはっきりした反応だと、いっそ気持ちいいんだけどな。怪我したくなけりゃ、動くんじゃねぇぞ」
 勢いよく吹き上げる噴水から、今も尚大きな雫がばたばたと落ちてきていた。
 服と髪とが、徐々に濡れて重くなってゆく。
 雑踏の中、何かが近づいてきた気配にふと、男は顔を上げる。
「……どこかで見た鉤爪だな」
 すでに剥き身の剣を手にした女だった。
 人形のように整った顔に、今は表情がない。
「さすがにあんたの目までごまかせるとは思ってないさ。東軍大佐におかれましてはお元気そうで何より」
「相変わらず、よく回る口だな!」
 一閃。
 ジャンヌは剣を横になぎ払った。
 剣の先端に黒のローブが巻き込まれて、裂ける。
「そちらさんは相変わらず短気だな、本当に」
 隠れ蓑の用途を失ったローブを、乱暴に脱ぎ捨てる。
 その男の鼻先に、刃の切っ先が向いた。
「何の真似だ、ハルト・シラギ」
「何の真似、と言われてもなぁ。粛清の邪魔、としか言いようがないだろ」
 場違いに、両手を降伏ポーズに挙げて、ハルトは笑ってみせる。
「レイ・クレスタはどうした」
「心外だな。俺はいつでもレイとワンセットでいなきゃならないわけか? ゴルゴダで別れて、それっきりだよ」
「貴様のよく動く口は信用できんな」
「残念だな、"お嬢様"の信頼を得られないのは」
「戯言を吐くな!」
 ざっと振り上げた剣を、勢いをつけて振り下ろす。
 金属のぶつかり合う高い音と、小さな火花が散った。
「いってぇ……、よくその細腕にそんな力があるよな」
 右手の鉤爪で受け止める。じん、と腕全体に広がった痺れに、ハルトは片目を細めた。


「あーあ、本当にキレやすい奴だな。若いってことか」
 のんきに呟いて、上官の背中を眺める。
 騎士の立会いに水をさしては、後で怒られるのはこちらだ。それを見越して、アフライドは一歩引いて周囲を眺め回した。
 広場は騒然としている。
 純粋な野次馬は蜂の子を散らしたようにいなくなり、粛清の否定派と肯定派とが、掴み合いの喧嘩をはじめている。
「俺も、落ち着いてはいられないか」
 金の短髪を荒っぽくかき回す。
 たたき上げの第六感が先程からうずいていた。
 "まだ何かある"。
 あの黒髪に赤い瞳を持つ男。粗野なところはあるが馬鹿ではない。
 わざと目立つように広場に出てきた意味は?
 何か裏が―――。
 アフライドの思考は、そこで停止を余儀なくされた。

 ざぁっと降り注いでいた噴水の水が、止まった。
 それと同時にどこからか、おびただしい量の白い煙が、噴水を中心として噴き出してきた。
 あっというまにその煙は広場を包み込み、人々から視界を奪った。



2.

「な、なんだ!? これ、霧……」
 つかみ合っていた男たちが、お互いの襟首を掴んだまま我に返る。
 急激に押し寄せてきた濃密な白い煙に、広場はあっという間に覆い尽くされてしまった。
 ひんやりとした煙に、いきり立った暴徒たちの勢いが削がれてゆく。
 男たちは思わず、お互いにつかんだ胸倉を離した。


            *


「なにが、起こっているんだ……」
 白く塗りつぶされてゆく広場を眼下に、サウルはうめいた。
 突然現れたあの修道服の男はいったい何者なのだろうか。
「うわ!」
 思案しているサウルの右手側で、学生の声が上がった。
 首をめぐらせてそちらを見ても、隣の十字架ももうすでに煙に飲まれてしまっている。
「バイド! どうしたんだ、バイ……」
「声を、低くしていただけますか」
 潜められた男の声が、すぐ後ろから聞こえた。
 あっけにとられているうちに、即席の十字架に括り付けられていた足の戒めがぷつりと音を立てて切れる。
 よろめくようにして、サウルは石畳に落ちた。
「怪我はありませんか」
 先ほどの声が近づいてきて、今度は背中に戒められた両手の縄を切る。
「いったい、君は……」
 縄の痕がくっきりとついた手首をさすりながら、サウルは後ろを振り返る。
 が、そこに人影はなかった。
 突然現れたその声の主は、サウルの左手にある、最後の十字架の縄を切っているところだった。
 立ち込める白いもやのなかで、鮮やかな金の髪が見え隠れした。
「教授……」
 隣にくくりつけられていたはずの教え子が、同じように赤い痕のついた手をさすりながらもやの中から現れる。
「バイド、お前」
「怪我がないようで、何よりです」
 なにがどうなったんだ、と教え子に問いかける途中で、先ほどの声が割って入った。
 すべての十字架の縄を切り終え、サウルの目の前に現れたのは、黒い修道服をまとった男だった。
 光を跳ね返す見事な金髪に、深い緑の瞳を持つ、線の細い男だった。
 その顔を直視して、サウルは口を開きかけて、またすぐに閉じた。
 見覚えがあった。
 だが、とっさにそれが誰かまでは、思い出せない。
「クレスタ!」
 サウルの周囲に集まってきた教え子たちの中から声が上がった。
「お前、クレスタだろう、どうしてここに」
「フェリオ……。君も教授の研究室に出入りしていたのか」
 クレスタ、と呼ばれた金髪の男は、教え子の一人を見て、目を丸くした。不意の遭遇だった。
「クレスタ。君は、レイ・クレスタか? サン・エノク大学の学生の?」
 その響きに、ようやくサウルの記憶に引っかかった名前があった。
 そうだ。
 合同講義のときに顔をあわせたこともある。
 サン・エノクの宗教史を専攻していた秀才だ。そして今は、異端者と呼ばれる男。
「お久しぶりです、サウル教授。でも今は、あまり話をしている余裕はありません」
 毅然と、レイ・クレスタは言った。
 その意思の強い緑の瞳をまっすぐに、サウルに向けてくる。
「脱出してください。この霧が晴れないうちに。学生街に生活するものならわかるはずです。この噴水の裏手に、学生街にぬける細い路地がある。その路地で、キリヤが……。キリヤが待っているはずです。彼が、カルチェ・ラタンの外に通じる地下道を案内してくれる。一刻も早く、カルチェ・ラタンから離れてください」
「キリヤ・レスターが」
「自分だけ教会の手から逃れたことで、ひどく自分を責めていました。何かしたいと、言うから」
「君は一体、何で粛清の……」
「話は後です。この霧も、長くは持たない。ただ、僕はこの粛清に納得はできない。それだけです」
 黒いローブをまとった青年が、意志の強い口調で言う。
 すぐそばで、剣戟の音。
 先ほどの修道服の男と、軍人が今も尚この状況で獲物を突きつけあっているのだろうか?
「信じてくれなくてもかまいません。でも、ここにいたらどの道殺されるだけです。それだったら、少しでも生き残る可能性のある、選択を」
「教授、俺はクレスタを信じます。中等部で一緒だっただけですけど、何の考えもなしに、こんなことをする奴じゃない」
 旧友の言葉に、思わずレイは苦笑する。
 そんなに信頼されているとは思わなかった。
「それにもし罠だったとしても、このままここに残っていたら殺されるだけだ」
 もう一人がぼそりとつぶやいた。
「……わかった。君を信じよう」
 わずかな間隙の後、サウルは意を決したようにうなずいた。
「あの細い道なら、学生街に住むものなら誰でも知っている。急ごう」
 戒められ続けた体が、まだぎしぎしと不調を訴える。その体を引きずるようにして、サウルが歩き出した。
 つられて歩き出した学生たちを促して、噴水の裏から続く細い路地へと向かう。
 学生たちが駆け出したところで、サウルはふと足を止めて、レイを振り返った。
「もし君に、もう一度会えたら、教えてもらえないだろうか」
 レイは軽く首をかしげて、サウルを見つめ返す。
 彼に教えられることなんて、何かあっただろうか。
「君がなぜ、異端者と呼ばれるようになったのか」
 お互いの間に繋がる糸があるとするならば、自分が疎んじていたはずの"異端者"に、ある日突然突き落とされたことだろう。
 一度は、すべてを信じた。
 神、バイブル、奇跡。
 この世界を形作る、教会の掲げる理想と教義と。
「……ええ、機会があったら。お気をつけて」
 頷き返して、レイはかすかに笑みを浮かべた。
 口の端だけで笑い返すと、サウルはもう振り返らなかった。
 薄れ始めたもやの中を、噴水の裏、細い路地の方へ消える。
 その姿が見えなくなるのを見送ってから、レイはほっと安堵の吐息を漏らした。
 動きづらい黒いローブをもぞもぞとその場に脱ぎ捨てる。もう用済みだ。
「ええと、次は……」

―――レイくんは長いことカルチェ・ラタンに暮らしていたから、地理に明るいはずだ。裏側から回って、教授陣を救出してほしい。
 サイジョウ・ヒイラギに告げられた手筈を確認する。
―――正午、ガイア中央教会の鐘を合図に、いっせいに各地で暴動が起きる。普段はあまり仲良くないレジスタンスの皆様に、僕が伝達済みだ。うつくしい連携プレイをしてくれると思うよ。煙幕が広場に充満してから勝負だね。そして、教授陣を救出した後は……。

「早々に、退避、だったよな……」
「おっと、そうはいかねぇな」
 提示された作戦を繰り返して、踵を返したときだった。
 振り返ると目の前に、黒光りするものが突きつけられた。
 銃口。
 弾丸の通り道が、目の前にぽっかりと穴をあけている。
 徐々に薄らいできた煙幕の中、目の前に立っているのは、黒い軍服。
 金の短髪に、冴えた青の瞳を持つ男だった。
 目元と口元に、うっすらと笑みを浮かべて、少し高い位置からレイを見下ろしていた。
「動くんじゃねぇぞ。動いたら脳天ぶち抜くからな」
 一見飄々と締まりがなさそうに見える表情にも、どこか針のような鋭さが垣間見えている。
 隙はない。
「久しぶりだな。ゴルゴダ以来か」
 黒光りする銃口を、レイの鼻先に押し付けて、アフライド・ゼインは和やかに挨拶をした。
 まるで長い間顔を合わせていなかった旧友同士の再会のように。
「元気そうで何よりだ。この間よりはいい顔してるじゃねぇか」
 口の端を引き上げるようにして、アフライドが笑う。
「おかしいと思ったんだ。あの黒髪ひとり、単身で乗り込んでくるはずない」
 近づいてくる気配を、全く感じなかった。
 レイは、瞬きを忘れて、自分をしっかりと見据える銃口を見つめ返した。
「お前たち、一体何がしたいんだ? どうしてここまでして教会に逆らう?」
 片手はだらしなくポケットに突っ込んだままで、アフライドは片眉を持ち上げた。
「わざわざ危ない橋を渡る必要なんて、あるのかよ?」
 そう。生き方ならば。
 他にも無数にあるはずだ。
 教会に逆らわず、生命を狙われることもなく。ましてやこんなふうに銃口を向けられることもない道。
 "どうしてこんな生き方を選ぶ?"
 その問いは、いつも傍にあった。この旅に出たその日から。
 安穏を。平穏を。どうして捨てた。
 今は、その答えの輪郭なら、見えるような気がしている。
「僕は―――」
 喧騒、剣戟、怒号。そのすべては今は、少し遠巻きにある。
「僕は、この道を信じたから。ここまで来たんだ」
 平穏を引き換えにしても、諦められないものもある。
「誰にだって、どこにだって危険はあるんだ。何かをしたいと思ったら、危険ならすぐ傍にある」
 危険の規模は違っていても、平らなだけの道はない。
「僕は、ずっと信じてきた。神の存在、その力、信仰の尊さ、救済。いや、今だって信じてる。信仰を、失ったわけじゃないんだ。ただ、こんなやり方は、納得できない」
 深い緑の瞳には、強い意志の光がある。
 以前ゴルゴダで出会ったときとは比べ物にならないその強さに、アフライドは内心で驚いた。
 自然と口元が緩んでいることに気づく。
 こういう一本気な奴は、好きだ。
 だが、残念なことに、彼は一般人ではなく、軍人だった。一般兵でもなく、佐官だった。
「そうか。その様子じゃ、説得もが意味がなさそうだな。かといって、俺も困ったことに、部下を抱える中間管理職でね。上も下も困った奴ばかりだが、投げ出したりは出来ないわけだ。教会に給料以上の義理はねぇが、可愛い可愛い上官や部下に危険が及ぶかもしれない"異分子"を逃がしてやるわけにはいかない。容赦はできねぇな」
 野生の獣のように、軍人の青い瞳は爛とした光をたたえていた。
 獲物を追い詰めて、息の根を止めるけだものの。その眼。
「個人的にお前さんに恨みはねぇんだが、これも仕事でね。―――レイ・クレスタ。聖遺物への接触および、正規軍への度重なる反抗・公務執行妨害により、Aクラスの異端者に認定済み。発見次第、殺害が許可されている」
 とうとうと流れるように呟きながら、レイの眼前に突きつけたピストルをゆっくりと下ろし、左胸のあたりに押し当てる。
「って、ことで、悪いが死んでもらうぜ」
 アフライドの表情が、酷薄に歪む。
 普段のだらしなさのようなものはすっかりと剥げ落ちて、刃のような鋭さが剥き出しになっていた。
 これが、東軍中佐の貌(かお)だ。
 レイはぐっと唇を噛んだ。自然と、右足がわずかにじりっとあとずさる。
 それに反応するように、アフライドがより強く、銃口をレイの左胸に押し付けた。
 わずかに頤を持ち上げるようにして、冷めた青の瞳が見下ろしてくる。追い詰める事を楽しんでいる。
 この瞬間、生命は完全に、この男の人差し指一本に握られていた。
「俺は、うちの大将やジャンヌみたいに優しくはねぇんだ、実は」
 驚くほど、相手は冷静な顔をしていた。ためらいは見られなかった。
 この男は本当は、怖い男なのかもしれない。
 また、右足がじりっと石畳を後ろに滑る。
 硬い銃口を押し付けられた左胸の内側で、鼓動が乱れ始めた。
 このまま撃たれれば、確実に死ぬ。


 どっ、と。
 広場のちょうど中央に炎の柱が立ち上ったのは、そのときだった。
 アフライドの肩越し、急激に広がった赤々とした焔(ほむら)に、レイは愕然と瞠目する。
 爆風が、広場中央でもみ合っていた民衆を四方に跳ね飛ばす。
 ぬるい風の壁が一気に吹き付けて、肌をざああっと撫でて過ぎた。
「ジャンヌ……!」
 口の中だけで名を呼んで、反射的にアフライドが後方を振り仰いだ。
 その一瞬。
 隙を逃さずに、レイは右肩から思い切り、目の前の男に体当たりを食らわせた。とっさのことに足元がふらついたのか、左胸から銃口が離れたのを感じる。
 体当たりの勢いそのまま、黒煙を上げる広場の中央へ向かって駆け出した。
 くそっ、と後方で悪態としたうちが漏れ、立て続けに2発の銃声が追ってきた。
 左の肩口。右の脇腹。
 かっと焼けるような痛みが駆け抜けた。かすっただけで済んだのが、まだ運がいい。
 びりびりと体中に孤を描くように広がる痛みに、歯を食いしばる。
 広場中央には、濛々と黒煙が立ち上っている。爆風は、先程の白い煙幕を完璧に吹き飛ばしたが、代わりに黒煙と舞い上がった土ぼこりが視界の邪魔をする。
 銃声は、もう追ってこなかった。
「ハルト!!」
 黒煙に向かって叫びかける。先程まで目の届くところにいたはずの、幼馴染の姿がない。
 じりじりと肩と脇腹が熱を持ち始めた。じわりと服に液体が滲む感触。
 先程の爆風に吹き飛ばされた暴徒たちが、そこここにへたりこんでいるのが見えた。
 煙が目に飛び込んできてこまかい針に刺されるような鋭い痛みに襲われる。
 叫ぶと咽喉に煙が飛び込んできて、思わず咳き込んだ。
「ハル……!」
 急に、横から伸びてきた何かがレイの片腕を強く掴んだ。
 ぐっと斜め後ろに強く引っ張られ、レイは慌ててそちらに顔を向ける。
「……探してるくせに通り過ぎるなよ、冷てぇな」
 咳き込みながら体を起こすその姿に、レイはほっと胸をなでおろした。
 もちろん無傷というわけではなかった。服の所々が切れて血が滲んでいるのは、爆発のせいか、それともジャンヌがつけた傷なのだろうか。
「爆発のこと、知ってた?」
 口の端に滲んだ血を乱暴にぬぐいながら、ハルトは首を横に振る。
「いや。小規模な爆発はあるはずだって聞いてたけどな。まさか広場の中央が爆発するとは思ってなかっ……、うわっ!」
 薄らいできた黒煙と土ぼこりの隙間から、一突き。
 鋭く輝く剣が突きこんできた。
 思わず二人は、とびずさって避ける。
「しつけーぞ、お前っ!」
「煩い、これもお前たちの差し金か!?」
 先程の爆発の余波を食らったのか、綺麗に纏め上げた銀の髪がほどけてしまっている。
 何かがぶつかったのか、その美しい顔立ちを損なうように、額に切り傷が出来ていて、赤い雫が下に向かって流れ落ちていた。
「知るか! 爆発は俺たちじゃねぇよ! ―――行くぞ!」
 剣を構えなおすジャンヌに叫びかけて、ハルトは身を翻した。レイもすぐさまその背中を追う。まだやることがある。
「待て、貴様ら……!」
 広場を通り抜け、市外へ向かう下り坂へ向かう背中を追いかけようとして、次の瞬間がくりとジャンヌはその場に膝を折った。
 先程の爆発の際に、どうやら左足をひねったらしい。
「無茶すんじゃねぇ!」
 聞きなれた声が聞き慣れない怒鳴り声を発する。
 膝を折るジャンヌの肩に、後ろから手が乗った。
「でも……!」
 手を置かれた肩越しに半ば振り返り、見慣れた部下の顔を発見した。その表情は険しい。見慣れない顔だった。
「"でも"、じゃねぇんだよ。―――"シノブ"!!」
 アフライドが、わずかに上方を仰いで叫んだ。


 広場を抜け、放射状に伸びるいくつもの道の、細いひとつを選んで潜り込もうとしたそのときだった。
 突然、上空からなにかひらりと光るものが急降下してきて、ざっくりと足元に刺さった。
 反射的に、ハルトとレイは足を止める。
 石畳にしっかりと刺さっていたのは、3本の細いナイフ。
 一体どこから―――。
「残念ですけど、ここから先にいかせるわけにはいかないですね」
 前方。今まさに飛び込もうとしていた細い路地の先から声がかかって、地面のナイフから顔を上げる。
 そこに、黒いものがいた。
 先程まで誰もいなかったのに。
 その小柄な人影は、軍服ではなかった。
 髪の先からつま先まで、漆黒。
 よくよく見ると、上着は肩から袖がない。が、細い黒い布のようなものが、肩から手首あたりまで幾重にも巻きつけられていて、袖があるように見えた。
 吹き抜ける風に、その布の先がひらひらと、尾のようにたなびく。
 長めの黒髪をしっかりと後ろに流す形にして、白い顔を露にしている。
 女のように白くきめのこまかいその顔立ちは、涼やかで中性的だ。
 背。腰のあたりに真横にくくりつけた鞘。
 その形(なり)を見て、ハルトは思わず舌打ちをした。
「正規軍に、こんな厄介な秘密兵器がいたとはな」
 突然現れたその黒装束の男は、その涼やかな口元にうっすらと笑みを浮かべている。
 が、空気は恐ろしいほど張り詰め、隙はなかった。
「上官からお二人の噂はかねがね聞いてましたよ。面白そうな人たちだな、と思って前から会ってみたかったんです」
 さすがのレイも、周囲の温度が突然下がったのを肌で感じた。
 やわらかい口調とは裏腹に、どんどんと何もかもが張り詰めてゆく。
「……なんとかして、逃げるぞ」
 ひそりと声を低めて、ハルトが呟いた。
 横目でその表情を伺って、レイは思わず眼を見張った。
 この虚勢を張るのが大好きな幼馴染の、こんな余裕のない顔は久しぶりに見た。
「ロウエンの、暗殺秘術を会得した人間の正装だ。気を抜くなよ、殺られる―――」
 ロウエン。知識でだけは知っている、独自の伝統を貫いている、よく言えば安定した、真実を言えば閉塞した地域の名だった。
 体がうまく動かないことに、レイは気づいた。
 動物的な勘が本能的に怯えているのだということに気づいたのは、指先が小刻みに震えていることを自覚してから。
「挨拶が遅れましたね。はじめまして。トクヤマ・シノブといいます」
 にっこりと破顔して、どうぞよろしく、と付け加える。
 が、その右手は腰のあたりに下がり、真横にくくりつけられた鞘に伸びた。
「ロウエン領主、トクヤマ家の末席に名を連ねるものとして。何より、東軍佐官に仕える"下僕"として、"主君"に危害を及ぼすものはすべて敵(かたき)」
 柄を握り、その鞘からするりと獲物を抜き出す。
 ぬらりと光を反射する、美しいカタナだった。
「私怨はないですが、僕の忠誠のため、残念ですがここで死んでいただく」
 抜き出したカタナを、眼前で真横に構える。
 相変わらず口元はやわらかい笑みをたたえている。が、漆黒の瞳は恐ろしいほど冷たい。
「ご安心を。僕はプロですから。抗わなければ一瞬で済みますよ。怖くはありません。快楽殺人者ではないので、いたぶる趣味もありませんから」
 口元だけでたたえるその涼しい笑みが、ざああっと背筋を逆さになで上げていった。
「早く片付けて、ジャンヌ様の手当てをしてさしあげないと。あの顔(かんばせ)に傷が残ったら、僕が困る」
 さも重要な事柄のように深深と溜息をついて、トクヤマは改めてハルトとレイの顔を交互に眺めた。

「僭越ながら、お相手仕る」



3.

 暗い地下通路を抜けて、開かれた扉の先は目がくらむほどに明るい場所だった。
 一面の白。
 指先一本で器用に扉のロックを外した男が、だいぶよれたスーツ姿で、ためらいなく、開かれた道の先へと歩き出す。
 一歩先。白の世界に踏み込めないまま、モエはしばらくその背中を見つめていた。
 しばらく歩いてから、ふと、スーツ姿が振り返る。
 穏やかな顔をしていた。
「大丈夫?」
 軽く首を傾けて、サイジョウが訊いた。
 モエは何も言えずに立ち止まってしまった。
 平気だと思っていたのに、ここまできたら急に。
 足がすくんでしまった。
「大丈夫だよ」
 今度は諭すように、サイジョウが言う。
「君はもう、D−03じゃない。実験体じゃないよ」
 それはただの言葉なのに。
「平気だろう?」
 ただの言葉なのに。金縛りがほどける。
 そうだ、もう。昔とは何もかもが違う。
「はい」
 頷いて、暗い地下通路から、白い建物に足を踏み入れた。
 もう、大丈夫。
 ゆっくりと歩き出す背中を、とん、と叩く別の手があった。
「がんばれ」
 後ろに立っていた青年が、それだけを言って、モエを追い越した。
 ファンくん、と名前を呼ぼうとした。それなのに。
 5年も一緒に生活をしてきた人なのに。
 咽喉元までこみ上げて、それでも、名前を呼ぶことは出来なかった。
 ファンは先を歩くサイジョウに追いついて、短く言葉を交わして、まっすぐに伸びる道を足早に駈けていってしまった。

 カルチェ・ラタン。教会直属研究所、地下。
 ここに入り込んでからは、ファンとは別行動をする手筈になっていた。おそらく持ち場へ向かったのだろう。
 普段ならばIDカードがなければ入り込めない、厳重なセキュリティに守られた場所だが、傍らにサイジョウがいれば、そんなものは意味を持たない。
「僕たちも行こうか。もっと地下に下りるけど、大丈夫だよね?」
 サイジョウはまだ、半ば振り返ったままでモエを待っていた。
 頷いて、モエは小走りにサイジョウに近づく。
 頷いて、歩き出した。


 このフロアだけ、どうしてこんなに人気がないのだろう?
 おぼろげながら見覚えがあるような気がした。
 強い消毒液のにおいがする。
 靴の踵が先程から煩く床を打っているのに、人の気配がない。
 細い通路の左右に、等間隔に扉が並んでいた。
 その扉は、明らかに普通のそれではない。
 ちょうど人の頭があるぐらいの位置に、四角い窓があけられ、窓には格子が嵌っている。
 そして、足元には何かを差し入れるためなのだろうか、取っ手のついたふたのようなものついているのが見えた。
 ぞわっと、背筋が冷たいものでなで上げられたような気持ちになる。
 ここを、自分は知っている。
 今すぐにでも、無数の囁きが聞こえてくるようだ。

―――被検体D−03は相変わらずですね。あまりいい数字が出ません。
―――D−04はとんとんと数字を伸ばしているんですが、何か違うんですかね?
―――潜在能力はD−03の方が高いはずだ。駄目ならば投与する薬品を変えよう。

「D計画は中止されたよ」
 悠然と隣を歩く男が、不意に言った。
「だからもう、ここは使われていない。もう、君と同じようにこの牢獄で泣いてる子どもはいないよ」
 突然、視界が曇った。
 泣きたいわけではなかったのに急激に、何かがこみ上げて瞳が潤む。


 あの頃。
 ただ、この扉の先にある、狭い部屋でうずくまることしか知らなかった頃。
 8年前。
 白衣の人々が入れ替わりで現れては、何か巨大な機械のある部屋へ連れてゆかれる日々。
 腕に刺される無数の針。こめかみに押し当てられる吸盤と、そこからずるずると延びるコード。
 覚えているのは、白い蛍光灯が輝く天井と、ぼそぼそと話すわけの分からない単語の羅列。
 D−03。それが、ここでの名前だった。
 D計画被検体3体目。
 幼い子どもばかりだった。
 地獄のような、代わり映えのしない日々。
 もう、日が経っているのか経っていないのかすら分からない毎日に、突然割り込んできたのは。
 深夜、けたたましく鳴り出した警報だ。
 その日は強い雨が降っていた。
 部屋の高いところにある窓から、雷光が時々煌いた。
 キーロックを施されたはずの扉が突然、ひらいて。
 床に転がったまま、ひらかれた扉を見た。
 ひかり。
 蛍光灯の白い光が、ひらかれた扉の形に四角く床をてらす。
 息を乱した、黒髪の男がそこに立っていた。
 長めの前髪が視界を覆っている。
 男はしばらくこちらを見つめ、そして、入り乱れて近づいてくる足音に我に返ったように部屋に入り込んできた。
 扉を閉め、内側からノブのあたりに手を当てる。
 かちり。
 扉が閉まった音がする。
 カードキィじゃないと開閉できないのに。
 しばらくして、無数の足音が部屋の前を通り過ぎた。
 扉に背を預けた男の左腕は、濡れていた。
 肩から出血しているのか、服が、黒い布地であるのにも関わらず分かるぐらいに濡れていた。
 感情を感じさせない眼で、部屋の隅に横たわったままの少女を見る。
 男の顔色は悪かった。
―――声は出さないことだ。
 潜めた声で、男が言った。
―――つれていって。
 どうしてそのとき、そんなことを言ったのか。
 横たわったままだった体を起こして、その青年を見つめた。
―――おねがい。わたしをここから、つれて行って。
 しばらく、男は青い顔でこちらを見ていた。
 雨音だけが煩く響く。雷光が瞬いた。
―――君の、名前は。
―――D−03?
―――違う。君の、本当の名前があるだろう。名前は?
 名前を、忘れそうになっていた。
 元々は、人間として生まれたんだということを。
 親もいて、やさしくされていた時期もあったのだと。
―――モエ。カスガ・モエ、です。
―――サイジョウ・ヒイラギ。
 紫になりかけた唇をゆがめるようにして、初めて男は、笑って見せたのだ。


 あれからもう、8年。
「でも、サイジョウさん……」
 ずっと、彼の傍で生きてきた。
 昔は、立っても全然届かなかった扉の窓が、覗き込める位置になっていた。
 ああ、生きてきたんだ。このぐらい、成長するまで。
 確かに生きてきたんだ。
 無数に並ぶ部屋の前を通り過ぎながら、鉄格子の隙間から、暗い部屋の中を覗き込む。
「私にはまだ、やらなきゃならないことが残ってる。私は、あの子を置いて逃げたんだ。ひとりで―――」
「うん」
 サイジョウは頷き返しただけだった。
 先程から、普段の饒舌が形を潜めている。どうかしたのだろうか?
 横に並んで、モエはその顔を覗き込むように見上げた。
 もう、8年そばにいる顔を。
「モエちゃん、前に君は、僕に聞いたことがあったよね。"どうして8年前に、君を助けたのか"」
 見つめてくるモエの視線と目を合わせないようにして、サイジョウはまっすぐ前を見ている。
 突き当りには、物資搬入用の大きなエレベーターがある。
「僕は、"同情したからだ"と、言った。でも、あれは嘘だよ」
 よれたスーツのポケットに両手を突っ込んだまま。襟元にはだらしなく緩んだネクタイをしめて。
 サイジョウが呟く。
「ずがってくれるものが、僕は欲しかった」
 苦笑なのか自嘲なのか、曖昧な笑みを口元にふっと浮かべる。
 あまり見ない表情だった。
「僕はずっと、あたたかいものに飢えていたから。そう、たとえば、家族とかそういうものに。だから、君を見たときに、君が"つれてって"と言ったときに、嬉しくなってしまったんだ。君なら、僕にすがり付いてくれるかもしれないって、そう思った。醜いことにね」
「サイジョウさん……」
「僕は、何かを失ってしまうのがとても怖いんだ。いつも。君たちを拾ったのは、君たちなら傍にいてくれるだろうと思ったから。軽蔑してもいいよ。がっかりしただろう?」
 正直、モエはあまり驚かなかった。
 見えてないと、思っていたの。
 8年も一緒にいて。
 そんな貴方の、もろい場所が私たちに、見えていないとでも思っていたんですか。
 そんなに見くびられていたの? そっちのほうがひどい。
 貴方の、癒されないその隙間を、私たちはずっと感じていた。
 そう、"私たち"は。
 ずっと、貴方の傍にいたんだよ。
「でも、覚えておいて。あんまり僕は口にしないから。君たちが大事だよ。君たちが大事だから、一緒にいたんだ。君たちに必要とされたかったんじゃなく、僕が、必要だから、傍にいたんだ」
 突然、モエは気が付いた。
 この言い訳のような突然の告白は、きっと本当は、私だけに向けられたものじゃない。
「……サイジョウさんの馬鹿」
 エレベーターの目の前までたどり着いて、モエは思わず言った。
 子どものような物言いに、サイジョウがその瞳をモエに向ける。
「そういうの、ちゃんと、本人に言わなきゃ駄目でしょ」
「僕はモエちゃんにいってたつもりだけどなぁ」
「違うよ、本当に言いたいのは、私じゃないよ」
 面と向かって、言う勇気がないなんて。
 この人はどうしてこんなに、しかたないんだろうな。
 何で本人に言ってくれないの。言ってあげてよ。
 さみしそうなのに。
 サイジョウは、苦笑して黙った。図星だからだ。
 どうしてさっき、別れるときに言ってあげなかったの。
「弱虫」
 子どものように、ののしった。

 どうしてなのか、泣きたくなった。
 どうして別行動なんだろう。ねぇ。
 どうして一緒にいられないの。
 ずっと一緒だったのに。
 弱虫なのは、私も同じだ、と思った。同罪だった。
 遠ざかってゆく背中に何も言えなかった。


            *


 まただ、と思う。
 この妙な既視感。なつかしさ。
 この研究所も、どこかで見たことがある?

 物資運搬用のエレベーターで、地下4階から地下1階にのぼった。
 この階に、研究所全体のセキュリティシステムのコントロールルームがあるはずだ。
 サイジョウにセキュリティシステムやロックは無力だとは分かっているが、とりあえず後続が侵入するためにはそのシステムを無力化しておく必要がある。
 白い廊下は、天井の蛍光灯の光を跳ね返して、濡れたように輝いている。
「おま……!」
 曲がり角で鉢合わせた白衣の口元に、白い布を押し付ける。研究員乏しき男は、がっと目を剥いてしばらくもがいた後、ふっと意識を失った。
 これで、この階にあがってからもう3人目だが、それでも人気は少ないほうだろう。
 白く濡れたように光る廊下に白衣の男を横たえて、ファンは小さく溜息をつく。
 頭の中に叩き込んだ地図を確認する。この廊下を右手に曲がって、その突き当たりだ。
 ぬめるようにぬらりと輝く廊下の色も、白衣も、どこかで見たことがあるような気がする。
(いや、知っている)
 "俺はこの建物を、知っていたんだ"。
 冷えてゆく。体も、心もだ。
 すべての記憶を取り戻したわけではない。まだあやふやな部分はある。それでも。
 自分が何者かの、答えは出たような気がする。
 まだ物的証拠は何もないけれども。
 けじめをつけに来た。
 この場所に。
 そうしなければならないと思ったのだ。

 突き当たりの扉は、ノブの下にカードキィを差し込む場所が取り付けられている電子ロック式だった。
 サイジョウから手渡されたハッキング用のカードを取り出して、ためらいなく差し込む。
 ぴりぴり、と機械音が鳴り響いたあと、がちゃりとロックが外れる音が耳に届いた。
 相変わらず高性能だ。
 しばらくそのカードキィをじっと見つめてしまっていた。
 そのカードキィを渡してくれた男のことを。
(今はそんなこと、考えている場合じゃない)
 カードをポケットに仕舞いなおして、ドアに手をかけた。それに反応して、扉が横滑りに開いた。
 蛍光灯の明かりとは違う、目に痛い液晶の明かりが、一斉に眼球に飛び込んでこようとする。
 無数のディスプレイが壁一面に広がっていた。
 それぞれが別々の位置を映し出している。
 横に細長い部屋の、奥の壁際に寄せられるようにして、コンソールがいくつも並んでいるが、無人だ。
 ガイア最高の研究機関のセキュリティは鉄壁。おそらく、"この研究所で植え付けられた能力"を所持したサイジョウ・ヒイラギでなければ、潜入は不可能だったに違いない。
「……まずは」
 後ろ手に扉を閉めて、ぐるりとコントロールルームを見回した。
 袖の裏側から、サイジョウに手渡されたマイクロチップを取り出して、一番右端のコンソールに近づいた。
 これがメイン。それに、このマイクロチップのデータを埋め込めば、瞬く間に"機械のプロ"が作り出したウィルスが、セキュリティシステムを無力化する。
 それで、後から来るはずのあの二人も、セキュリティシステムに阻まれずに済むはずだ。
 阻まれたとして、おそらく黒髪のほうが自分で何とかはするのだろうが。時間はかかる。
 先程のハッキングカードの端にそのマイクロチップを埋めこんで、コンソール中央にある差込口に押し込んだ。
 あとは、プログラムがすべてやってくれる。
 すぐ後ろにある壁にもたれかかって、壁に張り付いた無数のディスプレイが、端から消えてゆくのを確認する。
 さすがだな。
 徐々にただの黒い画面に変わってゆくディスプレイを目で追う。
 全く、何かの魔法のようだな。

 しばらくぼんやりとしていると、こちらに近づいてくる足音に気がついた。
 足音はまっすぐにこちらに近づいてくる。まさか、もう気づかれたわけでもないだろうが。
 ファンは息を殺して、扉のすぐ横に移動する。
 腰に下げたホルスターから、ピストルを抜き取って、構える。
 足音がすぐ傍まで近づいてきて、扉一枚をはさんで、止まる。
 わずかな間隙をおいて、扉が横滑りに開いた。
 白い人影が一歩踏み込んできたと同時に、真横から腕を伸ばし、顎のあたりを左手で鷲掴みにする。
 口を押さえたまま、白衣姿の男を手近な壁に押し付けた。顎の下からピストルを突きつける。
「声を出すな。騒いだら撃つ」
 声を落として、警告した。
 白衣姿の男は、目を剥くようにしてファンを見つめ返していた。
 しかしそれは決して恐怖だけではなく。
 純粋な驚きが、その瞳に宿っている。
「……閣、下」
 男の震える唇から、言葉が落ちてきた。
「どうして、ここに……」
 瞬きすら忘れて、極限まで目を見開いて、白衣姿の男はファンを凝視していた。
 まるで、死人でも見たような目で。
 男の口元を覆った掌に、乱れた吐息が当たって熱い。
「今まで、どちらにいらっしゃったのですか……」
 いつのまにか、男の顎を捕まえていた左手が離れてしまっていた。
 それでも男はさして抵抗する風も見せずに、ファンの肩を掴んだ。
「5年も、一体どちらに……。ア―――」
「呼ぶな!」
 金切り声のように、叫んだ。
 肩に絡む男の腕を振り払って、眼前に銃口を突きつける。
 男は、振り払われた腕を虚空に彷徨わせたまま、呆然とファンを見た。
「な、何をなさるんですか、閣下。オウランです。研究所でHGの製造を―――」
「やめろっ!」
 定める銃口が震えていることに、気づいていた。
 これでは脅しにはならない。
 怒鳴りつけたのは、目の前の男ではないのかもしれない。
 めまぐるしい勢いで、色々な"映像"を脳裏に展開させる、この内側だ。
「思い出させないでくれ……!」
 頼むから。

 記憶を手に入れたことによって今の状況や環境が何らかの形で変わってしまうのなら。
 思い出さないほうがいい。

 そう思っていたのは。
 思い出したら、きっと何かが壊れてしまうことをどこかで知っていたからだ。
(そうだ。"こうなること"を、どこかで分かっていたから)


―――今日からお前は、ケルビーニを名乗るのだ。
―――君とは、姉弟の関係になるのだろうな。
―――貴殿のからくりは、とても受け容れられない。

(だから、殺すのか、俺を。―――"ラジエル")


 脳裏でのめまぐるしい映像の上映が、突然ぷつりと終了して。
 後はただ、凪。
 静寂だけが残った。
 目の前の男―――オウラン・ディルチだったか―――に向けたままだったピストルを、ゆっくりとおろした。
 頭が妙に重くて、がくりとうなだれた。
「アザゼル様……」
 オウランが呼んだ。
 ああ、そんな。
 そんな名前だっただろうか。
「……俺はもう、HGには、拘らないことに決めた」
「閣……!」
「これ以上の論争は無意味だ。なおも縋るなら、殺す」
 追いすがろうとするオウランを、視線で串刺しにするようにねめつける。
 石像のように、オウランは固まった。
 彼を置き去りにしたまま、コントロールルームを出る。
 もう既に、ここでやる仕事は終わっている。
 部屋を出る刹那、オウランががくりと膝から崩れるのを、視界の端でとらえた。
 横滑りの扉が閉まるのを、背中で聞いた。
 何か、大事な扉が閉まったような気がした。後戻りがもう出来ない、退路をふさぐ扉。


―――大丈夫?
 濡れたように光る廊下を踏みしめるように歩きながら、蘇ってくる記憶に唇を噛んだ。
 忌々しい。どうして今。
 5年前、目がさめたときの。

 見渡す限りに広がる青い空に、見慣れない緑の木々。
 大地に転がっていた。
 その顔を横から覗き込んできた男がいる。
―――こんなところに転がって、大丈夫?
 ごつごつとした大地に仰向けに転がったままの自分に、そう尋ねてきた。
 ああ、どうして転がっていたのだっけか。
 そもそも、俺は一体?
―――大丈夫?
 繰り返してまた、男が聞いた。
 分からない、と答えた。
 何も分からない。
 名前も、年も、何もかもだ。
 俺は一体誰なのだろう。

 よれたスーツに黒ぶちの眼鏡をかけた男は、うっすらと笑う。
 だったら、僕と来るかい?
 そう、あの時はただ、傍に人の温度が欲しかったんだ。
 縋るものなど何一つない場所で、確かなものが。

―――名前もないのは不便だねぇ。あ、そうだ。これを貸してあげよう。
 アジトだという場所に連れてゆかれ、手渡されたのは分厚いぼろぼろの書籍。
 辞書のようだが、開いてみても、読める字が載っていない。何かの暗号のように、入り組んだ文字。
―――勘で、好きなのを一文字、選んでみるといいよ。
 唇の端に煙草を銜えて、男が笑った。
―――古代文字の辞典なんだ。僕の名前はヒイラギだけど、ほら、こうやって"柊"って書く。言葉の一つ一つに意味がある。僕はすばらしい言語だと思うよ。それに……。
 その男は、部屋の隅で警戒するようにこちらを見ている、まだ幼さの残る少女を手招きする。
 肩の下あたりまで、やわらかそうな茶色の髪が流れている。
 威嚇するようにこちらを見つめて、スーツ姿の男に近づいた。
―――この子はね、モエという名前なんだけど。これ。"萌"って書くんだ。

 促されるままに選んだ一文字を見て、男が微笑する。

―――"きらめき"だ。
 きらめき?
―――そう。その文字の意味は、きらめき、だよ。"ファン"くん。
 "ファン"?
―――そう。少し特殊な読み方だけどね。よろしくね。


 気づいたら、口の端が引きつったように持ち上がっていた。
 煌き、など。
 どうして選んだのだろう。
 今となっては皮肉ばかりの文字だ。
 ああ、どうして貴方は。
 あの時手を伸べたのだろう。この俺に。
 どうして傍においておくことなど出来たのだろう?
 HGを。自分が作り出してしまった薬物をあんなにも憎んでいたのなら。
 どうして、優しくなど出来たのか。
 この俺に。
 サイジョウさん。
 貴方はどうして、その手を差し伸べたんだろう。
 そして俺はどうしてその手を、あたたかいその手をあの時、掴んでしまったのだろうか。


            *


 相変わらず、冷える。
 目の前でエレベーターの扉が開くと、押し寄せてきたのは冷気だった。
 特殊な機械を使う特性上、この地下エリアの温度はいつも一定に保たれている。
 人に対しては全くやさしくない。
 エレベーターから一歩踏み出すと、呼吸が白い霧になって消えた。
 がらんとした空洞が広がっているだけだ。
 見上げると、遥か遠くに天井が見える。
 白っぽい銀色に輝く壁を、等間隔に並んだ寒々しい蛍光灯が照らしていた。
 肌に絡む冷気とあいまって、何もかもが冷たい。
 右手で、顔から眼鏡を引き剥がす。スーツの胸ポケットに仕舞いこんだ。
 深い群青の瞳を、その冷たい空気にさらした。
「ここが、地下の研究棟なんですか?」
 後ろから、声がついてくる。振り返らずに、サイジョウは頷いた。そうだよ。
「300年以上前からこのエリアでは特殊な薬物が製造されつづけているんだ」
 ただっ広い倉庫のようなその室内の、中央あたりまで進んでから、サイジョウはぐるりと周囲を見回した。
 8年ぶりだ。この光景も。
 何一つ変わってはいない。
 研究所は、何一つ変わってはいなかった。
 もちろん細部は変わっていた。セキュリティシステムも段違いに強化されてはいたけれども。
 本質的な、空気感。雰囲気は何一つ変わっていない。
 ここは止まったままだ。あの頃から。
「……今更、何の用だよ、ここに」
 冷たい壁に反響した、だるさを絡ませた声。
 視界の端に動くものを捕らえて、サイジョウはそちらに顔を向けた。
 左手側の隅に、黒い箱のようなものがうずくまっている。
 それが、ここの部屋に置かれている唯一の機械。今は動いていないようで、沈黙している。
 その機械の陰から、ゆらりと進み出たものがあった。
 白い影。
「なんだ、ここにいたのか」
 どことなく足元が覚束ない白衣の男に、サイジョウはポケットに両手を突っ込んだままの体勢で声をかけた。
 わずかに口の端を微笑の形にゆがめる。懐かしい友人に会った顔だった。
「博士の部屋にはいなかったみたいだから、どこにいるのかと思った。ひどい顔をしてるけど、眠れてないの」
 いたわるような口調で問い掛けると、白衣姿のその男は、眉間にしわを寄せて不快そうな表情を作った。
 金と茶と橙が混ざったような乱れた髪をしたから指を突っ込んで乱暴にかきあげる。
「何しに来たんだって、訊いてんだよ」
「もう、あの部屋でなくても眠れるのかな」
 なおもサイジョウは話を横道に逸らす。
 普段はその酷薄さを緩和している眼鏡が、今はない。剥き出しの濃紺の双眸がたたえるのは、冷気だ。
 凍死しそうなほどの。
「ふざけんじゃ―――!」
 滑らかに、しかし瞭かに、逆鱗を撫でていった声。
 挑発されるままに、アースは右の袖口の裏に仕込んだ刃を露にした。
 間合いを詰めて、旧知の男に斬りかかろうとする。
 振りかざした刃(ブレード)は、宙でぴたりと、止まった。アース自らの意思で、腕を止めた。
 サイジョウとアースの間に、腕を広げて立ちふさがった影がある。
 ぴたりと寸止めしたその刃は、その"女"の額のすぐ上で止まっている。
 怯えの色など欠片も見せずに、女はその黒い瞳をまっすぐにアースに向けていた。
 ゆるやかな曲線を描く髪を、後頭部の高い位置で結い上げて、大きな双眸には好戦的な光が見える。
「モエ、お前―――」
 名前を呼ばれても、モエは応えなかった。
 背にした男を庇うように両腕を広げたまま、アースと対峙している。
「めずらしいね」
 目の前で起こったことなど全く意にも介さない様子で、サイジョウがモエの肩越しにアースを見て、薄く笑った。
「足元が覚束なくなるぐらい飲むなんて。どうしたの。アルコールは嫌いじゃなかったっけ?」
「……うるせぇんだよ。先に俺の質問に答えたらどうなんだ、ヒイラギ」
 酔いが回っているのは確かだった。
 気持ちいいという段階を通り越して、頭痛がする。
 それが更に、アースの機嫌の悪さに拍車をかけていた。
「何しに来た」
 内側からずきずきと響く頭痛に眉をしかめながら、アースはサイジョウを見据えた。
「計算外だったなぁ」
 ぐるりと首をめぐらせて、部屋の隅にうずくまるように沈黙している黒い箱型の機械を眺める。
「君がここにいるなんて、計算外だった。それに、6番のマシンが停まってるのもね」
「なに……?」
「あのマシンを停めに来たんだけどね。まさかもう、停まってるなんて」
 靴音を響かせて、サイジョウは、その黒い箱に向かって歩き出した。
「おい、ヒイラギ!」
 その背中を慌てて追いかけて、アースはスーツの胸倉を左手で掴み上げた。
 サイジョウはしずかにアースを見つめ返した。さらされた双眸に、揺らぎはない。
「お前が作ったのか」
 翠玉色の瞳を細めて、アースは訊いた。
 急激に動いた反動で、頭痛がひどい。
「君は、知っていたと思ってたけどね」
 あっけない言葉が返ってきた。遠回しだけれども、それは肯定の言葉だった。
「お前が何で……!」
「なんでだろう、もう今じゃ、よく分からないな」
 サイジョウの顔に、はかない苦笑が少しだけ浮かんだ。
「ただ、認めてもらいたかったんだろう。少しでも、めだつことをして。その結果がこれだ。コピーすら作れない有様だよ」
 その苦笑は、明らかに自嘲を含んでいた。
「あの父親にか。何をされたか、覚えてるだろうが。どうして拘る」
「その言葉は君にそのまま返すよ」
 さりげなく、それでいて強い力で、サイジョウはアースの左手を自分の胸倉から引き剥がす。
 アースを取り残して、無防備にくるりと背を向けた。黒い箱へ歩いてゆく。
「教皇の息子はどうした」
 その背に、アースが声をかけた。
 サイジョウの歩みがふと、止まる。
「なんのことかな」
 振り返らずに言う。
「……お前からデータを奪ったのは、教皇の息子なんだろ。お前が消したのか?」
「さぁ、―――どうかな」
 薄く笑った気配。
 そして再び、歩み始めた。
 黒い箱にたどり着いて、その表面を掌で撫でる。
「それにっ、触るんじゃねぇっ!!」
 未だ膿む傷口に無遠慮に触れられたかのように、アースが叫んだ。
 黒い箱に手を当てたまま、サイジョウが肩越しに振りかえる。
「君はもっと、自分の孤独を自覚したほうがいい」
 突き放すような声音で、こちらに歩み寄りかけたアースを、制止した。
「いつまでもかたくなに認めないから、君はその孤独を癒すことが出来ないんだ」
「誰がっ―――」
「君が博士の温室でしか眠れないのも、これだけこの地下ラボに固執するのも、理由はひとつだろう」
「黙れ。てめぇに何がわかる―――!」
 アースの叫びに、耳障りな警報がかぶった。
 白い室内が突然、赤く染まった。
 がちん、と硬い音を立てて照明が落ち、赤い警報ランプが明滅する。
《緊急事態発生。緊急事態発生。警戒レベル1。館内にて火災発生。東棟Rエリア》
 天井から落ちてくる声は、抑揚のない女の声。
「R、だと? ふざけんな、あそこは……!」
「薬物関係の研究エリア。火気厳禁だよね、発火性の強いものがしまわれている。エリア区分は変わってないんだね」
 たいしたことがないように、サイジョウがアースの言葉を引き取る。
 その落ち着きに、アースは瞠目した。まさか。
「てめぇの仕業か、ヒイラギ―――!」
「僕はねぇ、けじめをつけにきたんだよ、アース」
 思わず掴みかかろうとした左腕を、後ろから強くつかまれて、制止される。
 それが、少女の頃から見知っている女の腕だと気づいているから、アースは振り返らなかった。
「けじめ……」
「ここで無限に作り出されるHG。その大元を作り出したのは他でもない、僕だからね。これ以上世界に蔓延させるわけには行かないだろう。末端をつぶしても仕方がない。大元を断つのが一番手っ取り早い」
「まさかてめぇっ……!」
 どん、と鈍い音に続いて、足元がぐらりと揺らいだ。
《東棟で爆発。火災は更に広がっています。警戒レベル1。周囲の研究員は速やかに避難を―――》
 慌てふためくアースをおかしそうに笑って、サイジョウはすぐ傍の箱を撫でた。
 一瞬、閃光が走ったかと思うと、鈍い振動。その黒い箱がわずかに膨張したような錯覚の後、内側から黒い煙と炎を上げて、燃え始めた。
 ちりちりと千切れたコードから電流が躍る。煙に反応したのか、スプリンクラーが動き始めた。
 上空から夕立のように勢い良く水が降ってくる。

 ただ触れるだけで、機械に自爆を促すことができるのは、この男ぐらいだ。

「悪いね、アース」
 ちっとも悪びれない顔で、サイジョウが笑った。
 赤いランプの明滅。降り注ぐスプリンクラーからの雨。
 濡れてゆく髪と服。つかまれたままの左腕。
 目の前で煙を上げ、燃えつづける黒い箱。
 何もかもが不釣合いでおかしい。
 その整った顔立ちでどこか艶っぽくすら微笑しながら、かつての同朋はどこか愉しげに宣言した。

「地下ラボはつぶさせてもらうよ。―――研究所もろともに」




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